Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
輪島珠洲穴水七尾などは地震による大きな被害を受け、のと鉄道も危機的状況だけど、能登路最盛期のような賑わいを再び取り戻して欲しい。
言うまでもなく現在大変な地域ですが、復興を切に願います!
地元民としてはこのように紹介されることに感謝します。ありがとうございます。能登はやさしや土までも...復興したらみなさん能登に来てください。
ある程度落ち着いてきたら能登半島に観光に行って応援するのがいいかもしれませんね
急行能登路は電化後しばらく走った415系使用の遜色急行を思いだす。周遊券を持っていたから乗ったが、もちろんガラガラでした。
金沢駅では車内放送で急行と知った乗客が次々と降りたとか。急行「つやま」と並ぶ遜色急行ですね。
113系初期車をムリヤリ415系に改造した急行ですね😅
ロマンスカーが廃止してからしばらくの間、普通列車や急行列車の普通車自由席として運行された。それに乗車したことがある。
七尾線にこういう少しながら「栄華」があるとは知りませんでした。絨毯敷いてあるというのも当時は贅沢だったのかもしれませんね
七尾線・能登線はかつて盛況の路線だったんですよ。能登路、ゆのくに、のりくら、ゆのはななど優等列車も多数ありました。金沢駅も七尾線・能登線用ホームは0番ホームが2つもあり、0A、0Bとなっていました。
七尾線は急行能登路以外にも、昭和40年代後半の急行ふるさと列車おくのと号・平成初期の急行SLときめき号のSLを使用した臨時列車や七尾線の電化完成を記念した寝台特急夢空間わくら号が運行されるなど豪華列車が定期的に運行されていましたね。
旧能登線は黒字でしたが、七尾線の七尾輪島を引き継いだときに、JR西日本から高額の線路使用料を取られた為大幅赤字で廃止になりました。この高額の線路使用料が、先日の地震でJR西日本が復旧費用負担になりましたがね。
1970年代には編成も行き先もバラバラながら10往復前後は運転されていた民営化を控えた時期には脱線事故起こしていたね
9.5往復とは、「L急行」と言われてもおかしくない本数ではないでしょうか?
@@Yoshin-Sashizume一時間に一本ではなかったので、流石に言えなかったんじゃなかったんですかね?
昔まだ学生の頃北陸へ旅行したとき、急行能登路のロマンスカー乗りました。たしか新幹線0系からの転換シートを装備したキハ28型だったと思います。
急行能登路は20数年前の晩年に和倉温泉の帰りに金沢まで乗ったことがあり懐かしいです。のと鉄道の縮小に同調するようにそして特急サンダーバードなどの和倉温泉乗り入れ拡大により急行能登路も縮小そして廃止となった感じです。そんな能登路が特急並みの設備のロマンスカーを連結していた頃が最も繁栄していたようですね。
かつては、名古屋から高山本線の急行「のりくら」が富山、金沢を経て能登半島方面に直通していた。また大阪からは急行「ゆのくに」が2往復中1往復がディーゼルカーで輪島、珠洲へ直通していた。それだけ列車でも需要があった。自分が亡き両親と旅行に行ったのは昭和48年頃だと記憶している。輪島と九十九湾で宿泊した。後で知った事、途中羽咋から分岐していた能登金剛の手前三明までの北陸鉄道能登線が廃線になったのはその2年前。能登半島の住民の皆様、心より御見舞い申し上げます。
1日も早い復興願うばかり。
残念ながら私の中では能登路はロマンスカーよりも遜色急行のイメージが強いです。七尾線電化直前、七尾での運転免許取得合宿からの帰りに能登路に乗ったらロングシートの部分がありましたし、電化後に能登半島へ旅行した時には近郊用車両が充てられていました。
てっきりロマンスカーの名称に関して小田急からのクレームがあったかと思った。
東武鉄道にあっては1720系はDRC(デラックス『ロマンスカー』)でしたが…
まだ小田急がロマンスカーを商標登録する前でしたので乱立は仕方なかったのでしょう。東武が新しい特急の名称をスペーシアとしたこともあり、その後小田急が商標登録しています。
@@TSUYOS185 さま。あー、今思い出しました…「スペーシア」と云うと、某自動車メーカーに同名の車種があったと思いますが、その点は如何なんで御座いましょうか?
私の手元に残っている、最も古い時刻表は、小型の1984年春のダイヤ改正号。能登線のページを見ると、急行「能登路」が最も輝いていた頃かもしれない。今となっては何の目的だったか忘れてしまったが、2~3本の「能登路」号に赤鉛筆で主筆が入ってる。輪島の朝市にでも行くつもりだったのかなw ロマンスカーが廃止された直後のようだけど、いま振り返ると、これだけのローカル度の割に本数が多い、豪華な路線だなぁと思ってしまう。懐かしいな。ただ、そのヒントは西村京太郎の作品にあった。三セク後、急行「のと恋路号」として引き継がれたが、輪島という観光地にゆくだけでなく、恋路海岸という車窓も売りだったんだね。ローカル度の割に優等列車が比較的最近まで多かったのは、ソコソコの観光資源があり、かつ自動車道の建設が遅かったからだと知ったよ。早く地震の被害から復興できますように…。
1978年3月のゴーサントオ改正前の時点では、他の急行列車の運転日に乗り得列車が誕生したり、増解結が無いきれいな列車は一本もないなどカオスだったらしいですね。越後けいさんの動画を見るともっと詳しくしれます
私が乗車した時、特別車両はほとんど空席がなく乗車率は高かった、と記憶してますカラオケが車内に流れ、大スクリーンには映像が流れてました現在のカラオケボックスで流れるような、けっこう作りこんだ映像でしたカラオケは5曲ほど流れましたが、ほとんどの曲を私は知らなかったので、それらが能登半島由来の曲なのか分かりません車窓の眺めも良く「このカラオケいらなくね?」な空気もあったと思いますが、当時ヒット曲だった『青春時代』(森田公一とトップギャラン)が流れ、「卒業までの半年で~」の冒頭だけですが歌って空気を打破した勇者(乗客)がいましたwww2年の短命だったと、この動画で初めて知りました乗車できたのはラッキーです
リクエストに応えてくださりありがとうございます。 印象的なヘッドマークの見附島も震災で一部崩壊したのは残念です。今回ばかりはエンディングの音楽がせつなく感じました。
車内にスクリーンがあって能登関連の観光ビデオとか見れたんじゃなかったかな? キハの窓割り当てとシートピッチが合ってなかった感じで、のちの改造ジョイフルトレインのはしりのような車両だった。
エンディングのコメントに感銘を受けました😀
父親と能登路に乗って輪島まで行ったのが良い思い出。
ロマンスカーに改造されたキハ28-2049は、1987年キロ29-552として多目的気動車に再改造された。1997年に老朽廃車となり代替として、キロ28-2511をゴールデンエクスプレスアストルの中間車に改造したキロ29-554が落成。
ロマンスカーのキハ28、後にゴールデンエクスプレス・アストルの中間車に改造されました
コッペパンさまの最後の説明にもありましたが、能登地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。30年以上前に車で甲(かぶと)駅前の民宿に宿泊し、その翌日に輪島の朝市、千枚田、そして能登半島を一周しました(鉄道でないので申し訳ありません。)その時甲駅に郵便車が保存されていたこと、活気ある朝市を楽しんだことを思い出しました。急行の能登路号は奥に行くにつれ各駅停車や快速になるなど多様な運行で地元の方々を運ぶ列車となっていたこと、さらには観光客輸送のために快適な車両を用意するなど手探りながらも集客に努めていたことが良くわかる動画でした。その能登線も乗りたかったですね。復興したおりにはかつての能登路号に想いを寄せつつ、里山や海に近いところを走るのと鉄道を訪ねたいと考えるとても大切な動画でした。本当にありがとうございます。
ロマンスカーが出たころは七尾線・能登線に陰りが見え始めたときですよ。
良い動画をありがとうございます!最近のRUclipsは適当な内容の動画が増えている中、しっかりと調べてあるこのチャンネルの動画は頼もしいです。私の親戚も輪島で悪戦苦闘しながらどうにか家族みんな無事で必死に生きています。このような寄り添いのある、能登の華やかな頃を思い出させてもらえる動画は現地のみなさんの支えになると思います。感謝します。
急行列車にロマンスシート💺を設置してサービスアップ🎉[能登路],[たかやま],[天竜]他。
JRになってからは陸中もそうでしたね。今は快速のはまゆり号。車両はデッキはありませんが、リクライニングシートの乗り得列車。
九州の急行もJR化後にリクライニングシートに取り替えられましたが、それ以前に筑豊方面行きの急行にはキハ66形気動車が充てられていました。このキハ66は両開き扉が2ヶ所でデッキはなく戸袋窓の部分にロングシートの区画がありましたが、それ以外は当時の急行としては珍しく転換クロスシートが装備されていました。一般型気動車に分類されていたようですが、当時は遜色か乗り得か意見が分かれる急行ではなかったかと思います。快速ではキハ58とキハ65の「みえ」もリクライニングシートに取り替えられたはずです。
映画館のロマンスシート
8:17 敦賀開業時に観光客増加…はなかったでしょうねただでさえ「中京&関西からは乗換えの手間が増加」でハンデがあったのに、今回の大地震…大変な日々ですが、復興をお祈りしています(募金帰り)
奥能登へ行くなら寝台特急「北陸」と急行「能登路」に乗って輪島へ、朝市を見物した後は輪島から金沢と京都へ行く。
越後けいさんなどほかの方が仰っているように、この列車のみならず七尾線の優等列車は運行形態や車両運用がカオスなものが多いです。
またいつかお邪魔します。
ロマンスカーは、末期の頃に普通列車にも連結されてたね。
ロマンスカーと言うと個人的には国鉄のロマンスカーではなくて同じ路線を走ったもう1つのロマンスカーこと「のと鉄道 NT800型(のと恋路号)」を思い出します。特にロマンスカーと公称されていた訳ではありませんが、沿線自治体にお住まいの方や歌手の村下孝蔵さん(故人)のファンの方からはNT800型がロマンスカーと言う異称で呼ばれていたのを良く覚えていたりします。その頃ののと鉄道は先に穴水より先に廃止された旧国鉄七尾線の輪島と穴水から蛸島まで結ばれて居た頃で村下孝蔵さんの「恋路海岸」の様な幻想的な雰囲気がとても美しく、そう言ったシルエットに国鉄時代のロマンスカーを重ねていたのかなと言うのはあったりします。その後国鉄七尾線ことのと鉄道輪島線が廃止され、能登線の穴水から蛸島間が廃止された短くなったのと鉄道の穴水駅の0番線にロマンスカーことNT800型は入線しており、在りし日の姿を伝えてくれていたりはしますよね。また能登半島が復興したら大学時代の青春を謳歌した能登路をゆっくりと旅してみたいと言うのは感じたりします。
小田急以外のロマンスカーといえば、まずは名鉄を思い浮かべます。車両区分の「SR車」のRがロマンスカーらしいですので。
越後けいで急行能登路は予習してきたものの、予想を遥かに超えてきたwww
奥能登へ行くなら寝台特急「北陸」上野 22時44分金沢 6時33分急行「能登時1号」金沢 8時02分輪島 10時16分
2007年以降の能登半島群発地震を控えてのと鉄道の輪島方面と珠洲方面の廃線は英断だったと思います。もし現在まで残っていたら度重なる地震からの復旧でのと鉄道の経営が圧迫していたかもしれません。そして新年早々の能登半島地震。奥能登は完全に人を招かざる街になってしまいました。残った七尾〜穴水間も被災していますが、北陸新幹線金沢〜敦賀間開業に合わせて復旧を願っています。
もっと乗っておけば良かった
現在大変な状況となってますが、能登地域ならびにのと鉄道全線の1日も早い復興をお祈り申し上げます。急行「能登路」は故・小山田いく先生の漫画「きまぐれ乗車券」にも登場しています。九城興生「能登線が赤字のためもしかしたらいつかなくなるかもしれないこと・・・」のと鉄道「待っ・・・!むぁてこの野郎っ!!勝手なモノローグ付けて抹〇するなぁっ!!!」
奥能登は日本から切り離して 共和国領にすべき共和国領になれば手厚い保護が受けられ住民はまさしく地上の楽園を享受できる
ボクも忘れないでよぉ〜😓東武DRCPS:羽咋の博物館はどうなったのか❓🤔 >心配だ。
1コメ0:53これは、形式1
動画のどこにも「奥能登」という愛称の列車は登場しないのだが(サムネは能登路だけどタイトルは奥能登・・・)
もうヘロヘロのローカル鉄道は止めて新幹線並みに高規格化しないとダメだな
もう能登半島、特に奥能登は一般居住禁止にして国防関係のみの居住地域とするなどコンパクト国土を目指すべきでは。見附島も単なるモヒカン島になったわけですし、観光要素ももう無いでしょう。地域が保守王国ですから国策だと言えば全員離村してくれると思いますよ。
輪島珠洲穴水七尾などは地震による大きな被害を受け、のと鉄道も危機的状況だけど、能登路最盛期のような賑わいを再び取り戻して欲しい。
言うまでもなく現在大変な地域ですが、復興を切に願います!
地元民としてはこのように紹介されることに感謝します。
ありがとうございます。
能登はやさしや土までも...
復興したらみなさん能登に来てください。
ある程度落ち着いてきたら能登半島に観光に行って応援するのがいいかもしれませんね
急行能登路は電化後しばらく走った415系使用の遜色急行を思いだす。
周遊券を持っていたから乗ったが、もちろんガラガラでした。
金沢駅では車内放送で急行と知った乗客が次々と降りたとか。
急行「つやま」と並ぶ遜色急行ですね。
113系初期車をムリヤリ415系に改造した急行ですね😅
ロマンスカーが廃止してからしばらくの間、普通列車や急行列車の普通車自由席として運行された。それに乗車したことがある。
七尾線にこういう少しながら「栄華」があるとは知りませんでした。絨毯敷いてあるというのも当時は贅沢だったのかもしれませんね
七尾線・能登線はかつて盛況の路線だったんですよ。能登路、ゆのくに、のりくら、ゆのはななど優等列車も多数ありました。金沢駅も七尾線・能登線用ホームは0番ホームが2つもあり、0A、0Bとなっていました。
七尾線は急行能登路以外にも、昭和40年代後半の急行ふるさと列車おくのと号・平成初期の急行SLときめき号のSLを使用した臨時列車や七尾線の電化完成を記念した寝台特急夢空間わくら号が運行されるなど豪華列車が定期的に運行されていましたね。
旧能登線は黒字でしたが、七尾線の七尾輪島を引き継いだときに、JR西日本から高額の線路使用料を取られた為大幅赤字で廃止になりました。
この高額の線路使用料が、先日の地震でJR西日本が復旧費用負担になりましたがね。
1970年代には編成も行き先もバラバラながら10往復前後は運転されていた
民営化を控えた時期には脱線事故起こしていたね
9.5往復とは、「L急行」と言われてもおかしくない本数ではないでしょうか?
@@Yoshin-Sashizume一時間に一本ではなかったので、流石に言えなかったんじゃなかったんですかね?
昔まだ学生の頃北陸へ旅行したとき、急行能登路のロマンスカー乗りました。たしか新幹線0系からの転換シートを装備したキハ28型だったと思います。
急行能登路は20数年前の晩年に和倉温泉の帰りに金沢まで乗ったことがあり懐かしいです。のと鉄道の縮小に同調するようにそして特急サンダーバードなどの和倉温泉乗り入れ拡大により急行能登路も縮小そして廃止となった感じです。そんな能登路が特急並みの設備のロマンスカーを連結していた頃が最も繁栄していたようですね。
かつては、名古屋から高山本線の急行「のりくら」が富山、金沢を経て能登半島方面に直通していた。また大阪からは急行「ゆのくに」が2往復中1往復がディーゼルカーで輪島、珠洲へ直通していた。それだけ列車でも需要があった。自分が亡き両親と旅行に行ったのは昭和48年頃だと記憶している。輪島と九十九湾で宿泊した。後で知った事、途中羽咋から分岐していた能登金剛の手前三明までの北陸鉄道能登線が廃線になったのはその2年前。能登半島の住民の皆様、心より御見舞い申し上げます。
1日も早い復興願うばかり。
残念ながら私の中では能登路はロマンスカーよりも遜色急行のイメージが強いです。
七尾線電化直前、七尾での運転免許取得合宿からの帰りに能登路に乗ったらロングシートの部分がありましたし、電化後に能登半島へ旅行した時には近郊用車両が充てられていました。
てっきりロマンスカーの名称に関して小田急からのクレームがあったかと思った。
東武鉄道にあっては1720系はDRC(デラックス『ロマンスカー』)でしたが…
まだ小田急がロマンスカーを商標登録する前でしたので乱立は仕方なかったのでしょう。
東武が新しい特急の名称をスペーシアとしたこともあり、その後小田急が商標登録しています。
@@TSUYOS185 さま。
あー、今思い出しました…
「スペーシア」と云うと、某自動車メーカーに同名の車種があったと思いますが、その点は如何なんで御座いましょうか?
私の手元に残っている、最も古い時刻表は、小型の1984年春のダイヤ改正号。能登線のページを見ると、急行「能登路」が最も輝いていた頃かもしれない。
今となっては何の目的だったか忘れてしまったが、2~3本の「能登路」号に赤鉛筆で主筆が入ってる。輪島の朝市にでも行くつもりだったのかなw ロマンスカーが廃止された直後のようだけど、いま振り返ると、これだけのローカル度の割に本数が多い、豪華な路線だなぁと思ってしまう。懐かしいな。
ただ、そのヒントは西村京太郎の作品にあった。三セク後、急行「のと恋路号」として引き継がれたが、輪島という観光地にゆくだけでなく、恋路海岸という車窓も売りだったんだね。ローカル度の割に優等列車が比較的最近まで多かったのは、ソコソコの観光資源があり、かつ自動車道の建設が遅かったからだと知ったよ。
早く地震の被害から復興できますように…。
1978年3月のゴーサントオ改正前の時点では、他の急行列車の運転日に乗り得列車が誕生したり、増解結が無いきれいな列車は一本もないなどカオスだったらしいですね。越後けいさんの動画を見るともっと詳しくしれます
私が乗車した時、特別車両はほとんど空席がなく乗車率は高かった、と記憶してます
カラオケが車内に流れ、大スクリーンには映像が流れてました
現在のカラオケボックスで流れるような、けっこう作りこんだ映像でした
カラオケは5曲ほど流れましたが、ほとんどの曲を私は知らなかったので、それらが能登半島由来の曲なのか分かりません
車窓の眺めも良く「このカラオケいらなくね?」な空気もあったと思いますが、当時ヒット曲だった『青春時代』(森田公一とトップギャラン)が流れ、「卒業までの半年で~」の冒頭だけですが歌って空気を打破した勇者(乗客)がいましたwww
2年の短命だったと、この動画で初めて知りました
乗車できたのはラッキーです
リクエストに応えてくださりありがとうございます。 印象的なヘッドマークの見附島も震災で一部崩壊したのは残念です。
今回ばかりはエンディングの音楽がせつなく感じました。
車内にスクリーンがあって能登関連の観光ビデオとか見れたんじゃなかったかな? キハの窓割り当てとシートピッチが合ってなかった感じで、のちの改造ジョイフルトレインのはしりのような車両だった。
エンディングのコメントに感銘を受けました😀
父親と能登路に乗って輪島まで行ったのが良い思い出。
ロマンスカーに改造されたキハ28-2049は、1987年キロ29-552として多目的気動車に再改造された。
1997年に老朽廃車となり代替として、キロ28-2511をゴールデンエクスプレスアストルの中間車に改造したキロ29-554が落成。
ロマンスカーのキハ28、後にゴールデンエクスプレス・アストルの中間車に改造されました
コッペパンさまの最後の説明にもありましたが、能登地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。
30年以上前に車で甲(かぶと)駅前の民宿に宿泊し、その翌日に輪島の朝市、千枚田、そして能登半島を一周しました(鉄道でないので申し訳ありません。)
その時甲駅に郵便車が保存されていたこと、活気ある朝市を楽しんだことを思い出しました。
急行の能登路号は奥に行くにつれ各駅停車や快速になるなど多様な運行で地元の方々を運ぶ列車となっていたこと、さらには観光客輸送のために快適な車両を用意するなど手探りながらも集客に努めていたことが良くわかる動画でした。その能登線も乗りたかったですね。
復興したおりにはかつての能登路号に想いを寄せつつ、里山や海に近いところを走るのと鉄道を訪ねたいと考えるとても大切な動画でした。本当にありがとうございます。
ロマンスカーが出たころは七尾線・能登線に陰りが見え始めたときですよ。
良い動画をありがとうございます!
最近のRUclipsは適当な内容の動画が増えている中、しっかりと調べてあるこのチャンネルの動画は頼もしいです。
私の親戚も輪島で悪戦苦闘しながら
どうにか家族みんな無事で必死に生きています。このような寄り添いのある、能登の華やかな頃を思い出させてもらえる動画は現地のみなさんの支えになると思います。
感謝します。
急行列車にロマンスシート💺を設置してサービスアップ🎉
[能登路],[たかやま],[天竜]他。
JRになってからは陸中もそうでしたね。今は快速のはまゆり号。車両はデッキはありませんが、リクライニングシートの乗り得列車。
九州の急行もJR化後にリクライニングシートに取り替えられましたが、それ以前に筑豊方面行きの急行にはキハ66形気動車が充てられていました。
このキハ66は両開き扉が2ヶ所でデッキはなく戸袋窓の部分にロングシートの区画がありましたが、それ以外は当時の急行としては珍しく転換クロスシートが装備されていました。
一般型気動車に分類されていたようですが、当時は遜色か乗り得か意見が分かれる急行ではなかったかと思います。
快速ではキハ58とキハ65の「みえ」もリクライニングシートに取り替えられたはずです。
映画館のロマンスシート
8:17 敦賀開業時に観光客増加…はなかったでしょうね
ただでさえ「中京&関西からは乗換えの手間が増加」でハンデがあったのに、今回の大地震…大変な日々ですが、復興をお祈りしています(募金帰り)
奥能登へ行くなら寝台特急「北陸」と急行「能登路」に乗って輪島へ、朝市を見物した後は輪島から金沢と京都へ行く。
越後けいさんなどほかの方が仰っているように、この列車のみならず七尾線の優等列車は運行形態や車両運用がカオスなものが多いです。
またいつかお邪魔します。
ロマンスカーは、末期の頃に普通列車にも連結されてたね。
ロマンスカーと言うと個人的には国鉄のロマンスカーではなくて同じ路線を走ったもう1つのロマンスカーこと「のと鉄道 NT800型(のと恋路号)」を思い出します。
特にロマンスカーと公称されていた訳ではありませんが、沿線自治体にお住まいの方や歌手の村下孝蔵さん(故人)のファンの方からはNT800型がロマンスカーと言う異称で呼ばれていたのを良く覚えていたりします。
その頃ののと鉄道は先に穴水より先に廃止された旧国鉄七尾線の輪島と穴水から蛸島まで結ばれて居た頃で村下孝蔵さんの「恋路海岸」の様な幻想的な雰囲気がとても美しく、そう言ったシルエットに国鉄時代のロマンスカーを重ねていたのかなと言うのはあったりします。
その後国鉄七尾線ことのと鉄道輪島線が廃止され、能登線の穴水から蛸島間が廃止された短くなったのと鉄道の穴水駅の0番線にロマンスカーことNT800型は入線しており、在りし日の姿を伝えてくれていたりはしますよね。
また能登半島が復興したら大学時代の青春を謳歌した能登路をゆっくりと旅してみたいと言うのは感じたりします。
小田急以外のロマンスカーといえば、まずは名鉄を思い浮かべます。
車両区分の「SR車」のRがロマンスカーらしいですので。
越後けいで急行能登路は予習してきたものの、予想を遥かに超えてきたwww
奥能登へ行くなら
寝台特急「北陸」
上野 22時44分
金沢 6時33分
急行「能登時1号」
金沢 8時02分
輪島 10時16分
2007年以降の能登半島群発地震を控えてのと鉄道の輪島方面と珠洲方面の廃線は英断だったと思います。もし現在まで残っていたら度重なる地震からの復旧でのと鉄道の経営が圧迫していたかもしれません。そして新年早々の能登半島地震。奥能登は完全に人を招かざる街になってしまいました。残った七尾〜穴水間も被災していますが、北陸新幹線金沢〜敦賀間開業に合わせて復旧を願っています。
もっと乗っておけば良かった
現在大変な状況となってますが、能登地域ならびにのと鉄道全線の1日も早い復興をお祈り申し上げます。
急行「能登路」は故・小山田いく先生の漫画「きまぐれ乗車券」にも登場しています。
九城興生「能登線が赤字のためもしかしたらいつかなくなるかもしれないこと・・・」
のと鉄道「待っ・・・!むぁてこの野郎っ!!勝手なモノローグ付けて抹〇するなぁっ!!!」
奥能登は日本から切り離して 共和国領にすべき
共和国領になれば手厚い保護が受けられ住民はまさしく地上の楽園を享受できる
ボクも忘れないでよぉ〜😓
東武DRC
PS:羽咋の博物館はどうなったのか❓🤔 >心配だ。
1コメ
0:53
これは、形式1
動画のどこにも「奥能登」という愛称の列車は登場しないのだが
(サムネは能登路だけどタイトルは奥能登・・・)
もうヘロヘロのローカル鉄道は止めて
新幹線並みに高規格化しないとダメだな
もう能登半島、特に奥能登は一般居住禁止にして国防関係のみの居住地域とするなどコンパクト国土を目指すべきでは。見附島も単なるモヒカン島になったわけですし、観光要素ももう無いでしょう。地域が保守王国ですから国策だと言えば全員離村してくれると思いますよ。