Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
八幡東区で生まれ育ちました。知らないこともたくさんありました。小学生の頃は、起業祭がとても楽しみでした。ドリフターズや天地真理さん、アン・ルイスさんなどの歌手の方がたくさん来てました。学校も休みでした。いまでは懐かしい思い出です。あんなに栄えた街が今では過去の栄光ですね。
本日ここの場所にあるホテルに泊まってる時に、これを見れるとは思いもよらなかった。ありがとうございました
動画をありがとうございます。私の曾祖父は槻田の官舎に住み、その後は丸山に移り技師として働いていたそうです。当方今はなき平野小学校の卒業生ですが、現在は都内在住です。子供の頃を思い出し感慨深い動画でした。また、故郷の歴史を知ることのできる貴重な機会となりました。
自分も平野小出身です。現在52歳ですが、埼玉県に長らく居ましたが、10年前に異動願を出して、北九州に帰って来ました。平野小でしたが、住まいは山手の八幡西区でした。跡地は九国大の駐車場になってますが、まだ東門?の門柱は残っていて、平野小学校と書いています。正門はどうだか分かりませんが。
祖父が製鐵マンで戦前は鞘ヶ谷の社宅住まいだったそうです。日中戦争が開戦したのを機に従軍し(軍人のほうが給与が良かった)、2年後に退役してまた製鐵マンとして定年まで勤めあげました。今はどこも寂れてしまいましたが、昭和40年代くらいまでは中央町はもちろん大蔵や荒生田の商店も活気に満ちてましたね。専業主婦だった祖母は頼母子講やってました懐かしい。
動画ありがとうございます。私の父は新日鉄に勤め、家族で鞘ヶ谷社宅に住んでいました。木造平屋が立ち並んでいましたが、畑ができる広い庭が付いていたので両親は野菜を沢山植えていました。買い物は購買会でしたね。母に連れられてよく行っていました。母はたのもし講に参加していて、幼い私はお茶菓子を食べながら談笑している女性達が楽しそうにしている姿をよく見ていました。動画を拝見してとても懐かしくなりました。
購買会、懐かしい響きです!
鞘ヶ谷の購買会には、夏の猛暑時期には氷柱が何本か立っており、子供だった自分は触ったり舐めてた記憶があります。おやつに買ってもらったカタパンが大好きでした。
私は鞘ヶ谷社宅の二階家社宅に住んでいました。7丁目です。同が峰寮から競技場バス停へ向かう通りの中頃に住まいがありました。
@@ヒロ爺-o2b さんコメントありがとうございます。7丁目だと東鞘ヶ谷ですかね。私は西鞘ヶ谷の10丁目でした。鞘ヶ谷競技場のサブグラウンド前の、天籟寺川に水が流れ込む土管のすぐ前でした。堂ヶ峯寮懐かしいです。今でもありますね。
@@PABUWAkun 「天籟寺川に水が流れ込む土管の・・・」そこは、私が子供の頃は、洞窟の入口があり、奥へ探検と称しロウソクの明かりで一番奥まで探検したものです。二股に分かれ最後は上から水が落ちてきてました。全て生活排水でしたけど、今では、山陽新幹線皿倉トンネルから湧き出した地下水が流れ込みホタルの里になってますよね。
そのド真ん中に住んでいます。簡潔で正しい内容に感謝します。
旧マルキュウ (後の丸物)の5軒隣で生まれ育った自分としては 大変嬉しく有難く 又 詳細な内容に感謝申し上げる次第です
枝光で生まれ育った私ですが当時の賑わいを肌で感じていた世代としては現在のまるで別の土地のような殺風景な街並みは寂しい限りです。
八幡東区日の出町生まれです^^b 製鉄所とは直接の関係はありませんでしたが、起業祭は毎年の楽しみでした。
八幡東区というと八幡製鐵所のイメージですよね。すごく大きな企業で昔はとても栄えていただろうなと思います。友人が昔住んでいて興味のある街でしたので、今回歴史が知れてありがたいです。40年くらい前までは黒崎の商店街は小倉よりもすごかったですが時代は変わりましたね。
いつも楽しませていただいています。1つだけ訂正させてください。戦後直ぐに関西の煤塵原因で前妻を亡くした祖父は国際パテントを持つドイツの会社へ技術を習得に行き、煤塵を電気的に除去するプラント建設のパテントを持って帰国しました。で、東京外神田に設計士40人以上を置く会社を設立し、全国でプラントを作っています。祖父姉の夫が小野田セメントの黒崎工場長であったため、比較的早期に祖父と父が八幡製鐵所、黒崎窯業、小野田セメント、安川電機、等など西日本工業倶楽部の初代メンバーがいらっしゃる(大伯父もメンバーです)工場を持つ会社にはプラントを作っておりました。しかしながら、北九州ぜんそくは大工場では無く中小を含む工場の硫化物が原因で、大工場の工場排気はかなりキレイであったものの、私たちは工場排気でぜんそくに苦しむことになりました。祖父が興した会社は昭和40年の夏に商社倒産の連鎖倒産しており、ネットで探しても全く見つかりませんが、ビルマから帰ったら妻が逝ってた祖父が戦後やった事は心を動かされますし、そういう男性もついぞ見つかりませんでした笑笑祖父がドイツにいる時の写真は数年前手元に届きました。祖父は写真が趣味でしたので。父は度重なる長期出張で住所不定となり、手続きのために結婚式と入籍の日時がズレてしまい、入籍から計算するとデキ婚になる私に詫びてました。今の時期は河頭の社宅の周りでラズベリーが沢山取れていました。平野の長屋の社宅、アパートの社宅、桃園の社宅、随分行きました。元北九州市長の北橋さんが最初に議員になった時に桃園社宅から出る時も遠目で見送りましたね。
祇園原町に住んでた製鐵マンだったおじさんちに泊まるのが楽しみでした。小学生の頃、宇宙科学館でプラネタリウムを初めて観た時の事は忘れられない思い出です。
母方が門鉄勤め。実家は福間、生まれた病院は八幡市民病院。宗像郡民(懐古乙ですがw)としては八幡方面は縁が強かったですね。日の里団地が少し出てきたのもありがたいです。
小学校1年(東京オリンピックがあった年)に仲良くなった友達が翌年君津に引っ越し寂しい思い出があります。
荒手町出身ですが、昔は、公害が酷くて、洞海湾もヘドロ臭かった。 友達にも、小児喘息の子がいました。 高化学スモッグ注意報が出てましたからね。 友達の親は、八幡製鐵所勤務の人が多かった。 社宅も沢山ありました! あと、八幡大学があったから、下宿も沢山あった。 私が住んでいたアパートも元は、下宿でした。 家が下宿を経営していた、同級生がいたほど。
祖父は八幡製鉄所に入所し昭和13年に広畑の製鉄所になったそうです。父と伯父も製鉄マンになり、父だけ終戦後八幡製鉄所に異動となったそうです。私は親族が皆製鉄マンだったため反面〇〇で、今でいうIT企業に入社したのですが結果的に転職もあったけど生涯八幡製鉄所構内勤務で退職しました。4才のころ鞘ヶ谷社宅に引っ越し13年過ごしましたが、最初の7年くらいの社宅は水道・電気代不要、電球も切れたら無料で交換、定期的に畳の表替えなどがありました。購買会の現在はスピナになってます。鞘ヶ谷は、私の遊び場で堂が峰寮も遊び場となっていました。
UP主さん こんにちは。コメントは殆ど書いていませんが、よく調べられているので感心して見させて頂いています。私も製鉄所の煤煙で育った世代で家系は八幡製鐵所一族で八幡東区育ちです。祖父 父親 八幡 叔父 堺 従兄弟は君津でした。私だけは鐵に就職しませんでした。ところで7:00~8:00は八幡の風景では無く何処かの炭住と思われますが差込みを間違えられたか時代背景を合わせたのか? 気付きましたのでコメント致しました。
当時の長屋の間取りや生活の様子の説明に合わせた炭住の画像です。
@@fm1 さん 了解です。私の住んでいた社宅は八幡東区でも小さな社宅で2軒×3棟+管理人 1棟の非常に小さな社宅でした。今は土地を転売されたのでしょう。アパートに変わりました。炭坑は筑豊各所を巡りましたが、炭坑住宅も見かけなくなりました。
七色の煙や、喘息の公害で騒がしいまちから、街全体が落ち着いて良かったです。
街の呼び名はヤハタ、製鉄所の呼び名はヤワタと読んでいたのではないでしょうか?製鉄所を設計したドイツ人がㇵの発音がしづらくワと呼んだと聞いたことがあります。
自分は八幡平野町に1950年~1966年まで住んでいましたが、パチンコ屋はなかったと記憶しています、住宅街ですから(祇園町にはあったのか?もちろん黒崎にはあった?)もしあったとしてもそれで頼母子講の話しから借金みたいになって困る話しは何か今と勘違いでしょう。まあほんの少しはいたのかもしれませんが・・・とスモッグは今で言うメディアのオーバーで自分が住んでいる間スモッグには困りませんでした。洞海湾辺りは分かりませんが・・・懐かしくありがたいですが、もっときちんと深掘りしてもらいたいです。
細かいけど八幡製鐵所(やはたせいてつ[しょ])です。よろしくお願いします🙇
子供のころから「やはたせいてつ」とか「せいてつ」と呼んでいたのでね。
ヤハタ ヤワタ論争結論は❓ 過去の製品にはYAWATAとなっているものがあるとか❓よそものが、ヤワタと言っているのしか聞いたことはないが。
製鉄所の天井クレーンは、YAWATA1970と表記されたのがありましたよ。
八幡東区で生まれ育ちました。
知らないこともたくさんありました。
小学生の頃は、起業祭がとても楽しみでした。
ドリフターズや天地真理さん、アン・ルイスさんなどの歌手の方がたくさん来てました。
学校も休みでした。いまでは懐かしい思い出です。
あんなに栄えた街が今では過去の栄光ですね。
本日ここの場所にあるホテルに泊まってる時に、これを見れるとは思いもよらなかった。ありがとうございました
動画をありがとうございます。
私の曾祖父は槻田の官舎に住み、その後は丸山に移り技師として働いていたそうです。当方今はなき平野小学校の卒業生ですが、現在は都内在住です。子供の頃を思い出し感慨深い動画でした。また、故郷の歴史を知ることのできる貴重な機会となりました。
自分も平野小出身です。
現在52歳ですが、
埼玉県に長らく居ましたが、10年前に異動願を出して、北九州に帰って来ました。
平野小でしたが、住まいは山手の八幡西区でした。
跡地は九国大の駐車場になってますが、まだ東門?の門柱は残っていて、平野小学校と書いています。正門はどうだか分かりませんが。
祖父が製鐵マンで戦前は鞘ヶ谷の社宅住まいだったそうです。日中戦争が開戦したのを機に従軍し(軍人のほうが給与が良かった)、2年後に退役してまた製鐵マンとして定年まで勤めあげました。今はどこも寂れてしまいましたが、昭和40年代くらいまでは中央町はもちろん大蔵や荒生田の商店も活気に満ちてましたね。専業主婦だった祖母は頼母子講やってました懐かしい。
動画ありがとうございます。私の父は新日鉄に勤め、家族で鞘ヶ谷社宅に住んでいました。木造平屋が立ち並んでいましたが、畑ができる広い庭が付いていたので両親は野菜を沢山植えていました。買い物は購買会でしたね。母に連れられてよく行っていました。母はたのもし講に参加していて、幼い私はお茶菓子を食べながら談笑している女性達が楽しそうにしている姿をよく見ていました。動画を拝見してとても懐かしくなりました。
購買会、懐かしい響きです!
鞘ヶ谷の購買会には、夏の猛暑時期には氷柱が何本か立っており、子供だった自分は
触ったり舐めてた記憶があります。
おやつに買ってもらったカタパンが大好きでした。
私は鞘ヶ谷社宅の二階家社宅に住んでいました。7丁目です。
同が峰寮から競技場バス停へ向かう通りの中頃に住まいがありました。
@@ヒロ爺-o2b さん
コメントありがとうございます。7丁目だと東鞘ヶ谷ですかね。私は西鞘ヶ谷の10丁目でした。鞘ヶ谷競技場のサブグラウンド前の、天籟寺川に水が流れ込む土管のすぐ前でした。堂ヶ峯寮懐かしいです。今でもありますね。
@@PABUWAkun 「天籟寺川に水が流れ込む土管の・・・」そこは、私が子供の頃は、洞窟の入口があり、奥へ探検と称しロウソクの明かりで一番奥まで探検したものです。二股に分かれ最後は上から水が落ちてきてました。全て生活排水でしたけど、
今では、山陽新幹線皿倉トンネルから湧き出した地下水が流れ込みホタルの里になってますよね。
そのド真ん中に住んでいます。
簡潔で正しい内容に感謝します。
旧マルキュウ (後の丸物)の5軒隣で生まれ育った自分としては 大変嬉しく有難く 又 詳細な内容に感謝申し上げる次第です
枝光で生まれ育った私ですが当時の賑わいを肌で感じていた世代としては現在のまるで別の土地のような殺風景な街並みは寂しい限りです。
八幡東区日の出町生まれです^^b 製鉄所とは直接の関係はありませんでしたが、起業祭は毎年の楽しみでした。
八幡東区というと八幡製鐵所のイメージですよね。すごく大きな企業で昔はとても栄えていただろうなと思います。友人が昔住んでいて興味のある街でしたので、今回歴史が知れてありがたいです。40年くらい前までは黒崎の商店街は小倉よりもすごかったですが時代は変わりましたね。
いつも楽しませていただいています。
1つだけ訂正させてください。戦後直ぐに関西の煤塵原因で前妻を亡くした祖父は国際パテントを持つドイツの会社へ技術を習得に行き、煤塵を電気的に除去するプラント建設のパテントを持って帰国しました。で、東京外神田に設計士40人以上を置く会社を設立し、全国でプラントを作っています。祖父姉の夫が小野田セメントの黒崎工場長であったため、比較的早期に祖父と父が八幡製鐵所、黒崎窯業、小野田セメント、安川電機、等など西日本工業倶楽部の初代メンバーがいらっしゃる(大伯父もメンバーです)工場を持つ会社にはプラントを作っておりました。しかしながら、北九州ぜんそくは大工場では無く中小を含む工場の硫化物が原因で、大工場の工場排気はかなりキレイであったものの、私たちは工場排気でぜんそくに苦しむことになりました。祖父が興した会社は昭和40年の夏に商社倒産の連鎖倒産しており、ネットで探しても全く見つかりませんが、ビルマから帰ったら妻が逝ってた祖父が戦後やった事は心を動かされますし、そういう男性もついぞ見つかりませんでした笑笑
祖父がドイツにいる時の写真は数年前手元に届きました。祖父は写真が趣味でしたので。
父は度重なる長期出張で住所不定となり、手続きのために結婚式と入籍の日時がズレてしまい、入籍から計算するとデキ婚になる私に詫びてました。
今の時期は河頭の社宅の周りでラズベリーが沢山取れていました。平野の長屋の社宅、アパートの社宅、桃園の社宅、随分行きました。元北九州市長の北橋さんが最初に議員になった時に桃園社宅から出る時も遠目で見送りましたね。
祇園原町に住んでた製鐵マンだったおじさんちに泊まるのが楽しみでした。
小学生の頃、宇宙科学館でプラネタリウムを初めて観た時の事は忘れられない思い出です。
母方が門鉄勤め。実家は福間、生まれた病院は八幡市民病院。宗像郡民(懐古乙ですがw)としては八幡方面は縁が強かったですね。日の里団地が少し出てきたのもありがたいです。
小学校1年(東京オリンピックがあった年)に仲良くなった友達が
翌年君津に引っ越し寂しい思い出があります。
荒手町出身ですが、昔は、公害が酷くて、洞海湾もヘドロ臭かった。 友達にも、小児喘息の子がいました。 高化学スモッグ注意報が出てましたからね。 友達の親は、八幡製鐵所勤務の人が多かった。 社宅も沢山ありました! あと、八幡大学があったから、下宿も沢山あった。 私が住んでいたアパートも元は、下宿でした。 家が下宿を経営していた、同級生がいたほど。
祖父は八幡製鉄所に入所し昭和13年に広畑の製鉄所になったそうです。
父と伯父も製鉄マンになり、父だけ終戦後八幡製鉄所に異動となったそうです。
私は親族が皆製鉄マンだったため反面〇〇で、今でいうIT企業に入社したのですが
結果的に転職もあったけど生涯八幡製鉄所構内勤務で退職しました。
4才のころ鞘ヶ谷社宅に引っ越し13年過ごしましたが、最初の7年くらいの社宅は
水道・電気代不要、電球も切れたら無料で交換、定期的に畳の表替えなどがありました。
購買会の現在はスピナになってます。
鞘ヶ谷は、私の遊び場で堂が峰寮も遊び場となっていました。
UP主さん こんにちは。コメントは殆ど書いていませんが、よく調べられているので感心して見させて頂いています。私も製鉄所の煤煙で育った世代で家系は八幡製鐵所一族で
八幡東区育ちです。祖父 父親 八幡 叔父 堺 従兄弟は君津でした。私だけは鐵に就職しませんでした。ところで7:00~8:00は八幡の風景では無く何処かの炭住と思われますが
差込みを間違えられたか時代背景を合わせたのか? 気付きましたのでコメント致しました。
当時の長屋の間取りや生活の様子の説明に合わせた炭住の画像です。
@@fm1 さん 了解です。私の住んでいた社宅は八幡東区でも小さな社宅で2軒×3棟+管理人 1棟の非常に小さな社宅でした。
今は土地を転売されたのでしょう。アパートに変わりました。炭坑は筑豊各所を巡りましたが、炭坑住宅も見かけなくなりました。
七色の煙や、喘息の公害で騒がしいまちから、街全体が落ち着いて良かったです。
街の呼び名はヤハタ、製鉄所の呼び名はヤワタと読んでいたのではないでしょうか?製鉄所を設計したドイツ人がㇵの発音がしづらくワと呼んだと聞いたことがあります。
自分は八幡平野町に1950年~1966年まで住んでいましたが、
パチンコ屋はなかったと記憶しています、住宅街ですから(祇園町にはあったのか?もちろん黒崎にはあった?)
もしあったとしてもそれで頼母子講の話しから借金みたいになって困る話しは何か今と勘違いでしょう。
まあほんの少しはいたのかもしれませんが・・・
とスモッグは今で言うメディアのオーバーで自分が住んでいる間スモッグには困りませんでした。
洞海湾辺りは分かりませんが・・・懐かしくありがたいですが、もっときちんと深掘りしてもらいたいです。
細かいけど八幡製鐵所(やはたせいてつ[しょ])です。よろしくお願いします🙇
子供のころから「やはたせいてつ」とか「せいてつ」と呼んでいたのでね。
ヤハタ ヤワタ論争結論は❓ 過去の製品にはYAWATAとなっているものがあるとか❓
よそものが、ヤワタと言っているのしか聞いたことはないが。
製鉄所の天井クレーンは、YAWATA1970と表記されたのがありましたよ。