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あー、なるほど関ヶ原から長浜に向かう時に365号線経由の山を抜けて行ったことがあるけど、25:35〜でも触れている通り、片道一車線の急勾配区間が印象的で、山道なのにやけに一直線に道が切り開かれ造られているんだなと思ったのはかつてここに線路が敷かれていたからなんですね確かに坂道を苦手とする列車であの勾配の往来は当時の技術水準からしても大変だったと思うし、開業わずか数年で別ルートへ変更されたのも頷ける気がしますまた雪が積もろうもんなら、現代でもあの直線勾配はそれなりの装備備えた車、トラックじゃないと特に長浜から関ヶ原向かう場合 登りきれないでしょうね、、なるほど、ね色々謎が解けましたれ!📝😊
鉄道は急勾配上がれないから当時の線路敷設技術と東西間の交通量や経済性を考えルートを決めていったんでしょうね。また関ヶ原の時、陣を築くのにあらかじめ食料や物資を集積出来る広さを確保出来る神社の敷地(キレイな水も確保出来そうだし必勝祈願の意味もありそう)は好都合だったのかもしれません。
【訂正】読み: 米原(まいばら)ご指摘頂き、ありがとうございます。お詫びとともに訂正いたします。
改めて見ても島津おかしい…
島津の史料では、島津義弘は本陣に影武者と兵の大半を置いたまま、50人ばかりに護られて旗指物など目立つモノを全て捨ててこっそり逃げた事になっている。首級を挙げた東軍の諸将の中には戦果報告の為に引き返す者もいるので、義弘がそれに混じって前進退却していても普通は気にしない。ただ家康本隊の前衛を務める井伊直政・松平忠吉コンビの前を素通りした事で不審がられ、職務質問されそうになったので銃撃して落馬させた後に数人ずつバラバラに逃げた。このように少数のグループ単位で降伏したり交戦した逸話が捨て奸の原型となったんだろう。関ヶ原に残された島津本隊は影武者・長寿院盛淳が討死した後、押川公近に率いられ北西にある伊吹山へ逃れるも東軍に追いつかれて降伏。押川公近は脱走し薩摩へ戻った後、再度関ヶ原を訪れて義弘に置き去りにされ行方不明中の島津豊久とその家臣団の消息を数年かけて調査した。
非常に面白かったです。街の変遷が見られて興味深い。
あー、なるほど
関ヶ原から長浜に向かう時に365号線経由の山を抜けて行ったことがあるけど、
25:35〜でも触れている通り、片道一車線の急勾配区間が印象的で、
山道なのにやけに一直線に道が切り開かれ造られているんだなと思ったのは
かつてここに線路が敷かれていたからなんですね
確かに坂道を苦手とする列車であの勾配の往来は当時の技術水準からしても大変だったと思うし、開業わずか数年で別ルートへ変更されたのも頷ける気がします
また雪が積もろうもんなら、現代でもあの直線勾配はそれなりの装備備えた車、トラックじゃないと特に長浜から関ヶ原向かう場合 登りきれないでしょうね、、
なるほど、ね
色々謎が解けましたれ!📝😊
鉄道は急勾配上がれないから当時の線路敷設技術と東西間の交通量や経済性を考えルートを決めていったんでしょうね。また関ヶ原の時、陣を築くのにあらかじめ食料や物資を集積出来る広さを確保出来る神社の敷地(キレイな水も確保出来そうだし必勝祈願の意味もありそう)は好都合だったのかもしれません。
【訂正】
読み: 米原(まいばら)
ご指摘頂き、ありがとうございます。
お詫びとともに訂正いたします。
改めて見ても島津おかしい…
島津の史料では、島津義弘は本陣に影武者と兵の大半を置いたまま、50人ばかりに護られて旗指物など目立つモノを全て捨ててこっそり逃げた事になっている。
首級を挙げた東軍の諸将の中には戦果報告の為に引き返す者もいるので、義弘がそれに混じって前進退却していても普通は気にしない。
ただ家康本隊の前衛を務める井伊直政・松平忠吉コンビの前を素通りした事で不審がられ、職務質問されそうになったので銃撃して落馬させた後に数人ずつバラバラに逃げた。
このように少数のグループ単位で降伏したり交戦した逸話が捨て奸の原型となったんだろう。
関ヶ原に残された島津本隊は影武者・長寿院盛淳が討死した後、押川公近に率いられ北西にある伊吹山へ逃れるも東軍に追いつかれて降伏。
押川公近は脱走し薩摩へ戻った後、再度関ヶ原を訪れて義弘に置き去りにされ行方不明中の島津豊久とその家臣団の消息を数年かけて調査した。
非常に面白かったです。
街の変遷が見られて興味深い。