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佐那河内は古来 島根県に行って開拓したんですよね!出雲風土記に サナの懸の忌部族が来て 開拓したと書いているそうです。第5代の孝昭天皇が新嘗祭にお供えする お米を作るため 水田の棚田を 作ったとか、、、歴史が凄いです😊
出雲の国風土記には、一意宇郡(二)郡総記の頭に、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さぬの)の稚国在る哉。(わかくになるかも)」とかかれているだけです。出雲の国風土記研究者の方々は殆ど「狭布の稚国」というところをスルーしています。これは「阿波の佐那縣の国の人々がやってきて開拓したできたての国」という意味です。
私は、今は北海道におりますが 以前は佐那河内村の朝宮神社の近所におり、住んでいた所の大家さんは、棚田の献上米を作っている方でした。動画をいつも楽しみに拝見しております。
ありがとうございます!! 朝宮神社が伊勢神宮と深い繋がりがあるなんて、取材した当時は知りませんでした。しかも歴史は伊勢神宮より古そうです。伊勢神宮は7世紀の天智天皇も参ったことがないようですが、この朝宮神社はおそらく紀元前4~5世紀頃にはあったのではないかと思います。
あの朝宮神社が そんなに古いなんて驚きです。お知らせに感謝申し上げます。今年、いみじくも御間都比古神社のすぐそばで畑を持っている方と再会しました。佐那河内に思いを馳せております。ありがとうございます。
@@かーたん-h6b これから順次、吉野川北岸(吉野川市、阿波市)とか八多~国府あたりをアップ予定です。ご期待ください。
丁寧に 地図を使っての わかりやすい説明の配信をありがとうございます!朝宮神社は知りませんでした。瀬織津姫が祀られているとは 凄い事ですね!行ったことの無い神社 お参りできた氣になりました。ありがとうございましたm(_ _)m😊
アメノイワト別は別名とよたま姫ですかね!大宮八幡宮は東京にもあります。ミマツは美馬のことですね。ツは都ですね。
折角の労作ですが文字表示が消えるのが早すぎて半分も読めません。もう少し読む側の身になっていただけないでしょうか。
申し訳ありません。以後、長めにします。発信済みの分につきましては修正不可なのでお手数ですが「一時停止」しながらお読みください。
豊葦原中ツ国は「豊かな葦の原っぱの中にある国」と言う意味なので、当然そこは葦の群生地帯だったはずです。葦は稲科の植物ですので水辺に生えるわけですが、こんな山中のような所に大きな葦原があったとは到底思えません。徳島で最大の葦の群生地帯だったのは吉野川流域ですので、豊葦原中ツ国は当然吉野川のほとりにあったんじゃないでしょうか?
言葉だけとらえれば「豊かな葦の原っぱ」でしょうが、ご存知かもしれませんが、吉野川は豊かな大河ある一方、日本有数の暴れ川です。台風の時の吉野川は、あの広い川面全面が濁流になります。豊かな葦も、稲も泥水で押し倒されます。昔から阿波はこの吉野川の治水が最大の課題でした。濁流のあとの吉野川は一面泥だらけで、当時の最重要事項の、食べるものの確保、「穀物の豊かな収穫」は吹き飛んでしまいます。二千年近く昔の話ですので、治水技術はまだ殆ど確立されておらず、穀物の安定した収穫は吉野川流域以外(川の溢れる範囲外)に限られます。 佐那河内は、どうも一般大衆むけの穀物栽培ではなく、高天原専用の穀物栽培エリアだったようです。よって高天原の王族達が食べるに必要な食料が得られれば「豊かな豊穣の地」ということであったと思われます。佐那河内は山の中といっても、八多町を通って小松島まですぐであり、ものすごい山奥というわけでもありません。
@@takaokamm 豊葦原がそこまで限定的な意味で用いられていたとはちょっと考えずらいですね。吉野川が暴れ川であったのは存じておりますがそれも台風シーズンに限られる話ですので、粟などの収穫時期が台風シーズンからずれる作物ならば問題無かったわけですよね。だから米のような台風シーズンと収穫時期が被る作物は他の場所でつくり、吉野川流域ではそれ以外の物を主に作っていたと思われます。古代人といえその位の知恵は働かせていたと思いますよ。エジプトはナイルの賜物とは言いますが、さしずめ倭(ヤマト)は吉野川と賜物と言ったところでしょう。四大河文明の例のように古代において文明と大河は切っても切れない関係にあった訳です。洪水被害などのデメリットが在ったとしても、それ以上にメリットの方が遥かに大きかった訳です。ですので申し訳ないですが、up主様のご意見には賛同しかねますね。
その通りですね。麻は吉野川南岸でも栽培されていたようですね。粟は5~6月種植えで収穫が10月頃ですので完全に台風シーズンと被りますが。古代農耕文化については私は素人なので色々ご教授頂ければ幸いです。
佐那河内は古来 島根県に行って開拓したんですよね!
出雲風土記に サナの懸の忌部族が来て 開拓したと書いているそうです。
第5代の孝昭天皇が新嘗祭にお供えする お米を作るため
水田の棚田を 作ったとか、、、歴史が凄いです😊
出雲の国風土記には、一意宇郡(二)郡総記の頭に、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さぬの)の稚国在る哉。(わかくになるかも)」とかかれているだけです。出雲の国風土記研究者の方々は殆ど「狭布の稚国」というところをスルーしています。これは「阿波の佐那縣の国の人々がやってきて開拓したできたての国」という意味です。
私は、今は北海道におりますが 以前は佐那河内村の朝宮神社の近所におり、住んでいた所の大家さんは、棚田の献上米を作っている方でした。動画をいつも楽しみに拝見しております。
ありがとうございます!! 朝宮神社が伊勢神宮と深い繋がりがあるなんて、取材した当時は知りませんでした。しかも歴史は伊勢神宮より古そうです。伊勢神宮は7世紀の天智天皇も参ったことがないようですが、この朝宮神社はおそらく紀元前4~5世紀頃にはあったのではないかと思います。
あの朝宮神社が そんなに古いなんて驚きです。お知らせに感謝申し上げます。今年、いみじくも御間都比古神社のすぐそばで畑を持っている方と再会しました。佐那河内に思いを馳せております。ありがとうございます。
@@かーたん-h6b これから順次、吉野川北岸(吉野川市、阿波市)とか八多~国府あたりをアップ予定です。ご期待ください。
丁寧に 地図を使っての わかりやすい説明の配信をありがとうございます!
朝宮神社は知りませんでした。
瀬織津姫が祀られているとは 凄い事ですね!
行ったことの無い神社 お参りできた氣になりました。
ありがとうございましたm(_ _)m😊
アメノイワト別は別名とよたま姫ですかね!大宮八幡宮は東京にもあります。ミマツは美馬のことですね。ツは都ですね。
折角の労作ですが文字表示が消えるのが早すぎて半分も読めません。もう少し読む側の身になっていただけないでしょうか。
申し訳ありません。以後、長めにします。発信済みの分につきましては修正不可なのでお手数ですが「一時停止」しながらお読みください。
豊葦原中ツ国は「豊かな葦の原っぱの中にある国」と言う意味なので、当然そこは葦の群生地帯だったはずです。
葦は稲科の植物ですので水辺に生えるわけですが、こんな山中のような所に大きな葦原があったとは到底思えません。
徳島で最大の葦の群生地帯だったのは吉野川流域ですので、豊葦原中ツ国は当然吉野川のほとりにあったんじゃないでしょうか?
言葉だけとらえれば「豊かな葦の原っぱ」でしょうが、ご存知かもしれませんが、吉野川は豊かな大河ある一方、日本有数の暴れ川です。台風の時の吉野川は、あの広い川面全面が濁流になります。豊かな葦も、稲も泥水で押し倒されます。昔から阿波はこの吉野川の治水が最大の課題でした。濁流のあとの吉野川は一面泥だらけで、当時の最重要事項の、食べるものの確保、「穀物の豊かな収穫」は吹き飛んでしまいます。二千年近く昔の話ですので、治水技術はまだ殆ど確立されておらず、穀物の安定した収穫は吉野川流域以外(川の溢れる範囲外)に限られます。
佐那河内は、どうも一般大衆むけの穀物栽培ではなく、高天原専用の穀物栽培エリアだったようです。よって高天原の王族達が食べるに必要な食料が得られれば「豊かな豊穣の地」ということであったと思われます。佐那河内は山の中といっても、八多町を通って小松島まですぐであり、ものすごい山奥というわけでもありません。
@@takaokamm
豊葦原がそこまで限定的な意味で用いられていたとはちょっと考えずらいですね。吉野川が暴れ川であったのは存じておりますが
それも台風シーズンに限られる話ですので、粟などの収穫時期が台風シーズンからずれる作物ならば問題無かったわけですよね。だから米のような台風シーズンと収穫時期が被る作物は他の場所でつくり、吉野川流域ではそれ以外の物を主に作っていたと思われます。古代人といえその位の知恵は働かせていたと思いますよ。
エジプトはナイルの賜物とは言いますが、さしずめ倭(ヤマト)は吉野川と賜物と言ったところでしょう。四大河文明の例のように古代において文明と大河は切っても切れない関係
にあった訳です。洪水被害などのデメリットが在ったとしても、それ以上にメリットの方が遥かに大きかった訳です。
ですので申し訳ないですが、up主様のご意見には賛同しかねますね。
その通りですね。麻は吉野川南岸でも栽培されていたようですね。粟は5~6月種植えで収穫が10月頃ですので完全に台風シーズンと被りますが。古代農耕文化については私は素人なので色々ご教授頂ければ幸いです。