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なんかsayaさんが、歌うと余計切なく感じるなぁ。 もうずっと昔でしたが、昨日のことのように思い出します。
20代の頃は歌の意味をあまり考えずに歌っていましたが、じっくり聴くと、切ない歌ですね…。
今は亡きテレサ・テンの歌を叙情豊かに歌ってくださり、とても感動しました。どうもありがとうございました。
テレサ・テンの歌 ピッタリですね!画面に吸い込まれそうになりました。是非、香港もお願い致します。😃
テレサ・テンの大好きな歌のひとつです。❤ありがとうございます❤
祝 チャンネル登録者数5万人到達。これからも盛り上げていきたいですね。今回2週振りに素晴らしい歌声が聴けて幸せな気分です。
あー涙涙が出ます🥲
5万人登録おめでとうございます。 皆、sayaさんの美しい声に集ってきたファンばかりです。これからも良い歌を聴かせてくださいネ。
切々と胸にこたえる、、涙が… 😢
sayaのクリスタルボイスは テレサより切ない‼️ 明るいポップスと 相反するマイナーバラードの2つの魅力のsaya❣️ いつ聴いても心なごむ💐 夜桜亭タカ🦅
今日もありがとう。
いつ聴いても 透明感あふれる素敵な歌声。しびれます。
テレサ・テン母親が好きだったからよく聞いてました。今の曲も好きだけど、これくらいの時代の曲もやっぱりいい。sayaさんも相変わらず上手いです。というか前より上手い。
辛島美登里っぽい上品な世界観を感じる。一音一音丁寧に表情を付けて歌ってますね。少しフェイクとか入れて崩す感じも聴きたくなる。
sayaさんのテレサテンはやっぱりあってると思います。個人的に「空港」希望
すごく良い
素敵な歌をありがとう。心に響きました。
私もファンの一人になりました。
😊👍これからも頑張って下さい。
情感のこもった素敵な歌唱にしびれました。💐🌹✨
やったね!5万人🥰
ピアノの主旋律がやるせなさを引き立ててます。それにしてもsayaさん…滑らかさも感じさせる声。素晴らしい。1/23月、パラダイスカフェ(今年4月で閉店は残念)でのライヴ、素敵なひとときになりますように。
いい曲ですね。綺麗でしっとりとした歌声が、叙情豊かに流れ、聴き惚れてしまいました。また、令和5年早々にチャンネル登録5万人突破、おめでとうございます。これからも楽しみにしています。 そして、配信ライブも!
こんばんは😃🌃。また、涙が出ます❗いつも、美しい歌声をありがとうございます。o@(・_・)@o。では、また。
제가 23살때 일본 선박회사에서 3등항해사로 근무할때 매일 듣던 노래입니다잊고살다가 30년이 지나서 들으니 눈물이 나네요잘 듣고 갑니다ㅎ😃
good!
💌
Sayaさん、後ろに移っている写真の女性、シャンソン歌手のバルバラですか?私、バルバラの最後の東京公演観に行きました。
リクエストです。 六花(中島みゆき)
😌👏👏👍👍👍
Saya 癸卯兔年合家身体健康快乐幸福万事如意心想事成!
ぼっち・ざ・ろっく!
まったく、いい女だ☺️しらんけど
感想に変えて・残りの50%は何も言わないほうがいい生ライブと違って、映像の場合はカットを割れます。カットを割ると、そのカットの力、あるいはアップするとロングするときの力が違ってくるのです。だから映像の場合はいくらでも表現しやすくなりますが、演劇における生のライブはその一か所しかない空間ですので、アップもロングもできず、ずっと同じ大きさでその一箇所しかない空間ですので、アップもロングもできず、ずっと同じ大きさでそのスタイルでやっていく。まさしくライブの持っている究極的な魅力を、そこで出せるか出せないかの勝負だとむしろ生の魅力を、ある意味で選出によってリードするということもできます。要するに、私の考えでは過剰に演出する必要はないと思います。過剰に演出していく、完璧的に一つ一つの部分を全部計算んしつくすと、それは人間の出していく、究極的に一つ一つの部分を全部計算しつくすと、それは人間の想定意識で計算世界になってしまいます。つまり、人間の計算できない世界をいかに生ライブに持ち込むかが重要で、この数年間、私が非常に力を入れた項目の一つでもあるのです。たとえば、ミュージシャンのみなさんが、「鎮魂組曲」のコンサートに参加されるとき、その組曲の中に、私はもちろん曲の基盤を書いて、あるいはやり方も「こうこうこうでやってほしい」とある程度注文して、でも、残りの50%は何も言わないほうがいいのです。言ううと、相手の持っているイメージが潰されてしまうのです。つまり、みなさんが持っている鎮魂や祈りの力も入れてくれないと、困るのです。私が提示したプロセスにもちろん合わせていただきたいし、でもその中に皆さんなりの魅力、皆さんが持っている鎮魂の真相を音楽で表現したらどうでしょう、と考えいました。大事なコラボレーションです。コラボレーションがなければ、お互いの良さは引っ張り出せないのです。だから、いかに言葉的魅力を出せるかは、コラボレーションが出来る生ライブの中にこそ存在し続けているといえると思います。あるいは、映像の形象を提示することによって、尾とが見えてくるのです。つまり、耳で映像を聞く、目で音楽を見る。という逆転の発想でイメージは自由自在に対応できると思います。・表現は直感できる速さである全部があるからこそ一貫性が出てくる私が色々な好奇心を以ているのは事実で、いろんなものを「これもやりたい、あれもやりたい」と方向性がいろいろまたがってしまうときがあり、「あなたのやっている世界は、一つにまとめられてないんですか」とよく言われます。でも、一つにまとめているというと、私が言っている統合アートの世界しかないので、言葉だけに絞るとか映像だけに絞るといったことは、今までどうしてもできませんでした。つまり、すでに持っているものを一つだけにして、それだけに集中するというのは、自分でも納得できなかったのです。もちろん、「この人は画家である」とか、「この人はミュージシャンである」とかいうように、一つに絞ったほうがわかりやすいのですが、でもそれは他人から見たわかりやすいさであって、自分にとってはすごく苦痛なのです。全部があるから一貫性が出てきて、すべてのところにつながっているのです。そのところで、私の中で持っている統合的な考え方が生まれてくるような感じがします。・表現は直感できる速さであるたとえば総合芸術の場合、油絵からアクリルに行こうしたのは、自分の持っているアイデアを瞬時的に表現しないと、あっとい間にどこかに消えてしまう。消える前にこれを形にしていくという世界です。私にとっては絵具が早く乾くことが、次のイメージを定着する接点になります。自分の持っているイメージあるい一瞬的な感覚、直観をものに定着するためには、やはり速さというのは大事です。スピーディーというか、スピードのあるような媒体に変えないと、考えているうちにアイデアが見えなくなっていく、曖昧になっていく。人間のアイデアというのはとても不思議なのですが、出た瞬間が一番レアなのです。この新鮮なうちに、絵のイメージを構築するのです。一時間後には「あれ?」と、違うものに変容していく変遷するわけです。変遷すても、よいものになるときもあります。決して悪いことではないのだけれど、ただし、生(なま)のものを一瞬的に定着させていくようなことは、むしろその直感を信じていくような意志や原動力がどこかにあるということで、それは私が現在必要とする、とても大事な部分であると思います。P456ー458光と風邪のクリエ 金大偉著 和器出版、2018年7月7日初版第一刷第3章ー映像表現の世界・残りの50%は何も言わないほうがいい・表現は直感できる速さである・表現は直感できる速さであるP452ー458
「思い」をもたなければあらそうこともないある講演会で「感謝をするといろいろなものが味方になり、問題が起きなくなるという話をしました。その話を聞いた夫婦は、家に帰ってから話し合ったそうです。すると、「お前は感謝が足りないんだ」「あなたこそかんしゃがたりないわよ」と、お互い人生の中で一番激しいケンカになったそうです。つまり、「人生にはかんしゃがあるといいですよ」という話を聞いたとたん、「感謝」という武器を突き付けて、相手に要求をし、ケンカしてしまったことになります。「感謝」は、相手に要求するものではありません。こうしてほしい、こうなってほしいという「思い」を持たないようにすると、ケンカになることはありません。日常生活の中で、「思い」を相手にぶつけることをやめる訓練をしていったらどうでしょうか。短い人は一週間で「思い」がなくなったという人がいました。その人は、いっしゅううかんずつと「ありがとう」をいいつづけたそうです。夫や子供に注文をつけることをやめ、「ありがとう」という言葉をかけていってはどうでしょう。・悩みはあなた自身が創り出している七十歳の女性が、私に次のような質問をしました。「九十歳」になる母が、新築の家に二十年間の肩の新しいキッチンを入れたいのですが、母は眼として譲りません。どうやって説得したらいいでしょう」という内容でした。「それは誰の家ですか?」「母です」「キッチンを使うのは誰ですか?」「母です」「じゃあ、あなたは関係ないじゃないですか」「でも母が亡くなった後は、私がこの家に入る予定なんです」「ではなくなってから考えたらいいじゃないですか」このように、悩みの多くは、「自分の思い通りにしたいが、できない」ということから生まれます・自分の思い通りにできないことが、悩みだと思い込んでいるのです。決してあなたを悩ませる現象があるわけではんくて、あなた自身が悩みを作って勝手になやんでいるということなのです。その後、同じ女性が私にまた質問をしました。「実は、四十歳になる息子がいるのですが、二週間前に交通事故をおこしました。どうしたらいいでしょうか」「四十歳だったら、充分に自己の処理はできますし、判断能力があるじゃないですか?」「はい、あります」「だったら七十歳のあなたが考える必要はないんじゃないんじゃないですか?」「でも私の息子なんです。」「息子かどうかは関係ありません。」その息子さんは、少なくとも七十歳のその女性よるも、いろいろしっているだろうし行動できるのではないのでしょうか、つまり、この女性が考えたり心配したりする必要はないということです。「もしかしてあなたは、今まで人間関係が大変だったんじゃないですか?」と聞いたところ、その女性hア重病くらい考えてから答えました。「ありとあらゆる人間関係が大変でした」「家族関係も隣人関係も友人関係も、すべて大変だったんじゃないです?」「全部。大変でした」それもそのはずです。その女性が考えてみる悩みや苦しみというのは、すべて自分の思い通りにしたいだけなのです。自分がおもいどおりにならないことが問題だ、悩みだと思っているだけです。世の中には、自分の思い通りになることは、一つもありません。それにも、関わらず、この女性は自分の思い通りにすることだけを一生涯かけてやってきたのです。一生涯かけて、自分で悩みを生み落としていたと言う事です。悩み苦しみの多くは、自分の思い通りにしたいだけだ、ということに気がつくのでhないでしょうか。無敵の生き方 小林正観著 廣済堂出版 2009年11月9日 初版 第1刷・「思い」をもたなければあらそうこともない・悩みはあなた自身が創り出しているP122ー127
らせん状に回転させていたの肩のふり幅が減って、縦の上下動の動きが増えているので、歌唱中のバランスの調整途中にも見える。写り方が左側だけなので、気のせいかもしれないが、やや左肩に力点がおかれているように見える。利き手がいずれかわからいので、なんともいえないものの。左手を上下に使って情感を表現するのに使っているので、右利きにありがちな右半身の力みとバランスを取っておられるように見えるものの、あるいは歌謡中に何か違和感を感じられた場合は、歌っている時の感覚を一旦リセットされると習慣的な癖が減って感覚を取り戻しやすいかもしれない。ただし、切開手術の影響で体感が変化しているはずなので、以前の感覚ではなく、現在の丁度いい感覚と、消耗と疲労の軽減になる方向にいくとよろしいやに思われれる。等々と、拝見させて頂きましたが、まあご自身の認識を信頼して、あまり観客より、リクエストよりにならないようにして頂いた方が周囲の方々も喜ぶとは存じますよ^^補記柳は緑、花は紅-あるがままの姿に徹し生きる-書き下ろし岡山県 ・安禅寺住職 村上明道 水はぬるみ樹木の芽がふくらみ、まさに春本番を迎える季節になりました。宋時代の詩人、蘇東坡は春の景色を「柳は緑、花は紅、真面目しんめんもく」と詠じています。花は色とりどりに咲きほこり、自然の営みにすべてをゆだね、一瞬一瞬をあるがままに生きています。その草や樹木の姿に、限りない生命の息吹を感じ取り、「真の面目」と賛嘆しているのです。 以前、ある家の法要にお参りをした時、脳に障害をもった少年が出席していました。この少年は、親戚の人達の前にはじめて出ることができたのだと、少年の父親に聞かされました。十数年の間、悩み苦しまれた両親の気持ちにやっと整理がついたのです。 私たちは、自分と他を比較して、どうにもならないことに思い悩むことがあります。たとえば、他と比べてこちらが優れていると感じたときは喜び、逆に劣っていると思えば、焦りや憤りが生じ劣等感に苛まれます。 少年の両親は、障害があることは、ないことに比べれば苦しいけれど、いくら思ってみてもどうにもならないことならば、あるがままの姿を受け入れ、そこにいのちの輝きを見いだして生きていこうと、覚悟することができたのです。そのいのちの輝きこそが真の面目ではないでしょうか。 何かを求めることは、時には美しく、人として成長することがあります。しかし、優と劣、美と醜、得と損など比較することから離れられなければ、苦しみはつきまといます。 身体、容姿、それに生まれた境遇など、考えてみてもどうにもならないことをつい思ってしまいますが、それよりも、すべて賜物として有り難く、そのままに頂くことができればどんなにか幸せを感じられることでしょう。 もうすぐいろいろな花が次々に開きます。梅や桜のように多くの人々の目にとまる花もあれば、道端に人知れず咲くイヌノフグリのような小さな花もあります。どれもこれも、あるがままに生きている精一杯の姿であり、この輝きを感じとることができれば、自分の生命と花の生命がまったく同じものであることを知るでしょう。【禅語】主人公(しゅじんこう)「ちょっと変わっている」そんな人に対して、「個性的」という言葉が使われることがある。個性的な髪型。個性的な服装。個性的な生き方。などなど。一握りの称賛と、一抹の拒否と、大多数の驚きで構成された、不思議なニュアンスの言葉だ。個性的、という言葉は。そんな個性的という言葉に関する、ちょっと面白い禅語がある。それが「主人公」。「主人公」といえば、現在では映画やドラマなどの主役を指す言葉として使われているが、本来の禅語の意味は少し違う。禅語では主人公という言葉を、自分のなかにいる本当の自分というような意味で用いている。実際に自分のなかにもう一人の自分がいるわけではないが、中国の瑞巌和尚という僧が自分に対して声をかけて、自分で答えるという変わったことをしていたものだから、自分のなかに主人公という本当の自分がいるかのようなニュアンスが付いてしまっている。瑞巌がどんなふうに自分に対して声をかけていたのかというと……「おーい、主人公(自分)よ。ちゃんと目を覚ましているか?」と、自分で自分に問いかけ、「大丈夫だ」と、自答する。「世間に流されるなよ」自問し、「大丈夫だ」自答する。そうやって、自分自身に声をかけては、自分で答えていたという。なんとも変わった僧侶が昔の中国には存在していたようで、そこからこの主人公という禅語は生まれたのだった。現代で「個性的」というと、人と違っていたり、奇抜であったりといったことを連想するが、個性とは文字通り「個々の性質」のことである。したがって、読書の好きな人が読書をすることは、じつに個性的な行為となる。個々の性質に沿っているからである。つまり、人と違うことが個性なのではなく、自分の心に沿うことが個性というわけだ。このことはよく勘違いされやすいところなので注意が必要。同じ行為をする人が何人いても一向にかまわない。何人いようと、どれだけ似ていようと、人と違っていなくても、人はそれぞれ完全に個性的な存在なのである。自分が自分として存在している時点ですでに、人は自分という個性をなくすことなど、はじめからできはしない。・啐啄の機禅で、弟子が悟りを開くことができる段階に達したその瞬間に、師匠が悟りのきっかけを与えることのたとえ。転じて、ものごとを成し遂げるための、えがたいチャンスのたとえ。[使用例] 発光のショックにちょっとたじろぎはしたが、光はあるかたちを私にはっきり見せた。啐琢同時であったのだろう[幸田文*こんなこと|1950][由来] 「碧巌録―一六」に出て来る話から。九~一〇世紀の僧、鏡きょう清しょう禅師は、常々、「ひな鳥が卵からかえるときには、『啐(ひな鳥が内側から出ようとすること)』と『啄(母鳥が卵を外からつついて殻を割ってやること)』が同時に行われる。それと同じように、禅の師匠も、弟子が悟りを開こうとする瞬間を見抜く力を持っていないといけない」と述べ、その瞬間のことを「啐啄の機」と呼んでいた、ということです。
補記ー2・【禅語】規矩行い尽くすべからず(きくおこないつくすべからず)規矩(きく)とは規則のことで、現代でいうマニュアルのこと。つまり「規矩行い尽くすべからず」とは、すべてをマニュアルで定めてしまってはいけない、あるいは、マニュアルどおりの行動ばかりではいけない、というような意味の禅語となる。なんだか現代社会にこそ必要な禅語のように感じるが、昔も規則にがんじがらめになるようなことがあったのだろうか。気になるところだ。ただし、この禅語はマニュアル「だけ」ではいけないといっているのであって、マニュアル自体がいけないといっているわけではない。新人が仕事を覚えるのに、マニュアルを覚えるという方法は効率がいい。マニュアルというのは、いわば定石なのだ。こうなった場合、こうしたほうがいい。あの場合は、ああしたほうがいい。そういったあらゆるパターンのなかで最適なものはどれか、先人が試行錯誤した上で最大公約数的な答えを構築したものがマニュアルなのだと考えれば、やはりマニュアルには大きな意味がある。マニュアルの心得大手の飲食店などでバイトをはじめると、今や仕事の内容はほぼマニュアル化されている。接客の仕方、調理の仕方、あるいは謝罪の仕方やトラブルの処理の仕方にいたるまで、事細かに文字として記されている。すべてがすでに定められており、それに沿うことがまずは求められる。そうすることで、安定した結果を残すことができると事前にわかっているからである。そうしたマニュアルどおりに仕事をすれば、大きなマイナス点を取るということはほぼないだろう。定石であるから、間違いというものが非常に起こりにくい。ただ、大きなプラス点を取ることも少なくなってしまうかもしれない。「規矩行い尽くすべからず」という禅語が危惧しているのは、まさにその点かもしれない。飲食店の場合、たとえば新規の客にはマニュアルどおりでもあまり問題ないだろうが、常連客にマニュアルどおりでは失礼にあたったりもする。煙草を吸わないことがわかっているのに、毎回「お煙草は吸われますか?」と訊かれては、客も困惑せずにいられない。「なぜ、訊く? 私のことを覚えていないのか?」心のなかで、客はそう悲しく呟くに違いない。マニュアルはあくまでも定石であって、完全ではない。完全ではないから、現場では絶えずその場に相応しい血の通った対応が求められる。マニュアルという文字の羅列に終始するのではなく、眼前に広がる現実の世界を感じとって臨機応変に対応していく必要が当然でてくる。私は在家から出家して僧侶になったが、出家する以前は美容師を目指していた。実際、美容師免許を取得しており、永平寺での修行を終えてから、すぐに福祉美容師という仕事にも就いている。老人介護施設や病院等へ訪問し、美容院に行くことのできない方の髪をカットする、福祉を冠した美容師の仕事である。そういったサービス業では、大筋でマニュアルに沿う必要があるものの、マニュアルを呑み込んだら今度はそのマニュアルを超えていく必要がある。機械的な接客で満足する相手は機械だけだ。人は機械ではない。血の通わない対応ではお客さんも心を許せない。当たり前のことであるが、そこでは絶えず人と人とのコミュニケーションが交わされ続ける。何かを規制すれば、問題は起こりにくくなるかもしれないが、発展もまた起こりにくくなる。この禅語の最後に「尽くすべからず」とあるように、やはりマニュアルに終始するような一辺倒ではいけないということなのだろう。マニュアルを消化し、マニュアルを超えていくために、マニュアルは存在していると理解しておいたほうがいいかもしれない。いずれにしても、21世紀の現代社会を見越したかのような、示唆に富んだ禅語である。
なんかsayaさんが、歌うと余計切なく感じるなぁ。
もうずっと昔でしたが、昨日のことのように思い出します。
20代の頃は
歌の意味をあまり考えずに
歌っていましたが、じっくり聴くと、
切ない歌ですね…。
今は亡きテレサ・テンの歌を叙情豊かに歌ってくださり、とても感動しました。どうもありがとうございました。
テレサ・テンの歌 ピッタリですね!
画面に吸い込まれそうになりました。
是非、香港もお願い致します。😃
テレサ・テンの大好きな歌のひとつです。❤ありがとうございます❤
祝 チャンネル登録者数5万人到達。これからも盛り上げていきたいですね。
今回2週振りに素晴らしい歌声が聴けて幸せな気分です。
あー涙涙が出ます🥲
5万人登録おめでとうございます。 皆、sayaさんの美しい声に集ってきたファンばかりです。これからも良い歌を聴かせてくださいネ。
切々と胸にこたえる、、涙が… 😢
sayaのクリスタルボイスは テレサより切ない‼️ 明るいポップスと 相反するマイナーバラードの2つの魅力のsaya❣️ いつ聴いても心なごむ💐
夜桜亭タカ🦅
今日もありがとう。
いつ聴いても 透明感あふれる素敵な歌声。
しびれます。
テレサ・テン母親が好きだったからよく聞いてました。今の曲も好きだけど、これくらいの時代の曲もやっぱりいい。sayaさんも相変わらず上手いです。というか前より上手い。
辛島美登里っぽい上品な世界観を感じる。
一音一音丁寧に表情を付けて歌ってますね。
少しフェイクとか入れて崩す感じも聴きたくなる。
sayaさんのテレサテンはやっぱりあってると思います。個人的に「空港」希望
すごく良い
素敵な歌をありがとう。
心に響きました。
私もファンの一人になりました。
😊👍
これからも頑張って下さい。
情感のこもった素敵な歌唱にしびれました。💐🌹✨
やったね!5万人🥰
ピアノの主旋律がやるせなさを引き立ててます。それにしてもsayaさん…滑らかさも感じさせる声。素晴らしい。
1/23月、パラダイスカフェ(今年4月で閉店は残念)でのライヴ、素敵なひとときになりますように。
いい曲ですね。
綺麗でしっとりとした歌声が、叙情豊かに流れ、聴き惚れてしまいました。
また、令和5年早々にチャンネル登録5万人突破、おめでとうございます。
これからも楽しみにしています。 そして、配信ライブも!
こんばんは😃🌃。また、涙が出ます❗いつも、美しい歌声をありがとうございます。o@(・_・)@o。では、また。
제가 23살때 일본 선박회사에서 3등항해사로 근무할때 매일 듣던 노래입니다
잊고살다가 30년이 지나서 들으니 눈물이 나네요
잘 듣고 갑니다ㅎ😃
good!
💌
Sayaさん、後ろに移っている写真の女性、シャンソン歌手のバルバラですか?私、バルバラの最後の東京公演観に行きました。
リクエストです。 六花(中島みゆき)
😌👏👏👍👍👍
Saya 癸卯兔年合家身体健康快乐幸福万事如意心想事成!
ぼっち・ざ・ろっく!
まったく、いい女だ☺️しらんけど
感想に変えて
・残りの50%は何も言わないほうがいい
生ライブと違って、映像の場合はカットを割れます。カットを割ると、そのカットの力、あるいはアップするとロングするときの力が違ってくるのです。だから映像の場合はいくらでも表現しやすくなりますが、演劇における生のライブはその一か所しかない空間ですので、アップもロングもできず、ずっと同じ大きさでその一箇所しかない空間ですので、アップもロングもできず、ずっと同じ大きさでそのスタイルでやっていく。
まさしくライブの持っている究極的な魅力を、そこで出せるか出せないかの勝負だとむしろ生の魅力を、ある意味で選出によってリードするということもできます。要するに、私の考えでは過剰に演出する必要はないと思います。過剰に演出していく、完璧的に一つ一つの部分を全部計算んしつくすと、それは人間の出していく、究極的に一つ一つの部分を全部計算しつくすと、それは人間の想定意識で計算世界になってしまいます。つまり、人間の計算できない世界をいかに生ライブに持ち込むかが重要で、この数年間、私が非常に力を入れた項目の一つでもあるのです。
たとえば、ミュージシャンのみなさんが、「鎮魂組曲」のコンサートに参加されるとき、その組曲の中に、私はもちろん曲の基盤を書いて、あるいはやり方も「こうこうこうでやってほしい」とある程度注文して、でも、残りの50%は何も言わないほうがいいのです。言ううと、相手の持っているイメージが潰されてしまうのです。
つまり、みなさんが持っている鎮魂や祈りの力も入れてくれないと、困るのです。私が提示したプロセスにもちろん合わせていただきたいし、でもその中に皆さんなりの魅力、皆さんが持っている鎮魂の真相を音楽で表現したらどうでしょう、と考えいました。大事なコラボレーションです。コラボレーションがなければ、お互いの良さは引っ張り出せないのです。だから、いかに言葉的魅力を出せるかは、コラボレーションが出来る生ライブの中にこそ存在し続けているといえると思います。あるいは、映像の形象を提示することによって、尾とが見えてくるのです。つまり、耳で映像を聞く、目で音楽を見る。という逆転の発想でイメージは自由自在に対応できると思います。
・表現は直感できる速さである
全部があるからこそ一貫性が出てくる
私が色々な好奇心を以ているのは事実で、いろんなものを「これもやりたい、あれもやりたい」と方向性がいろいろまたがってしまうときがあり、「あなたのやっている世界は、一つにまとめられてないんですか」とよく言われます。でも、一つにまとめているというと、私が言っている統合アートの世界しかないので、言葉だけに絞るとか映像だけに絞るといったことは、今までどうしてもできませんでした。
つまり、すでに持っているものを一つだけにして、それだけに集中するというのは、自分でも納得できなかったのです。もちろん、「この人は画家である」とか、「この人はミュージシャンである」とかいうように、一つに絞ったほうがわかりやすいのですが、でもそれは他人から見たわかりやすいさであって、自分にとってはすごく苦痛なのです。
全部があるから一貫性が出てきて、すべてのところにつながっているのです。そのところで、私の中で持っている統合的な考え方が生まれてくるような感じがします。
・表現は直感できる速さである
たとえば総合芸術の場合、油絵からアクリルに行こうしたのは、自分の持っているアイデアを瞬時的に表現しないと、あっとい間にどこかに消えてしまう。消える前にこれを形にしていくという世界です。私にとっては絵具が早く乾くことが、次のイメージを定着する接点になります。
自分の持っているイメージあるい一瞬的な感覚、直観をものに定着するためには、やはり速さというのは大事です。スピーディーというか、スピードのあるような媒体に変えないと、考えているうちにアイデアが見えなくなっていく、曖昧になっていく。
人間のアイデアというのはとても不思議なのですが、出た瞬間が一番レアなのです。この新鮮なうちに、絵のイメージを構築するのです。一時間後には「あれ?」と、違うものに変容していく変遷するわけです。
変遷すても、よいものになるときもあります。決して悪いことではないのだけれど、ただし、生(なま)のものを一瞬的に定着させていくようなことは、むしろその直感を信じていくような意志や原動力がどこかにあるということで、それは私が現在必要とする、とても大事な部分であると思います。
P456ー458
光と風邪のクリエ 金大偉著 和器出版、2018年7月7日初版第一刷
第3章ー映像表現の世界
・残りの50%は何も言わないほうがいい
・表現は直感できる速さである
・表現は直感できる速さである
P452ー458
「思い」をもたなければあらそうこともない
ある講演会で「感謝をするといろいろなものが味方になり、問題が起きなくなるという話をしました。その話を聞いた夫婦は、家に帰ってから話し合ったそうです。すると、「お前は感謝が足りないんだ」「あなたこそかんしゃがたりないわよ」と、お互い人生の中で一番激しいケンカになったそうです。
つまり、「人生にはかんしゃがあるといいですよ」という話を聞いたとたん、「感謝」という武器を突き付けて、相手に要求をし、ケンカしてしまったことになります。「感謝」は、相手に要求するものではありません。
こうしてほしい、こうなってほしいという「思い」を持たないようにすると、ケンカになることはありません。日常生活の中で、「思い」を相手にぶつけることをやめる訓練をしていったらどうでしょうか。
短い人は一週間で「思い」がなくなったという人がいました。その人は、いっしゅううかんずつと「ありがとう」をいいつづけたそうです。夫や子供に注文をつけることをやめ、「ありがとう」という言葉をかけていってはどうでしょう。
・悩みはあなた自身が創り出している
七十歳の女性が、私に次のような質問をしました。「九十歳」になる母が、新築の家に二十年間の肩の新しいキッチンを入れたいのですが、母は眼として譲りません。どうやって説得したらいいでしょう」という内容でした。「それは誰の家ですか?」
「母です」
「キッチンを使うのは誰ですか?」
「母です」
「じゃあ、あなたは関係ないじゃないですか」
「でも母が亡くなった後は、私がこの家に入る予定なんです」
「ではなくなってから考えたらいいじゃないですか」
このように、悩みの多くは、「自分の思い通りにしたいが、できない」ということから生まれます・自分の思い通りにできないことが、悩みだと思い込んでいるのです。決してあなたを悩ませる現象があるわけではんくて、あなた自身が悩みを作って勝手になやんでいるということなのです。
その後、同じ女性が私にまた質問をしました。
「実は、四十歳になる息子がいるのですが、二週間前に交通事故をおこしました。どうしたらいいでしょうか」
「四十歳だったら、充分に自己の処理はできますし、判断能力があるじゃないですか?」
「はい、あります」
「だったら七十歳のあなたが考える必要はないんじゃないんじゃないですか?」
「でも私の息子なんです。」
「息子かどうかは関係ありません。」
その息子さんは、少なくとも七十歳のその女性よるも、いろいろしっているだろうし行動できるのではないのでしょうか、
つまり、この女性が考えたり心配したりする必要はないということです。
「もしかしてあなたは、今まで人間関係が大変だったんじゃないですか?」
と聞いたところ、その女性hア重病くらい考えてから答えました。
「ありとあらゆる人間関係が大変でした」
「家族関係も隣人関係も友人関係も、すべて大変だったんじゃないです?」
「全部。大変でした」
それもそのはずです。その女性が考えてみる悩みや苦しみというのは、すべて自分の思い通りにしたいだけなのです。自分がおもいどおりにならないことが問題だ、悩みだと思っているだけです。
世の中には、自分の思い通りになることは、一つもありません。それにも、関わらず、この女性は自分の思い通りにすることだけを一生涯かけてやってきたのです。一生涯かけて、自分で悩みを生み落としていたと言う事です。悩み苦しみの多くは、自分の思い通りにしたいだけだ、ということに気がつくのでhないでしょうか。
無敵の生き方 小林正観著 廣済堂出版 2009年11月9日 初版 第1刷
・「思い」をもたなければあらそうこともない
・悩みはあなた自身が創り出している
P122ー127
らせん状に回転させていたの肩のふり幅が減って、縦の上下動の動きが増えているので、歌唱中のバランスの調整途中にも見える。写り方が左側だけなので、気のせいかもしれないが、やや左肩に力点がおかれているように見える。
利き手がいずれかわからいので、なんともいえないものの。左手を上下に使って情感を表現するのに使っているので、右利きにありがちな右半身の力みとバランスを取っておられるように見えるものの、あるいは歌謡中に何か違和感を感じられた場合は、歌っている時の感覚を一旦リセットされると習慣的な癖が減って感覚を取り戻しやすいかもしれない。
ただし、切開手術の影響で体感が変化しているはずなので、以前の感覚ではなく、現在の丁度いい感覚と、消耗と疲労の軽減になる方向にいくとよろしいやに思われれる。
等々と、拝見させて頂きましたが、まあご自身の認識を信頼して、あまり観客より、リクエストよりにならないようにして頂いた方が周囲の方々も喜ぶとは存じますよ^^
補記
柳は緑、花は紅
-あるがままの姿に徹し生きる-書き下ろし
岡山県 ・安禅寺住職 村上明道
水はぬるみ樹木の芽がふくらみ、まさに春本番を迎える季節になりました。宋時代の詩人、蘇東坡は春の景色を「柳は緑、花は紅、真面目しんめんもく」と詠じています。花は色とりどりに咲きほこり、自然の営みにすべてをゆだね、一瞬一瞬をあるがままに生きています。その草や樹木の姿に、限りない生命の息吹を感じ取り、「真の面目」と賛嘆しているのです。
以前、ある家の法要にお参りをした時、脳に障害をもった少年が出席していました。この少年は、親戚の人達の前にはじめて出ることができたのだと、少年の父親に聞かされました。十数年の間、悩み苦しまれた両親の気持ちにやっと整理がついたのです。
私たちは、自分と他を比較して、どうにもならないことに思い悩むことがあります。たとえば、他と比べてこちらが優れていると感じたときは喜び、逆に劣っていると思えば、焦りや憤りが生じ劣等感に苛まれます。
少年の両親は、障害があることは、ないことに比べれば苦しいけれど、いくら思ってみてもどうにもならないことならば、あるがままの姿を受け入れ、そこにいのちの輝きを見いだして生きていこうと、覚悟することができたのです。そのいのちの輝きこそが真の面目ではないでしょうか。
何かを求めることは、時には美しく、人として成長することがあります。しかし、優と劣、美と醜、得と損など比較することから離れられなければ、苦しみはつきまといます。
身体、容姿、それに生まれた境遇など、考えてみてもどうにもならないことをつい思ってしまいますが、それよりも、すべて賜物として有り難く、そのままに頂くことができればどんなにか幸せを感じられることでしょう。
もうすぐいろいろな花が次々に開きます。梅や桜のように多くの人々の目にとまる花もあれば、道端に人知れず咲くイヌノフグリのような小さな花もあります。どれもこれも、あるがままに生きている精一杯の姿であり、この輝きを感じとることができれば、自分の生命と花の生命がまったく同じものであることを知るでしょう。
【禅語】主人公(しゅじんこう)
「ちょっと変わっている」
そんな人に対して、「個性的」という言葉が使われることがある。
個性的な髪型。
個性的な服装。
個性的な生き方。
などなど。
一握りの称賛と、一抹の拒否と、大多数の驚きで構成された、不思議なニュアンスの言葉だ。個性的、という言葉は。
そんな個性的という言葉に関する、ちょっと面白い禅語がある。
それが「主人公」。「主人公」といえば、現在では映画やドラマなどの主役を指す言葉として使われているが、本来の禅語の意味は少し違う。禅語では主人公という言葉を、自分のなかにいる本当の自分というような意味で用いている。
実際に自分のなかにもう一人の自分がいるわけではないが、中国の瑞巌和尚という僧が自分に対して声をかけて、自分で答えるという変わったことをしていたものだから、自分のなかに主人公という本当の自分がいるかのようなニュアンスが付いてしまっている。
瑞巌がどんなふうに自分に対して声をかけていたのかというと……
「おーい、主人公(自分)よ。ちゃんと目を覚ましているか?」
と、自分で自分に問いかけ、
「大丈夫だ」
と、自答する。
「世間に流されるなよ」
自問し、
「大丈夫だ」
自答する。
そうやって、自分自身に声をかけては、自分で答えていたという。
なんとも変わった僧侶が昔の中国には存在していたようで、そこからこの主人公という禅語は生まれたのだった。
現代で「個性的」というと、人と違っていたり、奇抜であったりといったことを連想するが、個性とは文字通り「個々の性質」のことである。
したがって、読書の好きな人が読書をすることは、じつに個性的な行為となる。
個々の性質に沿っているからである。
つまり、人と違うことが個性なのではなく、自分の心に沿うことが個性というわけだ。
このことはよく勘違いされやすいところなので注意が必要。
同じ行為をする人が何人いても一向にかまわない。
何人いようと、どれだけ似ていようと、人と違っていなくても、人はそれぞれ完全に個性的な存在なのである。
自分が自分として存在している時点ですでに、人は自分という個性をなくすことなど、はじめからできはしない。
・啐啄の機
禅で、弟子が悟りを開くことができる段階に達したその瞬間に、師匠が悟りのきっかけを与えることのたとえ。転じて、ものごとを成し遂げるための、えがたいチャンスのたとえ。
[使用例] 発光のショックにちょっとたじろぎはしたが、光はあるかたちを私にはっきり見せた。啐琢同時であったのだろう[幸田文*こんなこと|1950]
[由来] 「碧巌録―一六」に出て来る話から。九~一〇世紀の僧、鏡きょう清しょう禅師は、常々、「ひな鳥が卵からかえるときには、『啐(ひな鳥が内側から出ようとすること)』と『啄(母鳥が卵を外からつついて殻を割ってやること)』が同時に行われる。それと同じように、禅の師匠も、弟子が悟りを開こうとする瞬間を見抜く力を持っていないといけない」と述べ、その瞬間のことを「啐啄の機」と呼んでいた、ということです。
補記ー2
・【禅語】規矩行い尽くすべからず(きくおこないつくすべからず)
規矩(きく)とは規則のことで、現代でいうマニュアルのこと。
つまり「規矩行い尽くすべからず」とは、すべてをマニュアルで定めてしまってはいけない、あるいは、マニュアルどおりの行動ばかりではいけない、というような意味の禅語となる。
なんだか現代社会にこそ必要な禅語のように感じるが、昔も規則にがんじがらめになるようなことがあったのだろうか。
気になるところだ。
ただし、この禅語はマニュアル「だけ」ではいけないといっているのであって、マニュアル自体がいけないといっているわけではない。
新人が仕事を覚えるのに、マニュアルを覚えるという方法は効率がいい。
マニュアルというのは、いわば定石なのだ。
こうなった場合、こうしたほうがいい。
あの場合は、ああしたほうがいい。
そういったあらゆるパターンのなかで最適なものはどれか、先人が試行錯誤した上で最大公約数的な答えを構築したものがマニュアルなのだと考えれば、やはりマニュアルには大きな意味がある。
マニュアルの心得
大手の飲食店などでバイトをはじめると、今や仕事の内容はほぼマニュアル化されている。
接客の仕方、調理の仕方、あるいは謝罪の仕方やトラブルの処理の仕方にいたるまで、事細かに文字として記されている。
すべてがすでに定められており、それに沿うことがまずは求められる。
そうすることで、安定した結果を残すことができると事前にわかっているからである。
そうしたマニュアルどおりに仕事をすれば、大きなマイナス点を取るということはほぼないだろう。
定石であるから、間違いというものが非常に起こりにくい。
ただ、大きなプラス点を取ることも少なくなってしまうかもしれない。
「規矩行い尽くすべからず」という禅語が危惧しているのは、まさにその点かもしれない。
飲食店の場合、たとえば新規の客にはマニュアルどおりでもあまり問題ないだろうが、常連客にマニュアルどおりでは失礼にあたったりもする。
煙草を吸わないことがわかっているのに、毎回
「お煙草は吸われますか?」
と訊かれては、客も困惑せずにいられない。
「なぜ、訊く? 私のことを覚えていないのか?」
心のなかで、客はそう悲しく呟くに違いない。
マニュアルはあくまでも定石であって、完全ではない。
完全ではないから、現場では絶えずその場に相応しい血の通った対応が求められる。
マニュアルという文字の羅列に終始するのではなく、眼前に広がる現実の世界を感じとって臨機応変に対応していく必要が当然でてくる。
私は在家から出家して僧侶になったが、出家する以前は美容師を目指していた。
実際、美容師免許を取得しており、永平寺での修行を終えてから、すぐに福祉美容師という仕事にも就いている。
老人介護施設や病院等へ訪問し、美容院に行くことのできない方の髪をカットする、福祉を冠した美容師の仕事である。
そういったサービス業では、大筋でマニュアルに沿う必要があるものの、マニュアルを呑み込んだら今度はそのマニュアルを超えていく必要がある。
機械的な接客で満足する相手は機械だけだ。
人は機械ではない。
血の通わない対応ではお客さんも心を許せない。
当たり前のことであるが、そこでは絶えず人と人とのコミュニケーションが交わされ続ける。
何かを規制すれば、問題は起こりにくくなるかもしれないが、発展もまた起こりにくくなる。
この禅語の最後に「尽くすべからず」とあるように、やはりマニュアルに終始するような一辺倒ではいけないということなのだろう。
マニュアルを消化し、マニュアルを超えていくために、マニュアルは存在していると理解しておいたほうがいいかもしれない。
いずれにしても、21世紀の現代社会を見越したかのような、示唆に富んだ禅語である。