紫式部は宮廷のリアルと批評を「紫式部日記」に書いていた!

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  • Опубликовано: 10 сен 2024
  • 大河ドラマについて深堀り解説をしています。
    動画にしてほしい題材、皆さんが知っていること、感想やコメントを残してくれると嬉しいです!
    #歴史
    #光る君へ

Комментарии • 6

  • @hiroshiyamashita
    @hiroshiyamashita 2 месяца назад +2

    新鮮でした。とりわけ、漢字を多用しがちな清少納言に対して、紫式部が漢字の使用を意識的に減らしていたこと。視覚的にもソフトなひらかなが綺麗ですよね。千年前だから仕方ないですが、紫式部の自筆草稿を見たかったです。湿気の多い日本では無理だったのでしょう。

  • @user-ru9rp8hv4g
    @user-ru9rp8hv4g 2 месяца назад +2

    道長のバックアップを受けてはいたが、彼女は道長にはかなり嫌気が、さしていて、彼の行いに批判的でした。彼の
    定子后に対する仕打ち、定子后の悲劇を想像するたび、道長にたいする嫌悪を感じ、物語を持って定子のリベンジを行い、最終的に最高の読者
    一条帝にむけて定子の姿を紫の上に被せて表現していると
    研究者は言っている。

  • @kaetzchenweiss5793
    @kaetzchenweiss5793 2 месяца назад +1

    諸説ありますが、紫式部が
    清少納言を悪く書いたのは
    紫式部が夫を亡くした頃に
    清少納言が彼は軽装で出席する
    催しに派手な格好で現れて
    悪目立ちしている。と言う
    内容を書いた事への返しとして
    定子が亡くなった頃に清少納言を
    悪く書いたとされる事が最も
    強い説だとか。
    源氏物語については一部娘の
    堅子が書いたとも言われてもいますね。
    さて、真実は如何に!
    紫式部のみぞ知るところです
    それもまた浪漫ですね。

  • @m.sakurai9519
    @m.sakurai9519 Месяц назад

    なるほどね。世界に例を見ないことをしていても、孤独を感じる。生きるとは難しい。でも、宮中に、特に中宮さまの側に長く仕え、公式行事にも出ている人は、世間からは当時の女性のトップだし、それを長くつとめ、しかも娘がその後を継いだーなんて最高の人生ですよ。しかも彰子様は政事にも差配するまでになり、国のトップ中のトップの側にいた。取り次ぐには式部を通していたようで、それはいわば内覧と同格のような位置。たしかに忙しいから、書くなんて無理でしたでしょうが。これは大変なことで、そこら辺のことを、内密にでも書き残していたら、さらに国宝になっていたでしょうね。出せないから難しいけど😅

  • @user-ru9rp8hv4g
    @user-ru9rp8hv4g 2 месяца назад +1

    定子后の姿を物語に映し出していることを道長にバレないように、少納言の悪口を書いたりした。

  • @user-be8nj3xs8s
    @user-be8nj3xs8s 2 месяца назад

    げんざいでは新嘗祭のまえにおそなえする新米をたべたりしているひとがいたりします。まさか平安時代にそんな皇族はいないでしょうね