【ゆっくり解説】毛利輝元編その13ー秀元処遇問題~小早川隆景の死~五大老輝元の役割

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  • Опубликовано: 21 дек 2024

Комментарии • 54

  • @samorou
    @samorou 3 месяца назад +21

    上杉、島津、毛利とこれまでの動画見てると、関ヶ原直前期の徳川家の盤石さは飛び抜けてると感じる。

    • @kenta-z3e
      @kenta-z3e 3 месяца назад +9

      まあ家康は秀吉の所領よりも30万石多い関東256万石(←小田原北条の旧領)の知行宛行をされてたってのもありますからね……。

    • @kazuoka1143
      @kazuoka1143 3 месяца назад +9

      根本的には自らが創業者ポジに居たことが大きいんでしょうね。
      2代目というのは生まれながらにして恵まれた立場にあるように見えて、
      実際はその地位を安定化させるには並々ならぬ苦労があるのでしょうね。

    • @samorou
      @samorou 3 месяца назад +7

      @@kenta-z3e 秀吉としては石高は高いけど、その分統治には苦労すると想定しての関東移封だったと思います。それがすんなり安定した統治ができるとは、想定外だったんでしょうね。

    • @佐竹ラスベガス
      @佐竹ラスベガス 3 месяца назад +10

      ​@@samorou
      逆に家康に取っては三河武士という強さは申し分ないけど、我が強く扱いに難しい家臣団が固有の領土から引き剥がされた結果
      力が削がれて扱いやすくなった=主従関係が強固になり政治政策が通りやすくなった事が大きいと思います
      後、自分は秀吉が家康に関東を与えたのは後北条の影響が強い土地を治められるのは家康しかいない&家康が関東でどっしり構える事で豊臣政権の安定化を狙っていたと思います
      (そもそも大阪から離れて過去に何度も独立勢力が出来た関東に配置するのは信頼しているから)
      異様に簡単に家康が関東に移った事も考えても、互いに利益があると見越しての行動の様に思えるんですよね

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад +5

      コメントありがとうございます!安定していた北条氏の関東統治を上手く継承できたのも一因かもしれませんね。

  • @春うらら-v6m
    @春うらら-v6m 3 месяца назад +5

    隆景と元清の逸話にも触れてほしかった、4本目の矢である元清の死も毛利にとっては結構な痛手でしたね💧

  • @小原壽展
    @小原壽展 3 месяца назад +13

    投稿お疲れ様です。秀元公との微妙な関係には輝元公だけではなく次代の秀就公も苦労するというおまけが付きます。
    秀元公は毛利家元後継ぎというだけでも扱いにくいのに立花宗茂や丹羽長重等と一緒に相伴衆として直に将軍様に近侍しているので余計に迂闊に対応できないのに更に藩内の不穏分子として独立を試みようと幕府に工作したという騒ぎを起こしています。下手したら改易ですね。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад

      コメントありがとうございます!秀元は本家に対抗意識を燃やしてしまって、結局余計な面倒ごとが増えてしまいましたよね😥😥

  • @山田カイチ
    @山田カイチ 3 месяца назад +1

    年齢的に輝元と家康は10歳くらい離れているんで豊臣家の次世代の運営は二大長老の家康と利家に補佐みたいな感じで毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、数年後に長老として輝元、景勝、実務を秀家、秀秋、秀元、秀就、徳川秀忠、前田利長。
    順当ならこういう感じで行くところを、秀吉の死から即座に動いてた家康の人生最大の博打が運も味方して次々成功して関ケ原になるのだが、
    家康の勝負手の威圧外交、初手の前田との悶着で負けて終わりの可能性もあったので、かなり危ない賭けだったとおもう。

  • @吉見正頼
    @吉見正頼 3 месяца назад

    投稿お疲れ様です
    輝元がついに五大老に就任し、秀頼を支える体制になりました。しかし、やはり毛利家内部の問題は消えることなく、秀元処遇と秀就の誕生による後継者問題に発展により、これも傘下国衆に影響を及ぼすことになりました。
     実は、輝元には南の方との間に男の子を2人儲けていたのですが、早世してしまい、秀元を迎える話が進みました。ですので、秀就は長男ではなく、3男にあたります。
     秀元もまた父同様文武に富み、遺領もそのまま引き継いでいて、このことからも輝元からは信頼できる従兄弟だったのだろうなと思います。
    しかし、このことがあって、国人衆とのぎくしゃくも生まれたので、輝元がこれにどう対処するのか、はたまた関ヶ原まで耐えられるのか、心配です。

  • @麦チョコ豆乳
    @麦チョコ豆乳 3 месяца назад

    来週から”輝元の野望"が始まるんですね。いままで嫌々,渋々、総大将にさせられたイメージがあったので野心ギラギラの輝元がみたいです。

  • @アメアメフレフレ
    @アメアメフレフレ 3 месяца назад +3

    豊臣が権力を握っているから豊臣の関係強化のため自主的に養子に欲しいと言った可能性はあるな。前田も関ヶ原前に徳川から養子をなんて話もあったらしいしな。隆景自身婿養子だし毛利の血統に拘る必要もないからな。

  • @力哉-l5t
    @力哉-l5t 3 месяца назад +2

    しかし、家康の所業は信長亡き後の秀吉の遣り方、そのものなんですよね。因果応報。

  • @YY-rj4up
    @YY-rj4up 3 месяца назад +4

    隆景はもう少し生きていてもらえると毛利家の運命はだいぶ変わっただろうなあ。秀秋の運命も。

    • @YY-rj4up
      @YY-rj4up 3 месяца назад +4

      戦国の世で裏切りは必ずしも悪ではないんだ。ただ後ろ指を指されない裏切り方ってのがあってな。その辺も隆景ならしっかりやってくれたはずなのに。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад

      コメントありがとうございます!吉川広家が願ったようにあと5・6年生きていれば…ですね😢😢

  • @schnellbart
    @schnellbart 3 месяца назад

    秀秋養子縁組の解説は非常に勉強になりました。
    従来秀吉が毛利揺さぶり(乗っ取り)のため秀秋を利用していたとの説がまかり通ってます。私も既定のこととみてました。
    しかし、実は秀吉にとって親族で浮いてしまい処遇に困っていた秀秋を黒田官兵衛が世話して点数を上げ、隆景が引き取り秀吉に恩を売ったとの解釈がかなりの説得力を持っているのですね。
    秀吉にとっては秀秋は親族と言っても北政所・木下の血族であって自分の血族ではないから、豊臣家を継がせるのは自分の血筋か大政所の血をひくものに限定したかった、しかし北政所のお気に入りの秀秋を冷遇するわけにはいかない、そこに黒田官兵衛と隆景が縁組話を持ち込み、秀吉も渡りに船で厄介払いができたといったところでしょうか。
    そうすると、秀秋にとっては北政所の親戚との意識はあったが豊臣家の親戚との意識は低かったかもしれず、それゆえ関ケ原における秀秋の家康側への内応は、北政所が三成を見限り家康に接近した時点で既定路線だったことになり、開戦早々に秀秋は西軍にたいして攻撃に出たという新説もまんざらではないですね。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад +1

      コメントありがとうございます!秀秋の小早川家養子入りは秀吉・隆景双方の思惑が一致した結果と言えそうですね。

  • @ユーザーちびエリミ
    @ユーザーちびエリミ 3 месяца назад +1

    秀元問題は関ケ原の馬鹿みたいな毛利侵攻に関わっていて減った所領を増やそうと言う狙いも。あと立場的に秀元と煽りを食った吉川広家は輝元後継問題によって立場がすごく微妙になったので、関ヶ原での外交に繋がったりもしていますね。ただ輝元さん粛清名人なので秀元と吉川広家が大人しかったら後々消されてた気もするんですよね…

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад

      コメントありがとうございます!秀元・広家と輝元との微妙な関係は、関ケ原以後のこのシリーズのメインのお題の一つになりますね😅😅

  • @あぼぼです
    @あぼぼです 3 месяца назад

    隆景は吉川広家に今後起こりそうな事を話して、安国寺恵瓊の口車に乗せられるな、輝元が積極的になったのは良いけど天下を狙うような野心を持たせるな
    など忠告してたみたいですね。自分が死んだ後のブレーン役を出来そうな一族が広家くらいしかいなかったのだろうか?
    でも関が原の前後を見てると広家一人では厳しかったと思われます。※口上だけでなく、一筆書かせて反故にされないようにするとかがかけてたし

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад

      コメントありがとうございます!隆景一人に頼り切ってたツケが肝心なときに回ってきた感がありますね😥😥

  • @ケンケン-b3r
    @ケンケン-b3r 3 месяца назад

    豊臣政権での五大老って国連常任理事国みたいですね。
    小早川家の秀秋の養子の件も、秀吉自身かつては羽柴秀勝を養子にしていたから同じ発想でしょうし。
    ま、それに左右される家臣は大変だったでしょうけど。
    ところで、戦国小和田チャンネルで小和田先生が光成準治先生と対談している動画が上がっていて、
    特に吉川広家の立場の話は興味深かったです。本来なら元長が継ぐはずで、広家は毛利家の中で主流ではなかったって。
    この後の展開、楽しみにしています‼️

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад +1

      コメントありがとうございます!五大老=国連常任理事国は言い得て妙ですね!このシリーズ自体が光成先生のご著書の成果に大きく依っています😄😄

  • @力哉-l5t
    @力哉-l5t 3 месяца назад +1

    五大老→ヤクザのブロック長

  • @ringosan-ht2eb
    @ringosan-ht2eb 3 месяца назад

    隆景が秀吉よりも長生きしていれば五大老になっていた可能性もあったんですかね?
    広家の言うようにもう少し生きていれば歴史は変わったかもしれないですね。死んでないので遺領問題はおきないですし、輝元秀元の仲も取り持ってくれそう。何かあれば頼りにできて解決もしてくれそうな気がします。

    • @ringosan-ht2eb
      @ringosan-ht2eb 3 месяца назад

      あれ、隆景死後の毛利のゴタゴタ隆景が急死したせいじゃ、、、

    • @三好条子
      @三好条子 3 месяца назад

      隆景は五大老やで

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад

      コメントありがとうございます!隆景が生きていたら五大老が六大老になっていましたね。

  • @toshis3972
    @toshis3972 3 месяца назад

    関ケ原での輝元が西軍主将になったのは彼自身の意向も大いにあったが、秀元問題で奉行衆に取り込まれたとも見えますね
    秀吉としては豊臣政権に従順な輝元に家督継承の執行権利を譲ったとも言えますね。本来は輝元に子供が生まれようが秀元を家督継承者として公認した以上、自分の生死に関わらず秀元で決まりなんですよね。勿論政治家として毛利家の影響を削ろうと考えてたのでしょうが、色々揉めた長宗我部家に対する冷淡(放置)な対応と比べると輝元にはかなり甘い裁定かと思います

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад

      コメントありがとうございます!秀吉としては毛利の力が必要以上に強大化するのは当然避けたいですが、西国の統括役としてある程度は優遇する必要もあるので、そのあたりのバランスでしょうかね。

  • @山田カイチ
    @山田カイチ 3 месяца назад

    未来から歴史をみると、この時期の毛利はアジャパーという感じですが、同時代の目線でいえば唐入りで大活躍して諸大名に毛利家の武威を示し、豊臣家で2人しか残っていない後継候補のうち親戚筋だが出来の(・∀・)イイ!!秀秋を毛利家の分家に入れている。
    秀吉の死去が突然すぎて日本中が混乱する中でも毛利はドンと落ち着いて大国としての威光が輝いてる、流石は輝元さん光り輝いてますよという風に見える。
    実際は頼みの綱の小早川隆景が亡くなって後継者問題とかに気を取られて外交とか根廻とか軍の再編とか後回しになってるんだけど
    そこあたりは当時の人々には見えない。

  • @メカスライム
    @メカスライム 3 месяца назад +3

    戦国を代表する軍師の一人、小早川隆景
    1600年まで生きてたら東軍に付くよう言ってたでしょうね。
    羽柴→豊臣家からは重宝されていたけど、それはそれ。
    ガチのゲンコツを輝元に叩き込みそう(笑)

    • @kazuoka1143
      @kazuoka1143 3 месяца назад +1

      ただし、徳川家康に付いたからと言って、総石高が200万石近くにもなる毛利家を、関ケ原後も温存したかどうかは不明ですけどね。
      関ケ原後の豊臣恩顧の大名の扱いを見ると、関ケ原さえ乗り切れば大丈夫とはとても言えそうにない。

    • @メカスライム
      @メカスライム 3 месяца назад

      @@kazuoka1143 さん
      輝元ならボロが出て減封の憂き目に遭う可能性は確かにありますね。
      前田や島津と違って京に近いのも目をつけられやすいと。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад

      コメントありがとうございます!隆景のガチゲンコツはマジで効きそうですね😲😲

  • @juukaa648
    @juukaa648 Месяц назад

    景勝編では沢山、景勝の人見知りっぽさが語られてたけど、輝元の場合、どうだったんでしょうね?前半部では余り積極的な感じには見えないし、中央で覇権を取ることには興味がない感じですが、この動画の時期になるとかなり積極的?いまひとつ人物像が見えてこないでござる。

  • @伝説の麻婆豆腐
    @伝説の麻婆豆腐 3 месяца назад

    偉大な叔父さん二人から、解放された輝元公が、いよいよ本領発揮
    時は来た。それだけだ!

  • @yaizudamashii
    @yaizudamashii 3 месяца назад +1

    隆景があと2年生きてたらかなり歴史も変わってそう。本当に小さな出来事が積み重なり歴史は影響受けますね。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  3 месяца назад

      コメントありがとうございます!おっしゃる通りで歴史(だけに限りませんが)は細かい偶然の積み重ねの上に成り立っているんですよね。

  • @くるわたろう
    @くるわたろう 3 месяца назад +3

    この長い動画シリーズでの輝元の活躍が微妙すぎて、隆景の退場で主人公がいなくなった感。

  • @MrTakorosu
    @MrTakorosu 3 месяца назад

    俺は三になりますね

  • @hayakawamikan
    @hayakawamikan 3 месяца назад

    秀秋が毛利の跡継ぎなら関ヶ原で勝ってたかもな・・・隆景最大の失策

  • @小野田宇部
    @小野田宇部 3 месяца назад +2

    お、なんか1げっと