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菊池、赤星、島津、大友、阿蘇、少弐と出てくる名前は栄枯盛衰があれど戦国時代まで続いてるのも多くて驚く。
家によっては今も続いてるからな
島津氏は現在もいるからすごい。大友氏も秀吉の九州統一で降伏したけどどうなったんだろう
ちょうど数十年前に読んだ名著、武王の門を思い出しました。懐良親王を主人公に据えたまさに名作でしたよ。
きたーーー!!!楽しみに待ってました!!!南北朝時代の九州はすごい大河ドラマで見てみたいくらい熱いですよね!
カオス過ぎるから大河に向くかは分かりませんが見てみたいです
歴史上の人物に扮したゆっくりたちの丁寧なやり取りがNHKの人形の三国志みたいな味になってて好き
ついにきた!九州の南北朝!一気に征西将軍府のピークまできましたか。他の方も言っておられるが、武王の門は名作だったなー!霊夢が言ってたようにずっともぐらたたきしてる間に了俊が来てしまったことが残念。懐良親王も負傷したり、後村上天皇も着ていた鎧に矢が刺さったりなど、皇族が最前線に出ていた稀な時代ですね。
待ってました!歴代チャンネルにリクエストしまくりましたが応えて頂いて感謝です!誰もやってくれないなら自分で作るかで考えましたが瞬殺で挫折wありがとうございますさすがカオスな九州だぜw
ありがとうございます!
わざわざありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいでございます。
我が家も熊本県北の菊池の隣でして菊池一族の流れだと聞かされており 南朝スイッチ入ります、懐良親王の墓参り行っております…三ヶ所の候補地全てに 私的には八女市かなと思いますが 茶畑のある山の中腹です
矢部に引きこもったのも菊池と連絡とりやすかったという話もありますね毎年。五条家が矢部で九州南朝の資料とか公開してますね一度行きたいけど矢部はなかなか遠い・・・・・・・・
谷山に懷良親王を祀る神社があるな、こういうことだったのか
菊池宗家は断絶してしまいましたが分家、傍流は現在迄流れを保ち武光の兄弟 武澄公の末孫として菊池を名のっている私です。今回のアップ大変有難く視聴しました、ありがとうございます。
宗家は大友氏に吸収されて滅亡しましたね。(≧∇≦)b
菊池と言えば、菊池千本槍。いわゆる槍衾は菊池氏が始めたと伝わっていますね。元寇との集団戦争での教訓から発想をえたとか。
北九州の名門少弐氏にとってもこのあたりの時代が最後の輝きだった南朝の勢力が衰退した後は大内氏に狩られ続ける歴史が続く…
大内さんの前に今川さんが・・・
九州の独自性は近年迄続きますね。
これぞ待ち侘びた作品!
数年間福岡に住んでいて高校時代に大刀洗町の同級生が数人いましたが、大刀洗と言う地名は筑後川の戦いで菊池武光が戦で血塗れになった刀を洗った故事から名が付いたと聞いてます。今川了俊が登場する後編も期待しております。
裏話なんですけど、九州の南北朝を纏めたメモには、大刀洗町の事が書いてありました。しかし、本編だと何故か、入れ忘れてしまったという・・・。この戦いの地名になった場所は色々とあるみたいですね!今川了俊の後編も必ずやおつくり致しますので、しばしお待ちください!
楽しみにしてたので嬉しいです(*^-^*)!九州の南北朝ゆっくり楽しませていただきました♪
九州の人間だけど南朝を応援してる。いつの間にかw 懐良親王が若くて頑張るからかな?
九州をまとめきれないうちに中央の政情が安定化してしまったのが九州南朝勢力の悲しいところ
参加者全員が「九州王に!!おれはなる!!」だからまとまりが全く無いw
島津「南北朝の菊池って正直うちらよりやべーわ」
太宰府陥落してから没落しましたがまだまだ元気ですね
国宝の五条家文書が残っていたことに感謝です。北方謙三氏の武王の門がおすすめです。
このような騒乱が全国で起こっていた南北朝はやはりカオスですね。
南北朝は本当に敵味方の入れ替わりが激しいですね。動乱の時代と言う感じが物凄くします。最後にちょっと気になったのは 33:24 辺りで「足利義満が即位」と言っていますが、即位と言うのは皇帝や王になる場合に使う言葉で、日本で言えば天皇が交代した場合に使う言葉だと思います。足利義満は征夷大将軍なので「任官」ないし「任命」、もしくは「就任」が適切な言葉だと考えます。
仰る通りですね。将軍は即位とは言いませんね汗
懐良親王が朱元璋に送った書状の中にある「天下は天下の天下にして、一人の天下にあらず」という呂氏春秋から引用したであろう言葉に、懐良親王の諦念を感じてしまいます。何故ならばこの言葉は一人の天下を目指した後醍醐天皇とは明らかに対極にある言葉で、その言葉が懐良親王から出た事は彼が南朝を擁護するべき立場にありながら天皇独裁があるべき天下の形だとは考えてなかったのだろうと思うからです。
菊池武光カッコイイ!男の中の男だね。
北方謙三の歴史小説処女作「武王の門」がなかなか読ませてくれます
九州の南北朝おもしろそう、四国・中国地方の南北朝も見たいです
コノ後の南朝の没落からの九州探題のおかげで北朝の内乱を御期待ください
四国の南朝方は、新田義貞の弟の脇屋義助や河野の分家、土居氏得能氏や海賊村上義弘がいましたが…(ノД`)シクシク
北関東から南東北、山梨等に菊池姓が多いのは、菊池一族が遠征したからと聞いてますが、その話もこれから出て来るのかナ❔。
動画ありがとうございます。南北朝の動乱の背景とかを知ると戦国時代よりも面白いものがありますよね。島津氏が親幕であるにもかかわらず、一進一退の攻防の後に薩摩に優位な地位を確立したというのは懐良親王自身の有能さもあるのでしょうか。ただ、このときは南北朝で混乱していた時代ですから分裂していたとは言え、錦の御旗もある程度効力があった可能性もあるかな、と。肥後の菊池氏ですけど、宗家自体は断絶になったにもかかわらず傍流の子孫が明治維新の時代に叙爵を受け、菊池武夫が軍人・右翼の代表として天皇機関説を攻撃して軍国主義への道を促進させた辺り、南朝イデオロギーが近代において害悪をまき散らしたなと個人的に思っています。
後醍醐帝の子息は割と優秀な人材が多い気がする。地味ですけど四国の南北朝期の説明もお願いします。
逃げ上手の若君の流れから来ました〜鎌倉南北室町が熱い時代なのを知りました。てか足利尊氏て九州に来てたのね〜
十数人が、土地に数世代居付いていた島津に匹敵する人数を集められるんだから、この時期の皇子の威勢ってすごいもんなんだなその皇子が成人して(守役は味方として残ったまま)活動するとなると、そりゃ強くなるわなあ……
中央も一時期カオスだったとは言え、九州はもっとカオスだったんですね(笑少弐さんの七代発言が初代で終わりとは(笑
少弐さんは色々とあれなんで。。名門の誇りで九州を任せられるプライドがあったのかな。。でも、その後も少弐さんが探題にはなりませんでしたが
元はとはいえば尊氏が少弍さんに九州を任せておけばここまで混乱したかったかも知れん(笑)
鎌倉時代(直前)の平氏も室町時代の足利氏も九州で兵を補給してくるよねえ。そんなに余ってたんだろうか。
改めて南北朝から足利義満までを調べたが、後醍醐天皇と足利尊氏死後でもまだ国が安定していなかった。この不安定さが応仁の乱から室町幕府消滅まで続いていた。南北朝時代から室町時代とすんなり切り替わったと思い込んでいた。
久々の南北朝きたー!九州の勢力は切り替えが早いなあ…まさに霊夢のいうモグラ叩き状態!
尊氏、なんで少弐頼尚に九州任せなかったのさと思ったけど、人となりを看破してたのかも。「コイツに任せたら、絶対敵増やすだけ増やして負けるわ…」鎌倉時代と違って地方の武士が力をつけてきていて、1代での統一は中々難しかったのかもですね。戦国末期もなんだかんだ言って信長秀吉家康3代に加えて、家光辺りまでかかってるから…仮に、今年応仁の乱が起こったとすると、元和偃武がほぼほぼ23世紀になるってのが、気が遠くなりますわ。
尊氏や将軍家は余り人を見る目は無いような気がしますな。一色や今川了俊に代わり九州探題に任命された渋川氏などは無能な一族だったので大内氏がとって代わりました。(≧∇≦)b
多分、在地勢力より遠い九州だから側近や足利一門の人間に任せたかっただけやないかな?奥州も斯波家が派遣されてるし。渋川氏は探題府を綾部神社の裏に作ってたと言うし意外と交通の要所を抑えているしそこまで無能とは思えないのやないかな。在地勢力の助けを借りれないから歴代探題は苦労したと思う。大内氏にすれば探題を助けますよと九州に侵攻できる口実出来て良かったでしょうな
五条頼元と後醍醐天皇の間でこのような話があったと思われます・・・五条さん「先輩いつもホテルR9っすよね~」帝「泊まるだけで人々を助けることができるからさ😏」
私、歴史には素人ですが、足利尊氏の時代、日向には伊東祐持(工藤祐継子孫)が下ってきたはず(北朝?)。これから、九州に土着して、一時期は日向をまとめたが、戦国末期 薩摩に 九州を追われた。伊東祐兵が 豊臣秀吉と共に戻ってきて、伊東家は明治まで日向南部に存在することになる。この時期には、まだ勢力拡大中で、箸にも棒にもかからない勢力だったのかな。
太平洋戦争の熊本師団を彷彿させる突進力に戦慄したw
熊本は自衛隊への入隊希望者数もトップクラスだそうです。
その時の様子を見てみましょうか新作キタ━(゚∀゚)━!
九州の南朝勢は結局菊池武光のワントップ頼りだったからなあ…その菊池武光が没して幕府が本格的に征伐に乗り出したら終焉するわな…(まぁ菊池武光が亡くなる前で既に東征計画の大頓挫と大宰府放棄があったけど)
太宰府なんて毎回陥落する場所ですし。。菊池武光がいなくなってもなんとか抵抗してたから。。近所の地名なんかが南朝の方々が由来だから九州以外は北朝推しの自分でも九州は南朝を推してしまう九州の人間ですw
待ち望んでたシリーズの続きが来た!「文綺」がググってもわからなかったのだが、どういう物なんだろう?
文綺は布の一種で貴重な価値があるものみたいですね。自分も詳しくは分からないのですが・・・。
@@れーしch歴史 布というのがわかっただけでもありがたいです。
これそもそもどうやって敵性海域の豊後灘を超えて、なぜに島津領する敵性地域の鹿児島に上陸したんだ?
谷山隆信が南朝派やったからやないの?薩摩も島津が守護だが国人の中には南朝方がいたらしいし。薩摩にしばらくいたのは谷山隆信が島津に対して懐良親王を旗印に対抗したくて手放さなかったと本で読んだ記憶が本当は伊予から豊後に上陸→肥後で阿蘇氏とかの支援受けたかったのやないかな
@@user-lp2mt1oi2o 有名なのは伊予の忽那水軍ですがそう考えると水軍(瀬戸内海)は南朝を推してた勢力が多かったのかもですね北朝より通行料とか勝手に取っていいよと南朝から言われていたのかな
瀬戸内海や四国は、忽那、村上海賊衆、土居、得能氏など南朝勢力が頑張ってたけど、九州は大友、島津、少弐、大内氏が幕府方で阿蘇氏は様子見。菊池は内陸部で、とりあえず上陸出来るのが他になかった。(≧∇≦)b
「かねよし」とも「かねなが」とも言いますね(*・ω・)ノ
九州は確かに独自性があったのに…今は中央にべったりなのが、なんともなぁ…(個人の見解です)(´・ω・`; )
菊池、赤星、島津、大友、阿蘇、少弐と出てくる名前は栄枯盛衰があれど戦国時代まで続いてるのも多くて驚く。
家によっては今も続いてるからな
島津氏は現在もいるからすごい。大友氏も秀吉の九州統一で降伏したけどどうなったんだろう
ちょうど数十年前に読んだ名著、武王の門を思い出しました。
懐良親王を主人公に据えたまさに名作でしたよ。
きたーーー!!!
楽しみに待ってました!!!
南北朝時代の九州はすごい大河ドラマで見てみたいくらい熱いですよね!
カオス過ぎるから大河に向くかは分かりませんが見てみたいです
歴史上の人物に扮したゆっくりたちの丁寧なやり取りがNHKの人形の三国志みたいな味になってて好き
ついにきた!九州の南北朝!
一気に征西将軍府のピークまできましたか。
他の方も言っておられるが、武王の門は名作だったなー!
霊夢が言ってたようにずっともぐらたたきしてる間に了俊が来てしまったことが残念。
懐良親王も負傷したり、後村上天皇も着ていた鎧に矢が刺さったりなど、皇族が最前線に出ていた稀な時代ですね。
待ってました!
歴代チャンネルにリクエストしまくりましたが応えて頂いて感謝です!
誰もやってくれないなら自分で作るかで考えましたが瞬殺で挫折w
ありがとうございます
さすがカオスな九州だぜw
ありがとうございます!
わざわざありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいでございます。
我が家も熊本県北の菊池の隣でして菊池一族の流れだと聞かされており 南朝スイッチ入ります、懐良親王の墓参り行っております…三ヶ所の候補地全てに 私的には八女市かなと思いますが 茶畑のある山の中腹です
矢部に引きこもったのも菊池と連絡とりやすかったという話もありますね
毎年。五条家が矢部で九州南朝の資料とか公開してますね
一度行きたいけど矢部はなかなか遠い・・・・・・・・
谷山に懷良親王を祀る神社があるな、こういうことだったのか
菊池宗家は断絶してしまいましたが分家、傍流は現在迄流れを保ち武光の兄弟 武澄公の末孫として菊池を名のっている私です。今回のアップ大変有難く視聴しました、ありがとうございます。
宗家は大友氏に吸収されて滅亡しましたね。
(≧∇≦)b
菊池と言えば、菊池千本槍。いわゆる槍衾は菊池氏が始めたと伝わっていますね。元寇との集団戦争での教訓から発想をえたとか。
北九州の名門少弐氏にとってもこのあたりの時代が最後の輝きだった
南朝の勢力が衰退した後は大内氏に狩られ続ける歴史が続く…
大内さんの前に今川さんが・・・
九州の独自性は近年迄続きますね。
これぞ待ち侘びた作品!
数年間福岡に住んでいて高校時代に大刀洗町の同級生が数人いましたが、大刀洗と言う地名は筑後川の戦いで菊池武光が戦で血塗れになった刀を洗った故事から名が付いたと聞いてます。
今川了俊が登場する後編も期待しております。
裏話なんですけど、九州の南北朝を纏めたメモには、大刀洗町の事が書いてありました。しかし、本編だと何故か、入れ忘れてしまったという・・・。
この戦いの地名になった場所は色々とあるみたいですね!
今川了俊の後編も必ずやおつくり致しますので、しばしお待ちください!
楽しみにしてたので嬉しいです(*^-^*)!九州の南北朝ゆっくり楽しませていただきました♪
九州の人間だけど南朝を応援してる。いつの間にかw 懐良親王が若くて頑張るからかな?
九州をまとめきれないうちに中央の政情が安定化してしまったのが九州南朝勢力の悲しいところ
参加者全員が「九州王に!!おれはなる!!」だからまとまりが全く無いw
島津「南北朝の菊池って正直うちらよりやべーわ」
太宰府陥落してから没落しましたがまだまだ元気ですね
国宝の五条家文書が残っていたことに感謝です。北方謙三氏の武王の門がおすすめです。
このような騒乱が全国で起こっていた南北朝はやはりカオスですね。
南北朝は本当に敵味方の入れ替わりが激しいですね。動乱の時代と言う感じが物凄くします。
最後にちょっと気になったのは 33:24 辺りで「足利義満が即位」と言っていますが、即位と言うのは皇帝や王になる場合に使う言葉で、日本で言えば天皇が交代した場合に使う言葉だと思います。
足利義満は征夷大将軍なので「任官」ないし「任命」、もしくは「就任」が適切な言葉だと考えます。
仰る通りですね。将軍は即位とは言いませんね汗
懐良親王が朱元璋に送った書状の中にある「天下は天下の天下にして、一人の天下にあらず」という呂氏春秋から引用したであろう言葉に、懐良親王の諦念を感じてしまいます。何故ならばこの言葉は一人の天下を目指した後醍醐天皇とは明らかに対極にある言葉で、その言葉が懐良親王から出た事は彼が南朝を擁護するべき立場にありながら天皇独裁があるべき天下の形だとは考えてなかったのだろうと思うからです。
菊池武光カッコイイ!
男の中の男だね。
北方謙三の歴史小説処女作「武王の門」がなかなか読ませてくれます
九州の南北朝おもしろそう、四国・中国地方の南北朝も見たいです
コノ後の南朝の没落からの九州探題のおかげで北朝の内乱を御期待ください
四国の南朝方は、新田義貞の弟の脇屋義助や河野の分家、土居氏得能氏や海賊村上義弘がいましたが…(ノД`)シクシク
北関東から南東北、山梨等に菊池姓が多いのは、菊池一族が遠征したからと聞いてますが、その話もこれから出て来るのかナ❔。
動画ありがとうございます。南北朝の動乱の背景とかを知ると戦国時代よりも面白いものがありますよね。
島津氏が親幕であるにもかかわらず、一進一退の攻防の後に薩摩に優位な地位を確立したというのは懐良親王自身の有能さもあるのでしょうか。ただ、このときは南北朝で混乱していた時代ですから分裂していたとは言え、錦の御旗もある程度効力があった可能性もあるかな、と。
肥後の菊池氏ですけど、宗家自体は断絶になったにもかかわらず傍流の子孫が明治維新の時代に叙爵を受け、菊池武夫が軍人・右翼の代表として天皇機関説を攻撃して軍国主義への道を促進させた辺り、南朝イデオロギーが近代において害悪をまき散らしたなと個人的に思っています。
後醍醐帝の子息は割と優秀な人材が多い気がする。地味ですけど四国の南北朝期の説明もお願いします。
逃げ上手の若君の流れから来ました〜鎌倉南北室町が熱い時代なのを知りました。てか足利尊氏て九州に来てたのね〜
十数人が、土地に数世代居付いていた島津に匹敵する人数を集められるんだから、
この時期の皇子の威勢ってすごいもんなんだな
その皇子が成人して(守役は味方として残ったまま)活動するとなると、そりゃ強くなるわなあ……
中央も一時期カオスだったとは言え、九州はもっとカオスだったんですね(笑
少弐さんの七代発言が初代で終わりとは(笑
少弐さんは色々とあれなんで。。
名門の誇りで九州を任せられるプライドがあったのかな。。
でも、その後も少弐さんが探題にはなりませんでしたが
元はとはいえば尊氏が少弍さんに九州を任せておけばここまで混乱したかったかも知れん(笑)
鎌倉時代(直前)の平氏も室町時代の足利氏も九州で兵を補給してくるよねえ。
そんなに余ってたんだろうか。
改めて南北朝から足利義満までを調べたが、後醍醐天皇と足利尊氏死後でもまだ国が安定していなかった。この不安定さが応仁の乱から室町幕府消滅まで続いていた。南北朝時代から室町時代とすんなり切り替わったと思い込んでいた。
久々の南北朝きたー!
九州の勢力は切り替えが早いなあ…まさに霊夢のいうモグラ叩き状態!
尊氏、なんで少弐頼尚に九州任せなかったのさと思ったけど、人となりを看破してたのかも。
「コイツに任せたら、絶対敵増やすだけ増やして負けるわ…」
鎌倉時代と違って地方の武士が力をつけてきていて、1代での統一は中々難しかったのかもですね。
戦国末期もなんだかんだ言って信長秀吉家康3代に加えて、家光辺りまでかかってるから…
仮に、今年応仁の乱が起こったとすると、元和偃武がほぼほぼ23世紀になるってのが、気が遠くなりますわ。
尊氏や将軍家は余り人を見る目は無いような気がしますな。一色や今川了俊に代わり九州探題に任命された渋川氏などは無能な一族だったので大内氏がとって代わりました。(≧∇≦)b
多分、在地勢力より遠い九州だから側近や足利一門の人間
に任せたかっただけやないかな?
奥州も斯波家が派遣されてるし。
渋川氏は探題府を綾部神社の裏に作ってたと言うし意外と交通の要所を抑えているしそこまで無能とは思えないのやないかな。
在地勢力の助けを借りれないから歴代探題は苦労したと思う。
大内氏にすれば探題を助けますよと九州に侵攻できる口実出来て良かったでしょうな
五条頼元と後醍醐天皇の間でこのような話があったと思われます・・・
五条さん「先輩いつもホテルR9っすよね~」
帝「泊まるだけで人々を助けることができるからさ😏」
私、歴史には素人ですが、足利尊氏の時代、日向には伊東祐持(工藤祐継子孫)が下ってきたはず(北朝?)。これから、九州に土着して、一時期は日向をまとめたが、戦国末期 薩摩に 九州を追われた。伊東祐兵が 豊臣秀吉と共に戻ってきて、伊東家は明治まで日向南部に存在することになる。この時期には、まだ勢力拡大中で、箸にも棒にもかからない勢力だったのかな。
太平洋戦争の熊本師団を彷彿させる突進力に戦慄したw
熊本は自衛隊への入隊希望者数もトップクラスだそうです。
その時の様子を見てみましょうか新作キタ━(゚∀゚)━!
九州の南朝勢は結局菊池武光のワントップ頼りだったからなあ…
その菊池武光が没して幕府が本格的に征伐に乗り出したら終焉するわな…
(まぁ菊池武光が亡くなる前で既に東征計画の大頓挫と大宰府放棄があったけど)
太宰府なんて毎回陥落する場所ですし。。
菊池武光がいなくなってもなんとか抵抗してたから。。
近所の地名なんかが南朝の方々が由来だから九州以外は北朝推しの自分でも九州は南朝を推してしまう九州の人間ですw
待ち望んでたシリーズの続きが来た!
「文綺」がググってもわからなかったのだが、どういう物なんだろう?
文綺は布の一種で貴重な価値があるものみたいですね。自分も詳しくは分からないのですが・・・。
@@れーしch歴史 布というのがわかっただけでもありがたいです。
これそもそもどうやって敵性海域の豊後灘を超えて、なぜに島津領する敵性地域の鹿児島に上陸したんだ?
谷山隆信が南朝派やったからやないの?
薩摩も島津が守護だが国人の中には南朝方がいたらしいし。
薩摩にしばらくいたのは谷山隆信が島津に対して懐良親王を旗印に対抗したくて手放さなかったと本で読んだ記憶が
本当は伊予から豊後に上陸→肥後で阿蘇氏とかの支援受けたかったのやないかな
@@user-lp2mt1oi2o
有名なのは伊予の忽那水軍ですがそう考えると水軍(瀬戸内海)は南朝を推してた勢力が多かったのかもですね
北朝より通行料とか勝手に取っていいよと南朝から言われていたのかな
瀬戸内海や四国は、忽那、村上海賊衆、土居、得能氏など南朝勢力が頑張ってたけど、九州は大友、島津、少弐、大内氏が幕府方で阿蘇氏は様子見。菊池は内陸部で、とりあえず上陸出来るのが他になかった。(≧∇≦)b
「かねよし」とも「かねなが」とも言いますね(*・ω・)ノ
九州は確かに独自性があったのに…今は中央にべったりなのが、なんともなぁ…(個人の見解です)(´・ω・`; )