死んだ後でも救われる?三綿 直人【なるほどTheBibleシリーズ58】
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- Опубликовано: 8 сен 2024
- 毎週日曜日、聖書から福音(グッド・ニュース)をお届けします。
スピーカーは、教会から信任を受けた「伝道者」の3人。
元企業戦士、元教師、元プロカメラマンが、ユニークかつ有益な話題満載に、
初めての方にもわかりやすくお伝えします。
#聖書
#福音
#わかりやすい
#セカンドチャンス
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いつも動画を見させて
頂き参考になり
ありがとうございます🤗
三綿さんの言われ通り
だと思います。
他の動画でセカンドチャンス論を堂々と話される
牧師さんがいます。
ペドロ第1:19だけを
深掘りして説明されます。
金持ちとラザロの話しも
1ヶ所だけ集中して
セカンドチャンス論に
話しをつなげられます。
聖書は全体的に見なけれ
行けませんよね。
クリスチャンでない人達
聖書の事ほとんど分からない人達には、セカンド
チャンス論を聞いて
本当のように思われて
しまいます💦
文字の間違いすいません
ご了承下さい🙏
とっても分かりやすい解説をありがとうございます! 今年、母を亡くしました。私を含め誰も母の信仰告白を聞くことはありませんでしたが、主は天で私のためにサプライズを用意してくれているかもしれませんね。何度もあったチャンスが母を受け取っていると期待しつつ、すべては主にゆだねたいと思いました。主は最善以外なさらない!
亡き父が救われていればうれしいなと思いながら聞いていました。おっしゃる通り飛躍的な解釈は慎しみたいと思います。
ファインディングドリー、いつか観たいと思います。福音、ありがとうございます。
※今日は聖書と福音でも学ばせていただきました。重ねて感謝です。
前開に続いての重いテーマの解説ご苦労様です。
仮にセカンドチャンスがあるとしたら、多くの人々が
「回心は死後でよい」と勘違いしてしまうところに
問題があると思うのです。
出エジ 8:10 パロは言った、「明日」。
どうして今じゃなく明日なのでしょうか?
マルコ 2:14 「わたしに従ってきなさい」と言われた。
すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
間違えなく神は後者を選ばれます。
救いを後回しにする行為は「罪」です。
後に送っても良いことは一つもありません。
同論の肯定派です。論に置いて、改心は死後でもいいなどと言っていません。だからこそ、「生きている現在、信ずることが大事」と言う意味です。お考えが逆です。あくまでセカンドチャンスなのです。ある人々には理由あって、平等に聞く機会が備えられていておかしいでしょうか。S論は、福音を聞く機会の無かった胎児や赤ちゃん障碍者の方々、世界中の福音を閉ざされている人たち、彼らについての救いをまず問うています。彼らの肉体が、霊だけとなってしがらみが無くなり、新しく福音を聞く機会があってもいいのではないのでしょうか、決してヒューマニズムではありません。神様の慈愛というご性質の問題です。黙示録には二人の証人が殺されます。そして黄泉に下ります。黄泉に下る期間は三日間です。わざわざ光となって黄泉を照らす意味もお考えいただくといいと思います。
神は生きている者の神、死んだ者の神ではありません。
黄泉に下った人々が皆、最後の審判(白い御座の裁き)で有罪となり、ゲヘナに投げ込まれるとなると、何のために裁判が行われるのでしょうか? 全部有罪なら裁判はいらないと思いますが?
ありがとうございます。地上で犯した罪の軽重はありますから、審判は必要です。白い御座のさばきで開かれる書物にはすべての行いが記録されていて、正義の神が公正な裁きを行われるのです。
返信ありがとうございます。上記の場合、地上で救われた人の罪の軽重の違いによってどんな違いがでるのでしょうか?
確かに、神からの報い(褒美)の違いによって、金、銀、宝石、木、草、藁の違いがあることは聖書にしるされています。
白い御座のさばきにおいて裁判されるのは永遠の命とゲヘナ行きのどちらかの審判ではないでしょうか?
先にも書いたように、黄泉に下った人々が皆罪なら裁判はいらないと思います。黙示20:12の「自分の行いに応じて裁かれた」は地上だけに限定するものではないと思います。
信者、クリスチャンはキリストの御座の裁きですよ。全員が無罪です。
Ⅱコリント5:10ーなぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
そうでしょうか?
例えば100%有罪が確定している犯罪者でも、必ず裁判は行われますよね
罪の大小、軽重を議論する為に
すごくわかりやすい。
話がうまいですね。
私はセカンドチャンス論を否定も肯定も出来ません。
ただ亡くなった人の救済のため祈りましょう、というのは、先祖供養や冥福を祈る、という感じで違うように思います。
亡くなった先祖や友達のことは神様にお委ねし、未信者だったからといって地獄に行ったとか言うべきではありません。
神様の厳正な裁きがあるとお任せし、今生きてる自分の生を良く生きることに専念するべきと思います。
私は今はクリスチャンですが、以前は無宗教でした。
私の両親も親戚も無神論で
母は5年前に癌で亡くなり
その一年後に洗礼を受けました。父は母より先に
他界してます。
なので私個人的には
セカンドチャンスがあれば
良かったなぁと思いましたが、私達が死後の死者の
本当の姿を知ることは
神様への越権行為に
なると思います。
一般の人達には納得は
出来ないかも知れません
聖書は今生きてる人間が
どのように未来をつなげる
かを語っている感じが
します。
あくまで私の
個人的な感想です🙏
私はセカンドチャンスはあるのではないかと思っているのですが、ピリピ書2章10,11節に
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
とあります。地の下とはよみのことではないのですか?
神は愛の方、すべての人が天国に入ることを願っておられることを感謝します。
先生の働きがさらに祝福されますように。
同感です。先祖がどうのこうのではなく、セカチャンは聖書的に導き出された結論だと信じます。多くのみ言葉がそれを裏付けています。
セカチャンは人間の勝手な高慢な解釈です。
死んだあとは孫子の子孫が救われなければ救いの機会はありません。使徒行伝16章31節の約束からです。
そして、その他は録してヘブル書「9:27 一たび死ぬることと死にてのち審判を受くることとの人に定りたる如く、」とありです。そういうわけでセカンドチャンスは聖書にない異教の輪廻転生に機会があるのです。これはトラウマリセットのチャンスです。
先祖が救われ無いなら意味ない、、、という解釈のクリスチャンでは無い人のために、セカンドチャンス論いいなと思った事がありました。。しかし、後で、、それは神の主権であって、、人間が言い切ってしまって良いのだろうか?🤔🧐 と疑問を持っています。。
結局、大半の人が真に知りたいと思っている「死んでしまっている先祖はどうなるか」という答えを明確にしていないですよね。「神に任せましょう」で終わっている。
投稿者さんは、どう考えているかだけでも聞いてみたい。
全人類に平等に神は何らかの形で呼びかけていました。誰もが反論できません。
主権者なる神に任せる(委ねる)ことが聖書信仰です。納得できないと駄々をこねず、素直な承認(アーメン)を神は望まれます。
私は神様にお任せが最善の態度と思います。私はセカンドチャンス論を否定も肯定も出来ません。どちらでもある程度矛盾が生じるからです。したがって死後のことは神様に任せよう、で最終決着です。
創世記の中のどの個所に、ノアが箱舟を作りながら人々に「宣教した」という事が書かれているのでしょうか、ノアって宣教した人物とは思えないのです。神様が一方的に世の人々作ったことを「悔いた」のでノアと家族を選んで、残りの全てを断腸の思いで一方的に滅ぼしたのではないのでしょうか。
彼らは宣教の言葉など、誰からも聞かされていませんでした。だから福音を聞く機会も無かった。それで平等を保つため、宣べ伝える必用から、主の黄泉下りがあったのではないのですか?セカンドチャンスは肯定しますが、理解不足でしょうか。神様の公平性が失われます。
神は公平です。それが信仰です。
だからこそ、イエス様は十字架後によみに下られ宣教されたのではなかったのでしょうか。「平等」:確かにそう願いたいのですが、終わりの日には神様は裁くお方です。信仰、不信仰、悔い改めない者、不義なる物、偽預言者、偽クリなど不純物を取り除くように、また毒麦を育つままにしておかれ、最後は 引き抜かれるように、分け隔てを愛と義によって裁かれます。正しい「差別」(選び)もあるのです。私たちの言う「平等」は思い違いです。正しい信仰ではありません。
死後のセカンドチャンスは、ないが聖書的な結論です。
一方、洗礼を受けた人は全て救われ天国に行けると思っている人もいるでしょう。イエス様を信じたら天国は、間違いないのですが、これも信仰の中身が大事です。
イエス様の十字架が自分の罪のためにあったと信じ、3日目の死からの復活を信じてこそです。
そこまで本気で信じてなくて、人に寄り添うイエス様、病の癒し主イエスに留まって洗礼だけは受けている人は、結構多そうです。自称クリスチャンでは、受洗シていても救われてはいない筈です。
そのことに関する動画メッセージを希望します。
セカチャンはあると思います。信仰が与えられる前に何らかの理由で福音を一度も聞いた事の無い人に対し、主が十字架後に黄泉にまで下られた事実を素直に受け止めるべきだと思います。憐みの主でもあります。もちろん、生きている間に信仰を持つことが出来ればそれに越したことはないのです、なので黄泉に行ってから信じたらよいなどという意識は生まれません。あくまでもセカンドチャンスですからね。