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おじさん、国さんの事ほんとに大好きなんよね
土屋さんが本当にホンダに戻って来た時の国さんは驚きと共に、さぞかし嬉しかっただろうなと思う。こんなに慕ってくれる後輩がいるって幸せ者ですよ。
GTでトヨタからホンダに移ったのは99年の館信吾の事故死でトヨタ側が曖昧な原因説明しか出来ず不信感を募らせたのも一因と言われてます。当時は98年の太田選手の大火傷など重大事故も多く(2000年も富士で自身が車全損のクラッシュを被っている)車やレスキューなど色々未熟なままレースがされてました。走り屋出身だからこそか分かりませんがドライバーの安全に誰より敏感だった方です。
免許取りたての頃に走り屋ブームだったんで、CARBOYや、OPTIONで土屋さんを知り、後にAE86を購入するきっかけにもなりました。TRDのカタログのアドバンカラーの86レビンに憧れて、アドバンカラーにしようかと思った位大好きでした。数々の名勝負、ストリートあがりの名レーサー!!小学生時代に憧れた、星野一義氏と共に今でも大ファンです!!懐かしいお話し有難う御座います!
映画やビデオやゲーム、そして動画出演でどれだけ日本のモータースポーツの裾野を広げたか、計り知れない
ドリキンを語る上で欠かせないのは高橋国光だけど同じくらい重要な存在は鈴木亜久里。
06:55 1994年だと全日本GT選手権の実質的な元年なので、チーム国光はこのときポルシェで第3戦から参戦しました。 おそらく1993年を書き間違えたように見えます。(1993年がグループA体制で行われた全日本ツーリングカー選手権の最終年)
土屋圭市氏の話から外れますが、鈴木亜久里氏の強みは「本気のリップサービス」で明らかにリップサービスな発言でも後日「あの時の約束今度どう?」と再度声がけして実行し、これで数多のスポンサーのお偉いさんを「たらし」ていたらしいです。
ドリキンの活躍は自分が幼少期からベスモ等の自動車関連の媒体で見て来た。それ故に自分の車人生に於いて外せない人間の一人である。
東京FMで確か土曜日の夕方番組を持っていた事が有ったのを覚えてますがこの時期はY社のイメージキャラクター的な立場でしたがB社のタイヤの事をボロクソに言っていたのを思い出しました、でも今はB社憑きですものね😅
自伝本「ドリキン伝説」でも「僕は生涯ヨコハマで走る」と宣言したくらいでしたが、この動画でも触れてますARTA入りの経緯からするともう背に腹は代えられない状況だった一面もあるでしょうね。
素晴らしい‼️よく知ってますねぇ〰️☺️所々思い出しましたわ😃❤GrAでクニさんと初めて表彰台にあがったとき前も後ろもタイヤズルズルであ😅でもどんな汚いことをしてでもクニさんとどうしても表彰台に立ちたかったって言ってましたのを思い出しました😊💕ARTAがSUPER FORMULA に復活参戦していない理由を知りたいです‼️よろしくお願いいたします〰️☺️
色々賛否両論ある人ではありますが、間違いなく日本のレースシーンに大きな影響を与えた人谷口や織戸といった次世代も育ったし、レースを盛り上げるために勝ち負け関係なくファンの為にと、寿一と遣り取りもしてた
国さん、もう少しこの世に居てDKと色々やって欲しかったなぁ
ユミドライブコーナー、キャロット・・・地元の人間なら一度は目にしたショップのロゴが見られて非常にエモい🥹🥹🥹
土屋さんを語る上で坂東親分を忘れてはいけません。
ドリキンの経歴は自叙伝で「土屋圭市レーシングヒストリー(現在Vol2まで、以下続刊で多分3まで?)」に詳しいです、恐らく口述筆記ですが結構ぶっちゃけた事も書かれています。※私はチーム国光発足の経緯と、その発端となった高橋健二氏の突然の「(グループAから)おりる!」宣言とかはこの本で初めて知りました。
94年じゃなくて93年ですね。
おじさん、国さんの事ほんとに大好きなんよね
土屋さんが本当にホンダに戻って来た時の国さんは驚きと共に、さぞかし嬉しかっただろうなと思う。こんなに慕ってくれる後輩がいるって幸せ者ですよ。
GTでトヨタからホンダに移ったのは99年の館信吾の事故死でトヨタ側が曖昧な原因説明しか出来ず不信感を募らせたのも一因と言われてます。当時は98年の太田選手の大火傷など重大事故も多く(2000年も富士で自身が車全損のクラッシュを被っている)車やレスキューなど色々未熟なままレースがされてました。走り屋出身だからこそか分かりませんがドライバーの安全に誰より敏感だった方です。
免許取りたての頃に走り屋ブームだったんで、CARBOYや、OPTIONで土屋さんを知り、後にAE86を購入するきっかけにもなりました。TRDのカタログのアドバンカラーの86レビンに憧れて、アドバンカラーにしようかと思った位大好きでした。数々の名勝負、ストリートあがりの名レーサー!!小学生時代に憧れた、星野一義氏と共に今でも大ファンです!!懐かしいお話し有難う御座います!
映画やビデオやゲーム、そして動画出演でどれだけ日本のモータースポーツの裾野を広げたか、計り知れない
ドリキンを語る上で欠かせないのは高橋国光だけど同じくらい重要な存在は鈴木亜久里。
06:55 1994年だと全日本GT選手権の実質的な元年なので、チーム国光はこのときポルシェで第3戦から参戦しました。 おそらく1993年を書き間違えたように見えます。(1993年がグループA体制で行われた全日本ツーリングカー選手権の最終年)
土屋圭市氏の話から外れますが、鈴木亜久里氏の強みは「本気のリップサービス」で明らかにリップサービスな発言でも後日「あの時の約束今度どう?」と再度声がけして実行し、これで数多のスポンサーのお偉いさんを「たらし」ていたらしいです。
ドリキンの活躍は自分が幼少期からベスモ等の自動車関連の媒体で見て来た。
それ故に自分の車人生に於いて外せない人間の一人である。
東京FMで確か土曜日の夕方番組を持っていた事が有ったのを覚えてますがこの時期はY社の
イメージキャラクター的な立場でしたがB社のタイヤの事をボロクソに言っていたのを思い出しました、でも今はB社憑きですものね😅
自伝本「ドリキン伝説」でも「僕は生涯ヨコハマで走る」と宣言したくらいでしたが、この動画でも触れてますARTA入りの経緯からするともう背に腹は代えられない状況だった一面もあるでしょうね。
素晴らしい‼️
よく知ってますねぇ〰️☺️
所々思い出しましたわ😃❤
GrAでクニさんと初めて表彰台にあがったとき前も後ろもタイヤズルズルであ😅でもどんな汚いことをしてでもクニさんとどうしても表彰台に立ちたかったって言ってましたのを思い出しました😊💕ARTAがSUPER FORMULA に復活参戦していない理由を知りたいです‼️
よろしくお願いいたします〰️☺️
色々賛否両論ある人ではありますが、間違いなく日本のレースシーンに大きな影響を与えた人
谷口や織戸といった次世代も育ったし、レースを盛り上げるために勝ち負け関係なくファンの為にと、寿一と遣り取りもしてた
国さん、もう少しこの世に居てDKと色々やって欲しかったなぁ
ユミドライブコーナー、キャロット・・・
地元の人間なら一度は目にしたショップのロゴが見られて非常にエモい🥹🥹🥹
土屋さんを語る上で坂東親分を忘れてはいけません。
ドリキンの経歴は自叙伝で「土屋圭市レーシングヒストリー(現在Vol2まで、以下続刊で多分3まで?)」に詳しいです、恐らく口述筆記ですが結構ぶっちゃけた事も書かれています。
※私はチーム国光発足の経緯と、その発端となった高橋健二氏の突然の「(グループAから)おりる!」宣言とかはこの本で初めて知りました。
94年じゃなくて93年ですね。