漫才【夢路いとし・喜味こいし】(3)|残しておきたい昭和の演芸
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- Опубликовано: 26 янв 2023
- 夢路いとし・喜味こいし
「いとし・こいし」の漫才をお楽しみください。
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夢路いとし・喜味こいし
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夢路いとし(本名・篠原博信)と喜味こいし(本名・篠原勲)は兄弟で、旅回りの劇団に所属する両親の間に生まれた。父親は元警察官であったが、芝居好きが高じて退職し、芸能の世界に飛び込んだという。また、看護師だった母はその父に従い、三味線を習得して巡業に帯同したという。
幼い頃の2人は子役として活動し、兄の博信は東京で映画に出演、弟の勲は劇団の巡業について全国を巡り、芝居に出演した。1936年、二・二六事件をきっかけに一家は名古屋市で暮らすようになった。名古屋でも2人は芝居に出演した。変声期を迎え「大人とも子供ともつかんような中途半端な年齢」に差しかかっていた2人はチンピラ劇に出演するようになり、そこで漫才のような掛け合いを演じた。
ある時2人は共演者で玉乗り芸人の井上金太郎に掛け合いが面白いと評価され、漫才師に転向するよう勧められた。井上の勧めに従うことにした2人は井上の紹介で漫才師の荒川芳丸に弟子入りすることになり、1937年秋に一家で荒川の一座に入った。荒川は漫才師となった2人に荒川芳博・芳坊という芸名をつけた。喜味こいし(芳坊)曰く、荒川自身は「鼓を叩くような古いスタイルの漫才」をやっていたがそのような漫才は時代遅れだと認識しており、2人にしゃべくり漫才をやるように勧めた。コンビ結成当初はしゃべくり漫才が世間に漫才として十分に認知されておらず、地方の興業では客から「漫才をやれ!」と野次られ、泣きながら演じることもあった。
1940年10月に荒川芳丸が急死し、一座は解散した。芳丸の息子の荒川小太郎が吉本興業の所属となり、小太郎の誘いを受けた2人も手見せを経て吉本興業に所属することになった。2人は家族とともに大阪へ移り、当時大阪で最も権威のあった寄席である南地花月と花月倶楽部をはじめとする吉本興業直営の寄席に出演した。
1943年、弟の芳坊(後の喜味こいし)が山口県の軍需工場に徴用され、コンビは活動停止を余儀なくされた。徴用されて半年ほどが経った時期に芳坊は少年兵として兵役に就くことを志願し、徴兵検査で甲種合格。山口の歩兵第42部隊の重機関銃中隊に配属された。その後広島に配属され、そこで終戦を迎えた。
芳坊(後の喜味こいし)が大阪へ戻ってしばらく後に、2人は山田博・勲として活動を再開させた。当時、戦災により直営の寄席を失った吉本興業は演芸を行わなくなっていたため、2人は松鶴家団之助が設立した団之助興行社の興行に参加した。1947年、2人は他の漫才師らとともに新作漫才の発表会「MZ研進会」を結成した。MZ研進会の運営は演者が自らネタを考えて演じ、会長を務める漫才作家の秋田實がアドバイスを入れるという形で行われた。喜味こいしによると、この時の経験が後に夢路いとし・喜味こいしのネタ作りのスタイルの確立に繋がった。MZ研進会参加後は秋田が2人のために台本を書くこともあった。ただし秋田は筋書きを考えるだけで、ネタの細かな構成はいとしが考えた。秋田についていとしは「私達が今日あるのは、ひとえに先生のご威光のお陰」「私たちは秋田門下です。それを誇りに思って、今も漫才をやっています」、こいしは「我々にとって生涯の恩師」と述べている。
2人はMZ研進会に参加していた時期に芸名を夢路いとし・喜味こいしに改めた。新しい芸名が決まった経緯は以下のとおりである。まず兄の芳博が並木一路・内海突破のように2人あわせても1人でも意味の通る名前として「いとし・こいし」を考えた。どちらがどちらの名前を名乗るかじゃんけんで決め、勝った芳博がいとしを選んだ。次に屋号を考え、月丘夢路のファンであった芳博が夢路いとし、芳坊は二村定一のヒット曲『君恋し』から喜味こいしとした。なお、はじめは「いと志・こい志」と変体仮名で表記していたが、間もなく普通の平仮名にした。
1949年12月、いとし・こいしは秋田が番組構成を担当した全国放送のラジオ番組『上方演芸会』に定期的に出演するようになった。『上方演芸会』出演をきっかけにいとし・こいしは若手漫才コンビとして名が売れるようになり、漫才に軸足を置きつつ、『がっちり買いまショウ』(毎日放送)の司会を務めたのを始めとして、テレビ、ラジオ、映画、演劇など様々な分野で活躍するようになった。本業の漫才では第4回上方漫才大賞の大賞(1969年)や第5回上方お笑い大賞の大賞(1976年)など、数々の賞を受賞した。
いとし・こいしはしばしば時事ネタを扱いつつ、その時の2人の年齢に合わせたネタを演じた。喜味こいしによると、年齢に合わせて演じることで無理することなく、自然体で演じられたという。2人はキャリアを重ねる中で、他の漫才師のしゃべり方が時代とともに速くなるのに対し、敢えて年相応のゆっくりとしたしゃべり方をするようになった。その結果、桂米朝が「淡々として世間話のようなしゃべり方でいつの間にやらお客を引きつけ、最後は爆笑に持っていく。ああいう型はだれもようやらんのでは」と評したスタイルが確立され、世代を問わず高い支持を集めることに成功した。
2人は「90歳になるまで漫才をやりたい」と述べていたが、2003年9月25日に兄の夢路いとしが死去。同月29日に喜味こいしは「いとし・こいしという漫才は、兄貴が死んで、もう終わりでございます。」と語り、コンビ解散を発表した。解散後、2011年1月に死去するまでの間、こいしはコンビを組まず一人で活動した。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ Приколы
どつきもないし、相手を「君」とよぶ。上品でかつ爆笑
素晴らしい漫才
その通りだと思います、
しかし最近の風潮は、どついたり、蹴飛ばしたり罵倒したり
感情をむき出しにすることが心地よい事だと勘違いしてる
いたずらに気持ちをむき出しにしないでいる態度を、
気取ってるとか上品ぶると言って嫌って、
思いのたけを野放図にぶちまけるようなことを享楽的に喜ぶ・・
下卑た笑い・・・
それは上品ぶるより悪い下品な事です
人の自身の中にある生ゴミをぶちまけるようなものですね
この演目は初めて拝見しました😂ありがとうございます。
油の乗ったすばらしい話芸ですね!
これから20数年以上の月日を『漫才界の至宝』と呼ばれるまで活躍し続けていかれたお二人に思いを馳せています。
いとこいさん、ダイラケさんすばらしい。つかみは、穏やかなんだけど、笑ってまう。
今どきの若い漫才は面白くない昔の漫才が本当に面白い
今の漫才も歌も品が無い
神業。いとこい漫才は凄い。
初めて見ました。やっぱり素晴らしいしゃべくりですね。ありがとうございました。
懐かしい・・いとこい師匠
昔の漫才は作りが丁寧で素朴でした、ラジオ時代から聞いてました
思い出すのは、
秋田Aすけ、Bすけ、・・エンタツ、アチャコの(早慶戦)
中田大丸、ラケット、・・平和ラッパ、ひさまる
上方りゅうじ、りゅうた・・若井はんじ、けんじ
ダブルけんじ・・コメデイーナンバーワン
男女漫才では
ミスワカサ、島ひろし・・ミヤコ蝶々,南都雄二、・・
今きたよ、島田洋介(いくよくるよの師匠)・・
「漫才の骨とう品でございます」
と言って手に持ったつづみをポンと叩く、砂川 捨丸・中村 春代
「あいやー」のミスハワイ、あかつき伸・
「責任者出てこい」、の、じんせいこうろう・いくえさちこ
京唄子、大鳥啓介
グループ漫才では
宮川左近ショー(三味線が絶品)、・・・「うちら陽気な」かしまし娘
漫談では、
まきの しゅういち、・・みやこやかつえ
声帯模写では、櫻井長一郎
などなど、懐かしい面々がうかびます
若々しく溌剌としたいとしこいし師匠が好きでねえ
この頃で50・・・中盤だろうか?
だとするとここから20数年くらい続けられるのか?
スゲェなァ・・・😅
いとこいワールド