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「御言葉ですから網をおろしてみましょう」ということは盲従することとどの点が違うのでしょうか?
メッセンジャーの佐藤からの回答を記載します。----とても素晴らしいご質問をありがとうございます。ご質問に対する回答をポイントで申し上げると下記のとおりとなります。①ペテロの発言の背景を理解する必要があります②事実をベースとしていた点で盲従する事と違います③自分の主張を一旦置き、意思を持って従った点で盲従する事と違う。ペテロの「でも」という発言に着目してみましょう。④結果が盲従する事と違ってきます。①まずペテロが「でも、おことばですので」と言った背景をみてみましょう。歴史的にみてみますと、イスラエルの民は先祖たちに度々神が語られてきたメシアの到来を長年待ち望んでいました。ペテロ達の時代の背景としては、預言者マラキがエリヤの再来を預言して以降、400年近く有名な預言者もエリヤの再来と思われる人も現れる事無くペテロの生きた時代に至りました。この時代のイスラエルはローマの圧政に苦しむ状況下でもありましたので、より一層メシアを待ち望む風潮が強まっていたと理解されています。そんな中、バプテスマのヨハネが現れ、民衆の中のメシア到来の期待感が高揚している中にイエスが伝道活動を開始されて、奇跡や民衆が今まで聞いた事がない教えをし、この人がメシアではないかという期待感が民衆をはじめ、ペテロにも生まれていたことが聖書の文脈上想定されます。更に、この網のシーンに至る前に、ペテロの姑の熱病をイエスが癒すという奇跡にペテロ自身が遭遇しています。②ペテロは上記の事実を地元のガリラヤで直接見聞きし、そして姑の熱病が癒される奇跡も事実としてそれを目撃したのです。盲従は事実をベースにする必要はありません。例え盲従の対象が嘘偽りにまみれていてもいいのです。しかし、意思を持って従うという事は事実をベースにしないとできない事です。ペテロには姑の癒しという事実があり、ペテロはその事実を見ています。③ペテロが「でも」と言った事が重要である事をみてみましょう。当時の職業はほぼ世襲制であったため、幼い頃からガリラヤ湖畔に住み、漁に関わっていたであろうペテロは、漁においては相当な経験と自負があったでしょう。プロの漁師の自分が一晩中漁をして1匹も魚がとれなかったと言っているのです。そんなペテロにイエスは「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい」と言われました。プロの漁師からしたら、大工の息子(イエス)が何を言うかと言ってもおかしくない状況であったと思います。ペテロには明確な自己主張があったのです。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。」という一文にそれが如実に表現されていませんでしょうか。しかし、ペテロは、メシアではという期待、イエスの評判、行った奇跡、自分の姑に対する癒しを目の当たりにしていたので、『でも…』と言ったのです。自分の経験や知識や考えを超える何かをイエスに感じ、自分の主張を一旦置いて、イエスの指示に従いました。これは盲従ではなく、意志を持って従ったと言えるのではないでしょうか。④意志を持って従った事で、結果が変わった事をみてみましょう。網を下した結果、大量の魚が捕れた事で、ペテロはどうなったでしょうか。ルカ5:8-10でペテロはひれ伏した、驚いた、恐れたという記述があります。これはペテロが明確な自分の意志を持ちつつ、それを超える力の通りにしてみてその力を目の当たりにしたから起こった現象ではないでしょうか。人は自分のキャパシティを知り、それを明らかに上回る事象に出会った時に、初めて己の限界や畏怖などを認識するものです。自分の知識や能力や財力etcの限界を知らない者は、大きな力に出会ってもその凄さや自分との差分を認識できず、ここまでの感情の動きは得られません。盲従する人は己の状況を正しく認識していないので、限界を知らない人と状態は近しく、そこまで感情が揺さぶられる事がないのです。想像してみてください。自分の認識を超えている人や事象に対して当然の様に思ってその凄さがわかっていなくて大して感動していない人と、ペテロの様にひれ伏したり、罪深い私から離れてくださいと言ったり、驚き恐れたりする人が、その後どう違ってくるかを。人生において、これに気づけるか気づけないか、霊的な観点でも肉的な観点でも成長する人なのか否か、本質をつかむ人になるか否かは、この認識があるか無いかが分岐になると思います。以上、「おことばですから網をおろしてみましょう」ということは盲従する事とどの点が違うのかについて、前提と3つの点から回答させていただきました。ご質問者の方が聖書理解を進められる一助となることを祈っております。
@@olive-church お返事下さってたんですね。すいません😣💦⤵️今気がつきました。奇跡を目の当たりにした上での事実をベースにした言葉だったんですね。お返事を読みつながりました。ずっとひっかかってたことがめからうろこでした。ペテロは盲従したのではなく、信仰のあるふりをしたのでもなく、現実におこってる事実だから当然のこととして網をおろしたんですね。なんかすっきりしました。聖書は立体的にとらえる必要がありますね。ペテロの背景がリアルに見えた気がします。詳しい解説本当にありがとうございました💖
「御言葉ですから網をおろしてみましょう」ということは盲従することとどの点が違うのでしょうか?
メッセンジャーの佐藤からの回答を記載します。
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とても素晴らしいご質問をありがとうございます。
ご質問に対する回答をポイントで申し上げると下記のとおりとなります。
①ペテロの発言の背景を理解する必要があります
②事実をベースとしていた点で盲従する事と違います
③自分の主張を一旦置き、意思を持って従った点で盲従する事と違う。ペテロの「でも」という発言に着目してみましょう。
④結果が盲従する事と違ってきます。
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まずペテロが「でも、おことばですので」と言った背景をみてみましょう。
歴史的にみてみますと、イスラエルの民は先祖たちに度々神が語られてきたメシアの到来を長年待ち望んでいました。ペテロ達の時代の背景としては、預言者マラキがエリヤの再来を預言して以降、400年近く有名な預言者もエリヤの再来と思われる人も現れる事無くペテロの生きた時代に至りました。この時代のイスラエルはローマの圧政に苦しむ状況下でもありましたので、より一層メシアを待ち望む風潮が強まっていたと理解されています。
そんな中、バプテスマのヨハネが現れ、民衆の中のメシア到来の期待感が高揚している中にイエスが伝道活動を開始されて、奇跡や民衆が今まで聞いた事がない教えをし、この人がメシアではないかという期待感が民衆をはじめ、ペテロにも生まれていたことが聖書の文脈上想定されます。
更に、この網のシーンに至る前に、ペテロの姑の熱病をイエスが癒すという奇跡にペテロ自身が遭遇しています。
②
ペテロは上記の事実を地元のガリラヤで直接見聞きし、そして姑の熱病が癒される奇跡も事実としてそれを目撃したのです。盲従は事実をベースにする必要はありません。例え盲従の対象が嘘偽りにまみれていてもいいのです。しかし、意思を持って従うという事は事実をベースにしないとできない事です。ペテロには姑の癒しという事実があり、ペテロはその事実を見ています。
③
ペテロが「でも」と言った事が重要である事をみてみましょう。
当時の職業はほぼ世襲制であったため、幼い頃からガリラヤ湖畔に住み、漁に関わっていたであろうペテロは、漁においては相当な経験と自負があったでしょう。プロの漁師の自分が一晩中漁をして1匹も魚がとれなかったと言っているのです。そんなペテロにイエスは「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい」と言われました。プロの漁師からしたら、大工の息子(イエス)が何を言うかと言ってもおかしくない状況であったと思います。ペテロには明確な自己主張があったのです。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。」という一文にそれが如実に表現されていませんでしょうか。
しかし、ペテロは、メシアではという期待、イエスの評判、行った奇跡、自分の姑に対する癒しを目の当たりにしていたので、『でも…』と言ったのです。
自分の経験や知識や考えを超える何かをイエスに感じ、自分の主張を一旦置いて、イエスの指示に従いました。
これは盲従ではなく、意志を持って従ったと言えるのではないでしょうか。
④意志を持って従った事で、結果が変わった事をみてみましょう。
網を下した結果、大量の魚が捕れた事で、ペテロはどうなったでしょうか。
ルカ5:8-10でペテロはひれ伏した、驚いた、恐れたという記述があります。
これはペテロが明確な自分の意志を持ちつつ、それを超える力の通りにしてみてその力を目の当たりにしたから起こった現象ではないでしょうか。
人は自分のキャパシティを知り、それを明らかに上回る事象に出会った時に、初めて己の限界や畏怖などを認識するものです。
自分の知識や能力や財力etcの限界を知らない者は、大きな力に出会ってもその凄さや自分との差分を認識できず、ここまでの感情の動きは得られません。盲従する人は己の状況を正しく認識していないので、限界を知らない人と状態は近しく、そこまで感情が揺さぶられる事がないのです。想像してみてください。自分の認識を超えている人や事象に対して当然の様に思ってその凄さがわかっていなくて大して感動していない人と、ペテロの様にひれ伏したり、罪深い私から離れてくださいと言ったり、驚き恐れたりする人が、その後どう違ってくるかを。
人生において、これに気づけるか気づけないか、霊的な観点でも肉的な観点でも成長する人なのか否か、本質をつかむ人になるか否かは、この認識があるか無いかが分岐になると思います。
以上、「おことばですから網をおろしてみましょう」ということは盲従する事とどの点が違うのかについて、前提と3つの点から回答させていただきました。
ご質問者の方が聖書理解を進められる一助となることを祈っております。
@@olive-church お返事下さってたんですね。すいません😣💦⤵️今気がつきました。奇跡を目の当たりにした上での事実をベースにした言葉だったんですね。お返事を読みつながりました。ずっとひっかかってたことがめからうろこでした。ペテロは盲従したのではなく、信仰のあるふりをしたのでもなく、現実におこってる事実だから当然のこととして網をおろしたんですね。
なんかすっきりしました。聖書は立体的にとらえる必要がありますね。ペテロの背景がリアルに見えた気がします。詳しい解説本当にありがとうございました💖