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昭和61年は私が中学1年生の時です。国鉄末期…鉄道が好きで地方のローカル線に憧れいつか乗りに行きたい!と夢見ていた少年でした。浜頓別からずっと写り込んでいる「お茶」も良いですね。今ではすっかり見なくなりました。貴重な映像、本当にありがとうございます。
ありがとうございます。その後はどこか乗られたのでしょうか。あのお茶に関しては、釧路駅のおにぎり屋で今も売っています。と思って確認したら今年3月で閉店となっていました。ところが、7月に復活しています。お茶も売ってるようです。s.tabelog.com/hokkaido/A0112/A011201/1075710/dtlrvwlst/B469497637/?lid=unpickup_review&rvw_part=all&srt=キハ40が連結される根室方面のお供にもうですか
@@user-tabiichiro 様高校生になると東北方面のローカル線(陸羽東線や只見線など)に出掛け、大学時代には念願の北海道旅行を何度もしましたが、もうすでに多くの路線が廃線になってしまっていました。何とか駆け込みで冬の深名線に乗ることが出来たのが幸いでしたね。その後の旅はどちらかというとレンタカーで「廃線跡を巡る」のが主流でした。お茶、こういう形で残っているんですね!今はなかなか時間が取れませんがいつか北海道をのんびり鉄道で旅して回りたいです。
@gunma_nostalgia キハ40の走っている路線ならかろうじて昔のローカル線の気分が味わえますね。皮肉な事に根室本線の東鹿越や日高本線など途中で途切れた事によって盲腸線の趣が出ていますね
旅ってこういうものだよなぁ、と見入ってしまいました。小さな駅にも息づく生活も垣間見れて、素晴らしい映像ですね。貴重な映像、ありがとうございます。
ありがとうございます。この頃は大学生の周遊線族が多くて出会いあって楽しかったです。民営化後、日本に愛想を尽かして主にアジアを中心に旅行しましたが、このときの自由な気分は感じられなかったです
天北線の生活感漂うありのままの貴重な映像、本当に有難いの一言に尽きます。20年ほど前に稚内から浜頓別まで宗谷岬経由で訪問しましたが、声問駅跡の広い砂利場だけが当時を彷彿させ、浜頓別のバスターミナルと遊歩道?に到るまで形跡を追うことができなかった分、生きていた頃の天北線が羨ましくも見えました。キハ22の車内の映像もかなかなお目にかかれることがないので自身が旅しているような得した気分になれました。
ありがとうございます。もっと真剣に撮ればよかったと思いのですが、眠気に負けて、所々のみになりました。国鉄末期ギリギリの気動車はのんびりしている感じがよかっだですね
タイトルと録画の日付に郷愁を感じました。この年の8月12日に、音威子府から浜頓別までこの始発に乗車しました。働き出して初任の年。大雪登山後、当時通い詰めていた浜頓別YHに向かいました。前夜は音威子府の駅前で星を見ながら夜を明かしました。車内の様子は、動画のとおりです。車内側の扉の横にあるロングシート部分が最適のベッドでした。短い線路を使用していたためか、ジョイント音が独特だったことを思い出しました。ああ曲淵駅・・窓を開けて居眠りしていたら車内から帽子を落としてしまい、曲淵駅の駅員さんに声をかけてから線路沿いに次の駅(沼川駅?)まで線路沿いを探したこともありました。当時、たくさんの同世代と知り合い、乗った天北線です。この春、定年を迎えましたが、昭和のこの頃の想い出はつきません。upに感謝、感謝。
米本和弘 ありがとうございます。この年、8月の20日間、ワイド周遊券で乗ってますので、まさに同じ列車の可能性もありますね。
当時本当に沢山の同世代と知り合い語り合い、と言うのが楽しかったです。ペットボトル飲料もシャワートイレもビジネスホテルも無かったけど、もう一度あの時代を旅したい。ちなみに50歳です。
こんな貴重な映像が残ってるもんなんですね。感動しました。
_ jz ありがとうございます。ギリギリビデオが間に合いました。当時ビデオカメラを持っている人を見かけたことはなく、自分が残さないと!というへんな使命感を持ってました
@@user-tabiichiro いやいや、すばらしい使命感です。頭が下がります。
キハ22は自分の中でも1番好きな車両です。今は展示されてる車両しか見たことありませんが1度でいいから現役時代に乗ってみたいものでした。キハ22に乗って天北線…羨ましい限りです。
キハ3 最もローカル線らしい路線のひとつでしたね
天北線の映像を懐かしく見させて頂きました。ありがとうございました🙇昭和57年61年平成3年の夏に北海道を旅してました。天北線には急行と鈍行に窓を開けて風を感じてました。夏は3回だけで,あとは40数回冬に訪れていました。去年11月に25年ぶりに北海道を訪れることが出来ました。何か故郷に帰った見たいでした。
ありがとうございます。57年はまだ急行天北がキハ56の頃ですね。それこそ北海道の急行らしい急行だったと思います。短絡線である宗谷本線と違い、街を繋いでいく感じがありましたね。
初めまして。昭和61年8月、懐かしいですね。私は昭和61年8月9日に青函連絡船に乗船し函館から41列車に乗り換え10日に深川~留萌~羽幌~稚内~音威子府まで乗った当時高校1年の18キッパーです。音威子府に確か22時だか23時だかに着いて駅員さんのご厚意で駅で野宿してます。18切符1冊で結構くるっと回れたのでどこかですれ違っているかもしれませんね。若い人たちが夜行列車を宿代わりに移動していたのが懐かしい。遠い思い出ですね。
まさにその時期なんで、札幌駅の夜行に並んでる時などに、ご一緒しているかもしれませんね。3人兄弟で行動していたのでかなり目立ってましたよ。
また貴重な映像をありがとうございます。天北線が走っているのを初めて見ました。しかしこれだの路線をテープに収めているのは大変な労力と資金が必要だったと思いますし、それをデジタル化し編集しアップすることも大変な労力だと思います。我々視聴者はせめてgoodボタンを押すのとチャンネル登録しかできません。無理はなさらずマイペースでアップしていただければうれしく思います。
ハートフル海坊主 ありがとうございます。当時はユーチューブにアップするなんて当然思ってませんでした。せいぜい自分と仲間で懐かしむ事が出来ればいいと考えていましたが、ユーチューブという素晴らしいサービスのおかげでアップする機会ができ、また当時を知る人に懐かしんでいただけ、知らない人には、なんでも「赤字ローカル線」の一言で切り捨てるのではなく、そこには人がいたのだという事をわかってもらう証拠資料して公開できたことは喜ばしいと思います。
貴重な映像をありがとうございました。北海道ワイド周遊券を使い北海道内を旅しました。当時の時刻表をみながら、懐かしく拝見しました。ありがとうございました。
ありがとうございます。時刻表を見ながらだと、当時の乗り継ぎを思い出して、リアルに感じますね
1975年8月初めて北海道に行った時、いきなり稚内を目指し、大阪を特急日本海→函館から特急北斗3号→札幌からは急行利尻にしかし『利尻』に乗ったまでは良かったんですが急行利尻は大混雑で椅子にも通路にも座れずデッキで過ごす事に。通算31時間連続乗車で完全ギブアップ。音威子府で721Dに乗れば稚内に寝て行けると思い乗りました。が、着いたら北見枝幸でした。これ以降、無茶な計画は立てなくなりました。もう本当に、懐かしい思い出の動画をありがとうございます。長文すみません。あまりに懐かしくて。
1975年ですかさらにいい時代ですね。起きたら北見江差ということは後ろの車両に乗られていたということですね。
眠たさに負けて、浜頓別で切り離されてる事に全く気付かないまま終点でした。本当にこの時代の北海道を旅行したいです。
@@sawaaicb 僕も湧網線で全線寝てしまったことがあります。
旅一郎さん。懐かしい映像ありがとうございます。高校生活を音威子府で過ごし、天北線にはイベントで一度稚内を日帰りしました。帰省には普通列車を(希に急行天北)利用していました。まだホームに常盤軒さんがありましたよね。新駅舎になって駅内に移動されました。この冬ご主人がお亡くなりになり寂しい限りです。
地元の方ですね。ありがとうございます。ホームにあった頃の常盤が良かったですね。寒い中の蕎麦の嬉しい事😃
@@user-tabiichiro さまええ、旭川に帰省の際、発車前に食べようかなと。でも時刻が近付いているのでどうしようかと思っていたら「天北線の到着が遅れているから大丈夫だよ」と旭川行きの車掌さんが教えてくれて一緒にそばをすすってました。(笑)
当時、仕事で浜頓別や猿払に行っていましたが、汽車が走っていた記憶がほとんどなく・・・廃止になった直後に、稚内の国道40号の跨線橋撤去のための業務に従事していました。浜頓別周辺の鉄道用地(駅から起点側区間)は、平成7~8年頃だったか、高圧送電線ルートになっていたかと。
地元の人も高校を卒業すると使わなかったんですかね。そういえば旭山動物園最寄りの北日の出駅まで歩いた時、その辺を歩いている人に駅を聞くと、「知らない」と言われて、普段使わないんだなと、思いました
@@user-tabiichiro様 北日ノ出はつい最近廃止されました。おそらく利用していた小中学生がいなくなったからかと思いますが・・・昔は東旭川に住んでいたので旭川電気軌道の電車で旭山動物園には行っていたような。ただ、自転車に乗れるようになると自転車でしたけど。
貴重な映像に感謝いたします。私も当時利尻81号のキハ56夜行急行で稚内に向かい急行天北で戻りました。あの時がよみがえります。
やまびこ 同じ頃ですね。当時の人生を思い出しながら見ていたたけると嬉しい😃です
とても懐かしい動画ありがとうございましす❗️急行利尻から乗り換えて浜頓別で分割される北見枝幸行に乗った記憶が今でもよみがえります❗️この動画撮影時点では興浜北線は廃止されていますがやはりキハ22を見るとあの頃はよかったなぁ…としみじみ感じます
天北線繋がりで、さっき音威子府蕎麦屋の方が亡くなられたとの情報がありました。この動画にもホーム上時代の蕎麦屋があったかと思います
とても残念な知らせでしたね…ホームに蕎麦屋があった時代も懐かしく…一昨年食べに行った時もだいぶお疲れの様子でしたが時の流れには逆らえませんね…こうして次々と昭和の歴史が終わっていくんだな…と思いました
エンジンのカラカラ音,発車ベルそしてドアの閉まる音,全て素晴らしいです。
ありがとうございます。昔当たり前でなくなった時、「ハッ」としますね。
こんにちは、僕は昭和56年3月にワイド周遊券で北海道旅行に行ったときに天北線乗りました。吹雪の日で何度も立ち往生、車内放送で「一旦バックしてはずみをつけていきましょう」というアナウンスが流れてびっくりしたのを覚えています。学生だったので、札幌起点によく夜行列車に乗りました。大雪、利尻、狩勝だったかな。懐かしいです。
優 森 ありがとうございます😊昭和56なら、記載されてますよう、夜行は狩勝の頃ですかね。急行も旧客が多く、本当に記者旅ができた頃ですね。僕が始めていったのは60年なので、わずか4年の差ですが、その変化も大きかったと思います。それ以上に61.11の改正が大きかったですね。
ドアのガタガタと閉まるかんじ、網棚、お茶のパック、懐かしいです。進行方向から昇る朝日、素敵ですね❗
ぴ ぴ ありがとうございます。お茶の入れ物に気づかれましたか。当時非常に節約していたのでお茶パックが3つもあるのに自分でも驚きます。
今は無き天北線の貴重映像をありがとうございます。天北線が「健在」だった頃の音威子府は、村の人口が4千人余り。その内の1200人程が国鉄マンとその家族だったとか。全盛期の音威子府駅は8ホ―ムまであり、他に貨物の引き込み線が2本。まさに音威子府は鉄道の「町」だったようです。活気あふれる時代の頃から、駅の立ち食いソバを提供されていた「音威子府蕎麦…常盤軒」のご主人が、つい最近、お亡くなりになりました。私は大阪在住ですが、宗谷本線のキハ40、54での鈍行の旅、そして常盤軒さんの蕎麦を目的に毎年、音威子府を訪ねていましたが、目的がひとつ無くなってしまいました。寂しい限りです。ご冥福をお祈りします。
先日Yahooニュースでお亡くなりになられた事を知り、残念に思います。何度も18きっぷや周遊券で訪れました。末期は普通列車ダイヤと合わなくなり特急を使ってでも無理矢理行っていました。遠軽に引き続きどんどん旅の楽しみが消えて行きますね
懐かしい映像ありがとうございました。タイフォンやエンジン音も懐かしい。急行天北で、今は亡き浜頓別yhに行ったこととか思い出します。
浜頓別ユースですか。いいですね。門限があったので、あまりユースは使っていませんでした。もっとユースも行っていればよかったなと思います
良いですねぇ…。これこそ平成生まれの私から見れば求めていた鉄道旅の憧れでもあり、夢でもあります。私もこんな気動車で旅してみたいものです。やはり国鉄型の気動車は旅情がありますし、最近ではキハ40をはじめとする国鉄型気動車が時代の流れで消えつつあるので寂しいですね…。でも千葉県の小湊鉄道へ行けばこのような音が聴けると思いますが、やはりDMH17の音が子守唄に聴こえてきますね。
VC10型機関車3800番台 生まれの時代は制御できないのでなんともなりません。僕もあと1〜2年早ければ!とおもうことが多いです。せめて今残っているキハ40系列のガラガラ列車で楽しみたいと思っています
こんな貴重な動画をありがとうございます!!。宗谷本線や留萌本線など名ばかりの本線と今ではなってしまい、その本線でさえも寂れてしまっている現代でもう命は残されていないと自分はそう思います。いつになったら乗りに行くことができるのでしょうか?お金が十分に無くても心の底から行きたいと思わせる北海道の鉄道に、魅力が大変湧きます。北海道に早く行きたいです。コロナさえなければ、修学旅行で北海道に足を踏み入れることができたのに……中国に怒りの矛先を向けます。
楽しんでいただき、ありがとうございます。コロナ感染の問題があるので、気楽に行って下さいとは言えないですが、キハ40系列の残っているうちにまた行きたいものです。
クッチャロ湖畔ありがとうあれから60年たちました。 感謝しかありません
ありがとうございます。写っていましたか
実家が南稚内駅の近くです☆懐かしい景色でした(涙)
ありがとうございます。地元の方からの感想は一際嬉しいです。
こんばんは。ずっと前にチャンネル登録させて頂いたのに、ご挨拶もコメントもせずすみません。 天北線、大好きな路線でした。音威子府~浜頓別までしか乗れませんでしたが・・。懐かしく拝見させて頂いています。アップ、ありがとうございます。
osaka miobasan ありがとうこざいます。天北線は数ある北海道ローカル線の中でも人気がありましたね。末期の急行天北が客車になったので、他線区より特別感があったように思います。
私は昭和61年7月31日と8月9日に急行天北を利用しました。7月31日は札幌→稚内間、8月9日は稚内→札幌間でした。今思えば、天北線もトンネルがなかったような気が。
この時はワイド周遊券を20日間目いいっはい使って旅をしました。宿泊は全て夜行列車(または青函連絡船)でした。8月頭から20頃までだったので、まさに時期が被りますね。他の北海道関連の動画でもこの時の旅行のものがあるので、見ていただけると幸いです。
短尺レールのジョイント音がいいですねぇ〜天北線乗ってみたかった
短尺レールを聞くと、北海道という気がしますね。天北線は客車が走っていたので超大四線の中で一番よく行きました
同じ時期に天北線に乗りましたが、急行天北で通り過ぎただけでした。今思うともっと味わっておけばよかったと思う次第です。小石ー曲淵の日本一何もない駅間など見どころがいっぱいでした。今は代替バスも一部廃止され、自家用車でしか行けないところになってしまいました。
そうなんですよ。代行バスも繋がらないとなると公共交通で行く事ができないですからね。まさに地図から消えてしまった感じがします
思わず見入ってしまいました。DMH17の音は本当に癒されます、カラッカラッと乾いた感じのアイドリングに時々ポコッポコッとコンプレッサーの音も同期して、縦型エンジンなのでよりはっきり車内に響く感じ、懐かしいです。今では小湊にいけばまだ乗れるのかな? 車内で思い思いにくつろぐ姿もいいですね、余談ですが壁のクッションに頭を寄りかかって寝ていると窓のところに髪の毛が挟まって痛かったのを思い出します。
MAT MAT キハ22の音最高ですね。車内を見るとみんな好きなカッコで寝ており、今なら文句言われそうです。
いつもすばらしい動画をありがとうございます。いつ見ても、小石―曲渕間の車窓は最高です。宝くじで10億当たったら天北線を復活させてやろうと、いつも妄想しています。
kokusai un みんなの力を結集してクラウドファンディングでも、復活させたいものですね。
気持ちはよくわかります。でも、レールや路盤がなくなったら再興するにはケタが最低二つは足りないような。残念だけど過去になってしまいました...。ソフトバンクやトヨタの時価総額全部ぶっ込んだらすごいのできそうだけどな。これも妄想。観光の一部として例えば小石の炭鉱跡とか使えんかね?当時線路の近くにズリ山があった。まだあるのかな?燃えてなきゃいいけど。
旅一郎さん私も音威子府からの天北線始発列車は利尻から乗り継ぎしてました当時は旧型客車急行で稚内まで乗る時はグリーン車かB寝台でしたが音威子府下車の時は自由席でしたボックスシート占領は無理でしたが片側の 1脚は抑えれたからジュース缶を座席下に挟んでシートを傾けてました、私が2回乗車したこの列車は当時2両編成で1両は浜頓別から興浜北線北見枝幸行きで北見枝幸行きと稚内行きの両方に乗車してます、峠超えは延々と無人の雑木林が続いてましたが途中駅では利用客が多かったですね、動画で見える駅周辺の民家はおそらく今は廃墟でしよう鉄路の残った町でも道北の途中駅は悲惨なのに鉄路の消えた町はもっと悲惨な状態でしょうね日中の旭川から2両で発車して音威子府で分割、宗谷.天北両線経由の稚内行きも両方乗車してます昔の音威子府駅も懐かしいですね私が学生時代は音威子府構内は貨物扱いで職員も多く活気に溢れてました、今は団地状の職員宿舎2棟は閉鎖夜間留め置き列車の乗務員宿舎も閉鎖で、留め置き運用すら合理化により廃止、朝の稚内行きと旭川行きは遥々名寄から回送されますしかも別々に、今は削減されましたが豊富発の稚内行きと名寄方面行きは南稚内から2両で回送され分割して発車してました、現在音威子府に来るキハ40は最終の音威子府行きと名寄から回送されて来る始発の旭川行きだけです、冬期は2両、通常は1両です、今最も乗りたいのがこの音威子府発旭川行き、名寄からは快速(なよろ)で高速化された名寄→旭川はガンガン飛ばしますから乗車時間も長いですし、旅一郎さんは気付かれてたと思いますが、北海道の国鉄時代の車両は驚くほど手入れが行き届いてましたね、旧客も気動車も、ガラスも非常に綺麗ですね、14系客車急行の日中の急行は非常に乗りたいと思いながら急便時代で不可能でした、寝台の1区画をグリーン席扱いとした部分に乗りたかった、佐川急便の社員旅行で別行動を取り乗った時は天北線は既に無く(利尻)は気動車に鋏まれたB寝台車でした、稚内駅は新駅舎工事中に行ってから訪問は出来てません近代化されたのでしょうが1面1線は寂し過ぎます、旧型客車急行時代は発車前に1日おきに(蛍の光)と(宗谷岬)を流してました、キハ22の停車中のアイドリング音が懐かし過ぎますワ、
新居義浩 さんいつもありがとうございます。旧客利尻も2年差乗れなかった列車の一つです。僕も動画を見るまでこの列車2両と思っていましたが、よく見ると1両ですね。冬季は2両でした。ここで乗ってきた乗客は今どうしているのか、気になりますね。廃村、き
廃村、石北本線でもよく見るので、レールのないところはなおさらでしょう
国鉄型気動車ってなぜか眠くなってしまうんですよねぇ…昨日津山線のキハ40に乗ったんですが7時間寝たはずなのに快適で眠ってしまいました。揺れやエンジン音が心地いいですねぇ
すぎなみさんえき ボックスに足を伸ばしていると、いつの間にか意識がなくなりますね。
元はこちらが本線なので沿線人口は天北線方が多いし本数有りますね、今の代行バスは浜頓別ー音威子府の乗車率が悪くて乗合タクシー化する話しあっんですが、冬場の乗車率いいのでバスのままです、私も同じルート使いましたが2回音威子府で寝過ごしましたが三度目の正直で成功しました、キハ22車両やエンジン音ワンマンでは無く車掌さんが乗務している列車、もう昔話の世界です、ワイド周遊券は青森発10日間でした、若い頃は国鉄さんお世話なりました。
茂幸山本 そうでしたね。音威子府ー浜頓別がオンデマンドタクシーになるという計画があるとは驚きでした。やはりバスになっても持続可能ではないという事ですね。夕張も威勢のいいこと言ってますが、みんな忘れた20年後には「そんな昔の約束は知らない、状況は昔とは違う」と言われて終わりでしょう。公共の交通機関のない街に外部から来ることはないでしょう。
何も言うことなし!最高。この時代のローカル線、1日復活したら・・100万支払っても乗る!!!!
気動車研究沖縄海人 実際復活させるのにどれくらいの資金がいるんでしようかね。クラウドファウンディングで集めて、数年維持する費用を入れたとして計算したらどうなるでしようか。留萌本線や日高線の廃止分で浮いた経費より新幹線の赤字の方が遥かに大きいことを思うと、その費用だけで充分賄えるのかもしれません。極論すれば、新幹線と引き換えに廃線になったともいえますね
天北線。この動画にコメントするのは2度目です。前回のコメントでは、音威子府駅での蕎麦屋さんを取り上げましたが、今回は敏音知駅。私は大阪在住の大の北海道ファンで、今でも年に数回は北海道を旅します。現在は廃線になった幾つかの路線が健在だった頃を乗り尽くしてきましたが、やはり、この天北線は忘れられません。私が初めて天北線に乗った時、敏音知駅をなんて言うのか知りませんでした。難読駅名でした。歌登はそのまま、うたのぼりなのですが、高倉健さんの映画「駅」で、倍賞千恵子さんが演じる増毛の小料理居酒屋の女将が、歌登出身という設定でした。帆立で財を成す猿払等など、天北線は私の中では強烈な印象と思い出。朱色のキハ22。その唸るエンジン音が忘れられないです。動画アップ、いつもながらに有難うございます
地元の人は「ぴんね」「まつね」と言ってましたね。天北線は駅員も親切な人が多く何度も足を運びました。地元の子と仲良くなったのも楽しい思い出です。
天北線かあ〜。懐かしいなぁ〜。宗谷本線の別ルート的な存在でしたが興浜北線などが廃止になったのでほとんどついでに廃止した様な。ともかく枝線が多くあった。でも全て廃止されてしまった。天北線、転覆線とも言うのか。
asaokawasaki ありがとうございます。稚内に向かうにの天北線、羽幌線があり、選択肢が多い時代でしたね。今は来た道を戻るだけで、本数も少なくなり本当に寂しくなりました
久々にキハ22のタペット音と警笛を聞けました、懐かしいですね。実は昔にDCのENG整備を短期間でしたがやってました。その時の記憶が蘇りました。富良野線の動画ってありますでしょうか?探したのですが見つかりませんでした。
富良野線は早くから新型気動車がはいだだことからほとんど撮っていませんでした。ruclips.net/video/To5_FTSXmRI/видео.htmlここの11:40くらいにキハ150がちらっと映るくらいです。
@@user-tabiichiro さん リンクの動画、見させて頂きました。ひょっとしたら…旅一郎さんと年齢が近いかも?自分が富良野線に乗ってた頃は、40が走り出しの頃でした。最寄り駅が神楽岡でした。いやぁ~でも懐かしい絵が見ることができて嬉しいです。
当時の国鉄時代の雰囲気がたっぷり伝わってきました。まだ手軽にビデオカメラが入手出来ない時代、大枚はたいて購入されたのでしょうか?ありがとうございます。
そうです。当時で26万円親に頭下げて「絶対残さないとダメな景色がある」と説得しました
@@user-tabiichiro むしろ、親御さんに頭が下がります。そのおかげで、多くの全国の古い鉄道ファン方々が、とても貴重な映像を楽しまれてると思います。このような手軽なyoutubeで。
@@nnon4924 ありがとうございます。親に感謝します。まだ健在です。
@@user-tabiichiro 聞けませんでしたが、、ご健在と聞いて、嬉しく思います!たぶん、いつまでもご健在で居られるのでしょうね!
短尺レールの音いいですね
天北線をローカル線と呼んでいいかはちゅうちょしますが、いかにも北海道のローカル線!っていう感じですね。
@@user-tabiichiro 厳冬の時にキハ56の天北号に兄に乗せてもらったことがあります。寒さでドアが開かなかったり、車販で買った缶コーヒーがシャーベットになっていたりと驚きの連続でした。音威子府のそばは食べたことはありませんでした。
Fumito Ito キハ56時代なら国鉄の頃ですか。いい頃の天北ですね。
はっきり言います‼️ほんと、昔は良かった。
さいかわのりひで 間違いなくそうですね。
キハ22、名車です。隠れた名車。
加藤洋 現役の頃は、脇役にしか思ってなかったのですが、いまとなってはいい車両だったと思います
いつも希少な映像に楽しませて頂いております。高校時代毎日、車両途中のキハ22か40の助士席に座って(車掌さんに何か言われた事も無く)登校してたのが懐かしいです。途中からワンマン化しキハ22は路線から消えましたが、あの手動ドアや板張りの床や独特な匂いは今でももう一度乗りたい車両です。今のJR北海道には乗りたい路線、車両がどんどん無くなり悲しい現状です。
silverline 105 ありがとうございます。あの頃は本当に楽しかったですね。キハ40はまだ残っていますが、何か違う感じがします
@@user-tabiichiro キハ40、そうなんですよね~。首都圏色じゃないのとかワンマン化とかエンジン等の換装による鈍くささの改善とか…。まだ乗れるだけ贅沢なんでしょうかね~。
@@silverline1055 自動放送は目をつぶってます。
天北線、一度乗ってみたかったです。亡くなった婆ちゃんは戦前、内地から樺太まで行っておりましたので、多分、天北線に乗ったであろうと思います。
飛騨の忍者さるぼぼでござる そうでしょうね。宗谷本線がない頃でしようか
小石〜曲淵。鈍行で22分かかりました。
往復で44分もかかるという事は詰めても1時間半に一本しかダイヤが組めませんね
この時代はまだ鉄道利用者がかなりいたみたい
秘境駅だらけなんやろな
Gr NO02 今風に言えば秘境駅ですが、当時は普通に思ってました
浜頓別ありがとう
ありがとうございます。天北線は他にも何本か動画をUPしているのでそちらもご覧いただきますと幸甚に存じます
すべての廃線された電車に言えることだけど、その地域に人と需要があれば、この天北線も復活をするのかも。とにかく旧天北線界隈に人、人、人、人ですよ。
Kousuke Tonoi ロシアのように辺境の人口を維持するための、補助金(給料)を出して、そこに「住む」だけの仕事をつくったらいいと思います
旅は鈍行に限る‼️新幹線なんてトンネル、防音壁でつまらん
思います。人の目で見える程度のスピードで窓を開けてその土地の匂いを感じたいですね
同感です。まだ、国鉄の頃に宗谷本線を使わず天北線に乗ったものです。音威子府で食べた蕎麦美味かった‼️
昭和61年は私が中学1年生の時です。国鉄末期…鉄道が好きで地方のローカル線に憧れいつか乗りに行きたい!と夢見ていた少年でした。浜頓別からずっと写り込んでいる「お茶」も良いですね。今ではすっかり見なくなりました。貴重な映像、本当にありがとうございます。
ありがとうございます。その後はどこか乗られたのでしょうか。
あのお茶に関しては、釧路駅のおにぎり屋で今も売っています。
と思って確認したら今年3月で閉店となっていました。
ところが、7月に復活しています。
お茶も売ってるようです。
s.tabelog.com/hokkaido/A0112/A011201/1075710/dtlrvwlst/B469497637/?lid=unpickup_review&rvw_part=all&srt=
キハ40が連結される根室方面のお供にもうですか
@@user-tabiichiro 様
高校生になると東北方面のローカル線(陸羽東線や只見線など)に出掛け、大学時代には念願の北海道旅行を何度もしましたが、もうすでに多くの路線が廃線になってしまっていました。何とか駆け込みで冬の深名線に乗ることが出来たのが幸いでしたね。その後の旅はどちらかというとレンタカーで「廃線跡を巡る」のが主流でした。
お茶、こういう形で残っているんですね!今はなかなか時間が取れませんがいつか北海道をのんびり鉄道で旅して回りたいです。
@gunma_nostalgia
キハ40の走っている路線ならかろうじて昔のローカル線の気分が味わえますね。
皮肉な事に根室本線の東鹿越や日高本線など途中で途切れた事によって盲腸線の趣が出ていますね
旅ってこういうものだよなぁ、と見入ってしまいました。
小さな駅にも息づく生活も垣間見れて、素晴らしい映像ですね。
貴重な映像、ありがとうございます。
ありがとうございます。
この頃は大学生の周遊線族が多くて出会いあって楽しかったです。
民営化後、日本に愛想を尽かして主にアジアを中心に旅行しましたが、このときの自由な気分は感じられなかったです
天北線の生活感漂うありのままの貴重な映像、本当に有難いの一言に尽きます。20年ほど前に稚内から浜頓別まで宗谷岬経由で訪問しましたが、声問駅跡の広い砂利場だけが当時を彷彿させ、浜頓別のバスターミナルと遊歩道?に到るまで形跡を追うことができなかった分、生きていた頃の天北線が羨ましくも見えました。キハ22の車内の映像もかなかなお目にかかれることがないので自身が旅しているような得した気分になれました。
ありがとうございます。
もっと真剣に撮ればよかったと思いのですが、眠気に負けて、所々のみになりました。
国鉄末期ギリギリの気動車はのんびりしている感じがよかっだですね
タイトルと録画の日付に郷愁を感じました。この年の8月12日に、音威子府から浜頓別までこの始発に乗車しました。
働き出して初任の年。大雪登山後、当時通い詰めていた浜頓別YHに向かいました。前夜は音威子府の駅前で星を見ながら夜を明かしました。車内の様子は、動画のとおりです。車内側の扉の横にあるロングシート部分が最適のベッドでした。短い線路を使用していたためか、ジョイント音が独特だったことを思い出しました。ああ曲淵駅・・窓を開けて居眠りしていたら車内から帽子を落としてしまい、曲淵駅の駅員さんに声をかけてから線路沿いに次の駅(沼川駅?)まで線路沿いを探したこともありました。当時、たくさんの同世代と知り合い、乗った天北線です。この春、定年を迎えましたが、昭和のこの頃の想い出はつきません。upに感謝、感謝。
米本和弘 ありがとうございます。
この年、8月の20日間、ワイド周遊券で乗ってますので、まさに同じ列車の可能性もありますね。
当時本当に沢山の同世代と知り合い語り合い、と言うのが楽しかったです。ペットボトル飲料もシャワートイレもビジネスホテルも無かったけど、もう一度あの時代を旅したい。ちなみに50歳です。
こんな貴重な映像が残ってるもんなんですね。感動しました。
_ jz ありがとうございます。
ギリギリビデオが間に合いました。当時ビデオカメラを持っている人を見かけたことはなく、自分が残さないと!というへんな使命感を持ってました
@@user-tabiichiro いやいや、すばらしい使命感です。頭が下がります。
キハ22は自分の中でも1番好きな車両です。今は展示されてる車両しか見たことありませんが1度でいいから現役時代に乗ってみたいものでした。キハ22に乗って天北線…羨ましい限りです。
キハ3 最もローカル線らしい路線のひとつでしたね
天北線の映像を懐かしく見させて頂きました。
ありがとうございました🙇
昭和57年61年平成3年の夏に北海道を旅してました。
天北線には急行と鈍行に窓を開けて風を感じてました。
夏は3回だけで,あとは40数回冬に訪れていました。
去年11月に25年ぶりに北海道を訪れることが出来ました。
何か故郷に帰った見たいでした。
ありがとうございます。57年はまだ急行天北がキハ56の頃ですね。
それこそ北海道の急行らしい急行だったと思います。短絡線である宗谷本線と違い、街を繋いでいく感じがありましたね。
初めまして。
昭和61年8月、懐かしいですね。
私は昭和61年8月9日に青函連絡船に乗船し函館から41列車に乗り換え10日に深川~留萌~羽幌~稚内~音威子府まで乗った当時高校1年の18キッパーです。
音威子府に確か22時だか23時だかに着いて駅員さんのご厚意で駅で野宿してます。
18切符1冊で結構くるっと回れたのでどこかですれ違っているかもしれませんね。
若い人たちが夜行列車を宿代わりに移動していたのが懐かしい。
遠い思い出ですね。
まさにその時期なんで、札幌駅の夜行に並んでる時などに、ご一緒しているかもしれませんね。
3人兄弟で行動していたのでかなり目立ってましたよ。
また貴重な映像をありがとうございます。天北線が走っているのを初めて見ました。しかしこれだの路線をテープに収めているのは大変な労力と資金が必要だったと思いますし、それをデジタル化し編集しアップすることも大変な労力だと思います。我々視聴者はせめてgoodボタンを押すのとチャンネル登録しかできません。無理はなさらずマイペースでアップしていただければうれしく思います。
ハートフル海坊主 ありがとうございます。
当時はユーチューブにアップするなんて当然思ってませんでした。
せいぜい自分と仲間で懐かしむ事が出来ればいいと考えていましたが、ユーチューブという素晴らしいサービスのおかげでアップする機会ができ、また当時を知る人に懐かしんでいただけ、知らない人には、なんでも「赤字ローカル線」の一言で切り捨てるのではなく、そこには人がいたのだという事をわかってもらう証拠資料して公開できたことは喜ばしいと思います。
貴重な映像をありがとうございました。
北海道ワイド周遊券を使い北海道内を旅しました。
当時の時刻表をみながら、懐かしく拝見しました。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
時刻表を見ながらだと、当時の乗り継ぎを思い出して、リアルに感じますね
1975年8月初めて北海道に行った時、いきなり稚内を目指し、
大阪を特急日本海→函館から特急北斗3号→札幌からは急行利尻に
しかし『利尻』に乗ったまでは良かったんですが急行利尻は大混雑で椅子にも通路にも座れずデッキで過ごす事に。通算31時間連続乗車で完全ギブアップ。音威子府で721Dに乗れば稚内に寝て行けると思い乗りました。が、着いたら北見枝幸でした。
これ以降、無茶な計画は立てなくなりました。
もう本当に、懐かしい思い出の動画をありがとうございます。
長文すみません。あまりに懐かしくて。
1975年ですか
さらにいい時代ですね。起きたら北見江差ということは後ろの車両に乗られていたということですね。
眠たさに負けて、浜頓別で切り離されてる事に
全く気付かないまま終点でした。
本当にこの時代の北海道を旅行したいです。
@@sawaaicb 僕も湧網線で全線寝てしまったことがあります。
旅一郎さん。懐かしい映像ありがとうございます。高校生活を音威子府で過ごし、天北線にはイベントで一度稚内を日帰りしました。帰省には普通列車を(希に急行天北)利用していました。まだホームに常盤軒さんがありましたよね。新駅舎になって駅内に移動されました。この冬ご主人がお亡くなりになり寂しい限りです。
地元の方ですね。
ありがとうございます。
ホームにあった頃の常盤が良かったですね。
寒い中の蕎麦の嬉しい事😃
@@user-tabiichiro さま
ええ、旭川に帰省の際、発車前に食べようかなと。でも時刻が近付いているのでどうしようかと思っていたら「天北線の到着が遅れているから大丈夫だよ」と旭川行きの車掌さんが教えてくれて一緒にそばをすすってました。(笑)
当時、仕事で浜頓別や猿払に行っていましたが、汽車が走っていた記憶がほとんどなく・・・
廃止になった直後に、稚内の国道40号の跨線橋撤去のための業務に従事していました。
浜頓別周辺の鉄道用地(駅から起点側区間)は、平成7~8年頃だったか、高圧送電線ルートになっていたかと。
地元の人も高校を卒業すると使わなかったんですかね。
そういえば旭山動物園最寄りの北日の出駅まで歩いた時、その辺を歩いている人に駅を聞くと、「知らない」と言われて、普段使わないんだなと、思いました
@@user-tabiichiro様 北日ノ出はつい最近廃止されました。おそらく利用していた小中学生がいなくなったからかと思いますが・・・
昔は東旭川に住んでいたので旭川電気軌道の電車で旭山動物園には行っていたような。ただ、自転車に乗れるようになると自転車でしたけど。
貴重な映像に感謝いたします。私も当時利尻81号のキハ56夜行急行で稚内に向かい急行天北で戻りました。あの時がよみがえります。
やまびこ 同じ頃ですね。
当時の人生を思い出しながら見ていたたけると嬉しい😃です
とても懐かしい動画ありがとうございましす❗️
急行利尻から乗り換えて浜頓別で分割される北見枝幸行に乗った記憶が今でもよみがえります❗️
この動画撮影時点では興浜北線は廃止されていますがやはりキハ22を見るとあの頃はよかったなぁ…としみじみ感じます
天北線繋がりで、さっき音威子府蕎麦屋の方が亡くなられたとの情報がありました。
この動画にもホーム上時代の蕎麦屋があったかと思います
とても残念な知らせでしたね…
ホームに蕎麦屋があった時代も懐かしく…
一昨年食べに行った時もだいぶお疲れの様子でしたが時の流れには逆らえませんね…
こうして次々と昭和の歴史が終わっていくんだな…と思いました
エンジンのカラカラ音,発車ベルそしてドアの閉まる音,全て素晴らしいです。
ありがとうございます。
昔当たり前でなくなった時、「ハッ」としますね。
こんにちは、僕は昭和56年3月にワイド周遊券で北海道旅行に行ったときに天北線乗りました。吹雪の日で何度も立ち往生、車内放送で「一旦バックしてはずみをつけていきましょう」というアナウンスが流れてびっくりしたのを覚えています。学生だったので、札幌起点によく夜行列車に乗りました。大雪、利尻、狩勝だったかな。懐かしいです。
優 森 ありがとうございます😊
昭和56なら、記載されてますよう、夜行は狩勝の頃ですかね。
急行も旧客が多く、本当に記者旅ができた頃ですね。
僕が始めていったのは60年なので、わずか4年の差ですが、その変化も大きかったと思います。
それ以上に61.11の改正が大きかったですね。
ドアのガタガタと閉まるかんじ、網棚、お茶のパック、懐かしいです。進行方向から昇る朝日、素敵ですね❗
ぴ ぴ ありがとうございます。
お茶の入れ物に気づかれましたか。
当時非常に節約していたのでお茶パックが3つもあるのに自分でも驚きます。
今は無き天北線の貴重映像をありがとうございます。
天北線が「健在」だった頃の音威子府は、村の人口が4千人余り。その内の1200人程が国鉄マンとその家族だったとか。
全盛期の音威子府駅は8ホ―ムまであり、他に貨物の引き込み線が2本。
まさに音威子府は鉄道の「町」だったようです。
活気あふれる時代の頃から、駅の立ち食いソバを提供されていた「音威子府蕎麦…常盤軒」のご主人が、つい最近、お亡くなりになりました。
私は大阪在住ですが、宗谷本線のキハ40、54での鈍行の旅、そして常盤軒さんの蕎麦を目的に毎年、音威子府を訪ねていましたが、目的がひとつ無くなってしまいました。
寂しい限りです。
ご冥福をお祈りします。
先日Yahooニュースでお亡くなりになられた事を知り、残念に思います。
何度も18きっぷや周遊券で訪れました。
末期は普通列車ダイヤと合わなくなり特急を使ってでも無理矢理行っていました。
遠軽に引き続きどんどん旅の楽しみが消えて行きますね
懐かしい映像ありがとうございました。タイフォンやエンジン音も懐かしい。急行天北で、今は亡き浜頓別yhに行ったこととか思い出します。
浜頓別ユースですか。
いいですね。
門限があったので、あまりユースは使っていませんでした。
もっとユースも行っていればよかったなと思います
良いですねぇ…。これこそ平成生まれの私から見れば求めていた鉄道旅の憧れでもあり、夢でもあります。私もこんな気動車で旅してみたいものです。やはり国鉄型の気動車は旅情がありますし、最近ではキハ40をはじめとする国鉄型気動車が時代の流れで消えつつあるので寂しいですね…。
でも千葉県の小湊鉄道へ行けばこのような音が聴けると思いますが、やはりDMH17の音が子守唄に聴こえてきますね。
VC10型機関車3800番台
生まれの時代は制御できないのでなんともなりません。
僕もあと1〜2年早ければ!とおもうことが多いです。
せめて今残っているキハ40系列のガラガラ列車で楽しみたいと思っています
こんな貴重な動画をありがとうございます!!。
宗谷本線や留萌本線など名ばかりの本線と今ではなってしまい、その本線でさえも寂れてしまっている現代でもう命は残されていないと自分はそう思います。いつになったら乗りに行くことができるのでしょうか?お金が十分に無くても心の底から行きたいと思わせる北海道の鉄道に、魅力が大変湧きます。北海道に早く行きたいです。コロナさえなければ、修学旅行で北海道に足を踏み入れることができたのに……中国に怒りの矛先を向けます。
楽しんでいただき、ありがとうございます。
コロナ感染の問題があるので、気楽に行って下さいとは言えないですが、キハ40系列の残っているうちにまた行きたいものです。
クッチャロ湖畔ありがとうあれから60年たちました。 感謝しかありません
ありがとうございます。写っていましたか
実家が南稚内駅の近くです☆
懐かしい景色でした(涙)
ありがとうございます。
地元の方からの感想は一際嬉しいです。
こんばんは。ずっと前にチャンネル登録させて頂いたのに、ご挨拶もコメントもせずすみません。 天北線、大好きな路線でした。音威子府~浜頓別までしか乗れませんでしたが・・。懐かしく拝見させて頂いています。アップ、ありがとうございます。
osaka miobasan
ありがとうこざいます。
天北線は数ある北海道ローカル線の中でも人気がありましたね。
末期の急行天北が客車になったので、他線区より特別感があったように思います。
私は昭和61年7月31日と8月9日に
急行天北を利用しました。
7月31日は札幌→稚内間、8月9日は
稚内→札幌間でした。
今思えば、天北線もトンネルがなか
ったような気が。
この時はワイド周遊券を20日間目いいっはい使って旅をしました。
宿泊は全て夜行列車(または青函連絡船)でした。
8月頭から20頃までだったので、まさに時期が被りますね。
他の北海道関連の動画でもこの時の旅行のものがあるので、見ていただけると幸いです。
短尺レールのジョイント音がいいですねぇ〜
天北線乗ってみたかった
短尺レールを聞くと、北海道という気がしますね。
天北線は客車が走っていたので超大四線の中で一番よく行きました
同じ時期に天北線に乗りましたが、急行天北で通り過ぎただけでした。今思うともっと味わっておけばよかったと思う次第です。
小石ー曲淵の日本一何もない駅間など見どころがいっぱいでした。
今は代替バスも一部廃止され、自家用車でしか行けないところになってしまいました。
そうなんですよ。代行バスも繋がらないとなると公共交通で行く事ができないですからね。
まさに地図から消えてしまった感じがします
思わず見入ってしまいました。DMH17の音は本当に癒されます、カラッカラッと乾いた感じのアイドリングに時々ポコッポコッとコンプレッサーの音も同期して、縦型エンジンなのでよりはっきり車内に響く感じ、懐かしいです。今では小湊にいけばまだ乗れるのかな? 車内で思い思いにくつろぐ姿もいいですね、余談ですが壁のクッションに頭を寄りかかって寝ていると窓のところに髪の毛が挟まって痛かったのを思い出します。
MAT MAT キハ22の音最高ですね。
車内を見るとみんな好きなカッコで寝ており、今なら文句言われそうです。
いつもすばらしい動画をありがとうございます。
いつ見ても、小石―曲渕間の車窓は最高です。
宝くじで10億当たったら天北線を復活させてやろうと、いつも妄想しています。
kokusai un
みんなの力を結集してクラウドファンディングでも、復活させたいものですね。
気持ちはよくわかります。でも、レールや路盤がなくなったら再興するにはケタが最低二つは足りないような。残念だけど過去になってしまいました...。ソフトバンクやトヨタの時価総額全部ぶっ込んだらすごいのできそうだけどな。これも妄想。観光の一部として例えば小石の炭鉱跡とか使えんかね?当時線路の近くにズリ山があった。まだあるのかな?燃えてなきゃいいけど。
旅一郎さん
私も音威子府からの天北線始発列車は利尻から乗り継ぎしてました
当時は旧型客車急行で稚内まで乗る時はグリーン車かB寝台でしたが
音威子府下車の時は自由席でした
ボックスシート占領は無理でしたが片側の 1脚は抑えれたから
ジュース缶を座席下に挟んでシートを傾けてました、私が2回乗車したこの列車は当時2両編成で1両は浜頓別から興浜北線北見枝幸行きで
北見枝幸行きと稚内行きの両方に
乗車してます、峠超えは延々と
無人の雑木林が続いてましたが
途中駅では利用客が多かったですね、動画で見える駅周辺の民家は
おそらく今は廃墟でしよう
鉄路の残った町でも道北の途中駅は悲惨なのに鉄路の消えた町は
もっと悲惨な状態でしょうね
日中の旭川から2両で発車して音威子府で分割、宗谷.天北両線経由の稚内行きも両方乗車してます
昔の音威子府駅も懐かしいですね
私が学生時代は音威子府構内は
貨物扱いで職員も多く活気に溢れてました、
今は団地状の職員宿舎2棟は閉鎖
夜間留め置き列車の乗務員宿舎も
閉鎖で、留め置き運用すら合理化により廃止、朝の稚内行きと旭川行きは遥々名寄から回送されます
しかも別々に、今は削減されましたが豊富発の稚内行きと名寄方面行きは南稚内から2両で回送され
分割して発車してました、
現在音威子府に来るキハ40は
最終の音威子府行きと名寄から回送されて来る始発の旭川行きだけです、冬期は2両、通常は1両です、今最も乗りたいのがこの
音威子府発旭川行き、名寄からは
快速(なよろ)で高速化された名寄→旭川はガンガン飛ばしますから
乗車時間も長いですし、
旅一郎さんは気付かれてたと思いますが、北海道の国鉄時代の車両は驚くほど手入れが行き届いてましたね、旧客も気動車も、ガラスも
非常に綺麗ですね、14系客車急行の日中の急行は非常に乗りたいと思いながら急便時代で不可能でした、寝台の1区画をグリーン席扱いとした部分に乗りたかった、
佐川急便の社員旅行で別行動を取り乗った時は天北線は既に無く
(利尻)は気動車に鋏まれたB寝台車でした、稚内駅は新駅舎工事中に
行ってから訪問は出来てません
近代化されたのでしょうが
1面1線は寂し過ぎます、
旧型客車急行時代は発車前に
1日おきに(蛍の光)と(宗谷岬)を
流してました、キハ22の
停車中のアイドリング音が懐かし過ぎますワ、
新居義浩 さん
いつもありがとうございます。
旧客利尻も2年差乗れなかった列車の一つです。
僕も動画を見るまでこの列車2両と思っていましたが、よく見ると1両ですね。
冬季は2両でした。
ここで乗ってきた乗客は今どうしているのか、気になりますね。
廃村、き
廃村、石北本線でもよく見るので、レールのないところはなおさらでしょう
国鉄型気動車ってなぜか眠くなってしまうんですよねぇ…昨日津山線のキハ40に乗ったんですが7時間寝たはずなのに快適で眠ってしまいました。揺れやエンジン音が心地いいですねぇ
すぎなみさんえき
ボックスに足を伸ばしていると、いつの間にか意識がなくなりますね。
元はこちらが本線なので沿線人口は天北線方が多いし本数有りますね、
今の代行バスは浜頓別ー音威子府の乗車率が悪くて乗合タクシー化する話しあっんですが、冬場の乗車率いいのでバスのままです、私も同じルート使いましたが2回音威子府で寝過ごしましたが三度目の正直で成功しました、キハ22車両やエンジン音ワンマンでは無く車掌さんが乗務している列車、もう昔話の世界です、ワイド周遊券は青森発10日間でした、若い頃は国鉄さんお世話なりました。
茂幸山本 そうでしたね。
音威子府ー浜頓別がオンデマンドタクシーになるという計画があるとは驚きでした。
やはりバスになっても持続可能ではないという事ですね。
夕張も威勢のいいこと言ってますが、みんな忘れた20年後には「そんな昔の約束は知らない、状況は昔とは違う」と言われて終わりでしょう。
公共の交通機関のない街に外部から来ることはないでしょう。
何も言うことなし!最高。この時代のローカル線、1日復活したら・・100万支払っても乗る!!!!
気動車研究沖縄海人
実際復活させるのにどれくらいの資金がいるんでしようかね。
クラウドファウンディングで集めて、数年維持する費用を入れたとして計算したらどうなるでしようか。
留萌本線や日高線の廃止分で浮いた経費より新幹線の赤字の方が遥かに大きいことを思うと、その費用だけで充分賄えるのかもしれません。
極論すれば、新幹線と引き換えに廃線になったともいえますね
天北線。
この動画にコメントするのは2度目です。
前回のコメントでは、音威子府駅での蕎麦屋さんを取り上げましたが、今回は敏音知駅。
私は大阪在住の大の北海道ファンで、今でも年に数回は北海道を旅します。
現在は廃線になった幾つかの路線が健在だった頃を乗り尽くしてきましたが、やはり、この天北線は忘れられません。
私が初めて天北線に乗った時、敏音知駅をなんて言うのか知りませんでした。難読駅名でした。
歌登はそのまま、うたのぼりなのですが、高倉健さんの映画「駅」で、倍賞千恵子さんが演じる増毛の小料理居酒屋の女将が、歌登出身という設定でした。
帆立で財を成す猿払等など、天北線は私の中では強烈な印象と思い出。
朱色のキハ22。
その唸るエンジン音が忘れられないです。
動画アップ、いつもながらに有難うございます
地元の人は「ぴんね」「まつね」と言ってましたね。天北線は駅員も親切な人が多く何度も足を運びました。
地元の子と仲良くなったのも楽しい思い出です。
天北線かあ〜。懐かしいなぁ〜。宗谷本線の別ルート的な存在でしたが興浜北線などが廃止になったのでほとんどついでに廃止した様な。ともかく枝線が多くあった。でも全て廃止されてしまった。天北線、転覆線とも言うのか。
asaokawasaki ありがとうございます。
稚内に向かうにの天北線、羽幌線があり、選択肢が多い時代でしたね。
今は来た道を戻るだけで、本数も少なくなり本当に寂しくなりました
久々にキハ22のタペット音と警笛を聞けました、懐かしいですね。
実は昔にDCのENG整備を短期間でしたがやってました。
その時の記憶が蘇りました。
富良野線の動画ってありますでしょうか?
探したのですが見つかりませんでした。
富良野線は早くから新型気動車がはいだだことからほとんど撮っていませんでした。
ruclips.net/video/To5_FTSXmRI/видео.html
ここの11:40くらいにキハ150がちらっと映るくらいです。
@@user-tabiichiro さん リンクの動画、見させて頂きました。
ひょっとしたら…旅一郎さんと年齢が近いかも?
自分が富良野線に乗ってた頃は、40が走り出しの頃でした。最寄り駅が神楽岡でした。
いやぁ~でも懐かしい絵が見ることができて嬉しいです。
当時の国鉄時代の雰囲気がたっぷり伝わってきました。まだ手軽にビデオカメラが入手出来ない時代、大枚はたいて購入されたのでしょうか?ありがとうございます。
そうです。当時で26万円
親に頭下げて「絶対残さないとダメな景色がある」と説得しました
@@user-tabiichiro
むしろ、親御さんに頭が下がります。
そのおかげで、多くの全国の古い鉄道ファン方々が、とても貴重な映像を楽しまれてると思います。このような手軽なyoutubeで。
@@nnon4924 ありがとうございます。親に感謝します。
まだ健在です。
@@user-tabiichiro
聞けませんでしたが、、
ご健在と聞いて、嬉しく思います!
たぶん、いつまでもご健在で居られるのでしょうね!
短尺レールの音いいですね
天北線をローカル線と呼んでいいかはちゅうちょしますが、いかにも北海道のローカル線!っていう感じですね。
@@user-tabiichiro 厳冬の時にキハ56の天北号に兄に乗せてもらったことがあります。寒さでドアが開かなかったり、車販で買った缶コーヒーがシャーベットになっていたりと驚きの連続でした。音威子府のそばは食べたことはありませんでした。
Fumito Ito キハ56時代なら国鉄の頃ですか。
いい頃の天北ですね。
はっきり言います‼️ほんと、昔は良かった。
さいかわのりひで 間違いなくそうですね。
キハ22、名車です。隠れた名車。
加藤洋 現役の頃は、脇役にしか思ってなかったのですが、いまとなってはいい車両だったと思います
いつも希少な映像に楽しませて頂いております。高校時代毎日、車両途中のキハ22か40の助士席に座って(車掌さんに何か言われた事も無く)登校してたのが懐かしいです。途中からワンマン化しキハ22は路線から消えましたが、あの手動ドアや板張りの床や独特な匂いは今でももう一度乗りたい車両です。今のJR北海道には乗りたい路線、車両がどんどん無くなり悲しい現状です。
silverline 105
ありがとうございます。
あの頃は本当に楽しかったですね。
キハ40はまだ残っていますが、何か違う感じがします
@@user-tabiichiro
キハ40、そうなんですよね~。首都圏色じゃないのとかワンマン化とかエンジン等の換装による鈍くささの改善とか…。まだ乗れるだけ贅沢なんでしょうかね~。
@@silverline1055 自動放送は目をつぶってます。
天北線、一度乗ってみたかったです。亡くなった婆ちゃんは戦前、内地から樺太まで行っておりましたので、多分、天北線に乗ったであろうと思います。
飛騨の忍者さるぼぼでござる そうでしょうね。宗谷本線がない頃でしようか
小石〜曲淵。鈍行で22分かかりました。
往復で44分もかかるという事は詰めても1時間半に一本しかダイヤが組めませんね
この時代はまだ鉄道利用者がかなりいたみたい
秘境駅だらけなんやろな
Gr NO02 今風に言えば秘境駅ですが、当時は普通に思ってました
浜頓別ありがとう
ありがとうございます。天北線は他にも何本か動画をUPしているのでそちらもご覧いただきますと幸甚に存じます
すべての廃線された電車に言えることだけど、その地域に人と需要があれば、この天北線も復活をするのかも。とにかく旧天北線界隈に人、人、人、人ですよ。
Kousuke Tonoi ロシアのように辺境の人口を維持するための、補助金(給料)を出して、そこに「住む」だけの仕事をつくったらいいと思います
旅は鈍行に限る‼️
新幹線なんてトンネル、防音壁でつまらん
思います。
人の目で見える程度のスピードで窓を開けてその土地の匂いを感じたいですね
同感です。
まだ、国鉄の頃に宗谷本線を使わず
天北線に乗ったものです。
音威子府で食べた蕎麦美味かった‼️