Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
6:31名前は言えませんけど山口幸司と藤王です好き
昌さんの話は奥が深いね、スゴイ・ピッチャーだった。
2回目の海外修行が実を結ぶ結果になって、本当に良かったですね!!昌さんが50歳まで頑張れた理由がわかりました。素敵なエピソード、本当にありがとうございました!!
その89年の5月の試合、ナゴヤ球場で観戦していました
田尾さんは相変わらず紳士です❤️
受け止め方で代わってしまう。良い方にも、悪い方にも。見習います。有難うございました。
山本昌さんの9勝9敗だった年。最後の試合は、今考えると普通だったら8回はリリーフですね。おまけに自分の失投ではなく、味方のエラーからの失点で可哀相でした。しかし、再びの渡米で3年かけて学んだカーブにより最多勝を取り、最終的には名球会(200勝)まで行けましたから、あの試合で勝って二桁勝利を取り、カーブを学ばなかったらと考えると、昌さんの選手生命は早く終わってたのかもしれませんね。
翌年もアメリカいった話は、初めて聞きました。もう酒の肴に最高です。昌さん最高です。
プロでやっていくのは、大変な事なんですね。今と違って、昔は大変だったんですね。でも、アイクさんに感謝ですね。
昌さん、お疲れさまです🙇昌さんはアメリカの土地が合ったのでは⁉️もしかして、メジャーでやっていれば、もっと活躍したのでは⁉️
昌さんには現場に是非戻って欲しい。
アメリカから帰ってきた時は、スクリュー。変化量も大きくて凄かった覚えがあります、昌さんと言えばスクリューですが、実際の全盛期はカーブとインコースの真っ直ぐのコンビネーションを良く使ってた印象があります。初球カーブで簡単にストライク取って、最後は右バッターのインコースビタビタの真っ直ぐで見逃し三振!なんてシーン数えきれないほど見ました。
さすがに山本昌さん、レジェンドだけあって、お話に生きざまが現れていますね。
その1-0で勝った試合テレビで観てました。そのときもうすでに戦力として投げられていたのに、いまさら何で泣くのかなと不思議に思ってたんですが、そういうことだったんですね。西本投手が中日で20勝した年ですね。
当時年に1~2回ある、NHKでのD×G戦放送で、解説は山田久志さんだったのを覚えてます。
89年だと先発投手は勝ってたら最低でも7回までは投げていましたね。
思い出すなぁ・・・昌さんの様々な時代。今中さんとのダブルエース時代も記憶につよく残ってます。それにしても田尾さんの面白い話を引っ張り出すトークが良いなぁ。楽しませていただきました、ありがとうございます!
スクリューとカーブパワプロ思い出した。どちらも確か凄い変化球で他の投手でこのような変化球の投手はいなかったです
写真を差し込んでくれるのうれしいアイクさんの写真いいですねそして藤王のいいときの写真がもうね
マサさんを憲伸さんも井端さんも、一番の負けず嫌い認定されてましたよ
こんばんは。人生山あり谷ありと言いますが昌さんは全部受け入れて、そしていつも前向きにやってきたんですねえ。だからここまでの人格者なんだなあと改めて感じました。後輩の桑田コーチに桑田さんと普通に仰ってましたし。昌さんすごい。
昌さん2度目の渡米でカーブを覚え、3年後に花開いたのは素晴らしいエピソードですね⚾️あと、レフト大島康徳、センター平野謙、ライト田尾安志の外野陣は、レフト英智、センターアレックス・オチョア、ライト福留孝介の次に好きです(^^)
ビジネスってそんなに高いんや…笑
昌さん、苦労人ですね😢
私は、初めてプロ野球観戦した時、ナゴヤドームで中日巨人戦で2対0で山本昌完封試合でした。確か対戦ピッチャー桑田だったと思います。
それが今と30年前の野球の違いかな?今だったら少なくとも8回で交代になるだろうし
大島さんへの阪神ファンの野次は常軌を逸していました。甲子園球場にラッキーゾーンがあった時代にラッキーゾーンに入ろうとした打球を大島さんが確か2回ぐらい連続で手を伸ばしてキャッチした事が原因でしたが、だいたいからしてラッキーゾーンなんて野球の理念から完全に逸脱していると今でも思います。バスケットボールのリングの位置を下げる事と一緒かな?と。
6:31 一言多い
大先輩の田尾さんに対して、昌さんが少しタメ口口調なのが気になる
家に遊びに行くくらいの仲みたいですよ
6:31
名前は言えませんけど山口幸司と藤王です
好き
昌さんの話は奥が深いね、スゴイ・ピッチャーだった。
2回目の海外修行が実を結ぶ結果になって、本当に良かったですね!!昌さんが50歳まで頑張れた理由がわかりました。素敵なエピソード、本当にありがとうございました!!
その89年の5月の試合、ナゴヤ球場で観戦していました
田尾さんは相変わらず紳士です❤️
受け止め方で代わってしまう。良い方にも、悪い方にも。見習います。有難うございました。
山本昌さんの9勝9敗だった年。最後の試合は、今考えると普通だったら8回はリリーフですね。おまけに自分の失投ではなく、味方のエラーからの失点で可哀相でした。しかし、再びの渡米で3年かけて学んだカーブにより最多勝を取り、最終的には名球会(200勝)まで行けましたから、あの試合で勝って二桁勝利を取り、カーブを学ばなかったらと考えると、昌さんの選手生命は早く終わってたのかもしれませんね。
翌年もアメリカいった話は、初めて聞きました。もう酒の肴に最高です。昌さん最高です。
プロでやっていくのは、大変な事なんですね。今と違って、昔は大変だったんですね。でも、アイクさんに感謝ですね。
昌さん、お疲れさまです🙇昌さんはアメリカの土地が合ったのでは⁉️もしかして、メジャーでやっていれば、もっと活躍したのでは⁉️
昌さんには現場に是非戻って欲しい。
アメリカから帰ってきた時は、スクリュー。変化量も大きくて凄かった覚えがあります、昌さんと言えばスクリューですが、実際の全盛期はカーブとインコースの真っ直ぐのコンビネーションを良く使ってた印象があります。初球カーブで簡単にストライク取って、最後は右バッターのインコースビタビタの真っ直ぐで見逃し三振!なんてシーン数えきれないほど見ました。
さすがに山本昌さん、レジェンドだけあって、お話に生きざまが現れていますね。
その1-0で勝った試合テレビで観てました。そのときもうすでに戦力として投げられていたのに、いまさら何で泣くのかなと不思議に思ってたんですが、そういうことだったんですね。西本投手が中日で20勝した年ですね。
当時年に1~2回ある、NHKでのD×G戦放送で、解説は山田久志さんだったのを覚えてます。
89年だと先発投手は勝ってたら最低でも7回までは投げていましたね。
思い出すなぁ・・・昌さんの様々な時代。今中さんとのダブルエース時代も記憶につよく残ってます。
それにしても田尾さんの面白い話を引っ張り出すトークが良いなぁ。
楽しませていただきました、ありがとうございます!
スクリューとカーブ
パワプロ思い出した。どちらも確か凄い変化球で
他の投手でこのような変化球の投手はいなかったです
写真を差し込んでくれるのうれしい
アイクさんの写真いいですね
そして
藤王のいいときの写真がもうね
マサさんを憲伸さんも井端さんも、一番の負けず嫌い認定されてましたよ
こんばんは。人生山あり谷ありと言いますが昌さんは全部受け入れて、そしていつも前向きにやってきたんですねえ。
だからここまでの人格者なんだなあと改めて感じました。後輩の桑田コーチに桑田さんと普通に仰ってましたし。昌さんすごい。
昌さん2度目の渡米でカーブを覚え、3年後に花開いたのは素晴らしいエピソードですね⚾️
あと、レフト大島康徳、センター平野謙、ライト田尾安志の外野陣は、レフト英智、センターアレックス・オチョア、ライト福留孝介の次に好きです(^^)
ビジネスってそんなに高いんや…笑
昌さん、苦労人ですね😢
私は、初めてプロ野球観戦した時、ナゴヤドームで中日巨人戦で2対0で山本昌完封試合でした。確か対戦ピッチャー桑田だったと思います。
それが今と30年前の野球の違いかな?
今だったら少なくとも8回で交代になるだろうし
大島さんへの阪神ファンの野次は常軌を逸していました。甲子園球場にラッキーゾーンがあった時代にラッキーゾーンに入ろうとした打球を大島さんが確か2回ぐらい連続で手を伸ばしてキャッチした事が原因でしたが、だいたいからしてラッキーゾーンなんて野球の理念から完全に逸脱していると今でも思います。バスケットボールのリングの位置を下げる事と一緒かな?と。
6:31 一言多い
大先輩の田尾さんに対して、昌さんが少しタメ口口調なのが気になる
家に遊びに行くくらいの仲みたいですよ