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時代が近いから政元さんとしかかくさんの動画反復横飛びするとそれぞれの動画の裏側知れるの最高
情報量がかなり多く、地道な作業がお続きのこととは思いますが是非頑張ってください!
最後の絵が素晴らしい出来ですね。手が込んでるし色使いも春を感じさせる華やかな印象。界隈の知識が全然無い自分が見ても楽しい作品だな。
安芸武田氏は、毛利家が拡大される過程であっさりと潰された弱小旧勢力だと思ってましたが、意外としぶとかったんですね。
大内氏が大忙しだった時期だね。対少弐氏は少弐資元に腹を切らせて勝利する大内義隆だけど、東がここまでお留守だったとは。毛利元就がいなかったらどんな状況だったのだろうか😱
芸能人だった宍戸留美って宍戸隆家の子孫だった気がする
現安芸高田市議の宍戸さんはどうなんだろう。
うぽつです。宍戸家の中央との縁とか、おっきーコーナーでの当時の勢力主の権限範囲とか、ある程度は独立した家臣の一人でありながらトップダウン方式にさせたい主君へ自発的に協力してくれる重臣の貴重性とか凄く解り易かったです。以前までの大内義興とかの解説の時には射命丸文が其の役をやってた細川政元の修験道の師匠だという人のシルエットが完全に、あの子なのも細かくて良かったです (^ ^
熊谷信直は元就の孫:輝元まで仕え、秀吉による備中高松城の戦いの時は偵察に赴き「水かさは前日より下がったように見える」という内容の報告書が残っていますね。
元気にご活躍されていると思いますが是非いつかライブでアメリカの研究現場についても語って下さい。毛利元就の性格についても考えさせられるシリーズになって来ましたね。ある種の人格者だった可能性もある事に初めて気づいて少し考えこんでしまいました。素晴らしい父親だったのは知られていますが、家臣や同盟相手にとってはどうだったのか?じっくりと続きを待ちます。
日本の午後9時がアメリカだと朝4時なので、できないこともないのですが・・・ちょっと考えてみます
うぽつです。先日、菊池市が実施したオンラインセミナーで菊池義武・則直親子について触れていました。反大友包囲網のために、大内輝弘の乱頃まで毛利家と連絡を取り合っていたそうです。まさか動画で菊池義武の名前が出るとは思いませんでした。九州編楽しみです。
武田や熊谷はそもそも見下していた毛利元就を見直したんやろうな、更に手を差し伸べてくるから、安心さえあると思う😊まあ勝手な話しだからむしろ恥ずかしくさえ思ってそう
シカカクさんに質問します。良ければお答えいただければ嬉しいです。自分は、宍戸元家は安芸宍戸家の分家の一門家老だったものが本家を乗っ取ったと考えてましたが、シカカクさんはこの動画内で宍戸元家は京都から来たと仰いました。そして、元々の安芸宍戸家は滅んでると...たしかに、一門家老なら先代達の墓石を破壊する必要はありませんもんね。しかし、そうなると宍戸元家に従う家臣団はどこから...?という疑問が湧きました。つまり、宍戸元家は、京都諏訪家や京都小笠原家のような、常陸?か安芸の宍戸家の分家が京都で暮らして活動していた、言うなら「京都宍戸家」の出身だと考えてると言う事でしょうか?
ご質問ありがとうございます。この話は安芸高田歴史民族博物館図録「安芸宍戸氏」内の吉野健志「室町期安芸宍戸氏の動向」という特論に詳しいです。結論だけ述べますと、宍戸家は金明山・生城山天野氏のように安芸守系・駿河守系の二系統が存在しており、元々本拠五竜城にいた総領家が駿河守系(「朝」が通字)、管領細川持之の代に京兆家被官となったのが安芸守系(「家」が通字)となります。安芸守系宍戸家は安芸高田の高田原(総領家の本領甲立の対岸)を厳島神主家から横領していることから、所領自体は安芸国、総領家(駿河守)のすぐ近くにあったものと思われます。その後、細川京兆家被官三村家らによって駿河守系の宍戸筑後守・宮内少輔が滅ぼされ、「度々の申請」が認められ安芸守系の宍戸左衛門尉=宍戸元家が総領家の跡地が安堵されますので、感覚的には分家が本家を将軍権力を利用して乗っ取ったに近いかと思われます。元家の父と思われる宍戸安芸守は細川勝元の被官であることが書状で明らかですし、元家ー元源ー元家の三代の「元」は細川京兆家からの偏諱、宍戸家俊(司箭院興仙)やその子息源次郎、宍戸甲斐守のように完全に細川京兆家被官として京都で活動している安芸守系宍戸家の人間もいるため、元家もかなり京都寄りで活動していたと思われます。ただ実際には元家自身は元々安芸に定住していた可能性も十二分にあるため、「京都から来た」は断定しすぎたかもしれません。家臣団については元々の安芸の所領や京都にて持っていたもの+駿河守系から引き継いだものが混在していると考えるのが普通だと思いますがはっきりしません。ただ少なくとも「宍戸元家御座備図」により元家期の家臣団は(完全には信用できないですが)わかっています。より詳しい解答はここでは複雑なため、「摩多羅onデマンド」の質問フォーラムにご投函をお願いいたします。
詳しく教えてくださり、ありがとうございます。
こんばんは
情報量は素晴らしい。が、尼子氏に対する偏った見方と悪意が酷いw
あんたのコメント、どの動画でも評価順だと一番下なのなwあんたに対してみんなちゃんと客観性と中立性のある評価してるねw
@@tailsub3068 ありがとうございます。私のコメントは反論が多いので想定内です。評価されてる方のコメントはどれも下らない内容の物が多い気がします。なので評価など全く気にしていません。わたしに何か反論があるなら遠慮なく仰って下さい。
@@惟任日向-r5d 批判だ反論だなんてのは、一定の知識と知性がないと出来ないのがまだわかりません?別ショート動画では投稿主から貴方の根拠の根拠や資料を出せと言われて何も返せてないじゃないですか?私からの貴方の批判や反論を迎えようとする前に、まずは投稿主への最低限の対応してきて下さいよ。そういう事が出来てないから、低評価なんですよ、貴方はwくだらないですね、貴方はw
尼子経久解説もあるので視聴されるのが宜しいかと
@@惟任日向-r5d さっきの投稿主へのあんたのコメントすごいな?投稿主に論文書いてるのか?って、司馬遼太郎の話で論文書いてなくても研究者だって言えるって別動画でコメントしてたのあんたじゃん?何を自分の発言への批判をそのまま他者に流用してるんだ?恥の上塗りが趣味なの?
時代が近いから政元さんとしかかくさんの動画反復横飛びするとそれぞれの動画の裏側知れるの最高
情報量がかなり多く、地道な作業がお続きのこととは思いますが是非頑張ってください!
最後の絵が素晴らしい出来ですね。
手が込んでるし色使いも春を感じさせる
華やかな印象。界隈の知識が全然無い自分が見ても楽しい作品だな。
安芸武田氏は、毛利家が拡大される過程であっさりと潰された弱小旧勢力だと思ってましたが、意外としぶとかったんですね。
大内氏が大忙しだった時期だね。対少弐氏は少弐資元に腹を切らせて勝利する大内義隆だけど、東がここまでお留守だったとは。毛利元就がいなかったらどんな状況だったのだろうか😱
芸能人だった宍戸留美って宍戸隆家の子孫だった気がする
現安芸高田市議の宍戸さんはどうなんだろう。
うぽつです。宍戸家の中央との縁とか、
おっきーコーナーでの当時の勢力主の権限範囲とか、ある程度は独立した家臣の一人でありながらトップダウン方式にさせたい主君へ自発的に協力してくれる重臣の貴重性とか凄く解り易かったです。
以前までの大内義興とかの解説の時には射命丸文が其の役をやってた細川政元の修験道の師匠だという人のシルエットが完全に、あの子なのも細かくて良かったです (^ ^
熊谷信直は元就の孫:輝元まで仕え、秀吉による備中高松城の戦いの時は偵察に赴き「水かさは前日より下がったように見える」という内容の報告書が残っていますね。
元気にご活躍されていると思いますが
是非いつかライブでアメリカの研究現場に
ついても語って下さい。
毛利元就の性格についても考えさせられる
シリーズになって来ましたね。ある種の人格者だった可能性もある事に初めて気づいて少し考えこんでしまいました。素晴らしい父親だったのは知られていますが、家臣や同盟相手にとってはどうだったのか?
じっくりと続きを待ちます。
日本の午後9時がアメリカだと朝4時なので、できないこともないのですが・・・ちょっと考えてみます
うぽつです。
先日、菊池市が実施したオンラインセミナーで菊池義武・則直親子について触れていました。反大友包囲網のために、大内輝弘の乱頃まで毛利家と連絡を取り合っていたそうです。
まさか動画で菊池義武の名前が出るとは思いませんでした。九州編楽しみです。
武田や熊谷はそもそも見下していた毛利元就を見直したんやろうな、更に手を差し伸べてくるから、安心さえあると思う😊まあ勝手な話しだからむしろ恥ずかしくさえ思ってそう
シカカクさんに質問します。良ければお答えいただければ嬉しいです。
自分は、宍戸元家は安芸宍戸家の分家の一門家老だったものが本家を乗っ取ったと考えてましたが、シカカクさんはこの動画内で宍戸元家は京都から来たと仰いました。そして、元々の安芸宍戸家は滅んでると...たしかに、一門家老なら先代達の墓石を破壊する必要はありませんもんね。しかし、そうなると宍戸元家に従う家臣団はどこから...?という疑問が湧きました。
つまり、宍戸元家は、京都諏訪家や京都小笠原家のような、常陸?か安芸の宍戸家の分家が京都で暮らして活動していた、言うなら「京都宍戸家」の出身だと考えてると言う事でしょうか?
ご質問ありがとうございます。この話は安芸高田歴史民族博物館図録「安芸宍戸氏」内の吉野健志「室町期安芸宍戸氏の動向」という特論に詳しいです。
結論だけ述べますと、宍戸家は金明山・生城山天野氏のように安芸守系・駿河守系の二系統が存在しており、元々本拠五竜城にいた総領家が駿河守系(「朝」が通字)、管領細川持之の代に京兆家被官となったのが安芸守系(「家」が通字)となります。安芸守系宍戸家は安芸高田の高田原(総領家の本領甲立の対岸)を厳島神主家から横領していることから、所領自体は安芸国、総領家(駿河守)のすぐ近くにあったものと思われます。
その後、細川京兆家被官三村家らによって駿河守系の宍戸筑後守・宮内少輔が滅ぼされ、「度々の申請」が認められ安芸守系の宍戸左衛門尉=宍戸元家が総領家の跡地が安堵されますので、感覚的には分家が本家を将軍権力を利用して乗っ取ったに近いかと思われます。
元家の父と思われる宍戸安芸守は細川勝元の被官であることが書状で明らかですし、元家ー元源ー元家の三代の「元」は細川京兆家からの偏諱、宍戸家俊(司箭院興仙)やその子息源次郎、宍戸甲斐守のように完全に細川京兆家被官として京都で活動している安芸守系宍戸家の人間もいるため、元家もかなり京都寄りで活動していたと思われます。ただ実際には元家自身は元々安芸に定住していた可能性も十二分にあるため、「京都から来た」は断定しすぎたかもしれません。
家臣団については元々の安芸の所領や京都にて持っていたもの+駿河守系から引き継いだものが混在していると考えるのが普通だと思いますがはっきりしません。ただ少なくとも「宍戸元家御座備図」により元家期の家臣団は(完全には信用できないですが)わかっています。
より詳しい解答はここでは複雑なため、「摩多羅onデマンド」の質問フォーラムにご投函をお願いいたします。
詳しく教えてくださり、ありがとうございます。
こんばんは
情報量は素晴らしい。が、尼子氏に対する偏った見方と悪意が酷いw
あんたのコメント、
どの動画でも評価順だと一番下なのなw
あんたに対してみんなちゃんと客観性と中立性のある評価してるねw
@@tailsub3068 ありがとうございます。私のコメントは反論が多いので想定内です。評価されてる方のコメントはどれも下らない内容の物が多い気がします。なので評価など全く気にしていません。わたしに何か反論があるなら遠慮なく仰って下さい。
@@惟任日向-r5d
批判だ反論だなんてのは、一定の知識と知性がないと出来ないのがまだわかりません?
別ショート動画では投稿主から貴方の根拠の根拠や資料を出せと言われて何も返せてないじゃないですか?
私からの貴方の批判や反論を迎えようとする前に、
まずは投稿主への最低限の対応してきて下さいよ。
そういう事が出来てないから、低評価なんですよ、貴方はw
くだらないですね、貴方はw
尼子経久解説もあるので視聴されるのが宜しいかと
@@惟任日向-r5d
さっきの投稿主へのあんたのコメントすごいな?
投稿主に論文書いてるのか?って、司馬遼太郎の話で論文書いてなくても研究者だって言えるって別動画でコメントしてたのあんたじゃん?
何を自分の発言への批判をそのまま他者に流用してるんだ?
恥の上塗りが趣味なの?