「8月9日の記憶」 森田 博滿
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- Опубликовано: 10 окт 2024
- 被爆者が被爆した場所等で体験を語る被爆証言です。
本人映像とともに被爆当時の写真や絵を多く挿入しました。
・・・森田 博滿さん被爆体験・・・
当時10歳、爆心地から1.8㎞の自宅で被爆。
当番のため学校に出かけた帰り道、後ろで飛行機の轟音がした。振り返ると稲佐山の上に落下傘が見えた。その行方を兄と二人、目で追っていた。先輩が配給を知らせにきたので、父に知らせようと落下傘を見ながら玄関に入った瞬間、電気のスパークのようなオレンジ色の光と爆風に包まれ、家の中に5~6m吹き飛ばされ、気を失った。
「100分の1秒の命」あと一歩遅れていたら私の命は無かった。
◆(公財)長崎平和推進協会
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思い出すのも辛く哀しく苦しい事を後世のために平和のために語って下さりありがとうございます。平和でいること、人が人を思い合うことがどれほど大切かを深く考えさせられます。今も核兵器が世界に沢山ありますね。とても悲しいです。核廃絶を心から願い心にしっかり自分の平和への気持ちを持ちたいとおもいます。貴重なお話、本当に辛いお話を本当にありがとうございます。戦後も想像を絶する自分には計り知れない苦しさだったと思いますが生きていて下さってありがとうございます。平和🕊本当に本当に大切にしないといけませんね。
父も1934年12月生まれで終戦当時国民学校の5年生。
67歳で死んだ父は生きていればこの方と同じ歳…
友達がそのような姿で逝ってしまうのを幼き心が記憶しているのは大変辛いでしょう。
この世の終わりと思って当然です。
よく生き延びて長生きされました。
これからもお元気で原爆の惨状を後世に伝えてくださればと思います。
長崎に住んでいますが、普段何気なく過ごしている場所もあの夏には地獄の惨状であったと考えると胸が痛いです。
ありがとう
ありがとうございます
自分に出来る事は小さく、無力かもしれませんが、少しでも後世に伝えて行きます
ウサギも餌を食べるどころでは無くなってしまいましたね
この頃の方たちにも今と同じような
日常があったのに、大勢の両親や兄弟姉妹、友人やペットが一瞬でこの世から消え去り亡くなる悲しさや辛さは計り知れません
戦争によりいつも犠牲になるのは罪のない一般市民です
もう二度と繰り返してはなりません
同じ人間が
よくも
このような事ができたものだ
辛くてこれ以上聞くことができない
全身焼けて剥けた皮膚がどれだけ痛かったか……
それを見続けた森田さんのどれだけ恐ろしかったことか……
その年に生きていただけなのに
一生ついてまわる戦争、原爆の記憶がどれだけ苦しいか
どう表現したらいいか言葉が見つかりません
なぜ空襲警報が解除になったのか、解除にならなかったら被害も全然違っていたでしょうね 危険なものから身を守る為の身を隠す行動はとても重要だと思いました 比べ物にはならないと思いますがただでさえ毎年の夏は茹だるような暑さやけどしそうな紫外線 この苦しみは計り知れない 戦争は誰もが不幸になりますね ずっと平和でありますように
原爆で幼い子供の命を失い、次々と人々が亡くなり核兵器はなくして欲しいです。😥
貴重なお話をありがとうございました。😢
今に神罰が下るだろう
地獄というのは、時に
この世に顔を現すと
聞いた事が、ありますが、この時が、まさにその時だったんだね
アメリカ人はこの話を知っているのか
知らなたったら
それは不幸な事だ
なぜなら
自分たち自身もその危険にさらされていると言う事だ
被爆体験証言ありがとうございました。現在はこの事実が無かったような世界のナガレですね、再びこれを防ぐためにも私は投稿しましたよ…長崎の鐘そして歴史から学ぶ☚前者はナレーションと唄いで後者は私が歴史からこの戦争の原点に触れた語りです。どうぞお聞きくだされば光栄です。またイイネおさせて頂きました。
誰が落としたのか
アメリカか
日本の軍部か
それとも
金目当ての財閥か
アジア管内で日本軍が、やった事が、このような形でかえってくるとは、戦争は、絶対❌だね