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40年ほど前バイクツーリングで帯広を訪ねました。ちょうど夏祭りの頃で非常に活気があったように覚えています。
訳あって、帯広に帰ることができなくなっています。懐かしい光景に号泣しました。ありがとうございます。帰れなくても、やはり私の一番好きな街なんです
15才まで帯広に住んでました!その後は父の転勤で札幌へ移住。現在45才。帯広が懐かしく、大好きだった。黄色い十勝バス、三代目駅舎、すずらん印の砂糖工場、6階建てのイトーヨーカ堂、私の時代は既に現在の白い藤丸でした。どれもこれも懐かしい❗️帯広に戻りたいです。
初めまして、私は生まれも育ちも釧路市で、現在34歳です。4歳の頃、家族旅行で3代目帯広駅舎内のステーションホテルに泊まった事を覚えています。また、1998(平成10)年に稲田町へ移転する前までの地上6階建ての初代イトーヨーカドーは、地元釧路店(2019年1月20日閉店)の3階建ての2倍規模の造りに、当時小学生だった私は「釧路のヨーカドーよりでかいなぁ、デパート並みだなぁ!」と驚いていました。懐かしいですね。失礼致しますが、チャンネル登録させていただきました。どうぞよろしくお願い致します。
@@リャンフー交通チャンネル 本当に丁度2倍の規模で草
三十数年前、宮崎から帯広へ転勤しました。家財道具が届くのに1週間かかり駅前のホテルに滞在しました。当時、グリュック王国があり、見て廻りました。子育てには、帯広は最高の場所でした。(偏差値は、別として)夏は、キャンプ。冬は、毎週嵐山かサホロ、トマム。公園東町の三冠王や製糖工場近くの火の車、ウエスタンなど、よく家族と外食してました。家内と健康年齢のうちに、もう一度、十勝へ行きたいと思います。動画を見ながら、懐かしんでおります。
帯広に帰りたくなってきた。早く故郷に帰りたい
25歳まで住んでました😆最高の街です👍帰りたいなぁ😭
帯広生まれの道産子です、懐かしい記憶です
帯広最高!!
デイリークイーンのとこで「あああ~」ってなりました、懐かしい…旧長崎屋とかヨーカドー、ミスタードーナツなど友達とよく行ってブラブラ遊んでましたね
デイリークイーンがあって、ミスドがあって、モスがあって、サニーデパートがあって、藤丸があって、旧長崎屋があって、ヨーカドーがあって、映画館があって、、、、、
昔の街並み、懐かしいですね。
僕は今高校生です、初めて見る帯広の景色ばかりで、新鮮でした
奇遇ですね私も帯広の高校生です。通学の為に何気なく乗ってる帯広からの鉄道にこんな歴史があるなんて感慨深いです
@@ドレビン わかります〜今の帯広駅からじゃ想像できないですよね😳!
どこ高?
想い出の建物があり懐かしいなぁ
長崎屋内のファンタジードームも思い出してあげて~西帯方面のいっきゃう(フクハラ系列)向かいに有った巨大迷路も思い出してあげて~
藤丸の壁 懐かしい😀あんな壁多かったですね
私のガキの頃は まだ帯広市内馬車が走っていたぞ 冬場は 石炭ストーブを使うから 大体の家庭は石炭を購入して冬はルンペンに火を入れて石炭で暖をとっていた その石炭を運ぶのはトラックではなく馬車で引っ張ってきて朝に乗せた石炭を 家の長屋の物置の倉庫に石炭をいつも他社を引っ張ってくるおじちゃんが入れてくれてたねそしていつも石炭を持ってきてくれた時にはいつも帯広の街まで朝に乗せてもらって 遊んだことがあるそして帰りは自宅まで歩いて来たもんだ その頃は結構まだ打者が帯広の街に 羽島荷物を運んでいたね 私のガキの頃の話だから約60年前だ60年前私が物心ついて記憶にある小学校1年生になる前だから6歳か5歳の頃だな 約60年前 まだその頃は馬車が走っていたよ もちろん車も走っていたが面白い車が走ってたねあの3人のトラックは走ってたがなんとハンドルがバイクのようなハンドルで前に一人乗りそして後ろに荷物を積むそう言った3人トラックも走っていた それにあの頃は帯広の街の中から稲田の日展という工場の所まで汽車が荷物を積んで走っていたら まあ工場で使う石炭やいろんな材料を運んでまた帰りは日展で作られた製品を積んで運んでいったみたいだけど まあその記者が来るたび面白くて 汽車の汽笛が鳴るといつも家から出て行って記者を見に行ったもんだ そしてその当時は各家庭には全然風呂なんて気の利いたものはついていない風呂といえば風呂やに入りに行くそれが常識だったねそして自宅の近くには鶏やさんがあって 鶏肉を鶏屋さんに買いに行ったもんだ お母さんのおつかいに鶏肉を買ってきておくれと言って お金をもらって鶏屋さんに行っておじちゃん鶏一羽頂戴って言ったらおじちゃんが 鳥屋鳥小屋から鶏を出してくれてそして外の屠殺まで鶏の首をチョンパして首をはねて しばらく 首を入れた鶏をぶら下げて逆さまにぶら下げて刺激をしてから 工場の方に持って行ってなんか機械みたいのにかけて 取り除けとか抜かれた そう内臓も取ってくれて 今で言う丸鶏の状態でしっかり加工してくれて そこで直接買ったもんだ まあたまごも生産していたみたいだけどそのニワトリ小屋がなんと町の中にあった 今で言う西6条南二十八丁目あたりだったかなあの近くに風呂屋があったね猪谷という今はないけど4中の近くだよ その近くに大きな鶏屋さんがあった まあそういう時代だね それにテレビなんて気の利いたものはあるうちは少なかったね まあ私が小学生に上がるまではテレビはなかったしかし小学生に上がった頃 うちの父ちゃんがいいものを買ってきたよーと言って電気屋さんと一緒に帰ってきた テレビを買って つけたらすぐにはその時代のテレビはつかなかった 中に真空管というのが入っていて真空管があったまるまで画面に映像が出てこなかったもんだ 洗濯機と言えば今のような脱水機なんかついていなかったなんかハンドルをぐるぐるぐるぐる回して 絞るような洗濯機だったら大体家の天気は 丸い電気で傘がついたくるくるくるくると回す電球だった そして電球電気を取るときはその電球を外してソケットをあの 電気の差し口のソケットをまた同じ所にさしてそっから電気を取っていたもんだ あの古き良きみたい懐かしく思うよ 私の子供の頃には まだ家の近くで 十勝鉄道が走っていたね いわえる 記念 一枚というところを 鉄道のレールが横断してそこには 踏切にもあった 十勝鉄道は 私も子供の頃は イナダの 日展の工場に いろんな物資を運んでいた すぐ家の近くに鉄道があったもんだから 薬 小学校1年生だったからよく 鉄道に石を置いて いたずらして遊んでいたら 列車が止まって運転手に 追いかけられた覚えがあるよ 本当に 古き良き時代だったね その頃まだ家の近所には 鶏やさんがあって 近所の人達が 鶏肉を買いに行くときは その鶏屋さんに行って 鶏をそのまま生きている鶏を 閉めてもらって 綺麗に人にさばいてもらって 丸鶏 にしてもらって よく購入していたよ 私もおつかいでよく 鶏やさんに鶏を買いに行ったね その当時の鶏は 1羽 500円だったね よく覚えてるよ だって 500円札 持って行って お釣りが なかったから 500円だって覚えていたね そこには卵もよく買いに行ったよ まだ その当時は ジュースの瓶が から瓶 持っていけば 一本10円という小遣いになったもんだ
デイリークイーンの2段ソフト食べたい!アメリカとの契約か終わったのでしょうね…。キャラメルソフトーーー☆リブサンドも、よく食べた🍀アメリカにはあるんだろうか?
昔の駅のミルキーウェイを今の長崎屋側に降りた所で[どん]を売っていたおばさん。懐かしいなぁ。死んだ婆ちゃんが街に行くとよくお土産で買ってきてくれたっけ。あと、駅で靴磨きをしていたおじさん。ブリキ缶の中に飴せんを入れて売っていたおじさん。自転車の荷台に小さな茶箪笥の様なものを詰んで餡子餅を売っていたお爺さん。子供が近づくと下入れ歯を突き出してふざけて威嚇してくるリヤカーを引いた雑品屋のお爺さん。出来ればもう一度お会いしたいです。
『どん』ありましたね❗️知ってます!懐かしく思い返信しました!あの味は、あの『どん』でしか出せないですね。
sawako. h あの頃はいつでも食べれると思っていました。
どんのお婆さん懐かしい!マサルさんの絵で「うまい!!」って書いてあるのを思いだしました
59年の夏に三国峠を越えて(当時は砂利道)十勝三股で輪行しました。この動画の最初のところのようにバスに乗った記憶があります。十勝三股~糠平は当時バス運行だったのでしょうか、記憶かあいまいなので詳しい方教えてください
旧藤丸百貨店、その奥に見える長崎屋、カジノビル、画像には無いけど天津甘栗の店もあったはず。インデアンカレーの店も小さな店舗、今こんなに店舗が増えるとは思っても見なかった。マスヤパンの交差点に漂う香りが懐かしい。六花亭がまだ千秋庵の時に食べたホットケーキのお陰でナイフとフォークの使い方を覚えた。帯広から離れて数十年、昔とは変わっただろうがいつか昔を忍んで散策したい。
私は61歳になるが この61年間で 広尾線の 電車に乗ったのはたった2回だけ 最初は帯広から 広尾まで 2回目は帯広から大家まで乗った この2階が最後だね まあ広瀬があった当時は重宝して何回も乗れるというふうに思っていたし 料金もバスよりも安かったから列車に乗っていたが しかしあまり 記号の方に行く用事が無かったから人生で61年間の人生で2回しか乗らず その途中配線になっちまって 残念に思うね広尾線を残すために今は亡きあの 名前忘れたな俳優男の俳優と家族 そうそう朝丘雪路の旦那と朝丘雪路とそしてその娘が 広尾線廃止を反対して いろんなイベントに出ていたが そうそう その旦那がグラングランパパだかというおもちゃをやろうやっていて 広尾にはサンタランドがあるからということで広尾線の廃止に反対して署名集めも積極的にやっていたのはよく覚えているなそうそう思い出した津川雅彦かそうそう 家族で挑戦の反対運動をやっていたのはよく覚えている朝丘雪路も津川雅彦も 今は亡き人になっちゃったけどその当時は 十勝鉄道は私のガキの頃まだ帯広から稲田までは走っていたような記憶にあるよ私のガキの頃その沿線沿いの西6条に住んでいたから ディーゼル機関車が 未だにある日建まで 荷物を運んでいたのをよく覚えているよ 私のガキの頃はもうすでに八千代までは 貸してはいなかったが運転まではよく走っていたよ 私はちょうど 幼稚園ぐらいのころだったかないたずらして線路に石ころを置く遊びが流行っていてそれを何十個か置いていたらちょうど列車が来て 急停止して運転手が決勝かけて 追いかけてきたから私は逃げて逃げて走って逃げて 住宅の知らない家の住宅の物置の中に逃げ込んでうまく見つかんなかったけど あれもしかしたら後で脱線したがなんて反省したけどね本当にあの頃は 十勝鉄道は走っていたよな 拓鉄出ないような十勝鉄道だよなぁ日展まで待つを運んでいたのはよく覚えているよあのイオン中の脇に鉄道が走っていてその界隈に私は住んでいたからヨーク鉄道で遊んでいた
昔に行ってみたいです
帯広の隣町に住んでました。私が小さい頃は国道38号線がまだ砂利道で、母とたまにバスに乗り、藤丸、長崎屋、きんいちかん(字思い出せない)などに行きました。お昼に食べるラーメンは、金時の五目ラーメンか、三平のみそラーメンでした。三平はどこかの地下にあったと思いますが思い出せません…。もう食べられないあの頃の味をたまに思い出します。
三平は確か長崎屋の裏だったような。冬に行くといつも店の窓が曇ってた。
1963年、中学2年まで住んでいた故郷です。ヒトはなぜふるさとが恋しいのでしょうね><
40年位前に帯広と中札内に住んでました。動物園と自動車学校の近くです。帯広駅は三代目の頃。中札内に住んでた時は何回も広尾線に乗りました。帯広駅の5番線が発着ホームでした。
三代目駅舎の横のミルキーウェイが懐かしいなぁ
駅舎 赤茶の壁だった記憶だったけど記憶違いか〜💧よく札幌行く時利用してたなあ大晦日の夜にやってる店が無くて空腹が辛かった思い出が🤣
2:38の藤丸デパートが移転した後に藤友ストアが入ったはずだけど、そこに連れていかれた記憶がある。その後に帯広千秋庵(その後の六花亭本店)の喫茶室に行きホットケーキを食べるのが楽しみだった。
ドラエモン使ってドアでホットケーキ食べに行きたいですね
懐かしいな。
>中島みゆきの実家の中島産婦人科医院と言う 産婦人科医院が そうさなあ 35年前くらいまではあったかなそうそう、前の厚生病院の近くにあった。あの辺には酪農会館もあって、私が幼稚園くらいの頃、そこで叔父の結婚披露宴があり、連れていかれたのを、かすかに覚えている。みつわ屋呉服店の経営者で、後に市会議員となった中島公園の名称の由来の人物でもある中島武市氏は、中島みゆきの祖父でもある。そして、中島みゆきの母校でもある柏葉高校。ここの卒業生には他に吉田美和(ドリカム)、安住紳一郎(TBSアナ)がいる。ちなみに、三条高校のほうは小野寺昭、十勝花子(故人)が在籍していた。
かつては踏切だったところ,いまは厚生病院の駐車場になっていますね。
38年前、本田美奈子さんが酪農会館にやってきた。顔が凄く小さく可愛いかった。中島産婦人科は汽車で通う際に線路沿いにあった。懐かしいなぁ~
なつかし〜!
帯広にも中島公園があるんだ!
懐かしい🎵私も、歳とったなぁ~😂
懐かしいね私もガキの頃は その頃大きな建物といえば カジノビール藤丸期間サニーデパート それにふじとも ストアもうちょっと後になって長崎屋ができたのかなまあ私が物心ついたときには カジノビールサニーデパート藤丸11巻ぐらいの大きな建物しかなかったねああそうそうふじともストアというのがあったか 藤丸の並びの通りにあったんだけども今の現在の藤丸の場所にふじともストアというのがあったんだ 聞くところによるとそのふじともストアは同じ藤丸系列の 経営だったんだけどもその昔ふじともストアがあったところは初代藤丸が立っていたとこだったらしいだから現在の藤丸デパートのある場所は その前はふじともストアでその前が 藤丸ということだったらしいね サニーデパートのあったビルは今居酒屋の店舗になっているんじゃないかなかじのビルは私の牡蠣の頃は1階の道路ギアはたい焼き屋があってそして 玄米のようになって向こう側に突き抜けて行けるようになっていたら そして1階には八百屋果物屋おもちゃ屋 いろんな商店が入っていたねまああの頃懐かしく思うね 今帯広の中心街に大きな建物のまデパートといえば藤丸百貨店ぐらいしかなくなったね 他大きなビルはたくさんあるけどみんな 会社や企業の入るビル宝百貨店的なビルは今帯広中心街は藤丸百貨店ぐらいしかなくなったね あと大きなデパート的なものはみんな帯広のま郊外に写って行っちゃったからなあ 後は飲み屋街があるくらいなもんだね寂しいね
その、ふじともストアの建物が、その前に藤丸として使われていたんだよ。藤丸が9丁目に新築移転(現在は更地)した後、7年程藤丸の倉庫として使われてから「ふじともストア1号店」としてオープン。現在の藤丸が8丁目に戻って新築されるのに伴い、取り壊された。その、ふじとも系列として唯一残っていた木野市街の「OK音更店」も、今はダイイチに吸収合併されちゃったけどね。
@@珍宝-c5i ダイイチに吸収合併されたのっていつ?
句読点つけろよ。
もう書いてから1年近くも経つとは。とんでもなく返信が遅れて大変申し訳ない。OKがダイイチに吸収合併されたのは2016年(平成28年)10月1日ついでに言うと、西1条南10丁目にあったダイイチの1号店も2021年(令和3年)8月31日をもって閉店した。この店舗は私が子供の頃は「帯広フードセンター」という店名だった。その1号店でもあったんだけど。
十勝鉄道懐かしいね私がまだ子供の頃幼稚園の頃かな 帯広の 帯広駅から記念碑を経由して 今の幼虫の隣にあたりに鉄道が敷いてあって イナダの日展まで 機関車が 毎日物資を運んでいたね私はその沿線沿いに住んでいて 幼稚園児だったからまだわからなくてその鉄道の レールに遊びのつもりで石をたくさん置いたらちょうど機関車が来て急に急停車をするもんだからなんで止まったのかなーと思ってわからないでポカーンと見たらおじさんが降りてきて血相かいてポーズはそんなことしたらダメだぞ このて線路の上に石を置いたらこの大きな機関車がひっくり返っちゃうから もうそんなことをしたらだめだからなと怒られた後に その時間車を運転していたおじさんがポケットから飴玉を出して私に これを なめて今日のことをよく覚えておくんだぞと優しく最後は教えるように叱ってくれたあの日を思えば古き良き時代だったなぁその頃まだ石炭を運ぶ馬車が町ん中歩いていたね私の家は冬場はルンペンを炊いていたから石炭を使っていたので私の家の物置に 馬の馬車に石炭を積んで堀さんが一人で馬車で石炭を運んで 家の物置に馬車市大分の石炭を入れて言って終わった後ねおじさん馬に乗りたいなと言ったらおじさんは 馬車の荷台の後ろに乗っけてくれて その頃の4柱の辺りまで乗っけてくれた そしてありがとうと降ろしてもらって自宅まで 歩いて 30分のところまで歩いて帰った本当に懐かしい思い出だ
あざみの焼きそば美味しかったな~!(^^)!誰か復活してくれない😍😍
インデアンカレー食いたくなった🍛
おねいちゃん家族が帯広に住んでるからたまに行ってみるのだ!!☺️
この藤丸の建物は 私の子供の頃 約50年前は 既に別のところに移転しており 藤丸があった この場所は同じ 藤丸の創設者の系列の ふじともストア というのになっていたね 建物が全く同じだから 藤丸が 他に移転 した後に同じ系列の ふじとも ストアが入ったんだと思うけど 50年前はそのふじとも ストアから 歩いて5分もしないところに 同じ道路沿いに 藤丸ビルが建っていたね それも 50年前はそういう形だったらそれから 15年ぐらい だったかな 確か 藤丸は元の ふじとも ストアのあった場所に つまり 最初 藤丸型ってあった場所に 藤丸がまた移転して今の現在の富士丸があるということだろう 藤丸の創設者 地元でも その時代 有力者でもあったからね だからこそ現在も 北海道であちらこちら 百貨店が潰れていくのに 帯広 だけまだ 藤丸百貨店が残っているのは そこ だろう 昔から 帯広で愛されている百貨店 だから今でも客が行くのも当然 景気の怒った時代は私の子供の頃 50年前は 藤丸の系列のストア ふじとも ストアというのは 帯広市内に何十件も確かあったはずだね 現在はもう 亡くなっているけどね まあ 今で言う 福原と同じようなものだったんだよな
懐かしい😂ターザン!スターアイランド!タイムトンネル!知ってる奴居たらコメくれーーーー
帯広駅三代目駅舎の時はよく利用したね 特に帯広駅いいの ステーションホテル安かったらね私は帯広に住んでいるんだけども休みの日は たまに帯広のこの駅のステーションホテルを利用して止まっていたね なぜ関西安かったから夜は帯広市内で飲みに行ってそして帯広駅のステーションホテルで泊まっていた生活はしていたね なぜ関西便利だったよちかは商店街と言うかいろんな焦点があって地下から改札口を抜けたからね 2階は飲食店やらゲームセンターがあってとても良かったね三代目の駅舎のところは 現在の駅舎はあまりにも新しくなりすぎて利用すると言ったら 列車に乗る時ぐらいだからね その他で利用することは全くないね例えば駅の中にある レストランや食堂 衣料品店とかあるら 全然利用しないね 預けもそっけもなくなっちゃったから まあ特に 約40年前までは私の知る限り 賑やかだったね なぜかと言ったら線路の路線が複数あって士幌線や広尾線それに池田から出る池北線そして釧路に行く根室線と言ったかな 路線がたくさんあったから始発も早かったから 三代目駅舎の頃は 24時間待合室が空いていたねそこで私もよく止まっていたよ あの頃を思えば古き良き時代だねそうそう三代目駅舎の頃は靴磨きのおじさんがいたね 私は 社会人になって初めてスーツを着て可愛い靴を新調して そして 三代目駅舎の中にあった靴磨きの場所で靴磨きのおじさんに 靴は磨いてもらったことがある部屋とても綺麗にピカピカに靴を磨いてもらったなあ 靴磨きはあのころ1000円だったんだけど サービスで 革靴に防水クリームを塗ってくれて防水加工もしてくれたら 今は帯広駅には靴磨きのおじさんもいなくなって寂しい限りだね やっていけないんだろうな あと帯広駅の三代目帯広駅の地下にはうまいたこ焼き屋さんがあって私は週2回たこ焼きを買ってそこのたこ焼きを食べていたな
戦後、未だ20年も経っていない時期なんだなぁ。
昔の藤丸の 百貨店ビルは 屋上に遊園地があったなぁ私が子供の頃小学校1年生ぐらいまでは遊園地があって ばあちゃんや母親とよく藤丸百貨店に買い物に行く時連れて行かれて 買い物の後は必ず屋上の 遊園地で子供の乗る10円入れて動く車や 小さな メリーゴーランドみたいのがあったなあ しかし私が小学校3年生ぐらいになるときは もう遊園地は なくなっていて ただ お金を入れて 動く木馬のような 乗り物が 何台かあったくらいで 夏になると屋上にお化け屋敷が出てテントを張ってお化け屋敷なんかやっていたね 中学生の頃は藤丸のゲームセンターによく遊びに行ったりしたねそうそう昔の藤丸のビルの階段には10円入れれば 紙コップで 飲めるオレンジジュースが販売していたね その頃はジュースが 上の方に 湧いて出てくるように透明なガラス貼りになってジュースがわいてボコボコと している様子を演出してみせていたねそれが美味しそうに見えてよくなくなった 祖母や母親にねだって10円もらってそのオレンジジュースを 飲んで あまりの美味しさに100円ぶん飲んだ思い出もあるなあ ちかは今の藤丸と同じ食器売り場になっていたね まあ今思えば懐かしい思い出だけども藤丸と同じグループでふじともストアというのがあったんだけどもそれが今の 立っている藤丸の 場所にふじともストアと言う 建物があったねグループのストアだけどもそこでもよく私は寿司を母親になって食べていたなあ 藤丸の迎えにはサニーデパートというデパートがあり藤丸の横に隣には9日間が 長崎屋があったね いくイトーヨーカドーはもっと後になっててきたけどね 今思えば古き良き時代だな だってその頃まだ藤丸の前で 何て言ったかな確か救世軍と言ったかな てつかまに募金をしてくれと言って 募金したら 一局音楽を奏でていたねハーモニカや ギターバイオリンアコーディオンを持っていた軍服を着たような人たちが音楽をかけて 募金を使っていたなあ なんか知らんがそれが本当に募金だか何だか軍人の服が昔の兵隊の服を着ていたけど果たしてそれが兵隊かどうだか それは真実は分からんけどね 昔はよくそういうのがたくさんいたねそうそうちんどん屋もよくちんちんどんどんやっていたよ さあさあちんちんどんどん鳴らして 雨戦よりもいたねいいおじさんがちんちんどんどん鳴らして行ってくるんだそして 音楽を聴いたら雨降りのおじちゃんだと言ってその頃雨線が5円だったら 5円持って行っておじちゃん目線ちょうだいと言ったら おじちゃんが今で言う 南部せんべいに自転車の荷台に積んだ水飴の一等館 それをヘラで 南部せんべいに塗って そしてもう一枚でサンドするようにして 袋に包んで渡してくれるんだそれが一番のご馳走だったね そろそろその頃は 自転車で餅を売り歩いていたおじさんもいたしまだ帯広市内に パシャで 石炭を運んでいた人がいたね
古き良き思い出だね 覚えてるよ 広尾線廃止になる時に 今は亡き 津川雅彦と 奥さんの朝丘雪路さんと そして 娘さん 3人で 9000 を復活しようという運動をやったのもよく覚えているね ちょうど今は亡き 津川雅彦さんがグランドパパというおもちゃの山をやっていた頃だな なぜそういう風に思ったか と言うと 菅さん 津川さんは相当地 費用にはサンタランドという日本で唯一 サンタの街に選ばれた まちが 広尾線の 終着駅に当たる し広尾が 日本で唯一 サンタの街に選ばれている そういうわけで 小川の復活を捕らえていた 麻疹 家族で スーツケースが開けられ コーディングして レコードを出して その売り上げを広尾せんの 復活に使うという 抱負 も言っていたのはよく覚えてるよ 古き良き時代だったね そうそう 今の駅の前の古い駅の時 ちょうど 駅には安いステーションホテルがついていた 私は いつも土曜日となるとステーションホテルを使い 仕事が終わると 街に 飲み歩いて帰りはステーションホテルに泊まったもんだ 酸素 帯広駅の2階には 世界的 飲食店が多数 入っており ラーメン屋だとか 洋食屋 喫茶店 床屋 も入っていたね 2階の端の方は ステーションホテルの受付になっていたね そして 虹 端の方は ゲームセンター 子供たちが遊ぶゲームセンターになっていた 確かその当時 2階に入っていた 喫茶店 琥珀という名前の喫茶店 確か 今でも名前は聞くね なんせ 関西ステーションホテルは その時一泊 3000円ポッキリ の 格安で重宝して私は使っていたよ まぁ 未成年者だったけども働いていたから よく使ってたね たまには 壱岐 斜め横にハトヤビル というのがあったんだけども ハトヤ ビルの中にあったサウナにも よく行っていた 今思えば 古き良き時代だったよ そうそう 私の子供の頃は まだ 市内を走るバスには 必ず女性の車掌さんがいて お客さんから 運賃を回収していたね 今のように ワンマン方式じゃなかったから 必ず 市内に走る 出すには 女性の車掌さんが乗っていて 大きな鞄を頭からぶら下げて お客から乗車料金を もらっていたね そして女性の車掌さんは仕事はそれだけじゃなく バスが狭い所 U ターンする時とか バックをする時は必ずバスから降りて 家について必ず運転手に 合図をしていたね 本当に今思えば 古き良き時代だったよ
ホテルヒーローってあった気がします🤭懐かしいです
コメント長い人がいるなぁ
帯広帰るか
帯広神社の前に中島公園なんていうものは今はないけどなぁ 国道38号線を挟んで帯広神社の前は 十勝支庁があるだけそこは昔中島公園だったのかは 私も生まれも育ちも帯広だけどもそこんところは詳しくは分からないけども現在は 帯広神社の前は十勝支庁があるだけ だから昔は帯広神社の前に中島公園というのがあったのかもしれんけど現在はないね
中島公園ありますよ神社前、十勝支庁から東側に
音更民いる?
無くなりました
現在は帯広神社の前は 公園がなくなり十勝支庁になっているね十勝支庁舎大きな建物が建っているよ 帯広も変わり果てたということよ 現在の地元の子供に 十勝の開拓者は誰でしょうと聞いても依田勉三の名前が出てこないのも悲しい限りだね 豚とひとつ鍋問屋 六花亭のお菓子にもなっているぐらい有名な話だが今の子供に聞いてもその話もわかんない子供が多いよねせめて自分の育った土地の歴史ぐらい頭に入れてもらいたいもんだね 私の子供の頃 ちょうど小学1年生の頃だから今から60年前の帯広市内にはまだ 馬車が走っていたね場所と言っても 荷物を運搬する 馬が引いて運ぶ車が帯広市内 走っていたよ私の家は冬場ルンペンを炊いて石炭でストーブを焚くから 石炭を注文するすると場所で石炭を運んで おじさんが町から行ってくるんだ その石炭を自宅の石炭親におろすと 町の方に帰って行くんだけども 私は子供ながら面白そうだから乗せてもらって あの頃帯広の第4中学校の辺りから今の記念碑前までバスで乗せてもらって行った記憶があるよ まだまだ馬が 車で荷物を運んでいた 時代だね車もたくさん走っていたけどねしかしまだまだ馬がいる車を引いて 荷物を運んでいた時代だ 自宅の付近には 拓殖鉄道と言って 砂糖工場まで物資を運ぶ汽車が走っていたね今はないけど そして鶏屋さんがあって注文すると鶏の首おちょんぼして逆さまにするして血を抜いてそれから機会にかけてよ 機械で抜いてあの頃一杯400円ぐらいだったかな 母親の おつかいでよくに寄っ買いに行かされたよ 500円札を出してお釣り100円札が来たから 一杯400円で買えた時代だね 鶏やさんっていうのも街中にあって堂々と鶏を処理して 売っていた時代だよそして家の周りには 井戸水があって 手首式のポンプの 蛇口のついた 色水がたくさんあったね 操作が家の中には 中島みゆきの実家の中島産婦人科医院と言う 産婦人科医院が そうさなあ 35年前くらいまではあったかな 駄菓子屋さんも多かったね あと小遣い稼ぎから瓶を集めてみせ家に持って行って小遣いにしてそれで駄菓子屋さんでくじを聞いていたよ 昔は小さなビンが10円で大きなビンが20円だった いい子供の小遣い稼ぎになったよ 古き良き時代だね デパートといえば二つしかなかったねあ三つあったか地元の藤丸とサニーデパートと9日間というデパート三つしかなかったね その頃まだ藤丸の屋上には小さな遊園地があったよ まあころき良き時代だよ もうその頃すでにますやパンは街の中にあって その頃も人気があったね 私のガキの頃の映画館といえば 東映それに帯劇という帯広劇場 日活 その2つぐらいしかなかったものならしばらくして 長崎屋ができてからは 長崎屋の中だったから元木愛知館の中だったかなどっちかが忘れたけどもちかと1階に映画館が出来ていたら古き良き時代だね 私がガキの頃はまだ 十勝バスのボンネットバスが走っていたよ その頃はまだ女の車掌さんがの乗車していて 今のようなワンマン好きではなく 女性の綺麗な車掌さんが大きなバッグを持ってそっから 小銭をだしたり切符を出したりしてどこまでと言ったらお金を払って切符を出して 切ってくれて降りる時また切ってくれるという有様つまり昔はその当時は 女性の綺麗な車掌さんが 償却の集金役だったということだねそして狭いとこやまた バスがバックして U ターンする時は必ず女性の車掌さんが外に降りて後ろを見て 笛を吹いてピーピーピーと言って 運転手さんにバックの合図をして反転させて それでバスを反転させていたもんだ だから昔の 女性のバスの車掌さんは 乗客の集金役や バックの合図そしてドアの開け閉め役をする大事な大事な 貴重な車掌さんだった今思えば古き良き時代だったね その頃は まだ電話は ダイヤルがついていなかったね 電話の受話器を上げて 横のハンドルを回したら 電話交換士さん繋がって番号を言えばそこの家に繋がった
嘆くより自ら進んで教えたまえ 南無
地元の子供たちは小学3、4年生の社会科の授業で北海道から十勝の歴史について学びますよ。(依田勉三、晩成社、マルセイバターサンドの由来など)
goemonはもうないの?店の面構え 見たかったな それからサウンドコーナーの赤い袋 一目でLP購入自慢!
オイカワ・トクラ・・GOEMONは広小路に移転しましたが残念ながら閉店です
@@大岡越前守忠相-l3x ありがとうございます
帯広駅は高架化されイマドキの佇まいであるのに対し、釧路駅は1961年から周辺の再開発もないまま現役。そりゃ廃れる。
40年ほど前バイクツーリングで帯広を訪ねました。
ちょうど夏祭りの頃で非常に活気があったように覚えています。
訳あって、帯広に帰ることができなくなっています。
懐かしい光景に号泣しました。
ありがとうございます。
帰れなくても、やはり私の一番好きな街なんです
15才まで帯広に住んでました!その後は父の転勤で札幌へ移住。現在45才。帯広が懐かしく、大好きだった。
黄色い十勝バス、三代目駅舎、すずらん印の砂糖工場、6階建てのイトーヨーカ堂、私の時代は既に現在の白い藤丸でした。
どれもこれも懐かしい❗️
帯広に戻りたいです。
初めまして、私は生まれも育ちも釧路市で、現在34歳です。
4歳の頃、家族旅行で3代目帯広駅舎内のステーションホテルに泊まった事を覚えています。
また、1998(平成10)年に稲田町へ移転する前までの地上6階建ての初代イトーヨーカドーは、地元釧路店(2019年1月20日閉店)の3階建ての2倍規模の造りに、当時小学生だった私は「釧路のヨーカドーよりでかいなぁ、デパート並みだなぁ!」と驚いていました。懐かしいですね。
失礼致しますが、チャンネル登録させていただきました。どうぞよろしくお願い致します。
@@リャンフー交通チャンネル 本当に丁度2倍の規模で草
三十数年前、宮崎から帯広へ転勤しました。家財道具が届くのに1週間かかり駅前のホテルに滞在しました。当時、グリュック王国があり、見て廻りました。
子育てには、帯広は最高の場所でした。(偏差値は、別として)夏は、キャンプ。冬は、毎週嵐山かサホロ、トマム。
公園東町の三冠王や製糖工場近くの火の車、ウエスタンなど、よく家族と外食してました。
家内と健康年齢のうちに、もう一度、十勝へ行きたいと思います。動画を見ながら、懐かしんでおります。
帯広に帰りたくなってきた。早く故郷に帰りたい
25歳まで住んでました😆最高の街です👍帰りたいなぁ😭
帯広生まれの道産子です、懐かしい記憶です
帯広最高!!
デイリークイーンのとこで「あああ~」ってなりました、懐かしい…旧長崎屋とかヨーカドー、ミスタードーナツなど友達とよく行ってブラブラ遊んでましたね
デイリークイーンがあって、ミスドがあって、モスがあって、サニーデパートがあって、藤丸があって、旧長崎屋があって、ヨーカドーがあって、映画館があって、、、、、
昔の街並み、懐かしいですね。
僕は今高校生です、
初めて見る帯広の景色ばかりで、新鮮でした
奇遇ですね
私も帯広の高校生です。
通学の為に何気なく乗ってる帯広からの鉄道にこんな歴史があるなんて感慨深いです
@@ドレビン
わかります〜今の帯広駅からじゃ想像できないですよね😳!
どこ高?
想い出の建物があり懐かしいなぁ
長崎屋内のファンタジードームも思い出してあげて~
西帯方面のいっきゃう(フクハラ系列)向かいに有った巨大迷路も思い出してあげて~
藤丸の壁 懐かしい😀あんな壁多かったですね
私のガキの頃は まだ帯広市内馬車が走っていたぞ 冬場は 石炭ストーブを使うから 大体の家庭は石炭を購入して冬はルンペンに火を入れて石炭で暖をとっていた その石炭を運ぶのはトラックではなく馬車で引っ張ってきて朝に乗せた石炭を 家の長屋の物置の倉庫に石炭をいつも他社を引っ張ってくるおじちゃんが入れてくれてたねそしていつも石炭を持ってきてくれた時にはいつも帯広の街まで朝に乗せてもらって 遊んだことがあるそして帰りは自宅まで歩いて来たもんだ その頃は結構まだ打者が帯広の街に 羽島荷物を運んでいたね 私のガキの頃の話だから約60年前だ60年前私が物心ついて記憶にある小学校1年生になる前だから6歳か5歳の頃だな 約60年前 まだその頃は馬車が走っていたよ もちろん車も走っていたが面白い車が走ってたねあの3人のトラックは走ってたがなんとハンドルがバイクのようなハンドルで前に一人乗りそして後ろに荷物を積むそう言った3人トラックも走っていた それにあの頃は帯広の街の中から稲田の日展という工場の所まで汽車が荷物を積んで走っていたら まあ工場で使う石炭やいろんな材料を運んでまた帰りは日展で作られた製品を積んで運んでいったみたいだけど まあその記者が来るたび面白くて 汽車の汽笛が鳴るといつも家から出て行って記者を見に行ったもんだ そしてその当時は各家庭には全然風呂なんて気の利いたものはついていない風呂といえば風呂やに入りに行くそれが常識だったねそして自宅の近くには鶏やさんがあって 鶏肉を鶏屋さんに買いに行ったもんだ お母さんのおつかいに鶏肉を買ってきておくれと言って お金をもらって鶏屋さんに行っておじちゃん鶏一羽頂戴って言ったらおじちゃんが 鳥屋鳥小屋から鶏を出してくれてそして外の屠殺まで鶏の首をチョンパして首をはねて しばらく 首を入れた鶏をぶら下げて逆さまにぶら下げて刺激をしてから 工場の方に持って行ってなんか機械みたいのにかけて 取り除けとか抜かれた そう内臓も取ってくれて 今で言う丸鶏の状態でしっかり加工してくれて そこで直接買ったもんだ まあたまごも生産していたみたいだけどそのニワトリ小屋がなんと町の中にあった 今で言う西6条南二十八丁目あたりだったかなあの近くに風呂屋があったね猪谷という今はないけど4中の近くだよ その近くに大きな鶏屋さんがあった まあそういう時代だね それにテレビなんて気の利いたものはあるうちは少なかったね まあ私が小学生に上がるまではテレビはなかったしかし小学生に上がった頃 うちの父ちゃんがいいものを買ってきたよーと言って電気屋さんと一緒に帰ってきた テレビを買って つけたらすぐにはその時代のテレビはつかなかった 中に真空管というのが入っていて真空管があったまるまで画面に映像が出てこなかったもんだ 洗濯機と言えば今のような脱水機なんかついていなかったなんかハンドルをぐるぐるぐるぐる回して 絞るような洗濯機だったら大体家の天気は 丸い電気で傘がついたくるくるくるくると回す電球だった そして電球電気を取るときはその電球を外してソケットをあの 電気の差し口のソケットをまた同じ所にさしてそっから電気を取っていたもんだ あの古き良きみたい懐かしく思うよ 私の子供の頃には まだ家の近くで 十勝鉄道が走っていたね いわえる 記念 一枚というところを 鉄道のレールが横断してそこには 踏切にもあった 十勝鉄道は 私も子供の頃は イナダの 日展の工場に いろんな物資を運んでいた すぐ家の近くに鉄道があったもんだから 薬 小学校1年生だったからよく 鉄道に石を置いて いたずらして遊んでいたら 列車が止まって運転手に 追いかけられた覚えがあるよ 本当に 古き良き時代だったね その頃まだ家の近所には 鶏やさんがあって 近所の人達が 鶏肉を買いに行くときは その鶏屋さんに行って 鶏をそのまま生きている鶏を 閉めてもらって 綺麗に人にさばいてもらって 丸鶏 にしてもらって よく購入していたよ 私もおつかいでよく 鶏やさんに鶏を買いに行ったね その当時の鶏は 1羽 500円だったね よく覚えてるよ だって 500円札 持って行って お釣りが なかったから 500円だって覚えていたね そこには卵もよく買いに行ったよ まだ その当時は ジュースの瓶が から瓶 持っていけば 一本10円という小遣いになったもんだ
デイリークイーンの2段ソフト食べたい!
アメリカとの契約か終わったのでしょうね…。
キャラメルソフトーーー☆
リブサンドも、よく食べた🍀
アメリカにはあるんだろうか?
昔の駅のミルキーウェイを今の長崎屋側に降りた所で[どん]を売っていたおばさん。懐かしいなぁ。死んだ婆ちゃんが街に行くとよくお土産で買ってきてくれたっけ。
あと、駅で靴磨きをしていたおじさん。
ブリキ缶の中に飴せんを入れて売っていたおじさん。
自転車の荷台に小さな茶箪笥の様なものを詰んで餡子餅を売っていたお爺さん。
子供が近づくと下入れ歯を突き出してふざけて威嚇してくるリヤカーを引いた雑品屋のお爺さん。
出来ればもう一度お会いしたいです。
『どん』ありましたね❗️知ってます!懐かしく思い返信しました!
あの味は、あの『どん』でしか出せないですね。
sawako. h
あの頃はいつでも食べれると思っていました。
どんのお婆さん懐かしい!
マサルさんの絵で「うまい!!」って書いてあるのを思いだしました
59年の夏に三国峠を越えて(当時は砂利道)十勝三股で輪行しました。この動画の最初のところのようにバスに乗った記憶があります。十勝三股~糠平は当時バス運行だったのでしょうか、記憶かあいまいなので詳しい方教えてください
旧藤丸百貨店、その奥に見える長崎屋、カジノビル、画像には無いけど天津甘栗の店もあったはず。
インデアンカレーの店も小さな店舗、今こんなに店舗が増えるとは思っても見なかった。
マスヤパンの交差点に漂う香りが懐かしい。
六花亭がまだ千秋庵の時に食べたホットケーキのお陰でナイフとフォークの使い方を覚えた。
帯広から離れて数十年、昔とは変わっただろうがいつか昔を忍んで散策したい。
私は61歳になるが この61年間で 広尾線の 電車に乗ったのはたった2回だけ 最初は帯広から 広尾まで 2回目は帯広から大家まで乗った この2階が最後だね まあ広瀬があった当時は重宝して何回も乗れるというふうに思っていたし 料金もバスよりも安かったから列車に乗っていたが しかしあまり 記号の方に行く用事が無かったから人生で61年間の人生で2回しか乗らず その途中配線になっちまって 残念に思うね広尾線を残すために今は亡きあの 名前忘れたな俳優男の俳優と家族 そうそう朝丘雪路の旦那と朝丘雪路とそしてその娘が 広尾線廃止を反対して いろんなイベントに出ていたが そうそう その旦那がグラングランパパだかというおもちゃをやろうやっていて 広尾にはサンタランドがあるからということで広尾線の廃止に反対して署名集めも積極的にやっていたのはよく覚えているなそうそう思い出した津川雅彦かそうそう 家族で挑戦の反対運動をやっていたのはよく覚えている朝丘雪路も津川雅彦も 今は亡き人になっちゃったけどその当時は 十勝鉄道は私のガキの頃まだ帯広から稲田までは走っていたような記憶にあるよ私のガキの頃その沿線沿いの西6条に住んでいたから ディーゼル機関車が 未だにある日建まで 荷物を運んでいたのをよく覚えているよ 私のガキの頃はもうすでに八千代までは 貸してはいなかったが運転まではよく走っていたよ 私はちょうど 幼稚園ぐらいのころだったかないたずらして線路に石ころを置く遊びが流行っていてそれを何十個か置いていたらちょうど列車が来て 急停止して運転手が決勝かけて 追いかけてきたから私は逃げて逃げて走って逃げて 住宅の知らない家の住宅の物置の中に逃げ込んでうまく見つかんなかったけど あれもしかしたら後で脱線したがなんて反省したけどね本当にあの頃は 十勝鉄道は走っていたよな 拓鉄出ないような十勝鉄道だよなぁ日展まで待つを運んでいたのはよく覚えているよあのイオン中の脇に鉄道が走っていてその界隈に私は住んでいたからヨーク鉄道で遊んでいた
昔に行ってみたいです
帯広の隣町に住んでました。私が小さい頃は国道38号線がまだ砂利道で、
母とたまにバスに乗り、藤丸、長崎屋、きんいちかん(字思い出せない)などに行きました。
お昼に食べるラーメンは、金時の五目ラーメンか、三平のみそラーメンでした。
三平はどこかの地下にあったと思いますが思い出せません…。
もう食べられないあの頃の味を
たまに思い出します。
三平は確か長崎屋の裏だったような。冬に行くといつも店の窓が曇ってた。
1963年、中学2年まで住んでいた故郷です。
ヒトはなぜふるさとが恋しいのでしょうね><
40年位前に帯広と中札内に住んでました。動物園と自動車学校の近くです。帯広駅は三代目の頃。中札内に住んでた時は何回も広尾線に乗りました。帯広駅の5番線が発着ホームでした。
三代目駅舎の横のミルキーウェイが懐かしいなぁ
駅舎 赤茶の壁だった記憶だったけど記憶違いか〜💧よく札幌行く時利用してたなあ
大晦日の夜にやってる店が無くて空腹が辛かった思い出が🤣
2:38の藤丸デパートが移転した後に藤友ストアが入ったはずだけど、そこに連れていかれた記憶がある。
その後に帯広千秋庵(その後の六花亭本店)の喫茶室に行きホットケーキを食べるのが楽しみだった。
ドラエモン使ってドアでホットケーキ食べに行きたいですね
懐かしいな。
>中島みゆきの実家の中島産婦人科医院と言う 産婦人科医院が そうさなあ 35年前くらいまではあったかな
そうそう、前の厚生病院の近くにあった。
あの辺には酪農会館もあって、私が幼稚園くらいの頃、そこで叔父の結婚披露宴があり、連れていかれたのを、かすかに覚えている。
みつわ屋呉服店の経営者で、後に市会議員となった中島公園の名称の由来の人物でもある中島武市氏は、中島みゆきの祖父でもある。
そして、中島みゆきの母校でもある柏葉高校。
ここの卒業生には他に吉田美和(ドリカム)、安住紳一郎(TBSアナ)がいる。
ちなみに、三条高校のほうは小野寺昭、十勝花子(故人)が在籍していた。
かつては踏切だったところ,いまは厚生病院の駐車場になっていますね。
38年前、本田美奈子さんが酪農会館にやってきた。顔が凄く小さく可愛いかった。
中島産婦人科は汽車で通う際に線路沿いにあった。
懐かしいなぁ~
なつかし〜!
帯広にも中島公園があるんだ!
懐かしい🎵私も、歳とったなぁ~😂
懐かしいね私もガキの頃は その頃大きな建物といえば カジノビール藤丸期間サニーデパート それにふじとも ストアもうちょっと後になって長崎屋ができたのかなまあ私が物心ついたときには カジノビールサニーデパート藤丸11巻ぐらいの大きな建物しかなかったねああそうそうふじともストアというのがあったか 藤丸の並びの通りにあったんだけども今の現在の藤丸の場所にふじともストアというのがあったんだ 聞くところによるとそのふじともストアは同じ藤丸系列の 経営だったんだけどもその昔ふじともストアがあったところは初代藤丸が立っていたとこだったらしいだから現在の藤丸デパートのある場所は その前はふじともストアでその前が 藤丸ということだったらしいね サニーデパートのあったビルは今居酒屋の店舗になっているんじゃないかなかじのビルは私の牡蠣の頃は1階の道路ギアはたい焼き屋があってそして 玄米のようになって向こう側に突き抜けて行けるようになっていたら そして1階には八百屋果物屋おもちゃ屋 いろんな商店が入っていたねまああの頃懐かしく思うね 今帯広の中心街に大きな建物のまデパートといえば藤丸百貨店ぐらいしかなくなったね 他大きなビルはたくさんあるけどみんな 会社や企業の入るビル宝百貨店的なビルは今帯広中心街は藤丸百貨店ぐらいしかなくなったね あと大きなデパート的なものはみんな帯広のま郊外に写って行っちゃったからなあ 後は飲み屋街があるくらいなもんだね寂しいね
その、ふじともストアの建物が、その前に藤丸として使われていたんだよ。
藤丸が9丁目に新築移転(現在は更地)した後、7年程藤丸の倉庫として使われてから「ふじともストア1号店」としてオープン。
現在の藤丸が8丁目に戻って新築されるのに伴い、取り壊された。
その、ふじとも系列として唯一残っていた木野市街の「OK音更店」も、今はダイイチに吸収合併されちゃったけどね。
@@珍宝-c5i ダイイチに吸収合併されたのっていつ?
句読点つけろよ。
もう書いてから1年近くも経つとは。
とんでもなく返信が遅れて大変申し訳ない。
OKがダイイチに吸収合併されたのは2016年(平成28年)10月1日
ついでに言うと、西1条南10丁目にあったダイイチの1号店も
2021年(令和3年)8月31日をもって閉店した。
この店舗は私が子供の頃は「帯広フードセンター」という店名だった。
その1号店でもあったんだけど。
十勝鉄道懐かしいね私がまだ子供の頃幼稚園の頃かな 帯広の 帯広駅から記念碑を経由して 今の幼虫の隣にあたりに鉄道が敷いてあって イナダの日展まで 機関車が 毎日物資を運んでいたね私はその沿線沿いに住んでいて 幼稚園児だったからまだわからなくてその鉄道の レールに遊びのつもりで石をたくさん置いたらちょうど機関車が来て急に急停車をするもんだからなんで止まったのかなーと思ってわからないでポカーンと見たらおじさんが降りてきて血相かいてポーズはそんなことしたらダメだぞ このて線路の上に石を置いたらこの大きな機関車がひっくり返っちゃうから もうそんなことをしたらだめだからなと怒られた後に その時間車を運転していたおじさんがポケットから飴玉を出して私に これを なめて今日のことをよく覚えておくんだぞと優しく最後は教えるように叱ってくれたあの日を思えば古き良き時代だったなぁその頃まだ石炭を運ぶ馬車が町ん中歩いていたね私の家は冬場はルンペンを炊いていたから石炭を使っていたので私の家の物置に 馬の馬車に石炭を積んで堀さんが一人で馬車で石炭を運んで 家の物置に馬車市大分の石炭を入れて言って終わった後ねおじさん馬に乗りたいなと言ったらおじさんは 馬車の荷台の後ろに乗っけてくれて その頃の4柱の辺りまで乗っけてくれた そしてありがとうと降ろしてもらって自宅まで 歩いて 30分のところまで歩いて帰った本当に懐かしい思い出だ
句読点つけろよ。
あざみの焼きそば美味しかったな~!(^^)!誰か復活してくれない😍😍
インデアンカレー食いたくなった🍛
おねいちゃん家族が帯広に住んでるからたまに行ってみるのだ!!☺️
この藤丸の建物は 私の子供の頃 約50年前は 既に別のところに移転しており 藤丸があった この場所は同じ 藤丸の創設者の系列の ふじともストア というのになっていたね 建物が全く同じだから 藤丸が 他に移転 した後に同じ系列の ふじとも ストアが入ったんだと思うけど 50年前はそのふじとも ストアから 歩いて5分もしないところに 同じ道路沿いに 藤丸ビルが建っていたね それも 50年前はそういう形だったらそれから 15年ぐらい だったかな 確か 藤丸は元の ふじとも ストアのあった場所に つまり 最初 藤丸型ってあった場所に 藤丸がまた移転して今の現在の富士丸があるということだろう 藤丸の創設者 地元でも その時代 有力者でもあったからね だからこそ現在も 北海道であちらこちら 百貨店が潰れていくのに 帯広 だけまだ 藤丸百貨店が残っているのは そこ だろう 昔から 帯広で愛されている百貨店 だから今でも客が行くのも当然 景気の怒った時代は私の子供の頃 50年前は 藤丸の系列のストア ふじとも ストアというのは 帯広市内に何十件も確かあったはずだね 現在はもう 亡くなっているけどね まあ 今で言う 福原と同じようなものだったんだよな
懐かしい😂ターザン!スターアイランド!タイムトンネル!知ってる奴居たらコメくれーーーー
帯広駅三代目駅舎の時はよく利用したね 特に帯広駅いいの ステーションホテル安かったらね私は帯広に住んでいるんだけども休みの日は たまに帯広のこの駅のステーションホテルを利用して止まっていたね なぜ関西安かったから夜は帯広市内で飲みに行ってそして帯広駅のステーションホテルで泊まっていた生活はしていたね なぜ関西便利だったよちかは商店街と言うかいろんな焦点があって地下から改札口を抜けたからね 2階は飲食店やらゲームセンターがあってとても良かったね三代目の駅舎のところは 現在の駅舎はあまりにも新しくなりすぎて利用すると言ったら 列車に乗る時ぐらいだからね その他で利用することは全くないね例えば駅の中にある レストランや食堂 衣料品店とかあるら 全然利用しないね 預けもそっけもなくなっちゃったから まあ特に 約40年前までは私の知る限り 賑やかだったね なぜかと言ったら線路の路線が複数あって士幌線や広尾線それに池田から出る池北線そして釧路に行く根室線と言ったかな 路線がたくさんあったから始発も早かったから 三代目駅舎の頃は 24時間待合室が空いていたねそこで私もよく止まっていたよ あの頃を思えば古き良き時代だねそうそう三代目駅舎の頃は靴磨きのおじさんがいたね 私は 社会人になって初めてスーツを着て可愛い靴を新調して そして 三代目駅舎の中にあった靴磨きの場所で靴磨きのおじさんに 靴は磨いてもらったことがある部屋とても綺麗にピカピカに靴を磨いてもらったなあ 靴磨きはあのころ1000円だったんだけど サービスで 革靴に防水クリームを塗ってくれて防水加工もしてくれたら 今は帯広駅には靴磨きのおじさんもいなくなって寂しい限りだね やっていけないんだろうな あと帯広駅の三代目帯広駅の地下にはうまいたこ焼き屋さんがあって私は週2回たこ焼きを買ってそこのたこ焼きを食べていたな
戦後、未だ20年も経っていない時期なんだなぁ。
昔の藤丸の 百貨店ビルは 屋上に遊園地があったなぁ私が子供の頃小学校1年生ぐらいまでは遊園地があって ばあちゃんや母親とよく藤丸百貨店に買い物に行く時連れて行かれて 買い物の後は必ず屋上の 遊園地で子供の乗る10円入れて動く車や 小さな メリーゴーランドみたいのがあったなあ しかし私が小学校3年生ぐらいになるときは もう遊園地は なくなっていて ただ お金を入れて 動く木馬のような 乗り物が 何台かあったくらいで 夏になると屋上にお化け屋敷が出てテントを張ってお化け屋敷なんかやっていたね 中学生の頃は藤丸のゲームセンターによく遊びに行ったりしたねそうそう昔の藤丸のビルの階段には10円入れれば 紙コップで 飲めるオレンジジュースが販売していたね その頃はジュースが 上の方に 湧いて出てくるように透明なガラス貼りになってジュースがわいてボコボコと している様子を演出してみせていたねそれが美味しそうに見えてよくなくなった 祖母や母親にねだって10円もらってそのオレンジジュースを 飲んで あまりの美味しさに100円ぶん飲んだ思い出もあるなあ ちかは今の藤丸と同じ食器売り場になっていたね まあ今思えば懐かしい思い出だけども藤丸と同じグループでふじともストアというのがあったんだけどもそれが今の 立っている藤丸の 場所にふじともストアと言う 建物があったねグループのストアだけどもそこでもよく私は寿司を母親になって食べていたなあ 藤丸の迎えにはサニーデパートというデパートがあり藤丸の横に隣には9日間が 長崎屋があったね いくイトーヨーカドーはもっと後になっててきたけどね 今思えば古き良き時代だな だってその頃まだ藤丸の前で 何て言ったかな確か救世軍と言ったかな てつかまに募金をしてくれと言って 募金したら 一局音楽を奏でていたねハーモニカや ギターバイオリンアコーディオンを持っていた軍服を着たような人たちが音楽をかけて 募金を使っていたなあ なんか知らんがそれが本当に募金だか何だか軍人の服が昔の兵隊の服を着ていたけど果たしてそれが兵隊かどうだか それは真実は分からんけどね 昔はよくそういうのがたくさんいたねそうそうちんどん屋もよくちんちんどんどんやっていたよ さあさあちんちんどんどん鳴らして 雨戦よりもいたねいいおじさんがちんちんどんどん鳴らして行ってくるんだそして 音楽を聴いたら雨降りのおじちゃんだと言ってその頃雨線が5円だったら 5円持って行っておじちゃん目線ちょうだいと言ったら おじちゃんが今で言う 南部せんべいに自転車の荷台に積んだ水飴の一等館 それをヘラで 南部せんべいに塗って そしてもう一枚でサンドするようにして 袋に包んで渡してくれるんだそれが一番のご馳走だったね そろそろその頃は 自転車で餅を売り歩いていたおじさんもいたしまだ帯広市内に パシャで 石炭を運んでいた人がいたね
古き良き思い出だね 覚えてるよ 広尾線廃止になる時に 今は亡き 津川雅彦と 奥さんの朝丘雪路さんと そして 娘さん 3人で 9000 を復活しようという運動をやったのもよく覚えているね ちょうど今は亡き 津川雅彦さんがグランドパパというおもちゃの山をやっていた頃だな なぜそういう風に思ったか と言うと 菅さん 津川さんは相当地 費用にはサンタランドという日本で唯一 サンタの街に選ばれた まちが 広尾線の 終着駅に当たる し広尾が 日本で唯一 サンタの街に選ばれている そういうわけで 小川の復活を捕らえていた 麻疹 家族で スーツケースが開けられ コーディングして レコードを出して その売り上げを広尾せんの 復活に使うという 抱負 も言っていたのはよく覚えてるよ 古き良き時代だったね そうそう 今の駅の前の古い駅の時 ちょうど 駅には安いステーションホテルがついていた 私は いつも土曜日となるとステーションホテルを使い 仕事が終わると 街に 飲み歩いて帰りはステーションホテルに泊まったもんだ 酸素 帯広駅の2階には 世界的 飲食店が多数 入っており ラーメン屋だとか 洋食屋 喫茶店 床屋 も入っていたね 2階の端の方は ステーションホテルの受付になっていたね そして 虹 端の方は ゲームセンター 子供たちが遊ぶゲームセンターになっていた 確かその当時 2階に入っていた 喫茶店 琥珀という名前の喫茶店 確か 今でも名前は聞くね なんせ 関西ステーションホテルは その時一泊 3000円ポッキリ の 格安で重宝して私は使っていたよ まぁ 未成年者だったけども働いていたから よく使ってたね たまには 壱岐 斜め横にハトヤビル というのがあったんだけども ハトヤ ビルの中にあったサウナにも よく行っていた 今思えば 古き良き時代だったよ そうそう 私の子供の頃は まだ 市内を走るバスには 必ず女性の車掌さんがいて お客さんから 運賃を回収していたね 今のように ワンマン方式じゃなかったから 必ず 市内に走る 出すには 女性の車掌さんが乗っていて 大きな鞄を頭からぶら下げて お客から乗車料金を もらっていたね そして女性の車掌さんは仕事はそれだけじゃなく バスが狭い所 U ターンする時とか バックをする時は必ずバスから降りて 家について必ず運転手に 合図をしていたね 本当に今思えば 古き良き時代だったよ
ホテルヒーローってあった気がします🤭懐かしいです
コメント長い人がいるなぁ
帯広帰るか
帯広神社の前に中島公園なんていうものは今はないけどなぁ 国道38号線を挟んで帯広神社の前は 十勝支庁があるだけそこは昔中島公園だったのかは 私も生まれも育ちも帯広だけどもそこんところは詳しくは分からないけども現在は 帯広神社の前は十勝支庁があるだけ だから昔は帯広神社の前に中島公園というのがあったのかもしれんけど現在はないね
中島公園ありますよ
神社前、十勝支庁から東側に
音更民いる?
無くなりました
現在は帯広神社の前は 公園がなくなり十勝支庁になっているね十勝支庁舎大きな建物が建っているよ 帯広も変わり果てたということよ 現在の地元の子供に 十勝の開拓者は誰でしょうと聞いても依田勉三の名前が出てこないのも悲しい限りだね 豚とひとつ鍋問屋 六花亭のお菓子にもなっているぐらい有名な話だが今の子供に聞いてもその話もわかんない子供が多いよねせめて自分の育った土地の歴史ぐらい頭に入れてもらいたいもんだね 私の子供の頃 ちょうど小学1年生の頃だから今から60年前の帯広市内にはまだ 馬車が走っていたね場所と言っても 荷物を運搬する 馬が引いて運ぶ車が帯広市内 走っていたよ私の家は冬場ルンペンを炊いて石炭でストーブを焚くから 石炭を注文するすると場所で石炭を運んで おじさんが町から行ってくるんだ その石炭を自宅の石炭親におろすと 町の方に帰って行くんだけども 私は子供ながら面白そうだから乗せてもらって あの頃帯広の第4中学校の辺りから今の記念碑前までバスで乗せてもらって行った記憶があるよ まだまだ馬が 車で荷物を運んでいた 時代だね車もたくさん走っていたけどねしかしまだまだ馬がいる車を引いて 荷物を運んでいた時代だ 自宅の付近には 拓殖鉄道と言って 砂糖工場まで物資を運ぶ汽車が走っていたね今はないけど そして鶏屋さんがあって注文すると鶏の首おちょんぼして逆さまにするして血を抜いてそれから機会にかけてよ 機械で抜いてあの頃一杯400円ぐらいだったかな 母親の おつかいでよくに寄っ買いに行かされたよ 500円札を出してお釣り100円札が来たから 一杯400円で買えた時代だね 鶏やさんっていうのも街中にあって堂々と鶏を処理して 売っていた時代だよそして家の周りには 井戸水があって 手首式のポンプの 蛇口のついた 色水がたくさんあったね 操作が家の中には 中島みゆきの実家の中島産婦人科医院と言う 産婦人科医院が そうさなあ 35年前くらいまではあったかな 駄菓子屋さんも多かったね あと小遣い稼ぎから瓶を集めてみせ家に持って行って小遣いにしてそれで駄菓子屋さんでくじを聞いていたよ 昔は小さなビンが10円で大きなビンが20円だった いい子供の小遣い稼ぎになったよ 古き良き時代だね デパートといえば二つしかなかったねあ三つあったか地元の藤丸とサニーデパートと9日間というデパート三つしかなかったね その頃まだ藤丸の屋上には小さな遊園地があったよ まあころき良き時代だよ もうその頃すでにますやパンは街の中にあって その頃も人気があったね 私のガキの頃の映画館といえば 東映それに帯劇という帯広劇場 日活 その2つぐらいしかなかったものならしばらくして 長崎屋ができてからは 長崎屋の中だったから元木愛知館の中だったかなどっちかが忘れたけどもちかと1階に映画館が出来ていたら古き良き時代だね 私がガキの頃はまだ 十勝バスのボンネットバスが走っていたよ その頃はまだ女の車掌さんがの乗車していて 今のようなワンマン好きではなく 女性の綺麗な車掌さんが大きなバッグを持ってそっから 小銭をだしたり切符を出したりしてどこまでと言ったらお金を払って切符を出して 切ってくれて降りる時また切ってくれるという有様つまり昔はその当時は 女性の綺麗な車掌さんが 償却の集金役だったということだねそして狭いとこやまた バスがバックして U ターンする時は必ず女性の車掌さんが外に降りて後ろを見て 笛を吹いてピーピーピーと言って 運転手さんにバックの合図をして反転させて それでバスを反転させていたもんだ だから昔の 女性のバスの車掌さんは 乗客の集金役や バックの合図そしてドアの開け閉め役をする大事な大事な 貴重な車掌さんだった今思えば古き良き時代だったね その頃は まだ電話は ダイヤルがついていなかったね 電話の受話器を上げて 横のハンドルを回したら 電話交換士さん繋がって番号を言えばそこの家に繋がった
嘆くより自ら進んで教えたまえ 南無
地元の子供たちは小学3、4年生の社会科の授業で北海道から十勝の歴史について学びますよ。(依田勉三、晩成社、マルセイバターサンドの由来など)
goemonはもうないの?店の面構え 見たかったな それからサウンドコーナーの赤い袋 一目でLP購入自慢!
オイカワ・トクラ・・GOEMONは広小路に移転しましたが
残念ながら閉店です
@@大岡越前守忠相-l3x ありがとうございます
@@大岡越前守忠相-l3x ありがとうございます
帯広駅は高架化されイマドキの佇まいであるのに対し、釧路駅は1961年から周辺の再開発もないまま現役。そりゃ廃れる。