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今回の動画でお話した視点の変え方は、まずは自分の後悔の気持ちを整理することから始まります。ぜひこちらのコメント欄につらい気持ちを表して、あなたの気持ちを整理する場所としてご活用ください。目次0:00 テーマ「遺族の後悔」1:23 視点を変える重要性3:28 ①正しい医学的情報で視点を変える6:18 ②後悔の奥にある気持ちに視点を向ける9:03 あなたに伝えたいメッセージ
夫を亡くして1年たちます。まだまだ悲しみは癒えることなく後悔ばかりの毎日です。コロナで面会もままならないなか "ありがとう"も伝えられず旅立たせてしまいました。会いたいと日々思う毎日です。
「後悔するくらい父親を愛している」そうか、そうだよね…
先生、今日も大切なお話をありがとうございました。途中で涙が出てしまいましたが、涙を拭きながら聞かせて頂きました。膀胱がんの父を在宅で看護していたのに、最期そばにいてあげられなかった事。痛みを理解してあげられなかった事。大好きだった父にもっともっと優しくしてあげたかった。照れずに手を繋げば良かった。などの後悔ばかりです。私も父の事を心から愛しているからですね。今から視点を変えて、自分の気持ちを整理したいです。楽になれる気がしますし、父も喜んでくれると思います。先生が動画をあげてくださるようになりました事、本当に感謝致します。私のこれからの人生が変わるほどの良い影響を与えて下さり本当にありがとうございます😭これからもどうぞ宜しくお願い致します。
若年の医師です。緩和についての知識が乏しいため、こちらの動画で勉強させていただいています。動画アップありがとうございます。
お父さんが辛い倦怠感とせん妄で苦しんでいた時、私は眠れずイライラしていました。「今度は何なの?」と冷たい態度をとってしまいました。あの時、私は父にイライラしたのではなくて、苦しむ父の姿を見る事、呻き声を聞く事がとても辛かったんだと思います。自分が父の苦しみに対して何も出来なかった事が辛かった。そして自分にイライラしたんだと思います。そしてその表現方法を間違えました。父が「ごめんね」と謝り、私も「お父さんのせいじゃないよ」と言いましたが、謝らせたことに後悔をしています。その後、主治医に鎮静をお願いし、あまり効かない為再度再々度相談して完全に眠らせました。それから亡くなるまで3日間、父は全く苦しまず本当に穏やかに眠ったまま息を引き取りました。私の後悔は父が一番苦しい時に父に優しく出来なかった事ですが、渋る医師と相談し父が最も辛かった倦怠感を除去し、本人が望んだ様に穏やかに亡くなる事が出来ました。私は看護師なので、鎮静の副作用も理解していたし、鎮静が効いてないと判断した時点で直ぐに医師と相談したいと訴えました。最後に父の苦しみを取る事が出来た事が私の「後悔」の軽減に繋がっていると考えます。私は鎮静剤使用によって呼吸停止が起きるリスクよりも、鎮静剤使用しない事で継続する苦しみの方が父にとって辛いと判断しました。「もう死にたい」と今すぐに苦痛をとってもらいたい父の思いを尊重しました。勿論、もう話せなくなる事もとても寂しく思いましたが、それよりも父の苦しみをとってあげたかったです。そこには私のエゴが介入してはいけないと思いました。父の看護は1ヶ月程度でしたが、始めた時から「父の意思を第一に尊重する」事を決めていました。医学用語が難しく理解出来なければ、私が噛み砕いて説明し、父が選択できる様にしました。無理して食べさせる事や内服させる事もしませんでした。ただし内服している理由と内服をやめた時に起こる症状に関しては伝えました。その上での父の決定は尊重しました。「なぜこんなに苦しいのか」と言った時は、悪液質について説明しました。私は父に浣腸したり、坐薬を挿れたり、ポータブルトイレから立てなくなった父を看護技術を用いて移乗介助したり看護師として父を見ていました。だから、父に一番必要なニーズを知る事が出来たと思います。一方で、娘としてもっと優しく接すればよかったと思います。でも、日々食欲や食べられる物が少なくなっていく父の希望を聞き、「食べたい時に食べたいものを食べられるだけ」という事を手伝う事が出来ました。朝一番のあったかいタオルでの顔拭き、歯磨き、調子のいい時はコーヒー、体拭きなどが出来ました。これは付き添う娘だから父の好きな時間に出来たんだと思います。結局、何をしても後悔は残ります。悲しいし寂しいです。死ぬ間際だけではなく、「もっと元気な時からもっと色んな事をしてあげれば良かった」と思います。でも、私は病床の父に「あんたはお父さんを遥かに超えた。今後どう生きていくか」を聞かれた時に、「海外の看護大を出て看護学士を取り、修士課程を経てナースプラクティショナーになる」と伝えました。亡くなる間際にも父に約束すると伝えました。私は「穏やかに逝かせる」という約束を守りました。父が亡くなった今、次は「海外でナースプラクティショナーになる」という約束を守りたいと思います。その為には悲しい気持ちと共に心の準備が出来次第今後の人生も頑張って歩み始めるつもりです。
私も後悔の毎日です、妻が亡くなって今日で一週間、泣き疲れ、涙も枯れた筈なのに妻の事を思うと自然と涙が零れる、そんな日々です。私の妻も60歳と言う若さで逝ってしまいました。看病の時、あの時こうしていれば死を早めなかったかもしれないし今わの際に発した言葉も聞いて(解って)あげられたかもしれないし・・と言う後悔で今悩んでいます。いっその事、妻の側に行けたらどれ程幸せかそんな事も頭をよぎります。
よくあなたのお気持ちを私に話して下さいましたね。まだ1週間、とてもおつらいと思います。そのようなお気持ちが出るのも無理はない時期だと思います。ただ、奥様のもとに行けたらという思いが頭をよぎるとおっしゃいましたが、もしまたそんな思いが出てきても、決して実行はしないでくださいね。それだけはぜひ私と約束をしてください。またおつらくなったらコメントして下さいね。
10日ほど前 がんで父を亡くしました病院にかかり入院して一ヶ月も経たずに亡くなりましたコロナで面会もできず 最後に話せた時の録音を聞いては泣き危篤の際は会いに行けましたが 変わり果てた姿の父に泣きつくしかありませんでしたなぜもっと一緒にいなかったのか 優しくできなかったのか 考えるだけで心が壊れそうですもう会えないのに この気持ちをどうしたらいいのかわからず毎日を過ごしてしまっています
大切な人を亡くした悲しみは、愛していたからこそ。だから、愛しみと書くのだと、柳田国男さんが書いています。愛せたことを感謝する供養にしたいです。
直接先生のもとへ伺うことなく、お話を聴くことができ、大変有り難いです。多くの方が、後悔の視点が変わる気づきがあるかもしれません。これからも、看護、介護の同僚と一緒に拝聴を繰り返ししていきます。
私も最後まで無邪気に両親に甘えて、今はもう恩返しも出来ない、と苦しく後悔し続けています。でも視点を変えると、二人は私をそこまで愛してくれた、私は世界で一番幸福な子供だったのだ、と気付きました。恋しい気持ちを消すことは出来ませんが。
皆様のコメントを読ませて頂きました。私は今月の18日に母をなくしました。コロナの為面会が出来なかったのですが終末期でいつ急変してもおかしくないと言うことで面会させていただきましたその際俺はお母さんの子に生まれて良かったと伝えました母はその時せんぼうが酷かったので伝わったかどうかは微妙でしたがコメントした皆様に比べたら恵まれた方なんだなと思いました。4年前にお父さん一ヶ月に兄が亡くなってお母さんと2人で頑張って暮らしていたのですが今は1人…母をなくした喪失感はそれはそれは大きいのですが視点を変えてあの手この手で乗り切りたいと思ってます…
「後悔するくらい父を愛している…。」…私も後悔するくらい両親を愛しています。
狂いそうです。苦しいです。毎日泣いてます
一週間前に、78才で末期癌の母が亡くなりました。訪問医と契約し、4ヶ月間付きっきりで自宅での看病をしました。母が自宅で死にたい!との希望でしたのでその願い通りに。私は仕事を休業し家庭から離れて、泊まり込みで一緒にいました。車椅子で散歩にも行きましたが現実は厳しく、母は日々、痛みを訴えて特に夜中になると1.2時間おきに痛みを訴えていました、私は寝不足と疲労が重なり限界に追い込まれ、つい母には、身体がキツイから!起こさないで!とか、腰痛で痛い!、介護も大変なんだから!なんて言ってしまいました。何でこんな事を言ってしまったのか、毎日仏様のように笑顔で優しくしてあげれば良かったと後悔の日々で涙が止まりません。息をするのも苦しくなります。母、私、母子家庭で育ったので、もっと親孝行したかった。今は、この辛い悲しみをどうしたらよいか、悔やんでなりません。
コメントありがとうございます。お返事遅くなりすみません。確かに介護はとても大変です。そのようなことを言ってしまう気持ちは本当によく分かります。しかし、あなたは実際には、仕事を休んで4ヶ月も付きっきりで看病をしたのです。そのことは、しっかりお母さんに伝わっていますよ。またおつらい気持ちになった時にはいつでもコメントして下さいね。
早く進む急性の癌で、 あまりにもあっという間に、夫がなくなってしまったために、これも伝えることができなかった、相手と心を交わす時間もなかった。後悔が永遠に残ることがあまりにも辛く 感じられる。でも近くに、そのような苦しみを聞いてもらってわかってもらえるところなど医者でもあるのかと、いまだにわからない。いつもいつもそのことの繰り返しで、気持ちが晴れないでいる。
母が亡くなって一年過ぎました。私の後悔は母に私が癌だということを伝えたことです。老健施設に入所している母には抗がん剤治療のために体調の良いときしか面会に行けなくなりました。母は私のことを心配していました。そんな中、母は肺が悪くなり入院しました。コロナ禍で面会も限られました。私のことを心配しながら逝ってしまいました。最期まで心配かけてしまったことを後悔しています。
コメントありがとうございます。抗がん剤治療のために、面会の回数も減ってしまうことを説明しなければいけないこともあって、がんだとお話しされたのだということを推測します。もしがんであることを言わなければ、それはそれで、なぜ来ないのかを心配されたことだと思います。私も親の立場だから思うことなのですが、親は子供に真実を言ってほしいものです。それがたとえ、つらい事実だとしても同じです。お母さんもあなたの病気を心配したと思いますが、何歳になったとしても、親は子を心配するものです。心配をかけられることも親孝行の1つだと、この歳になると思います。あなたのお母さんへの愛は伝わっていると思いますよ。
先日主人の49日の法要を終え改めて先生のおっしゃった言葉救われています。癌が発覚して主治医からもかなり厳しいことを言われ落ち込んで居るとき、先生の動画に出会って本当救われた気持ちです。先生に出会っていなければ泣いてばかりの日々だったかもしれません。
大好きな祖母が亡くなってもうすぐ2週間が経とうとしています。昨日までは側にいる者にひたすらネガティブな話をしまくっては、涙を流していました。しかし話を聞いてくれる人も疲れてきたのもあって、このままじゃまずいと思い、今日からは、悔しい気持ちが湧いた時は、諦める(あきらかにする)と心の中で復唱し、寂しい気持ちが湧いた時は、まぁ天国で幸せにしてるからいっか!と徐々に思えるようになってきました。天国を信じているからです。突然、もって1ヶ月と言われてから、自由診療から保険診療まで沢山の治療を調べて問い合わせて、セカンドオピニオンにも行ったりしましたが、結局延命のための治療は何一つできませんでした。生きたい、治療がしたい、という祖母の思いにこたえられませんでした。ただ調べるだけになってしまったと、間に合わなかった、もっと早くにその治療について気づいてやれていればと、自責の念に駆られまくりました。しかし先生のおっしゃる、医学的に正しく理解するということで、恐らくどの治療も効果が見込める段階ではなかったのだろう、リスクがあったのだろう、と理解できるようになってきています。それに、つい出来なかった事ばかりに目が行きがちですが、できる限りのことは沢山してあげられたと思います。先生の動画を沢山見させてもらってます!励みになります。本当にありがとうございます。
17年前に肺がんで父を亡くしました。父に生きていてほしい、と思うあまり、たくさん無理をさせてしまったのではないかと自責の念にさいなまれ、今でも苦しいことがあります。私たち家族が父の命にすがってしまったせいで、父は緩和ケアも満足に受けられず苦痛を増やしてしまったに違いない・・と自分を責める気持ちが止まりません。何年自分を責め続けても何もよい方向には行かないし、罪悪感の闇に引きずり込まれていくばかりでした。先生のメッセージは、私の心の奥の苦しいところに触れて、涙なしには見ることができませんでした。強い罪悪感というのは、視点を変えることすら自らに許さないような、そういう破壊的な気持ちかなと思います。でも、父を本当に大切に思うなら、父の気持ちを尊重するなら、父はきっと私がいつまでも苦しんでいるのは喜ばないと思います。だから、なんとか自分を許して、しっかり前を向いて生きようと思ってここまできました。数年前、私自身も癌になって、やっと少し救われた気になりました。父が癌になったのは私のせいではないし、父の生き方の一部分であり、治療法など本人の意思をもって決断していくものであり、自分が病気に向かい合うことで、やっと、あれは私の命の問題ではなく、父の人生だったんだと、父と自分を少し分けて考えることができるようになりました。また毎日病院にきてくれる家族がいることがどれだけ有難く心の支えになるのかも自分が看病される側になってやっとわかりました。私が父にしていたことは全否定されるようなことでも、責められるようなことでもなく、娘として一生懸命やった結果であり、逆の立場だったらたぶん全然嫌じゃない、とはじめて感じました。これも先生の仰る「視点を変える」ということなんでしょうね。動画もとても勉強になりますが、先生が書かれたコメント欄の優しいご返信のひとつひとつも私の心に沁みます。大事なメッセージを発信してくださって、本当にありがとうございます。先生の動画、全部拝見したいと思います。そして、家族や友達などの大切な人達と共有させていただきたいと思います。
コメントありがとうございます。これほどご自分を深く見つめておられることに感銘を受けました。ご自分ががんになることで、お父さんの気持ちが理解できるという、素晴らしい視点の変え方だと思いました。私は、後悔しているご家族を沢山見てきて、遺族外来をもっと広めたいと思っていましたが、RUclipsという形で、このようにお役に立てるとは思っても見ませんでしたので、とても嬉しいです。今後とも、ご感想をいただければ幸いです。
1週間前に母が膵癌で亡くなりましたしんどいと検査したら、転移だらけで、入院して20日で亡くなりました暑い時期で熱中症だと決めつけてしまい、母にキツく言ってしまったこと、丈夫な人だから大丈夫と親身になれなかったこと、今年に限って会いに行ってなかったこと、よく怒ってしまったこと、だからしんどさを我慢させてしまったんじゃないか、どうして、もっと話しを聞いて、体調もみてやれなかったのかとか、後悔と哀しみが溢れるばかりです何より、本人が突然命が終わってしまいショックだったんじゃないかとかそれでも、コロナ禍に最期の時間5時間ほど兄弟で、母の手を握り、体を撫で、看取れたことだけでも良かったと思いたい葬儀の飾りや花を見ながら、こんなことじゃなく、もっと話しもしたかった、私達と居たかったんだろうなと思いましたでも、この動画に出会えて良かったです
母が63歳の時に、肝臓癌で亡くしました。診断から、あっという間の出来事でした。実家は飛行機で2時間以上のところで、私は仕事もありなかなか帰省できず、看病を父と姉に任せ、看取ることも出来ませんでした。なぜあの時、仕事を辞めて実家に帰れなかったんだろう。自分が生きるのに必死だったから。それでも、帰るべきだった。恩返しできる期間は限られていたというのに。わかっていたのに。母は、きっといいよと許してくれる。優しい人だったから。だからこそ辛い。最期の最後まで母に甘えてしまったことが。10年経っても、後悔が消えません。
私も、9ヵ月前に52年ぶりに再会した親友を肺がんで亡くしました。再会から1ヵ月後に大腸ガン、3ヵ月後に肺がんと診断され、何故今の再会?と、怖くなりました。自分の役割を与えられたのか、それとも疫病神なのか、運命はどうあれ、自分の人生の集大成の寄り添いをしたつもりでしたが、突然の死は今だに呑み込めません。ただ、先ほどの言葉が、私には救いでした。苦しさを抱えている多くの方に、知って頂きたくコメント投稿させて頂きました。
コメントありがとうございます。あなたもとてもつらかったと思います。視点を変えるという意味で、お母さんの視点で考えてみることはどうでしょうか。ちょうど私は、当時のお母さんと同じくらいの歳で、子供もいます。子供が仕事の忙しい時期でしたら、そのことを優先させることは、お母さんからすると逆に嬉しいことだったのかもしれません。最後の最後まで、自分に甘えてくれるということは嬉しいものですよ。お母さんに、とっても可愛がられていたのだなと視点を変えてみるとどうだろうと私は考えました。また、お母さんに「ごめんね」と言う代わりに「ありがとう」と言ってみてくださいね。
私は61歳夫を亡くして4か月になりました。夫は65歳でした。後悔の日々こちらの動画に出会いました。抗がん剤治療が終わった矢先に間質性肺炎になり亡くなってしまいました。もっとちゃんと夫の体調管理をし早く病院に連れて行けば良かったと。視点を変える。やって見ます。ありがとうございました。
先生はじめてコメントしますありがとうございます
母を乳癌で亡くしました。最初の乳がんの治療から5年後に再発。手術・抗がん剤、放射線治療をしたあと、定期検診をしていたのですが、約3年後くらいに足が痛いと言ってましたが、主治医には大丈夫でしょうと言われていたのですが、痛みが続いたので心配となり他の先生に相談したら足の骨に転移しており、また肺にも転移していました。この出来事のとき、悪気はないと信じたいのですが、主治医が足が痛いとか言ってた?と母に言っていたのですが、これに私はかなりショックを受けてしまいました。母は主治医に痛みを伝えていたのに、、。もし私が早く気付き、他の先生にもっと早く相談していたら、、それから、胸部CTをもっと頻回にやって頂いていたら、母は今でも生きていたかもしれない、、そんな風に思ってしまい、苦しくなっています。医学的なことは解らないので検討違いな悩みかもしれないのですが、先生が何気なく言ったかもしれない言葉が今でも気になってしまい、辛い気持ちを持ってしまっています。母が亡くなったのは私のせいだと思ってしまいます。生きているのが辛いです。
コメントありがとうございます。まずは医学的な説明をさせて頂きますね。実は乳がんは特別ながんで、再発や転移が早く見つかっても、遅く見つかっても、余命に大きく変わりはないという事実があります。不思議なことですが、乳がんに限ってはそうなのです。ですから、あなたがもっと早く気付いていれば、と思うかもしれませんが、実はそうではありません。あなたのせいではないのですよ。あなたがお母さんをとても大事に思っていたことは、あなたの文章からとてもよく分かります。あなたの愛の気持ちは必ずお母さんに伝わっていますよ。
@@drtosh お忙しい中ご返信頂き、また、お心を寄せて頂きまして、本当にありがとうございます。母の死から時間が経つほどに後悔の気持ちが増していました。周りの家族が少しずつ日常を取り戻している姿にすら悲しみを覚える程でした。今回、勇気を出して初めてコメントをさせて頂きました。乳がんについて初めて知ることだったので驚きましたし、同時に子どもの様にわんわん泣いてしまいました。私のせいではなかったと伝えられ、重りのようなものが一つ取れるような、安堵のような、、言葉にするのは難しい何とも言えない感覚でした。母のことを大切に思っているからこその苦しみ、後悔の気持ちだったのだと知れたこと、それからその後悔の思いは、医学的な見地から、考える必要がないことであったと知れたこと。色々な思いが溢れました。母は、私にとってかけがえのない人でした。それが先生に伝わったとしたら、きっと母は私の愛に気付いていたのだと思えました。先生に救われました。今日を一歩ととらえ、一進一退になるかもしれませんが、素敵な母を知る一人の人間として歩みを進めたいと思ったところです。お近くなら直接お礼に伺いたいくらいです。歩みを進めることがお返しとなると思い、無理はせずにやっていきます。本当にありがとうございました。
とても参考になるお話、ありがとうございます。今、家族が肺がん末期で入院中でモルヒネオピオイドを使い、絶望から抜け出せず、死を待っている状態です。まだ若いのに。家族としてもう何もできない無念さ。肺がんに10種類もある分子標的治療薬を一つも使わず見送ること。本人にもう気力がないので。そして私自身がこのことに捕らわれ、自分の家庭を崩してしまいそうな恐怖。断ち切って自分の人生を生きなければと思うけど、その強さもなく。
そんな苦しい中コメントをして頂きありがとうございます。とてもおつらいと思います。無念ですよね。あなたに今1番必要なことは、あなたのつらい気持ちをどこかに、安全に出すことです。安全にという意味は、良いとか悪いとかを判断されず、ただ受け取ってくれる人に、あなたの気持ちを出すということです。もし、そのような方がいない場合は、ノートにあなたの気持ちを書き綴ってみても構いませんし、このコメント欄に書いていただいても構いません。まずは自分の気持ちに、正直に向き合ってみて下さい。必ずあなたのためになりますよ。
父を先月亡くしました。入院して2週間でした。コロナ禍もあり最期も見取れませんでした。胃癌でした。なぜ気づいてあげれなかったのか入院から最期まで たった1人で病室にいた父を思うと 苦しくて悲しくて どうにもなりません。
コメントありがとうございます。がんによってはとても早く進行してしまうので、気付いた段階で治療ができず、あっという間に亡くなってしまうという患者さんもいらっしゃいます。私もしばしば経験しています。気付いてあげられなかったことは、医学的にみても、あなたのせいではありません。まだ先月の出来事なので、気持ちが落ち着くことに時間がかかるかもしれません。もう少し時間が経ってあなたが落ち着いたら、もう一度この動画を観て頂けたら嬉しいです。
ありがとうございます。穏やかで優しい自慢の父でした。最期ぐらい手を握ってあげたかったです
先生はじめまして。母を膵がんで亡くして私も後悔ばかりの日々です。治療の方針など、あなたに任せる、あなたがいいと思うものでいいと母は私を信頼していました。勿論その時その時で最善と思える選択をしましたし、看護師さんお医者様も選択は間違ってなかった、仕方なかった、病気の方が手強かった…などと言ってくださいました。私もそう納得するしかないと思うし、別の選択をしてもそれが本当に正解だったかどうかは誰にもわかりません。もし同じ境遇の人がいたらあなたは間違ってないと声を掛けると思います。しかし自分に対してはそれはできず、頭ではわかっているつもりですが、でも結果的に正しい方を選べなかった私が母を死なせてしまったという後悔がぶり返します。長くなってすみません。
コメントありがとうございます。本当に1つ1つの選択が、あなたにとってとても重いものだったと思います。とても頑張られたと思います。この動画でもお伝えした、視点を変えてみるということができたらとても良いと思います。あなたの話を聞いて、私が考える2つの視点をお話しますね。治療のことを詳しく説明してもらっても、お母さんには難しくよくわからないものだったり、どう決めていいか分からなくて、自分で決めろと言われても決められなかったのかもしれません。だから、あなたがお母さんの代わりに、そういった選択をしてあげることで、お母さんの重荷が減ったのではないか、と私は思います。もう1つの視点は、お母さんは、信頼しているあなたに治療の方針を任せるという「選択」をしました。だから、あなたがどんな選択をしても、それはお母さんの選択です。「結果的に私が母を死なせてしまった」とあなたは思っていらっしゃるようですが、あなたの選択が正しいか正しくないかというよりも、それもお母さん自身の選択だと考えることもできますね。これらの視点が正しいかどうかはわかりませんが、このように視点を変えることであなたが楽になれたら嬉しいです。
@@drtosh 先生ありがとうございます。いつでも私を信じてくれる母でした。それなのに母を助けられず、私を育てた母の苦労を知りながらそれに見合う人間にもなれず、信頼に応えられない私のようなものが母の子供で申し訳ないという気持ちでいっぱいです。先述の通り母は治療方針を私に任せていましたが、再発してお医者様から抗がん剤再開か緩和ケアのみにするかを尋ねられ、抗がん剤をまたやりたいと答えたのは母でした。手術すれば治ると母は考えていたので再発はショックだったはずですが生きる意欲を自分から明確に示したのです。母の残りの人生に関する大きな決断のひとつを母自身がしてくれたことで、私も救われていたのかもしれません。長年母と二人暮らしで支え合って生きてきました。半身がもぎ取られた感覚もいつかは慣れ、忘れていくでしょうか。
お話を聞いて、お母さんが自己決定できていたこと、本当に良かったと私も思います。悲しみはだんだん癒えていくと思いますが、もしいつまでもおつらいようでしたらコメントしてくださいね。
癌ではありませんでしたが2か月半前夫が急逝しました。亡くなる一週間前なんとなく様子が変だな、亡くなる前日も変な様子だったのでその時に無理に病院に連れて行けば突然死することはなかったかもしれないと思うと後悔の気持ちで一杯です。まだ60歳でした。最愛の夫を亡くして毎日泣き、後を追いたいとばかり考えて前向きになることができません。
最愛の夫を肝腎症候群で亡くして3日。45歳という若さ。いまだに後悔しています。彼は緩和ケアを望み、家での死を選択していました。退院して訪問医等と契約し、では明日から頑張りましょうと言っていた夜に急変。腹水で胃や肺が苦しくなり、激しい呼吸困難に陥りました。兆候が見えた時から看護師等には相談をし、薬を足しても効果無し。喘ぐ様な呼吸になった時「救急車を呼んでくれ」と言われました。でも私は訪問医・看護師に指示を仰ぎ、結局はやることが一緒であることや緩和ケアを選択したことで救急車は呼べないと彼を説得してしまいました。でも、3時間も呼吸困難状態にさせてしまうくらいなら、家に帰れないとしても蘇生的処置をしてもらうべきだったんでしょうか…。ちなみに、もう腹水を抜いてもしょうがないくらい内臓に水が入り込んでしまっていたそうです。肺に入ってしまった水によって常に溺れている状態だったのでは無いかと医師には言われました。血液も薄まっていたので挿管時の出血で旅立ってしまう可能性もありました。それでも呼んだ方が彼は納得したんではないか…今では正解がわかりません。途中、意識レベルが低下する痛み止めの点滴を打ってもらいました。完全に意識を手放すまでの間、感謝の気持ちやどれだけ楽しいことがあったか、どれだけ愛しているかを伝え続けました。これは救急車を呼んでいたらできなかったかもしれないとは思っています。彼の父親にも電話をし、耳元にスマホをあてて彼と会話もしてもらいました。もちろん、訪問医に本当に救急車を呼んではダメなのかと聞いています。でも、後悔ばかりです。彼は本当に辛い時、私に息を吹き込んで欲しいとまで言っていました。私は精一杯の事をしたんだと思う反面、最後の最後で彼に選択権を上げなかった事を後悔しているんだと思います。身体的最善と意識的最善、どちらも取ることができたら…とどうしても思ってしまいます。
はじめまして。私も母に最後まですい臓がんであったことを伏せていました。ドクターも、もうお腹の中で散らばっていて手術ができないのです、とだけ説明し、配慮してくださいました。そのことに後悔は有りません。ただ、元気だった頃、もっといろいろと助けてあげられたことがあっただろうと、その事が後悔です。曖昧な知識で、母の食欲が出た食べ物も禁止してしまいました。病気によくないよと。それも後悔です。もう私は、自分は一生苦しめばいいのだと思いながら毎日をただ過ごしています。
コメントありがとうございます。確かに多くの方は、あなたのように後悔されます。しかし、あなたが後悔していることは、あなたのお母さんのためを思って言ったことではないですか?私がお母さんの立場に立って考えると、そのことを今はわかってくれているのではないでしょうか。そして、あなたにそんなふうに思ってほしくはないと思います。おせっかいかもしれませんがコメントさせていただきました。
主治医がDr.Toshi先生だったらどんなに救われた事だろう。。と、つい比べてしまい涙。上手く言葉に出来なくてもどかしくまとまりのない文章で申し訳ございません。遺族への説明もなく、主治医は外出中 病室に医師も看護師も居ないなか 私、ひとりで送りました。入院計画書もなく、薬も点滴こちら任せ、お腹が痛いと訴えてるのに診て看てもらえず何のために此処に?(何処か診てくれる病院ないかなぁ)とベッドに横たわったまんまつぶやく主人。心が折れる音が。。。胸水も腹水もひどく立って歩いてるのが不思議 あと数日と言われ 5ヶ月 気力で頑張ってたのにせめて人間らしく接して貰えてたら私も考え方を変える事が上手く出来たのかもしれません。
コメントありがとうございます。あなたのお話を聞いて、こんな病院があるのかと驚きました。それは、確かに緩和ケア病棟のある病院に連れて行ってあげたかったですね。本当に残念だったと思います。そのような病院が少しでもなくなるように、私も努力精進いたします。また、おつらいときはいつでもコメントしてください。お待ちしています。
先生、今日も有り難うと御座いました🙏今1番良かったと思えることはモルヒネを使ったことです。痛みが強くなれば、㎜を上げて貰え本当に良かったと思います。 放射線医師の先生が、痛みを和らげることが1番だから、時間を気にせずに使って良いよと言って貰えました有り難い先生でした。 妄想?が出ますが、私は、その話に食い付き、楽しい話をしました。応えてあげる事が1番だと思いました。有り難うと御座います🍹お疲れ様です。
コメントありがとうございます。いい先生に出会えて良かったですね。せん妄が出た時に、楽しく会話をするということはとても良い援助だったと思います。きっと喜ばれたと思いますよ。
@@drtosh さん、、、、、先生、聴いて下さい〔笑〕 自宅で酸素吸入器を使って居たのですが、酸素吸入器の上に牛が乗っている!よく乗れたもんだね~とか、ベットの上で、電気照明の紐を垂らして有ったのですが、夜中に起き、紐をクルクル編む行為父ちゃん、どうしたの?と尋ねると、建設現場の足枠を造っている所なんだよと言って楽しそうに編み込みしておりました。気を付けて枠組みしてねと言い返し見ておりました✌過去のことが蘇るみたいです。〔建設現場で働き、農業者で牛も飼っていた〕聴いて頂き有り難うと御座いました🙏
人間で完全はありません、悲しみから私は逃げませんが、亡くなった人に思いを巡らします。今はなくなった人達と、天国への道を駆け足で行っているだろうから頑張ってくださいとか、いつか見守って音とか呟いています、やがて私達の背後に回り生きる為の知恵とか勇気をくださいます、涙でなく天国へ早く到達できる祈りに変えましょう。
1ヶ月ほど前に心筋梗塞で最愛の父を亡くしました。糖尿病という基礎疾患を持っており、最近ではなかなか薬が効かなくインシュリン治療に切り換えることが決まった矢先でした。インシュリン治療をしてもっと一緒にいたかった‥低糖質料理を作ってあげたかった。あの時、あの時‥と後悔ばかりです。でも、視点を変えると父が大好きで愛していたからこその後悔なんですね。父にとって初めての子供になるわたしは父が名前をつけてくれました。社員旅行にもわたしを連れて行ってくれました。お姫様になりたい!というわたしに薔薇の門をくぐって登下校できるようにアーチを作り美しい薔薇を育ててくれました。素敵な自慢の父でした。わたしが愛したように父もわたしを心から愛してくれていたんですね。だったら、わたしと同じように父も寂しい思いでお別れしたんですね。愛しているからこその悲しみ、後悔なんですね。
偶然アップされていた先生の動画。惹き付けられてここに来ました。母は希少癌でした。右眼球を摘出したのが9月。11月から放射線治療を施しました。年が明け、5月には全身に転移。7月に緩和ケアに入院し、8月に亡くなりました。「半年や一年で亡くなるようなことが予測されれば眼球をとるのはやめてほしい」と主治医に言いました。「どうなるかは僕にもわかりません。でも、今とらなければ、目から癌が顔に進行したら顔半分をとることになりかねませんし、痛みも激しくなってしまいます。」、、、私はずっと後悔しています。どうせ死んでしまうのなら、右眼を残してあげたかった、と。そばについていながら、まさか母が本当に死を迎えると思わずに呑気にいたことも。この4年近く、毎日、後悔と懺悔と悔恨の日々。母を思えば想うほど、苦しくて悲しくてせつなくて、自分が許せません。何をどうしたらいいのでしょうか。
コメントありがとうございます。あなたの他のコメントも読ませて頂きました。まず医療的な側面から私の考えをお伝えしますね。もし、お母さんの眼を残していた場合、顔面は多くの神経や血管があるので、主治医の先生が仰ったように、痛みが相当なものになり、匂いや出血のリスクもあったと思います。最期は穏やかに旅立たれたということですので、眼球摘出は医学的にも、お母さんの症状緩和という意味でも、適切だったと思います。次に、動画でもお話しましたが、あなたは4年も後悔するほど、お母さんのことを愛しているという事実を知ってほしいと思います。お母さんは、最期まで普通にご家族と団欒を過ごせたことが幸せだったのではないでしょうか。私ならそのような最期も悪くないと思います。多くの患者さんからもそのような声を聞きました。そのような視点で、一度、ご自分の気持ちと向き合ってみてはいかがでしょうか。
@@drtosh 優しいお返事をありがとうございます。私は母に感謝してます。母は守ってあげたい大切な人でした。先生、ありがとうございます。眼球を摘出したから、痛みが緩和されたのですね?母に酷いことをさせたのではないですね?匂いや出血のリスクまでを考える知識もありませんでしたが、先生に教えていただき、魂の救済をしていただいている思いです。亡くなる前日まで、たった一口の食事を摂るのにも、膝を揃えてキチンと座り、手を合わせて感謝しながら口に運んでいた母。亡くなる2時間前まで介助したらトイレに行けていた母。その我慢強く生き抜いた母の姿は私の目標です。母がそれをやり遂げることが出来たのは、まずは、眼球摘出をしてあったからなんですね。痛みがまだ、マシだったからなんですね。ありがとうございます。感謝します。
初めまして、いつも患者と遺族の目線での解りやすいお話、大変有りがたく見させて頂いてます、ありがとうございます。私の後悔は6年前にすい臓がんで亡くなった母への後悔です、今考えると自分の気持ちを優先しただけなのではないかと思えて仕方ありません、それは、体の異変に耐えてる母に対して、このまま抗がん剤治療を続けるか、緩和ケアにきりかえるのかを選択させた事です、結果、緩和ケアを選択しました、その一ヶ月後に急変して亡くなりました、夢にでてきて、もう少し生きたかったのにと言われ、更に後悔が増し苦しいです、母とはいえ人の生き方を左右させてしまう権利は私にはないのにと悔やんでも悔やみきれません、これ以上苦しんだ姿を見たくないばかりに間違った選択をしたんではないかと思い苦しいです、私はあの時あんな選択をさせてしまったのかと苦しいです。私は間違ってたのでしょうか。
コメントありがとうございます。あなたのお話を聞く限り、あなたはお母さんにきちんと自己決定をさせてあげたと思いますよ。ですから、お母さんは自分で抗がん剤治療をやめるという選択を行うことができました。また、私の経験では、もし抗がん剤治療を続けていたら、お母さんはさらに苦しみが増していたのではないかと思います。医学的に見ても、あなたがした選択も、お母さんがした選択も正しい選択だったのではないかと思います。
お忙しい中で早速のお返事ありがとうございます、先生のお話を何回も何回もよ見直しながらあの時を思いだして先生のお言葉を重ねてみました、そうなんだと気持ちの整理ができるんじゃないかなと思いました、苦しくなるたびに先生のお言葉を読み返しながら前向きにとらえていこうとおもいます、本当にありがとうございました、ありがとうございました。今後の動画を楽しみにしております。
父が他界して2ヶ月になります。85歳でして。ガンは最後まで見つからなかったのですが、吐血して入院3週間、退院後、浮腫みで診てもらうも肝臓悪いから仕方ないと帰され、お腹も膨れて来ました。母は反対したものの子どもたでセカンドオピニオン、そちらでは肝臓は悪くないと言われました。胃腸のつなぎ目を良性ポリープが塞いでしまって固形の栄養は落ちない状態と判明、低栄養でチカラもなくなり点滴するも間に合いませんでした。不調ながらも日常を送っていたのに、再度の入院ではトイレも立てなくなり(立てたが半ば強制的にオムツになりメンタル低下)、42日間の最後は口中ボロボロで水も口にふくめなくなりました。初めての介護保険認定もとても時間がかかり、本人帰りたがっていたので在宅にしたくても各種手続き、母に理解もらうこと、病院の指示や指導と準備を整えている間に亡くなりました。先生のお話のように、父が大好きだからこんなに悔やまれ、何を見ても涙が出て、時にはおいおい泣けてという日々なのだと感じます。加えて、世代もあるのでしょうが夫婦とは?と母の現実的な、と言うよりもう夫は亡くなるだろうという前提の行動にガッカリ残念で腹立ち、まだそれは自分の中で未消化です。乱文長くなりました。先生の動画は父の他界後知りました。思い返して納得したり、今回のように支えて頂けること有り難く思っております。
おつらい中コメントありがとうございます。いろいろ大変でしたね。あなたはとても頑張られたのだと思います。今は色々なことに感情が揺さぶられるのは当然だと思います。いつでもコメント欄をあなたのお気持ちを整理する場所に使ってください。コメントお待ちしています。
@@drtosh 先生、あたたかなご返信頂きありがとうございました。とても嬉しく励みになります🙇♀️セカンドの初診日、せめてその日だけでも一度帰って大好きなお風呂に入れたなら…今、しぶしぶ入院の決断を下した父も思い出しました。昨日は土砂降りの中の運転「お父さーん」と何度も叫んで泣きました。コロナ禍ですが容態が悪かったので病院の先生は面会させてくれ、最後も私と妹が側に居られました。これからも沢山父に愛を送ろうと思います。先生のお優しさに心より感謝しております🙏
年末父を亡くしました。胃癌であっという間に亡くなってしまいました。毎日涙が溢れてしまいます。亡くなった後とある関係者の方から、父が元気な内から身辺整理をしていたこと、私の話をしょっちゅうしていたことを聞きました。一人っ子の私に面倒かけまいとしてくれていたのに、私は父に強く当たったり、冷たくしたことに後悔の日々です。なんでもっと優しくしてあげられなかったのかと悔やみます。今悔やんでも遅いのに。母の時は時間が少しずつ和らげてくれたのと、父がいたからやってこれたけど、両親共がいなくなり、寂しくて、会いたくて、毎日夢に出てきてほしいと願っているのに出てきてくれなくて、辛いです。視点を変える、少し気持ちが落ち着いてきたら、意識してみようと思います。
ありがとうございます。先生のこの動画で少しずつ気持ちが落ち着いて来ました。只がん患者さんの中には敗血症の処置の為に透析を勧められましたが、透析の理解が間違っていて、半永久的に透析をされて腎臓移植を待たれている患者さんのイメージが浮かび断っていました。もしあの時透析をお願いしていたらと後悔しています。暫くして救命センターに搬送されて透析のイメージが間違っていた事に気づきました。
コメントありがとうございます。先ほど別の動画にもコメントして頂きましたよね。少し落ち着いてもらえてよかったです。確かに「透析」という言葉には、慢性腎不全の治療のイメージがどうしても強いですよね。がんの患者さんの急性期の治療で、透析をする時には、もっと丁寧に医療者が説明しなければいけないということを、あなたのコメントで教えて頂きました。ありがとうございます。遺族の方は、どれだけ精一杯のことをしたとしても後悔は残るものです。それほど、大切な方を愛していらっしゃったのだと思います。あなたの気持ちの整理にこの動画を使っていただければ幸いです。
今日は母の日ですね。私の後悔は、最後の母の日に大好きなカサブランカの花を買って、お母さんありがとう。と言えば良かった。と20年前に思ったのをおもいだしました。今年娘も成人式を迎え、母が選んだ着物で写真を撮りました。お母さんありがとう。
コメントありがとうございます。あなたのお気持ちは、天国のお母さんに伝わっていると思いますよ。きっと20年前もそうだと思います。娘さんの成人の着物姿、お母さんも喜んでおられると思います。
今、うつ病アドバイザーの資格を取得し何かお役にたてたいと考えてます。自宅に以前の仕事で30畳程の教室があるので、集まりの場として利用させて下さい。
父が昨年6月に75歳で膵臓癌で亡くなり、70歳の母は1人暮らしになりました。間もなく1年が経過しますが母の落胆と不安感が強く、食事を作る気力もあまりなく、部屋に1人膝を抱えて時間を過ごすことが多いようです。以前から神経内科に通院しています。悲観的な母の様子がとても心配です。
コメントありがとうございます。あなたのコメントを見る限り、お母さんはうつ傾向にあるのかもしれないと思いました。一度、お母さんの診察について行って、主治医にお母さんの状態を相談してみてください。もし心配であれば、心療内科や精神科に紹介してもらってください。
お忙しい中、返信を頂き有難うございます。少しでも早く前向きに生活していく心になれるよう、サポートしていきます😌
私も後悔の毎日です。2018年に夫を亡くし、2020年に父が肝臓癌破裂でなくなりました。母と2番目の、姉は看護婦長女は、介護士、私も介護士をしていたので、ある程度心構えはしていました。ただ、私は九州に住んでおり、実家には、1000キロ以上離れており、コロナの緊急事態宣言が出た直後でした。正直帰りたかった。でも、母親に止められ行けませんでした。最後の挨拶ができなかったのもあり、どこかまだ信じれない部分が残ったまま生活して、後悔しています。不眠症になったり、仕事に行けなくなるよな体調不良を起こしたりしていました。でも今回の動画を見て、少し気持ちが軽くなりました。辛いことがあっても子供たちの前では見せない、明るい元気で、お調子者のお父さんが大好きでした。これからは少し視点を変えていこうと思います。
私は、もうやれる事は、やったと思っています。ただ、これで絶対苦しくなかったのかと、聞かれました。私は、その誰もあの世に、いって戻る事葉、ないのでわからないと、答えました。余りにもなり、鷲田清一さんに、私は、私のおこないが、悪かったのか、聞きました。私の事を知っている人でもあります。あなたに、とってとても大切なことであったと答えもらいました。ある緩和学会出会い、その前より、こうえんで、お話している人です。臨床哲学好きで、大好きな哲学者です。でも私は、少しまだ迷い有ります
母の治療の判断に何度も誤り後悔している。その病院には定位放射線はない。と半年後に知る。呼吸器内科の医者は、2ヵ月たって、泌尿器科の医者は、5ヵ月たって治療を始め、失敗し、悪くなるばかり。廃人のようにして殺しかけ何とか一命をとりとめたり(この時、脳他に傷をつけたか)、診断や薬を間違えたり、患者をずっと苦しめた。状態を見てか見ないでか、重大な副作用のある薬ばかり出す。他科受診を拒み、「分からん、分からん」と素人のような、説明もしない、「我々を信じてください」「大丈夫ですよ」「他に悪い所はありません」と詳しく調べず正直さのまったくない医者だった。病状が悪くなり、指摘した時には、もう遅い。それでも「大丈夫ですよ」という。違う病院の呼吸器内科医師は、紹介状を持って行ったが、状態の悪い母をストレッチャーから車イスに乗せかえ診察室にいれ診察をせず、2週間後の予約をとり、救急での、脳検査(脳出血)の結果を無視した。脳の薬(症候性てんかん)の重大な副作用にも、相談にのってくれなかったし、1番大事な脳の薬を除いた。1番大事なのは、救急で言われた脳だった。3ヶ月寝かせられてばかりいたから、脳の詳しい症状を知らなかった。呼吸器内科医師は、症状を見ていたのに、母に「たいへんだったね」、看護婦は私に「先生に任せとけば大丈夫」と油断させ、「母を見ているから会計に急いで行きなさい」と言い、福祉タクシーが迎えに来ていてあれよあれよという間に帰された。3日後泌尿器科医師は、紹介状を持って行ったが、診察も検査結果の説明もせず、薬の重大な副作用の相談にも1種類しかないと突き放した。調べたら他の種類の組合せもあった。「異常じゃん」と笑っていた。次の日救急車で運ばれた。感染症多臓器不全。あと、余命2年と言われていた母は亡くなった。呼吸器内科医師が検査してくれてたら、治療してくれてたら、泌尿器科医師が検査結果を説明してくれてたら。母は右小細胞肺がんでした。最初1.2センチと7ミリでした。転移はしていないとのことでした。がん専門病院に行っていたら、まだ生きていると思います。病院選択を誤り私が母を殺しました。立ち直れません。生きるのを一生懸命な母でした。どういう考え方をすれば私は立ち直ることができますか?
父を急性大動脈解離で亡くしました。その日は旦那と小さい子供(2ヶ月)マンションにいました。姉からLINEが来て父が仕事場から肩の痛みで帰ってきたと伝えられてぎっくり背中だと言われたのでお大事にしてくださいと返信したのが最後でした。その夜急変したのか母から心肺停止状態と聞かされ、病院に向かうまで蘇生できないのかといいました。できないといわれて覚悟して、ありがとうと伝えといてと泣きながら言いました。私が病院に着いて顔を見た時刻が死亡時刻になりました。父はもう亡くなっていましたが手を握り、腰が抜けました。姉からのLINEの時に、病院にすぐ行けと言えばよかったかな。とか思っています。父と私は顔が似ていて性格も似ていて、そばにいたら絶対すぐ行動してたんじゃないかと後悔しています。
急性大動脈解離?私の父も3年前に急性大動脈解離をやりましたが、私が病院にひっぱり出し、九死に一生を得ました。いま父はたぶんCOPDと思うが、病院にいこうとしません。父が心配です。母は白血病で急死してます。大動脈解離つながりで、コメント書きました、こちらは助かりましたが、父が亡くなると1人暮らしになってしまう。怖いんです。
半年前に父を肺がんで亡くしました。それからずっと今日まで後悔ばかりの毎日です。一体いつまでこんな辛い日々が続くのかと自分自身でも不安で仕方ありません。父が望む通り終末期は自宅で在宅ケアを施してあげられたのにそれなのに何故…未だに気持ちが報われずとても辛くなります。癌と判明してから1年未満で亡くなってしまったからその余りにも早過ぎた父の死に対して遺族として向き合えていないのでしょうか?やはり時間が経てば何れは落ち着くものなのでしょうか?
コメントありがとうございます。どんなに良くしてあげようと思っていても、思った通りに行かないことは本当によくあることです。あなたは、十分すぎるほど向き合っていると思います。あなたに必要なことは、あきらめることかもしれません。あきらめるとは、良いとか悪いとかを判断せずに、事実を明らかにするということです。文面からしかわかりませんが、あなたは本当は、お父さんを自宅に帰らせてあげたかったかもしれませんが、何らかの理由でできなかったのだと思います。無理をすればできたのかもしれないと思っているかもしれませんが、事実としては、家に連れて帰れなかった、それだけかもしれません。できたことはできた、できなかったことはできなかった。このことをあきらめる(明らかにする)。あなたの気持ちに整理をつけてみてください。
@@drtosh は
後悔はしています、セレネースを早く手配してもらうべきだった。コロナの為 自宅で看取りました。チームの方々から一様に 鎮静=眠る時間がほとんどになると説明を受けていましたが、ちょうどせん妄が起こり始めていた父はほぼ眠ることはなかったです。なんというかアクティブでした。「薬が蓄積するのを待っ」たり「様子を見て増やす」のは、間に くるしみの時間がある為 家族にも本人にも苦痛でした。結局皮下注も単位も少し増やして坐薬も満量で使いました。薬の量を判断するのも辛かった。注意された呼吸抑制というやつが起きているのか?と思うほど、薬が効いている時間は大人しくはなりましたが苦しそうな呼吸でした。説明を受けた鎮静とはだいぶイメージが違いました。訪問医がきてくれ、セレネース注を打ってくれ、ようやく6時間くらい、穏やかな呼吸で連続で寝るところをみました。結局セレネースを打っていただいたのはその1回で、やはり苦しそうになってきた、セレネース注が今までで1番よかったし、もう一度お願いしようとした矢先旅立ちました。病院では医師が様子を見ながら薬もすぐ調整してくれますが、自宅ではちょっとしたアクションを家族が判断しなくてはならず、また知識がない為正確な状況を伝えることができませんし、信じてもらうこともできませんし、自分たちでも起きていることを理解できません。(一度身内の看護婦が下顎呼吸が見受けられましたが、訪問看護師がこの段階でそんなわけない、と。ならそうなんだな、と思っていたら、翌朝医師には、父は前にも下顎呼吸をしていたから、昨夜もそうだったかもしれないね、と。)見てほしい具合の時にプロがいるわけでもなく、薬が1番効いているタイミングで訪問を受ければ、家族が状態を「説明」するし、我々も「説明」を受け入れるしかなく、、正直言って苦しかったし、父が苦しい時間が長かったと思います。急な容態変化だったため、まるで判断を誤り薬漬けにして呼吸抑制を起こし殺したような感覚すらあります。初めからセレネースで落ち着かせていたら、もっと少ない薬の量で穏やかに自分のタイミングで死ねたのではないかと。。
看護チームの方はみんな昼夜土日を問わず走り回ってくださって、みなさんそれぞれの立場でそれぞれの情報で最善を尽くしてくださったと思う、驚くほどの手厚さを知って感動すら覚えた。でもあれほどの苦しみの中で死ぬ時に 家にいること なんてどの程度の慰めになるだろう??死んだ父も周りも誰も誰かが悪いなんて思っていないし、私だってあれは父の病気で私はできる限りの手助けをしていただけだ。医療関係者を含め 確かな不治の病に 労力と心を注いでくれた。でも父には足りなかったし、実際セレネースをゴリ押し要望するチャンスは私にはあった、死をよく看取る看護婦さんが親戚にいたのでヒントはあったから。でも自分が後悔するほどの知識持ちじゃないのも知ってる、転がるように具合が悪くなるとは知っていたけど、想像を超えていた。その時には緩和、鎮静をしてもらうと思っていただけで、緩和、鎮静の選択については考えていませんでした。もっと前から緩和鎮静の薬選択の分岐点を知っておきたかった。実際選択をできるようなスタートではなかったけれど…
今回の動画でお話した視点の変え方は、まずは自分の後悔の気持ちを整理することから始まります。
ぜひこちらのコメント欄につらい気持ちを表して、あなたの気持ちを整理する場所としてご活用ください。
目次
0:00 テーマ「遺族の後悔」
1:23 視点を変える重要性
3:28 ①正しい医学的情報で視点を変える
6:18 ②後悔の奥にある気持ちに視点を向ける
9:03 あなたに伝えたいメッセージ
夫を亡くして1年たちます。まだまだ悲しみは癒えることなく後悔ばかりの毎日です。コロナで面会もままならないなか "ありがとう"も伝えられず旅立たせてしまいました。会いたいと日々思う毎日です。
「後悔するくらい父親を愛している」そうか、そうだよね…
先生、今日も大切なお話をありがとうございました。
途中で涙が出てしまいましたが、涙を拭きながら聞かせて頂きました。
膀胱がんの父を在宅で看護していたのに、最期そばにいてあげられなかった事。痛みを理解してあげられなかった事。
大好きだった父にもっともっと優しくしてあげたかった。
照れずに手を繋げば良かった。
などの後悔ばかりです。私も父の事を心から愛しているからですね。
今から視点を変えて、自分の気持ちを整理したいです。
楽になれる気がしますし、父も喜んでくれると思います。
先生が動画をあげてくださるようになりました事、本当に感謝致します。
私のこれからの人生が変わるほどの良い影響を与えて下さり本当にありがとうございます😭
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
若年の医師です。
緩和についての知識が乏しいため、こちらの動画で勉強させていただいています。
動画アップありがとうございます。
お父さんが辛い倦怠感とせん妄で苦しんでいた時、私は眠れずイライラしていました。「今度は何なの?」と冷たい態度をとってしまいました。
あの時、私は父にイライラしたのではなくて、苦しむ父の姿を見る事、呻き声を聞く事がとても辛かったんだと思います。自分が父の苦しみに対して何も出来なかった事が辛かった。そして自分にイライラしたんだと思います。そしてその表現方法を間違えました。父が「ごめんね」と謝り、私も「お父さんのせいじゃないよ」と言いましたが、謝らせたことに後悔をしています。
その後、主治医に鎮静をお願いし、あまり効かない為再度再々度相談して完全に眠らせました。それから亡くなるまで3日間、父は全く苦しまず本当に穏やかに眠ったまま息を引き取りました。
私の後悔は父が一番苦しい時に父に優しく出来なかった事ですが、渋る医師と相談し父が最も辛かった倦怠感を除去し、本人が望んだ様に穏やかに亡くなる事が出来ました。
私は看護師なので、鎮静の副作用も理解していたし、鎮静が効いてないと判断した時点で直ぐに医師と相談したいと訴えました。最後に父の苦しみを取る事が出来た事が私の「後悔」の軽減に繋がっていると考えます。
私は鎮静剤使用によって呼吸停止が起きるリスクよりも、鎮静剤使用しない事で継続する苦しみの方が父にとって辛いと判断しました。「もう死にたい」と今すぐに苦痛をとってもらいたい父の思いを尊重しました。勿論、もう話せなくなる事もとても寂しく思いましたが、それよりも父の苦しみをとってあげたかったです。そこには私のエゴが介入してはいけないと思いました。
父の看護は1ヶ月程度でしたが、始めた時から「父の意思を第一に尊重する」事を決めていました。医学用語が難しく理解出来なければ、私が噛み砕いて説明し、父が選択できる様にしました。無理して食べさせる事や内服させる事もしませんでした。ただし内服している理由と内服をやめた時に起こる症状に関しては伝えました。その上での父の決定は尊重しました。「なぜこんなに苦しいのか」と言った時は、悪液質について説明しました。
私は父に浣腸したり、坐薬を挿れたり、ポータブルトイレから立てなくなった父を看護技術を用いて移乗介助したり看護師として父を見ていました。だから、父に一番必要なニーズを知る事が出来たと思います。
一方で、娘としてもっと優しく接すればよかったと思います。でも、日々食欲や食べられる物が少なくなっていく父の希望を聞き、「食べたい時に食べたいものを食べられるだけ」という事を手伝う事が出来ました。朝一番のあったかいタオルでの顔拭き、歯磨き、調子のいい時はコーヒー、体拭きなどが出来ました。これは付き添う娘だから父の好きな時間に出来たんだと思います。
結局、何をしても後悔は残ります。悲しいし寂しいです。死ぬ間際だけではなく、「もっと元気な時からもっと色んな事をしてあげれば良かった」と思います。
でも、私は病床の父に「あんたはお父さんを遥かに超えた。今後どう生きていくか」を聞かれた時に、「海外の看護大を出て看護学士を取り、修士課程を経てナースプラクティショナーになる」と伝えました。亡くなる間際にも父に約束すると伝えました。
私は「穏やかに逝かせる」という約束を守りました。父が亡くなった今、次は「海外でナースプラクティショナーになる」という約束を守りたいと思います。その為には悲しい気持ちと共に心の準備が出来次第今後の人生も頑張って歩み始めるつもりです。
私も後悔の毎日です、妻が亡くなって今日で一週間、泣き疲れ、涙も枯れた筈なのに妻の事を思うと自然と涙が零れる、そんな日々です。私の妻も60歳と言う若さで逝ってしまいました。看病の時、あの時こうしていれば死を早めなかったかもしれないし今わの際に発した言葉も聞いて(解って)あげられたかもしれないし・・と言う後悔で今悩んでいます。いっその事、妻の側に行けたらどれ程幸せかそんな事も頭をよぎります。
よくあなたのお気持ちを私に話して下さいましたね。
まだ1週間、とてもおつらいと思います。そのようなお気持ちが出るのも無理はない時期だと思います。
ただ、奥様のもとに行けたらという思いが頭をよぎるとおっしゃいましたが、もしまたそんな思いが出てきても、決して実行はしないでくださいね。それだけはぜひ私と約束をしてください。
またおつらくなったらコメントして下さいね。
10日ほど前 がんで父を亡くしました
病院にかかり入院して一ヶ月も経たずに亡くなりました
コロナで面会もできず 最後に話せた時の録音を聞いては泣き
危篤の際は会いに行けましたが 変わり果てた姿の父に泣きつくしかありませんでした
なぜもっと一緒にいなかったのか 優しくできなかったのか 考えるだけで心が壊れそうです
もう会えないのに この気持ちをどうしたらいいのかわからず毎日を過ごしてしまっています
大切な人を亡くした悲しみは、愛していたからこそ。だから、愛しみと書くのだと、柳田国男さんが書いています。愛せたことを感謝する供養にしたいです。
直接先生のもとへ伺うことなく、お話を聴くことができ、大変有り難いです。
多くの方が、後悔の視点が変わる気づきがあるかもしれません。
これからも、看護、介護の同僚と一緒に拝聴を繰り返ししていきます。
私も最後まで無邪気に両親に甘えて、今はもう恩返しも出来ない、と苦しく後悔し続けています。でも視点を変えると、二人は私をそこまで愛してくれた、私は世界で一番幸福な子供だったのだ、と気付きました。恋しい気持ちを消すことは出来ませんが。
皆様のコメントを読ませて頂きました。私は今月の18日に母をなくしました。コロナの為面会が出来なかったのですが終末期でいつ急変してもおかしくないと言うことで面会させていただきましたその際俺はお母さんの子に生まれて良かったと伝えました母はその時せんぼうが酷かったので伝わったかどうかは微妙でしたがコメントした皆様に比べたら恵まれた方なんだなと思いました。4年前にお父さん
一ヶ月に兄が亡くなってお母さんと2人で頑張って暮らしていたのですが今は1人…母をなくした喪失感はそれはそれは大きいのですが視点を変えてあの手この手で乗り切りたいと思ってます…
「後悔するくらい父を愛している…。」…私も後悔するくらい両親を愛しています。
狂いそうです。苦しいです。毎日泣いてます
一週間前に、78才で末期癌の母が亡くなりました。
訪問医と契約し、4ヶ月間付きっきりで自宅での看病をしました。母が自宅で死にたい!との希望でしたのでその願い通りに。私は仕事を休業し家庭から離れて、泊まり込みで一緒にいました。
車椅子で散歩にも行きましたが
現実は厳しく、母は日々、痛みを訴えて特に夜中になると1.2時間おきに痛みを訴えていました、私は寝不足と疲労が重なり限界に追い込まれ、つい母には、身体がキツイから!起こさないで!とか、腰痛で痛い!、介護も大変なんだから!なんて言ってしまいました。
何でこんな事を言ってしまったのか、毎日仏様のように笑顔で優しくしてあげれば良かったと後悔の日々で涙が止まりません。息をするのも苦しくなります。
母、私、母子家庭で育ったので、もっと親孝行したかった。
今は、この辛い悲しみをどうしたらよいか、悔やんでなりません。
コメントありがとうございます。お返事遅くなりすみません。
確かに介護はとても大変です。そのようなことを言ってしまう気持ちは本当によく分かります。
しかし、あなたは実際には、仕事を休んで4ヶ月も付きっきりで看病をしたのです。
そのことは、しっかりお母さんに伝わっていますよ。
またおつらい気持ちになった時にはいつでもコメントして下さいね。
早く進む急性の癌で、 あまりにもあっという間に、夫がなくなってしまったために、これも伝えることができなかった、相手と心を交わす時間もなかった。後悔が永遠に残ることがあまりにも辛く 感じられる。でも近くに、そのような苦しみを聞いてもらってわかってもらえるところなど医者でもあるのかと、いまだにわからない。いつもいつもそのことの繰り返しで、気持ちが晴れないでいる。
母が亡くなって一年過ぎました。私の後悔は母に私が癌だということを伝えたことです。老健施設に入所している母には抗がん剤治療のために体調の良いときしか面会に行けなくなりました。母は私のことを心配していました。そんな中、母は肺が悪くなり入院しました。コロナ禍で面会も限られました。私のことを心配しながら逝ってしまいました。最期まで心配かけてしまったことを後悔しています。
コメントありがとうございます。
抗がん剤治療のために、面会の回数も減ってしまうことを説明しなければいけないこともあって、がんだとお話しされたのだということを推測します。もしがんであることを言わなければ、それはそれで、なぜ来ないのかを心配されたことだと思います。
私も親の立場だから思うことなのですが、親は子供に真実を言ってほしいものです。それがたとえ、つらい事実だとしても同じです。お母さんもあなたの病気を心配したと思いますが、何歳になったとしても、親は子を心配するものです。心配をかけられることも親孝行の1つだと、この歳になると思います。
あなたのお母さんへの愛は伝わっていると思いますよ。
先日主人の49日の法要を終え改めて先生のおっしゃった言葉救われています。癌が発覚して主治医からもかなり厳しいことを言われ落ち込んで居るとき、先生の動画に出会って本当救われた気持ちです。先生に出会っていなければ泣いてばかりの日々だったかもしれません。
大好きな祖母が亡くなってもうすぐ2週間が経とうとしています。昨日までは側にいる者にひたすらネガティブな話をしまくっては、涙を流していました。
しかし話を聞いてくれる人も疲れてきたのもあって、このままじゃまずいと思い、
今日からは、悔しい気持ちが湧いた時は、諦める(あきらかにする)と心の中で復唱し、寂しい気持ちが湧いた時は、まぁ天国で幸せにしてるからいっか!と徐々に思えるようになってきました。天国を信じているからです。
突然、もって1ヶ月と言われてから、自由診療から保険診療まで沢山の治療を調べて問い合わせて、セカンドオピニオンにも行ったりしましたが、
結局延命のための治療は何一つできませんでした。生きたい、治療がしたい、という祖母の思いにこたえられませんでした。
ただ調べるだけになってしまったと、間に合わなかった、もっと早くにその治療について気づいてやれていればと、自責の念に駆られまくりました。
しかし先生のおっしゃる、医学的に正しく理解するということで、恐らくどの治療も効果が見込める段階ではなかったのだろう、リスクがあったのだろう、と理解できるようになってきています。
それに、つい出来なかった事ばかりに目が行きがちですが、できる限りのことは沢山してあげられたと思います。
先生の動画を沢山見させてもらってます!励みになります。本当にありがとうございます。
17年前に肺がんで父を亡くしました。父に生きていてほしい、と思うあまり、たくさん無理をさせてしまったのではないかと自責の念にさいなまれ、今でも苦しいことがあります。私たち家族が父の命にすがってしまったせいで、父は緩和ケアも満足に受けられず苦痛を増やしてしまったに違いない・・と自分を責める気持ちが止まりません。何年自分を責め続けても何もよい方向には行かないし、罪悪感の闇に引きずり込まれていくばかりでした。
先生のメッセージは、私の心の奥の苦しいところに触れて、涙なしには見ることができませんでした。強い罪悪感というのは、視点を変えることすら自らに許さないような、そういう破壊的な気持ちかなと思います。
でも、父を本当に大切に思うなら、父の気持ちを尊重するなら、父はきっと私がいつまでも苦しんでいるのは喜ばないと思います。だから、なんとか自分を許して、しっかり前を向いて生きようと思ってここまできました。
数年前、私自身も癌になって、やっと少し救われた気になりました。父が癌になったのは私のせいではないし、父の生き方の一部分であり、治療法など本人の意思をもって決断していくものであり、自分が病気に向かい合うことで、やっと、あれは私の命の問題ではなく、父の人生だったんだと、父と自分を少し分けて考えることができるようになりました。また毎日病院にきてくれる家族がいることがどれだけ有難く心の支えになるのかも自分が看病される側になってやっとわかりました。私が父にしていたことは全否定されるようなことでも、責められるようなことでもなく、娘として一生懸命やった結果であり、逆の立場だったらたぶん全然嫌じゃない、とはじめて感じました。これも先生の仰る「視点を変える」ということなんでしょうね。
動画もとても勉強になりますが、先生が書かれたコメント欄の優しいご返信のひとつひとつも私の心に沁みます。
大事なメッセージを発信してくださって、本当にありがとうございます。
先生の動画、全部拝見したいと思います。そして、家族や友達などの大切な人達と共有させていただきたいと思います。
コメントありがとうございます。
これほどご自分を深く見つめておられることに感銘を受けました。
ご自分ががんになることで、お父さんの気持ちが理解できるという、素晴らしい視点の変え方だと思いました。
私は、後悔しているご家族を沢山見てきて、遺族外来をもっと広めたいと思っていましたが、RUclipsという形で、このようにお役に立てるとは思っても見ませんでしたので、とても嬉しいです。
今後とも、ご感想をいただければ幸いです。
1週間前に母が膵癌で亡くなりました
しんどいと検査したら、転移だらけで、入院して20日で亡くなりました
暑い時期で熱中症だと決めつけてしまい、母にキツく言ってしまったこと、丈夫な人だから大丈夫と親身になれなかったこと、今年に限って会いに行ってなかったこと、よく怒ってしまったこと、だからしんどさを我慢させてしまったんじゃないか、どうして、もっと話しを聞いて、体調もみてやれなかったのかとか、後悔と哀しみが溢れるばかりです
何より、本人が突然命が終わってしまいショックだったんじゃないかとか
それでも、コロナ禍に最期の時間5時間ほど兄弟で、母の手を握り、体を撫で、看取れたことだけでも良かったと思いたい
葬儀の飾りや花を見ながら、こんなことじゃなく、もっと話しもしたかった、私達と居たかったんだろうなと思いました
でも、この動画に出会えて良かったです
母が63歳の時に、肝臓癌で亡くしました。診断から、あっという間の出来事でした。実家は飛行機で2時間以上のところで、私は仕事もありなかなか帰省できず、看病を父と姉に任せ、看取ることも出来ませんでした。
なぜあの時、仕事を辞めて実家に帰れなかったんだろう。自分が生きるのに必死だったから。それでも、帰るべきだった。恩返しできる期間は限られていたというのに。わかっていたのに。
母は、きっといいよと許してくれる。優しい人だったから。だからこそ辛い。最期の最後まで母に甘えてしまったことが。
10年経っても、後悔が消えません。
私も、9ヵ月前に52年ぶりに再会した親友を肺がんで亡くしました。再会から1ヵ月後に大腸ガン、3ヵ月後に肺がんと診断され、何故今の再会?と、怖くなりました。自分の役割を与えられたのか、それとも疫病神なのか、運命はどうあれ、自分の人生の集大成の寄り添いをしたつもりでしたが、突然の死は今だに呑み込めません。ただ、先ほどの言葉が、私には救いでした。苦しさを抱えている多くの方に、知って頂きたくコメント投稿させて頂きました。
コメントありがとうございます。あなたもとてもつらかったと思います。
視点を変えるという意味で、お母さんの視点で考えてみることはどうでしょうか。
ちょうど私は、当時のお母さんと同じくらいの歳で、子供もいます。
子供が仕事の忙しい時期でしたら、そのことを優先させることは、お母さんからすると逆に嬉しいことだったのかもしれません。最後の最後まで、自分に甘えてくれるということは嬉しいものですよ。
お母さんに、とっても可愛がられていたのだなと視点を変えてみるとどうだろうと私は考えました。
また、お母さんに「ごめんね」と言う代わりに「ありがとう」と言ってみてくださいね。
私は61歳夫を亡くして4か月になりました。夫は65歳でした。後悔の日々こちらの動画に出会いました。抗がん剤治療が終わった矢先に間質性肺炎になり亡くなってしまいました。もっとちゃんと夫の体調管理をし早く病院に連れて行けば良かったと。視点を変える。やって見ます。ありがとうございました。
先生はじめてコメントします
ありがとうございます
母を乳癌で亡くしました。
最初の乳がんの治療から5年後に再発。手術・抗がん剤、放射線治療をしたあと、定期検診をしていたのですが、約3年後くらいに足が痛いと言ってましたが、主治医には大丈夫でしょうと言われていたのですが、痛みが続いたので心配となり他の先生に相談したら足の骨に転移しており、また肺にも転移していました。
この出来事のとき、悪気はないと信じたいのですが、主治医が足が痛いとか言ってた?と母に言っていたのですが、これに私はかなりショックを受けてしまいました。母は主治医に痛みを伝えていたのに、、。もし私が早く気付き、他の先生にもっと早く相談していたら、、それから、胸部CTをもっと頻回にやって頂いていたら、母は今でも生きていたかもしれない、、そんな風に思ってしまい、苦しくなっています。医学的なことは解らないので検討違いな悩みかもしれないのですが、先生が何気なく言ったかもしれない言葉が今でも気になってしまい、辛い気持ちを持ってしまっています。母が亡くなったのは私のせいだと思ってしまいます。生きているのが辛いです。
コメントありがとうございます。
まずは医学的な説明をさせて頂きますね。
実は乳がんは特別ながんで、再発や転移が早く見つかっても、遅く見つかっても、余命に大きく変わりはないという事実があります。不思議なことですが、乳がんに限ってはそうなのです。
ですから、あなたがもっと早く気付いていれば、と思うかもしれませんが、実はそうではありません。あなたのせいではないのですよ。
あなたがお母さんをとても大事に思っていたことは、あなたの文章からとてもよく分かります。あなたの愛の気持ちは必ずお母さんに伝わっていますよ。
@@drtosh
お忙しい中ご返信頂き、また、お心を寄せて頂きまして、本当にありがとうございます。母の死から時間が経つほどに後悔の気持ちが増していました。周りの家族が少しずつ日常を取り戻している姿にすら悲しみを覚える程でした。今回、勇気を出して初めてコメントをさせて頂きました。乳がんについて初めて知ることだったので驚きましたし、同時に子どもの様にわんわん泣いてしまいました。私のせいではなかったと伝えられ、重りのようなものが一つ取れるような、安堵のような、、言葉にするのは難しい何とも言えない感覚でした。母のことを大切に思っているからこその苦しみ、後悔の気持ちだったのだと知れたこと、それからその後悔の思いは、医学的な見地から、考える必要がないことであったと知れたこと。色々な思いが溢れました。母は、私にとってかけがえのない人でした。それが先生に伝わったとしたら、きっと母は私の愛に気付いていたのだと思えました。先生に救われました。今日を一歩ととらえ、一進一退になるかもしれませんが、素敵な母を知る一人の人間として歩みを進めたいと思ったところです。お近くなら直接お礼に伺いたいくらいです。歩みを進めることがお返しとなると思い、無理はせずにやっていきます。本当にありがとうございました。
とても参考になるお話、ありがとうございます。今、家族が肺がん末期で入院中でモルヒネオピオイドを使い、絶望から抜け出せず、死を待っている状態です。まだ若いのに。家族としてもう何もできない無念さ。肺がんに10種類もある分子標的治療薬を一つも使わず見送ること。本人にもう気力がないので。そして私自身がこのことに捕らわれ、自分の家庭を崩してしまいそうな恐怖。断ち切って自分の人生を生きなければと思うけど、その強さもなく。
そんな苦しい中コメントをして頂きありがとうございます。
とてもおつらいと思います。無念ですよね。
あなたに今1番必要なことは、あなたのつらい気持ちをどこかに、安全に出すことです。
安全にという意味は、良いとか悪いとかを判断されず、ただ受け取ってくれる人に、あなたの気持ちを出すということです。
もし、そのような方がいない場合は、ノートにあなたの気持ちを書き綴ってみても構いませんし、このコメント欄に書いていただいても構いません。
まずは自分の気持ちに、正直に向き合ってみて下さい。必ずあなたのためになりますよ。
父を先月亡くしました。
入院して2週間でした。
コロナ禍もあり最期も見取れませんでした。
胃癌でした。なぜ気づいてあげれなかったのか
入院から最期まで たった1人で病室にいた父を思うと 苦しくて悲しくて どうにもなりません。
コメントありがとうございます。
がんによってはとても早く進行してしまうので、気付いた段階で治療ができず、あっという間に亡くなってしまうという患者さんもいらっしゃいます。私もしばしば経験しています。
気付いてあげられなかったことは、医学的にみても、あなたのせいではありません。
まだ先月の出来事なので、気持ちが落ち着くことに時間がかかるかもしれません。
もう少し時間が経ってあなたが落ち着いたら、もう一度この動画を観て頂けたら嬉しいです。
ありがとうございます。
穏やかで優しい自慢の父でした。
最期ぐらい手を握ってあげたかったです
先生はじめまして。母を膵がんで亡くして私も後悔ばかりの日々です。治療の方針など、あなたに任せる、あなたがいいと思うものでいいと母は私を信頼していました。勿論その時その時で最善と思える選択をしましたし、看護師さんお医者様も選択は間違ってなかった、仕方なかった、病気の方が手強かった…などと言ってくださいました。私もそう納得するしかないと思うし、別の選択をしてもそれが本当に正解だったかどうかは誰にもわかりません。もし同じ境遇の人がいたらあなたは間違ってないと声を掛けると思います。しかし自分に対してはそれはできず、頭ではわかっているつもりですが、でも結果的に正しい方を選べなかった私が母を死なせてしまったという後悔がぶり返します。長くなってすみません。
コメントありがとうございます。
本当に1つ1つの選択が、あなたにとってとても重いものだったと思います。とても頑張られたと思います。
この動画でもお伝えした、視点を変えてみるということができたらとても良いと思います。
あなたの話を聞いて、私が考える2つの視点をお話しますね。
治療のことを詳しく説明してもらっても、お母さんには難しくよくわからないものだったり、どう決めていいか分からなくて、自分で決めろと言われても決められなかったのかもしれません。だから、あなたがお母さんの代わりに、そういった選択をしてあげることで、お母さんの重荷が減ったのではないか、と私は思います。
もう1つの視点は、お母さんは、信頼しているあなたに治療の方針を任せるという「選択」をしました。だから、あなたがどんな選択をしても、それはお母さんの選択です。「結果的に私が母を死なせてしまった」とあなたは思っていらっしゃるようですが、あなたの選択が正しいか正しくないかというよりも、それもお母さん自身の選択だと考えることもできますね。
これらの視点が正しいかどうかはわかりませんが、このように視点を変えることであなたが楽になれたら嬉しいです。
@@drtosh
先生ありがとうございます。いつでも私を信じてくれる母でした。それなのに母を助けられず、私を育てた母の苦労を知りながらそれに見合う人間にもなれず、信頼に応えられない私のようなものが母の子供で申し訳ないという気持ちでいっぱいです。
先述の通り母は治療方針を私に任せていましたが、再発してお医者様から抗がん剤再開か緩和ケアのみにするかを尋ねられ、抗がん剤をまたやりたいと答えたのは母でした。手術すれば治ると母は考えていたので再発はショックだったはずですが生きる意欲を自分から明確に示したのです。母の残りの人生に関する大きな決断のひとつを母自身がしてくれたことで、私も救われていたのかもしれません。
長年母と二人暮らしで支え合って生きてきました。半身がもぎ取られた感覚もいつかは慣れ、忘れていくでしょうか。
お話を聞いて、お母さんが自己決定できていたこと、本当に良かったと私も思います。
悲しみはだんだん癒えていくと思いますが、もしいつまでもおつらいようでしたらコメントしてくださいね。
癌ではありませんでしたが2か月半前夫が急逝しました。亡くなる一週間前なんとなく様子が変だな、亡くなる前日も変な様子だったのでその時に無理に病院に連れて行けば突然死することはなかったかもしれないと思うと後悔の気持ちで一杯です。まだ60歳でした。最愛の夫を亡くして毎日泣き、後を追いたいとばかり考えて前向きになることができません。
最愛の夫を肝腎症候群で亡くして3日。45歳という若さ。いまだに後悔しています。
彼は緩和ケアを望み、家での死を選択していました。
退院して訪問医等と契約し、では明日から頑張りましょうと言っていた夜に急変。
腹水で胃や肺が苦しくなり、激しい呼吸困難に陥りました。
兆候が見えた時から看護師等には相談をし、薬を足しても効果無し。
喘ぐ様な呼吸になった時「救急車を呼んでくれ」と言われました。
でも私は訪問医・看護師に指示を仰ぎ、結局はやることが一緒であることや緩和ケアを選択したことで救急車は呼べないと彼を説得してしまいました。
でも、3時間も呼吸困難状態にさせてしまうくらいなら、家に帰れないとしても蘇生的処置をしてもらうべきだったんでしょうか…。
ちなみに、もう腹水を抜いてもしょうがないくらい内臓に水が入り込んでしまっていたそうです。
肺に入ってしまった水によって常に溺れている状態だったのでは無いかと医師には言われました。
血液も薄まっていたので挿管時の出血で旅立ってしまう可能性もありました。
それでも呼んだ方が彼は納得したんではないか…今では正解がわかりません。
途中、意識レベルが低下する痛み止めの点滴を打ってもらいました。
完全に意識を手放すまでの間、感謝の気持ちやどれだけ楽しいことがあったか、どれだけ愛しているかを伝え続けました。
これは救急車を呼んでいたらできなかったかもしれないとは思っています。
彼の父親にも電話をし、耳元にスマホをあてて彼と会話もしてもらいました。
もちろん、訪問医に本当に救急車を呼んではダメなのかと聞いています。
でも、後悔ばかりです。
彼は本当に辛い時、私に息を吹き込んで欲しいとまで言っていました。
私は精一杯の事をしたんだと思う反面、最後の最後で彼に選択権を上げなかった事を後悔しているんだと思います。
身体的最善と意識的最善、どちらも取ることができたら…とどうしても思ってしまいます。
はじめまして。私も母に最後まですい臓がんであったことを伏せていました。ドクターも、もうお腹の中で散らばっていて手術ができないのです、とだけ説明し、配慮してくださいました。そのことに後悔は有りません。ただ、元気だった頃、もっといろいろと助けてあげられたことがあっただろうと、その事が後悔です。曖昧な知識で、母の食欲が出た食べ物も禁止してしまいました。病気によくないよと。それも後悔です。もう私は、自分は一生苦しめばいいのだと思いながら毎日をただ過ごしています。
コメントありがとうございます。
確かに多くの方は、あなたのように後悔されます。しかし、あなたが後悔していることは、あなたのお母さんのためを思って言ったことではないですか?
私がお母さんの立場に立って考えると、そのことを今はわかってくれているのではないでしょうか。そして、あなたにそんなふうに思ってほしくはないと思います。
おせっかいかもしれませんがコメントさせていただきました。
主治医がDr.Toshi先生だったらどんなに救われた事だろう。。と、つい比べてしまい涙。
上手く言葉に出来なくてもどかしくまとまりのない文章で申し訳ございません。
遺族への説明もなく、主治医は外出中 病室に医師も看護師も居ないなか 私、ひとりで送りました。
入院計画書もなく、薬も点滴こちら任せ、お腹が痛いと訴えてるのに診て看てもらえず何のために此処に?
(何処か診てくれる病院ないかなぁ)とベッドに横たわったまんまつぶやく主人。心が折れる音が。。。
胸水も腹水もひどく立って歩いてるのが不思議 あと数日と言われ 5ヶ月 気力で頑張ってたのに
せめて人間らしく接して貰えてたら私も考え方を変える事が上手く出来たのかもしれません。
コメントありがとうございます。
あなたのお話を聞いて、こんな病院があるのかと驚きました。
それは、確かに緩和ケア病棟のある病院に連れて行ってあげたかったですね。本当に残念だったと思います。
そのような病院が少しでもなくなるように、私も努力精進いたします。
また、おつらいときはいつでもコメントしてください。お待ちしています。
先生、今日も有り難うと御座いました🙏今1番良かったと思えることはモルヒネを使ったことです。痛みが強くなれば、㎜を上げて貰え
本当に良かったと思います。 放射線医師の先生が、痛みを和らげることが1番だから、時間を気にせずに使って良いよと言って貰えました
有り難い先生でした。 妄想?が出ますが、私は、その話に食い付き、楽しい話をしました。応えてあげる事が1番だと思いました。
有り難うと御座います🍹お疲れ様です。
コメントありがとうございます。
いい先生に出会えて良かったですね。
せん妄が出た時に、楽しく会話をするということはとても良い援助だったと思います。きっと喜ばれたと思いますよ。
@@drtosh さん、、、、、先生、聴いて下さい〔笑〕 自宅で酸素吸入器を使って居たのですが、酸素吸入器の上に牛が
乗っている!よく乗れたもんだね~とか、ベットの上で、電気照明の紐を垂らして有ったのですが、夜中に起き、紐をクルクル編む行為
父ちゃん、どうしたの?と尋ねると、建設現場の足枠を造っている所なんだよと言って楽しそうに編み込みしておりました。
気を付けて枠組みしてねと言い返し見ておりました✌過去のことが蘇るみたいです。〔建設現場で働き、農業者で牛も飼っていた〕
聴いて頂き有り難うと御座いました🙏
人間で完全はありません、悲しみから私は逃げませんが、亡くなった人に思いを巡らします。今はなくなった人達と、天国への道を駆け足で行っているだろうから頑張ってくださいとか、いつか見守って音とか呟いています、やがて私達の背後に回り生きる為の知恵とか勇気をくださいます、涙でなく天国へ早く到達できる祈りに変えましょう。
1ヶ月ほど前に心筋梗塞で最愛の父を亡くしました。
糖尿病という基礎疾患を持っており、最近ではなかなか薬が効かなくインシュリン治療に切り換えることが決まった矢先でした。
インシュリン治療をしてもっと一緒にいたかった‥低糖質料理を作ってあげたかった。
あの時、あの時‥と後悔ばかりです。
でも、視点を変えると父が大好きで愛していたからこその後悔なんですね。
父にとって初めての子供になるわたしは父が名前をつけてくれました。社員旅行にもわたしを連れて行ってくれました。お姫様になりたい!というわたしに薔薇の門をくぐって登下校できるようにアーチを作り美しい薔薇を育ててくれました。素敵な自慢の父でした。
わたしが愛したように父もわたしを心から愛してくれていたんですね。だったら、わたしと同じように父も寂しい思いでお別れしたんですね。
愛しているからこその悲しみ、後悔なんですね。
偶然アップされていた先生の動画。惹き付けられてここに来ました。
母は希少癌でした。右眼球を摘出したのが9月。11月から放射線治療を施しました。
年が明け、5月には全身に転移。7月に緩和ケアに入院し、8月に亡くなりました。
「半年や一年で亡くなるようなことが予測されれば眼球をとるのはやめてほしい」
と主治医に言いました。
「どうなるかは僕にもわかりません。でも、今とらなければ、目から癌が顔に進行したら顔半分をとることになりかねませんし、痛みも激しくなってしまいます。」
、、、私はずっと後悔しています。どうせ死んでしまうのなら、右眼を残してあげたかった、と。
そばについていながら、まさか母が本当に死を迎えると思わずに呑気にいたことも。
この4年近く、毎日、後悔と懺悔と悔恨の日々。
母を思えば想うほど、苦しくて悲しくてせつなくて、自分が許せません。
何をどうしたらいいのでしょうか。
コメントありがとうございます。
あなたの他のコメントも読ませて頂きました。
まず医療的な側面から私の考えをお伝えしますね。
もし、お母さんの眼を残していた場合、顔面は多くの神経や血管があるので、主治医の先生が仰ったように、痛みが相当なものになり、匂いや出血のリスクもあったと思います。最期は穏やかに旅立たれたということですので、眼球摘出は医学的にも、お母さんの症状緩和という意味でも、適切だったと思います。
次に、動画でもお話しましたが、あなたは4年も後悔するほど、お母さんのことを愛しているという事実を知ってほしいと思います。お母さんは、最期まで普通にご家族と団欒を過ごせたことが幸せだったのではないでしょうか。
私ならそのような最期も悪くないと思います。多くの患者さんからもそのような声を聞きました。
そのような視点で、一度、ご自分の気持ちと向き合ってみてはいかがでしょうか。
@@drtosh 優しいお返事をありがとうございます。
私は母に感謝してます。母は守ってあげたい大切な人でした。
先生、ありがとうございます。
眼球を摘出したから、痛みが緩和されたのですね?母に酷いことをさせたのではないですね?
匂いや出血のリスクまでを考える知識もありませんでしたが、先生に教えていただき、魂の救済をしていただいている思いです。
亡くなる前日まで、たった一口の食事を摂るのにも、膝を揃えてキチンと座り、手を合わせて感謝しながら口に運んでいた母。
亡くなる2時間前まで介助したらトイレに行けていた母。
その我慢強く生き抜いた母の姿は私の目標です。
母がそれをやり遂げることが出来たのは、まずは、眼球摘出をしてあったからなんですね。
痛みがまだ、マシだったからなんですね。
ありがとうございます。
感謝します。
初めまして、いつも患者と遺族の目線での解りやすいお話、大変有りがたく見させて頂いてます、ありがとうございます。
私の後悔は6年前にすい臓がんで亡くなった母への後悔です、今考えると自分の気持ちを優先しただけなのではないかと思えて仕方ありません、それは、体の異変に耐えてる母に対して、このまま抗がん剤治療を続けるか、緩和ケアにきりかえるのかを選択させた事です、結果、緩和ケアを選択しました、その一ヶ月後に急変して亡くなりました、夢にでてきて、もう少し生きたかったのにと言われ、更に後悔が増し苦しいです、母とはいえ人の生き方を左右させてしまう権利は私にはないのにと悔やんでも悔やみきれません、これ以上苦しんだ姿を見たくないばかりに間違った選択をしたんではないかと思い苦しいです、私はあの時あんな選択をさせてしまったのかと苦しいです。私は間違ってたのでしょうか。
コメントありがとうございます。
あなたのお話を聞く限り、あなたはお母さんにきちんと自己決定をさせてあげたと思いますよ。
ですから、お母さんは自分で抗がん剤治療をやめるという選択を行うことができました。
また、私の経験では、もし抗がん剤治療を続けていたら、お母さんはさらに苦しみが増していたのではないかと思います。医学的に見ても、あなたがした選択も、お母さんがした選択も正しい選択だったのではないかと思います。
お忙しい中で早速のお返事ありがとうございます、先生のお話を何回も何回もよ見直しながらあの時を思いだして先生のお言葉を重ねてみました、そうなんだと気持ちの整理ができるんじゃないかなと思いました、苦しくなるたびに先生のお言葉を読み返しながら前向きにとらえていこうとおもいます、本当にありがとうございました、ありがとうございました。今後の動画を楽しみにしております。
父が他界して2ヶ月になります。85歳でして。ガンは最後まで見つからなかったのですが、吐血して入院3週間、退院後、浮腫みで診てもらうも肝臓悪いから仕方ないと帰され、お腹も膨れて来ました。
母は反対したものの子どもたでセカンドオピニオン、そちらでは肝臓は悪くないと言われました。
胃腸のつなぎ目を良性ポリープが塞いでしまって固形の栄養は落ちない状態と判明、低栄養でチカラもなくなり点滴するも間に合いませんでした。
不調ながらも日常を送っていたのに、再度の入院ではトイレも立てなくなり(立てたが半ば強制的にオムツになりメンタル低下)、42日間の最後は口中ボロボロで水も口にふくめなくなりました。
初めての介護保険認定もとても時間がかかり、本人帰りたがっていたので在宅にしたくても各種手続き、母に理解もらうこと、病院の指示や指導と準備を整えている間に亡くなりました。
先生のお話のように、父が大好きだからこんなに悔やまれ、何を見ても涙が出て、時にはおいおい泣けてという日々なのだと感じます。
加えて、世代もあるのでしょうが夫婦とは?と母の現実的な、と言うよりもう夫は亡くなるだろうという前提の行動にガッカリ残念で腹立ち、まだそれは自分の中で未消化です。
乱文長くなりました。先生の動画は父の他界後知りました。思い返して納得したり、今回のように支えて頂けること有り難く思っております。
おつらい中コメントありがとうございます。
いろいろ大変でしたね。あなたはとても頑張られたのだと思います。
今は色々なことに感情が揺さぶられるのは当然だと思います。いつでもコメント欄をあなたのお気持ちを整理する場所に使ってください。コメントお待ちしています。
@@drtosh
先生、あたたかなご返信頂きありがとうございました。
とても嬉しく励みになります🙇♀️
セカンドの初診日、せめてその日だけでも一度帰って大好きなお風呂に入れたなら…
今、しぶしぶ入院の決断を下した父も思い出しました。
昨日は土砂降りの中の運転「お父さーん」と何度も叫んで泣きました。
コロナ禍ですが容態が悪かったので病院の先生は面会させてくれ、最後も私と妹が側に居られました。
これからも沢山父に愛を送ろうと思います。
先生のお優しさに心より感謝しております🙏
年末父を亡くしました。胃癌であっという間に亡くなってしまいました。毎日涙が溢れてしまいます。亡くなった後とある関係者の方から、父が元気な内から身辺整理をしていたこと、私の話をしょっちゅうしていたことを聞きました。一人っ子の私に面倒かけまいとしてくれていたのに、私は父に強く当たったり、冷たくしたことに後悔の日々です。なんでもっと優しくしてあげられなかったのかと悔やみます。今悔やんでも遅いのに。母の時は時間が少しずつ和らげてくれたのと、父がいたからやってこれたけど、両親共がいなくなり、寂しくて、会いたくて、毎日夢に出てきてほしいと願っているのに出てきてくれなくて、辛いです。視点を変える、少し気持ちが落ち着いてきたら、意識してみようと思います。
ありがとうございます。
先生のこの動画で少しずつ気持ちが落ち着いて来ました。
只がん患者さんの中には敗血症の処置の為に透析を勧められましたが、
透析の理解が間違っていて、
半永久的に透析をされて腎臓移植を待たれている患者さんのイメージが浮かび断っていました。
もしあの時透析をお願いしていたらと後悔しています。
暫くして救命センターに搬送されて透析のイメージが間違っていた事に気づきました。
コメントありがとうございます。
先ほど別の動画にもコメントして頂きましたよね。少し落ち着いてもらえてよかったです。
確かに「透析」という言葉には、慢性腎不全の治療のイメージがどうしても強いですよね。
がんの患者さんの急性期の治療で、透析をする時には、もっと丁寧に医療者が説明しなければいけないということを、あなたのコメントで教えて頂きました。ありがとうございます。
遺族の方は、どれだけ精一杯のことをしたとしても後悔は残るものです。
それほど、大切な方を愛していらっしゃったのだと思います。
あなたの気持ちの整理にこの動画を使っていただければ幸いです。
今日は母の日ですね。
私の後悔は、最後の母の日に
大好きなカサブランカの花を
買って、お母さんありがとう。
と言えば良かった。と20年前に
思ったのをおもいだしました。
今年娘も成人式を迎え、母が選んだ
着物で写真を撮りました。
お母さんありがとう。
コメントありがとうございます。
あなたのお気持ちは、天国のお母さんに伝わっていると思いますよ。きっと20年前もそうだと思います。
娘さんの成人の着物姿、お母さんも喜んでおられると思います。
今、うつ病アドバイザーの資格を
取得し何かお役にたてたいと考え
てます。自宅に以前の仕事で
30畳程の教室があるので、集まり
の場として利用させて下さい。
父が昨年6月に75歳で膵臓癌で亡くなり、70歳の母は1人暮らしになりました。間もなく1年が経過しますが母の落胆と不安感が強く、食事を作る気力もあまりなく、部屋に1人膝を抱えて時間を過ごすことが多いようです。
以前から神経内科に通院しています。悲観的な母の様子がとても心配です。
コメントありがとうございます。
あなたのコメントを見る限り、お母さんはうつ傾向にあるのかもしれないと思いました。
一度、お母さんの診察について行って、主治医にお母さんの状態を相談してみてください。
もし心配であれば、心療内科や精神科に紹介してもらってください。
お忙しい中、返信を頂き有難うございます。
少しでも早く前向きに生活していく心になれるよう、サポートしていきます😌
私も後悔の毎日です。2018年に夫を亡くし、2020年に父が肝臓癌破裂でなくなりました。母と2番目の、姉は看護婦長女は、介護士、私も介護士をしていたので、ある程度心構えはしていました。ただ、私は九州に住んでおり、実家には、1000キロ以上離れており、コロナの緊急事態宣言が出た直後でした。
正直帰りたかった。でも、母親に止められ行けませんでした。最後の挨拶ができなかったのもあり、どこかまだ信じれない部分が残ったまま生活して、後悔しています。不眠症になったり、仕事に行けなくなるよな体調不良を起こしたりしていました。
でも今回の動画を見て、少し気持ちが軽くなりました。辛いことがあっても子供たちの前では見せない、明るい元気で、お調子者のお父さんが大好きでした。
これからは少し視点を変えていこうと思います。
私は、もうやれる事は、やったと思っています。ただ、これで絶対苦しくなかったのかと、聞かれました。私は、その誰もあの世に、いって戻る事葉、ないのでわからないと、答えました。余りにもなり、鷲田清一さんに、私は、私のおこないが、悪かったのか、聞きました。私の事を知っている人でもあります。あなたに、とってとても大切なことであったと答えもらいました。ある緩和学会出会い、その前より、こうえんで、お話している人です。臨床哲学好きで、大好きな哲学者です。でも私は、少しまだ迷い有ります
母の治療の判断に何度も誤り後悔している。その病院には定位放射線はない。と半年後に知る。呼吸器内科の医者は、2ヵ月たって、泌尿器科の医者は、5ヵ月たって治療を始め、失敗し、悪くなるばかり。廃人のようにして殺しかけ何とか一命をとりとめたり(この時、脳他に傷をつけたか)、診断や薬を間違えたり、患者をずっと苦しめた。状態を見てか見ないでか、重大な副作用のある薬ばかり出す。他科受診を拒み、「分からん、分からん」と素人のような、説明もしない、「我々を信じてください」「大丈夫ですよ」「他に悪い所はありません」と詳しく調べず正直さのまったくない医者だった。病状が悪くなり、指摘した時には、もう遅い。それでも「大丈夫ですよ」という。違う病院の呼吸器内科医師は、紹介状を持って行ったが、状態の悪い母をストレッチャーから車イスに乗せかえ診察室にいれ診察をせず、2週間後の予約をとり、救急での、脳検査(脳出血)の結果を無視した。脳の薬(症候性てんかん)の重大な副作用にも、相談にのってくれなかったし、1番大事な脳の薬を除いた。1番大事なのは、救急で言われた脳だった。3ヶ月寝かせられてばかりいたから、脳の詳しい症状を知らなかった。呼吸器内科医師は、症状を見ていたのに、母に「たいへんだったね」、看護婦は私に「先生に任せとけば大丈夫」と油断させ、「母を見ているから会計に急いで行きなさい」と言い、福祉タクシーが迎えに来ていてあれよあれよという間に帰された。
3日後泌尿器科医師は、紹介状を持って行ったが、診察も検査結果の説明もせず、薬の重大な副作用の相談にも1種類しかないと突き放した。調べたら他の種類の組合せもあった。「異常じゃん」と笑っていた。
次の日救急車で運ばれた。感染症多臓器不全。あと、余命2年と言われていた母は亡くなった。呼吸器内科医師が検査してくれてたら、治療してくれてたら、泌尿器科医師が検査結果を説明してくれてたら。母は右小細胞肺がんでした。最初1.2センチと7ミリでした。転移はしていないとのことでした。がん専門病院に行っていたら、まだ生きていると思います。病院選択を誤り私が母を殺しました。立ち直れません。生きるのを一生懸命な母でした。どういう考え方をすれば私は立ち直ることができますか?
父を急性大動脈解離で亡くしました。
その日は旦那と小さい子供(2ヶ月)マンションにいました。
姉からLINEが来て父が仕事場から肩の痛みで帰ってきたと伝えられて
ぎっくり背中だと言われたので
お大事にしてくださいと返信したのが最後でした。
その夜急変したのか母から心肺停止状態と聞かされ、病院に向かうまで蘇生できないのかといいました。できないといわれて覚悟して、
ありがとうと伝えといてと泣きながら言いました。
私が病院に着いて顔を見た時刻が死亡時刻になりました。父はもう亡くなっていましたが手を握り、腰が抜けました。
姉からのLINEの時に、病院にすぐ行けと言えばよかったかな。とか思っています。
父と私は顔が似ていて性格も似ていて、そばにいたら絶対すぐ行動してたんじゃないかと後悔しています。
急性大動脈解離?
私の父も3年前に急性大動脈解離をやりましたが、私が病院にひっぱり出し、九死に一生を得ました。
いま父はたぶんCOPDと思うが、病院にいこうとしません。父が心配です。母は白血病で急死してます。
大動脈解離つながりで、コメント書きました、こちらは助かりましたが、父が亡くなると1人暮らしになってしまう。怖いんです。
半年前に父を肺がんで亡くしました。
それからずっと今日まで後悔ばかりの毎日です。
一体いつまでこんな辛い日々が続くのかと
自分自身でも不安で仕方ありません。
父が望む通り終末期は自宅で在宅ケアを
施してあげられたのにそれなのに何故…
未だに気持ちが報われずとても辛く
なります。癌と判明してから1年未満で
亡くなってしまったからその余りにも
早過ぎた父の死に対して遺族として
向き合えていないのでしょうか?
やはり時間が経てば何れは
落ち着くものなのでしょうか?
コメントありがとうございます。
どんなに良くしてあげようと思っていても、思った通りに行かないことは本当によくあることです。
あなたは、十分すぎるほど向き合っていると思います。
あなたに必要なことは、あきらめることかもしれません。
あきらめるとは、良いとか悪いとかを判断せずに、事実を明らかにするということです。
文面からしかわかりませんが、あなたは本当は、お父さんを自宅に帰らせてあげたかったかもしれませんが、何らかの理由でできなかったのだと思います。
無理をすればできたのかもしれないと思っているかもしれませんが、事実としては、家に連れて帰れなかった、それだけかもしれません。
できたことはできた、できなかったことはできなかった。このことをあきらめる(明らかにする)。
あなたの気持ちに整理をつけてみてください。
@@drtosh は
後悔はしています、
セレネースを早く手配してもらうべきだった。
コロナの為 自宅で看取りました。
チームの方々から一様に 鎮静=眠る時間がほとんどになると説明を受けていましたが、
ちょうどせん妄が起こり始めていた
父はほぼ眠ることはなかったです。
なんというかアクティブでした。
「薬が蓄積するのを待っ」たり「様子を見て増やす」のは、間に くるしみの時間がある為 家族にも本人にも苦痛でした。
結局皮下注も単位も少し増やして坐薬も満量で使いました。薬の量を判断するのも辛かった。注意された呼吸抑制というやつが起きているのか?と思うほど、薬が効いている時間は大人しくはなりましたが苦しそうな呼吸でした。
説明を受けた鎮静とはだいぶイメージが違いました。
訪問医がきてくれ、セレネース注を打ってくれ、ようやく6時間くらい、穏やかな呼吸で連続で寝るところをみました。
結局セレネースを打っていただいたのはその1回で、やはり苦しそうになってきた、セレネース注が今までで1番よかったし、もう一度お願いしようとした矢先旅立ちました。
病院では医師が様子を見ながら薬もすぐ調整してくれますが、自宅ではちょっとしたアクションを家族が判断しなくてはならず、また知識がない為正確な状況を伝えることができませんし、信じてもらうこともできませんし、自分たちでも起きていることを理解できません。(一度身内の看護婦が下顎呼吸が見受けられましたが、訪問看護師がこの段階でそんなわけない、と。ならそうなんだな、と思っていたら、翌朝医師には、父は前にも下顎呼吸をしていたから、昨夜もそうだったかもしれないね、と。)
見てほしい具合の時にプロがいるわけでもなく、薬が1番効いているタイミングで訪問を受ければ、家族が状態を「説明」するし、我々も「説明」を受け入れるしかなく、、
正直言って苦しかったし、父が苦しい時間が長かったと思います。
急な容態変化だったため、まるで判断を誤り薬漬けにして呼吸抑制を起こし殺したような感覚すらあります。
初めからセレネースで落ち着かせていたら、もっと少ない薬の量で穏やかに自分のタイミングで死ねたのではないかと。。
看護チームの方はみんな昼夜土日を問わず走り回ってくださって、みなさんそれぞれの立場でそれぞれの情報で最善を尽くしてくださったと思う、
驚くほどの手厚さを知って感動すら覚えた。でもあれほどの苦しみの中で死ぬ時に 家にいること なんてどの程度の慰めになるだろう??
死んだ父も周りも誰も誰かが悪いなんて思っていないし、
私だってあれは父の病気で私はできる限りの手助けをしていただけだ。
医療関係者を含め 確かな不治の病に 労力と心を注いでくれた。
でも父には足りなかったし、
実際セレネースをゴリ押し要望するチャンスは私にはあった、
死をよく看取る看護婦さんが親戚にいたのでヒントはあったから。
でも自分が後悔するほどの知識持ちじゃないのも知ってる、
転がるように具合が悪くなるとは知っていたけど、想像を超えていた。
その時には緩和、鎮静をしてもらうと思っていただけで、緩和、鎮静の選択については考えていませんでした。もっと前から緩和鎮静の薬選択の分岐点を知っておきたかった。
実際選択をできるようなスタートではなかったけれど…