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信虎は追放されたワケじゃなくて、精神的に疲れて甲斐統治が嫌になって自ら政務を投げ出して駿河に出奔したという可能性も・・・晴信から甲斐を奪い返そうとした様子があまり無く、むしろ甲斐国主の重圧から解放されてノビノビしてる感じですし。
これはすごい考え。いろいろ腑に落ちる
冷静に考えれば、甲斐を統一した実績もあって、官位もあるし今川とのコネもある信虎が本気で奪還しようとしたら勝ち目ない気もする
謙信も精神的に疲れて越後統治が嫌になって自ら政務を投げ出して高野山に出奔しようとしましたね・・・
なお、信虎は駿河で晴信が派遣した侍女との間に子供を設けてます、老いてなお盛ん・・・・・・・・・・
追放後に最初は今川のところで厄介になってたけど今川がダメになったら畿内に移動、その後客将として戦ったりと最後まで精力的に動いてる信虎後年は憎しみも薄らいだか、または協力して最終的には甲斐に戻って隠居したかったのか信玄に情報提供をするようになってますね。
信虎は勝頼期に信濃高遠までは帰っていますが、甲斐の地を踏むことはなかったようで。
ここまであっさりとした実力者の当主が追放された例は知らないから、自業自得が基礎としても「天災が為政者の不徳によるもの」という考えが自然だったんだろうと、逆に思わされますね。武田滅亡の時の浅間山の噴火も、思っているより深刻な心理的な影響を与えていたのかも。
信虎が厄介事を片付けてくれたから名君でいられた信玄はその後自分の負債を勝頼に背負わせる事になって武田滅亡の遠因になる事を考えると何とも言えないですね
コメントありがとうございます!信玄が勝頼の分の運も吸い取ってしまった感がありますね。
@ 信玄が信長を裏切るタイミングが織田が武田と上杉の和睦の仲介をしてる最中だったのが信長の武田憎しを決定的にして勝頼が織田と和睦できる可能性は潰してしまったのが…
甲斐を統一したのは信虎ですからね。木曽、小山田、穴山などを婚姻政策で一族に組み込んでる。おかげで信玄は楽なスタートだったはず。(≧∇≦)b
北条氏康の引退も領内の凶作が原因と聞きますね。悪天候は自分の不徳と致すところだと。氏康は同時に徳政令も出したんだっけ?代替わりの恩赦みたいなものですかね
なんか古代中国の革命思想みたいですね有徳の者が徳無き者に代わって天下を取るっていう、あの……。
日本でもOO勢力が政権握ったら、その年は天災が・・・・・・・とかSNSとかで言われますからね世の中の空気が悪い時に、天災等が起これば治世者のせいにされるのは古今東西変わらない
結局、誰が信虎追放の主役だったんでしょうね?晴信も単に担がれたお神輿だった可能性も。とは言え、義元に「信虎のお世話よろしく」と根回しする必要もあったでしょうし。
コメントありがとうございます!史料が少なくて想像の余地がありますね。
過去動画の再編集楽しみにしてます!上杉編は人間臭くて大好きだったので!
コメントありがとうございます!武田信玄編も長くなりそうなので、お時間をいただくことになってしまうかと思いますが😓😓是非ご期待ください😄😄
ただ信虎は追放された後も武田がピンチに追いやられる度に京の方で各勢力と渡りを着けてたりする例えば1572年末の武田信玄の徳川侵攻の際には上方方面への調略や六角、三好などへの外交も積極的にやっている
畿内方面の外交はこの信虎と義理(晴信姉)の息子穴山信君(取次)がセットで担当していたのかも勝頼世代に京との取次が武田信豊(勝頼の後見人、次郎信繁の息子)に変わったとあるので同じく勝頼の後見人であった高遠の武田信廉の処に信虎が身を寄せた際にウニャウニャあって穴山氏から外交権を奪い取ったのが?後の(穴山)反乱の原因のひとつかもしれない
武田は甲斐だけでなく、若狭、安芸と全国区に散在しているので、ご隠居自ら出向いての連携のいい機会だったのでは。甲斐が他の武田の領国から移動が大変すぎですからね。徳政の為の茶番劇の可能性は否定し難い。北条も、働き盛りの氏康から氏政の代替わりに同じ事をしていますし。
武田は甲斐だけでなく、若狭、安芸と全国区に散在しているので、ご隠居自ら出向いての連携のいい機会だったのでは。徳政の為の茶番劇の可能性は否定し難い。徳政の代替わりは、北条も、働き盛りの氏康から氏政の代替わりに同じ事をしていますし。
まぁ結局当事者の人たちが晴信のクーデターに一切反抗しなかった時点で住民家臣からの信虎の評価は最低に近いレベルだったんだろうな。その当時の人からしたら10年後の未来より明日生きられるか分からない情勢なので現状の回復が優先されたのは当然だと思うただ個人の意見としてはあまりにあっさり事が済んでいるので家臣主導で晴信を担ぎ上げた説の方が納得する
「信虎は平世から悪逆無道」って甲斐国内の寺の坊主が書いてたぐらいだからな……。
>10年後の未来より明日生きられるかわからないだから今日の日本でも、財務省をはじめとした官僚たちの言いなりなって、増税し社会保障費を増やし続けて、海外に金をばらまいてきた自民党に(乂'ω')ℕꇎ─!!がつきつけられた
信虎はこの後、京都に住んだり、伊勢で海賊退治をしたなんて本当かどうか分からない逸話が残ってるな。それでも信玄より長生きしたのは凄い。
不思議というか疑問なのは信虎追放後に信虎派の蠢動みたいな事が無い事。信虎も甲斐復帰を狙うような動きしてないし。あまりにも権力移譲がスムーズに行き過ぎてて、なんか怪しいと思ってしまう。
コメントありがとうございます!信虎の引退があっさりしすぎてるのは確かに疑問なんですよね。
天災や重税の話は、武田勝頼末期と重なるものがありますね
信虎の人物像は頭の回る荒くれ者ってのが一番適正な気がする上杉からの嫁入りとかも含めて好色なのは間違いない。戦国というよりは鎌倉感ある男
過去の動画が消えてて投稿も遅れて心配しましたがUPされてて良かったです。戦が強くても政治が上手くないとやっていけないのが戦国時代の難しさのように感じます。
コメントありがとうございます!ご心配をおかけしてしまい申し訳ございません😓😓内政と軍事の両立は時代を問わず為政者の難問ですね。
やっと輝元動画視聴終わったので晴信解説動画視聴させていただきました。史実ベースの解説とても勉強になります。輝元が毛利家跡取りとしてはやはり微妙というかいまいち冴えない感じだったので晴信さんめちゃ有能にみえるwクーデーターも漫画のようにワクワクする展開でやっぱりこの人の方が主人公適正高い感。
え?何で過去の動画非公開にしたんですか!!
嫡男に殿を任せて万が一にでも討ち取られてしまったらお家の一大事だから頭首としては反対するでしょうね。弟が居るから良いという話でもないだろうし。「内乱と天災で領内が荒れる、他国がそれに乗じて侵攻、平定と防衛のために戦をする、軍資金が要るから重税を課す、領民が苦しむ、更に領内が荒れる」という負の無限ループ
徳政実施を念頭において当主隠居→新当主へ代替わりのありがちパターンを穏便な形で実施できなかったのは晴信自身も無念だっただろうと。徳政令自体は信虎は享保年代に出していたりもするようだが、信虎自身が隠居する気ゼロだろうから晴信にすれば実父追放クーデター実行仕方ないとも言える。
きたきたー!
なんか謎が多いこの辺の情勢だけど、信虎パッパが追放されるのはやはりそれなりに信虎パッパはあかん、こいつに当主は続けさせられないという相応の愚行か、晴信くんの当主に立てさせたいという相応の功績かは必要になってくるんだよな。そのへんがあやふやなのですっきりしないよね。今川さんとこに押しつけられほどなんで仲良くなってんだ?という疑問もあるし。
過去の動画非公開にしちゃったんですか😢信長のやつ途中まで見てたのに…😢😢
「信長の宗教政策」の回がめっちゃ面白かったんだけどね……。あと武田家滅亡編もだし……。
時代劇だと信虎が悪政で領民を苦しめたため、信玄がやむを得なく追放したというように演じられていますが、信玄を美化するための創作とも考えられますからね。
信虎は漫画にしたら面白くなる人生を送ってるんよね風林火山は、平蔵パートが無かったら名作とは思うが、もう日の目を見ることは無いだろうね
コメントありがとうございます!風林火山は色々惜しかったというのが自分の感想ですね。
領民のこどものチロルチョコをうばってたべてたんだろな、、、、信虎
動画では信虎追放に誰も反対しなかったと紹介されていましたが信虎に取り立ててもらった原虎胤は信濃から急ぎ甲斐に帰国して板垣信方や甘利虎泰に猛抗議したみたいですけど?また、信虎と氏綱が1538年に同盟したと紹介されていましたが、ネットで検索しても1524年から翌年の短期間の和睦しか出てきませんが、もし根拠としている出典があれば教えていただけると幸いです
コメントありがとうございます!天文七年の武田・北条の和睦は、平山優先生の『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書、2021年)と『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』(戎光祥出版、2019年)を根拠にしております。なお細かい指摘となってしまい申し訳ございませんが、天文七年に信虎と氏綱はあくまで「和睦」=「停戦」しただけあって、互いの軍事協力を前提にした「同盟」とは性質が異なります。また原虎胤の逸話についてですが、私は不勉強でその話の出典がわからないので、おそらく軍記物か逸話集の類かと思われますが、ご存じでしたら出典となる史料をご教示いただければ幸いです。
迅速なお返事ありがとうございます。平山優さんの書籍なら、かなり信憑性が高そうですね。出版してから数年経っているのにwikipediaに反映されていないのは残念です。そういえば天文3年(1534年)に晴信の正室である上杉朝興の娘が亡くなり、天文6年4月27日(1537年6月4日)に同盟相手の朝興が亡くなっていますので代替わりした新当主との同盟継続の手続きがされなければ1538年に結ばれたという武田と北条との同盟の障害はなくなっていますね。またwikiの武田信虎の頁を改めて見ていると「後北条氏は天文7年(1538年)に甲斐都留郡へ侵攻し吉田を襲撃しているが、天文8年(1539年)に北条氏綱は武田氏と和睦し、乱は収束する」と記述があり、これの出典は丸島(2007・①)、p.130とあるので丸島和洋さんの武田信虎のすべて(新人物往来社)だと思われますが同盟を結んだ後に甲斐へ攻めているとしたら、舌の根も乾かないうちに破っていることになり、北条氏が甲斐を襲撃した後に同盟を結んでいるのだったら、その後に和睦するのも変なので、この記述は誤りかもしれませんね。最後に原虎胤の逸話についてですが、いろんなサイトに掲載されてはあるものの、いずれも出典が載っているところはありませんでした。お力になれず、すみません。
@@naoki19771208こちらこそ大変ご丁寧な返事をいただきまして恐縮です。原虎胤についてはお手間をかけさせてしまったようで、申し訳ございませんでした。私も気になって調べてみたのですが、同じく出典はわからずじまいでした。この手の逸話はどこまでが史実なのか、なかなかつかめないのが難しいところですね。今後ともご意見やご指摘等ございましたら、遠慮なくコメントしていただれば幸いです😄😄
最近再評価され映画の主人公にもなって信虎。
前回動画見て気付いている人いるか微妙だけど何度も外敵の甲斐侵入を許してるのは結構致命的な失策なんだよなあ信虎の外交戦略センスは正直微妙で甲斐統一出来たのが不思議なぐらいなんよなあ
戦争続きで領内が疲弊したから追放したってことになっているけど信玄側の大本営発表だからなあ。信玄も侵略戦争路線継続だからこれが理由じゃないよね。武田が突出して強くなり家臣化されるのを嫌がったとかかな。
今週はないのかと思った
コメントありがとうございます!体調不良で一日寝ていた日がありまして😥😥
まあマジで真相はようわからんっていうのが、いまんとこ史実として語るときにはただしそうよな。
コメントありがとうございます!身も蓋もないですがそういった結論になってしまいますね。
小宮山友晴なる人物を蟄居させたとかで勝頼を下げて、跡部や長坂を小物呼ばわりしている人がいましたけど、跡部も長坂も信玄の時代からの古参側近であり、本当に彼らが小物なら信玄は長坂を板垣信方死後の諏訪郡代にしたり、跡部に山県昌景と同等の騎馬300騎を与えたりしないだろうから、跡部や長坂が本当に小物で奸臣なのかは分かったものじゃないだろうにって思います。小宮山友晴が勝頼が自害する間近にやってきて奮戦したのだって、自分はもう長くは生きられないだろうから、ここで自分が滅亡する主君と共に奮戦すれば、自分の息子や孫達が滅亡する主家の為に尽くした忠臣の子として他家にいい待遇で召し抱えられるのではという打算からだったのではって感じがしました。
@@峻-k5k 某軍記物で跡部と長坂は佞臣として叩かれてますからね…跡部は山県と並ぶ宿老で勝頼時代の側近筆頭という大物だったからこそスケープゴートになったのかもしれません。長坂は古参ではありますが跡部ほどの影響力を持ってない(勝頼時代は息子の方が活躍している)のに彼と並ぶ佞臣扱いなのが謎…春日虎綱と軋轢があったのかも?
@@マイリッジ あるサイトには、春日虎綱や馬場信春、内藤昌豊、秋山信友らは要地支配の為の城代として甲斐を離れていたのに対し、長坂や跡部、土屋、三枝らは甲斐に残って内政や外交文書を発行する奉行人の立場についていたそうです。 山県昌景は江尻城代になっていたとも、甲斐に残っていたとも諸説あるようですが。奉行人らが武田家の領地拡大に伴い、信玄の代わりに各地の城代達に指示を出すようになり、その中で自分達が蔑ろにされていると思った城代達が奉行人達に反発し、奉行人達も自分達の指示は信玄の意を受けての事なのにそれを無視するのかと城代達を敵視するようになったらしいです。その家臣団の対立が信玄死後に表面化した事が、勝頼の代になってからの内部分裂に繋がり、甲陽軍鑑での跡部や長坂らの奸臣扱いに繋がったのかもしれませんね。私は武田家滅亡は勝頼のミスも多々あったのだろうけど、根本的な原因は甲斐の貧しさと、それを打開する為の信玄の行動がその時点では最善あるいは最良であったが禍根を残し、結果として勝頼の代に負の遺産になったからだと思ってます。私は勝頼のミスは高天神城を見捨てた事と、新府城を作るタイミングであり、長篠の戦いと御館の乱は結果的に失策になっただけで勝頼の立場や状況で考えたら仕方なかったと思っています。
@@峻-k5k 跡部と並ぶ側近No2だった土屋が片手千人斬りの逸話で忠臣の評価がされているのは救いかもしれません(奉行人としての活躍は無視されがちですが)長篠→失地奪還しないと素質が問われる&大軍を上手く隠していた織田側の動きが見事すぎた御館の乱→武田信豊の薦めで景勝・景虎の和睦仲介という最善策を取ったのに、どうして…(徳川の駿河侵攻などの間の悪さもあり和睦破綻)高天神→駿河東西に兵を出す余裕が…御館の乱で北条と同盟破棄の影響がここに新府城→経済基盤強化と対織田の防衛拠点として理に適った発想だけど、間に合わなかったのは痛すぎる何より勝頼本人のミスと関係のない、タイミング最悪の浅間山噴火による動揺が致命傷になったと思うと…運が悪すぎましたね。
動画に関係ないけど昔の動画消えた?
急に非公開にしてしまい大変申し訳ございません。初期の動画は色々不備が多かったもので…武田勝頼編は信玄編終了後に色々手を加えて再編集版を投稿する予定で、上杉景勝編も同じく後日に再編集バージョンを作る予定でおります。
天文9年の大飢饉の影響は、晴信(&今川)のクーデター成功&正当化の後押しになったのでしょうね。戦国大名にとって天災は如何ともしがたい(浅間山噴火も武田滅亡の一因になってますしね) ストレスマッハな立場から解放されたおかげで信虎は長生き出来たとも言えるかもしれません(在京活動中の影響力も大きいし本当に精力的な人なんですよね)
コメントありがとうございます!思わぬ形ではあっても当主の重責から解放されたのは、結果的に信虎の人生にとって良かったのかもですね
甲陽軍鑑は文字の書けない高坂正信の口伝を聞きながら書ける人が筆記したから記憶の曖昧さが目立つから数字こそ怪しいけど大体合ってそう。知らんけど
コメントありがとうございます!甲陽軍鑑は書誌学的研究が進んで、大坂の陣終了からそう遠くない時期に書かれたということがはっきりしまして、その意味では戦国の同時代史料に近い性質ではあるのですが、扱い方は依然難しいですね。
甲斐国武田氏いなか大名やな
グル説あるかと思ったけどないかー。証拠を残すヘマをしなかったのだ、とか言い出したら陰謀論者みたいになるし。
武田信虎追放に歓喜した領民だが、息子信玄はもっと戦争大好きマンだったとさ。めでたし、めでたし。(≧∇≦)b
追放された後の人生の方が楽しそう
一回遅れましたが、武田信玄の回開始、おめでとうございます。しかし、信虎追放は結果だけみると、負の遺産をもって隠居でありますね。勝頼と真逆なのが面白い。追放時、御年47歳。当時なら老境で後の生活も面倒みてもらっており家臣団だ全員一致でまとまるのも劇場政治かなあ、とは。その後も中央で活動もしており最後は信濃国にて。憶測どころか妄想に近いですが
信玄→いくさは憎まれつつやるものだ。憎まれなければ人は本当の力を発揮できない。
第15代武田家当主信虎は私が追放した。紹介しよう、彼は甘利虎泰。彼には武田24将を超える武田四天王としての称号を与える。止めないか晴信それに甘利殿。いけないよ楯無の前でそんな冗談を。ではわかりやすくお話ししましょう。我を認めよ!オールハイル晴信!オールハイル晴信!
突然非公開にしてしまい大変申し訳ございません…初期の動画はクオリティ面で色々不備がありまして…(BGMやSEの音量が不必要に大きかったり、霊夢と魔理沙の語りで助詞が抜けていたりと、視聴者さんにストレスを与える要素が多々あったので)武田勝頼編と上杉景勝編は自分にとっても思い入れが深いので、信玄編が終了したあとに色々手を加えて再編集版を改めて投稿するつもりですが、他の動画については未定です。機会があればシリーズものではなく、個別の形で再編集して投稿するかもしれません。
信虎は追放されたワケじゃなくて、精神的に疲れて甲斐統治が嫌になって自ら政務を投げ出して駿河に出奔したという可能性も・・・
晴信から甲斐を奪い返そうとした様子があまり無く、むしろ甲斐国主の重圧から解放されてノビノビしてる感じですし。
これはすごい考え。いろいろ腑に落ちる
冷静に考えれば、甲斐を統一した実績もあって、官位もあるし今川とのコネもある信虎が本気で奪還しようとしたら勝ち目ない気もする
謙信も精神的に疲れて越後統治が嫌になって自ら政務を投げ出して高野山に出奔しようとしましたね・・・
なお、信虎は駿河で晴信が派遣した侍女との間に子供を設けてます、老いてなお盛ん・・・・・・・・・・
追放後に最初は今川のところで厄介になってたけど
今川がダメになったら畿内に移動、その後客将として戦ったりと最後まで精力的に動いてる信虎
後年は憎しみも薄らいだか、または協力して最終的には甲斐に戻って隠居したかったのか
信玄に情報提供をするようになってますね。
信虎は勝頼期に信濃高遠までは帰っていますが、甲斐の地を踏むことはなかったようで。
ここまであっさりとした実力者の当主が追放された例は知らないから、自業自得が基礎としても「天災が為政者の不徳によるもの」という考えが自然だったんだろうと、逆に思わされますね。
武田滅亡の時の浅間山の噴火も、思っているより深刻な心理的な影響を与えていたのかも。
信虎が厄介事を片付けてくれたから名君でいられた信玄は
その後自分の負債を勝頼に背負わせる事になって武田滅亡の
遠因になる事を考えると何とも言えないですね
コメントありがとうございます!信玄が勝頼の分の運も吸い取ってしまった感がありますね。
@
信玄が信長を裏切るタイミングが織田が武田と上杉の
和睦の仲介をしてる最中だったのが信長の武田憎しを
決定的にして勝頼が織田と和睦できる可能性は潰して
しまったのが…
甲斐を統一したのは信虎ですからね。木曽、小山田、穴山などを婚姻政策で一族に組み込んでる。おかげで信玄は楽なスタートだったはず。(≧∇≦)b
北条氏康の引退も領内の凶作が原因と聞きますね。悪天候は自分の不徳と致すところだと。氏康は同時に徳政令も出したんだっけ?代替わりの恩赦みたいなものですかね
なんか古代中国の革命思想みたいですね
有徳の者が徳無き者に代わって天下を取るっていう、あの……。
日本でもOO勢力が政権握ったら、その年は天災が・・・・・・・とかSNSとかで言われますからね
世の中の空気が悪い時に、天災等が起これば治世者のせいにされるのは古今東西変わらない
結局、誰が信虎追放の主役だったんでしょうね?
晴信も単に担がれたお神輿だった可能性も。
とは言え、義元に「信虎のお世話よろしく」と根回しする必要もあったでしょうし。
コメントありがとうございます!史料が少なくて想像の余地がありますね。
過去動画の再編集楽しみにしてます!
上杉編は人間臭くて大好きだったので!
コメントありがとうございます!武田信玄編も長くなりそうなので、お時間をいただくことになってしまうかと思いますが😓😓是非ご期待ください😄😄
ただ信虎は追放された後も武田がピンチに追いやられる度に京の方で各勢力と渡りを着けてたりする
例えば1572年末の武田信玄の徳川侵攻の際には上方方面への調略や六角、三好などへの外交も積極的にやっている
畿内方面の外交はこの信虎と義理(晴信姉)の息子穴山信君(取次)がセットで担当していたのかも
勝頼世代に京との取次が武田信豊(勝頼の後見人、次郎信繁の息子)に変わったとあるので同じく勝頼の後見人であった高遠の武田信廉の処に信虎が身を寄せた際にウニャウニャあって穴山氏から外交権を奪い取ったのが?後の(穴山)反乱の原因のひとつかもしれない
武田は甲斐だけでなく、若狭、安芸と全国区に散在しているので、ご隠居自ら出向いての連携のいい機会だったのでは。
甲斐が他の武田の領国から移動が大変すぎですからね。
徳政の為の茶番劇の可能性は否定し難い。
北条も、働き盛りの氏康から氏政の代替わりに同じ事をしていますし。
武田は甲斐だけでなく、若狭、安芸と全国区に散在しているので、ご隠居自ら出向いての連携のいい機会だったのでは。
徳政の為の茶番劇の可能性は否定し難い。
徳政の代替わりは、北条も、働き盛りの氏康から氏政の代替わりに同じ事をしていますし。
まぁ結局当事者の人たちが晴信のクーデターに一切反抗しなかった時点で住民家臣からの信虎の評価は最低に近いレベルだったんだろうな。その当時の人からしたら10年後の未来より明日生きられるか分からない情勢なので現状の回復が優先されたのは当然だと思う
ただ個人の意見としてはあまりにあっさり事が済んでいるので家臣主導で晴信を担ぎ上げた説の方が納得する
「信虎は平世から悪逆無道」って甲斐国内の寺の坊主が書いてたぐらいだからな……。
>10年後の未来より明日生きられるかわからない
だから今日の日本でも、財務省をはじめとした官僚たちの言いなりなって、増税し社会保障費を増やし続けて、海外に金をばらまいてきた自民党に(乂'ω')ℕꇎ─!!がつきつけられた
信虎はこの後、京都に住んだり、伊勢で海賊退治をしたなんて本当かどうか分からない逸話が残ってるな。
それでも信玄より長生きしたのは凄い。
不思議というか疑問なのは信虎追放後に信虎派の蠢動みたいな事が無い事。信虎も甲斐復帰を狙うような動きしてないし。あまりにも権力移譲がスムーズに行き過ぎてて、なんか怪しいと思ってしまう。
コメントありがとうございます!信虎の引退があっさりしすぎてるのは確かに疑問なんですよね。
天災や重税の話は、武田勝頼末期と重なるものがありますね
信虎の人物像は頭の回る荒くれ者ってのが一番適正な気がする
上杉からの嫁入りとかも含めて好色なのは間違いない。戦国というよりは鎌倉感ある男
過去の動画が消えてて投稿も遅れて心配しましたがUPされてて良かったです。戦が強くても政治が上手くないとやっていけないのが戦国時代の難しさのように感じます。
コメントありがとうございます!ご心配をおかけしてしまい申し訳ございません😓😓内政と軍事の両立は時代を問わず為政者の難問ですね。
やっと輝元動画視聴終わったので晴信解説動画視聴させていただきました。史実ベースの解説とても勉強になります。
輝元が毛利家跡取りとしてはやはり微妙というかいまいち冴えない感じだったので晴信さんめちゃ有能にみえるwクーデーターも漫画のようにワクワクする展開でやっぱりこの人の方が主人公適正高い感。
え?何で過去の動画非公開にしたんですか!!
嫡男に殿を任せて万が一にでも討ち取られてしまったらお家の一大事だから頭首としては反対するでしょうね。
弟が居るから良いという話でもないだろうし。
「内乱と天災で領内が荒れる、他国がそれに乗じて侵攻、平定と防衛のために戦をする、軍資金が要るから重税を課す、領民が苦しむ、更に領内が荒れる」という負の無限ループ
徳政実施を念頭において当主隠居→新当主へ代替わりのありがちパターンを穏便な形で実施できなかったのは晴信自身も無念だっただろうと。
徳政令自体は信虎は享保年代に出していたりもするようだが、信虎自身が隠居する気ゼロだろうから晴信にすれば実父追放クーデター実行仕方ないとも言える。
きたきたー!
なんか謎が多いこの辺の情勢だけど、信虎パッパが追放されるのはやはりそれなりに信虎パッパはあかん、こいつに当主は続けさせられないという相応の愚行か、晴信くんの当主に立てさせたいという相応の功績かは必要になってくるんだよな。そのへんがあやふやなのですっきりしないよね。今川さんとこに押しつけられほどなんで仲良くなってんだ?という疑問もあるし。
過去の動画非公開にしちゃったんですか😢
信長のやつ途中まで見てたのに…😢😢
「信長の宗教政策」の回がめっちゃ面白かったんだけどね……。
あと武田家滅亡編もだし……。
時代劇だと信虎が悪政で領民を苦しめたため、信玄がやむを得なく追放したというように演じられていますが、信玄を美化するための創作とも考えられますからね。
信虎は漫画にしたら面白くなる人生を送ってるんよね
風林火山は、平蔵パートが無かったら名作とは思うが、もう日の目を見ることは無いだろうね
コメントありがとうございます!風林火山は色々惜しかったというのが自分の感想ですね。
領民のこどものチロルチョコをうばってたべてたんだろな、、、、信虎
動画では信虎追放に誰も反対しなかったと紹介されていましたが信虎に取り立ててもらった原虎胤は信濃から急ぎ甲斐に帰国して板垣信方や甘利虎泰に猛抗議したみたいですけど?
また、信虎と氏綱が1538年に同盟したと紹介されていましたが、ネットで検索しても1524年から翌年の短期間の和睦しか出てきませんが、もし根拠としている出典があれば教えていただけると幸いです
コメントありがとうございます!天文七年の武田・北条の和睦は、平山優先生の『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書、2021年)と『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』(戎光祥出版、2019年)を根拠にしております。
なお細かい指摘となってしまい申し訳ございませんが、天文七年に信虎と氏綱はあくまで「和睦」=「停戦」しただけあって、互いの軍事協力を前提にした「同盟」とは性質が異なります。
また原虎胤の逸話についてですが、私は不勉強でその話の出典がわからないので、おそらく軍記物か逸話集の類かと思われますが、ご存じでしたら出典となる史料をご教示いただければ幸いです。
迅速なお返事ありがとうございます。
平山優さんの書籍なら、かなり信憑性が高そうですね。
出版してから数年経っているのにwikipediaに反映されていないのは残念です。
そういえば天文3年(1534年)に晴信の正室である上杉朝興の娘が亡くなり、天文6年4月27日(1537年6月4日)に同盟相手の朝興が亡くなっていますので代替わりした新当主との同盟継続の手続きがされなければ1538年に結ばれたという武田と北条との同盟の障害はなくなっていますね。
またwikiの武田信虎の頁を改めて見ていると「後北条氏は天文7年(1538年)に甲斐都留郡へ侵攻し吉田を襲撃しているが、天文8年(1539年)に北条氏綱は武田氏と和睦し、乱は収束する」と記述があり、これの出典は丸島(2007・①)、p.130とあるので丸島和洋さんの武田信虎のすべて(新人物往来社)だと思われますが同盟を結んだ後に甲斐へ攻めているとしたら、舌の根も乾かないうちに破っていることになり、北条氏が甲斐を襲撃した後に同盟を結んでいるのだったら、その後に和睦するのも変なので、この記述は誤りかもしれませんね。
最後に原虎胤の逸話についてですが、いろんなサイトに掲載されてはあるものの、いずれも出典が載っているところはありませんでした。
お力になれず、すみません。
@@naoki19771208こちらこそ大変ご丁寧な返事をいただきまして恐縮です。原虎胤についてはお手間をかけさせてしまったようで、申し訳ございませんでした。
私も気になって調べてみたのですが、同じく出典はわからずじまいでした。この手の逸話はどこまでが史実なのか、なかなかつかめないのが難しいところですね。
今後ともご意見やご指摘等ございましたら、遠慮なくコメントしていただれば幸いです😄😄
最近再評価され映画の主人公にもなって信虎。
前回動画見て気付いている人いるか微妙だけど
何度も外敵の甲斐侵入を許してるのは結構致命的な失策なんだよなあ
信虎の外交戦略センスは正直微妙で甲斐統一出来たのが不思議なぐらいなんよなあ
戦争続きで領内が疲弊したから追放したってことになっているけど信玄側の大本営発表だからなあ。信玄も侵略戦争路線継続だからこれが理由じゃないよね。武田が突出して強くなり家臣化されるのを嫌がったとかかな。
今週はないのかと思った
コメントありがとうございます!体調不良で一日寝ていた日がありまして😥😥
まあマジで真相はようわからんっていうのが、いまんとこ史実として語るときにはただしそうよな。
コメントありがとうございます!身も蓋もないですがそういった結論になってしまいますね。
小宮山友晴なる人物を蟄居させたとかで勝頼を下げて、跡部や長坂を小物呼ばわりしている人がいましたけど、跡部も長坂も信玄の時代からの古参側近であり、本当に彼らが小物なら信玄は長坂を板垣信方死後の諏訪郡代にしたり、跡部に山県昌景と同等の騎馬300騎を与えたりしないだろうから、跡部や長坂が本当に小物で奸臣なのかは分かったものじゃないだろうにって思います。
小宮山友晴が勝頼が自害する間近にやってきて奮戦したのだって、自分はもう長くは生きられないだろうから、ここで自分が滅亡する主君と共に奮戦すれば、自分の息子や孫達が滅亡する主家の為に尽くした忠臣の子として他家にいい待遇で召し抱えられるのではという打算からだったのではって感じがしました。
@@峻-k5k 某軍記物で跡部と長坂は佞臣として叩かれてますからね…跡部は山県と並ぶ宿老で勝頼時代の側近筆頭という大物だったからこそスケープゴートになったのかもしれません。長坂は古参ではありますが跡部ほどの影響力を持ってない(勝頼時代は息子の方が活躍している)のに彼と並ぶ佞臣扱いなのが謎…春日虎綱と軋轢があったのかも?
@@マイリッジ
あるサイトには、春日虎綱や馬場信春、内藤昌豊、秋山信友らは要地支配の為の城代として甲斐を離れていたのに対し、長坂や跡部、土屋、三枝らは甲斐に残って内政や外交文書を発行する奉行人の立場についていたそうです。
山県昌景は江尻城代になっていたとも、甲斐に残っていたとも諸説あるようですが。
奉行人らが武田家の領地拡大に伴い、信玄の代わりに各地の城代達に指示を出すようになり、その中で自分達が蔑ろにされていると思った城代達が奉行人達に反発し、奉行人達も自分達の指示は信玄の意を受けての事なのにそれを無視するのかと城代達を敵視するようになったらしいです。
その家臣団の対立が信玄死後に表面化した事が、勝頼の代になってからの内部分裂に繋がり、甲陽軍鑑での跡部や長坂らの奸臣扱いに繋がったのかもしれませんね。
私は武田家滅亡は勝頼のミスも多々あったのだろうけど、根本的な原因は甲斐の貧しさと、それを打開する為の信玄の行動がその時点では最善あるいは最良であったが禍根を残し、結果として勝頼の代に負の遺産になったからだと思ってます。
私は勝頼のミスは高天神城を見捨てた事と、新府城を作るタイミングであり、長篠の戦いと御館の乱は結果的に失策になっただけで勝頼の立場や状況で考えたら仕方なかったと思っています。
@@峻-k5k 跡部と並ぶ側近No2だった土屋が片手千人斬りの逸話で忠臣の評価がされているのは救いかもしれません(奉行人としての活躍は無視されがちですが)
長篠→失地奪還しないと素質が問われる&大軍を上手く隠していた織田側の動きが見事すぎた
御館の乱→武田信豊の薦めで景勝・景虎の和睦仲介という最善策を取ったのに、どうして…(徳川の駿河侵攻などの間の悪さもあり和睦破綻)
高天神→駿河東西に兵を出す余裕が…御館の乱で北条と同盟破棄の影響がここに
新府城→経済基盤強化と対織田の防衛拠点として理に適った発想だけど、間に合わなかったのは痛すぎる
何より勝頼本人のミスと関係のない、タイミング最悪の浅間山噴火による動揺が致命傷になったと思うと…運が悪すぎましたね。
動画に関係ないけど昔の動画消えた?
急に非公開にしてしまい大変申し訳ございません。初期の動画は色々不備が多かったもので…武田勝頼編は信玄編終了後に色々手を加えて再編集版を投稿する予定で、上杉景勝編も同じく後日に再編集バージョンを作る予定でおります。
天文9年の大飢饉の影響は、晴信(&今川)のクーデター成功&正当化の後押しになったのでしょうね。戦国大名にとって天災は如何ともしがたい(浅間山噴火も武田滅亡の一因になってますしね) ストレスマッハな立場から解放されたおかげで信虎は長生き出来たとも言えるかもしれません(在京活動中の影響力も大きいし本当に精力的な人なんですよね)
コメントありがとうございます!思わぬ形ではあっても当主の重責から解放されたのは、結果的に信虎の人生にとって良かったのかもですね
甲陽軍鑑は文字の書けない高坂正信の口伝を聞きながら書ける人が筆記したから記憶の曖昧さが目立つから数字こそ怪しいけど大体合ってそう。知らんけど
コメントありがとうございます!甲陽軍鑑は書誌学的研究が進んで、大坂の陣終了からそう遠くない時期に書かれたということがはっきりしまして、その意味では戦国の同時代史料に近い性質ではあるのですが、扱い方は依然難しいですね。
甲斐国武田氏
いなか大名やな
グル説あるかと思ったけどないかー。
証拠を残すヘマをしなかったのだ、とか言い出したら陰謀論者みたいになるし。
武田信虎追放に歓喜した領民だが、息子信玄はもっと戦争大好きマンだったとさ。めでたし、めでたし。(≧∇≦)b
追放された後の人生の方が楽しそう
一回遅れましたが、武田信玄の回開始、おめでとうございます。しかし、信虎追放は結果だけみると、負の遺産をもって隠居でありますね。勝頼と真逆なのが面白い。追放時、御年47歳。当時なら老境で後の生活も面倒みてもらっており家臣団だ全員一致でまとまるのも劇場政治かなあ、とは。その後も中央で活動もしており最後は信濃国にて。憶測どころか妄想に近いですが
信玄→いくさは憎まれつつやるものだ。憎まれなければ人は本当の力を発揮できない。
第15代武田家当主信虎は私が追放した。紹介しよう、彼は甘利虎泰。彼には武田24将を超える武田四天王としての称号を与える。
止めないか晴信それに甘利殿。いけないよ楯無の前でそんな冗談を。
ではわかりやすくお話ししましょう。我を認めよ!
オールハイル晴信!オールハイル晴信!
過去の動画非公開にしちゃったんですか😢
信長のやつ途中まで見てたのに…😢😢
突然非公開にしてしまい大変申し訳ございません…初期の動画はクオリティ面で色々不備がありまして…(BGMやSEの音量が不必要に大きかったり、霊夢と魔理沙の語りで助詞が抜けていたりと、視聴者さんにストレスを与える要素が多々あったので)
武田勝頼編と上杉景勝編は自分にとっても思い入れが深いので、信玄編が終了したあとに色々手を加えて再編集版を改めて投稿するつもりですが、他の動画については未定です。機会があればシリーズものではなく、個別の形で再編集して投稿するかもしれません。