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確かに、詮子さんも道長に『身分の賤しい女は一時の慰みもの』と言っていましたし、それは召人とか、それ以下、という事なのでしょうかね。存在していないような扱いが切ないですね。
身分が優先される時代なので仕方ないですね~。
平安時代は一夫一妻多妾と習いました。蔭位の姓も習いましたが、今回の動画でなるほどと納得できました。
こんばんは。決して歴史に詳しいわけではないのに、字幕なしで理解に努めているお二方、凄いです!昔からどうしてもわからないのですが、妻問い婚にしても婿入り婚にしても、子どもは母方で育ちますよね。でも藤原氏にしても他の氏族にしても、家系は男系で繋いでいきますよね。妻問い婚なら子どもにとって父親は毎日会う人ではないし、婿入り婚で嫡妻の子どもであっても毎日会うわけではない。そうすると、母親や母方の祖父のほうが親しみが湧いて父親の家系より母方の家系の発展に尽くしそうな気がします。父方の家系への所属意識が希薄になるというか。天皇家のように帝が御所にいて、妻は御所に上がるのなら腑に落ちるのですが…。子どもたちはどのようにして父方の“家”をもり立てようという意識になったのでしょうか?また、婿入り婚で婿を迎える娘の親は、婿殿のためにせっせと着物や何やとお金をかけて世話を焼いて、それで出世していくのは婿の家系でも平気だったのでしょうか(婿殿が出世したら岳父として余禄に預かれるからいいのかな?)。
もう 私は雛人形を可愛い😍だけの感情では見れなくなりましたわw😂
同じく(笑) 2024.(R.6) 4.4.(木)
古希にして学んでます、テレビはほとんど見てませんでしたが 光る君へは楽しみにしています。長谷川一夫の源氏物語を見て 与謝野晶子の現代語訳の朗読を聞いています、かしましチャンネルも勉強になります。
くーさんの「ぜひメンバーシップへ」の誘い文句が、いつもジワります❤
確かに、くーさんの言われるように、毎回テロップとか無い状態でお話聞いてるおふたりは凄いと思ってました!さすが👍
平安時代は通い婚だけだと思っていたので、入り婿婚、さらに嫁取り婚と変化して行ったというのは、目から鱗でした。嫡妻は誰かというのは、確かに一番出世している息子達の母親というのが、正しいですね!きりゅうさん、さすがです。召人の地位の低さは、可哀想ですね。和泉式部はなぜそんな肩身の狭い立場で敦道親王のもとにいたのでしょう?和歌の才もある当時の教養高き女性であれば、もう少し良い地位を得られそうなものです。なまじ親王が相手だから、貴族と違い面倒な決まりなどがあったのでしょうか?!
😮凄い凄い。細かいところまで、学ぶことができる。わかりやすくて良いです〜…中々、ここまでは、学べ無いです。愉しんでます。歴史、大好き💕💕💕💕💕
このチャンネル、いいわきりゅうさんの説明が、めちゃくちゃわかりやすい歴史の授業、こんな先生に教えてほしかった。それから、ラットちゃんとくーさんとの掛け合いも最高頑張れ1登録者数10万人に向けて
フレーフレー。10万人応援団のひとりより。
こんなに豆知識くださって本当に感謝です😂100倍楽しく大河観れます❤目指せ先ずは10万人🎉
召人…初めて知りました!正妻以外の側室&妾(この違いもわからない💦)が愛人だと思っていたのに妻なんですね!召人にはなりたくないわぁ〜!!悲しいもの…
「OK?」「OK!」「ヨシッ!」のノリ軽すぎて笑ってしまいました😆
博学な面と今どきのノリが、相まって楽しい 🎵
大石静さんが、「(まひろは)道長のことはずっと好きで、何度も自分の妻になれと言われるけれど、それは受けない。嫡妻も妾(しょう)もいる道長のところに行って不自由な思いはしたくないと断ってしまう。」とインタヴューで答えていますね。道長が上昇志向の非常に強い家の息子だという制約以前に、当時の社会制度として、まひろは身分が低くて最初から嫡妻になれる資格が無かったのか・・・😢源氏物語で、女三宮の降嫁に紫の上が苦しむ理由。以前よりも理解できるように思います。
今日も分かりやすい解説ありがとうございました🙏❣️ でも、まだまだ理解できたかは‥⁈です。召人、知らなかったです。でも、楽しい回でした。ラットさんと同じくまた見直します😊
きりゅう先生のお話を聞いて、源氏物語の匂宮の嫡妻が六の君(桐壷帝の息子である光源氏の息子である夕霧左大臣の娘)、妻が中の君(桐壷帝の息子である宇治の八宮の娘)と描かれるのは、道長の嫡妻が倫子(宇多天皇の息子敦実親王の息子である左大臣雅信の娘)、妻が明子(醍醐天皇の息子である源高明の娘)ということからきているのでは?と思いました。雅信は朝廷で重きをなしたのに対して、高明は失脚というのも、夕霧と八宮の対比につながっているように感じます。
今回のお話は、すごく分かりやすかったです。一夫多妻と言っても、どうしても現代の感覚で見てしまうので、正妻と愛人くらいのイメージでしか思ってなかったので、嫡妻とか召人とか、そういうものなのかと目から鱗です
😅
ラットさん、私3回見ました😂わかってきましたよ〜!
平安時代の約400年の間に結婚の形も変わっていったのですね貴族が家柄を尊重して婿入りしたり多妻だったり、その後武士が武家を引き継ぐために嫁入りするようになったという説明は納得しましたもしかしたら500年後 1000年後の結婚の形も今とは違っているかもしれませんね次の動画も楽しみです😊
こんばんは😊婚姻制度めちゃくちゃややこしいですね〜😂ほんと字幕なしで声だけ聞いてるくーさん、ラットさんすごい✨前からそれ大変だろうなと思ってました😂その日しゃべるレジュメ配布とかしてるのかな?とか思ったけど口頭だけとは!笑 イラストや字幕でわかりやすく編集してくださってるチームてぃさんいつもありがとうございます✨
数年ぶりに大河を見て、久しぶりにこのチャンネルを思い出し、見ようと思ったのだけれど(普段歴史とは程遠い生活をしておりますゆえ登録を済ませておりませんでした。。)チャンネル名を忘れておりRUclips上ではなかなか見つけられず、ツイッターで歴史、RUclipsのキーワード検索でようやくたどり着けました。!!やはり、今回の動画も面白かったです!遅くなりましたが、チャンネル登録させていただきました。😂
当時の従者や召人は出世しなかったと思うと現代人としては悲しい😭ま、そう言う意味では後の武士階級の台頭は、僅かでも身分制度が崩されたと言う意味で嬉しく思っちゃうな〜。だけど、そのシステムの当事者は、その時疑問に思うこともない時代だったかもしれませんね。
今日も分かり易い解説ありがとうございます🤗今回のドラマの中で円融天皇が子供を産んでない遵子さんを中宮したみたいだけど兼家さんからしたら嫡妻の制度があるのにいくら天皇でもそれはないだろうとか思ったんでしょうか🤨🤨道隆さんや道長さんが歓談してたお屋敷になにか唐菓子のようなものが映ってましたね。
学生時代、源氏物語のゼミを専攻して、卒論のテーマはまさに嫡妻の決定方法でした!とても興味深くて面白かったです。源氏物語で言うと、宇治十帖に登場する薫が大君(嫡妻の子)と浮舟(召人の子)に対する扱いが全然違いますよね。解説を聞いてそれを思い出しました。今年の大河ドラマの影響で久しぶりに源氏物語を読み返したくなりました。
初見です🔰おすすめに流れてきて紫式部が大好きなのでみてみるとすごく分かりやすく楽しかったです。チャンネル登録完了です(*`・ω・)ゞ
わかりやすい!しかも、面白い語り!やっぱり今年も宜しくお願いします。楽しい😀
ドラマの第一回から、ナレーションに嫡妻とでてきて、初めて聞いたなあ、正妻と違いが有るの?と思っていました。説明頂いて有り難うございました。あと、字幕無しで聴いている、くーさんとラットちゃんは、ホント大変ですねぇ❗
いつもわかり易い解説ありがとうございます。疑問に思ったのですが、通い婚の場合、新しい女の人が出来て『夜離れ』の状態になりますよね。どれくらいの期間通って来なくなると離婚した事になるのでしょう? 平安時代は女性の方から離婚出来ないそうなので、第二の人生に踏み出したい女性は困りますよね。婿取り婚なら義父母に追い出されたら離婚ってなって分かり易そう😄
新しい男性が通ってくれば、すぐ再婚できますよw
古代、東国では庶民の男女の出会いの場として「歌垣」があったとききますが、平安時代時代、特に京の周辺の庶民には、そんな出会いの場はあったんでしょうか?「光る君へ」では道長の從者の百舌彦さんが、賛楽の見物の場で逢い引きしてましたね。ずうっと何年も同じ女性と付き合ってるみたいで…ちゃんと結婚しないのかな?と気になりました。
毎回楽しく拝見しております😊ただ、私も何かをしながら聞いているので、ラットさんく〜さんと同じで1回目はテロップなしで頑張っています(笑)質問です🙋♀️今は一夫一婦制なので、奥さん以外は愛人になるのは分かるのですが、平安時代は一夫多妻制なのに、なぜ召人が存在するのですか? 家柄のせいですか?教えて頂ければ嬉しいです☺️
光源氏が権勢のままに館を造って春・夏・秋・冬それぞれに縁あった女性を住まわせたまあ帝と同じやり方ですがこんな人いたのでしょうか
こんにちは、今回も知識動画をありがとうございます。もし三条天皇の目の話辺りでドラマに出てきたら、民部卿元方の怨霊の話と、孫の袴垂保輔の解説をお願いいたします。
話したい!!
昔、漫画で書かれた蜻蛉日記を読んでましたが、嫡妻に関しての記述はうすかったかわりに、子供の出世に関しては気がかりでいたと書かれていました。この動画をみても当時の通い婚でも嫡妻はどうやって決まったのか妻たちも分かっていなかったのかもしれないと思いました。
わかりやすい解説ありがとうございますちやはが北の方と呼ばれてましたが、嫡妻と言うことでしょうか?また、ちやはが、私の里が豊かであれば、こんな苦労はしないのですっとまひろに言っていましたが、貧しいちやはの家に婿にきたからでしょうか?でも、ちやはの祖父は、現役の中納言文範のはず。ちなみに、NHKの相関図を確認したところ、為時の除目の申し文を読んだ方は、文範でした!やはり孫の夫の後ろ盾になろうとしていたのですね
三回目放送から、ナレーションでの簡単な人物紹介・背景説明が出るようになりましたね❗(1,2回目はあった?)それと道長さんが馬に乗って街を移動する際に、牛車が初登場?してましたね😃ランクの区別は分かりませんでした😅定子と後の一条天皇・懐仁親王が一緒に庭(道隆邸?兼家邸?)で遊んでいるシーンがありました。その中で鶏が放し飼い状態でしたね・・・これは食用(卵利用含めて)でなかったら~もしかして観賞用?ペットかな?
闘鶏用かと
闘鶏用ですかぁ❗️母の実家で祖父が趣味にしていたそうです(1940年代)ありがとうございます😃
蔭位は嫡子だけでなく、庶子にも与えられたようですね。一段低い位階ですが。
男も女も親ガチャどころじゃないですね。。。中国だと貧しい身でも美貌さえあれば成り上がったり出来る可能性ありますが
正妻・源倫子と側室・源明子に,それぞれ平等に6人ずつ子供が誕生してる藤原道長は器用ですなぁ…なかなかできないよ😅ただし,倫子と明子のそれぞれの子供達の身分差や嫁ぎ先は,同じ道長の子でも「母親が正妻か側室か」によってこんなにも違うのか…というくらいに差ありますね🤔!
きりゅうさん!質問です!和泉式部はどうして妻ではなく、召人止まり(という表現があっているかわかりませんが…😅)だったんでしょうか?妻にしてもらえない理由はなんでしょうか?和泉式部は和歌が百人一首に選ばれるほどの学があるのに、召人にしかしてもらえない。ということに疑問を覚えました。教えてくださいm(_ _)m妻の説明わかりやすかったです😊ありがとうございます❤
身分差です。
身分差…😱親王の妻になるには、それなりの身分が必要なんですね💦平安時代の常識、現代の非常識をもっと勉強しなきゃですね。ありがとうございます❤
ナイスなご質問、そしてズバリと簡潔なお答え ステキ和泉式部は高校時代の古文の教師が「今 飛んでる女ってのが流行ってるけど(そういう頃)この人は飛びすぎてどっか行っちゃった女性です」って言ってた どういう点が?って詳しくは言ってくれなかった当時の高校生相手には説明出来ない事情だったかな
あらためて日本は色々な意味で曖昧な「グレーゾーン」が好きだなと思います。
和泉式部が召人だったとは驚き!!
今晩は。 道長さんのもう一人の妻、明子さんのお父さんは亡くなられてたそうですが、そういう場合、道長さんは通い婚? 明子さんの生活費などは誰が出してたのでしょうか?
明子は道長のお姉さんの詮子の養女になったのですw
返信、ありがとうございます。
私も「家」がよく分からないので、コメントさせてください😊兼家や道隆が我が家の連呼してますが、「イエ」が生まれたのは中世に入ってから、だから彼らがいう家はイエの萌芽ってことでしょうか?通い婚についてですが、若夫婦は当初妻実家に同居してても、やがては独立するか、親世代夫婦が引っ越すそうです。で、貴族としてのお仕事のノウハウは父から教わる(だから貴族は日記をつけるとのこと)そうなので、官位関係は父方が大事になるんだなぁと思いました。そして、イエの観念はまだないから、父方にせよ母方にせよ、家を盛り上げていこうという意識はなかったのでは?男子は官職を、女子は不動産を親から譲ってもらっていた。だけどそれらをイエとして代々ついでいく意識はまだ育っていない。なぜなら官職も不動産も水ものだったから、大事についでいこうとしても途中で消えちゃう恐れがあった。よく分からない説明で、すみません😅
【質問】裕福でないと一夫多妻ができないですが、当時の裕福って、何を沢山持っていると裕福と言えたのでしょうか?。当時はまだ貨幣がまだあまり出回っていなかったと思うので。
朝廷からいただく、お給料ですねw
@@kashimashi_rekishi_ch 様、お給料は何で支給されていたのでしょか?。
奈良時代あたりから足袋らしきはき物があったと思うのですが、光る君へでは、素足ばかりのようにみれますが、何の位の立場から足袋がはけたのでしょうね?
庶民(しもじも)はビビビ婚だった🎉研究者でも謎な部分は言ったもん勝ちであります🫡
興味深い話です。ぱーと1はどこにありますか?平安時代の結婚はカオス😅私的には、京都に嫡妻??を置いたまま、第二夫人?の宮仕えしていた女性と娘2人と一緒に東国で暮らしていた菅原孝標って人の家族が気になります。更級日記を読む限りではほんとうに楽しく暮らしていたようだし、筆者の実母は京都どころか屋敷の外にはできるだけ出たくない!という人だったから仕方ないとしても面白い家族構成だな、と思っていました。召人の子供の話がありましたが和泉式部も確か一人か二人、敦道親王との間に子を儲けていますね。そのお子さん達、どうやらお坊さんになったようで。平安時代は嫡妻の子供でもお坊さんにするという場合があったようなので、そんな珍しくはなかったでしょうが、幼くして子供を手放すような形?で和泉式部も切なかっただろうなと思います。
今回もありがとうございました。くーさん!ナイスツッコミ😂質問なのですが、道長の従者さんは同じ女性とさん楽中に抜けていきますが、彼は彼女と結婚は出来ないんでしょうか?道長の許可?兼家さんの許可が必要なんでしょうか?
「光る君へ」が始まりこのチャンネルを見るようになりました。いつも楽しく、かしましく学んでおります。さて質問があるのですが、蜻蛉日記の作者は兼家の「妻」なのでしょうか?それとも「妾」なのでしょうか?ご回答よろしくお願いします。
解説ありがとうございます。嫡妻は子どもたちの能力で決めてしまえばいいんじゃないかと思いました。実際はどうだったんでしょうね。
奥さんが沢山いる人と25年ほど前に逢いました。私はお金があってもせいぜい2人か??? その人は7人の奥さんがいて6人目までは一人ずつ子供がいました。朝、正妻宅で起きて朝食を済ませ、2番目の奥さん宅へ移動。奥さんにはそれぞれ店などを任せているので仕事の進み具合や問題解決相談などの後、子供の様子の話をして3番目の奥さんの宅へ移動、これを7番目まですると大体夜の2時で就寝。3時半に起きて本妻宅へ移動する。これを毎日繰り返していました。うらやましいが俺には3人は無理かも・・・・・
別の配信者さんの歴史解説(西洋史でしたが)で、昔の結婚は自由がなかったから不倫にこそ恋愛を見出した、とありました。今日の解説で思ったのですが、当時の法的な待遇は下であれ、日本でも召人との間にこそ男女の情があったのかなと思いました。
高校生の頃、授業で、源氏物語の葵さんや紫さんの女房が、源氏の愛人になってるのを知り、いろいろ女心について考えました。テストの役には立たなかったけれど、深まった気がします……。彼女らにこそ、きっと真実の誇り高い愛があったのだろう、などと😂乙女だったあのころが懐かしい。
@@オキザリス-g8gなんと…葵さんや紫さんの女房にまでですか……それだけはなんか憤りを感じてしまいます😢 道長が光源氏のモデルってことは……
素朴な疑問なのですが、貴族階級内で各男性が複数の妻を持ったら女性不足にならないのでしょうか?女性側も同時に複数の相手がいたりしたのでしょうか。それとも男性側は貴族の中でも上澄み(良い官職を持つ人物など)に限定されていたのでしょうか。お忙しいと思いますが教えていただければ幸いです。
いつも楽しみにしてます。召人にならないで妻になりますって言うことはできないのですか?
まひろは、なれて召人だったんですね
昨年の『どうする家康』で秀頼が「蘭陵王」を舞って徳川との格の違いをみせつけてましたが本日大井競馬場にてランリョウオーが見事S2を勝利しました もしかしたらこのまま 天下取りにいくかもしれません 浦和の王が皇帝に
宮中の場合、女御・更衣じゃない女性で天皇のお手がついた人はどういう扱いなんですか?
いつも授乳のおともに楽しく見ています!召人、難しい制度ですね😳前に平安時代のお姫様はほぼ動かないとおっしゃってたと思うのですが、動かなくて不健康+医療も発達していない時代に4人も産んで、しかもみんな大人になった時姫様すごくないですか!?道長の奥さん(倫子?)もたくさん産むんですよね?特別なケアをしていたのでしょうか?😳医療が発達した現代ですら1人産むのに大変だった私は平安時代では絶対に産めないと思いました(笑)
こんばんは🌙婚姻制度の複雑さにびっくりしました!質問ですが、妻や召人になるには条件があるのでしょうか?というのも、和泉式部のお話しの所で、そんなに愛しているなら妻にしちゃえばよいのでは?と思いました。それとも、妻にする人数は決まっていたのでしょうか?戦国時代の時のように正妻の許しがいるのでしょうか??教えていただけると嬉しいです🙇
家格ですね~。
ありがとうございます🙇
質問です。平安時代は女性の名前が知られていないことが普通だとのことですが、嫡妻の届出にも女性の名前はかかれていなかったのでしょうか。書かれてないとすると「だれだれの娘」という形だったのでしょうか。
婚姻制度の複雑さを考えたら「皇后は先着順」にした中国の清朝皇室ってかなり合理的だと思いました。
質問があります~!松田聖子さんみたいに男性を変えて複数回結婚されたスーパーガールは平安時代にいたのですか?戦国時代は夫が戦死すれば再度嫁ぐ話は、家康のようによく聞きますが…。また男性に通われて出来た子供のお父さんの指名権は妻、女性にあったと聞きましたが、子供が大きくなってその容姿が似ていなくて「あの子は俺の子じゃない」なんて言い出すトラブルはなかったのでしょうか?回答よろしくお願いします。🙇
今回きりゅうさんのお話に出てきた和泉式部がいい例ではないでしょうか?最初に結婚して子どもももうけたけど、だんなの地方転勤についていかなくて(離婚?)、そして親王様と恋愛関係になり、その親王様が亡くなったら今度はその弟宮と熱愛(きりゅうさんが話されていた、和泉式部を愛して北の方が実家に帰ってしまった敦道親王)。そして敦道親王とも死別した後は彰子に仕えて、道長の家司と結婚。他にもきっと言い寄られていたのではないかと思います。
そーなんだ!ありがとうございます。平安時代がますます面白くなってきました。😊
わ~い、明子さんキター🎉父を罪人とされて家格もめっちゃ凋落した家の娘を嫡妻と同じくらい愛でたから子供もいっぱい生まれた訳ですよね。やっぱり「罪滅ぼし感」あるなぁ、、、何人もの妻を娶る、、、というより「たくさんの縁を結ぶ」って感覚なのかな?男性も女性も出自こそが大事でそこにプラス作用するかもしれないのが、自分の業績(と言えるのか?)と魅力。女性にも財力とか権利があって、男権と女権の2つの権力がひとつの家庭に存在してた??ややこしい時代だけど、なるほど❗女性の活躍の場はその後の武士の時代よりあった訳だ。
血筋の良い女性が生んだ娘を沢山持ったことが、道長の出世につながったんですよね~💖
鎌倉殿の時から拝見させて頂いてます。きりゅうさんのお話大好きです。ラットちゃん、く〜さん、との三人の仲良し会話も平和で楽しくてほっこり癒やされます。私も小学生の時童門冬二の沖田総司で新撰組にハマり、あの頃の白泉社やRATTで育った同世代なので、拝見していて共感が半端ないです(笑)
ありがとうございます💓
子供のころ、古文を習っていた時に思っていたことを思い出しましたが、そもそも何故通い婚というものができたのでしょうか?治安が悪いから、女性は外に出られない?いつもありがとうございます。最近ご無沙汰しておりました。正月早々、567に感染してしまい、結構長引いてしまい、やっと元気になってきました。
松村邦洋さんが、繋いでいただけるのならコラボしてもいいような事、言ってましたよ。コラボしたら面白そう。
源倫子宅での女達の集いが、いかにも貴族の名門の子女的な表面上は温和でありながら胸の内では様々思っているだろう様子が描かれ、その中でも倫子の賢さが窺えた。まひろはそういう人の機微を解せず、単純に漢字の知識を披露してしまう失態を犯す。漢字学習の機会とばかり思い赴いたのが、倫子の様子を探ることが真の目的と悟り涙するまひろの実直さと他の貴族女性達の優しそうだが内面はドロドロそうな性質との違いが際立っていた。藤原公任の優秀さと行成の達筆な書も、初登場した。
奥さんが沢山いますが、生活費、お手当は差があるのですか?召人も生活費とかもらえたんですか?
2:19 の喩えでいうなら兼家パパの結婚はさしずめ2015年あたりのスマホ事情?🤔
どうするで例えるとお万の方が召人にあたる訳ですね?
嫡妻と妻の関係はよく分かりましたが、まひろがこだわっていた妾と妻は何か差があったのでしょうか。
先生、質問します。為時はちやはを嫡妻にしました。ちやはは早く亡くなりました。為時は他にも妻がいました。わずかな禄で複数の妻とその子たちを養うことができたのでしょうか?ちやはの父親がすでに亡くなっていたらかなり厳しかったと思います。他の妻たちの実家がまひろたちに仕送りしてたとか?
その可能性はあります。
源氏物語で夕霧の雲居の雁と惟光の娘、ごせちの舞姫だった藤のないしのすけとの間にたくさんの子供をもうけたのに、柏木の未亡人、女二宮とも結婚し、ないしのすけの娘に箔をつけるため、大二宮に育てさせたエピソードを思い出しました。
以前何かの本で「召人は大体妻の女房たちから妻本人によって選ばれて、いわば『妻公認の愛人』と呼べるような存在である」というようなことを読んだ覚えがあり、「妻が選んだ召人以外の女房たちに手をつけるのはご法度」みたいな認識でいたのですが、妻の公認とか関係なしに「夫と関係を持った女房=召人」という認識なのでしょうか?そこのところを詳しく知りたいです。
当時の貴族は近親婚は普通でしたが、それによる諸々の不都合とかなかったのかと、、、現代人の感覚からするとドキドキしちゃいます😂でも、一条天皇と彰子(定子も)は従兄弟だから…現代でも合法か…🤔
きりゅうさん、くーさん、らっとさん♡♡♡銀の盾㊗㊗㊗おめでとうございます!編集も毎回、面白いなーw😂😆🤭と…大好きで!てぃさん、これからもよろしくお願いします🙇私の大河の思い出は、小学生の頃、母親と観てた利家とまつだけで、その後、大河ドラマからはずっと離れていました。久しぶりに鎌倉殿!から復活!もっと詳しく知りたいな!と…このチャンネルを見つけ即、ハマったのを覚えてます😆✨今は親子で大ファン😍😸これからも楽しみにしてまーす💕💮どうぞご自愛ください。
惣領も鎌倉時代からですね。
第3話で藤原穆子が"土御門殿に殿が婿入りなさった"と言っていましたが源雅信が入り婿婚ということでしょうか
土御門殿じたいは、雅信が建てたと言われていますけどねw
嫡妻!届出!なるほど平安貴族は一夫一婦制って、そういう意味なんですね和泉式部はつまり召人?和泉式部日記は、召人が書いた暴露本?
たしかに暴露本だw
こんばんは🌙😃❗遊びで一夜の契りを交わしたら、妊娠してしまった、でも女性にも沢山の恋人がいた。場合はどうなるのでしょうか(-ω- ?)
それは大人のお遊びで終わるでしょうねw 子供を育てる権利は母親にあるので。
お答え有り難う御座います。なるほどー🤔危ない遊びでもあったんですね😂❤️
とても複雑な婚姻制度ですね💧今の感覚だと妾=愛人のイメージですが、当時は違うのですか❓
この当時の貨幣制度はどうなっていたのでしょう?
それはまた別の動画でw
第3回で、まひろが、万里小路をまりのこうじと言ってました。この当時はおんくんが乱立し、まりこうじと呼んでいたこともあるかも知れないとも思う半面、単純に間違いかなと気になります。もしわかっておられたらお教え下さい。
「までのこうじ」のような気もしますが……
ということは……まひろチャンは、召人になるのかしら??🤔うが〜😖😖😖😖😖
2:38 「嫁と離婚」もとい、「嫁摂り婚」阪神大震災前年の猛暑よりガラケーを使うも、当時は結婚した女性が携帯電話を持つなんぞ不良と呼ばれ。最近、スマホデビュー。関西セルラーの時代からの不良、出遅れました。
こんばんわ。今回の結婚についての話は貴族に限っての話ですよね。庶民の記録なんか残っていないと思うので。
今回の大河で女性からの文だか歌だかをもらった貴公子が厠に落としたりするなどと言ってましたが、当時の厠って?貴族女性は樋箱だの十二単衣をまくりあげる後ろ向き金隠しのような木の棒とか男性は尿筒とか厠?
平安時代のことはよくわからないので大変助かります一つ気になっているのですが、道長さんの烏帽子のブラシみたいなもの(「おいかけ」というのまではわかりました)は、なぜつけている人とつけていない人がいるのでしょうか
緌は武官のかぶる冠の緒の飾りです。文官はしません。いまの道長が兵衛府(武官)所属だから緌をしているのです。
トンチで有名な一休さんは後小松天皇の御落胤と言われていますが、その事は隠されていたようです。これは母親が召人だったからでしょうか?それとも別の事情があったのでしょうか。
南朝関係の方だったからと記憶していますが
武家社会になると一夫一婦多妾制になりますね。
夫をつま、と、呼んでいたような?何の話かな?
夫もつまと呼ぶと習った記憶があります
確かに、詮子さんも道長に『身分の賤しい女は一時の慰みもの』
と言っていましたし、それは召人とか、それ以下、という事なのでしょうかね。
存在していないような扱いが切ないですね。
身分が優先される時代なので仕方ないですね~。
平安時代は一夫一妻多妾と習いました。蔭位の姓も習いましたが、今回の動画でなるほどと納得できました。
こんばんは。
決して歴史に詳しいわけではないのに、字幕なしで理解に努めているお二方、凄いです!
昔からどうしてもわからないのですが、妻問い婚にしても婿入り婚にしても、子どもは母方で育ちますよね。
でも藤原氏にしても他の氏族にしても、家系は男系で繋いでいきますよね。
妻問い婚なら子どもにとって父親は毎日会う人ではないし、婿入り婚で嫡妻の子どもであっても毎日会うわけではない。
そうすると、母親や母方の祖父のほうが親しみが湧いて父親の家系より母方の家系の発展に尽くしそうな気がします。
父方の家系への所属意識が希薄になるというか。
天皇家のように帝が御所にいて、妻は御所に上がるのなら腑に落ちるのですが…。
子どもたちはどのようにして父方の“家”をもり立てようという意識になったのでしょうか?
また、婿入り婚で婿を迎える娘の親は、婿殿のためにせっせと着物や何やとお金をかけて世話を焼いて、それで出世していくのは婿の家系でも平気だったのでしょうか(婿殿が出世したら岳父として余禄に預かれるからいいのかな?)。
もう 私は雛人形を可愛い😍だけの感情では見れなくなりましたわw😂
同じく(笑)
2024.(R.6) 4.4.(木)
古希にして学んでます、テレビはほとんど見てませんでしたが 光る君へは楽しみにしています。長谷川一夫の源氏物語を見て 与謝野晶子の現代語訳の朗読を聞いています、かしましチャンネルも勉強になります。
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確かに、くーさんの言われるように、毎回テロップとか無い状態でお話聞いてるおふたりは凄いと思ってました!さすが👍
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😮凄い凄い。細かいところまで、学ぶことができる。わかりやすくて良いです〜…中々、ここまでは、学べ無いです。愉しんでます。歴史、大好き💕💕💕💕💕
このチャンネル、いいわ
きりゅうさんの説明が、めちゃくちゃわかりやすい
歴史の授業、こんな先生に教えてほしかった。
それから、ラットちゃんとくーさんとの掛け合いも最高
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こんなに豆知識くださって本当に感謝です😂100倍楽しく大河観れます❤目指せ先ずは10万人🎉
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召人にはなりたくないわぁ〜!!悲しいもの…
「OK?」「OK!」「ヨシッ!」のノリ軽すぎて笑ってしまいました😆
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大石静さんが、「(まひろは)道長のことはずっと好きで、何度も自分の妻になれと言われるけれど、それは受けない。嫡妻も妾(しょう)もいる道長のところに行って不自由な思いはしたくないと断ってしまう。」とインタヴューで答えていますね。道長が上昇志向の非常に強い家の息子だという制約以前に、当時の社会制度として、まひろは身分が低くて最初から嫡妻になれる資格が無かったのか・・・😢
源氏物語で、女三宮の降嫁に紫の上が苦しむ理由。以前よりも理解できるように思います。
今日も分かりやすい解説ありがとうございました🙏❣️ でも、まだまだ理解できたかは‥⁈です。召人、知らなかったです。でも、楽しい回でした。ラットさんと同じくまた見直します😊
きりゅう先生のお話を聞いて、源氏物語の匂宮の嫡妻が六の君(桐壷帝の息子である光源氏の息子である夕霧左大臣の娘)、妻が中の君(桐壷帝の息子である宇治の八宮の娘)と描かれるのは、道長の嫡妻が倫子(宇多天皇の息子敦実親王の息子である左大臣雅信の娘)、妻が明子(醍醐天皇の息子である源高明の娘)ということからきているのでは?と思いました。雅信は朝廷で重きをなしたのに対して、高明は失脚というのも、夕霧と八宮の対比につながっているように感じます。
今回のお話は、すごく分かりやすかったです。一夫多妻と言っても、どうしても現代の感覚で見てしまうので、正妻と愛人くらいのイメージでしか思ってなかったので、嫡妻とか召人とか、そういうものなのかと目から鱗です
😅
ラットさん、私3回見ました😂わかってきましたよ〜!
平安時代の約400年の間に結婚の形も変わっていったのですね
貴族が家柄を尊重して婿入りしたり多妻だったり、
その後
武士が武家を引き継ぐために嫁入りするようになったという説明は納得しました
もしかしたら500年後 1000年後の結婚の形も
今とは違っているかもしれませんね
次の動画も楽しみです😊
こんばんは😊
婚姻制度めちゃくちゃややこしいですね〜😂
ほんと字幕なしで声だけ聞いてるくーさん、ラットさんすごい✨前からそれ大変だろうなと思ってました😂その日しゃべるレジュメ配布とかしてるのかな?とか思ったけど口頭だけとは!笑
イラストや字幕でわかりやすく編集してくださってるチームてぃさんいつもありがとうございます✨
数年ぶりに大河を見て、久しぶりにこのチャンネルを思い出し、見ようと思ったのだけれど(普段歴史とは程遠い生活をしておりますゆえ登録を済ませておりませんでした。。)チャンネル名を忘れておりRUclips上ではなかなか見つけられず、ツイッターで歴史、RUclipsのキーワード検索でようやくたどり着けました。!!
やはり、今回の動画も面白かったです!遅くなりましたが、チャンネル登録させていただきました。😂
当時の従者や召人は出世しなかったと思うと現代人としては悲しい😭
ま、そう言う意味では後の武士階級の台頭は、僅かでも身分制度が崩されたと言う意味で嬉しく思っちゃうな〜。
だけど、そのシステムの当事者は、その時疑問に思うこともない時代だったかもしれませんね。
今日も分かり易い解説ありがとうございます🤗今回のドラマの中で円融天皇が子供を産んでない遵子さんを中宮したみたいだけど兼家さんからしたら嫡妻の制度があるのにいくら天皇でもそれはないだろうとか思ったんでしょうか🤨🤨
道隆さんや道長さんが歓談してたお屋敷になにか唐菓子のようなものが映ってましたね。
学生時代、源氏物語のゼミを専攻して、卒論のテーマはまさに嫡妻の決定方法でした!とても興味深くて面白かったです。
源氏物語で言うと、宇治十帖に登場する薫が大君(嫡妻の子)と浮舟(召人の子)に対する扱いが全然違いますよね。解説を聞いてそれを思い出しました。今年の大河ドラマの影響で久しぶりに源氏物語を読み返したくなりました。
初見です🔰
おすすめに流れてきて
紫式部が大好きなのでみてみると
すごく分かりやすく楽しかったです。
チャンネル登録完了です(*`・ω・)ゞ
わかりやすい!しかも、面白い語り!やっぱり今年も宜しくお願いします。楽しい😀
ドラマの第一回から、ナレーションに嫡妻とでてきて、初めて聞いたなあ、正妻と違いが有るの?と思っていました。説明頂いて有り難うございました。
あと、字幕無しで聴いている、くーさんとラットちゃんは、ホント大変ですねぇ❗
いつもわかり易い解説ありがとうございます。
疑問に思ったのですが、通い婚の場合、新しい女の人が出来て『夜離れ』の状態になりますよね。どれくらいの期間通って来なくなると離婚した事になるのでしょう? 平安時代は女性の方から離婚出来ないそうなので、第二の人生に踏み出したい女性は困りますよね。婿取り婚なら義父母に追い出されたら離婚ってなって分かり易そう😄
新しい男性が通ってくれば、すぐ再婚できますよw
古代、東国では庶民の男女の出会いの場として「歌垣」があったとききますが、平安時代時代、特に京の周辺の庶民には、そんな出会いの場はあったんでしょうか?
「光る君へ」では道長の從者の百舌彦さんが、賛楽の見物の場で逢い引きしてましたね。ずうっと何年も同じ女性と付き合ってるみたいで…ちゃんと結婚しないのかな?と気になりました。
毎回楽しく拝見しております😊
ただ、私も何かをしながら聞いているので、ラットさんく〜さんと同じで1回目はテロップなしで頑張っています(笑)
質問です🙋♀️
今は一夫一婦制なので、奥さん以外は愛人になるのは分かるのですが、平安時代は一夫多妻制なのに、なぜ召人が存在するのですか? 家柄のせいですか?
教えて頂ければ嬉しいです☺️
光源氏が権勢のままに館を造って春・夏・秋・冬それぞれに縁あった女性を住まわせた
まあ帝と同じやり方ですがこんな人いたのでしょうか
こんにちは、今回も知識動画をありがとうございます。もし三条天皇の目の話辺りでドラマに出てきたら、民部卿元方の怨霊の話と、孫の袴垂保輔の解説をお願いいたします。
話したい!!
昔、漫画で書かれた蜻蛉日記を読んでましたが、嫡妻に関しての記述はうすかったかわりに、子供の出世に関しては気がかりでいたと書かれていました。
この動画をみても当時の通い婚でも嫡妻はどうやって決まったのか妻たちも分かっていなかったのかもしれないと思いました。
わかりやすい解説ありがとうございます
ちやはが北の方と呼ばれてましたが、嫡妻と言うことでしょうか?
また、ちやはが、私の里が豊かであれば、こんな苦労はしないのですっとまひろに言っていましたが、
貧しいちやはの家に婿にきたからでしょうか?でも、ちやはの祖父は、現役の中納言文範のはず。
ちなみに、NHKの相関図を確認したところ、為時の除目の申し文を読んだ方は、文範でした!
やはり孫の夫の後ろ盾になろうとしていたのですね
三回目放送から、ナレーションでの簡単な人物紹介・背景説明が出るようになりましたね❗(1,2回目はあった?)それと道長さんが馬に乗って街を移動する際に、牛車が初登場?してましたね😃ランクの区別は分かりませんでした😅
定子と後の一条天皇・懐仁親王が一緒に庭(道隆邸?兼家邸?)で遊んでいるシーンがありました。その中で鶏が放し飼い状態でしたね・・・これは食用(卵利用含めて)でなかったら~もしかして観賞用?ペットかな?
闘鶏用かと
闘鶏用ですかぁ❗️母の実家で祖父が趣味にしていたそうです(1940年代)ありがとうございます😃
蔭位は嫡子だけでなく、庶子にも与えられたようですね。一段低い位階ですが。
男も女も親ガチャどころじゃないですね。。。中国だと貧しい身でも美貌さえあれば成り上がったり出来る可能性ありますが
正妻・源倫子と側室・源明子に,それぞれ平等に6人ずつ子供が誕生してる藤原道長は器用ですなぁ…なかなかできないよ😅
ただし,倫子と明子のそれぞれの子供達の身分差や嫁ぎ先は,同じ道長の子でも「母親が正妻か側室か」によってこんなにも違うのか…というくらいに差ありますね🤔!
きりゅうさん!質問です!
和泉式部はどうして妻ではなく、召人止まり(という表現があっているかわかりませんが…😅)だったんでしょうか?
妻にしてもらえない理由はなんでしょうか?
和泉式部は和歌が百人一首に選ばれるほどの学があるのに、召人にしかしてもらえない。ということに疑問を覚えました。
教えてくださいm(_ _)m
妻の説明わかりやすかったです😊
ありがとうございます❤
身分差です。
身分差…😱
親王の妻になるには、それなりの身分が必要なんですね💦
平安時代の常識、現代の非常識をもっと勉強しなきゃですね。
ありがとうございます❤
ナイスなご質問、そしてズバリと簡潔なお答え ステキ
和泉式部は高校時代の古文の教師が「今 飛んでる女ってのが流行ってるけど(そういう頃)この人は飛びすぎてどっか行っちゃった女性です」って言ってた どういう点が?って詳しくは言ってくれなかった
当時の高校生相手には説明出来ない事情だったかな
あらためて日本は色々な意味で曖昧な「グレーゾーン」が好きだなと思います。
和泉式部が召人だったとは驚き!!
今晩は。 道長さんのもう一人の妻、明子さんのお父さんは亡くなられてたそうですが、そういう場合、道長さんは通い婚? 明子さんの生活費などは誰が出してたのでしょうか?
明子は道長のお姉さんの詮子の養女になったのですw
返信、ありがとうございます。
私も「家」がよく分からないので、コメントさせてください😊
兼家や道隆が我が家の連呼してますが、「イエ」が生まれたのは中世に入ってから、だから彼らがいう家はイエの萌芽ってことでしょうか?
通い婚についてですが、若夫婦は当初妻実家に同居してても、やがては独立するか、親世代夫婦が引っ越すそうです。
で、貴族としてのお仕事のノウハウは父から教わる(だから貴族は日記をつけるとのこと)そうなので、官位関係は父方が大事になるんだなぁと思いました。
そして、イエの観念はまだないから、父方にせよ母方にせよ、家を盛り上げていこうという意識はなかったのでは?
男子は官職を、女子は不動産を親から譲ってもらっていた。だけどそれらをイエとして代々ついでいく意識はまだ育っていない。なぜなら官職も不動産も水ものだったから、大事についでいこうとしても途中で消えちゃう恐れがあった。
よく分からない説明で、すみません😅
【質問】裕福でないと一夫多妻ができないですが、当時の裕福って、何を沢山持っていると裕福と言えたのでしょうか?。当時はまだ貨幣がまだあまり出回っていなかったと思うので。
朝廷からいただく、お給料ですねw
@@kashimashi_rekishi_ch 様、お給料は何で支給されていたのでしょか?。
奈良時代あたりから足袋らしきはき物があったと思うのですが、光る君へでは、素足ばかりのようにみれますが、何の位の立場から足袋がはけたのでしょうね?
庶民(しもじも)はビビビ婚だった🎉
研究者でも謎な部分は言ったもん勝ちであります🫡
興味深い話です。ぱーと1はどこにありますか?
平安時代の結婚はカオス😅
私的には、京都に嫡妻??を置いたまま、第二夫人?の宮仕えしていた女性と娘2人と一緒に東国で暮らしていた菅原孝標って人の家族が気になります。更級日記を読む限りではほんとうに楽しく暮らしていたようだし、筆者の実母は京都どころか屋敷の外にはできるだけ出たくない!という人だったから仕方ないとしても面白い家族構成だな、と思っていました。
召人の子供の話がありましたが
和泉式部も確か一人か二人、敦道親王との間に子を儲けていますね。
そのお子さん達、どうやらお坊さんになったようで。平安時代は嫡妻の子供でもお坊さんにするという場合があったようなので、そんな珍しくはなかったでしょうが、幼くして子供を手放すような形?で和泉式部も切なかっただろうなと思います。
今回もありがとうございました。
くーさん!ナイスツッコミ😂
質問なのですが、
道長の従者さんは同じ女性とさん楽中に抜けていきますが、
彼は彼女と結婚は出来ないんでしょうか?
道長の許可?兼家さんの許可が必要なんでしょうか?
「光る君へ」が始まりこのチャンネルを見るようになりました。
いつも楽しく、かしましく学んでおります。
さて質問があるのですが、蜻蛉日記の作者は兼家の「妻」なのでしょうか?
それとも「妾」なのでしょうか?
ご回答よろしくお願いします。
解説ありがとうございます。
嫡妻は子どもたちの能力で決めてしまえばいいんじゃないかと思いました。実際はどうだったんでしょうね。
奥さんが沢山いる人と25年ほど前に逢いました。私はお金があってもせいぜい2人か??? その人は7人の奥さんがいて6人目までは一人ずつ子供がいました。朝、正妻宅で起きて朝食を済ませ、2番目の奥さん宅へ移動。奥さんにはそれぞれ店などを任せているので仕事の進み具合や問題解決相談などの後、子供の様子の話をして3番目の奥さんの宅へ移動、これを7番目まですると大体夜の2時で就寝。3時半に起きて本妻宅へ移動する。これを毎日繰り返していました。うらやましいが俺には3人は無理かも・・・・・
別の配信者さんの歴史解説(西洋史でしたが)で、昔の結婚は自由がなかったから不倫にこそ恋愛を見出した、とありました。今日の解説で思ったのですが、当時の法的な待遇は下であれ、日本でも召人との間にこそ男女の情があったのかなと思いました。
高校生の頃、授業で、源氏物語の葵さんや紫さんの女房が、源氏の愛人になってるのを知り、いろいろ女心について考えました。テストの役には立たなかったけれど、深まった気がします……。彼女らにこそ、きっと真実の誇り高い愛があったのだろう、などと😂乙女だったあのころが懐かしい。
@@オキザリス-g8gなんと…葵さんや紫さんの女房にまでですか……それだけはなんか憤りを感じてしまいます😢 道長が光源氏のモデルってことは……
素朴な疑問なのですが、貴族階級内で各男性が複数の妻を持ったら女性不足にならないのでしょうか?
女性側も同時に複数の相手がいたりしたのでしょうか。
それとも男性側は貴族の中でも上澄み(良い官職を持つ人物など)に限定されていたのでしょうか。
お忙しいと思いますが教えていただければ幸いです。
いつも楽しみにしてます。召人にならないで妻になりますって言うことはできないのですか?
まひろは、なれて召人だったんですね
昨年の『どうする家康』で秀頼が「蘭陵王」を舞って徳川との格の違いをみせつけてましたが
本日大井競馬場にてランリョウオーが見事S2を勝利しました もしかしたらこのまま 天下取りにいくかもしれません 浦和の王が皇帝に
宮中の場合、女御・更衣じゃない女性で天皇のお手がついた人はどういう扱いなんですか?
いつも授乳のおともに楽しく見ています!
召人、難しい制度ですね😳
前に平安時代のお姫様はほぼ動かないとおっしゃってたと思うのですが、動かなくて不健康+医療も発達していない時代に4人も産んで、しかもみんな大人になった時姫様すごくないですか!?
道長の奥さん(倫子?)もたくさん産むんですよね?
特別なケアをしていたのでしょうか?😳
医療が発達した現代ですら1人産むのに大変だった私は平安時代では絶対に産めないと思いました(笑)
こんばんは🌙
婚姻制度の複雑さにびっくりしました!
質問ですが、妻や召人になるには条件があるのでしょうか?
というのも、和泉式部のお話しの所で、そんなに愛しているなら妻にしちゃえばよいのでは?と思いました。それとも、妻にする人数は決まっていたのでしょうか?戦国時代の時のように正妻の許しがいるのでしょうか??
教えていただけると嬉しいです🙇
家格ですね~。
ありがとうございます🙇
質問です。平安時代は女性の名前が知られていないことが普通だとのことですが、嫡妻の届出にも女性の名前はかかれていなかったのでしょうか。書かれてないとすると「だれだれの娘」という形だったのでしょうか。
婚姻制度の複雑さを考えたら「皇后は先着順」にした中国の清朝皇室ってかなり合理的だと思いました。
質問があります~!
松田聖子さんみたいに男性を変えて複数回結婚されたスーパーガールは平安時代にいたのですか?戦国時代は夫が戦死すれば再度嫁ぐ話は、家康のようによく聞きますが…。
また男性に通われて出来た子供のお父さんの指名権は妻、女性にあったと聞きましたが、子供が大きくなってその容姿が似ていなくて「あの子は俺の子じゃない」なんて言い出すトラブルはなかったのでしょうか?
回答よろしくお願いします。🙇
今回きりゅうさんのお話に出てきた和泉式部がいい例ではないでしょうか?
最初に結婚して子どもももうけたけど、だんなの地方転勤についていかなくて(離婚?)、そして親王様と恋愛関係になり、その親王様が亡くなったら今度はその弟宮と熱愛(きりゅうさんが話されていた、和泉式部を愛して北の方が実家に帰ってしまった敦道親王)。
そして敦道親王とも死別した後は彰子に仕えて、道長の家司と結婚。
他にもきっと言い寄られていたのではないかと思います。
そーなんだ!ありがとうございます。
平安時代がますます面白くなってきました。😊
わ~い、明子さんキター🎉父を罪人とされて家格もめっちゃ凋落した家の娘を嫡妻と同じくらい愛でたから子供もいっぱい生まれた訳ですよね。
やっぱり「罪滅ぼし感」あるなぁ、、、
何人もの妻を娶る、、、というより「たくさんの縁を結ぶ」って感覚なのかな?
男性も女性も出自こそが大事でそこにプラス作用するかもしれないのが、自分の業績(と言えるのか?)と魅力。
女性にも財力とか権利があって、男権と女権の2つの権力がひとつの家庭に存在してた??
ややこしい時代だけど、なるほど❗女性の活躍の場はその後の武士の時代よりあった訳だ。
血筋の良い女性が生んだ娘を沢山持ったことが、道長の出世につながったんですよね~💖
鎌倉殿の時から拝見させて頂いてます。
きりゅうさんのお話大好きです。
ラットちゃん、く〜さん、との三人の仲良し会話も平和で楽しくてほっこり癒やされます。
私も小学生の時童門冬二の沖田総司で新撰組にハマり、あの頃の白泉社やRATTで育った同世代なので、拝見していて共感が半端ないです(笑)
ありがとうございます💓
子供のころ、古文を習っていた時に思っていたことを思い出しましたが、そもそも何故通い婚というものができたのでしょうか?治安が悪いから、女性は外に出られない?いつもありがとうございます。最近ご無沙汰しておりました。正月早々、567に感染してしまい、結構長引いてしまい、やっと元気になってきました。
松村邦洋さんが、繋いでいただけるのならコラボしてもいいような事、言ってましたよ。コラボしたら面白そう。
源倫子宅での女達の集いが、いかにも貴族の名門の子女的な表面上は温和でありながら胸の内では様々思っているだろう様子が描かれ、その中でも倫子の賢さが窺えた。まひろはそういう人の機微を解せず、単純に漢字の知識を披露してしまう失態を犯す。漢字学習の機会とばかり思い赴いたのが、倫子の様子を探ることが真の目的と悟り涙するまひろの実直さと他の貴族女性達の優しそうだが内面はドロドロそうな性質との違いが際立っていた。藤原公任の優秀さと行成の達筆な書も、初登場した。
奥さんが沢山いますが、生活費、お手当は差があるのですか?召人も生活費とかもらえたんですか?
2:19 の喩えでいうなら兼家パパの結婚はさしずめ2015年あたりのスマホ事情?🤔
どうするで例えるとお万の方が召人にあたる訳ですね?
嫡妻と妻の関係はよく分かりましたが、まひろがこだわっていた妾と妻は何か差があったのでしょうか。
先生、質問します。為時はちやはを嫡妻にしました。ちやはは早く亡くなりました。為時は他にも妻がいました。わずかな禄で複数の妻とその子たちを養うことができたのでしょうか?ちやはの父親がすでに亡くなっていたらかなり厳しかったと思います。他の妻たちの実家がまひろたちに仕送りしてたとか?
その可能性はあります。
源氏物語で
夕霧の雲居の雁と惟光の娘、ごせちの舞姫だった藤のないしのすけとの間にたくさんの子供をもうけたのに、柏木の未亡人、女二宮とも結婚し、ないしのすけの娘に箔をつけるため、大二宮に育てさせたエピソードを思い出しました。
以前何かの本で「召人は大体妻の女房たちから妻本人によって選ばれて、いわば『妻公認の愛人』と呼べるような存在である」というようなことを読んだ覚えがあり、「妻が選んだ召人以外の女房たちに手をつけるのはご法度」みたいな認識でいたのですが、妻の公認とか関係なしに「夫と関係を持った女房=召人」という認識なのでしょうか?そこのところを詳しく知りたいです。
当時の貴族は近親婚は普通でしたが、それによる諸々の不都合とかなかったのかと、、、現代人の感覚からするとドキドキしちゃいます😂
でも、一条天皇と彰子(定子も)は従兄弟だから…現代でも合法か…🤔
きりゅうさん、くーさん、らっとさん♡♡♡
銀の盾㊗㊗㊗
おめでとうございます!
編集も毎回、面白いなーw😂😆🤭と…大好きで!
てぃさん、これからもよろしくお願いします🙇
私の大河の思い出は、小学生の頃、母親と観てた利家とまつだけで、
その後、大河ドラマからはずっと離れていました。
久しぶりに鎌倉殿!から復活!
もっと詳しく知りたいな!と…このチャンネルを見つけ即、ハマったのを覚えてます😆✨
今は親子で大ファン😍😸
これからも楽しみにしてまーす💕💮
どうぞご自愛ください。
惣領も鎌倉時代からですね。
第3話で藤原穆子が"土御門殿に殿が婿入りなさった"と言っていましたが源雅信が入り婿婚ということでしょうか
土御門殿じたいは、雅信が建てたと言われていますけどねw
嫡妻!届出!
なるほど平安貴族は一夫一婦制って、そういう意味なんですね
和泉式部はつまり召人?
和泉式部日記は、召人が書いた暴露本?
たしかに暴露本だw
こんばんは🌙😃❗遊びで一夜の契りを交わしたら、妊娠してしまった、でも女性にも沢山の恋人がいた。場合はどうなるのでしょうか(-ω- ?)
それは大人のお遊びで終わるでしょうねw 子供を育てる権利は母親にあるので。
お答え有り難う御座います。なるほどー🤔危ない遊びでもあったんですね😂❤️
とても複雑な婚姻制度ですね💧今の感覚だと妾=愛人のイメージですが、当時は違うのですか❓
この当時の貨幣制度は
どうなっていたのでしょう?
それはまた別の動画でw
第3回で、まひろが、万里小路をまりのこうじと言ってました。この当時はおんくんが乱立し、まりこうじと呼んでいたこともあるかも知れないとも思う半面、単純に間違いかなと気になります。もしわかっておられたらお教え下さい。
「までのこうじ」のような気もしますが……
ということは……まひろチャンは、召人になるのかしら??🤔うが〜😖😖😖😖😖
2:38 「嫁と離婚」もとい、「嫁摂り婚」阪神大震災前年の猛暑よりガラケーを使うも、当時は結婚した女性が携帯電話を持つなんぞ不良と呼ばれ。最近、スマホデビュー。関西セルラーの時代からの不良、出遅れました。
こんばんわ。今回の結婚についての話は貴族に限っての話ですよね。庶民の記録なんか残っていないと思うので。
今回の大河で女性からの文だか歌だかをもらった貴公子が厠に落としたりするなどと言ってましたが、当時の厠って?
貴族女性は樋箱だの十二単衣をまくりあげる後ろ向き金隠しのような木の棒とか男性は尿筒とか
厠?
平安時代のことはよくわからないので
大変助かります
一つ気になっているのですが、道長さんの烏帽子のブラシみたいなもの(「おいかけ」というのまではわかりました)は、なぜつけている人とつけていない人がいるのでしょうか
緌は武官のかぶる冠の緒の飾りです。文官はしません。いまの道長が兵衛府(武官)所属だから緌をしているのです。
トンチで有名な一休さんは後小松天皇の御落胤と言われていますが、その事は隠されていたようです。これは母親が召人だったからでしょうか?それとも別の事情があったのでしょうか。
南朝関係の方だったからと記憶していますが
武家社会になると一夫一婦多妾制になりますね。
夫をつま、と、呼んでいたような?何の話かな?
夫もつまと呼ぶと習った記憶があります