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直政が義弘を救った逸話がおもしろい。関ヶ原から約260年後、両者の子孫である直弼と斉彬が対立することを考えると更におもしろいね。
忠誠心といえば聞こえはイイけど、実際は特攻隊みたいなもんじゃないでしょうか?実行した特攻隊員が敬われるのは当然ですが、義弘はそれを命令する立場の人間ですからね。一歩間違えれば、部下を人柱にして自分だけ逃げ帰ってきた男として歴史ファンからメチャクチャ嫌われる可能性もあるのにそういったイメージが全くないのもすごいです。
4兄弟の話も聞きたいので、いずれ お願いいたします。
息子の忠恒(家久)がクズ過ぎるんだけど、そのお陰で幕末の有力な藩になれたのがまた凄いな。
島津義弘は、勇猛果敢な武将だと思っていましたが、関ヶ原の戦い迄の経緯などから、知っていなかった島津義弘の一面がわかりとっても参考になりました。また、伊東さんの新作も読んでみたいです。
ほお、ビシッと指摘しますね。面白いです。
まあネット上での義弘の評価は明らかに過剰なので、三英傑や謙信・信玄のように落ち着いた批評ができるようになるといいですね
まぁ中央突破を選んだ理由も義弘が高齢で伊吹山などの山越えは体が持たないからと、義弘に付随した家臣の記録にあるよね
後からだと何とでも言えます。やはり即断即決は簡単なことではないですね…
同じく結果だけ見て言ってるようにしか聞こえないです。関ヶ原のような決戦が、まさか午前中だけで終わってしまうなんて、現場の人が想像できるかなと。
そもそもの義弘、義久のコミニュケーション不足はいまに始まったことでなく、九州統一戦から意思疎通が上手く行ってない、その後の朝鮮出兵では義久は義弘に全く物質補給や援軍を送らなかった。義久、義弘の二頭体制は良くも悪くも島津家の根本的な問題点なんだと思います。
井伊と島津が幕末に対立するのは偶然だと二人ともおっしゃっていましたが、井伊は譜代で島津は外様、それを決定づけたのが関ヶ原の戦いなのですから、むしろ必然ではないでしょうか。
関ヶ原での島津は初めから西軍のために参戦する気がなかったのか、ここで言われてるように機を逸したのかどっちなの?どちらにしても無力な結果ではあるんだけど
職場の人が話していたのですが「島津義弘は過大評価されてる」と
島津提案を三成が却下したから、関ヶ原で動かなかったのは違うのか…
今だけ!金だけ!自分だけ!の男だったのか?
たしか闇討ち、奇襲戦を否定されて、三成に違和感や遺憾を感じていたって話もありますよね。ちなみに桜田門外ノ変で井伊直弼の首を挙げたのは薩摩藩の藩士٩( ᐛ )و
豊久って「首置いてけ、なぁ」の人?
私も「島津の退き口」自体が評価に値しないと思うが。「うだうだして」西軍の勝機を逃す原因にもなっている。前段の城攻めで意見対立から「関が原でも動かない」というのは三成から見れば武将として最低・最悪だったはず。内応しているなら全然オッケーなんだが(笑)家康本陣へ突っ込んだのが「カッコいい」というのは小学生レベルの「感想」である。
写楽は謎
島津義弘も神様では無いからね。それでも、忠義を通すのが薩摩武士。
幕末の挙動もそうなんですが、薩摩人は血の気は多いのだけど優柔不断或いは狡猾なところがあるというイメージがあります。フランスに似ているかな
全くの不勉強ですね(笑)島津義弘は「関ヶ原で戦わなかった」のではなく「関ヶ原で戦えなかった」というのが真実です。数々の戦で培われた経験で第2陣に配された事で『合戦当初は体力温存の為に甲冑を付けず』に参戦のタイミングを計っていたこと。八十島や石田三成が島津勢に参戦を依頼してきたタイミングが信じられないくらい早かったというのが真実らしいです(笑)関ヶ原後日談として義弘公は撤退決定前に「島津兵5000なら今日の戦は勝てたものを!」と3度も呟いたとも御座いますのでね!関ヶ原で有名な「家康の問鉄砲」なんて江戸時代の軍記物での創作。実態は合戦開始早々に小早川勢が大谷勢に襲い掛かり西軍は何の見せ場もなく敗走を始めたというのが昨今では共通認識です。『島津退き口』という前進撤退の真実は「石田・宇喜多勢敗走の為に伊吹山方面は渋滞」、「義弘が老齢の為に伊吹山を越山する体力の不安」という面を考慮して「ひとまず大垣城に入城する」という目的で前進撤退という非常識でクレイジーかつロックルロールな撤退方法になった訳です(笑)島津勢が大垣城に向かって前進している最中に大垣城から上がる煙を確認したので伊勢街道方面に撤退したという旨の第1資料も出てきてますから(笑)あと「捨てがまり」は明治以降にしか文献は確認されてませんので創作です。島津の鉄砲で井伊直政に重傷を負わせたのは間違いのない事実ですが、「井伊直政が撤退する島津勢の追撃中」ではなく「井伊直政が敗走する石田・宇喜多勢を追撃中に島津勢の陣地を横切った際に島津勢の放った弾(流れ弾)に当たってしまった」というのが真実です。番組で講釈垂れるなら最新の研究にも目を通してからにしてください。番組製作者及び御自身の評価にも関わる大事で御座います。すいません。律儀で勇猛な名将である義弘公の為に熱くなってしまいました。大目に見てください。
最初は外資コンサル出身の作家で境遇が同じだなと思って興味持っていましたが、番組でのコメントには興ざめしてしまいました。私はまさに登場する鹿児島の伊集院・妙円寺で育ちました。鹿児島の歴史を学ぶ者たちはみな義弘公が好きですが、朝鮮の役での功績が大きすぎるばかりに大河にも取り上げられず、不遇だといつも感じています。。。これだけドラマチックに戦国を長寿・大往生して畳の上で死んだ武将は稀です。過大評価と仰る方々は歴史を知らないか、朝鮮での活躍に恨みを持つ方たちでは?と思ってしまいます。そもそも人類の有史以来、これだけの大会戦で前進退却した例はないです。天下分け目の戦いで大勢を動かせる能力のある指揮官であるにも関わらず、何もできず、如何にして武名を挙げて死ぬ・もしくは生き残って家の存続をするか、という一点で敢行した苦渋の決断です。少数の島津が全力で戦ったところで小早川が裏切るのでその点についても大勢を動かすパワーが残念ながらありません、黒田、細川、その他に攻められている石田勢を援護できたぐらいが関の山です。伊東先生の著書は幾らか拝読して面白いなと思いますが、徳重神社やその隣りにある妙円寺という寺やその住職から話を聞いたことがありますか?私にはその点は明らかに場所と地名だけの紹介で終わっていて、なにも大事なことが取材されていないように感じます。それは番組の構成的に、優柔不断な義弘という少し今までの見方と違う新しい義弘公の姿を指摘したいというだけなのでは?そこにある資料や口伝されてる話や神仏を尊んだ義弘公の姿と共に色んな話や歌が遺っています。それを知らないからこのような嫌な顔をしながらコメントされたのかな・・と思ってしまいました。とてもじゃないですが、優柔不断の人で関が原を戦わなかったことを批判されるような薩摩武士として恥ずべきことは何もしていないと思いますよ。もししてるなら木崎原での勝利や彼を慕って人の和を重んじる義弘公は尊敬もされず、1000人以上の本国からの自費負担で戦場に駆けつける家臣などいなかったかと。これだけの少数で本国からの補給もなく、1日で終わるはずがないと思われた天下分け目の戦が半日で四面楚歌になる状況を当時誰が予想したんでしょう。補給もなく1日全力で戦えばその後のことを誰が面倒みるのか、というそういう心配が常に頭の中にあったはずで、いざその場で福島・井伊・徳川本陣をかすめる突撃をする判断ができた武将と兵は彼らだけかと。伊東先生はもうちょっと郷土史や現地での取材力がある方かと思いましたが少し残念に思った次第でした。もし紹介していないだけだったり、全てを知ったうえでそういう発言だったのでしたら申し訳ありません。
北条氏政は賢くないので親も呆れる。食事のご飯の量を決められないので我が家は滅びると言った。
残念ながら、すてがまりとしんがりの違いがよく分からなかったです
しんがり は退却の際の1番後ろの部隊です。危険はもちろん1番あるが、帰るのが最終目的ですね。すてがまりも似たような部分がありますが、島津のすてがまりは、死を覚悟ではなく、戦場に坐禅をして座り込んで鉄砲をうって、そのまま敵陣に切り込むような、「仲間のために、死にに行く」イメージをしてもらえれば。覚悟ではなく、本当に死んじゃう。
自由な作家では一国のトップの考えを理解するのは無理か政治論も絡めないと難しいので歴史だけの一面だけの論議では厳しいな
直政が義弘を救った逸話がおもしろい。関ヶ原から約260年後、両者の子孫である直弼と斉彬が対立することを考えると更におもしろいね。
忠誠心といえば聞こえはイイけど、実際は特攻隊みたいなもんじゃないでしょうか?
実行した特攻隊員が敬われるのは当然ですが、義弘はそれを命令する立場の人間ですからね。
一歩間違えれば、部下を人柱にして自分だけ逃げ帰ってきた男として歴史ファンからメチャクチャ嫌われる可能性もあるのにそういったイメージが全くないのもすごいです。
4兄弟の話も聞きたいので、いずれ お願いいたします。
息子の忠恒(家久)がクズ過ぎるんだけど、そのお陰で幕末の有力な藩になれたのがまた凄いな。
島津義弘は、勇猛果敢な武将だと思っていましたが、関ヶ原の戦い迄の経緯などから、知っていなかった島津義弘の一面がわかりとっても参考になりました。
また、伊東さんの新作も読んでみたいです。
ほお、ビシッと指摘しますね。面白いです。
まあネット上での義弘の評価は明らかに過剰なので、三英傑や謙信・信玄のように落ち着いた批評ができるようになるといいですね
まぁ中央突破を選んだ理由も義弘が高齢で伊吹山などの山越えは体が持たないからと、義弘に付随した家臣の記録にあるよね
後からだと何とでも言えます。やはり即断即決は簡単なことではないですね…
同じく結果だけ見て言ってるようにしか聞こえないです。
関ヶ原のような決戦が、まさか午前中だけで終わってしまうなんて、現場の人が想像できるかなと。
そもそもの義弘、義久のコミニュケーション不足はいまに始まったことでなく、九州統一戦から意思疎通が上手く行ってない、その後の朝鮮出兵では義久は義弘に全く物質補給や援軍を送らなかった。義久、義弘の二頭体制は良くも悪くも島津家の根本的な問題点なんだと思います。
井伊と島津が幕末に対立するのは偶然だと二人ともおっしゃっていましたが、井伊は譜代で島津は外様、それを決定づけたのが関ヶ原の戦いなのですから、むしろ必然ではないでしょうか。
関ヶ原での島津は初めから西軍のために参戦する気がなかったのか、ここで言われてるように機を逸したのかどっちなの?どちらにしても無力な結果ではあるんだけど
職場の人が話していたのですが「島津義弘は過大評価されてる」と
島津提案を三成が却下したから、関ヶ原で動かなかったのは違うのか…
今だけ!金だけ!自分だけ!の男だったのか?
たしか闇討ち、奇襲戦を否定されて、三成に違和感や遺憾を感じていたって話もありますよね。
ちなみに桜田門外ノ変で井伊直弼の首を挙げたのは薩摩藩の藩士٩( ᐛ )و
豊久って「首置いてけ、なぁ」の人?
私も「島津の退き口」自体が評価に値しないと思うが。「うだうだして」西軍の勝機を逃す原因にもなっている。前段の城攻めで意見対立から「関が原でも動かない」というのは三成から見れば武将として最低・最悪だったはず。内応しているなら全然オッケーなんだが(笑)家康本陣へ突っ込んだのが「カッコいい」というのは小学生レベルの「感想」である。
写楽は謎
島津義弘も神様では無いからね。
それでも、忠義を通すのが薩摩武士。
幕末の挙動もそうなんですが、薩摩人は血の気は多いのだけど優柔不断或いは狡猾なところがあるというイメージがあります。フランスに似ているかな
全くの不勉強ですね(笑)
島津義弘は「関ヶ原で戦わなかった」のではなく「関ヶ原で戦えなかった」というのが真実です。
数々の戦で培われた経験で第2陣に配された事で『合戦当初は体力温存の為に甲冑を付けず』に参戦のタイミングを計っていたこと。
八十島や石田三成が島津勢に参戦を依頼してきたタイミングが信じられないくらい早かったというのが真実らしいです(笑)
関ヶ原後日談として義弘公は撤退決定前に「島津兵5000なら今日の戦は勝てたものを!」と3度も呟いたとも御座いますのでね!
関ヶ原で有名な「家康の問鉄砲」なんて江戸時代の軍記物での創作。
実態は合戦開始早々に小早川勢が大谷勢に襲い掛かり西軍は何の見せ場もなく敗走を始めたというのが昨今では共通認識です。
『島津退き口』という前進撤退の真実は「石田・宇喜多勢敗走の為に伊吹山方面は渋滞」、「義弘が老齢の為に伊吹山を越山する体力の不安」という面を考慮して「ひとまず大垣城に入城する」という目的で前進撤退という非常識でクレイジーかつロックルロールな撤退方法になった訳です(笑)
島津勢が大垣城に向かって前進している最中に大垣城から上がる煙を確認したので伊勢街道方面に撤退したという旨の第1資料も出てきてますから(笑)
あと「捨てがまり」は明治以降にしか文献は確認されてませんので創作です。
島津の鉄砲で井伊直政に重傷を負わせたのは間違いのない事実ですが、「井伊直政が撤退する島津勢の追撃中」ではなく「井伊直政が敗走する石田・宇喜多勢を追撃中に島津勢の陣地を横切った際に島津勢の放った弾(流れ弾)に当たってしまった」というのが真実です。
番組で講釈垂れるなら最新の研究にも目を通してからにしてください。
番組製作者及び御自身の評価にも関わる大事で御座います。
すいません。
律儀で勇猛な名将である義弘公の為に熱くなってしまいました。
大目に見てください。
最初は外資コンサル出身の作家で境遇が同じだなと思って興味持っていましたが、番組でのコメントには興ざめしてしまいました。
私はまさに登場する鹿児島の伊集院・妙円寺で育ちました。鹿児島の歴史を学ぶ者たちはみな義弘公が好きですが、朝鮮の役での功績が大きすぎるばかりに大河にも取り上げられず、不遇だといつも感じています。。。これだけドラマチックに戦国を長寿・大往生して畳の上で死んだ武将は稀です。
過大評価と仰る方々は歴史を知らないか、朝鮮での活躍に恨みを持つ方たちでは?と思ってしまいます。
そもそも人類の有史以来、これだけの大会戦で前進退却した例はないです。天下分け目の戦いで大勢を動かせる能力のある指揮官であるにも関わらず、何もできず、如何にして武名を挙げて死ぬ・もしくは生き残って家の存続をするか、という一点で敢行した苦渋の決断です。
少数の島津が全力で戦ったところで小早川が裏切るのでその点についても大勢を動かすパワーが残念ながらありません、黒田、細川、その他に攻められている石田勢を援護できたぐらいが関の山です。
伊東先生の著書は幾らか拝読して面白いなと思いますが、徳重神社やその隣りにある妙円寺という寺やその住職から話を聞いたことがありますか?私にはその点は明らかに場所と地名だけの紹介で終わっていて、なにも大事なことが取材されていないように感じます。それは番組の構成的に、優柔不断な義弘という少し今までの見方と違う新しい義弘公の姿を指摘したいというだけなのでは?
そこにある資料や口伝されてる話や神仏を尊んだ義弘公の姿と共に色んな話や歌が遺っています。それを知らないからこのような嫌な顔をしながらコメントされたのかな・・と思ってしまいました。
とてもじゃないですが、優柔不断の人で関が原を戦わなかったことを批判されるような薩摩武士として恥ずべきことは何もしていないと思いますよ。もししてるなら木崎原での勝利や彼を慕って人の和を重んじる義弘公は尊敬もされず、1000人以上の本国からの自費負担で戦場に駆けつける家臣などいなかったかと。
これだけの少数で本国からの補給もなく、1日で終わるはずがないと思われた天下分け目の戦が半日で四面楚歌になる状況を当時誰が予想したんでしょう。補給もなく1日全力で戦えばその後のことを誰が面倒みるのか、というそういう心配が常に頭の中にあったはずで、いざその場で福島・井伊・徳川本陣をかすめる突撃をする判断ができた武将と兵は彼らだけかと。
伊東先生はもうちょっと郷土史や現地での取材力がある方かと思いましたが少し残念に思った次第でした。もし紹介していないだけだったり、全てを知ったうえでそういう発言だったのでしたら申し訳ありません。
北条氏政は賢くないので親も呆れる。食事のご飯の量を決められないので我が家は滅びると言った。
残念ながら、すてがまりとしんがりの違いがよく分からなかったです
しんがり は退却の際の1番後ろの部隊です。危険はもちろん1番あるが、帰るのが最終目的ですね。
すてがまりも似たような部分がありますが、島津のすてがまりは、死を覚悟ではなく、戦場に坐禅をして座り込んで鉄砲をうって、そのまま敵陣に切り込むような、「仲間のために、死にに行く」イメージをしてもらえれば。覚悟ではなく、本当に死んじゃう。
自由な作家では一国のトップの考えを理解するのは無理か
政治論も絡めないと難しいので歴史だけの一面だけの論議では厳しいな