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ちょうどこのチャンネルを見つけた2年ほど前に瞑想を始めました。般若心経を流しながら瞑想をしています。今回のような話を聞くとやはり見つけるべくして見つけたチャンネルなんだなと感じますね
ありがとうございます!
哲学ちゃんねるさんの書く文字は綺麗なんだろうなぁ〜🥰
それが汚い、というか子供のような丸字なんですよねぇ…
瞑想に生産性があるのか?何をもって生産性と呼ぶかによって変わってくるんじゃないでしょうか。睡眠は生産性があるのか?とか、夢を見ることに生産性があるのか?という問いと少し似たような感じもしますね。瞑想自体に生産性なり何かの効果を期待するのもどうかとは思います。禅などでは瞑想は手段ではなく目的と考えられてるんじゃないか。本来、瞑想しているのが人間のデフォルト状態なんだみたいな。よく瞑想によって「無の境地」に至るというようなイメージがありますが、私の感覚では、雑念を無くすというよりは、むしろ逆に雑念で頭を満たすような感覚があるんですよね。まあ、私の瞑想が未熟なだけかもしれませんが。禅やマインドフルネスなどの一般的な瞑想の入り方としては、まず呼吸を意識して整え、次に涌いてくる雑念を涌くにまかせる、それを観察しながら呼吸の意識を繰り返すうちに瞑想状態に入る、というような説明がされますが、私の場合は、雑念で頭がいっぱいになった状態で止まっている感じです。私としては、その雑念まみれの状態のままでいいではないかと開き直ってますけどね。あえていえば、無の境地なんてものがあるのかと疑ってるわけですが。「無」というのは何も無いことではなくて、むしろ情報で満たされた状態のことなのではないか。情報処理用語のエントロピーで言うなら、「無」とはエントロピーが0の状態でなく、エントロピー最大の状態なのではないか。つまり、乱雑さの極致ということですね。昔のTVは放送局の割り当てがないチャンネルは砂嵐のようなホワイトノイズの画面が映っていたものですが、あんな感じ。そこで、湧いてくる雑念というのは、砂の上に描かれた文字や絵のようなもので、瞑想とは砂上で文字や絵を書いては掻き消すという遊びを延々続けているようなものですね。そんな中で雑念と雑念が組み合わさって思いもかけない化学反応が起こったりもする。実際、マインドフルネスの研究では、瞑想中は脳が休んでいるわけでなく、むしろ血流量は上がっているという報告もあるようです。血流量が上がっているということは、何も考えずボーッとしているわけでもなく、何かしら生産的な活動をしているんだと見ることもできそうですね。ということで、瞑想といってもたいしたことをやっているわけではなく、無の境地に至るというような特殊で神秘的な修行などではないと考えれば、気楽に続けられるんじゃないでしょうか。また、夢にも記憶情報を整理する働きがあるらしいですが、瞑想と夢の違いを考えてみたりするのも面白そうですね。
写経されてる方にお聞きしたいのですが、文字列の意味(経の教え)を思い浮かべたり頭の中で声に出しながら書いているのか、単に画像として正確に写しとっているのかどちらの感覚なのでしょうか?後者のほうが何となく瞑想的な感じがしますか…
ちなみに僕は楽器の練習にも瞑想的効果があると感じています。機械的な運指練習に深く集中していると、自我が薄れていく感覚があります。
慣れてくると「写しとる」というよりも、脳内にある文字を「書き出す」という感じになりますので、両方の要素が含まれるやり方になるんだと思います。
@@てつがくちゃんねる なるほど、参考になりました!
写経するという行為自体に意味があるかどうかということだと思います。でなければ、どのお経を写経しようか、って話になります。
ちょうどこのチャンネルを見つけた2年ほど前に瞑想を始めました。般若心経を流しながら瞑想をしています。今回のような話を聞くとやはり見つけるべくして見つけたチャンネルなんだなと感じますね
ありがとうございます!
哲学ちゃんねるさんの書く文字は綺麗なんだろうなぁ〜🥰
それが汚い、というか子供のような丸字なんですよねぇ…
瞑想に生産性があるのか?
何をもって生産性と呼ぶかによって変わってくるんじゃないでしょうか。睡眠は生産性があるのか?とか、夢を見ることに生産性があるのか?という問いと少し似たような感じもしますね。
瞑想自体に生産性なり何かの効果を期待するのもどうかとは思います。禅などでは瞑想は手段ではなく目的と考えられてるんじゃないか。本来、瞑想しているのが人間のデフォルト状態なんだみたいな。
よく瞑想によって「無の境地」に至るというようなイメージがありますが、私の感覚では、雑念を無くすというよりは、むしろ逆に雑念で頭を満たすような感覚があるんですよね。まあ、私の瞑想が未熟なだけかもしれませんが。
禅やマインドフルネスなどの一般的な瞑想の入り方としては、まず呼吸を意識して整え、次に涌いてくる雑念を涌くにまかせる、それを観察しながら呼吸の意識を繰り返すうちに瞑想状態に入る、というような説明がされますが、私の場合は、雑念で頭がいっぱいになった状態で止まっている感じです。
私としては、その雑念まみれの状態のままでいいではないかと開き直ってますけどね。あえていえば、無の境地なんてものがあるのかと疑ってるわけですが。「無」というのは何も無いことではなくて、むしろ情報で満たされた状態のことなのではないか。情報処理用語のエントロピーで言うなら、「無」とはエントロピーが0の状態でなく、エントロピー最大の状態なのではないか。つまり、乱雑さの極致ということですね。昔のTVは放送局の割り当てがないチャンネルは砂嵐のようなホワイトノイズの画面が映っていたものですが、あんな感じ。そこで、湧いてくる雑念というのは、砂の上に描かれた文字や絵のようなもので、瞑想とは砂上で文字や絵を書いては掻き消すという遊びを延々続けているようなものですね。そんな中で雑念と雑念が組み合わさって思いもかけない化学反応が起こったりもする。
実際、マインドフルネスの研究では、瞑想中は脳が休んでいるわけでなく、むしろ血流量は上がっているという報告もあるようです。血流量が上がっているということは、何も考えずボーッとしているわけでもなく、何かしら生産的な活動をしているんだと見ることもできそうですね。
ということで、瞑想といってもたいしたことをやっているわけではなく、無の境地に至るというような特殊で神秘的な修行などではないと考えれば、気楽に続けられるんじゃないでしょうか。
また、夢にも記憶情報を整理する働きがあるらしいですが、瞑想と夢の違いを考えてみたりするのも面白そうですね。
写経されてる方にお聞きしたいのですが、文字列の意味(経の教え)を思い浮かべたり頭の中で声に出しながら書いているのか、単に画像として正確に写しとっているのかどちらの感覚なのでしょうか?
後者のほうが何となく瞑想的な感じがしますか…
ちなみに僕は楽器の練習にも瞑想的効果があると感じています。機械的な運指練習に深く集中していると、自我が薄れていく感覚があります。
慣れてくると「写しとる」というよりも、脳内にある文字を「書き出す」という感じになりますので、両方の要素が含まれるやり方になるんだと思います。
@@てつがくちゃんねる なるほど、参考になりました!
写経するという行為自体に意味があるかどうかということだと思います。でなければ、どのお経を写経しようか、って話になります。