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【図解】室町時代の三河「松平一族の出自の真相を暴く」【中山十七名の征服と岩津の戦いの実態】ruclips.net/video/98ZIHRz6Bio/видео.htmlの続編になりますので、先にこちらを見て頂けるとより理解が深まるかと思います。
因みに今回の動画を見るに、近江や京の松平家こそが元々の松平宗家だったのでしょうか?後はこの(便宜上の呼称)畿内松平家はその後はどうなったのでしょうか^_^?
なるほど!元々武装集団として優れた一族だったのですね。ルーツを辿ると色んな側面が見えてきますねー!
動画が伸びない中、応援いただき感謝しかないです松平のルーツは面白いと思うんですけどねぇ
徳川家康本人はここまで自家の歴史を把握していたのでしょうか。これを踏まえると今川家や北条家との関係性もさらに興味深いものになりますね。
家康が三河平定した頃には伊勢本家滅んでますからねぇ...
地図に系図と今回も満たされました!良い動画をありがとうね。
全国図はかなり頑張ったんだけど不発でした(涙
素晴らしい動画です。後に、徳川家康は朝倉攻(金ヶ崎の戦い)や姉川の戦いで越前や近江へ出陣、遠征するのですが、もともと松平一族には近江に土地勘があった、縁故の者たちも住んでいたということですね。
@@Yoshifuji-Sengoku 素晴らしい動画の作者様と言い争う気はないのですが、私は「縁故の者たちも住んでいた」とは書きましたが、「松平一族が住んでいた」とは書いておりません。「縁故の者」とは松平一族の親類縁者とか松平(徳川)家臣の親類縁者を想定して書きました。
ごめんね
@@Yoshifuji-Sengokuいえいえ。やはり織田信長の美濃侵攻や伊勢侵攻には徳川(松平)勢は援軍を出していない、出兵・遠征していないのに、北近江・越前には出兵・遠征しているという違いは気になるところですね。
@@沢三伯-f2m さん。そこはやはり将軍の御行書があるか否かではないかと。徳川家康は将軍に権威と中央での名声を求めていた様で、義昭からの指示が有れば国内に問題を抱えていても即行動を起こしていました。信長の危機として有名な志賀の陣でも信長は事前に『国元(三河)を固めてくれ』と言う”依頼”を出していましたが義昭からの御行書が出ると信長の意に反して近江まで出兵しています家康が信長の命令に従うのは義昭が京都から脱出して信長と決裂してからですね
1617年矢作川のたもと井の口と岩津の三角点の位置が我が先祖が12代前の先祖が死亡したとの旦那寺に届けがあったと過去帳にある。それ以前の記録が全くないところにこの動画、室町時代がこの地域どうであったのか?をかなり細かく教えていただきまことにありがとうございます。松平氏細川氏一色氏京都周辺の動きと一揆の動きと連動していてとても興味深かったです。当時の地図、配置図地名入りがとくに興味深いです。ありがとうございます。
良い動画をありがとうございます。
いつも御支援ありがとう!頑張るよ♪次の動画の準備してるんでもうちょっと待っててね
素晴らしいの一言。勉強になります。松平氏は国人豪族と認識してましたが伊勢家の被官だったとはビックリ。
家格的には松平は国衆になっちゃうんでしょうが、伊勢家の被官だとエリートっぽいですよね
ありがとうございます!
スパーサンクスにメンバー入りと重ねての応援感謝です♪大分くじけてましたが応援を燃料に次もガンバリマス。
全然知らなんだ。新しい知見が得られたわ。ありがとうさん。こういう動画をもっと作って欲しいわ。チャンネル登録したで。
見てもらえる人が増えればマニアックな動画もまた作れる思います
動画投稿ありがとうございます。伊勢氏被官は知っていたけど、何かの本で大浦庄・菅浦庄の争いでいきなり松平の名が出てなんだろうなとは思ったけど、やはり同族か。京での活動が活発で、一族が知恩院住職になるくらいだけど、そのあたり精力的に本探さないとわからないから、こういうのは有り難い。こういう背景からすると、足利義昭が徳川家康に対して塩対応だったのは納得できる。というか伊勢貞孝挙兵のときに参加した被官の松平氏がいたのではないかと。
足利義昭の塩対応は三河守の任官の経緯が主かなと思われます。タイミング悪くて義輝弑逆後で幕府通せずに近衛家通して改姓と三河守貰っちゃったんで
音楽家やアスリートみたいにつべ主もゾーンに入る事あるんだな。運転しながら聞いてて余りの面白さに笑ってしまった。今回も最高でした。続きにも期待します。
面白く感じてくれたなら最高です!台本がサクサク書けるゾーンに入りたいです!
非常に興味深い内容でした。次回も期待。戦国時代の始まりを告げる戦国大名北条氏と戦国を終結させた徳川氏がその始まりに於いて近しい立場であったのは何か因縁めいて感じてしまう。
松平vs北条早雲まで動画作れたらいいなぁ
そうすると、北条氏と徳川氏は主従関係がまがりなりにもあることになるんですかね?
一般的に足利氏と日野家の繋がりは三宝院賢俊が足利尊氏の護持僧となったからと言われているが、実は賢俊の父たる日野俊光は、足利氏が三河守護を務める三河国知行国主になっている三河国国知行国主は何らかの事情ですぐ辞任したようだが、三河国の知行国主は吉田経房を初めとして、伝統的に関東申次職が事実上兼務する形で任命されているのを考えると、少し異例なのであるちなみに、俊光の生母は賀茂能継の娘と伝え、男系で賀茂氏説がある松平氏と微かに繋がるそして、もっと遡れば、伊勢氏の祖たる伊勢俊継が親族と活動していた三河国額田郡の滝山寺の三門は1267年に建てらたが、恐らく大檀那は足利家氏(斯波氏祖)、現場責任者は伊勢俊継と俊継の従兄弟たる増恵であり、扁額を揮毫したのは世尊寺経朝経朝の実父は広橋頼資であり、日野流なのである頼資の姉妹に一条高能の妾になった女がおり、高能は生母が頼朝同母姉妹の坊門姫であり、頼朝娘たる大姫の嫁入り第一候補でもあった足利氏と日野家の繋がりは鎌倉期まで遡る必要がある
ものすごく勉強になりました!
こうして見ると付き合い長い家ですよね徳川と後北条
琵琶湖県民ですが近江松平は知らなかったです😮湖北は陸の孤島と呼ばれてましたが今は湖畔を車で走れますし桜🌸の季節は湖畔に映えて美しいですからどうぞお越し下さい😊
個人的に今津に行きたいと思ってます
動画内では本筋から離れるのでサラッとしか触れていませんが「菅浦文書」は滅茶苦茶面白いですよ。大浦との戦いも琵琶湖沿岸の村落や地侍が双方に加担しかなりデカい戦いに発展しています。琵琶湖は敦賀や小浜で水揚げされた日本海運輸の京への最終中継地となるので、村落規模でも経済力外交力が高く湖南の六角支配地域を除いた村落が参加しています。中には村落は大浦側なのに支配層が菅浦を応援した居たり逆も有ったり混沌としています菅浦は降伏しましたが既成事実化した田畑や入会山の権利をもぎ取って居ます。菅浦文書の中で子孫に『有力者には付け届けを怠るな。年に数百万(現在の価値で)事が起こったら1千万単位のお金を用意しろ』と書き残しており裕福だったのが分かります
信光と親忠が1465年ころ統治した上里町を、ということでね。私の先祖がこのあたりこのころ関係していたと思われます。大門、鴨田、岩津、井ノ口など他人ごととは思えないような地名がでてきて非常に興味深い。ただ上里がでていない。大門のとなりで矢作川のたもとなのに。。残念。すこし川の流れが氾濫などがあって変わったのだろうか?ありがとうございます。
上里は地図で作りましたが矢作川の分流が江戸時代まであった感じですね
@@Yoshifuji-Sengoku さん上里を地図でつくられた、ということですが実際あの動画の地図には大門は載っていますが上里は載っていません。残念です。
松平家が伊勢氏の被官であった事は知っていましたが、上方において日野家の被官をしていたのは初めて知りました😊
家康前史は普通の書籍だとあまり書いてないんですよねぇ
当時の松平宗家が、伊勢新九郎に滅ぼされたのは、忘れられた歴史の皮肉。
結城先生が書いてる伊勢早雲の漫画では、そこら辺はどう扱われるのか今から楽しみです😊
松平長親が今川家and伊勢新九郎相手に戦った訳ですか。そして安祥松平家が岩津松平家に代わり松平宗家の地位を確立したと。
松平家が日野家にも仕えていたのを初めて知りました世代的に北条早雲の父親が家康の先祖と同僚として京で色々活動してたんだと想像すると面白いですね応仁の乱の影響が地方に波及して地方の問題を解決する必要から地方に拠点を移して基盤を構築するという流れはそれこそ北条早雲のサクセスストーリーに近いものを感じます(まあ関東の混乱は応仁の乱以前から始まってましたが)
これがほんとうなら松平は伊勢の家来筋同僚というのはいかがか小田原北条氏は家康の主筋の家ですか面白いですね
地図が物凄くわかりやすいな。
よくわからん三河の土豪から成りあがったっていうけど、そも三河の土豪になった時点で他とは頭一つ抜けたバックボーンがあったんですね松平氏。
松平家が伊勢(後北条家)の家来だったんですね。
「新九郎、奔る!」に出てくる人名がいっぱい出てきますね。戦国大名といっても、室町幕府関連で力を持っていた家が有利な点があったのでしょうか。伊勢宗瑞(北条早雲)も、最初は中央の命令で動いているうちに、実力をつけてきたようだし。しかし、足利義教様、おっかない!
新九郎奔るファンには是非みて欲しい動画なんですけどねぇ、松平vs北条早雲までやれたら最高だった・・・
19:35〜の細川家の系図は壮観の一言ですね(^ ^)北条得宗家滅亡後のくびきから外れた足利将軍家の『義』細川家の『頼』の字の源氏を表す文字の大量使用が面白い❕
昔、細川一族クイズといって細川一族の実名を並べた画像つくりましたが通字ばかりで目がチカチカしましたw
@@Yoshifuji-Sengoku 返信ありがとうございます😃そんなディープなクイズがあったとは…もはや新手の嫌がらせのようなクイズですね😵💫
「松平」から「得川」と名字を変えようと朝廷に申し出たけど認められず「徳川」という当て字で認められたといのをどこかで聞いた事があります。
松平だと前例なくて三河守貰えないので苗字変えて改姓した感じ
NHKで源氏系だということで過去に随分さかのぼってむりやりこじつけで朝廷がおかねをつぎこんだことでそのお礼として徳川を認めた、とやっていた記憶があります。
o< ・ω・ >o松平家って地元の土豪かと思ったら結構なエリートやな、、
家格的には国衆なんでしょうが伊勢氏の被官だとエリートな感じしますよね
まあ待ちますよ面白いから
少しお待たせしてしまいますが、燃料を頂きましたのでがんばります。いつも応援感謝です♪
武内涼さんの『吉野太平記』という小説に日野家の被官である松平が出て来るが、アレは作劇上の都合ではなくリアルな話だったとは知らなかった。
その小説は知りませんでした。しっかり調べて書いてるのは好感持てますね
@@Yoshifuji-Sengoku 仰る通りですね。正直びっくりです❕
統治に漫画みたいな血統のフランド性を求めるのは、統治対象先にいる沢山のあまりに簡単な人らからの浅い嫌疑に対決する時間が無いと構想していたからで、そもそも自分で革新をやらなくては何にもこの地域は変わらない、という行動を取るには、そもそも行動を伴う社会教養を深く収めていなくては無理なんですね。その無理を可能にしたプラツトフオームこそ、中世では血族教育なんですねー。
北条時政すら氏素性のはっきりしない下賤扱いされたそうなので…
この動画見てから松平氏源氏説はあながち作り話でもないような気がしました。室町幕府の中枢と関係深かった新田一門が徳阿弥の可能性もありますよね。
実は新田一族じゃないかというのを完全否定はできないですね。徳阿弥さんの素性が明らかになってませんので
元が代官だから松平は分家でも地名を名乗らず松平家ばっかりになってたんですね
松平はすごい「若い」家ってのもあると思います
すごいレアな歴史動画やね。ずいぶん前に『歴史群像』という雑誌で室町中期に松平氏が近江国で活動していたという記載があった。この動画で伊勢氏、日野氏、松平氏が浅からぬ因縁があったことを初めて知った。特に伊勢氏は分家が後北条氏になったし。徳川家康も、先祖の一族の中で、東隣の後北条氏の本家筋の伊勢氏の被官をしていた者がいたことは伝承で知っていたはず。だから豊臣秀吉の関東遠征でも、徳川家康は後北条氏とはあまり争いたくなかったのはうなづける。小田原落城の後も、徳川家康は生き残った北条一族をできるだけ保護しようとしたはずだし。それは後北条氏(つまり伊勢氏分家)が松平氏の主筋にあたる家だったので、没落させるに忍びないという事情があったのだろう。後北条氏は徳川幕府の時代に河内国(大阪府)で小大名として復活し、明治維新まで生き残ったのも、この動画の内容が徳川家の中で伝承されていたこともあったのではないかなと思う。
家康は近隣の有力諸侯とか家臣団にはその旧臣が多かったという理由はあるにせよ、基本名家は保護していましたしね。今回の動画に出てきた西郷氏も、おそらく家康の側室で秀忠の生母の実家でしょうし(まあ、西郷氏未亡人だった気もするので、若しかしたら違うかも知れませんが)
ここら辺の話は後北条氏旧領への家康の入部や薩摩藩島津家との関係を考える上で重要
菅浦荘の討伐や額田郡一揆のお話で気になったのですが、この時代は相手の戦力に合っていない軍事作戦が一般的だったんでしょうね。菅浦荘の討伐では労力に見合った恩賞が払えていなさそうですし、額田郡一揆では松平氏が焼け太りしているように見えます。こんな、金銭管理がぐだぐただと幕府や領民が疲弊して治安が悪化するという負のスパイラルが止まらなさそうです。
大兵力で攻めたので無駄な犠牲が出なくて良かったのかも。参加者も犠牲なければ恩賞は軽く済むでしょうし
あのときのウェルカムドリンクを届けたのがこちらの...?スピリッツ誌上では、新九郎さん、ようやく東国に足場を頂戴しつつあるところですね。この作品で新鮮に驚いたのが、登場する各家とも、広く一族が東西に散在しているところ。室町幕府の建付けが京都ー鎌倉の枢軸だったせいか、幕府奉公人・奉行衆とも地方小豪族とも東西に目配りし、諸国に親戚家人のネットワークを構成していないと、家が持たない時代だった、ということでしょうか?そんな国人たちの気苦労を、一円に引き受けてあげるありがたい存在として、やがて登場してくるのが戦国大名、と。
酒10樽を「ウェルカムドリンク」にするゆうき先生のセンスが最高!
北条と徳川は実は伊勢と松平と名乗っていた頃より因縁があるしかし家康と氏規のやり取りを見るに織田と朝倉の様なギスギスとした因縁では無さそうむしろ安祥松平としては岩津の本家からノーリスクで(と言っても長親の蛮勇を見せる必要はあったが)宗家の座を奪い取れたから寧ろ恩すら感じてそう
勉強になるね···
ありがとー♪
地図・家系図付の歴史解説動画は分かりやすく、史実を深掘りされるので勉強になります。チャンネル登録しました!よしふじさんは三河の方なのでしょか?土地勘もあるのかなぁと思いました。歴史好きですが私は九州なので、近畿〜中部〜関東がメインの歴史を訪れるのに、旅費がかかるのが痛いです。
実は三河に足を踏み入れたことがありませんw
新九郎、奔る!にハマってるから、なにやら趣深い
伊勢貞親とか貞宗とかもうゆうき先生のマンガのイメージしかないですねw
伊勢氏の祖先は、平貞盛の四男であることは、わかったあまり語られてない空白の伊勢氏の平安末期の末期〜鎌倉時代を知りたい。
動画の系図以前は不詳で平貞盛ではないと思われます。鎌倉期は斯波の先祖の絡みとか上総の守護代やってたぐらいしかネタがないw
面白い動画だったけど、結局、徳阿弥さんの実家は何なのかは分からなかったんだな。たぶん、徳阿弥さんは同朋衆だったので伊勢氏や日野氏に接近できたんだろうね。でも、同朋衆は出自的にピンからキリだからね。
徳阿弥さんの素性が解ったら大ニュースになってしまうかな専門の先生が頑張っていずれ判明するのを待ちましょう
牧野氏東三河は牧野の名字がかなり多い(土地持ちの古い家)
伊勢貞親被官出身の信光の嫡流が、貞親の義理の甥にあたる伊勢宗瑞に攻められて没落するんですか。。。 そしてその機に宗家にのし上がる安城松平。戦国後期の大大名、徳川と北条の先祖に意外な繋がりがあったんですね。
大浦VS菅浦みたいな北近江の仁義なき村の戦いは別の動画でも見たような気がするなぁ・・・、何だっけか
良い動画ですね。備中伊勢氏の伊勢盛時(戦国の北条早雲)の母親が、京都伊勢氏の政所執事であった伊勢貞国の娘と言われていますからね。早雲も幕府(細川政元)の命令で東海地方に行ったんでしょうね。
やっぱり徳川(松平)氏の先祖は新田氏では無かったんですね!でも伊勢氏の家臣(パシリ)として頑張ったのを無かった事にするって先祖達も報われないなー
とは言っても、後にその伊勢氏の有力者である伊勢早雲に散々な目に遭わされる訳で😅
世良田氏の末裔は現状では可能性は低いですねぇ、なんでパシリが無かったことになったのか、なんで早雲が攻めて来たのかも続きでやれたらと思います。動画が爆死したらやりませんが・・・
結局、源氏なのか平氏なのか、はたまた本当に藤原なのか。
そもそもの話し、徳川の祖先は松平では無い。徳川の祖先は貧乏な僧で岡崎で国衆の家に入り込んで娘を手籠にして、更なる有力国衆に入り込むという手口を繰り返して力を蓄えた
上州出身者で婿入りしたのが先祖に居てそれを新田の子孫としたもの
信長が富士遊覧したときの徳川家のアノ接待って...ひょっとして「万人恐怖」の故事を踏まえてのことかな?だとすりゃホント、直後の信長のお誘いには、生きた心地しなかったろうなあ。
そのとばっちりが光秀の不幸・・?ww新説ですねw
富士遊覧するヤツろくなの居ない説w
鎌倉武士政権、室町武士政権初期に政所執事職だった二階堂氏は、初代たる行政の生母が額田冠者と号した藤原季範の妹であり、祖母(生母の母)たる松御前は三河の新城に墓所があるそして蜷川氏は、元は日本武尊皇子または物部氏族の宮道氏であり、本貫地を三河国宝飯郡宮道郷と伝える伊勢氏、蜷川氏、二階堂氏、松平氏そして足利氏の共通点は三河縁者なのである三河国宝飯郡宮道郷を本貫とする宮道氏は、宮道弥益の娘たる宮道烈子の娘が醍醐天皇の生母となり、後に弥益の屋敷は醍醐天皇により勧修寺が創建され、宮道烈子の旦那たる藤原高藤は勧修寺と号した、コレが勧修寺流の始まりである勧修寺流と言えば、三河が本貫の藤姓熱田大宮司家と親戚であり三河国受領職を多く出した葉室家、三河国知行国主であった吉田家、吉田家分家で藤房の墓所が西尾にある万里小路家、そして武家の上杉家不可思議ほど、勧修寺流は三河に縁があるのであるそして勧修寺流と宮道氏の血を引く醍醐天皇の曾孫たる源道成(醍醐源氏)の娘は、日野実綱に嫁ぎ、孫が親鸞の実父たる日野有範、有範の室(親鸞生母)は源義家の孫娘と伝える源道成の嫡男(業長)の息子(道成孫)は三河守隆長であり、隆長の娘は源義家の室となった、その子孫が源頼朝なのである
清水克行さんの本でありましたね、このくだり
湯起請を解説する下りであったと記憶してます。菅浦の古記録が松平氏にやられた後は急に平和主義になってるとかも面白かったです
50年前までは将軍からしたら陪臣の家柄が天下を取って将軍にとって代わるの本当にすごい秀吉でかすんで見えるけど十分家康も成り上がったよなぁ
中条氏の本拠たる高橋荘、足助氏の本拠たる高橋新荘(足助荘?)は共に大覚寺統領であり、鎌倉後期、本家の昭慶門院が薨去すると、その遺領は世良親王に授けられた世良親王若くして没したが、生前、親王が建てようと計画していた禅寺開山を南禅寺住持の元翁本元に依頼しただが元翁本元は急死し、あとを継いで臨川寺を開いたのが盟友の夢窓疎石であった元翁本元と夢窓疎石は岐阜多治見の永保寺を開いた事で有名であるが、数年前、2人は三河の新城市に住して大徳寺を開いている何故か?答えは元翁本元の出身地だからである三河は、北朝南朝の人間関係が入り乱れていたカオスであり、陽のあたる北朝史だけでは奥が深い三河の中世史は見えてこない
南朝系とか宗教系はちょっとやれないかな
松平氏と戸田氏が伊勢氏の家来としてコンビ的に活躍したとすると、応仁の乱の時期に知多郡や渥美郡に侵入した戸田氏も、伊勢氏の意向で一色氏の所領をふんだくりに入ったということになるのかね?
伊勢氏(後北条氏)と、そんな関係にあったんかΣ(゚∀゚ )それより!菅浦荘への’壮大ないじめ’は、観ていて気持ち悪くなった(´ж`;)ォ・・ォェッ・・・そら江戸時代では話せないと思ったよ。追記:実は私は、徳川家の成り立ちを、得川(当時当て字だから徳川でもOK)→新田源氏と合流→世良田→分家は得川名乗れる(ここでは得川に固定)→徳阿弥さん婿養子→松平→満を持して→徳川(足利氏との関係思って、大昔の当て字の方使った。それにこっちの方が格高そうだから満場一致ヽ(゚∀゚)ノヤッター )・・・だと思い込んでいます。ありがとうございました。
菅浦荘も大分やらかしてますし、大動員で血を見なくて良かったのかも
今回も詳しい解説ありがとうございました。個人的には新右衛門さんちょっとでも出てきただけで、満足(適当に動画見てただろ!ww)
京都出身のタレント島田紳助さんは高校の時の同級生に蜷川新右衛門さんの子孫がいて、ものすごい大きな屋敷に住んでいたと言っていました。
赤松家は別所家と共に村上源氏衆と言われる🙄
江戸時代のように領国支配が統一化されてないから細かい諸氏族が合従しててややこしいなあ。大庭氏って源平期に藤沢にいた大庭氏???
初回でも言われてましたけど、初代の弟・祐金斎泰親が京中枢と三河を結びつけるキーマンぽいですね。あの兄弟の実家って京の土倉だったりするんですかねぇ、松平に婿入りする前から文化だけでなくカネの臭いがします。同朋衆だとしても単に芸能者にとどまらない感じ。泰親系子孫の在京動向を見ても武家商家の中間形態っぽくて…。
買得説を採らないと軍事指揮能力も高そうなんですよねあの兄弟
始まりと終わりを飾る一族か。
上州源氏新田一族の分家世良田家の末裔じゃなかったのか。
烏丸家の所領は三河国渥美郡の御厨であり、日野重子の従兄弟たる烏丸資任は当地に下向し没した当地には、楠木正勝が烏丸家を頼って隠れ住んみ、後に禁闕の変を起こす日野有光と再起図った伝承が残るもちろん伝承の域でしかないのだが、三河には驚くほど楠木一族の伝承が残る鎌倉初期、渥美郡御厨の親分は三河守護の安達氏であり、安達氏が足利氏に三河の権益を譲った後も、安達泰盛は渥美郡小松原荘地頭職であった安達泰盛は霜月騒動で滅ぼされたが、河内国の所領であった観心寺荘を与えられたのが楠木氏安達氏は那古野荘地頭だった尾張の足助氏に室を出し、三河の足助氏、足助重範の生母は楠木正成の叔母、重範の室が楠木正成の娘と伝え、三河で不可思議なほど繋がりがあるのである松平家が発祥した豊田市の中心部には、元弘の乱(第一回目)で楠木正成が逃げてきたと伝える若宮八幡宮、楠木正成、正行の供養寺たる多聞寺(現在は雲龍寺と改称、猿投に移転)そして、足助氏から松平氏に嫁が入った事により楠木正成を血を引く事になるのが徳川家康
知渥美には南朝勢力がいましたね一色さんにやられましたが
この時代の松平氏の人間に あなたの子孫たちは 天下統一して幕府を開き 征夷大将軍になりますって言ったら どんな反応するかな
伊勢のパシリやった甲斐があったと涙してるといいなぁ
だよね。で、後の世に、徳川・北条同盟ができるが、これもあれこれ顔見知りだったかな、とかね。
駿府で徳川家康と北条氏規が顔見知りですね
一条高能の祖母は源頼朝母たる由良御前だが亡くなった由良御前の49日仏事を弟の三河法橋裕範を取り仕切って、後に頼朝に感謝されている信西の息子たる澄憲法師を招いて盛大に執り行われたが、場所は裕範が坊さんしていた三河国滝山寺だった可能性が高い何故なら、滝山寺には由良御前の父たる季範が嫁と創建した蓮華寺(廃寺)が存在していたすると世尊寺経朝は、叔母の旦那の祖母ゆかりの滝山寺三門の扁額を揮毫した事になるちなみに季範夫妻が創建した蓮華寺は、足利尊氏父たる貞氏(讃岐入道)が、先祖の季範夫妻宛に願文を奉納している記録が残る事から、少なくとも1300年初期には存在が確認出来る
蜷川の子孫が元K-1の武蔵。
どっかで聞いたことがあるようなないようなw
トリビアの泉で紹介されてましたね^_^
ただの三河の土豪に過ぎない訳ではなかったと。足利家の一門の今川家にもパシリにされるのが皮肉。
適当な足利支配がよく分かる 今の国政と同じ
「ふさわしくない格好」まあ、信長の逸話は置いといて、現代人でも服装で判断してますよね。人間って進歩しないのかなあw未来になっても、宇宙人のような銀ピカの服はあり得ないよwww
YUKIMURAさんの復習にありがたい
貞親は盛定の兄だから、伊勢宗瑞のおじさんよな
松平家の祖先は斎藤道三的な人物だったのでしょうね。
甘利勢6割
若者語に翻訳して0.75倍再生にしたら歴史苦手脳にも入ってくるかも。
これが本当ならば、源氏の姓が欲しくてわざわざ新田氏の庶流の得川の流れとして徳川を名乗っていく事の説明がつかない。また、得川以前には藤原姓が欲しくて近衛前久に接近した史実とも矛盾する。
同意します。
三河平定のタイミングで三河守が欲しかったけど足利義輝が弑逆されてしまったので窓口が近衛家になり前例として吉田兼右に近衛家の下司に藤原姓の得川が居たとでっちあげて貰った流れです。そのうち動画にしますが
@@Yoshifuji-Sengoku さん得川は新田の流れじゃないのですか?近衛家からの藤原姓を諦めて源氏姓にシフトしたと思っています
パシリとは哀れな(笑)ま、人権意識などない時代やからパシリ未満かも(笑)
【図解】室町時代の三河「松平一族の出自の真相を暴く」【中山十七名の征服と岩津の戦いの実態】
ruclips.net/video/98ZIHRz6Bio/видео.html
の続編になりますので、先にこちらを見て頂けるとより理解が深まるかと思います。
因みに今回の動画を見るに、近江や京の松平家こそが元々の松平宗家だったのでしょうか?
後はこの(便宜上の呼称)畿内松平家はその後はどうなったのでしょうか^_^?
なるほど!元々武装集団として優れた一族だったのですね。ルーツを辿ると色んな側面が見えてきますねー!
動画が伸びない中、応援いただき感謝しかないです
松平のルーツは面白いと思うんですけどねぇ
徳川家康本人はここまで自家の歴史を把握していたのでしょうか。
これを踏まえると今川家や北条家との関係性もさらに興味深いものになりますね。
家康が三河平定した頃には伊勢本家滅んでますからねぇ...
地図に系図と今回も満たされました!
良い動画をありがとうね。
全国図はかなり頑張ったんだけど不発でした(涙
素晴らしい動画です。後に、徳川家康は朝倉攻(金ヶ崎の戦い)や姉川の戦いで越前や近江へ出陣、遠征するのですが、もともと松平一族には近江に土地勘があった、縁故の者たちも住んでいたということですね。
@@Yoshifuji-Sengoku 素晴らしい動画の作者様と言い争う気はないのですが、私は「縁故の者たちも住んでいた」とは書きましたが、「松平一族が住んでいた」とは書いておりません。「縁故の者」とは松平一族の親類縁者とか松平(徳川)家臣の親類縁者を想定して書きました。
ごめんね
@@Yoshifuji-Sengokuいえいえ。やはり織田信長の美濃侵攻や伊勢侵攻には徳川(松平)勢は援軍を出していない、出兵・遠征していないのに、北近江・越前には出兵・遠征しているという違いは気になるところですね。
@@沢三伯-f2m さん。そこはやはり将軍の御行書があるか否かではないかと。徳川家康は将軍に権威と中央での名声を求めていた様で、義昭からの指示が有れば国内に問題を抱えていても即行動を起こしていました。信長の危機として有名な志賀の陣でも信長は事前に『国元(三河)を固めてくれ』と言う”依頼”を出していましたが義昭からの御行書が出ると信長の意に反して近江まで出兵しています
家康が信長の命令に従うのは義昭が京都から脱出して信長と決裂してからですね
1617年矢作川のたもと
井の口と岩津の三角点の位置が
我が先祖が12代前の先祖が死亡したとの旦那寺に届けがあったと過去帳にある。
それ以前の記録が全くないところにこの動画、室町時代が
この地域どうであったのか?を
かなり細かく教えていただき
まことにありがとうございます。松平氏細川氏一色氏
京都周辺の動きと一揆の動きと
連動していてとても興味深かったです。当時の地図、配置図地名入りがとくに興味深いです。
ありがとうございます。
良い動画をありがとうございます。
いつも御支援ありがとう!頑張るよ♪次の動画の準備してるんでもうちょっと待っててね
素晴らしいの一言。勉強になります。松平氏は国人豪族と認識してましたが伊勢家の被官だったとはビックリ。
家格的には松平は国衆になっちゃうんでしょうが、伊勢家の被官だとエリートっぽいですよね
ありがとうございます!
スパーサンクスにメンバー入りと重ねての応援感謝です♪大分くじけてましたが応援を燃料に次もガンバリマス。
全然知らなんだ。新しい知見が得られたわ。ありがとうさん。
こういう動画をもっと作って欲しいわ。
チャンネル登録したで。
見てもらえる人が増えればマニアックな動画もまた作れる思います
動画投稿ありがとうございます。
伊勢氏被官は知っていたけど、何かの本で大浦庄・菅浦庄の争いでいきなり松平の名が出てなんだろうなとは思ったけど、やはり同族か。
京での活動が活発で、一族が知恩院住職になるくらいだけど、そのあたり精力的に本探さないとわからないから、こういうのは有り難い。
こういう背景からすると、足利義昭が徳川家康に対して塩対応だったのは納得できる。というか伊勢貞孝挙兵のときに参加した被官の松平氏がいたのではないかと。
足利義昭の塩対応は三河守の任官の経緯が主かなと思われます。タイミング悪くて義輝弑逆後で幕府通せずに近衛家通して改姓と三河守貰っちゃったんで
音楽家やアスリートみたいに
つべ主もゾーンに入る事あるんだな。運転しながら聞いてて余りの面白さに笑ってしまった。今回も最高でした。続きにも期待します。
面白く感じてくれたなら最高です!台本がサクサク書けるゾーンに入りたいです!
非常に興味深い内容でした。次回も期待。
戦国時代の始まりを告げる戦国大名北条氏と戦国を終結させた徳川氏がその始まりに於いて近しい立場であったのは何か因縁めいて感じてしまう。
松平vs北条早雲まで動画作れたらいいなぁ
そうすると、北条氏と徳川氏は主従関係がまがりなりにもあることになるんですかね?
一般的に足利氏と日野家の繋がりは三宝院賢俊が足利尊氏の護持僧となったからと言われているが、実は賢俊の父たる日野俊光は、足利氏が三河守護を務める三河国知行国主になっている
三河国国知行国主は何らかの事情ですぐ辞任したようだが、三河国の知行国主は吉田経房を初めとして、伝統的に関東申次職が事実上兼務する形で任命されているのを考えると、少し異例なのである
ちなみに、俊光の生母は賀茂能継の娘と伝え、男系で賀茂氏説がある松平氏と微かに繋がる
そして、もっと遡れば、伊勢氏の祖たる伊勢俊継が親族と活動していた三河国額田郡の滝山寺の三門は1267年に建てらたが、恐らく大檀那は足利家氏(斯波氏祖)、現場責任者は伊勢俊継と俊継の従兄弟たる増恵であり、扁額を揮毫したのは世尊寺経朝
経朝の実父は広橋頼資であり、日野流なのである
頼資の姉妹に一条高能の妾になった女がおり、高能は生母が頼朝同母姉妹の坊門姫であり、頼朝娘たる大姫の嫁入り第一候補でもあった
足利氏と日野家の繋がりは鎌倉期まで遡る必要がある
ものすごく勉強になりました!
こうして見ると付き合い長い家ですよね徳川と後北条
琵琶湖県民ですが近江松平は知らなかったです😮
湖北は陸の孤島と呼ばれてましたが今は湖畔を車で走れますし桜🌸の季節は湖畔に映えて美しいですからどうぞお越し下さい😊
個人的に今津に行きたいと思ってます
動画内では本筋から離れるのでサラッとしか触れていませんが「菅浦文書」は滅茶苦茶面白いですよ。大浦との戦いも琵琶湖沿岸の村落や地侍が双方に加担しかなりデカい戦いに発展しています。琵琶湖は敦賀や小浜で水揚げされた日本海運輸の京への最終中継地となるので、村落規模でも経済力外交力が高く湖南の六角支配地域を除いた村落が参加しています。中には村落は大浦側なのに支配層が菅浦を応援した居たり逆も有ったり混沌としています
菅浦は降伏しましたが既成事実化した田畑や入会山の権利をもぎ取って居ます。菅浦文書の中で子孫に『有力者には付け届けを怠るな。年に数百万(現在の価値で)事が起こったら1千万単位のお金を用意しろ』と書き残しており裕福だったのが分かります
信光と親忠が1465年ころ統治した上里町を、ということでね。
私の先祖がこのあたりこのころ
関係していたと思われます。
大門、鴨田、岩津、井ノ口など
他人ごととは思えないような地名がでてきて非常に興味深い。
ただ上里がでていない。大門のとなりで矢作川のたもとなのに。。残念。すこし川の流れが
氾濫などがあって変わったのだろうか?
ありがとうございます。
上里は地図で作りましたが矢作川の分流が江戸時代まであった感じですね
@@Yoshifuji-Sengoku さん
上里を地図でつくられた、
ということですが実際あの動画の地図には大門は載っていますが上里は載っていません。
残念です。
松平家が伊勢氏の被官であった事は知っていましたが、上方において日野家の被官をしていたのは初めて知りました😊
家康前史は普通の書籍だとあまり書いてないんですよねぇ
当時の松平宗家が、伊勢新九郎に滅ぼされたのは、忘れられた歴史の皮肉。
結城先生が書いてる伊勢早雲の漫画では、そこら辺はどう扱われるのか今から楽しみです😊
松平長親が今川家and伊勢新九郎相手に戦った訳ですか。
そして安祥松平家が岩津松平家に代わり松平宗家の地位を確立したと。
松平家が日野家にも仕えていたのを初めて知りました
世代的に北条早雲の父親が家康の先祖と同僚として京で色々活動してたんだと想像すると面白いですね
応仁の乱の影響が地方に波及して地方の問題を解決する必要から地方に拠点を移して基盤を構築するという流れは
それこそ北条早雲のサクセスストーリーに近いものを感じます(まあ関東の混乱は応仁の乱以前から始まってましたが)
これがほんとうなら松平は伊勢の家来筋
同僚というのはいかがか
小田原北条氏は家康の主筋の家ですか
面白いですね
地図が物凄くわかりやすいな。
よくわからん三河の土豪から成りあがったっていうけど、そも三河の土豪になった時点で他とは頭一つ抜けたバックボーンがあったんですね松平氏。
松平家が伊勢(後北条家)の家来だったんですね。
「新九郎、奔る!」に出てくる人名がいっぱい出てきますね。戦国大名といっても、室町幕府関連で力を持っていた家が有利な点があったのでしょうか。伊勢宗瑞(北条早雲)も、最初は中央の命令で動いているうちに、実力をつけてきたようだし。
しかし、足利義教様、おっかない!
新九郎奔るファンには是非みて欲しい動画なんですけどねぇ、松平vs北条早雲までやれたら最高だった・・・
19:35〜の細川家の系図は壮観の一言ですね(^ ^)
北条得宗家滅亡後のくびきから外れた足利将軍家の『義』細川家の『頼』の字の源氏を表す文字の大量使用が面白い❕
昔、細川一族クイズといって細川一族の実名を並べた画像つくりましたが通字ばかりで目がチカチカしましたw
@@Yoshifuji-Sengoku
返信ありがとうございます😃
そんなディープなクイズがあったとは…
もはや新手の嫌がらせのようなクイズですね😵💫
「松平」から「得川」と名字を変えようと朝廷に申し出たけど認められず「徳川」という当て字で認められたといのをどこかで聞いた事があります。
松平だと前例なくて三河守貰えないので苗字変えて改姓した感じ
NHKで源氏系だということで
過去に随分さかのぼってむりやりこじつけで朝廷がおかねをつぎこんだことでそのお礼として
徳川を認めた、とやっていた記憶があります。
o< ・ω・ >o松平家って地元の土豪かと思ったら結構なエリートやな、、
家格的には国衆なんでしょうが伊勢氏の被官だとエリートな感じしますよね
まあ待ちますよ面白いから
少しお待たせしてしまいますが、燃料を頂きましたのでがんばります。いつも応援感謝です♪
武内涼さんの『吉野太平記』という小説に日野家の被官である松平が出て来るが、アレは作劇上の都合ではなくリアルな話だったとは知らなかった。
その小説は知りませんでした。しっかり調べて書いてるのは好感持てますね
@@Yoshifuji-Sengoku
仰る通りですね。正直びっくりです❕
統治に漫画みたいな血統のフランド性を求めるのは、統治対象先にいる沢山のあまりに簡単な人らからの浅い嫌疑に対決する時間が無いと構想していたからで、そもそも自分で革新をやらなくては何にもこの地域は変わらない、という行動を取るには、そもそも行動を伴う社会教養を深く収めていなくては無理なんですね。その無理を可能にしたプラツトフオームこそ、中世では血族教育なんですねー。
北条時政すら氏素性のはっきりしない下賤扱いされたそうなので…
この動画見てから松平氏源氏説はあながち作り話でもないような気がしました。室町幕府の中枢と関係深かった新田一門が徳阿弥の可能性もありますよね。
実は新田一族じゃないかというのを完全否定はできないですね。徳阿弥さんの素性が明らかになってませんので
元が代官だから松平は分家でも地名を名乗らず松平家ばっかりになってたんですね
松平はすごい「若い」家ってのもあると思います
すごいレアな歴史動画やね。ずいぶん前に『歴史群像』という雑誌で室町中期に松平氏が近江国で活動していたという記載があった。この動画で伊勢氏、日野氏、松平氏が浅からぬ因縁があったことを初めて知った。特に伊勢氏は分家が後北条氏になったし。徳川家康も、先祖の一族の中で、東隣の後北条氏の本家筋の伊勢氏の被官をしていた者がいたことは伝承で知っていたはず。だから豊臣秀吉の関東遠征でも、徳川家康は後北条氏とはあまり争いたくなかったのはうなづける。小田原落城の後も、徳川家康は生き残った北条一族をできるだけ保護しようとしたはずだし。それは後北条氏(つまり伊勢氏分家)が松平氏の主筋にあたる家だったので、没落させるに忍びないという事情があったのだろう。後北条氏は徳川幕府の時代に河内国(大阪府)で小大名として復活し、明治維新まで生き残ったのも、この動画の内容が徳川家の中で伝承されていたこともあったのではないかなと思う。
家康は近隣の有力諸侯とか家臣団にはその旧臣が多かったという理由はあるにせよ、基本名家は保護していましたしね。
今回の動画に出てきた西郷氏も、おそらく家康の側室で秀忠の生母の実家でしょうし(まあ、西郷氏未亡人だった気もするので、若しかしたら違うかも知れませんが)
ここら辺の話は後北条氏旧領への家康の入部や薩摩藩島津家との関係を考える上で重要
菅浦荘の討伐や額田郡一揆のお話で気になったのですが、この時代は相手の戦力に合っていない軍事作戦が一般的だったんでしょうね。菅浦荘の討伐では労力に見合った恩賞が払えていなさそうですし、額田郡一揆では松平氏が焼け太りしているように見えます。
こんな、金銭管理がぐだぐただと幕府や領民が疲弊して治安が悪化するという負のスパイラルが止まらなさそうです。
大兵力で攻めたので無駄な犠牲が出なくて良かったのかも。参加者も犠牲なければ恩賞は軽く済むでしょうし
あのときのウェルカムドリンクを届けたのがこちらの...?
スピリッツ誌上では、新九郎さん、ようやく東国に足場を頂戴しつつあるところですね。この作品で新鮮に驚いたのが、登場する各家とも、広く一族が東西に散在しているところ。
室町幕府の建付けが京都ー鎌倉の枢軸だったせいか、幕府奉公人・奉行衆とも地方小豪族とも東西に目配りし、諸国に親戚家人のネットワークを構成していないと、家が持たない時代だった、ということでしょうか?
そんな国人たちの気苦労を、一円に引き受けてあげるありがたい存在として、やがて登場してくるのが戦国大名、と。
酒10樽を「ウェルカムドリンク」にするゆうき先生のセンスが最高!
北条と徳川は実は伊勢と松平と名乗っていた頃より因縁がある
しかし家康と氏規のやり取りを見るに織田と朝倉の様なギスギスとした因縁では無さそう
むしろ安祥松平としては岩津の本家からノーリスクで(と言っても長親の蛮勇を見せる必要はあったが)宗家の座を奪い取れたから寧ろ恩すら感じてそう
勉強になるね···
ありがとー♪
地図・家系図付の歴史解説動画は分かりやすく、史実を深掘りされるので勉強になります。チャンネル登録しました!
よしふじさんは三河の方なのでしょか?土地勘もあるのかなぁと思いました。
歴史好きですが私は九州なので、近畿〜中部〜関東がメインの歴史を訪れるのに、旅費がかかるのが痛いです。
実は三河に足を踏み入れたことがありませんw
新九郎、奔る!にハマってるから、なにやら趣深い
伊勢貞親とか貞宗とかもうゆうき先生のマンガのイメージしかないですねw
伊勢氏の祖先は、平貞盛の四男であることは、わかった
あまり語られてない空白の伊勢氏の平安末期の末期〜鎌倉時代を知りたい。
動画の系図以前は不詳で平貞盛ではないと思われます。鎌倉期は斯波の先祖の絡みとか上総の守護代やってたぐらいしかネタがないw
面白い動画だったけど、結局、徳阿弥さんの実家は何なのかは分からなかったんだな。たぶん、徳阿弥さんは同朋衆だったので伊勢氏や日野氏に接近できたんだろうね。でも、同朋衆は出自的にピンからキリだからね。
徳阿弥さんの素性が解ったら大ニュースになってしまうかな
専門の先生が頑張っていずれ判明するのを待ちましょう
牧野氏
東三河は牧野の名字がかなり多い(土地持ちの古い家)
伊勢貞親被官出身の信光の嫡流が、貞親の義理の甥にあたる伊勢宗瑞に攻められて没落するんですか。。。 そしてその機に宗家にのし上がる安城松平。
戦国後期の大大名、徳川と北条の先祖に意外な繋がりがあったんですね。
大浦VS菅浦みたいな北近江の仁義なき村の戦いは別の動画でも見たような気がするなぁ・・・、何だっけか
良い動画ですね。備中伊勢氏の伊勢盛時(戦国の北条早雲)の母親が、京都伊勢氏の政所執事であった伊勢貞国の娘と言われていますからね。早雲も幕府(細川政元)の命令で東海地方に行ったんでしょうね。
やっぱり徳川(松平)氏の先祖は新田氏では無かったんですね!でも伊勢氏の家臣(パシリ)として頑張ったのを無かった事にするって先祖達も報われないなー
とは言っても、後にその伊勢氏の有力者である伊勢早雲に散々な目に遭わされる訳で😅
世良田氏の末裔は現状では可能性は低いですねぇ、なんでパシリが無かったことになったのか、なんで早雲が攻めて来たのかも続きでやれたらと思います。動画が爆死したらやりませんが・・・
結局、源氏なのか平氏なのか、はたまた本当に藤原なのか。
そもそもの話し、徳川の祖先は松平では無い。徳川の祖先は貧乏な僧で岡崎で国衆の家に入り込んで娘を手籠にして、更なる有力国衆に入り込むという手口を繰り返して力を蓄えた
上州出身者で婿入りしたのが先祖に居てそれを新田の子孫としたもの
信長が富士遊覧したときの徳川家のアノ接待って...
ひょっとして「万人恐怖」の故事を踏まえてのことかな?
だとすりゃホント、直後の信長のお誘いには、生きた心地しなかったろうなあ。
そのとばっちりが光秀の不幸・・?ww
新説ですねw
富士遊覧するヤツろくなの居ない説w
鎌倉武士政権、室町武士政権初期に政所執事職だった二階堂氏は、初代たる行政の生母が額田冠者と号した藤原季範の妹であり、祖母(生母の母)たる松御前は三河の新城に墓所がある
そして蜷川氏は、元は日本武尊皇子または物部氏族の宮道氏であり、本貫地を三河国宝飯郡宮道郷と伝える
伊勢氏、蜷川氏、二階堂氏、松平氏そして足利氏の共通点は三河縁者なのである
三河国宝飯郡宮道郷を本貫とする宮道氏は、宮道弥益の娘たる宮道烈子の娘が醍醐天皇の生母となり、後に弥益の屋敷は醍醐天皇により勧修寺が創建され、宮道烈子の旦那たる藤原高藤は勧修寺と号した、コレが勧修寺流の始まりである
勧修寺流と言えば、三河が本貫の藤姓熱田大宮司家と親戚であり三河国受領職を多く出した葉室家、三河国知行国主であった吉田家、吉田家分家で藤房の墓所が西尾にある万里小路家、そして武家の上杉家
不可思議ほど、勧修寺流は三河に縁があるのである
そして勧修寺流と宮道氏の血を引く醍醐天皇の曾孫たる源道成(醍醐源氏)の娘は、日野実綱に嫁ぎ、孫が親鸞の実父たる日野有範、有範の室(親鸞生母)は源義家の孫娘と伝える
源道成の嫡男(業長)
の息子(道成孫)は三河守隆長であり、隆長の娘は源義家の室となった、その子孫が源頼朝なのである
清水克行さんの本でありましたね、このくだり
湯起請を解説する下りであったと記憶してます。菅浦の古記録が松平氏にやられた後は急に平和主義になってるとかも面白かったです
50年前までは将軍からしたら陪臣の家柄が
天下を取って将軍にとって代わるの本当にすごい
秀吉でかすんで見えるけど十分家康も成り上がったよなぁ
中条氏の本拠たる高橋荘、足助氏の本拠たる高橋新荘(足助荘?)は共に大覚寺統領であり、鎌倉後期、本家の昭慶門院が薨去すると、その遺領は世良親王に授けられた
世良親王若くして没したが、生前、親王が建てようと計画していた禅寺開山を南禅寺住持の元翁本元に依頼した
だが元翁本元は急死し、あとを継いで臨川寺を開いたのが盟友の夢窓疎石であった
元翁本元と夢窓疎石は岐阜多治見の永保寺を開いた事で有名であるが、数年前、2人は三河の新城市に住して大徳寺を開いている
何故か?答えは元翁本元の出身地だからである
三河は、北朝南朝の人間関係が入り乱れていたカオスであり、陽のあたる北朝史だけでは奥が深い三河の中世史は見えてこない
南朝系とか宗教系はちょっとやれないかな
松平氏と戸田氏が伊勢氏の家来としてコンビ的に活躍したとすると、応仁の乱の時期に知多郡や渥美郡に侵入した戸田氏も、伊勢氏の意向で一色氏の所領をふんだくりに入ったということになるのかね?
伊勢氏(後北条氏)と、そんな関係にあったんかΣ(゚∀゚ )それより!菅浦荘への’壮大ないじめ’は、観ていて気持ち悪くなった(´ж`;)ォ・・ォェッ・・・そら江戸時代では話せないと思ったよ。追記:実は私は、徳川家の成り立ちを、得川(当時当て字だから徳川でもOK)→新田源氏と合流→世良田→分家は得川名乗れる(ここでは得川に固定)→徳阿弥さん婿養子→松平→満を持して→徳川(足利氏との関係思って、大昔の当て字の方使った。それにこっちの方が格高そうだから満場一致ヽ(゚∀゚)ノヤッター )・・・だと思い込んでいます。ありがとうございました。
菅浦荘も大分やらかしてますし、大動員で血を見なくて良かったのかも
今回も詳しい解説ありがとうございました。個人的には新右衛門さんちょっとでも出てきただけで、満足(適当に動画見てただろ!ww)
京都出身のタレント島田紳助さんは高校の時の同級生に蜷川新右衛門さんの子孫がいて、ものすごい大きな屋敷に住んでいたと言っていました。
赤松家は別所家と共に村上源氏衆と言われる🙄
江戸時代のように領国支配が統一化されてないから細かい諸氏族が合従しててややこしいなあ。大庭氏って源平期に藤沢にいた大庭氏???
初回でも言われてましたけど、初代の弟・祐金斎泰親が京中枢と三河を結びつけるキーマンぽいですね。
あの兄弟の実家って京の土倉だったりするんですかねぇ、松平に婿入りする前から文化だけでなくカネの臭いがします。
同朋衆だとしても単に芸能者にとどまらない感じ。泰親系子孫の在京動向を見ても武家商家の中間形態っぽくて…。
買得説を採らないと軍事指揮能力も高そうなんですよねあの兄弟
始まりと終わりを飾る一族か。
上州源氏新田一族の分家世良田家の末裔じゃなかったのか。
烏丸家の所領は三河国渥美郡の御厨であり、日野重子の従兄弟たる烏丸資任は当地に下向し没した
当地には、楠木正勝が烏丸家を頼って隠れ住んみ、後に禁闕の変を起こす日野有光と再起図った伝承が残る
もちろん伝承の域でしかないのだが、三河には驚くほど楠木一族の伝承が残る
鎌倉初期、渥美郡御厨の親分は三河守護の安達氏であり、安達氏が足利氏に三河の権益を譲った後も、安達泰盛は渥美郡小松原荘地頭職であった
安達泰盛は霜月騒動で滅ぼされたが、河内国の所領であった観心寺荘を与えられたのが楠木氏
安達氏は那古野荘地頭だった尾張の足助氏に室を出し、三河の足助氏、足助重範の生母は楠木正成の叔母、重範の室が楠木正成の娘と伝え、三河で不可思議なほど繋がりがあるのである
松平家が発祥した豊田市の中心部には、元弘の乱(第一回目)で楠木正成が逃げてきたと伝える若宮八幡宮、楠木正成、正行の供養寺たる多聞寺(現在は雲龍寺と改称、猿投に移転)
そして、足助氏から松平氏に嫁が入った事により楠木正成を血を引く事になるのが徳川家康
知渥美には南朝勢力がいましたね一色さんにやられましたが
この時代の松平氏の人間に あなたの子孫たちは 天下統一して幕府を開き 征夷大将軍になりますって言ったら どんな反応するかな
伊勢のパシリやった甲斐があったと涙してるといいなぁ
だよね。
で、後の世に、徳川・北条同盟ができるが、これもあれこれ顔見知りだったかな、とかね。
駿府で徳川家康と北条氏規が顔見知りですね
一条高能の祖母は源頼朝母たる由良御前だが
亡くなった由良御前の49日仏事を弟の三河法橋裕範を取り仕切って、後に頼朝に感謝されている
信西の息子たる澄憲法師を招いて盛大に執り行われたが、場所は裕範が坊さんしていた三河国滝山寺だった可能性が高い
何故なら、滝山寺には由良御前の父たる季範が嫁と創建した蓮華寺(廃寺)が存在していた
すると世尊寺経朝は、叔母の旦那の祖母ゆかりの滝山寺三門の扁額を揮毫した事になる
ちなみに季範夫妻が創建した蓮華寺は、足利尊氏父たる貞氏(讃岐入道)が、先祖の季範夫妻宛に願文を奉納している記録が残る事から、少なくとも1300年初期には存在が確認出来る
蜷川の子孫が元K-1の武蔵。
どっかで聞いたことがあるようなないようなw
トリビアの泉で紹介されてましたね^_^
ただの三河の土豪に過ぎない訳ではなかったと。
足利家の一門の今川家にもパシリにされるのが皮肉。
適当な足利支配がよく分かる 今の国政と同じ
「ふさわしくない格好」まあ、信長の逸話は置いといて、現代人でも服装で判断してますよね。人間って進歩しないのかなあw未来になっても、宇宙人のような銀ピカの服はあり得ないよwww
YUKIMURAさんの復習にありがたい
貞親は盛定の兄だから、伊勢宗瑞のおじさんよな
松平家の祖先は斎藤道三的な人物だったのでしょうね。
甘利勢6割
若者語に翻訳して0.75倍再生にしたら歴史苦手脳にも入ってくるかも。
これが本当ならば、源氏の姓が欲しくてわざわざ新田氏の庶流の得川の流れとして徳川を名乗っていく事の説明がつかない。また、得川以前には藤原姓が欲しくて近衛前久に接近した史実とも矛盾する。
同意します。
三河平定のタイミングで三河守が欲しかったけど足利義輝が弑逆されてしまったので窓口が近衛家になり前例として吉田兼右に近衛家の下司に藤原姓の得川が居たとでっちあげて貰った流れです。そのうち動画にしますが
@@Yoshifuji-Sengoku さん
得川は新田の流れじゃないのですか?
近衛家からの藤原姓を諦めて源氏姓にシフトしたと思っています
パシリとは哀れな(笑)
ま、人権意識などない時代やからパシリ未満かも(笑)