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すごいね。
ありがとうございます(^^)
1947年つーことは、川端康成の「伊豆の踊子」は伊豆のストリッパーというわけではないつーことか。小説の元になった実体験は、戦前なので。
コメントをありがとうございます。伊豆の踊り子は、温泉地を旅する旅芸人なので、まあつまり芸者でしょう、ただ、昭和11年には、後に日本ストリップの産みの親となる東宝の秦豊吉の元で日劇ダンシングチームが生まれているので、レビュー文化そのものはすでにあり、昭和22年(1947年 )に、新宿の帝都座で、はじめて舞台上で胸をはだけた甲斐美春は日劇ダンシングチームのメンバーだったので、日本ストリップの種はすでに戦前に蒔かれていたことになります。
@@jirohkaiohmata5801 様、御教示ありがとうございます。秦豊吉、wikiで経歴読みましたが面白いですね。ベルリンで劇場通いをしていた、とありますが、明らかにストリップ・ショーにも行ってたでしょう。「モスラ」の舞踏はタカラヅカではダメですし、黒澤が「生きる」で撮ったストリップ・シーンも当時の世相が活写されてますね。
すごいね。
ありがとうございます(^^)
1947年つーことは、川端康成の「伊豆の踊子」は伊豆のストリッパーというわけではないつーことか。小説の元になった実体験は、戦前なので。
コメントをありがとうございます。
伊豆の踊り子は、温泉地を旅する旅芸人なので、まあつまり芸者でしょう、ただ、昭和11年には、後に日本ストリップの産みの親となる東宝の秦豊吉の元で日劇ダンシングチームが生まれているので、レビュー文化そのものはすでにあり、昭和22年(1947年 )に、新宿の帝都座で、はじめて舞台上で胸をはだけた甲斐美春は日劇ダンシングチームのメンバーだったので、日本ストリップの種はすでに戦前に蒔かれていたことになります。
@@jirohkaiohmata5801 様、御教示ありがとうございます。秦豊吉、wikiで経歴読みましたが面白いですね。ベルリンで劇場通いをしていた、とありますが、明らかにストリップ・ショーにも行ってたでしょう。「モスラ」の舞踏はタカラヅカではダメですし、黒澤が「生きる」で撮ったストリップ・シーンも当時の世相が活写されてますね。