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あらすじ説明するのうますぎるですw読みたくなった😂
今聞き返してて思ったのですがシッダールタの言葉の限界から自分で真理を探求する流れって、カントの理性(言語)の限界→理論理性より実践理性が上位と通ずるようにも思いました。カントの「我が頭上の星空と内なる道徳法則」ってシッダールタやガウタマのような一種の悟りの境地と捉えるととても面白いですね。
言葉は時間の源泉、時間は執着を生むというところ、しっくり感じました。そう思うと確かに、言葉は幸福を阻害するという側面があると思いました。そこから、例えば言葉を持たない動物はより幸福だろうかと考えると、それはまた違うような、言葉を持つから認識できる幸福もあるようにも思いました。例えば、言葉を用いて、人の話を聞いたり、思考したり、対話したりすることは、その行為自体がたのしく、幸福なことと表現しうるようにも思います。そもそも幸福とは何だろうという気分にもなりますが。また、悟りのような不立文字の世界にだけ集中することの先は、どんなものなのだろうという、不安や懐疑のような気持ちも少しあります。例えば、自転車の乗り方について、僕たちの多くは、それを言葉にすることはできませんが、達成や実行ができます。そして、そのことに大きな価値を認識したり幸福を感じたりしていません。では、生きること、生存の在り方について、悟りを達成することに、どんな意味があるのかと言うと、それは結果でなく過程を求めている可能性もあると思いました。悟りを求める過程が、忙殺や退屈や社会生の苦痛を癒やしてくれて快さを感じられるから、その過程が何かおもしろいから、そうしたくなるということもあるのかもしれないと思います。もちろんこれは、今ここにあるものという在り方を否定する意図のものではありません。僕もそれは自分にとって大切で意識したいものだと思っています。
川の声❤️🔥
言語(論理)によって相対化されたものが、観念(今ここにあるもの)ですね。ので、言語は、幸福を阻害はしません。幸福もまた、言語であり、観念だからです。
15:48「およそ真理はいつでもそれが一面的である場合だけ言葉で言い表せれん...」老子の「道可道 非常道 名可名 非常名...」に通ずる思想ですね。
なかなか難解な内容なのに、いつも分かりやすく解説してくださってありがとうございます。悟りは言語で理解するのは不可能であるって言うのはあらゆる宗派で言われている事なので、より腹落ちしました。
現実の釈迦が弟子たちに対して言った、「私の指を見るな。私の指の指す先を見なさい」のやつですね。後半の石ころの箇所は、仏教よりはスピノザの汎神論っぽさを感じました。
言葉を生業にするヘッセが言葉を否定しているのが面白い。ヘッセは本書を書きながら何を思っていたのだろうか。
ヘッセがこういう作品を書いていたとは。『車輪の下』のようないかにも重そうなタイトルだけで敬遠していましたが。仏教への関心がどこからきたのか気になります。ドイツで仏教といえば、ショーペンハウアやニーチェなどが思い浮かびますが、何か影響でもあったのか。神学校脱走のエピソードや第1次大戦の経験なども考えあわせると、キリスト教や西欧近代への反発や批判みたいなものでもあったのか。そんな問題意識をゲーテ的な教養小説の形で表現したということなのか。各所にちりばめられる仏教的モチーフをどう解釈するかでもけっこう楽しめそうですね。西洋のキリスト教的伝統の中で育った人間が仏教をどう考えるのか。「真理は言葉では語れない」ことを禅では「不立文字」といったりしますね。「不立文字」自体、文字で伝えてるじゃねぇかとつっこみを入れたくなりますが、言ってることはわからないではない。悟りは言葉で言っても伝わるものではななく、自身の行いによって体得するしかないということでしょう。たしかに悟り自体は言葉にできなくても、悟りに至る方法は言葉で語れる。ゴーダマがそれをくどくど説いていたというなら、矛盾はないように思えます。仏教でも大乗仏教は観念的な要素が強く「空」や「無」といった観念によって、悟りの境地を説明しているように思えます。おそらくその方が一般人にとってはわかりやすいんでしょう。上座部仏教や禅宗のように厳しい修行によってやっとその境地に辿り着けるというのは、一般人にとってはなかなか難しい。今でも、マインドフルネスとかやろうとするのは意識高い系のエリートだったりするわけで。知恵を得るより、知識を得る方がよほど簡単なんでしょうね。また、「川の流れ」が悟りに関わるというのが、ヘラクレイトスの「万物流転」を思わせるというのはよくわかります。言葉にならない流れゆくものの中に悟りがある。ヘラクレイトスの「万物流転」に対置されるのはパルメニデスの「あるはある」でしょう。存在とは変化せずそこにあるもののことだという。存在とは確実に言葉・ロゴスによって表現されるという主張ですね。パルメニデスは存在論の始祖みたいなこともいわれますが、とにかく「存在」なのか「変化運動」なのかというのはギリシャの昔から延々と議論され続けているものではあります。そして、大雑把にいえば、西洋が重きをおいたのは「存在」の方であり、東洋が意識したのは「変化運動」の方だったと言ってもよさそうです。というようなことを考えていると、いくらでも話が広がって収拾がつかなくなりそうなので、ほどほどにしておきます。
黙示的宗教
あらすじ説明するのうますぎるですw
読みたくなった😂
今聞き返してて思ったのですがシッダールタの言葉の限界から自分で真理を探求する流れって、カントの理性(言語)の限界→理論理性より実践理性が上位と通ずるようにも思いました。カントの「我が頭上の星空と内なる道徳法則」ってシッダールタやガウタマのような一種の悟りの境地と捉えるととても面白いですね。
言葉は時間の源泉、時間は執着を生むというところ、しっくり感じました。そう思うと確かに、言葉は幸福を阻害するという側面があると思いました。
そこから、例えば言葉を持たない動物はより幸福だろうかと考えると、それはまた違うような、言葉を持つから認識できる幸福もあるようにも思いました。例えば、言葉を用いて、人の話を聞いたり、思考したり、対話したりすることは、その行為自体がたのしく、幸福なことと表現しうるようにも思います。そもそも幸福とは何だろうという気分にもなりますが。
また、悟りのような不立文字の世界にだけ集中することの先は、どんなものなのだろうという、不安や懐疑のような気持ちも少しあります。例えば、自転車の乗り方について、僕たちの多くは、それを言葉にすることはできませんが、達成や実行ができます。そして、そのことに大きな価値を認識したり幸福を感じたりしていません。では、生きること、生存の在り方について、悟りを達成することに、どんな意味があるのかと言うと、それは結果でなく過程を求めている可能性もあると思いました。悟りを求める過程が、忙殺や退屈や社会生の苦痛を癒やしてくれて快さを感じられるから、その過程が何かおもしろいから、そうしたくなるということもあるのかもしれないと思います。
もちろんこれは、今ここにあるものという在り方を否定する意図のものではありません。僕もそれは自分にとって大切で意識したいものだと思っています。
川の声❤️🔥
言語(論理)によって相対化されたものが、観念(今ここにあるもの)ですね。ので、言語は、幸福を阻害はしません。幸福もまた、言語であり、観念だからです。
15:48「およそ真理はいつでもそれが一面的である場合だけ言葉で言い表せれん...」
老子の「道可道 非常道 名可名 非常名...」に通ずる思想ですね。
なかなか難解な内容なのに、いつも分かりやすく解説してくださってありがとうございます。悟りは言語で理解するのは不可能であるって言うのはあらゆる宗派で言われている事なので、より腹落ちしました。
現実の釈迦が弟子たちに対して言った、「私の指を見るな。私の指の指す先を見なさい」のやつですね。
後半の石ころの箇所は、仏教よりはスピノザの汎神論っぽさを感じました。
言葉を生業にするヘッセが言葉を否定しているのが面白い。ヘッセは本書を書きながら何を思っていたのだろうか。
ヘッセがこういう作品を書いていたとは。『車輪の下』のようないかにも重そうなタイトルだけで敬遠していましたが。仏教への関心がどこからきたのか気になります。ドイツで仏教といえば、ショーペンハウアやニーチェなどが思い浮かびますが、何か影響でもあったのか。神学校脱走のエピソードや第1次大戦の経験なども考えあわせると、キリスト教や西欧近代への反発や批判みたいなものでもあったのか。そんな問題意識をゲーテ的な教養小説の形で表現したということなのか。各所にちりばめられる仏教的モチーフをどう解釈するかでもけっこう楽しめそうですね。西洋のキリスト教的伝統の中で育った人間が仏教をどう考えるのか。
「真理は言葉では語れない」ことを禅では「不立文字」といったりしますね。「不立文字」自体、文字で伝えてるじゃねぇかとつっこみを入れたくなりますが、言ってることはわからないではない。悟りは言葉で言っても伝わるものではななく、自身の行いによって体得するしかないということでしょう。たしかに悟り自体は言葉にできなくても、悟りに至る方法は言葉で語れる。ゴーダマがそれをくどくど説いていたというなら、矛盾はないように思えます。
仏教でも大乗仏教は観念的な要素が強く「空」や「無」といった観念によって、悟りの境地を説明しているように思えます。おそらくその方が一般人にとってはわかりやすいんでしょう。上座部仏教や禅宗のように厳しい修行によってやっとその境地に辿り着けるというのは、一般人にとってはなかなか難しい。今でも、マインドフルネスとかやろうとするのは意識高い系のエリートだったりするわけで。知恵を得るより、知識を得る方がよほど簡単なんでしょうね。
また、「川の流れ」が悟りに関わるというのが、ヘラクレイトスの「万物流転」を思わせるというのはよくわかります。言葉にならない流れゆくものの中に悟りがある。
ヘラクレイトスの「万物流転」に対置されるのはパルメニデスの「あるはある」でしょう。存在とは変化せずそこにあるもののことだという。存在とは確実に言葉・ロゴスによって表現されるという主張ですね。パルメニデスは存在論の始祖みたいなこともいわれますが、とにかく「存在」なのか「変化運動」なのかというのはギリシャの昔から延々と議論され続けているものではあります。そして、大雑把にいえば、西洋が重きをおいたのは「存在」の方であり、東洋が意識したのは「変化運動」の方だったと言ってもよさそうです。
というようなことを考えていると、いくらでも話が広がって収拾がつかなくなりそうなので、ほどほどにしておきます。
黙示的宗教