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なかなか勇気ある仮説づくめで、おもしろかったです。スッキリしました。
歴史の記録は、どの目線からされるかというのも大事ですからね。近畿と九州と新羅と高句麗と中国(魏や晋)では集められる情報も異なってくるでしょうから。
晋書によれば呉の滅亡前の266年に倭国は西晋に朝貢しており、日本書紀にも引用されていますね。
魏王があんなに感動したのは魏が滅ぼした公孫氏の一族である卑弥呼が朝貢して来た事ですかね。卑弥呼が指揮する公孫軍の残党を高句麗対策に使えるとも思い優遇したんでしょう。これ以来倭国に倭(北九州)の支配が中国王朝に認められる事になったので意味が大きいです。
正確性はともかく魏志倭人伝に出てくるのは周知の通りだけど半島の正史にまで名前がノミネートされる卑弥呼って皇族なのかはたまた別モンなのか知らんけどホントこの人何者よ💦
三国史記において「卑弥乎」という魏志倭人伝と類似した表記を用いていることからして純粋な歴史の記録とは考えにくいでしょうね。伝承を基に魏志倭人伝の影響を受けた編者が当時の倭王を女王卑弥呼だと比定した結果だと思います。それが事実であったかどうかを検証することは難しいでしょうね。これが同じ音で別の字が当てられていればもっと信憑性が高くなっていたでしょう。
シンプルに祭祀王です。出身は三國志の第4勢力とも言える公孫氏から倭国に嫁いだという説があり、チャイナや半島でもそれなりに名は知られてたのかもですね🤔
@@zennin357😊
卑弥呼は日ノ御子(巫女)で役職名でしょう。どの時代にもいる巫女さんで女王。その時代その時代の女性天皇みたいなもの。
自然な流れに感じる。これには同意
新羅本記の卑弥呼記述は魏志倭人伝(卑弥呼は高齢)との整合性がある!新羅に侵攻していた倭国軍は邪馬台国でなくて出雲政権の軍隊だったりして。中国側の史書の馬韓弁韓辰韓(PCで変換できたのに驚いた)の記述に倭国との関係に触れてるのはないのか気にかかるところ。
私も同意見です。婚姻を申し込んだら「前送ったじゃん」と九州邪馬台国と混同されてブチ切れた大和政権が345.346年に出兵したと。もちろん景行天皇の九州征伐はこの前で、神功皇后の三韓征伐はこの後。これが邪馬台国問題も含め一番シックリすると思うんだけどなぁ。
倭国大乱とは紀元167年に起こった武埴夜須毘古命の反乱を指しています。 木津川周辺で戦闘があり千人余りの死者がありました。
久住編年で終わりだと思います。九州ロマン説は死にました
なかなか鋭い🎉
大和(畿内倭国)と邪馬台国(九州倭国)が同時代に存在していてやりあってたって言うのは異論ないんだよなぁただ戦をやったりやんなかったりっていう理由はお互いシャーマン文化を重んじる国であったっていうのもあると思ってる現にこの国だって実質シャーマン文化は残ってる訳で互いのボスが健在の内は手を出すにも出せなかった、ていう。
この三国史記よりもっと後に檀君神話が創られたんじゃない。😂
三国史記は、大分後に書かれた偽書じゃなかったけ?
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり第10代崇神天皇を中心として政治及び祭祀が行われていました。その後歴代天皇が続き、都が京都に遷都されるまでの間歴代天皇がいらっしゃいました。 又、初代邪馬台国女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
8か月も前の動画に今更ですが、249年のは昔于老の間違いですよね。新羅の名将で倭軍の攻撃を防いだが、その後に倭の使者を接待したとき酔っぱらって、倭王を塩汲み人夫に,王妃を炊事婦にしようと暴言を吐き、その後、聞いて激怒した倭王が大軍で再度侵攻、昔于老は新羅王に、これは私の責任ですと1人で倭軍に赴き、何故、あのような戯言に怒り、このような大軍を興すのか?と言ったが、倭軍は無言で彼をす巻きにして、生きたまま焼き殺し、帰っていったとか。その後、悲しんだ奥さんが、新羅にやってきた倭の使者を短刀で刺し殺して、一矢報いたとかで終わっていたような。
これは面白い。 ただ、三国史記がどれだけ正しいかってことでしょうなぁ。倭国は西晋には朝貢してない様子。なんだかんだで、楽浪郡あたりを他国に抑えられると「外交」は無理ってこと。倭の五王が「南朝」に朝貢してるのは、「北朝」には使者を送れなかったからだと思うからです。概ね、この動画の通りかと存じます。面白かったです。
卑弥呼はヒメミコ(姫巫女)の当て字ではないかと素人考えしてます。
官名の卑狗の解釈(ヒコ(彦,日pi子ko))、卑奴母離(ヒナモリ(鄙守,pinamori))等から考えますと、卑弥呼の卑弥の部分は"ヒメ"(メはミに近い発音か)に相当する可能性がかなり高いですね。"呼"を当時"コ"とは発音しなかったようなので、この点の解釈は未だ定まっていないですが、少なくともこの時代に初期のカバネ的名称が存在したと見て良さそうです。○○(国名)津(ツ=格助詞、現代の"○○の"に相当)彦(ヒコ)や、○○津使主(ツ.オミ(臣)。後にトミに変化)と言った名称に直接的に繋がっているかも知れませんね。
@@majesty164 詳しい解説ありがとうございます。以前別の場所での馬鹿話で、卑弥呼は役職名か芸名のようななにかで、アイドル的な存在だったのではないかと盛り上がっていた事を思い出しましたので。
あれ、邪馬台国 北部九州で地図合ってるじゃん。そう言えば、最近「阿波説」が完全論破されててくそ笑ったわ。😂
ダメだ、こりゃ!
川端ゆたか さん少し笑ったわ。に訂正します。😂
普通に考えて邪馬台国は北部九州です。「邪馬台国は小国30か国からなる国家連合」とあって、1か国のサイズは糸島市、福岡市、松浦市など現在の市町村サイズです。もし畿内説だとこれがまったく整合性がつかなくなる。現在の県サイズでないと30か国を埋めるのは無理になります。最近は徳島説というのも出てきて意味不明・・・
@@kinkin0421 さん正にその通りです。スケールは同じ考えです。既に答えは出てるのです。畿内説は考えるに、単に政治的なのです。
正直、邪馬台国に対してまともなCHはあまり有りません。何故でしょうか?その答えは「邪馬台国 北部九州」では、ゆうつべを続けるネタが終わるからです。ココのれーしCHは、その点真面目です。笑「政治的」と言うのも、ある意味でそういう意味です。🥹
この解釈は合理的ではありますよね九州説を取る場合は地方の小勢力としての倭国になる。ただ記紀と倭人伝根拠で3世紀の日本を考えると酷く矮小化されてるようで息苦しさを覚えます。殷周的な存在が日本に無いのは無理があるような。
朝鮮半島には、14世紀以前の文献、建築物等、無い国だと聴いたことがあるんだが。
それはデマですね
それはデマです
この時代に 日本海を頻繁にぴょんぴょん渡れたんかな?軍ともなりゃそれなりに船団だろうし、、
魏志倭人伝の距離に関しては盛る理由はあったようなのでデタラメの可能性は強そうです。三国史記は比較的最近作られたものなので資料としてどうなんでしょうね
妄想です!
14世紀以前の朝鮮の文献・建築物は何も無いはず。
距離を盛る理由って何ですか?
@@ラッキー純-h2xクシャーナ朝と同格の国だとしたかったため
@@趣味-j7lその理由は?
四国説がやばい。ありえない。何でもかんでも四国説が、、?邪馬台国だけならまだ ふーんだけど イスラエル アーク 出雲神話なとなど しまいには 天皇家が阿波にとまで、いくと 流石に引く 徳島がいやだ ではないので
詐欺みたいな感じですよね(笑)まぁ歴史詐称詐欺🎉それがRUclipsの醍醐味なんでしょうね😂
もう九州説は諦めるのがよろしいかと。
後付け!
正直、檀君神話もそうだけど、あの国の歴史書を信用するのはどうかと。800年も経って、ファンタジーで作られた物語、という感想です。
まず西暦で記述されていましたか?干支で書かれているならそれを持ってきましょう。
どうしても邪馬薹国(ヤマトゥコク)、九州説から離れられないんですかね?! ちなみに九州説によく出てくる‘山門’は邪馬薹国とは全く関係ありませんからね!
三国史記の卑弥呼の呼の字ですが、実は口偏のない漢字ということになっています。それゆえ、竹内睦泰(第73世竹内宿禰)の伝える正統竹内書の場合は三国史記の卑弥呼は魏志倭人伝の卑弥呼とは時代が60年以上古いということで別人で、魏志倭人傳のヒミコは孝霊天皇皇女のモモソ媛でも、3国史記のヒミコはさらに古い孝安天皇皇后の忍鹿媛に当てる説があります。彼女は実は皇祖之霊皇大神宮祭主代だった説があり、これに当てはめています。邪馬台国は当然、大和朝廷です。
だから中国の文章を特に名詞を日本語で読むことがそもそも間違い。何百年も前に陸路や海路で中国からインドを行き来している。九州って狭すぎる。常陸国=日高見国説面白い。西日本は当時、呉服や稲作が長江流域から入ってきていたからそこを避けて、出雲や越、常陸国を中心とする東日本と魏は交流があった。鹿島香取神宮を調べて見て。呉服なんかの動画が見当たらん。近畿説はありえん。九州説はありえるけど面白くない。
記紀の記述を信用し過ぎな感じ、九州倭国は701年までは存続していたと思う。
なかなか勇気ある仮説づくめで、おもしろかったです。スッキリしました。
歴史の記録は、どの目線からされるかというのも大事ですからね。近畿と九州と新羅と高句麗と中国(魏や晋)では集められる情報も異なってくるでしょうから。
晋書によれば呉の滅亡前の266年に倭国は西晋に朝貢しており、日本書紀にも引用されていますね。
魏王があんなに感動したのは魏が滅ぼした公孫氏の一族である卑弥呼が朝貢して来た事ですかね。卑弥呼が指揮する公孫軍の残党を高句麗対策に使えるとも思い優遇したんでしょう。これ以来倭国に倭(北九州)の支配が中国王朝に認められる事になったので意味が大きいです。
正確性はともかく魏志倭人伝に出てくるのは周知の通りだけど半島の正史にまで名前がノミネートされる卑弥呼って皇族なのかはたまた別モンなのか知らんけどホントこの人何者よ💦
三国史記において「卑弥乎」という魏志倭人伝と類似した表記を用いていることからして純粋な歴史の記録とは考えにくいでしょうね。
伝承を基に魏志倭人伝の影響を受けた編者が当時の倭王を女王卑弥呼だと比定した結果だと思います。
それが事実であったかどうかを検証することは難しいでしょうね。
これが同じ音で別の字が当てられていればもっと信憑性が高くなっていたでしょう。
シンプルに祭祀王です。
出身は三國志の第4勢力とも言える公孫氏から倭国に嫁いだという説があり、チャイナや半島でもそれなりに名は知られてたのかもですね🤔
@@zennin357😊
卑弥呼は日ノ御子(巫女)で役職名でしょう。
どの時代にもいる巫女さんで女王。
その時代その時代の女性天皇みたいなもの。
自然な流れに感じる。これには同意
新羅本記の卑弥呼記述は魏志倭人伝(卑弥呼は高齢)との整合性がある!
新羅に侵攻していた倭国軍は邪馬台国でなくて出雲政権の軍隊だったりして。
中国側の史書の馬韓弁韓辰韓(PCで変換できたのに驚いた)の記述に倭国との関係に触れてるのはないのか気にかかるところ。
私も同意見です。婚姻を申し込んだら「前送ったじゃん」と九州邪馬台国と混同されてブチ切れた大和政権が345.346年に出兵したと。
もちろん景行天皇の九州征伐はこの前で、神功皇后の三韓征伐はこの後。これが邪馬台国問題も含め一番シックリすると思うんだけどなぁ。
倭国大乱とは紀元167年に起こった武埴夜須毘古命の反乱を指しています。
木津川周辺で戦闘があり千人余りの死者がありました。
久住編年で終わりだと思います。九州ロマン説は死にました
なかなか鋭い🎉
大和(畿内倭国)と邪馬台国(九州倭国)が同時代に存在していてやりあってたって言うのは異論ないんだよなぁ
ただ戦をやったりやんなかったりっていう理由はお互いシャーマン文化を重んじる国であったっていうのもあると思ってる
現にこの国だって実質シャーマン文化は残ってる訳で互いのボスが健在の内は手を出すにも出せなかった、ていう。
この三国史記よりもっと後に檀君神話が創られたんじゃない。😂
三国史記は、大分後に書かれた偽書じゃなかったけ?
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり第10代崇神天皇を中心として政治及び祭祀が行われていました。その後歴代天皇が続き、都が京都に遷都されるまでの間歴代天皇がいらっしゃいました。
又、初代邪馬台国女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
8か月も前の動画に今更ですが、249年のは昔于老の間違いですよね。
新羅の名将で倭軍の攻撃を防いだが、
その後に倭の使者を接待したとき酔っぱらって、
倭王を塩汲み人夫に,王妃を炊事婦にしようと暴言を吐き、
その後、聞いて激怒した倭王が大軍で再度侵攻、
昔于老は新羅王に、これは私の責任ですと1人で倭軍に赴き、
何故、あのような戯言に怒り、このような大軍を興すのか?
と言ったが、倭軍は無言で彼をす巻きにして、
生きたまま焼き殺し、帰っていったとか。
その後、悲しんだ奥さんが、
新羅にやってきた倭の使者を短刀で刺し殺して、
一矢報いたとかで終わっていたような。
これは面白い。 ただ、三国史記がどれだけ正しいかってことでしょうなぁ。
倭国は西晋には朝貢してない様子。なんだかんだで、楽浪郡あたりを他国に抑えられると「外交」は無理ってこと。
倭の五王が「南朝」に朝貢してるのは、「北朝」には使者を送れなかったからだと思うからです。
概ね、この動画の通りかと存じます。面白かったです。
卑弥呼はヒメミコ(姫巫女)の当て字ではないかと素人考えしてます。
官名の卑狗の解釈(ヒコ(彦,日pi子ko))、
卑奴母離(ヒナモリ(鄙守,pinamori))等から考えますと、
卑弥呼の卑弥の部分は"ヒメ"(メはミに近い発音か)に相当する可能性がかなり高いですね。
"呼"を当時"コ"とは発音しなかったようなので、この点の解釈は未だ定まっていないですが、
少なくともこの時代に初期のカバネ的名称が存在したと見て良さそうです。
○○(国名)津(ツ=格助詞、現代の"○○の"に相当)彦(ヒコ)や、
○○津使主(ツ.オミ(臣)。後にトミに変化)
と言った名称に直接的に繋がっているかも知れませんね。
@@majesty164 詳しい解説ありがとうございます。
以前別の場所での馬鹿話で、
卑弥呼は役職名か芸名のようななにかで、
アイドル的な存在だったのではないかと盛り上がっていた事を思い出しましたので。
あれ、邪馬台国 北部九州で地図合ってるじゃん。
そう言えば、
最近「阿波説」が完全論破されててくそ笑ったわ。😂
ダメだ、こりゃ!
川端ゆたか さん
少し笑ったわ。に訂正します。😂
普通に考えて邪馬台国は北部九州です。「邪馬台国は小国30か国からなる国家連合」とあって、1か国のサイズは糸島市、福岡市、松浦市など現在の市町村サイズです。もし畿内説だとこれがまったく整合性がつかなくなる。現在の県サイズでないと30か国を埋めるのは無理になります。最近は徳島説というのも出てきて意味不明・・・
@@kinkin0421 さん
正にその通りです。
スケールは同じ考えです。既に答えは出てるのです。
畿内説は考えるに、単に政治的なのです。
正直、邪馬台国に対してまともなCHはあまり有りません。
何故でしょうか?
その答えは「邪馬台国 北部九州」では、ゆうつべを続けるネタが終わるからです。
ココのれーしCHは、その点真面目です。笑
「政治的」と言うのも、ある意味でそういう意味です。🥹
この解釈は合理的ではありますよね
九州説を取る場合は地方の小勢力としての倭国になる。ただ記紀と倭人伝根拠で3世紀の日本を考えると
酷く矮小化されてるようで息苦しさを覚えます。殷周的な存在が日本に無いのは無理があるような。
朝鮮半島には、14世紀以前の文献、建築物等、無い国だと聴いたことがあるんだが。
それはデマですね
それはデマです
この時代に 日本海を頻繁にぴょんぴょん渡れたんかな?軍ともなりゃそれなりに船団だろうし、、
魏志倭人伝の距離に関しては盛る理由はあったようなのでデタラメの可能性は強そうです。三国史記は比較的最近作られたものなので資料としてどうなんでしょうね
妄想です!
14世紀以前の朝鮮の文献・建築物は何も無いはず。
距離を盛る理由って何ですか?
@@ラッキー純-h2x
クシャーナ朝と同格の国だとしたかったため
@@趣味-j7l
その理由は?
四国説がやばい。ありえない。何でもかんでも四国説が、、?邪馬台国だけならまだ ふーんだけど イスラエル アーク 出雲神話なとなど しまいには 天皇家が阿波にとまで、いくと 流石に引く 徳島がいやだ ではないので
詐欺みたいな感じですよね(笑)
まぁ歴史詐称詐欺🎉
それがRUclipsの醍醐味なんでしょうね😂
もう九州説は諦めるのがよろしいかと。
後付け!
正直、檀君神話もそうだけど、あの国の歴史書を信用するのはどうかと。800年も経って、ファンタジーで作られた物語、という感想です。
まず西暦で記述されていましたか?
干支で書かれているならそれを持ってきましょう。
どうしても邪馬薹国(ヤマトゥコク)、九州説から離れられないんですかね?! ちなみに九州説によく出てくる‘山門’は邪馬薹国とは全く関係ありませんからね!
三国史記の卑弥呼の呼の字ですが、実は口偏のない漢字ということになっています。それゆえ、竹内睦泰(第73世竹内宿禰)の伝える正統竹内書の場合は三国史記の卑弥呼は魏志倭人伝の卑弥呼とは時代が60年以上古いということで別人で、魏志倭人傳のヒミコは孝霊天皇皇女のモモソ媛でも、3国史記のヒミコはさらに古い孝安天皇皇后の忍鹿媛に当てる説があります。
彼女は実は皇祖之霊皇大神宮祭主代だった説があり、これに当てはめています。邪馬台国は当然、大和朝廷です。
だから中国の文章を特に名詞を日本語で読むことがそもそも間違い。何百年も前に陸路や海路で中国からインドを行き来している。九州って狭すぎる。常陸国=日高見国説面白い。西日本は当時、呉服や稲作が長江流域から入ってきていたからそこを避けて、出雲や越、常陸国を中心とする東日本と魏は交流があった。鹿島香取神宮を調べて見て。呉服なんかの動画が見当たらん。近畿説はありえん。九州説はありえるけど面白くない。
記紀の記述を信用し過ぎな感じ、九州倭国は701年までは存続していたと思う。