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歴史的資料や史跡に密着したわかりやすい解説動画を、いつも楽しく拝聴しております。客観性と正確性を重んじる内容で、とても勉強になります。また、聞き手の浜崎さんの飾らない反応も面白く、いつも笑ってしまいます。私は大阪出身ですので、夏の陣の話は特に興味津々です。これからも楽しみにしております。
最後はなかなか面白かったですよ。やはり大坂夏の陣は戦国最後の戦という感じですね。まあ後悔のないよう戦えたもの勝ちというかな。家康も自分の死もありうるというとわかってたみたい。大東亜戦争ではないですが、時代が変わるときにはどうも大きな戦争ありきというか、古い人、文化を破壊してというプロセスがあるようですね。
先生いつも楽しみにしております、ありがとうございます
本多忠朝の墓のある一心寺に、身内が骨仏となり眠っています。アルコール依存症でした 。骨仏というのはたくさんの人の遺骨でできた塑像の仏像です。一心寺で買える長老が執筆された「うえまち第2集」には天王寺口の戦いが写真と共に解説されており興味深いです。
真田丸全編の鑑賞と並行してして見させて頂いてます。解説が本当に楽しくて優しくて✨✨✨ドラマを何話か見た後には勉強になってのめり込みます😆もう50歳になりますが、学生時代にこちらのチャンネルがあったらもっと日本史の成績が良かっただろうな、、今度秀頼の生存の謎について解説してほしいです!
うわぁ、またまた、良いところで来週に続くですね ・・・。続きが待ち遠しいです。楽しみにしております。
関ケ原から夏の陣まで多くの番組、本を読んだがこれほど説得力ありかつ面白い話はなかった、その時の実像あり方がありありとわかりました、又話方が面白い、他の歴史の場面の事も取り上げてほしいです。私の中ではこの話が最高です、その証拠に次はどうなるのと聞きまちたくなります。
真田信繁はもちろんのこと、毛利勝永もいろんな方からかなり高く評価されてますね。あと、真田信繁の最期については、討ち取った側の越前松平家の記録によれば、通説(安居神社で疲れ果てて休んでいたところに敵が来てやられた)とは異なり、生國魂神社周辺と勝鬘院周辺の間の高台において馬から降りて正々堂々と槍で戦って討死したらしいです。
めちゃ楽しみです😊夏の陣はこんな広範囲だったんですね。コロナ明けたらぜひ大阪城に行こうと思います!
道明寺は所用で訪れたことがありますが、当時の雰囲気の残滓が残っている感じがしました。コロナ禍が落ち着いたら、紹介された史跡を訪れにいきたいです
残滓が残ってるに突っ込みたい自分は心の狭い男
大阪市の平野区在住の者です平野は幸村公とはゆかりがあり長吉神社に戦勝志願の登り旗が奉納されてます。家康公が平野に入った事を知った幸村は通る道に地雷を仕掛けたが間一髪家康は逃れたがその時に身代わりに成った地蔵尊の首が数百メートル離れた全興寺まで飛んで行きました。また、平野だけの神話ですが最終決戦の茶臼山から逃げた家康を奈良街道を通り広い湿地帯まで追い詰めたが葦の中に隠れた家康を見失ったと云われる場所もあります
私は大きか方面の地理が全くわからず、各地の位置関係が不明でしたが、今回の解説で地図を指し示しながらの解説でしたのでよくわかりました。毎回楽しみにしてます。
23:48 伊達政宗の軍勢の他に、先鋒:水野勝成・二番手:本多忠正・三番手:松平忠明・五番手:松平忠輝の総勢34300の兵でしたね。26:38 木村重成像は、現在は撤去されて住宅地になってます。
そうでしたか。残念ですね。ご指摘ありがとうございました。
堺市民です堺出身のご年配で古くから代々商売をされてる方は、豊臣が、秀吉が大嫌いなんだとよく聞きます堺の商人が、大阪城築城の時に、城下町で商売しろと連れて行かれたとか大坂夏の陣では、徳川方として堺の町が焼かれたのですね、、それでまた連れて行かれたり避難したりだったんでしょうねただ、冬の陣で大阪城を攻撃したのは堺の大砲だったそうです 博物館に展示されてます
僕も堺を訪れたときに同じことを感じました。信長にも「負けない」という対抗意識がカルタにも書かれていました。堺商人たちの意気込みを感じました。
東大阪市に「伊達藩ゆかりの御姫さまの墓跡」があります。市橋先生、私は永久保存したいと思っております。機会がありましたら、是非お越し下さい。
どの時代でも当然天才はいるものですが、書かれた方たちの気迫を感じますよ。書くというよりは「後世に自分の名と共にこの戦いを記す~」という思いだったのかな。タイムマシンで過去に戻ってみれば、ひとときの限定された範囲のことでしょうが、まさしく戦乱の地獄図なのでしょう。やはりこれで終わらさないと~。この後は徳川300年の平和、日本とはホント凄い国なのですよ。
先生いつもありがとうございます。お疲れ様です
2016年に 大坂夏の陣古戦場 後藤又兵衛基次之碑 道明寺合戦記念碑 志紀長吉神社 真田幸村休憩所跡等を見て回りました。次週を楽しみにしています。
後藤基次と真田信繁が古戦場で待ち合わせ、先に到着したのは後藤基継(約4000人)真田信繁(約4000人)一緒に戦わなければ勝ち目がないことで約束。その理由として、相手は3倍4倍の兵力であることで話し合いが付いていた。何を勘違いしたのか(一説には真田信繁が先に到着して戦っている)後藤基次が先に合戦を始めて戦死、それを聞いた真田信繁が戦術の方で悔しがったと言う、ナゼ待たなかったのか・・・もしも夏の陣がなければ、豊臣は存続できたか?これも難しい話。浪人たちには言葉が悪いが一攫千金を狙ったが戦死、しかし名は歴史に刻まれて世代を超えて伝えられていく、まさに武士の誉れ。
徳川家康の津阿波正彦の役はハマリ役でしたよね。
豊臣方だけで7万人も居たら、明日の天下の趨勢は知れたものではありませんね。徳川氏が、必死で潰しにかかるのも分かります。家康さんというカリスマが居なかったら出来なかった、戦国最後の大戦。
幕府が政道を進めていくにあたって不安定要因になりかねない牢人たちを、この機会で一網打尽に成敗する目的もあったでしょうね。
大坂城を出たとしても、大名である限り、改易は免れなかっただろう。完全に武装解除〜人畜無害の摂関家のひとつになるのが、家名を尊属させる一番の方策だったと思う。
今日のホスト様は元気そうです。顔色がいい!
法隆寺に徳川家康公の肖像画があるのは知りませんでしたわ😅
兵力的に劣勢な側は山間部で待ち伏せ攻撃するのが定石なのに、後藤基次が向かったときにはすでに幕府軍の先鋒が河内平野に出てきてしまった。
松平忠輝の名前は出てこず、蟄居謹慎、松平忠直は頑張って、恩賞は茶入れで激怒二人の顛末は似たものだけど忠直の家は残った
大河ドラマのどうする家康のキャスト気になります、先生のお話聞きながら楽しみです!
先生、キリシタンの明石全澄は落ち延びたと聞いた事がありますが何処へ行ったのでしょう?
東京の有楽町は有楽斎の屋敷でもあったところなんでしょうか。
その通りですね。有楽斎の遺産は犬山城の近くにも国宝の茶室、庭園として遺されているんですよ。
有楽斎の茶室は如庵で名鉄が所有して毎年1月1日から茶会が数日開かれます、庭に有楽椿もあります。
家康は、大阪夏の陣で死んだ・・説もありますが・・❔ 今の大阪城は、旧大阪城の上に建ってるんですね!!
後藤又兵衛が和睦派で、真田信繁が中間派なのは意外。関ヶ原で秀頼が出陣すれば、西軍の志気が上がり、寝返りも少なかっただろが、建前は、豊臣傘下(直属の家臣は少ない)の大名の争いだから、その意味では、若年の秀頼は蚊帳の外にされたと言える。大阪の陣では、秀頼は成人していたとはいえ、既に浪人以外への求心力は無く、野戦に持ち込まれ、家康討ち取りに絞る桶狭間のような奇襲が成功出来なければ、兵力の差で負けるのは明らか。
現役の大名で秀頼に味方する者が一人もいない………状態で家康相手に合戦……😓😓やっぱり正気ではありません😃🤔秀頼という人は、自分自身でしたいことや思った事がひとつでも叶った事があるのでしょうか?😃まるで……人形のようです😓豊臣家の権威のために生かされ、浪人どもの都合で……籾井矢倉で死んだ……秀頼の声って……歴史の中で聞こえてこない😓😓😓😓😨😫
豊臣秀頼が西軍についたらまず小早川秀秋と脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱は裏切らない。それと東軍の福島正則、黒田長政、細川忠興、田中吉政は秀頼のいる西軍に味方するよ。まあ淀殿が石田三成に半信半疑だった時点でありえんが
う~ん今回説明頂いたところは前哨戦?それとも今回の冒頭から夏の陣?あまり詳しく調べてなくて分かりません(汗)
今回から夏の陣です。ここから徐々に大坂城付近押し戻されて最終決戦となります。次回最終決戦となります。
結局「大坂夏の陣」というのは平たく言ってしまうと和睦後の対立後のいくさの数珠つなぎの総称を言う・・・のですね(汗)実際戦国時代からは戦乱のお話しが多くなっていたのでようやく一区切りがつく、と視聴者的にもホッとしてます(苦笑)お返事ありがとうございました
お声が童門冬二さんに似てますね
勇将ではあるが、大局観が無い戦国でしか生きられない憐れな人ではある
長宗我部盛親が藤堂高虎の軍を粉々に打ち砕いたところが語られていない。
地図は地形図を参考にした方がわかり易いかも知れませんね。
織田有楽斎は、徳川方に内通してたんでしょうかね。それと、堺は徳川方の物資補給地だったんですね。豊臣方に焼かれてしまったとは知りませんでした。
徳川の補給基地だけでなく、豊臣も平常時は堺から補給を得ていました😃🤔糧道と言っても過言ではなく、ここを潰したということは……徳川が死ぬか自身が死ぬか?🤔😓という行動かと😃🤔
初コメ失礼します昔本で真田幸村が伊達政宗と対峙したあとこいつは信用できるって認めて自分の娘に何かあったら政宗を頼れって話聞いたんですが本当何ですかね?よければ詳しい方教えていただきたいです今年京都府立の歴史学科を受験しようと思っていまして「なるほど歴史チャンネルさん」の動画でモチベーションを保てています本当にありがとうございますまた来週が待ち遠しい
そういうお話が残っていますね。歴史学科を目指すんですね。是非頑張って欲しいです。歴史学の勉強は古文書の読解など、結構地道な内容が多いです。めげずに頑張って欲しいです。
秀吉亡き後の事、スムーズに派遣を家康に譲って居ればお家取り潰しにも合わずに長らく政治には干渉できないかも知れないが、お家取潰しにも成ら買ったものを・・・。
豊臣のプライドがそれを許さなかった。
家康は大和廻ではなく飯盛から四條畷の砂に着陣したのではないでしょうか?
当時そのものの記録は殆ど無いからなぁ。なんとも言えん
秀頼の子供の国松が実は処刑されずに、隠されて生き延びたという伝説がありますね、どうなんでしょう?
この大坂夏の陣で、豊臣家は滅ぶ訳ですが、先生は〔高台院〕(北政所。秀吉の正室)の気持ちを、どう推測されますか!?①悲しんだ。②満足した……。有る歴史家は次のように論じています。高台院は、『豊臣家は私と秀吉で築いた。私を軽んじる若い女〔淀殿〕とその息子〔秀頼〕に手渡す位なら、いっそのこと潰した方が良い!』※高台院は、寛永元年9月〔1624年10月〕、豊臣家の滅亡、徳川家康の死亡を見届けて亡くなります。先生はどう推測されるでしょうか?
高台院の気持ちまでは測りかねますが、小説やドラマによっては対立関係にあったように描かれますね。ただその様な史料もありませんし、むしろ連絡を取り合っていたという論も存在します。家康との関係から考えると、「潰してほしくはなかった」というところではないかと思いますが。高台院が秀吉の霊を弔うために建立した高台寺は、家康が大変手厚く協力し、堀直政などの普請奉行を充てるなどした寺院です。家康と高台院の関係が窺えます。大坂城に立て籠もった秀頼や淀君に、様々な説得を行ったというのも、「残してほしい」気持ちの表れだったと思いますが。
@@市橋章男 丁寧な解説・回答ありがとうございます。🙇
左側の女性は何というアナウンサーですか?
浜崎友里といいます
ありがとうございます色気ありますね。
淀を先暗殺し真田を参謀にし秀頼総大将としとけば勝てたかもな
もともと濃厚な姻戚関係を築いていたので素直に大和郡山に移れば良かった筈。秀頼の叔父・大和大納言秀長の領地であり格が高く左遷では無い。さらにあまり指摘されていないが、淀殿は実妹・お江に対する蔑視「再婚歴あり。臣下・徳川の息子に嫁す姉さん女房。その風下に付くのは我慢ならぬ」が災いした可能性大。最終的に徹底抗戦を唱えた連中に「庇貸して母屋を取られ、滅んだ」結果を招いたと思う。
お二人とも知性が高そう。そもそも歴史とは一発勝負!100回繰り返せて一番確立のいいものを~なんてやってられない。ましてや人生わずか50年で終わり。たがら桜散るなんて発想がでますし、その判断と行動に本性が現れる。今も同じですがね。戦国時代は大変だったけど、人は生き生きしていたとは感じますし、数は少ないでしょうが、あの「7人の侍」みたいなお人よしのバカ侍もいたことでしょう。いやはやおもしろい。はやくタイムマシンができないかな。少なくとも過去は見れるはずなのでね。空の星々の光は何万年も前の光ですから可能性は否定できませんよ!
毎回律儀にWikipediaからの引用を語るとは、どこぞの政治解説者とは違うなw大坂の陣が終わったら次は島原の乱かな?
大阪夏の陣。こういう作戦はどうですか。 まず徳川方の大和路軍3万4千。これを遊兵化するため国分の隘路に兵を5〜6千置き、道明寺への侵出を阻止する。半日やそこら保ちますか?この徳川大和路軍3万4千の道明寺進出を阻止できなければ、作戦自体、成り立ちませんか?この奈良からの大和路軍。高野街道を南下してくる徳川主力の大阪平野への進出を掩護するための部隊だそうですから。その辺りに詳しい方、宜しく。一方、生駒山系の西側、高野街道を南下してくる徳川方の主力に対しては。真田、毛利隊を道明寺の北付近に配置。この部隊で徳川主力の頭を抑(おさ)え。八尾、若江辺りから横腹を突く。縦隊で行軍してきた徳川主力が真田、毛利軍を前に横に広がるわけですか。行軍時は縦隊。戦闘に際しては横に広がるらしいですので。そこを横、もしくは後方から。相当強く徳川主力先頭に対し、圧力を加えなければ。なりませんか?長宗我部、木村隊の横槍に対し、井伊隊、藤堂隊に容易に側面展開させないためには。圧力を加え、押し返せるくらいには。そうなるとどのくらいの兵が必要か。その辺り詳しい方、よろしくおねがいします。また戦国シュミレーションゲームに詳しい方も、よろしくおねがいします。だいたい大阪方は冬の陣でも夏の陣でも野戦の戦績はあまり良くないようですし。冬の陣でも当初。城外へ出ていますか。紀州方面へ。しかしーーー。あれでは籠城もやむ無し?まさか。烏合の集を訓練するには冬の陣では時間的に。夏の陣ならーーーどうですか。冬、夏ともにどの程度の訓練期間を取れたのか。とにかく。家康本陣を突くにはどの辺りから。星田に留まっていましたか。高野街道を南下してくる徳川主力。10万程ですか。何キロの長さになるのか?2列縦隊なら50キロメートル以上。4列縦隊なら25キロメートル以上ですか?行軍速度が時速4キロとすると(旧軍ではそのくらいらしいです)。この時代はどうですか。当時の高野街道はどのくらいの道幅が。先頭の部隊が出陣してから、家康本陣は何時間後に出発となるのか?道幅と到着時間等からだいたいの兵数はーーーわかりませんか。徳川主力の先頭が道明寺付近に達した時、家康本陣はどこに。詳しい方、おねがいします。徳川主力は長蛇の列。木村隊、長宗我部隊以外にも何本くらい、横槍をいれれば。詳しい方、おねがいします。それとーーー。また別な作戦となりますがーーー。徳川方の分進合撃を利用して大阪方が内線作戦を展開するならどこで?目標は大和路軍3万4千ですか?戦場は道明寺付近ですか?国分の隘路を越えた辺りですか?夜営していたなら夜襲という手も。その時の大阪方の兵の配置はどのようになりますか?しかし、伊達も忠輝も大阪方に内応するとかなんとか。それをーーーどうかんがえるか。それに徳川方も分進するなら12万と3万4千などということにせず。8万8万とでもしてくれれば、大和路軍8万を国分の隘路で拘束し徳川主力8万と大阪方5万でなんとか勝負に。冬の陣の時の徳川軍の進軍路はどうだったのですか?家康は奈良経由で入ったそうですが。その時の大和路軍と、主力の兵数は。ご存知の方、おねがいします。その辺り詳しい方おねがいします。
大阪夏の陣。こういう作戦はどうですか2。八尾、若江戦後。大阪城の南に展開した徳川軍。それに対し。真田隊は茶臼山に。毛利隊は四天王寺に。それぞれ陣取る。大野隊は岡山にーーーですか。それに対し徳川軍は。その前面に展開。進撃を開始する。真田隊、毛利隊はその場を固守。大野隊もーーーですか。家康本陣も、秀忠本陣も近づいて来ているようですし。そこでーーー大阪方は、秀頼の出陣を乞う。秀頼が出陣すれば。秀頼の馬印を見れば。徳川軍は我先に、秀頼目掛けて。突撃する。陣形はどうなるのか?ご存じの方、よろしく。そこをつけばどうなるのか?それで。徳川方の前軍が秀頼目掛けて突撃をすればその隊列は。その前軍の備えの一部が我先にと真田隊の横を通り過ぎたところを徳川方の前軍へ突撃をかけるか。それとも徳川方の前軍が全て通り過ぎた所で家康、秀忠本陣へ突撃するか。家康本陣はさすがに秀頼目掛けてということはないですか。それと正面からぶつかる。そこを真田、毛利隊のどちらが正面から、もう一方が横から攻める。岡山方面でも同様に秀忠本陣へ大野隊が突撃する。テレビ等を見ているとこの当時の戦いは。進軍隊形から横隊へ早く展開した方が勝ち。魚鱗から鶴翼へですか。こちらが早いと、そのまま突っ込んで勝ち。同じならーーーにらみ合い。同じでやりあえばーーー消耗戦。思い込みです。
歴史的資料や史跡に密着したわかりやすい解説動画を、いつも楽しく拝聴しております。客観性と正確性を重んじる内容で、とても勉強になります。また、聞き手の浜崎さんの飾らない反応も面白く、いつも笑ってしまいます。私は大阪出身ですので、夏の陣の話は特に興味津々です。これからも楽しみにしております。
最後はなかなか面白かったですよ。やはり大坂夏の陣は戦国最後の戦という感じですね。まあ後悔のないよう戦えたもの勝ちというかな。家康も自分の死もありうるというとわかってたみたい。大東亜戦争ではないですが、時代が変わるときにはどうも大きな戦争ありきというか、古い人、文化を破壊してというプロセスがあるようですね。
先生いつも楽しみにしております、ありがとうございます
本多忠朝の墓のある一心寺に、身内が骨仏となり眠っています。アルコール依存症でした 。骨仏というのはたくさんの人の遺骨でできた塑像の仏像です。一心寺で買える長老が執筆された「うえまち第2集」には天王寺口の戦いが写真と共に解説されており興味深いです。
真田丸全編の鑑賞と並行してして見させて頂いてます。
解説が本当に楽しくて優しくて✨✨✨ドラマを何話か見た後には勉強になってのめり込みます😆
もう50歳になりますが、学生時代にこちらのチャンネルがあったらもっと日本史の成績が良かっただろうな、、
今度秀頼の生存の謎について解説してほしいです!
うわぁ、またまた、良いところで来週に続くですね ・・・。続きが待ち遠しいです。楽しみにしております。
関ケ原から夏の陣まで多くの番組、本を読んだがこれほど説得力ありかつ面白い話はなかった、その時の実像あり方がありありとわかりました、又話方が面白い、他の歴史の場面の事も取り上げてほしいです。
私の中ではこの話が最高です、その証拠に次はどうなるのと聞きまちたくなります。
真田信繁はもちろんのこと、毛利勝永もいろんな方からかなり高く評価されてますね。あと、真田信繁の最期については、討ち取った側の越前松平家の記録によれば、通説(安居神社で疲れ果てて休んでいたところに敵が来てやられた)とは異なり、生國魂神社周辺と勝鬘院周辺の間の高台において馬から降りて正々堂々と槍で戦って討死したらしいです。
めちゃ楽しみです😊夏の陣はこんな広範囲だったんですね。コロナ明けたらぜひ大阪城に行こうと思います!
道明寺は所用で訪れたことがありますが、当時の雰囲気の残滓が残っている感じがしました。
コロナ禍が落ち着いたら、紹介された史跡を訪れにいきたいです
残滓が残ってるに突っ込みたい自分は心の狭い男
大阪市の平野区在住の者です
平野は幸村公とはゆかりがあり長吉神社に戦勝志願の登り旗が奉納されてます。
家康公が平野に入った事を知った幸村は通る道に地雷を仕掛けたが間一髪家康は逃れたがその時に身代わりに成った地蔵尊の首が数百メートル離れた全興寺まで飛んで行きました。また、平野だけの神話ですが最終決戦の茶臼山から逃げた家康を奈良街道を通り広い湿地帯まで追い詰めたが葦の中に隠れた家康を見失ったと云われる場所もあります
私は大きか方面の地理が全くわからず、各地の位置関係が不明でしたが、今回の解説で地図を指し示しながらの解説でしたのでよくわかりました。毎回楽しみにしてます。
23:48 伊達政宗の軍勢の他に、先鋒:水野勝成・二番手:本多忠正・三番手:松平忠明・五番手:松平忠輝の総勢34300の兵でしたね。
26:38 木村重成像は、現在は撤去されて住宅地になってます。
そうでしたか。残念ですね。ご指摘ありがとうございました。
堺市民です
堺出身のご年配で古くから代々商売をされてる方は、豊臣が、秀吉が大嫌いなんだとよく聞きます
堺の商人が、大阪城築城の時に、城下町で商売しろと連れて行かれたとか
大坂夏の陣では、徳川方として堺の町が焼かれたのですね、、それでまた連れて行かれたり避難したりだったんでしょうね
ただ、冬の陣で大阪城を攻撃したのは堺の大砲だったそうです 博物館に展示されてます
僕も堺を訪れたときに同じことを感じました。信長にも「負けない」という対抗意識がカルタにも書かれていました。堺商人たちの意気込みを感じました。
東大阪市に「伊達藩ゆかりの御姫さまの墓跡」があります。
市橋先生、私は永久保存したいと思っております。
機会がありましたら、是非お越し下さい。
どの時代でも当然天才はいるものですが、書かれた方たちの気迫を感じますよ。書くというよりは「後世に自分の名と共にこの戦いを記す~」という思いだったのかな。タイムマシンで過去に戻ってみれば、ひとときの限定された範囲のことでしょうが、まさしく戦乱の地獄図なのでしょう。やはりこれで終わらさないと~。この後は徳川300年の平和、日本とはホント凄い国なのですよ。
先生いつもありがとうございます。お疲れ様です
2016年に 大坂夏の陣古戦場 後藤又兵衛基次之碑 道明寺合戦記念碑 志紀長吉神社 真田幸村休憩所跡
等を見て回りました。
次週を楽しみにしています。
後藤基次と真田信繁が古戦場で待ち合わせ、先に到着したのは後藤基継(約4000人)真田信繁(約4000人)一緒に戦わなければ勝ち目がないことで約束。その理由として、相手は3倍4倍の兵力であることで話し合いが付いていた。何を勘違いしたのか(一説には真田信繁が先に到着して戦っている)後藤基次が先に合戦を始めて戦死、それを聞いた真田信繁が戦術の方で悔しがったと言う、ナゼ待たなかったのか・・・もしも夏の陣がなければ、豊臣は存続できたか?これも難しい話。浪人たちには言葉が悪いが一攫千金を狙ったが戦死、しかし名は歴史に刻まれて世代を超えて伝えられていく、まさに武士の誉れ。
徳川家康の津阿波正彦の役はハマリ役でしたよね。
豊臣方だけで7万人も居たら、明日の天下の趨勢は知れたものではありませんね。
徳川氏が、必死で潰しにかかるのも分かります。
家康さんというカリスマが居なかったら出来なかった、戦国最後の大戦。
幕府が政道を進めていくにあたって不安定要因になりかねない牢人たちを、この機会で一網打尽に成敗する目的もあったでしょうね。
大坂城を出たとしても、大名である限り、改易は免れなかっただろう。完全に武装解除〜人畜無害の摂関家のひとつになるのが、家名を尊属させる一番の方策だったと思う。
今日のホスト様は元気そうです。顔色がいい!
法隆寺に徳川家康公の肖像画があるのは知りませんでしたわ😅
兵力的に劣勢な側は山間部で待ち伏せ攻撃するのが定石なのに、
後藤基次が向かったときには
すでに幕府軍の先鋒が河内平野に出てきてしまった。
松平忠輝の名前は出てこず、蟄居謹慎、松平忠直は頑張って、恩賞は茶入れで激怒
二人の顛末は似たものだけど
忠直の家は残った
大河ドラマのどうする家康のキャスト気になります、先生のお話聞きながら楽しみです!
先生、キリシタンの明石全澄は落ち延びたと聞いた事がありますが何処へ行ったのでしょう?
東京の有楽町は有楽斎の屋敷でもあったところなんでしょうか。
その通りですね。有楽斎の遺産は犬山城の近くにも国宝の茶室、庭園として遺されているんですよ。
有楽斎の茶室は如庵で名鉄が所有して毎年1月1日から茶会が数日開かれます、庭に有楽椿もあります。
家康は、大阪夏の陣で死んだ・・説もありますが・・❔
今の大阪城は、旧大阪城の上に建ってるんですね!!
後藤又兵衛が和睦派で、真田信繁が中間派なのは意外。
関ヶ原で秀頼が出陣すれば、西軍の志気が上がり、寝返りも少なかっただろが、建前は、豊臣傘下(直属の家臣は少ない)の大名の争いだから、その意味では、若年の秀頼は蚊帳の外にされたと言える。
大阪の陣では、秀頼は成人していたとはいえ、既に浪人以外への求心力は無く、野戦に持ち込まれ、家康討ち取りに絞る桶狭間のような奇襲が成功出来なければ、兵力の差で負けるのは明らか。
現役の大名で秀頼に味方する者が一人もいない………状態で家康相手に合戦……😓😓
やっぱり正気ではありません😃🤔
秀頼という人は、自分自身でしたいことや思った事がひとつでも叶った事があるのでしょうか?😃
まるで……人形のようです😓
豊臣家の権威のために生かされ、浪人どもの都合で……籾井矢倉で死んだ……秀頼の声って……歴史の中で聞こえてこない😓😓😓😓😨😫
豊臣秀頼が西軍についたらまず小早川秀秋と脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱は裏切らない。それと東軍の福島正則、黒田長政、細川忠興、田中吉政は秀頼のいる西軍に味方するよ。まあ淀殿が石田三成に半信半疑だった時点でありえんが
う~ん
今回説明頂いたところは前哨戦?それとも今回の冒頭から夏の陣?
あまり詳しく調べてなくて分かりません(汗)
今回から夏の陣です。ここから徐々に大坂城付近押し戻されて最終決戦となります。次回最終決戦となります。
結局「大坂夏の陣」というのは平たく言ってしまうと
和睦後の対立後のいくさの数珠つなぎの総称を言う
・・・のですね(汗)
実際戦国時代からは戦乱のお話しが多くなっていたので
ようやく一区切りがつく、と視聴者的にもホッとしてます(苦笑)
お返事ありがとうございました
お声が童門冬二さんに似てますね
勇将ではあるが、大局観が無い戦国でしか生きられない憐れな人ではある
長宗我部盛親が藤堂高虎の軍を粉々に打ち砕いたところが語られていない。
地図は地形図を参考にした方がわかり易いかも知れませんね。
織田有楽斎は、徳川方に内通してたんでしょうかね。
それと、堺は徳川方の物資補給地だったんですね。豊臣方に焼かれてしまったとは知りませんでした。
徳川の補給基地だけでなく、豊臣も平常時は堺から補給を得ていました😃🤔
糧道と言っても過言ではなく、ここを潰したということは……徳川が死ぬか自身が死ぬか?🤔😓
という行動かと😃🤔
初コメ失礼します
昔本で真田幸村が伊達政宗と対峙したあとこいつは信用できるって認めて自分の娘に何かあったら政宗を頼れって話聞いたんですが本当何ですかね?
よければ詳しい方教えていただきたいです
今年京都府立の歴史学科を受験しようと思っていまして「なるほど歴史チャンネルさん」の動画でモチベーションを保てています
本当にありがとうございます
また来週が待ち遠しい
そういうお話が残っていますね。歴史学科を目指すんですね。是非頑張って欲しいです。歴史学の勉強は古文書の読解など、結構地道な内容が多いです。めげずに頑張って欲しいです。
秀吉亡き後の事、スムーズに派遣を家康に譲って居ればお家取り潰しにも合わずに長らく政治には干渉できないかも知れないが、お家取潰しにも成ら買ったものを・・・。
豊臣のプライドがそれを許さなかった。
家康は大和廻ではなく飯盛から四條畷の砂に着陣したのではないでしょうか?
当時そのものの記録は殆ど無いからなぁ。なんとも言えん
秀頼の子供の国松が実は処刑されずに、隠されて生き延びたという伝説がありますね、どうなんでしょう?
この大坂夏の陣で、豊臣家は滅ぶ訳ですが、先生は〔高台院〕(北政所。秀吉の正室)の気持ちを、どう推測されますか!?
①悲しんだ。
②満足した……。
有る歴史家は次のように論じています。
高台院は、
『豊臣家は私と秀吉で築いた。私を軽んじる若い女〔淀殿〕とその息子〔秀頼〕に手渡す位なら、いっそのこと潰した方が良い!』
※高台院は、寛永元年9月〔1624年10月〕、豊臣家の滅亡、徳川家康の死亡を見届けて亡くなります。
先生はどう推測されるでしょうか?
高台院の気持ちまでは測りかねますが、小説やドラマによっては対立関係にあったように描かれますね。
ただその様な史料もありませんし、むしろ連絡を取り合っていたという論も存在します。
家康との関係から考えると、「潰してほしくはなかった」というところではないかと思いますが。
高台院が秀吉の霊を弔うために建立した高台寺は、家康が大変手厚く協力し、堀直政などの普請奉行を充てるなどした寺院です。家康と高台院の関係が窺えます。
大坂城に立て籠もった秀頼や淀君に、様々な説得を行ったというのも、「残してほしい」気持ちの表れだったと思いますが。
@@市橋章男
丁寧な解説・回答ありがとうございます。🙇
左側の女性は何というアナウンサーですか?
浜崎友里といいます
ありがとうございます
色気ありますね。
淀を先暗殺し真田を参謀にし秀頼総大将としとけば勝てたかもな
もともと濃厚な姻戚関係を築いていたので素直に大和郡山に移れば良かった筈。秀頼の叔父・大和大納言秀長の領地であり格が高く左遷では無い。さらにあまり指摘されていないが、淀殿は実妹・お江に対する蔑視「再婚歴あり。臣下・徳川の息子に嫁す姉さん女房。その風下に付くのは我慢ならぬ」が災いした可能性大。最終的に徹底抗戦を唱えた連中に「庇貸して母屋を取られ、滅んだ」結果を招いたと思う。
お二人とも知性が高そう。そもそも歴史とは一発勝負!100回繰り返せて一番確立のいいものを~なんてやってられない。ましてや人生わずか50年で終わり。たがら桜散るなんて発想がでますし、その判断と行動に本性が現れる。今も同じですがね。戦国時代は大変だったけど、人は生き生きしていたとは感じますし、数は少ないでしょうが、あの「7人の侍」みたいなお人よしのバカ侍もいたことでしょう。いやはやおもしろい。はやくタイムマシンができないかな。少なくとも過去は見れるはずなのでね。空の星々の光は何万年も前の光ですから可能性は否定できませんよ!
毎回律儀にWikipediaからの引用を語るとは、どこぞの政治解説者とは違うなw
大坂の陣が終わったら次は島原の乱かな?
大阪夏の陣。
こういう作戦はどうですか。
まず徳川方の大和路軍3万4千。
これを遊兵化するため国分の隘路に兵を5〜6千置き、道明寺への侵出を阻止する。
半日やそこら保ちますか?
この徳川大和路軍3万4千の道明寺進出を阻止できなければ、作戦自体、成り立ちませんか?
この奈良からの大和路軍。
高野街道を南下してくる徳川主力の
大阪平野への進出を掩護するための部隊だそうですから。
その辺りに詳しい方、宜しく。
一方、生駒山系の西側、高野街道を南下してくる徳川方の主力に対しては。
真田、毛利隊を道明寺の北付近に配置。
この部隊で徳川主力の頭を抑(おさ)え。
八尾、若江辺りから横腹を突く。
縦隊で行軍してきた徳川主力が
真田、毛利軍を前に
横に広がるわけですか。
行軍時は縦隊。
戦闘に際しては横に広がるらしいですので。
そこを横、もしくは後方から。
相当強く徳川主力先頭に対し、圧力を加えなければ。
なりませんか?
長宗我部、木村隊の横槍に対し、井伊隊、藤堂隊に容易に側面展開させないためには。
圧力を加え、押し返せるくらいには。
そうなるとどのくらいの兵が必要か。
その辺り詳しい方、よろしくおねがいします。
また戦国シュミレーションゲームに詳しい方も、よろしくおねがいします。
だいたい大阪方は冬の陣でも夏の陣でも野戦の戦績はあまり良くないようですし。
冬の陣でも当初。
城外へ出ていますか。
紀州方面へ。
しかしーーー。
あれでは籠城もやむ無し?
まさか。
烏合の集を訓練するには冬の陣では時間的に。
夏の陣ならーーーどうですか。
冬、夏ともにどの程度の訓練期間を取れたのか。
とにかく。
家康本陣を突くにはどの辺りから。
星田に留まっていましたか。
高野街道を南下してくる徳川主力。
10万程ですか。
何キロの長さになるのか?
2列縦隊なら50キロメートル以上。
4列縦隊なら25キロメートル以上ですか?
行軍速度が時速4キロとすると(旧軍ではそのくらいらしいです)。
この時代はどうですか。
当時の高野街道はどのくらいの道幅が。
先頭の部隊が出陣してから、家康本陣は何時間後に出発となるのか?
道幅と到着時間等からだいたいの兵数はーーーわかりませんか。
徳川主力の先頭が道明寺付近に達した時、家康本陣はどこに。
詳しい方、おねがいします。
徳川主力は長蛇の列。
木村隊、長宗我部隊以外にも
何本くらい、横槍をいれれば。
詳しい方、おねがいします。
それとーーー。
また別な作戦となりますがーーー。
徳川方の分進合撃を利用して
大阪方が内線作戦を展開するならどこで?
目標は大和路軍3万4千ですか?
戦場は道明寺付近ですか?
国分の隘路を越えた辺りですか?
夜営していたなら夜襲という手も。
その時の大阪方の兵の配置はどのようになりますか?
しかし、伊達も忠輝も大阪方に内応するとかなんとか。
それをーーーどうかんがえるか。
それに徳川方も分進するなら12万と3万4千などということにせず。
8万8万とでもしてくれれば、
大和路軍8万を国分の隘路で拘束し
徳川主力8万と大阪方5万でなんとか勝負に。
冬の陣の時の徳川軍の進軍路はどうだったのですか?
家康は奈良経由で入ったそうですが。
その時の大和路軍と、主力の兵数は。
ご存知の方、おねがいします。
その辺り詳しい方おねがいします。
大阪夏の陣。
こういう作戦はどうですか2。
八尾、若江戦後。
大阪城の南に展開した徳川軍。
それに対し。
真田隊は茶臼山に。
毛利隊は四天王寺に。
それぞれ陣取る。
大野隊は岡山にーーーですか。
それに対し徳川軍は。
その前面に展開。
進撃を開始する。
真田隊、毛利隊はその場を固守。
大野隊もーーーですか。
家康本陣も、秀忠本陣も近づいて来ているようですし。
そこでーーー大阪方は、秀頼の出陣を乞う。
秀頼が出陣すれば。
秀頼の馬印を見れば。
徳川軍は我先に、秀頼目掛けて。
突撃する。
陣形はどうなるのか?
ご存じの方、よろしく。
そこをつけばどうなるのか?
それで。
徳川方の前軍が秀頼目掛けて突撃をすればその隊列は。
その前軍の備えの一部が我先にと真田隊の横を通り過ぎたところを徳川方の前軍へ突撃をかけるか。
それとも
徳川方の前軍が全て通り過ぎた所で家康、秀忠本陣へ突撃するか。
家康本陣はさすがに秀頼目掛けてということはないですか。
それと正面からぶつかる。
そこを真田、毛利隊のどちらが正面から、もう一方が横から攻める。
岡山方面でも同様に秀忠本陣へ
大野隊が突撃する。
テレビ等を見ていると
この当時の戦いは。
進軍隊形から横隊へ
早く展開した方が勝ち。
魚鱗から鶴翼へですか。
こちらが早いと、そのまま突っ込んで勝ち。
同じならーーーにらみ合い。
同じでやりあえばーーー消耗戦。
思い込みです。