能登半島の「モーゼの墓」に行ってみた

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  • Опубликовано: 10 ноя 2024

Комментарии • 9

  • @burny8434
    @burny8434 3 года назад +1

    日月神示 
    出口王仁三郎
    艮の金神
    国常立尊命神🍇

  • @trbharam
    @trbharam 7 лет назад +4

    タケノウチ・キヨマロ ですよね 是非訂正を 山根菊子(キク)昭和13年頃「光りは東方より」で明らかにしています。現在は国会図書館で版権フリーとなりPDFで読むことができます。
    モーゼの墓はキリストの遺言から見つかったものです。モーゼ、大室姫と孫のタルラス・イホスチビリウスの墓と言われています。タケノウチ文書(もんじょ)は英訳もされており、海外でもとても有名です。戦後すぐGHQが発掘に来て、ローマ式のヘルメットなどを持ち帰ったとか。

  • @saminkofu
    @saminkofu 7 лет назад +1

    2016年、夏に行きましたがパネルは綺麗になってましたよ。英訳も付いていました。

  • @eihikosunami
    @eihikosunami  11 лет назад +1

    Caron Mimi 様 見てくださり、ありがとうございます。

  • @asa01053
    @asa01053 5 лет назад +2

    竹内ぶんてい。文書

  • @hureia1
    @hureia1 11 лет назад +3

    こんにちは 私はエネルギーがわかるのですが、この場所はすごいエネルギーを
    感じます。 私も訪ねてみたいです。UPしてくれてありがとうございます。

  • @eihikosunami
    @eihikosunami  5 лет назад +2

    ここがモーゼの墓だというのは歴史的には納得しがたいものがありますよね。青森のキリストの墓も同様ですが、青森の場合は昔のユダヤの風習に酷似した文化が濃厚にあったことは確かで、それは古代、秦氏が日本に集団でやってきて、ユダヤとかヘブライ文化の風習を土着化させたというような経緯があることに関係が深いのではないでしょうか。秦氏の集団は、故郷から追い払われ、東方へと流れ流れて、朝鮮半島から日本にたどり着いた集団は一つではなく、複数、また時間差もあったのではないかと考えるのが自然です。その集団の一つが秦氏であり、別なグループは能登半島に、また別なグループは、青森の八戸あたりから上陸してグループの重鎮が今の新郷村に定着した。その集団は、イエスキリストを信奉する人々で、中心人物がいわゆる歴史上のイエスとすると、トンデモになりますが、イエスに深く帰依していた縁者か弟子か、そういう人物であったのではないでしょうか(原始キリスト教の信者では)。竹内巨麿が霊的に感得したキリストの墓の情報は、いささか過剰ですが、方向はかなり正しかったのでは。しかし、霊的判断にはピンポイントではずれたり、個人的な推測が働いてしまうことがあることは、神審(さにわ)が必要な理由です。同様に能登のモーゼの墓も、秦氏とは別なグループが能登半島に定着し、そこで豪族となった中心人物が、モーゼを深く信奉していたので、その古墳にはモーゼ信仰のアストラルエネルギーが残ります。それを霊的に感得すると、モーゼの墓だとなったのではないか。霊的判断は、しばしば大げさになりがちなことを、私はずいぶん見てきました。ただし、行き過ぎで極端な結論になってしまったのはちょっと残念ですが、キリストの墓やモーゼの墓の伝承は、日本にユダヤ・ヘブライの文化が古墳時代には分散して入ってきたことの証左となるので、トンデモで片づける話ではありません。とても重要な歴史上の事実として、受け止めたいと想います。

  • @aoiumebachi
    @aoiumebachi 7 лет назад +3

    しっかり、間違わないで読みなさい。
    葬られも祭られと読むなど・・・真実味が薄らぐよ。