【ゆっくり日本史解説】魏志倭人伝『邪馬台国の滅亡まで』

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 15 янв 2025

Комментарии • 300

  • @嶋田正廣-o4e
    @嶋田正廣-o4e 3 года назад +53

    73歳の私が小学生低学年の時アイヌの老人達が小学校を訪問しました。お爺さんとお婆さん達の顔には全面に刺青が有り民族の風習だとの説明でした。古代の倭人に同じ風習が有っても驚きは無しで受け入れられます。戦後間もない昭和の出来事で真実を観た者として倭人の顔面の刺青は真実だと考えます。

    • @user-yakisoban
      @user-yakisoban 3 года назад +18

      海洋民族系は入れ墨の文化が多いような気がする

    • @嶋田正廣-o4e
      @嶋田正廣-o4e 3 года назад

      貴方の話の内容が理解不能です、世代間ギャップか私がゲームをしないせいか理解不能です。

    • @嶋田正廣-o4e
      @嶋田正廣-o4e 3 года назад +3

      ご丁寧な返信に感謝します。貴方に幸多き事を祈ります。

    • @yo2trader539
      @yo2trader539 3 года назад +8

      マオリ族などのポリネシア系、アラスカの先住民にも似たような風習が現在でも見られますね。部族、身分、結婚の有無などをビジュアル的に示すようです。日本でも「彫り物」は江戸時代までは庶民・町人には珍しくない風習だったようです。漁師・船乗りは、水難事故に逢った時に身分特定できるよう彫り物をしてたと聞いた覚えがあります。「入れ墨」は犯罪者を示すための行為。
      ちなみに、日本書紀・古事記には「安曇の浜子」という人物が登場します。第16代仁徳天皇の皇太子(=後の履中天皇)に対する謀反に加わった罪で刑を受けます。その刑罰が目の周辺への入れ墨でした。安曇一族は古代の海人族として宗像氏などと同じように航海を担当した船乗り集団です。

    • @嶋田正廣-o4e
      @嶋田正廣-o4e 3 года назад +8

      私の空想ですが縄文人の顔の刺青は女性にもてたと思います。初期の刺青は壺等を焼く職業人が墨を顔の傷に塗り刺青が出来たのではと思います。壺を焼き上げる職業は収入が多く食事も豊かで子孫は体格が良くなります。女性は食生活の豊かな人に憧れ、体力がある人の子供を産みます、満足に食事も取れない栄養失調の男と女性の取り合いになっても体力に勝る男が勝利します。顔に刺青を入れる痛さを我慢できる男は敵と戦う勇気が有り女性を守ってくれます。それらの総合判断で美しき女性は顔に刺青が有り体格に勝る男の子種を欲したと推測できます。経済能力に優れ体格が良く生活力にあふれ、命がけで自分と子供を守ってくれる男は現在の世界でもモテルと思います。縄文時代初期は体格が良く顔に刺青が有ればモテモテだったと推測できます。

  • @lennonist9746
    @lennonist9746 3 года назад +15

    解りやすく楽しく学べました。ゆっくりのキャラと声はこういう説明には相応しいな。

  • @お髭-u2t
    @お髭-u2t 2 года назад +1

    ありがとうございます!

    • @れーしch歴史
      @れーしch歴史  2 года назад

      こちらこそ、ありがとうございます!感謝の極みでございます!

  • @panda688
    @panda688 3 года назад +19

    たとえデタラメでも元ネタはありそうだよね。それなりに説得力のある物語をゼロから作ることはなかなかに難しいからね。

  • @まんがたり前田
    @まんがたり前田 3 года назад +3

    やったーきたー!!!待ってましたー!!😄
    南北朝時代と古代編、いつもたのしみですー!

  • @内田-z7z
    @内田-z7z 3 года назад +9

    もやもやしていた邪馬台国と大和朝廷の関係や神武発祥の地なのに九州が大和朝廷に撃たれることとなった真相などをスッキリと説明できていますよね。
    すごく納得しました。

  • @tfujisaki72jp
    @tfujisaki72jp 3 года назад +5

    古代日本史毎回、楽しみにしています。
    「出雲の国譲り」についての動画を観てみたいです。

  • @taknar4020
    @taknar4020 3 года назад +58

    朝貢した以上の返礼品が貰える
    古代中華帝国へのふるさと納税w

    • @前谷繁利
      @前谷繁利 3 года назад +4

      食用に献上された子供たちが不憫。

    • @松尾直-q2j
      @松尾直-q2j 3 года назад +2

      朝貢外交は今も変わらない。
      中華思想の国ですから。

  • @ヒカル原人
    @ヒカル原人 3 года назад +11

    大人の事情で解明されない歴史と言うのが面白いですね

  • @トンカラリン-y1y
    @トンカラリン-y1y 3 года назад +77

    飯の種だから、故意に論争を引き延ばしている説には笑う

    • @kirin4126
      @kirin4126 3 года назад +1

      相対性理論や量子力学もその類・・ゲフンゲフン 誰かが来そうだから

    • @トランプ大工棟梁
      @トランプ大工棟梁 3 года назад +7

      テレビで専門の学者の方が「99%の学者は畿内説」と語っていたので学問的にはほぼ畿内で決着がついているようですよ。
      飯の種なので、九州説を流布し、故意に論争を引き延ばしているのは間違いないでしょう。
      昔からある九州説は完成度が高く騙される人が沢山いるのは仕方ありません。
      北部九州と魏との交流は盛んにおこなわれていたので、北部九州に邪馬台国があったとしたら場所の特定は容易なはずですが、北部九州説は邪馬台国の場所の特定すらできていません。伊都国に常駐していた魏の役人は近所の邪馬台国に気づかないような馬鹿じゃないですよ。
      他にも四国説などもありますが、四国説を推してる人々も村おこしのためで四国説を信じてないと言われてますしねw

    • @トンカラリン-y1y
      @トンカラリン-y1y 3 года назад +4

      @@トランプ大工棟梁 学者は邪馬壱国(九州王朝)の存在を認めたくないから、珍化な畿内説や九州説を流布して混乱させ、更に馬鹿がそれに乗っかって日本全国に邪馬台国説を妄想している状況でしょう。

    • @トランプ大工棟梁
      @トランプ大工棟梁 3 года назад +5

      @@トンカラリン-y1y 学者の言うことですから物的証拠のあることです。
      北部九州の古墳はすでに発掘調査済みであり、卑弥呼の時代には
      すでに北部九州の勢力は衰退していることが判明しています。
      有名な平原古墳からは卑弥呼より前の漢の時代のものが出土しています。
      逆に言えば漢の時代までは九州に巨大な勢力がありました。卑弥呼の時代の倭国の中心地はすでに奈良です。

    • @トンカラリン-y1y
      @トンカラリン-y1y 3 года назад +4

      @@トランプ大工棟梁 日本の学者には色々なシガラミがあるので、畿内説が否定されると困るので、議論を引っ張ているのでしょう。何事も権威を盲目的に信仰するのは愚民のすることです。
      専門家は99%畿内説ですが、日本人の90%は九州説を支持していますし、世界の学者も九州説支持です。常識的に考えれば九州にしかあり得ないからです。日本の専門家・学者は世界でも珍しい非常識集団です。

  • @上野タヒチアン
    @上野タヒチアン 3 года назад +26

    『千人の侍女と一人の男子』
    ↑なにその謎の女子校潜入系ギャルゲーシチュは笑笑

  • @軍鶏しゃも
    @軍鶏しゃも 3 года назад +7

    言語学の見地からも、ちゃんと邪馬台国は存在してたことが有力視されてるね。

  • @yt9960
    @yt9960 3 года назад +2

    面白かったです。有難うございました。

  • @TY-pm6qo
    @TY-pm6qo 3 года назад +19

    弥生時代に文字記録があったら、様々なエピソードが後世に伝わって、この時代を背景にした物語もたくさん生まれてたでしょうねぇ。

  • @ダッシュバグ
    @ダッシュバグ 3 года назад +8

    うぽつです。今回も中々に納得のいく解釈と、解り易さも有って良かったです。
    邪馬台国と狗奴国で、(聖と輝夜は除いて)守屋神社と紅魔館となっていたのが印象的でした(^ ^
    できれば、いずれは今回の最後にも出てきていた神功皇后の話も取り扱ってみてほしいですね。

  • @ヒロ-t8f3q
    @ヒロ-t8f3q 3 года назад +26

    邪馬台国の1部族が大和に移住()して独立から故地に攻め混んだ、だと思ってる(神武東征と景行、神功西征を採用して)
    これなら卑弥呼か壱余とその配偶者(姫彦制)をいざなぎいざなみとして、追放を東征として記述すれば記紀とも矛盾しない気がする

    • @赤マント-s7q
      @赤マント-s7q 3 года назад +4

      面白い説だなあ、ロマンを感じる!

    • @makimakimakinpo
      @makimakimakinpo 3 года назад +4

      確かにその通りだと思います。

    • @yuasa5042
      @yuasa5042 3 года назад +7

      神代神話は九州→出雲の順で多いですよね
      話の流れも九州→出雲→畿内大和だから
      後者は九州ヤマトの傍流なんだと思います
      勇猛な王族将軍の名称であるタケルも熊襲以外は出雲と大和のみだしね
      時代が下ると本家筋の九州ヤマトよりも分家筋の出雲や畿内大和の方が栄えて
      最終的に一番末っ子の畿内大和だけが生き残り天照末孫を称した
      、、、神武と被るね

    • @kouheimatsuda1562
      @kouheimatsuda1562 3 года назад

      宗教指導者が卑弥呼(日巫女)であり、神武天皇やその兄弟は将軍。
      東征しただけな訳で、1部族というより皇子の遠征。
      近畿に行ってみれば出雲系の部族が勢力を誇っており、先行していた叔父さん饒速日の助力を得ながら奈良を占領統治。
      出雲系氏族の磯城氏と婚姻する。
      出雲系は大国主がリーダーとなる男子が頂点とした文化があり、神武天皇は出雲系と融合しながら邪馬台国から独立する。
      なんて見方もあります。

    • @kooota7455
      @kooota7455 3 года назад

      神武東征で、直系の一族が三種の神器を持って近畿に移動。
      九州は分家が治めることになったが、勝手にアマテラス(女王)の後継を立てるわけにはいかず男王で失敗。
      仕方なしに卑弥呼を立てるに至ったと考えてます。
      熊襲は最初から反発と言うより、直系が出て行ったことに対する反発だったのかも。

  • @yukizokin
    @yukizokin 3 года назад +2

    話し手が二人だと、一人が解説、一人が質問だとか余談を話す補佐役として観れるんだけど、3人目はややこしくなるだけに感じる。

  • @kuwataku1
    @kuwataku1 2 года назад +1

    邪馬台国と大和朝廷が同じ時代に並立してたという説は以前から聞いていましたが、こうして動画にまとめられるとわかりやすいですね!
    この場合、神武天皇の東征が西暦の2世紀以前だったということになり大和朝廷の元々の本拠地や、畿内の既存勢力などの謎は今後も残ります💦
    あと、邪馬台国と大陸とのタイムラグを考えると当時の朝鮮半島を支配していたのは魏ではなく遼東公孫氏だったのではという気もします。
    実際に公孫淵の死後に魏が朝鮮半島を征伐していますし、この時期は邪馬台国の使者が来た年と前後しています。

  • @rerepopo663
    @rerepopo663 3 года назад +5

    邪馬台国に行き付かないあの謎の魏志倭人伝の道筋、実はローマ帝国からスタートして
    エジプトに辿り着く海路と全く同じで、当時の担当が書き直しでローマのそれを参考に
    結構適当に描いた説も有力なんだよね。

  • @aquadrop8356
    @aquadrop8356 3 года назад +2

    その時の奴隷はどんな形態だったのか気になりますね、召使いレベルなのか、はたまた?
    あと、鉄器については、現在の大分県日田には畿内よりも早く広まったと聞いたことがあります。いずれにしてもすごく面白いですね。

  • @takumi1999
    @takumi1999 3 года назад +4

    神武東征は、九州民にとって不思議なんですよね。九州東岸を北上、瀬戸内海に東進。伊都国や奴国。筑後川流域の話が全く出てこない。ついでに出雲に寄る話もない。
    太平洋側と日本海側で文化圏が違っていたのかなと。

  • @山本-r2i
    @山本-r2i 3 года назад +5

    邪馬台国ってどう考えても大和国の卑文字だと思うのですが、動画の通りだと、奈良にあった勢力が九州にあった邪馬台国を滅した後に大和国を名乗った事になるんですかね。

    • @doryuji
      @doryuji 3 года назад +3

      動画では「台与=いよ」ってなってるけど普通は「台与=とよ」で「いよ=壱与」でしたよね。
      で、「台与=とよ」なら邪馬台もヤマタイではなくヤマトと読むのではないかとなるという。
      これが本当なら別勢力で同じ名前は不自然ですからね。

  • @木村信行-c3h
    @木村信行-c3h 8 месяцев назад +3

    難升米が日本書紀の言う誰かが問題です。ほかにも都市牛利などは誰だったかです。

  • @user-xr7mpzwc3j
    @user-xr7mpzwc3j 3 года назад +7

    縄文晩紀土偶(主に女性)、全身入れ墨彫ってる。入れ墨風習が縄文人 倭のデフォルトで渡来民が流入して交易しているクラスターから入れ墨風習が廃れていったのかな?

    • @ys4414
      @ys4414 3 года назад +3

      そもそも縄文時代の方が食糧に余裕があったからオシャレだし(対人用の武器も一切出土してない)
      弥生人が渡来人なんて大学がでっち上げたデマだぞ。

  • @パグ13
    @パグ13 3 года назад +3

    ドラえもんの漫画の中で、もう2010年ぐらいにはタイムマシンが発明されていて、まず?邪馬台国の場所を調べに行ったような描写がありました。曹操の墓が見つかっただけでもすごくうれしいけど、邪馬台国の場所の特定・始皇帝陵の発掘を私の生きている間にしてほしい。

    • @パグ13
      @パグ13 2 года назад

      ハートマークありがとうございます!

  • @behsan41
    @behsan41 3 года назад +2

    いろんな物語があってよいのだと思います。

  • @kkuroki77
    @kkuroki77 3 года назад +5

    福岡県北九州市だと工事を行っている際に、もっとも憂鬱な状態は「遺跡が見つかってしまうこと」だそうで、その際は市に通達する義務があるんですよね。
    だから、新築マンションとか大規模な建造物を作る際は「遺跡が出てきませんように・・・」と祈るんだそうで。
    そのくらい、遺跡がバカスカと出てきてしまいます。
    福岡県博多市にせよ、北九州市にせよ、邪馬台国=九州説を市や県ぐるみで盛り上げています。

  • @si-vl9ju
    @si-vl9ju 2 года назад +2

    ヤマトというクニは複数あったのでしょうね。そもそも山の入り口っていう意味ですものね。

  • @平将問
    @平将問 3 года назад +1

    混一彊理歴代国都図で一度ヤマトコクの説明して欲しい!

  • @ぴー中身が植物
    @ぴー中身が植物 3 года назад +1

    歴史は、複雑です興味深いです。学生の頃の歴史は、全然興味が湧かなかったけども。歴史の出来事がらぶつ切りで、繋がりが感じられなくて年号が暗記であたまの中で流れが出来なかったなー。

  • @kitaharak396
    @kitaharak396 3 года назад +14

    逆説的に言えばやはり周辺国から見てもこの時代の中華皇帝は魏になるんですよね

    • @中野一茂-k3p
      @中野一茂-k3p 3 года назад +1

      らそ

    • @490526ryu
      @490526ryu 3 года назад

      @@中野一茂-k3p 敵国の狗奴国は南の呉に朝貢してたみたいですけどね・・

    • @みあ-m8g1d
      @みあ-m8g1d 3 года назад +4

      @@490526ryu  蜀は位置が悪かった。

  • @gachin2731
    @gachin2731 Год назад +1

    「魏志倭人伝」著者の陳寿は、列島には来ていませんし、不弥国までは判ります。そこからはっきりしないけど、伊都国の難升米に擁立されて、女王になって魏に朝貢までしついます。
    卑弥呼は実在しています。
    墓は糸島半島の平原古墳かな?
    墓の出土品から内向花紋鏡、玉、刀などがあります。
    三種の神器です。

  • @kinjisi
    @kinjisi 3 года назад +3

    記紀によれば天皇の代替わりごとに宮殿は変わってる。邪馬台国は卑弥呼の都するところだから、台与の時代には別のところに都したのかもしれない。

  • @akitsugufujieda1163
    @akitsugufujieda1163 3 года назад +10

    いやー、この時代に奴隷の人権が紛争の理由になるとは初めて聞いた
    どの文書に載っているか是非教えてもらいたい

    • @雪蔵-c4g
      @雪蔵-c4g 3 года назад +8

      現代人が思うような人権とは別物と思います。
      多くの奴隷は最初から奴隷であったわけではありません。元は捕虜か貧民です。
      どんな未開な部族であっても身内を奴隷として他国に売られれば激発するでしょう。
      三国志でも相手の非道を喧伝して士気を下げるなどの行為は一般的であり、人の感情は今も古代も変わっていないことがうかがえます。

    • @minami_alinko
      @minami_alinko 3 года назад +1

      そうですね。単に「生口(奴隷)で貿易は許せん」では現代的人権感覚入ってるように私には見えて違和感を覚えたので、大和朝廷は邪馬台国の力を弱めるために戦略的都合で狗奴国を援助した程度でよかったんじゃないかな…。
      贈られた立場にとって生口がどういう存在だったのかからしてはっきりしてないんですし。

    • @ヒロヒロ-g7v
      @ヒロヒロ-g7v 3 года назад

      人権はおいておいて、妻子の収公は魏書にもハッキリ書かれており幾人かは決済手段として連れていかれたのでしょうね。魏とのファーストコンタクト時、生口が東漢時代と比べても非常に少なかったことから「実は遼東公孫氏の滅亡と共に拿捕された倭人の奴隷商人が貢物と偽ったのではないか?」(当時、遼東では大規模な殺戮が行われており、自分は使節だと嘘をつく理由は大いにある)「その話に渡りに船と魏(と言うか実際に遼東戦を取り仕切っていた司馬懿)も邪馬台国も乗ったのではないか?」と言う説もあります。
      また、邪馬台国が弱体化していたと言う説を取ると、古代の政権末期にありがちな重税と債務奴隷の増加も当然に起きていたと思われ、奴隷制が支持を失う遠因になった説はそう突飛とは思えません。

  • @沙浦レリナ
    @沙浦レリナ 3 года назад +2

    最近見た邪馬台国関連の動画の中でも、最も理にかなっていて信頼のおける説で感激しました😍😍今のところ、この説が一番信じられます。「入れ墨文化」の所が、邪馬台国と大和朝廷に繋がりが無さそうだとの所は納得。すっきりしました。ありがとうございます。「倭人」があちこちに勢力範囲を持っていて、それぞれ分化が進んだ。元は同じ縄文人だったかもしれず想像が膨らみます。卑弥呼の墓についても同じ考えです👍チャンネル登録させていただきました。これからも応援しています🤗🤗🤗

  • @あほ拳コッチー
    @あほ拳コッチー 3 года назад +5

    卑弥呼が活躍した時代から100年間の記録がなく、それが日本の古代史をややこしいものにしている。

    • @トンカラリン-y1y
      @トンカラリン-y1y 3 года назад +1

      隋書タイ国伝にも邪馬台国の記述がありますよ

    • @yoshitome6648
      @yoshitome6648 2 года назад +1

      @@トンカラリン-y1y さん。
      あれれ、こんなところで、
      正解はトンカラリンさんだけですね。
      次作待ってます。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p 2 года назад

      実は卑弥呼の活躍した3世紀や4世紀の日本に関する資料は日本にも朝鮮半島にも中国にも、けっこうあります。
      だけど、この時代の日本は朝鮮半島に領土を持っていたので、タブーになっています。

  • @kappanouen
    @kappanouen 3 года назад +3

    形式として降伏(広い意味で朝貢もこれに含む)・領土割譲に自国の地図を献上するのは前回荊軻の回でもあった通りすでにこれ以前の中国でもあった話ですね
    少なくとも(書類上)邪馬台国が朝貢する以上「ここ(邪馬台国)の王様(卑弥呼)が貴方(皇帝)に頭下げますよ」というのがわかる書類は(嘘でも)提出したというのはあるでしょうね

  • @naminori_jhonnio
    @naminori_jhonnio 2 года назад +2

    魏志倭人伝には、邪馬台国の南に狗奴国があり仲が悪く戦闘状態だったとあり、邪馬台国の北には伊都国があって一大率(行政長官)が居て諸国を検察させているとの記載がある。
    この条件は畿内だと南の熊野(名古屋という説もあるが)と戦争状態にあったというのが釈然としない。距離が離れているし間に山も有り、住み分けができているのに、それが戦争になるかというとならないと思う。
    九州だとピッタリの条件ですよね。
    邪馬台国が吉野ヶ里あたりなら南に熊本、北に福岡、伊都国があって、九州説では邪馬台国の敵になると思われるヤマト王権の象徴である前方後円墳(那珂八幡古墳)がこの頃に完成している。このように九州説の方がしっくりきますね。つまり邪馬台国はヤマト王権によって滅ぼされたと考えています。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p 2 года назад

      実は魏志倭人伝には邪馬台国の位置として
      中国南部の会稽・東治の東の海の彼方にあるとはっきり書いてあります。
      会稽の東は台湾にあたり、東治の東は沖縄にあたります。
      さらに邪馬台国の気候や風土は中国海南島に似ているとも書いてあります。
      海南島は台湾の南の島でどちらかといば東南アジアに近いです。

  • @nekozame_history_fan
    @nekozame_history_fan 3 года назад +8

    大和朝廷という言い方は現在の歴史学者はあまり使わないそうです。当時はまだ豪族連合政権であり、朝廷の組織がなかったから朝廷というと語弊があるとか・・・💦。なので、近年はヤマト王権と呼ぶのが多いそうです。・・・私も一介の歴史マニアであり、古代の知識が少ないので詳しいことは知りませんが・・・。

  • @survivor288
    @survivor288 3 года назад +1

    周泰について解説してほしいでしゅ

  • @jimanaka7957
    @jimanaka7957 3 года назад +5

    平気で日本海渡るのだよな、当時の日本は。
    百済の頃も平気で兵力渡せるし。

  • @猫山ミケ太郎
    @猫山ミケ太郎 3 года назад +4

    個人的な考えなんですが、当時の中国の船は、外洋航海を念頭に作られていないから、強い波に耐えられない可能性があり。波の穏やかな日を選んで航海を繰り返したから1年も掛かったと思う。
    土佐日記を書いた紀貫之は、土佐 現在の高知県から京都に帰還するのに船頭が波の穏やかな日しか船を出さないといい一月掛かっている。

  • @notexy21
    @notexy21 3 года назад +6

    邪馬台国=九州政権説は合理的だが、卑弥呼が後の朝廷・皇室には全くつながらずロマンに欠ける…
    多くの日本人が卑弥呼に魅了されるのは、卑弥呼=天照大神のイメージが強いからだろうね。

  • @正直ポチ
    @正直ポチ 3 года назад +1

    面白い。

  • @cinukarkur
    @cinukarkur 3 года назад +2

    春秋年(倍暦)で考えるとヤマトタケルは8歳で熊襲征伐をし16歳になる前に白鳥になったことになりますが?

  • @solar_space_satellite
    @solar_space_satellite 3 года назад +23

    考古学とかは先駆者の意見を絶対視して
    真っ向から対立する異論は排除してるから
    神の手事件みたいなのが起きる

  • @caither2413
    @caither2413 3 года назад +3

    まぁ、邪馬台国が三国志の一部の章の一部の節にしか出てこない、他の資料に同じ時代の日本のことが書かれていないって時点で「本気出さない」以前に無理だと思いますけどもね。

  • @gatapro8433
    @gatapro8433 3 года назад +2

    司馬懿(公孫淵を滅ぼして遼東をとる)←交流→邪馬壱国
    曹爽(司馬懿のライバル      )←交流→ペルシャ
    で、司馬懿は見栄のため権力の誇示のため、ペルシャ並みかそれ以上に邪馬壱国を遠く、大きく書かなきゃいけなかったんじゃないかな~、なんて自分は思ってますw

    • @gatapro8433
      @gatapro8433 3 года назад +1

      当時は戦乱、政争の真っ盛りで倭国の測量まで手が回らないだろうし、陳寿も司馬氏の権威を持ち上げないといけないと思うんですよね

  • @木村信行-c3h
    @木村信行-c3h Год назад +1

    卑弥呼が人前に出てこないとは貴人は御簾(みす)越対面という意味。引きこもりにあらず。

  • @サニー-x6n
    @サニー-x6n 3 года назад +7

    この辺の話ミステリー多くてすき。ディーンフジオカあたりを主演に日本版ダヴィンチコードみたいなん作ってくれんかな。

  • @丸山康平-l2f
    @丸山康平-l2f 3 года назад +13

    結構レベル高いな
    三国志無知民なワイ
    それ以外のは既に完走
    れーしchは大すこだな
    なんか無闇矢鱈な熱を感じる
    本当に歴史好きな人の話は
    聴いてて実に楽しい。

  • @thedeathtiny4928
    @thedeathtiny4928 3 года назад +1

    わかりやすい動画ありがとうございます。
    邪馬台国もヤマト、大和朝廷もヤマト
    これがなぜなのかと疑問に思います。

    • @wayamato9226
      @wayamato9226 Год назад

      西晋に朝貢したときに昔に山門(邪馬台国)の勢力の後裔のヤマト国から来ましたと大和朝廷が上表したため、倭の国はヤマトだと西晋からfみなされた。

  • @matsumiyashigeru5182
    @matsumiyashigeru5182 3 года назад +2

    鯨面と言えば、金庸の「笑ごう江湖」に蜀(四川省辺り(?))の青城派の余蒼(そう)海は戦う時に鯨面になります。中国南部には顔に刺青の風習があったんですよね。やっぱ、邪馬台国も中国南部の人たちが九州に渡来して建国したのでは?魏に臣従したのは、呉が嫌いだったとは考えられませんかね?

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p 2 года назад

      実は魏志倭人伝には邪馬台国の位置として
      中国南部の会稽・東治の東の海の彼方にあるとはっきり書いてあります。
      会稽の東は台湾にあたり、東治の東は沖縄にあたります。
      さらに邪馬台国の気候や風土は中国海南島に似ているとも書いてあります。
      海南島は台湾の南の島でどちらかといば東南アジアに近いです。

  • @ふむふむ-h4i
    @ふむふむ-h4i 3 года назад +10

    個人的にも邪馬台国と大和王朝は別の権力機関だと考えた方がしっくりくる。
    何にせよ日中共に未だに発掘や捜索を通して未発見の古文書、遺物などが出てくるだろうから後に期待。

  • @shou-sho
    @shou-sho 3 года назад +6

    邪馬台国ネタは荒れますねえw 
    九州説はネット上では圧倒的に強いけど、ここ20~30年の古墳・鏡・土器の研究成果は畿内説で有利で教科書はもう変わってますね。
    動画についてですが、黥面文身は『礼記』の「東夷は身体に入れ墨をし、南蛮は額に入れ墨をしている」が元ネタですね。はるか古代から中国側はそういう認識だった訳です。なので陳寿が実際の使者の報告を聞いて書いたかは疑義があります。
    それと仮に春秋暦だったとしても初期の天皇の寿命と在位は明らかに長過ぎです。奈良・平安時代ですら平均在位は12年くらいですからね。

    • @ヒロ-t8f3q
      @ヒロ-t8f3q 3 года назад +2

      天皇の在位期間ですが、各王朝が一つの名を継承してたのが後に一人だと勘違いされたって説を聞いたことがあります。ご参考までに…

    • @ebi2ch
      @ebi2ch 3 года назад +8

      畿内説は記紀を歴史書とみなさず空想の産物として軽視しています。記紀をちゃんと読めば、邪馬台国は土蜘蛛として登場してます。なぜ土蜘蛛の酋長はみんな女なのか。卑弥呼・台与以来の伝統だったと考えれば、女酋長が出てくる範囲が女王国=邪馬台国とその属国のエリアでしょう。
      纏向から国内最大の遺跡が見つかったからといって、それを邪馬台国だと断定するのは早計すぎます。魏志には邪馬台国が倭の最大勢力だったなどとはどこにも書かれていません。邪馬台国が倭の最大勢力だったというのは出土品によって証明された事実ではなく、ただの思い込みです。

    • @wonder7397
      @wonder7397 3 года назад +4

      入れ墨に関しては身分や地位を表すため、信仰心や儀式の為にしていたのではないでしょうか?
      アイヌの人々も狩猟やおまじないの一環で身体に入れ墨をしていましたし、古代日本人にも似た様な風習が有ったのでは?
      天皇の長寿はもしかすると初代神武天皇、二代神武天皇… みたいに称号まで受け継いでいたのではないでしょうか?
      後年、奈良時代の人が同じ天皇だと思い、同一人物の業績としてしまったのでは。

    • @ebi2ch
      @ebi2ch 3 года назад +3

      @@wonder7397 海に溺れて死ぬと誰の死体だか見分けが付かなくなるので死体を判別するために入れていたという説を聞いたことがあります。

    • @shou-sho
      @shou-sho 3 года назад +4

      記紀を歴史書とみていない学者はいないでしょ。ただ、生物学的にあり得ない長寿など史料批判が必要な箇所があるというだけで。
      それと魏志倭人伝ではちゃんと「七萬餘戶」と倭国最大の勢力として書かれてますよ。
      出土品についても、2世紀後半から3世紀になると畿内の土器が関東から北九州まで広がり、逆に纏向遺跡には全国の土器が集まってくるんですよ。

  • @前田直志-v8v
    @前田直志-v8v Год назад +2

    実に良い仮説だと思います。
    吉野ヶ里遺跡から金印が出土したら、面白いですね。

  • @うまたろう-l4h
    @うまたろう-l4h 3 года назад +15

    大人の事情だけじゃなく、子供の事情も考えて欲しい🥺

  • @敏和-f5e
    @敏和-f5e 2 года назад

    学者的な考え方では、「卑弥呼(らしい)の墓」と「有力者の墓」では発見したときに残る名としても違いますし、
    特に大きいのは、その後の研究費がかなり違うという点ですね。
    湯水のように使えるならいいですが、予算はいつもきちきち。
    そこでそれらしい有名な人物の墓の可能性があるならその名を使うでしょう。
    政治家を懐柔し、予算化し、発掘へ。
    現状はこんな状態なのですから、卑弥呼(らしい)の墓として決着つくまで残るでしょう。

  • @高里要-v5p
    @高里要-v5p 3 года назад +1

    二千年前の真実より今の卑弥呼まんじゅう

  • @kegitom9353
    @kegitom9353 3 года назад +2

    朝貢に行った時の通訳が成立するのであれば、日本にも漢文の記録が残っていてもよいと思うのだが、さて

  • @MegaMaruno
    @MegaMaruno 3 года назад +1

    大変興味深い動画でした。その当時から奴隷貿易に対して批判があったんですね。
     後世、秀吉が人身売買で日本人が奴隷にされる状況を憂慮して、キリスト教を禁教にした事を思い出しました。米国の話ですが、現代でも未だに(主に子供を対象にした)人身売買が行われており、つい先頃関係者たちの大量逮捕がありました・・・。

    • @MegaMaruno
      @MegaMaruno 3 года назад +1

      ちなみに、現ローマ教皇が逮捕された、という説があります。罪状は・・・。

  • @鎌田英明-c6f
    @鎌田英明-c6f 3 года назад +4

    北九州と大和説で決着がつかないが、倭はあったと思うよぉ🐬

  • @ordinarydays715
    @ordinarydays715 3 года назад

    邪馬台国の時代に中国大陸と交流があった場合に疑問があります。
    邪馬台国の時代には文字がなかったと言われていますが、邪馬台国の役人は文字がない状態で中国大陸と交流していたのですか?

    • @トンカラリン-y1y
      @トンカラリン-y1y 3 года назад +7

      日本語の漢字の発音には呉音があり、7~8世紀に遣隋使・遣唐使や留学僧などにより漢音が伝えられる以前に漢字が伝来していたことがわかる。漢委奴国王印や親魏倭王印等の金印は倭が文字を理解したから皇帝から賜ったのであり、また倭も手ぶらで漢や魏に朝貢したのではなく上表文を携えて行っている。更に三雲・井原遺跡では、弥生時代後期(1〜2世紀)とみられる硯の破片が出土していることから、倭では既に1世紀には文字の使用が始まっていたことが推定できる。

    • @ys4414
      @ys4414 3 года назад

      交易は向こう側の文字使ってるし国内では縄文字使ってる。

    • @xz6314
      @xz6314 3 года назад +3

      九州北部で邪馬台国の時代の遺跡から硯が複数見つかってるから
      現代に残ってないだけで文字を使っていたと思われる

  • @丸山康平-l2f
    @丸山康平-l2f 3 года назад +4

    でもれーし説
    結構すっきりしてて
    道標として優れてる希ガス
    門外漢ワイは感心しますた

  • @wataruk4511
    @wataruk4511 3 года назад +13

    今更の上、お恥ずかしい限りの質問なのですが、
    なぜ邪馬台国と大和朝廷がイコールでないといけない理由とかあるのでしょうか?(笑)
    私個人としては、別々の国としか思えないことが多々あるのですが。

    • @ebi2ch
      @ebi2ch 3 года назад +4

      この動画の作者も別々の国だと言ってると思います。

  • @shigemorimasa964
    @shigemorimasa964 3 года назад +2

    邪馬台国なぁ~
    陳寿は三國志に外国伝を魏志のみに載せて蜀志や呉志には載せなかった。
    正統性を魏に持たせる以上、仕方の無いこととはいえ、韋昭の呉書等にも呉としての外国の記録が、蜀には蜀の外国の記録があった筈だが、(後主伝、呉主伝、三嗣主伝にも朝貢の記録がなかった筈)(孫権が魏に朝貢した記録はある))それが伝わらなかったのが非常に惜しいことだ。
    例えば日本列島や沖縄諸島と江南は三国時代より、はるか前から往来があった事は考古学的にも明らかだが、呉の時は途絶えていたとは考えにくいしベトナムの記録も乏しい(朝貢や交易まで有ったかは解らないが)、四川や雲南の地がミャンマーやチベットと没交渉だったとするのも考えにくいのだ。
    そういった意味でも三國志の外国伝は。そもそもとして欠落があると考える。

  • @ムラサメフォウ
    @ムラサメフォウ 3 года назад +1

    皆さん邪馬台国の話しになると熱くなりますよねwまあロマンを感じる事☺️大なんですけど。

  • @コメ用笹妃まさ古代史-c4c
    @コメ用笹妃まさ古代史-c4c Месяц назад

    27:25
    概要欄の説は初めて聴いたので、こういう考え方も有るのだなと、参考になりました
    個人的には、2回の水行、東海渡と、末盧國に方位が無い事が重要だと、思います
    纏向遺跡では、都市以前に、まだ集落跡さえも出てないと思います
    市場や祭祀場の遺跡ぽいです
    10:59
    卑弥呼の墓は、冢なんですけど、冢って、
    始皇帝陵(史記正義)や諸葛亮の墓の記述からすると、地下の穴を指すんですよ
    卑弥呼の墓は、古墳とか弥生墳丘墓でさえないんですよね
    普通の奴隷は奴婢で、「生口」は、捕虜だと思います
    107年の頃は、倭奴国の王の帥升などを生口にしてるので、
    倭奴国を滅ぼして、漢側に献上?したのだと思います

  • @harahamaken5625
    @harahamaken5625 2 года назад +1

    うぷ主の意見によれば、なぜ大和王権と邪馬台国は同じヤマトを名乗ったのか?
    この問題は僕に一番気になる。

  • @NinHyde
    @NinHyde 3 года назад +2

    「いずも」も絡めた 3王朝 史観による解説を求む

  • @岡村浩司
    @岡村浩司 3 года назад +2

    親魏倭王 司馬懿(普の祖)の仲介
    親魏大月氏王 曹氏(魏の王族)の仲介
    普の時代に書かれたのなら、邪馬台国は大国として記述された可能性は?

  • @gatapro8433
    @gatapro8433 3 года назад +3

    魏志倭人伝による邪馬壱国の位置ですが、とりあえず『最古』の世界地図『混一疆理歴代国都之図』(1402年)によると日本は南北に長い島国に描かれています。
    昔から日本は南北に長い島という扱い?
    『日本の位置、形を割と適当に考えていたんじゃないか』というか、日本製の行基図(南を上にした地図)をそのままくっつけただけなんじゃないかと思います。(でも、元寇の時は元軍は九州の東の長門にも攻めてきたみたいですから、元寇の後なので正確な地図は教えたくなかったのかもしれませんがw)
    魏志倭人伝の頃の常識は日本は南北に長いというのをに倭人も提言していて、それが当時の常識で、あのような表記になったのではないでしょうか…どうだろうw

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p 2 года назад

      実は魏志倭人伝には邪馬台国の位置として
      中国南部の会稽・東治の東の海の彼方にあるとはっきり書いてあります。
      会稽の東は台湾にあたり、東治の東は沖縄にあたります。
      さらに邪馬台国の気候や風土は中国海南島に似ているとも書いてあります。
      海南島は台湾の南の島でどちらかといば東南アジアに近いです。

  • @todobk8733
    @todobk8733 3 года назад +8

    他国との違いとして、日本は大和朝廷がずっと存続しているため、古代日本の歴史は客観視できないでしょう。もちろん、大和朝廷が続いていることは日本の誇りであり、それ自体は良いことと思ってます。

  • @hirosat5269
    @hirosat5269 3 года назад +5

    黥面文身は東南アジアやポリネシアの風習で、戦国時代の呉越でもやっていたようだから、邪馬台国はポリネシア系の文化かも?
    それに、島根や熊本でそういう黥面絵画が見つかっているのに、その中間にある北九州にタトゥーの習慣が無いとは考えにくいですね。
    古事記や日本書紀はものの見事に、古代の中国との接触をスルースキル発動していますね。
    後の時代に、「ヘイ西のエンペラー!ミーは東の天子だZE!」って言いだしたことを考えると、私でもそらスルーやろなあと思いますけど。
    そして飯のタネwwww

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p 2 года назад

      実は魏志倭人伝には邪馬台国の位置として
      中国南部の会稽・東治の東の海の彼方にあるとはっきり書いてあります。
      会稽の東は台湾にあたり、東治の東は沖縄にあたります。
      さらに邪馬台国の気候や風土は中国海南島に似ているとも書いてあります。
      海南島は台湾の南の島でどちらかといば東南アジアに近いです。

  • @成子坂酔郷
    @成子坂酔郷 9 месяцев назад

    古事記には天照大神と神武天皇、二人の始祖が九州で生まれたと書いてあります。
    邪馬台国はともかく大和朝廷のルーツは九州なのではないでしょうか。
    弥生時代には首長墓が全くない奈良県に古墳時代に突然巨大な国が出現するなどということは考えられません。
    おそらく、九州の勢力が西日本を統一した3~4世紀ごろに都を奈良に移したのではないでしょうか。

  • @こしあん-e3r
    @こしあん-e3r 3 года назад +1

    魏志倭人伝・日本書紀・古事記はただの証明書。
    当時の人が見てだいたい辻褄が合えばいいだけ。
    合わなければ『外典』が“発見”され新しく『編纂』される。
    ただ、後世の人はそれを『歴史書』と呼ぶ

    • @こしあん-e3r
      @こしあん-e3r 3 года назад

      卑弥呼を概念とし弟が国を治める。
      天照を概念とし『男系』が国を治める。
      似てるよね(笑)

    • @こしあん-e3r
      @こしあん-e3r 3 года назад +1

      弟が鉄の産地を征服する。
      まんま古事記やん(※土着宗教は“大社”としてスタッフが美味しくいただきました)

    • @こしあん-e3r
      @こしあん-e3r 3 года назад +1

      三種の神器って剣と鏡と玉(勾玉)なんだって…あれ?

  • @mahitokiyohara6993
    @mahitokiyohara6993 3 года назад +3

    朝鮮半島南部から日本式の前方後円墳が多数出ています。

  • @NinHyde
    @NinHyde 3 года назад +1

    「古史古伝」解説も求む
    特に「ホツマツタエ」解説とか(W)
    伝承の地 宇和島 近隣住民の れお

  • @月よりの使者-u7b
    @月よりの使者-u7b 3 года назад +1

    その通りです。自分の思い込みを押し付ける、あるいは押し通すこともおかしいことです。まぁ、これは個人の意見ですが…程度で良いのではないですか?思い込むことは是非を問いませんが、押しつけは違いますね!まして、断定などは論外です。

  • @dateiburinokami
    @dateiburinokami 3 года назад +13

    魏志倭人伝の内容が嘘なら、北方や西域の記述も信用できないということになりますがさすがにそれはないと思うので、魏志倭人伝の内容はある程度信用できるのだと思います

    • @ys4414
      @ys4414 3 года назад +5

      噓というか勘違いくさいのは卑弥呼が死んだ際に生贄が数百人捧げられて腐敗臭が凄いってところかな。
      そんな風習があった痕跡は全く見つかってないしそもそもしょっちゅうやってたなら腐敗臭が立ち込めるようなお粗末な埋め方もおかしい。
      実際は疫病かなんかで大勢が亡くなって十分に埋める作業も間に合わなかったのを勘違いした可能性が高い。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p 2 года назад

      @@ys4414
      たぶん、貴人を埋葬する際の生き埋めは、実際にあったと思います。
      日本書紀には古代の天皇が、
      なんか生き埋めってかわいそうだよね、昔からの伝統だからって意味ないよね、だから俺の代から中止なー
      っていう記録があるんですよね。
      生き埋めされる生け贄に代わってつくられたのが埴輪なんだそうですよー

  • @徳川-s6c
    @徳川-s6c 3 года назад +1

    契丹と日本との関係を詳しく知りたいところです。契丹口伝なんかはトンデモ本という話がありますが、古代日本では、神代文字以前は文字がなかったわけなので、伝承や地方の古い歌などに宝が埋まっている気がします。頭でっかちの学者にはわからんでしょうね。

  • @KazunariKawashima
    @KazunariKawashima 3 года назад +3

    金印が見つかれば解決するということですな?
    天皇家(古墳含め)にあったら(笑)

    • @ebi2ch
      @ebi2ch 3 года назад

      金印は持ち運べる程度の重さでしょうから解決はしないかもしれません。

  • @rerepopo663
    @rerepopo663 3 года назад +5

    卑弥呼が中華の国に近付き過ぎて、色んな事を危惧した大和が
    九州に遠征して滅ぼしたとかこの辺も聞いた事がある。

  • @布田淳ぬのたあつし
    @布田淳ぬのたあつし Год назад +1

    正直、解らないまま終わりそうな気がしますが。

  • @user-pp7psytex
    @user-pp7psytex 3 года назад

    卑弥呼が日向(ひむか)ならば、壱与は伊予(愛媛)かも知れません。貴人の名は、直接呼ばず地名で呼ぶのが常でしたから。(邪馬台国は連邦全体の呼称で)

  • @モグちゃん2号
    @モグちゃん2号 3 года назад +1

    面白かった(o・ω・o)👍️。

  • @など-r2m
    @など-r2m 3 года назад

    マキムクがギリシアのポリスみたい このころから大義名分で攻めてたのな

    • @など-r2m
      @など-r2m 3 года назад

      倭高戦争もやってほしいなぁ

  • @宮本治男
    @宮本治男 9 месяцев назад

    北九州に存在したヤマトコクが神武東征で現在の奈良にいたナガスネヒコを倒してヤマトタイコク(倭大国)を樹立した。神武即位は226年頃(歴代天皇の在より推測)、神武即位を紀元前660年としたのは、当時、唐と新羅の連合軍に白村江で敗れた我が国が歴史を中国並みの歴史がある国であると誇張したものです。又、226年に660年を足すと886年となり、末広がりの国になるとの期待も存在したものです。

  • @speakerunitmania4844
    @speakerunitmania4844 2 года назад

    地図を作れたと言う事は、文字あったのでは?

  • @kogasan
    @kogasan 3 года назад +1

    投馬国が日向という説以外は自分と同じ考えだったので面白かった

  • @dazeriru
    @dazeriru 3 года назад +1

    テンミニッツ(有料動画だけれど・・)の、渡邉義浩教授の話によると、魏志倭人伝はかなり儒教理想の色濃い記述がなされているという。ヤマタイ国は”建業の東にある”ということにしたかったらしい。後から九州に攻めてきた大和朝廷が九州の卑弥呼・壱与の事跡をそのまま踏襲して利用したようにも感じますね。

  • @丸山康平-l2f
    @丸山康平-l2f 3 года назад +6

    でも文字記録は宝だと思う
    2千年経ってもこんなに
    皆を熱狂させてる
    捏造でも感謝したくなるな

  • @古屋公夫-s9s
    @古屋公夫-s9s 4 месяца назад

    邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
     魏志倭人伝の時代に奈良県には大和政権があり歴代天皇がいらっしゃり政治及び祭祀が行われていました。
     その後都が京都に遷都されるまでの間奈良県に歴代天皇がいらっしゃいました。
     又邪馬台国の初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
     倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
     従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。

  • @ほうじ茶-n6e
    @ほうじ茶-n6e 3 года назад +5

    ふつーに"ヤマトコク"って読むんだろJK

  • @諌山満伸
    @諌山満伸 3 года назад +1

    魏志倭人伝を問う場合、歴史学者の自分の説のゴリ押しがあると思う。日本の九州についた場所、二文字を無理やり一文字にしてる。石碑の写しをよく見て!海人だから海の内は距離と方角はある程度信じれるが陸路は方角は信じれても距離は大袈裟じゃないかな?多分、烏尾峠に卑弥呼居たんじゃない?(笑)卑弥呼の墓も嘉麻市の沖出古墳とか烏尾峠と山田市の間でアリかな(笑)飯塚、山田、嘉麻、田川には良く判らない古墳多いよ(笑)貿易は外国馬のデカいの輸入して日本馬掛け合わせてたかな?あと、烏尾峠は石灰と水は豊富ですよ(笑)農業いけるよ!
    邪馬台国は古代語で"やまだ(と)"と言う事、現在の山田市じゃないかな?筑豊での昔話で朝廷の権力争いで隠れ里を造り財宝持って北九州の方へゆっくり移動したって殆ど都市伝説だよネ(笑)

  • @2ytku723kp
    @2ytku723kp 3 года назад +2

    九州には7世紀くらいまで大和朝廷に与しない別の独立政権(?)があったらしいし、
    邪馬台国も当時の九州群雄の強国(?)の一角であったのではないかというのが個人的な妄想

    • @トンカラリン-y1y
      @トンカラリン-y1y 3 года назад +1

      邪馬台国は、九州群雄の一角というより九州王朝そのものです。3世紀には既に北部九州26ヵ国の連合国家です。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p 2 года назад

      @@トンカラリン-y1y
      実は魏志倭人伝には邪馬台国の位置として
      中国南部の会稽・東治の東の海の彼方にあるとはっきり書いてあります。
      会稽の東は台湾にあたり、東治の東は沖縄にあたります。
      さらに邪馬台国の気候や風土は中国海南島に似ているとも書いてあります。
      海南島は台湾の南の島でどちらかといば東南アジアに近いです。

    • @トンカラリン-y1y
      @トンカラリン-y1y 2 года назад +4

      @@user-me5ie4my9p 会稽は現在の浙江省紹興市付近と言われています。紹興市の東は屋久島・種子島付近です。しかし、魏志倭人伝の東はj若干北にずれていまずので、九州を示していると考えられます。

    • @user-me5ie4my9p
      @user-me5ie4my9p 2 года назад

      @@トンカラリン-y1y
      そうですね。
      間違えました。
      会稽の東が沖縄で、東治の東が台湾です。
      その気候や風土は現在における中国海南島に似ているとも書いてあります。
      それだけはっきりと書いてあるのに、なぜ九州なのですか?

    • @トンカラリン-y1y
      @トンカラリン-y1y 2 года назад

      @@user-me5ie4my9p 会稽の東が沖縄で、東治の東が台湾???

  • @ynorman4076
    @ynorman4076 3 года назад +1

    金印は象徴だが、歴史の一次資料は本来全て材料分析学で分析してから歴史や考古学の研究対象にすべき。
    新石器捏造事件の教訓が十分には生かされていない。
    自然科学で明らかにできる事をやらない論議ほど脆弱なものはない。

  • @monoris2008
    @monoris2008 3 года назад +6

    魏志倭人伝は過大評価の域を出ないってのが自分の意見。
    別にデタラメとも嘘八百とも思わないけど何事も話半分と思う。
    現状は、信じた方がみんなハッピーじゃん!ってノリがずっと続いてる感じ。

  • @クマのプー太郎-y9p
    @クマのプー太郎-y9p 3 года назад +1

    ハハ!なるほど。歴史が解かれると困る人達も多い訳だ。其方の方が謎だね。

  • @山城守トラ吉
    @山城守トラ吉 3 года назад +1

    ただの地方政権の一つだったと個人的に思う。倭国の代表だと思うことでごちゃごちゃになってしまう。越・毛野・オホーツク・出雲と同種の大勢力はいくつもあったし。