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知らなかった事をとても分かりやすく解説して頂き、とても勉強になります。インターネットの良い部分で3年前の放送でも辿り着くことが出来ます。
私は京都市の学校で歴史を学んできましたが、神谷さんが言うように「武士が偉い」、「農民の不満を逸らすため、えた、ひにんの身分を作り出し」、「農民は身分の上では町人や商人より上」という文脈で学んできました。さらに京都市の歴史教育は「歴史で人権問題を一緒に考える」というのがあって、ひどかったです。「じぶんが農民だったら、どう(武士に対して)思うか?」という授業があって、思いをノートに書かされました。(令和の代の今もその方針は変わっていないと思います)「武士は威張っていて、腹が立つ」「おれたちは平等じゃないのか」など不満を書くことが授業の中心で、江戸のすばらしい文化、学問、幕府が衰退していく様子、諸藩の活躍などほとんど学ばずに江戸時代が終わっていました。(因みに、その先生は卒業式で「君が代を歌わなくてもいい」と言った、そういう方の先生でした)今回小名木さんのお話を聞いて、とても納得し、さらに歴史が好きになりました。ありがとうございました。
何でこんなに事実と違う事を盛大に教えられていたんだろうと思う。
支配者が**を支配しやすくするための都合です。
マルクス主義史観を、無理矢理当てはめようとした結果ですよ。明治を資本主義革命と規定するには、その前の時代を封建的絶対主義とするしかなかったわけで、更に戦前の天皇制を絶対王政と規定すれば、その前の時代は初期封建制の社会とするしかなかったということ。いずれにしろ、マルクスが欧州の歴史を分析して出来た理論を、無理矢理日本の歴史に当てはめようとしただけですよ。つまり学者という学者は、すべて欧米では・・・の出羽の守だったということです。今でも東大の学者は、大半がそうですが。
江戸時代の記録を見ると農家と武士が結婚したり、安月給の武士が農民に転職したりそういう話は結構ある。
確かに社会経済史的な現地で見ても階層の乗り換えは見られている土地を持たない母層には。食料の生産性がないため山間部に身を潜めたりしていた
確かに今まで学んできた話と全く違うので証明するものが欲しいという気にもなりますが、一番の証拠はやはり当時の日本人達の生き方や考え方じゃなかろうかと思います。武士道の精神からしたら、このねずさんのお話は説得力がありますし、腑に落ちます。お金持ちになることよりも人としての生き方を重んじていて、そういう立派なことができる人を正しく国民全体が評価できる時代だったからこそ、日本全体のモラルが高かったのではないかと思います。それにしても、きっと金に目がくらむ人のことを卑しいというみんなの共通の認識があったんでしょうから素晴らしいなと思います。現代の私達はお金を独占している大金持ち達にへりくだり、憧れさえ抱いている人達が大多数ではないでしょうか?お金よりも人としての生き方を評価するのが当たり前という状態にならなければ先人達のように素晴らしい日本を築くことができないのではないかと思います。そんなことに気づかせてくださるねずさんのお話しにいつも感謝しております。そしてそういった貴重な番組をいつも作ってくださるCGSの方にも感謝です。神谷さん、応援してます。
過去の話は時代によって変わります。表現は自由ですから、真実の追及は無理です、信用するのは自己責任で生きてきました(年金じじい)
30年前学校で習ったのと違うまさに目から鱗でした
歴史は夜作られるとも言われる。真実は変わらないのに歴史学者とやらが**を発見したとかで時代時代によって解釈は変わります。現在でも”捏造報道”がありますからン十年前のことは??
30年前学校で習ったのと違うふざけんなという気持ちでいっぱいでまさに尻からウ○コでした
ガキの頃からあった喉のつかえが取れた気分です。学校で習う事、時代劇。両者を比較するとなんとも言えない違和感をずっと感じてきました。違和感を言葉にして頂いてようやく腑に落ちました。おそらくはねずさんの持論かなぁとは思いますが、検証のための足掛かりとして活用させて頂きたいと思います。ありがとうございました。
どうしてこういう流れになるのか、腑に落ちない事ばかりで暗記するのが大変だった記憶がある。だから、歴史は嫌いだった。でも、こうして本当の歴史が知れるようになって、今は好きです。
事実上の町人は、江戸くらいで、地方では、農民が大工や鍛治職人、漁民、木こりを兼ねていたとの事です。武士も実際は、下級武士は、自給自足の生活を送っていたとの事です。狩人も小さな畑を耕して自給自足の生活を送っていたとの事です。獲物の肉や毛皮を換金して、最低限の必要な鉄砲や玉を購入していた。税金は、米で納めるが、開墾した新田や畑は無税なので、地域全体でお互い助け合って生活していた。また、江戸は、地方よりも病死する方が多く、沢山の墓が必要。子供は、沢山産まないと、子孫を残す事が出来ない。それでも、2人以上の跡取りが成人すると、それに近くなると、江戸へ働きにでるか、北前船に乗っていた。何故なら、田んぼを分けていたら、田分けの言葉通り、全員が食べる事が出来ないから産まれた知恵です。江戸は、年中、大勢の人が流入するお陰で、毎年、多数亡くなる人数をうめていた。また、江戸に、花魁文化が出来たのは、穢多等の金持ちに為の色街があり、庶民の為の色街もあった。何故なら、江戸は、働き盛りの男が毎年多数流入する街。なので、適齢期の女性は圧倒的に少なく、生涯独身男性が山ほどいたので、性のはけ口としての色街を形成する事で、女性が犠牲になる事を防いでいた。また、屋台や外食が江戸で急速に普及したのも、この不均衡な人口構成も起因していた。でも、こんな大事な事は、教科書の何処にも書いてない。不思議ですね。
政治家や支配者層は、自分に都合の悪いことは教えたくない。
すごい明快で勉強になりました!
士農工商は単なる職分で、武士から農民や商人、職人になる人も居るし、農民が大工になったり商人になったりしていました。何故なら、武士で家を継げない場合、養子に出されますが、必ずしも養子に入れる訳ではありません。食べていくために働かなければいけません。その時に本人の意思で好きな職に就くことが出来ました。また、一人前の御百姓さんとして認められるには、キチンと村の公認の試験をパスしなければなることが出来ませんでした。この試験にパスしなかった人達は、商人や職人への奉公に出されます。この時に奉公先の選択の自由が本人に在りました。
ねずさんの回はCGSで最も役に立つ。ヤブ医者やら怪しい人もしばしば出てくるが、
本当に金が全てになると人間は穢れるんですね。同和利権についてきちんと学校で教えることが逆差別をなくすことになるのかもしれませんね。
日教組は連中に支配されてるから無理ですね・・・かつてそれに反対する先生が「先生はこれからうそをつきます」という枕詞を使って、「教育」されました
ネズさん!いつも勉強になります。いつも応援してます。
いつも勉強になります。
昔はよく使われていたのに今は使われなくなった言葉の一つに「居そうろう」がある。 昔は大家族で暮らしていて、その中には親族ではない人も普通に含まれていた。各家々を泊まり歩いて家具の修理や馬具を作る仕事をしている職人や、行商の人だとかがいて、何でもないただの居そうろうまでいた。そういう家の戸主であり、農地の所有者でもある農民だけが一人前の人間として扱われていて、何かあったときには武士として戦い、江戸時代になると納税者になった。 士農工商は中国からきた考え方だということではなく、日本の税制度からきている考え方。工商は課税対象ではなかったから、税制度上、地位が低かった。(一般的な社会通念として地位が低かったわけではない。) 政府は税収をもとに行政をやっているわけだけれども、江戸時代にはその税金を農民だけが払っていたから、「お百姓さんに感謝しなければいけない」と言われていた。武士はもともと農民であり、江戸時代の日本は農民が税金を払い、農民が行政をやっていた農民自治の国だった。 「階級社会だった日本をアメリカが解放した」という話は嘘。日本は階級社会だったことが歴史上一回もないのが特徴の国です。
歴史ものが好きで大概乱読しましたが、貴重な事実を知ることが出来感謝いたします。
より正確には、公地公民制を朝廷が発布為て以後ですね。公地はすぐに破綻しましたが、公民制は、源平合戦の時や戦国時代を除けばほぼ守られていました。日本国民は天皇陛下の大御宝なので、例え権力者でも罪の無い平民を傷付けたり殺してはいけないと言うのが日本の国是でした。
アメリカは階級が明確にないが潜在的に差別と共に存在する社会
なるほど 同和利権が未だに残ってる理由はそういうことだったのか
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%85%A7%E5%AF%BA_(%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82)
ねずさん最強説
うん、やっぱりそうですよね。士農工商、最初に見た時、教師の説明聞くまでは職業分類かなと思ってたんで。納得です。
楠正成は忠臣として銅像があちこちにありましたが、戦後は賊臣だったとか、解釈は時の経過で変わります。教師も***の指導を受けています。戦時は英雄と崇められても、負ければ戦犯
本当の歴史を知ることは、世の中の味方が変わる素晴らしいことです。秀吉は、種子島での出来事について、当時大変貴重だった火薬と引き換えに日本の若い人を外国(ポルトガルでしょうか)に奴隷として渡していたことを知った時大変激怒したとか。確かに日本のヨーロッパ使節団は、日本人の奴隷を見たとの話がありました。
お金儲けでなく人助けに尽力していた人達が尊いとされ、非人は犯罪防止策として機能し、うまくバランスを取っていたんですね。とても勉強になりました。ただ例えば辻斬のように偉い人は何をしてもいいという武士もいたので、身分制度と思われていたふしもあったのではないのでしょうか。
母の家は士族ですが質素倹約を是とした地味な印象でした。親族の男子は今も武道を身に付ける者が多いです。教師も多い。父の家は商家で蔵には雑多な美術品や古書を所有しており、末裔は学歴を身に付け商いは廃業。華やかに暮らす人が多いです。学校で習ったのと両親が語る事は印象がまるで違うと学生の頃から思っていました。今、周囲の70歳前後の方で『身分制度』だとか『男尊女卑』などの言葉で日本の文化を悪く語る人の殆どが朝日新聞購読者である事に気が付き、情報の怖さを感じます。ご先祖が士族か工商の方には左翼が少ないように思います。士族には貧しくとも高楊枝で家とういう誇りがあり、商家にはお金があったのに対して、多くの農民の中にはそれをやっかむ人もあったかも知れないですね。その一部のやっかみを糧にのし上がった元農民の末裔の一部に、現在の日本左翼が誕生したのではないか。そんな風に思います。残念ながら『やっかみ』を糧にするとろくな結果を生みません。あの半島を見れば分かります。これからの日本は専業農家に対して、国を挙げて優遇して欲しい、そう思います。農業は歳を重ねるほど、素晴らしい仕事だと思えます。国の食を支えるのですから!農業従事者であることが誇れる日本になったら良いと思います。どの職業であれ、誇りを持てたなら幸せです。日本人には幸せに生きることの出来る素質、DNAがあるのですから。先人から受け継いだ素晴らしい遺伝子に感謝して、日本人らしく賢明にがんばりましょう!
商家には、故郷に錦を飾る精神がありました。故郷に寄付したり、勉強したい若者を書生にして面倒をみた。野口英世が大火傷をしたときも母親には医者代がなかった。
大阪では、中之島公会堂が有名ですね。
@@浩原田-i2f さん 株で儲けて中之島公会堂を寄付したが、のちに相場で失敗して拳銃自殺したので遺族に年金を支給できないかお検討された話ですね。
平民や下級武士からのし上がった秀吉、海舟、龍馬など思うと、身分制度もゆるいし、きちんと実力主義が機能していたことが伺える。もちろん、時代背景や時の運もあるだろうけど。
松下幸之助も病弱で小学校もそこそこだったらしい。なる人はなっている。
・江戸時代が職業や地域が固定化していて動きにくかったとか、重い年貢をかけられていて苦しんでいた、というのは、確かに後の時代に比べればそのような傾向にあったかもしれないが、新政府建国派や明治という時代の政治的宣伝の色合いが強いように思いますね。ーー新しい時代を創らなければならなかったので。・農業をやってみれば解るが、農民がいかに豊かであったか想像できます。今回は、格別におもしろかったです。ありがとうございます。
東北の子殺し間引き人食いを知ってて言ってるの?
江戸時代は、三代将軍の頃までは確かに武士以外はかなり貧しかったですが、長期に渡る平和と安全の保障された社会体制の維持の御陰で、それ以降は農業技術の進歩と商品経済の発達と各藩の地域振興政策の成功の結果、庶民達が平和で豊かな生活を送っていました。その証拠に幕末の頃の平均身長は、明治維新以後の平均身長より10センチは高かった。江戸時代の人々の栄養状態が良かったことの証拠の一つです。
東北地方が貧しくなったのは、明治以降です。幕末に幕府軍として官軍と戦ったので、政権を取った長州藩と薩摩藩出身の政治家達が、幕府軍に付いた藩の人々を冷遇した為です。その状況を改善しようとした大久保利通は、暗殺されました。
江戸時代迄は、土地本位制で土地から上がる収入から計算して人口をコントロールしていましたが、明治維新以降、政府が「産めよ増やせよ」と音頭を取って、食料自給率を遥かに超える人口を増やす政策を採り続けました。その結果、養えなくなった子供を人買いに売るような状況が生まれました。特に東北地方は明治以降差別的に扱われてきて、貧しいままでした。
江戸時代は地球規模で小氷河期です。今では絶対に凍らないイギリスのテムズ川が結氷してスケートリンクがあったほどです。緯度的に極端な寒冷気候の影響をもろに受けたのが東北でしょう。更に近代のように稲の品種改良が行われて寒冷地でも生育する稲が開発されているわけでもありません。稲の生育の北限が南に下がるのはあたりまえです。とりたてて東北だけを引き合いにだすのはどうでしょうか。米は東北だけで作られていたわけではありませんよね。
私の曾祖父は旗本でしたが、嫁さんは農家の娘でしたよ。
ドラマ「水戸黄門」も同罪ですね。ああ、TBSですか。なるほどね。
ねずさんの意見は斬新で面白いが、論拠となる学術的に価値のあるソース(文献)を紹介してもらわないと、他の人には話せない。
北海道 ー
調べればボロボロ出て来ますよ。米生産の矛盾は有名です。エタ非人では吉原の支配が段左衛門とか。段左衛門は非人頭とされてます。江戸の屎尿の運送、皮革産業の独占とか。地方だと山人関係で炭焼き、伐採も人別帳はエタ非人と思われる。芸人も人別帳ではエタ非人です。旅役者が巡業先で世話になる興行主がヤクザの親分でエタ非人となります。芸能界と暴力団が切っても切れない関係と言われるのはこういう経緯もあるからでしょう。縁日に出る屋台は香具師です。香具師はヤクザの稼ぎですから香具師てんじて祭礼はヤクザの管轄出会ったと推測できます。つまり祭礼を含む興行は人別上はエタ非人の職業と考えられるわけです。私が調べた限りでは非人は犯罪者ではなくこの動画でいうエタでしだがね。
雄武籠中記という当時の下級武士の手記を見ると、やはりそこまで身分の格差がないことが書かれてたはず。
自分で調べるのが面白いのですが。知識や教養を身に付けるのに、身銭を切ることも無く時間と労力をかけることもしたくない等という人は、まるで韓◯人か反日似非日本人のようですね。此処まで親切に解説して貰ったならば、その裏付け資料を調べるのは物凄く簡単ですよ。
@@kiyotoyui3886 石高制に矛盾なんてありません。農民はコメだけじゃなく様々な換金作物も作ってたわけで、生産されたコメの4割が徴税されたわけではありません。また、年貢米は幕府や藩の財源なので、売却されたコメが町民の食料になってました。これでほぼ矛盾なく需給を説明できますね。
穢多非人って、そう言う意味か❗️
神谷さんはいいんだけど、坂本竜馬に感化されてて...真実はどうかわからないけど、結局のところ司馬龍太郎が作った偽像でしょう?どうせならこの番組で坂本竜馬始め幕末の人達の真実も明らかにしてほしいわ。
まったくです。日本で最初の、保険金詐欺とか、、、。
@@3200865 勝てば官軍ですよ。
脱藩した浪人が、日本中を動き回り仲間を集めて、軍艦を買った資金は凄い。黒幕は?
坂本は地元では寸借詐欺という話は聞く、RYOUMAで潤う土佐ではタブー、ニーチェ曰く、「事実など存在しない、あるのは解釈だ」の言葉が歴史には重い言葉に感じます。長崎では商家の後家さん相手に借金重ね、折角、藩のお金で長崎まで社中を見学研修に行った弥太郎は、いい加減差に腹を立て、市中で捕り方まで出る大騒ぎ。以降、弥太郎は坂本とは口聞かず、疎遠に。ま、いいか。司馬遼太郎もこれではどう考えても書き物にはならんでしょう。
@@war2427 「事実など存在しない、あるのは解釈だ」良い言葉ですね。歴史学者は、あれこれ詮索していますが、事実が確認できないから反論が出ます。テレビのスイッチを切ると画像(事実)は何も残らない、思い出(解釈)だけが残る。歴史なるものは「終わったこと」と軽く考えて気楽に過ごしています。有難うございました
穢多=墓堀には異議を唱えます。屠殺、死体処理などの仕事、革加工、その他の重労働。
墓掘りの他の事について話してる動画もありましたよ。いずれも人がやりたがらない仕事なので実入りは良かった と。利権を守るために 皮を鞣すノウハウを秘密にしてたり。
江戸時代は百姓というくらい副業が当たり前だったらしい
今でも、現実は、在りますよ✨色々と。学校教育は、全国同じなのは、驚きましたね❗
コメント欄が滅茶苦茶、面白い!
子どもの頃読んだ漫画に洗脳されてました。きちんとした歴史を学ばないといけませんね
エタ頭の弾左衛門はたしかに大金持ちで吉原豪遊をしただろうが、エタの人たちが全体的に金持ちだったとか、差別されていなかったというのは誤り。
穢多と言う人たちは、職業的に”皮革の加工業”の人たちです。皮革の加工業は、馬具や鎧の製造上どうしても必要だったので、藩でそのような職人を養成していたようです。ただ、加工の際の匂いがきついので、ある程度隔離していたようです。日本では墓を掘っていたのは、職業としてはなく、村の若い人や親族が墓を掘っていたと言われています。墓堀が職業としてあったのは、ヨーロッパの文化です。ですから、1000両も払って墓穴を掘るなどと言うことはあり得ないです。
穢多と呼ばれる人たちは屠殺も請け負っていたようです。皮革製品加工業はその前段階で屠殺の仕事があるので当然ですね。私は長くキャラクターライセンスの業界に居ましたが、カバンメーカーとの直接取引を嫌い、中間に入って売買差益の形でロイヤルティーを納めたいという申し出をしてきた販売会社も結構ありましたよ。面白いのがロイヤルティ送金時に日銀の許可を必要とする品目の中で、多くは原子力や軍事関連技術がずらっとある中に「皮革製品」がポツンとあるのです。これは同和行政の一環で【管理】対象になっていたんですね。
穢多身分がみな金持ちだったわけではないのでは?住井すえさんの「橋のない川」にはモデルとなる人物がいます。裕福だった穢多身分の人たちと、赤貧にあえいでいた穢多身分の人たちとの両方があったようですが。また、非人身分の人たちの中にも、刑罰で非人に落とされた町人は、刑罰が実行された日から10年以内に、本人が希望すれば町人に戻れました。ですが、穢多身分の人たちの町人にはなれなかったという違いがあります。
何事にも例外がありますから、解釈は人により様々ですね。
うしろのCGSの字がなんとなくフリスクのやつに似てる^ ^
ありがとうございます!目から鱗!でした!うちの先祖、武士やけど 江戸時代、男の子生まれなかったから…商人から養子をもらい、その息子が結婚して、名を残した。んやて。 直系は、商人なんや。て、ちょいガッカリやったけど、払拭!
今は危険、苦しいなど、なりてのない職業の人が安い賃金になってるのは江戸時代より良くない。
大学卒が増えて、選り好みするから・・・ 成り手のない職業は賃上げするべきでしょうね。
四公六民、五公五民といった江戸時代の税制度は正しく理解されていない。農民は収穫した米の約半分を徴税されていたと思っている人が多い。 ねず先生も言っているように、そんなに税収があったら武士は貧しい暮らしをしていない。だから、その解釈は誤り。 田んぼの面積で決まっている帳簿上の収量というものがあって、その約半分を年貢として収めていただけ。それは控えめな数字で、実際には米はもっとたくさん穫れていた。今の固定資産税は実勢価格よりはるかに安い評価額を基準にして課税されている。それと同じこと。
いつもねずさんのお話を拝聴しており、成程と感心する事も多いです。だがしかし・・・今回のお話・・・・お墓を掘る事が、そんなに特別な人しか出来なかったのでしょうか?田舎に住む私は小さい頃、ご近所さんがお亡くなりになれば、皆で葬儀を手伝い、両隣の人がお墓掘りをやってました。そして特別な人に頼む事はありませんし、特別お金をお渡しする事も有りませんでした。だから戯多の人がお金持ちだったという、ねずさんのお話はなんだか納得できないです。
大東亜戦争のとき愛媛県の田舎で、近所の人が墓堀りしてました。
江戸時代の犯罪発生率は現代とは比較にならないくらい低かった。つまり、地方では元犯罪者が存在しない村が殆どでした。その様な普通の村では、近くに穢多非人の村が無いので、ごく当たり前に村人達で土葬に為ていました。村八分にされた家の場合ですら、冠婚葬祭の時は除外されていました。それ程葬儀は大変なのです。大体、現代の様に車などの高速移動手段が無く歩くしか無い時代に、何十キロも離れた穢多非人の村に一々使いを出して人を呼ぶなんて、普通はしませんよ。100万都市江戸や京の様な大都市圏ならではの話です。地方ではせいぜい家格の高い武士の家で誰かが亡くなった場合に、呼ばれるだけです。参勤交代で江戸住みの武士が亡くなった場合等、江戸にある藩の菩提寺と先祖代々の地元のお墓に分骨して納めるので、お墓が二つあることも良く在りました。この様なときに、御墓を掘り返すのにも呼ばれていたそうです。
普通の武士の葬儀の時は、大抵同僚か下級武士の次男か三男が墓堀りを為ていたようです。
大店の御隠居様が亡くなった場合等には、呼ばれていたみたいです。お金持ちしか呼ばなかったのが実情のようですね。それだけ費用が高かったのです。
長屋の店子が亡くなった場合にも、大家さんが手配していたようです。
神谷さんの声が大きくてねずさんの声が聴き取りにくい!
士農工商を身分序列だと習うのは昔の話だぞもうただの区別って習ってる
何故、どんな理由でその様な制度が有ったと流布する必要があったのでしょうか?又、いつからそのように身分制度と言う概念が教育されてきたのか解明する必要があると思う。
なんでも詳細をさらし出せば良いとは限りせん。わからないままのほうが良いこともあります。昔「モノを作るところを見ると食べられない」言葉あり。誰でも簡単に情報が発信できる時代になったので、情報に惑わされないようにしましょう。
マルクス主義の階級闘争史観を当てはめて日本史を階級対立の歴史として構成したのでは。明治以降を資本家と労働者の階級対立の歴史として描くためでしょう。
裕福なエタがいたというのは本当だと思う。 食うや食わずの小作人よりも、エタのほうがずっと幸せだったかもしれない。 中国・朝鮮と違って、日本は階級全体として、独り勝ちがなく、それなりにバランスがとれていたようだ。 マスコミとかが一概にタブー視するから、真実が見えなくなってしまうのだと思った。 「改易された藩の侍の娘が遊女になり、それを金持ちのエタが買う」というパターンもあったのだろう。遊郭は俗世とは別世界だった。
浅草弾左衛門に太鼓屋又兵衛ですね。
**の慰安婦も裕福だった。農村の冷害で娘の身売りがあったが、買う人が。。。た。
関西では エタ非人が裕福だとは考えられません。50年前の部落を見てみたら宜しい 嘘を発信しないで頂きたい。
江戸時代の話をしているんだよ。50年前とか、話のすり替えをしないように。
どういう資料からそういうことが分かるのかを教えて欲しい。
AKK WD さん疑う訳ではありませんが、純粋に私も疑問に思ってました!出来ればそういう所も教えて頂きたいです。
先ずネズ氏が云ってる事柄を一つでも良いから自分で調べて合致してるかどうかで全体を真偽せよ
身分の移行はたくさん例があります。・武士→農民(江戸期以前から山ほど)・農民→武士(例:新撰組 豊臣秀吉)・武士・公家→僧侶(江戸期以前から山ほど。一休さんもこの例)・武士→商人(婿入りなどで)・農民→商人(店に奉公に来てそのまま商人に)・武士が食い詰めて職人になる例はとにかく多い(兼業ですが)このあたりは資料をわざわざ出すまでもないというか、当たり前のことなので・・・非人(役所に印の入れ墨を入れられた人たち)が犯罪者というのは時代劇ではよく見ました。えたの方は分かりませんが。
toritori 江戸時代の話をしているのだから、江戸期以前を入れるには少し違うのではないですか?まあ確かにそこまで厳格な身分制度であった印象はありませんけど。
@@Handler-1 江戸時代に身分の変化は普通にありましたよ。調べてみれば?て言うか、江戸時代以前には身分はまだ固定されていないので、わざわざ「身分の変化」なんて言わないよね?
士農工商・穢多非人。穢れの少ない順番とも取れますね。商売だって当時の武士からすれば穢れた職業。江戸幕府の官学だった朱子学の考えだからね。だからこそ商業で幕府の財政を立て直そうとした田沼意次を松平定信が失脚させた。この寛永の改革と呼ばれた政策を含め江戸の三大改革呼ばれたものはいずれも失政で幕府を弱体化させたものというのが現在の評価。結果的に武士が財力を得る機会を奪ってしまったんだから。ちょっと話がそれてしまいましたが。
この人の話も少し変ですね。士農工商別に奉行所も分れていましたし、檀家制度で縛られていたのも農民、町民です。ただ、家を単位としていた時代なので家長以外の者は受け継ぐものがなく自力で生きてゆかねばなりません。これが身分の枠を超えて移動するということです。墓の話ですが、穢多しか死人を葬れないなどは嘘です。本百姓の庭にはお墓がありました。墓は一般の者には無縁のもので通常は(集団)墓地に埋葬(埋められた)されたはずです。江戸では死人、死刑になったものなどは穢多の人が処分していたようです。穢多はヤクザとも関係があり役所に雇われて岡っ引きとしての役をもらっていたそうです。江戸の下水道の役(汲み取り)も穢多の人がやっていました。肥桶を担いで郊外の農家にたい肥として売っていたそうです。ヨーロッパの汚い不衛生な大都市とは大変な違いですね。幕府にとっては食料=百姓(農家)=平地は生命に直結する最重要課題です。これ以外はそれをサポートする役割と考えられます。街の機能は町民、それ以外は穢多。穢多は平野以外、つまり山の中を担当します。材木を取る木こり、獣を取るマタギ、等。
歴史は伝える人によって変わりますね。明治38年生まれの母が呉市に嫁いできた当時は、農家の人が野菜をもってきて汲み取らせてくださいだったのに、お金を払うようになったとぼやいていました。田舎の共同墓地は近所の人が穴を掘り、河原で細長い青い石を拾ってきて墓石としていました。軍神となって”陸軍上等兵****の墓”と彫刻された墓石が建つようになりました。
疑問があります 戦前まで戸籍には 武士は士族 農工商は市民 ヒニンエッタは新市民 と記載されていたのはなぜでしょうか。
明治になって戸籍制度をつくったときに昔からの流れで区別したと思われます。大東亜戦争が終わったとき10歳でしたが、あの家は士族だからと尊敬されていたし、ゴミ収集・火葬場隔離病舎の仕事をする階層がありました。
市民?平民じゃないの?
そうです 仰る様に平民です 間違えました。
そうですね 昔読んだ本に確か藤村の破壊もエッタの話しでした敗戦によって 散々日本の伝統 文化 思想 をぶっ壊されましたが 階級社会が無くなったことはよかったです が ヨーロッパではまだ階級社会がねずよく 雅子妃は紹介されるとき 雅子小和田と呼ばれているそうです 紀子様は プリンセスキコと紹介されます 原因は雅子妃の出自にあるようで ご成婚当時 最高階級が最低階級者との婚姻と欧米で.大きな話題になったようです
@@服部和子-w2k さん 藤村の小説は「破戒」でなかったでしょうか。階級差別が無くなるのは良い事ですが、交通事故に関連して”上級国民”がでてきました。格差はなくならないですね。
学校で士農工商は差別ですと教わりました。
後に四民平等ができました。解釈する人によって、差別・格差・男女差別様々ですね。一億総中流もあったし、最近は上流国民も現れました。差をつけられるのは誰しも嫌なもので、自分で差をつけなければならないと思います。
現代に「変わり種」と言う言葉が残って居るぐらい江戸の城下では朝顔の品種改良が盛んで、武士や町民や農民や僧侶等、職業や地位や身分に関係なく、自ら育てた朝顔を比べ合い更に互いの朝顔の勾配を行って、新しい品種の朝顔を創り出していました。その様な遊びが流行るくらいなので、学校で習う様な身分差別など存在しなかったのでしょう。実際、俳句や短歌等、武士と町民が同じ先生に師事する事など当たり前に在りました。会社で平社員が社長に乱暴な口調で話し掛けたりし無いのと同じ様に、公私の別、場所柄でのTPOを守るのは、何時の時代何処の国でも当たり前の事でしょう。おまけ、江戸時代は園芸植物の品種改良が盛んで、現代では失われてしまいましたが、青い桜も在ったそうです。また火事で天守閣が消失する前には、将軍家の御留め花に青い花の椿が在ったそうです。もしこの青い椿が現存為ていれば、青い薔薇も創り出せたかも知れません。
@@浩原田-i2f さん 万葉集にも、詠み人しらずがあるように、歌の世界に身分の差別はなかったようです。
上級武士、庄屋、親方、旦那さん達と一般庶民、穢多非人で分かれたが穏やかな日常だったと思う
細かなことで恐縮ですが、新撰組の隊員は、三鷹、八王子、日野などの多摩地域の出身です。日野だけではありません。
金が全て?その発想自体が日本人的ではないと最近は思うようになりました。だってお金と権利を翳さなくとも、日本という国は今の時代に比べると食事も着るものも貧相であっても幕末まではある程度平等に生活できる国だったからね。
水平社宣言の中で この半世紀と文言があります。すなわち明治時代に入り平等な時代になり我々は職業を奪われただけでなく、差別はいまだ無くならないとあります。私達の職業、つまり差別はされたが仕事まで奪われ今や食うや食わずだと。俺達の利権を返せえー!なのです。本当です。現在の人権センターの方のガイダンスです。言わずもがな。この世は何でも利権社会なのです。関西電力の事あるでしょう。
勉強になりました。学校で習うことも本当のことばかりではないですね!
なぜあなたはこの人がしゃべることが本当で学校で習ったことは嘘だと判断したのかそんなんだからいつも騙されるんだよ
なぜあなたは私のことをよくも知らないのに、いつも騙されてると判断できたのですか?
昔は教育勅語でしたが、教育基本法に基づいて文科省検定の教科書で教えています。
ねずさん、ためになるお話をいつもありがとうございます。ただあくまで私見ですが、墓掘りは穢多というより隠亡(おんぼ)さんの仕事だったような気がするのですが(ちなみに穢多とは違った意味で世間的に白い目で見られていたのが隠亡という身分)・・・。
隠亡>江戸時代には賤民身分扱いされていたことや、被差別部落出身者が大半だった。by wikiとあったので、あながち間違いではないのでは...?通りすがりですが、お役に立てれば...
地方では 売春宿でも差別され塩まかれていました。友達が間違われ塩をまかれてと言っていました 嘘はいけません 差別は歴然としてありました。
それにしても「士農工商の身分制度がありました」と教え始めた頃にまだ江戸末期の記憶のある人々は存在しなかったのか? 其の頃の参考資料なら山程有った筈だろうに….江戸前期中期の歴史考証の話ならまだしも「江戸時代を通じて士農工商があり」と教えていたのが、「実際はあれは間違いでした」と訂正される….新たな歴史認識が正しいとして、古い方の認識を覆さずに長年放置されていた事実にショックを受けます。
今でも江戸時代の資料はたくさん残っていて、それを見ると大部分は教科書通りです。人口密集地の穢多頭は裕福でしたが、そのような恵まれた人は極々少数です。それを引き合いに出して穢多は裕福でしたとかは間違っていますね。
士農工商と学校で洗脳された
司馬遼太郎の小説にあるね
新知識ですが本当かしらと疑ってしまいました。学校で教えられた知識とは何だったのでしょうか
最近隣国でそのような思いを感じ始めてる人が増えているようです。教育とは世界中の国の為政者にとって従順で歯向かったりしない庶民を育てることなんですね。
@@雲-r2m 隣国は同一民族が南北に分かれて戦争することになりましたが、戦後教育の結果です。
@@豊田陽三 【戦後教育】どうこうと言うほどの時間を置かずに北鮮が攻め込んできて、あれよあれよと言う間に釜山まで追いやられ、「こいつぁイカン!」と思った米軍が何とか38度線まで押し戻したのが朝鮮動乱ですよね。
穢多の大部分は差別を受けていたし、貧しかったですよね。一部の例外を持ってきてあたかも穢多は裕福だったと発言するのはなぜ?
江戸時代、そんな証文なんにも残ってないんです。士農工商、えたひみんなんて誰も言ってなかったんです。
田舎の死体処理は 村々の組単位で焼却まで行われていたのでエタ非人の出る幕はありません。
エタヒニンが死体処理やってたってのは僕も習ったけどなあ…。
時代劇なんか見てると、街中で身分制度なんかないよねw
百姓の米は税対象でしたが 裏作の麦 大豆野菜は税の対象ではありませんでしたでも小作は税が厳しく 今と違って家族は多く食べる量も格段に多く 水飲み百姓とはよく言った物です。
米はいつも一反七標とは限りません 三俵の時も税は何時も7ひょうを基準にしています。だから飢え死にするのは百姓 誰でも百姓にはなれません 土地が無くてはならないし 分家でも15へクタル以上で無ければ分家も出来なかったし戸籍の役割はお寺の過去帳がその役目をしていました。今と違って牛馬は村の地主の一、二軒しか持っていませんでした コレラの家が参勤交代の荷駄運びに呼び出されたそうです。
仮に7俵としましたが 6俵だったか知るよしもありません村社会では牛馬の無い家がほとんどで まんのうで1,5ヘクタールを耕していました。自作農ノイエの話し
@@syun15331 さん 分家するにも土地が無かったので、ブラジル移民・満蒙開拓など海外に土地を求めました。
だいたい商人を一番下に持って来るわけないんです。
例の組織涙目( ^ω^ )
江戸時代なんてついこないだですからもっと詳しく調べて下さい。
ねつ造されたわけではないよ。そもそも士農工商を唱え始めたのは明治時代で江戸時代の現状を知ってる人がまだいっぱいいた時代だ。ああ、そういう感じだったなと同意されたから学説が成立したんで。
いやいや間違ったことでも「そういうものかという同意」をもって定着してしまう例は世の中にいくらでもある。例えばスポーツ練習における「水飲むな理論」とか「うさぎ跳び」とか昔は当たり前のように全国でやっていた。
身分制度じゃなく、職業区分ですよ。
江戸時代を分析するなら、身分制度以上に、税制を分析することですよ。米の年貢を税制の基本とする社会ですから。大名の石高というのが、今で言う各国のGDPですよ。おおよその税収と軍事力の基準になっていた。
江戸時代なんてついこないだですから、そんな証文なんにも残ってないんです。士農工商えた、ひみんなんて誰も言ってなかったんです。
エタはある意味不労所得者
日本の身分制度はメチャクチャゆるいんじゃないの?
非人はたぶん犯罪者であろうなとは、推測してたけども、穢多は面白いな。
上位武士は調子こいてたらしいけどね。土佐藩とかヤバい
江戸時代大阪で乞食を一ヶ所に集めなさいというおふれは残っているんです。
国歌も教えない、日本教育にびっくりしました。今の日本教育機関は、駄目なので、今回のような企画を広く流し、正して下さい。
それは飴屋の長兵衛でしょう。
なにぃーー!そうしたら、越後屋とお代官が繋がっているという話はデタラメ?
神谷さんが総理になってほしい
内は農民やけど実際内の爺ちゃんも又一番下のオジキの嫁の姉も差別してた❗️。
戸籍謄本原本が有りますが、ここには身分が書いてあると聞いているんですが、どうなんでしょうか?
役所に行って、自分の目で見てきたらいい簡単に見られるからww
穢多が墓掘り人夫だったという新事実には納得しました。
この動画は一面から見ると🎵正しいかもですね😢ヘェーです「エタガ太夫を上げる」そりゃ凄いねどの資料か教えて下さい😁江戸の一人事ですかね🎵
でも天保の大飢饉とかでも武士で餓死した人はいないという話ですが…
穢多の説明はめちゃくちゃですね。
表現は自由ですから、100%確実なのは”人は死ぬ”くらいでしょうか。「信ずるのは個人の自由です」とテレビで見ました。個人責任で、自分の信じる道を進むしかないですね。
真田信繁 色々とありますが、大きなポイントを直感的に言うと、京都の蜷川と関八州の弾左衛門の絶大な権力とその源泉としての天皇家との血縁関係や、或いは、徳川家康と世良多二郎三郎の関係が念頭にあれば当然言わないようなことをこの人が数多く言い、念頭にあるが故に言及しないでいることが多いことに気づくでしょう。「汚れた業種に就いているから」という発言は、その代表でしょう。「非人の上に穢多」も全然違いますよ。「墓掘りは不可欠ながら専業だった故に穢多の経済的地位は高かった」も因果関係が逆です。穢多は農民を農奴として蔑みながら牧羊犬のように農民の所有者のために農民を外枠から密かに管理する、農民よりも高貴な身分の末端だったから墓掘りのような特権的な専業を認められたが正解でしょう。サンカのことにも全く言及できていませんね。サンカや修験道が一体なんだったのかに触れないと穢多のことは分かりません。
真田信繁 議論は諦めた方がいいでしょうね。あなたの場合。どうしてもしたいなら、今から大学に通い直して、理解力、読解力を人様の迷惑にならない程度に磨いてからにした方がいいのではないですか?そうでないなら、こういう場に出てこない方が世のためです。聞く耳を持ってちゃんと生きていってくださいね。私にあなたの質問に答える義務もないのにわざわざ時間をとって長文の解説をしたのです。聞く耳がないのにこれからは質問などしてはいけませんよ。この世に人種や年齢、性の差別はあってはいけませんが、怠け者で愚鈍で無礼な人間と勤勉で知能が優れ礼節をわきまえた人間との差別はあるのですよ。
@@tetsuhirohirakawa8654 お前絶対Fラン大出身だろ。一般の大学ってのは充分に理解力、独海力のあるものが選抜されて専門知識を学ぶ場であって、お前のような名前さえ書ければ入れる大学の出身者にとって理解力、独海力を身に付ける場という認識なんだろうな。ホントとんでもない馬鹿な左翼の代表だなお前。
農民が武士になるのは極極珍しい事だったんだよっ 支配と収奪はあったのは間違いないっ支配階級は厳然としてあったし、管理されていたのは間違いがないっ歴史を捻じ曲げるなよ(怒怒怒)ただ江戸末期は少しその制度が崩れつつあったのだろう。
三一侍なら珍しくも何ともない。武士株の売買もあったくらいで、豪農が嫡外子に身分を買ってやることもしばしば。そしてここでは「士農工商は階級制度ではない」という話であって、「階級がない」という話ではないのでは?
@@白滝次郎-u5t いやいや 例えば参勤交代の時 行列の邪魔をする人は打ち首にできたし、階級制度があるから、侍の中にも階級があり、それは末代まで同じ階級なのですよ 捏造してはいけません。
@@miyanoyakusii6192 切り捨て御免は近代に入ってからの創作です。例えば、天領の領民で在る江戸の町民がいきなり町中で薩摩藩の武士に斬り殺され出もしたら、大問題になります。当人は切腹の上お家断絶でもおかしくない上に、藩主にもペナルティーとして隠居させられますよ。下手すると改易されても文句は言えません。江戸時代の日本は厳然たる法治国家です。現代に例えれば、米軍兵士がいきなり町中で発砲して日本国民を殺したら大問題になります。それと同じ事です。その逆に自衛官が米国で民間人を殺しても大問題になりますよ。勘違いしている人が大勢居るみたいですが、藩とは独立国で藩同士の主権を侵害する様な行為は、武家諸法度で厳しく戒められています。
司馬遼太郎の作品に出てくるね。
地方では部落差別は歴然とあり 最貧層の人達が清んでいた事実です。東京都は違います。
どうあ、道端の輩。
士農工商
慣れすぎで神谷さんが耳障りですね!
人でなしって言葉もしや
神谷宗幣? もしかして神谷寿禎、神谷宗湛の子孫の方?
ですね。今でもこれを覚えろ詮索するな。これが主流でしょう。先生は言われたから、こうなっているからしか言えなかったと。今からでも訂正してほしいものだ。しかし、教育委員会がケチ付けるんでしょうね。というか、文科省自らが腐っているのだからここからでしょう。教科書が訂正されないものこのせい。変わってはならないという固定観念。そう、歴史は一つではない。川向うでは違うぞと。。。
代々その階級の家が子孫に受け継がれる その制度こそ階級制度である。 嘘つくなよ
士農工商って有益な身分制度だったんですね。
皆さんいろいろ語ってますけど私が知りたいのは、いつ頃どんな経緯で被差別者が生まれたのですか詳しく説明出来る方宜しくお願いします。
知らなかった事をとても分かりやすく解説して頂き、とても勉強になります。
インターネットの良い部分で3年前の放送でも辿り着くことが出来ます。
私は京都市の学校で歴史を学んできましたが、神谷さんが言うように「武士が偉い」、
「農民の不満を逸らすため、えた、ひにんの身分を作り出し」、「農民は身分の上では町人や商人より上」
という文脈で学んできました。
さらに京都市の歴史教育は「歴史で人権問題を一緒に考える」というのがあって、ひどかったです。
「じぶんが農民だったら、どう(武士に対して)思うか?」という授業があって、思いをノートに書かされました。
(令和の代の今もその方針は変わっていないと思います)
「武士は威張っていて、腹が立つ」
「おれたちは平等じゃないのか」
など不満を書くことが授業の中心で、江戸のすばらしい文化、学問、幕府が衰退していく様子、諸藩の活躍など
ほとんど学ばずに江戸時代が終わっていました。
(因みに、その先生は卒業式で「君が代を歌わなくてもいい」と言った、そういう方の先生でした)
今回小名木さんのお話を聞いて、とても納得し、さらに歴史が好きになりました。ありがとうございました。
何でこんなに事実と違う事を盛大に教えられていたんだろうと思う。
支配者が**を支配しやすくするための都合です。
マルクス主義史観を、無理矢理当てはめようとした結果ですよ。明治を資本主義革命と規定するには、その前の時代を封建的絶対主義とするしかなかったわけで、更に戦前の天皇制を絶対王政と規定すれば、その前の時代は初期封建制の社会とするしかなかったということ。いずれにしろ、マルクスが欧州の歴史を分析して出来た理論を、無理矢理日本の歴史に当てはめようとしただけですよ。つまり学者という学者は、すべて欧米では・・・の出羽の守だったということです。今でも東大の学者は、大半がそうですが。
江戸時代の記録を見ると農家と武士が結婚したり、安月給の武士が農民に転職したりそういう話は結構ある。
確かに社会経済史的な現地で見ても階層の乗り換えは見られている土地を持たない母層には。食料の生産性がないため山間部に身を潜めたりしていた
確かに今まで学んできた話と全く違うので証明するものが欲しいという気にもなりますが、一番の証拠はやはり当時の日本人達の生き方や考え方じゃなかろうかと思います。武士道の精神からしたら、このねずさんのお話は説得力がありますし、腑に落ちます。お金持ちになることよりも人としての生き方を重んじていて、そういう立派なことができる人を正しく国民全体が評価できる時代だったからこそ、日本全体のモラルが高かったのではないかと思います。
それにしても、きっと金に目がくらむ人のことを卑しいというみんなの共通の認識があったんでしょうから素晴らしいなと思います。現代の私達はお金を独占している大金持ち達にへりくだり、憧れさえ抱いている人達が大多数ではないでしょうか?お金よりも人としての生き方を評価するのが当たり前という状態にならなければ先人達のように素晴らしい日本を築くことができないのではないかと思います。
そんなことに気づかせてくださるねずさんのお話しにいつも感謝しております。そしてそういった貴重な番組をいつも作ってくださるCGSの方にも感謝です。神谷さん、応援してます。
過去の話は時代によって変わります。表現は自由ですから、真実の追及は無理です、信用するのは自己責任で生きてきました(年金じじい)
30年前学校で習ったのと違う
まさに目から鱗でした
歴史は夜作られるとも言われる。真実は変わらないのに歴史学者とやらが**を発見したとかで時代時代によって解釈は変わります。現在でも”捏造報道”がありますからン十年前のことは??
30年前学校で習ったのと違う
ふざけんなという気持ちでいっぱいで
まさに尻からウ○コでした
ガキの頃からあった喉のつかえが取れた気分です。
学校で習う事、時代劇。
両者を比較すると
なんとも言えない違和感をずっと感じてきました。
違和感を言葉にして頂いて
ようやく腑に落ちました。
おそらくはねずさんの持論かなぁとは思いますが、検証のための足掛かりとして活用させて頂きたいと思います。
ありがとうございました。
どうしてこういう流れになるのか、腑に落ちない事ばかりで暗記するのが大変だった記憶がある。だから、歴史は嫌いだった。でも、こうして本当の歴史が知れるようになって、今は好きです。
事実上の町人は、江戸くらいで、地方では、農民が大工や鍛治職人、漁民、木こりを兼ねていたとの事です。
武士も実際は、下級武士は、自給自足の生活を送っていたとの事です。
狩人も小さな畑を耕して自給自足の生活を送っていたとの事です。
獲物の肉や毛皮を換金して、最低限の必要な鉄砲や玉を購入していた。
税金は、米で納めるが、開墾した新田や畑は無税なので、地域全体でお互い助け合って生活していた。
また、江戸は、地方よりも病死する方が多く、沢山の墓が必要。
子供は、沢山産まないと、子孫を残す事が出来ない。それでも、2人以上の跡取りが成人すると、それに近くなると、江戸へ働きにでるか、北前船に乗っていた。
何故なら、田んぼを分けていたら、田分けの言葉通り、全員が食べる事が出来ないから産まれた知恵です。
江戸は、年中、大勢の人が流入するお陰で、毎年、多数亡くなる人数をうめていた。
また、江戸に、花魁文化が出来たのは、穢多等の金持ちに為の色街があり、庶民の為の色街もあった。何故なら、江戸は、働き盛りの男が毎年多数流入する街。
なので、適齢期の女性は圧倒的に少なく、生涯独身男性が山ほどいたので、性のはけ口としての色街を形成する事で、女性が犠牲になる事を防いでいた。
また、屋台や外食が江戸で急速に普及したのも、この不均衡な人口構成も起因していた。
でも、こんな大事な事は、教科書の何処にも書いてない。不思議ですね。
政治家や支配者層は、自分に都合の悪いことは教えたくない。
すごい明快で勉強になりました!
士農工商は単なる職分で、武士から農民や商人、職人になる人も居るし、農民が大工になったり商人になったりしていました。何故なら、武士で家を継げない場合、養子に出されますが、必ずしも養子に入れる訳ではありません。食べていくために働かなければいけません。その時に本人の意思で好きな職に就くことが出来ました。また、一人前の御百姓さんとして認められるには、キチンと村の公認の試験をパスしなければなることが出来ませんでした。この試験にパスしなかった人達は、商人や職人への奉公に出されます。この時に奉公先の選択の自由が本人に在りました。
ねずさんの回はCGSで最も役に立つ。ヤブ医者やら怪しい人もしばしば出てくるが、
本当に金が全てになると人間は穢れるんですね。同和利権についてきちんと学校で教えることが逆差別をなくすことになるのかもしれませんね。
日教組は連中に支配されてるから無理ですね・・・かつてそれに反対する先生が「先生はこれからうそをつきます」という枕詞を使って、「教育」されました
ネズさん!
いつも勉強になります。
いつも応援してます。
いつも勉強になります。
昔はよく使われていたのに今は使われなくなった言葉の一つに「居そうろう」がある。
昔は大家族で暮らしていて、その中には親族ではない人も普通に含まれていた。各家々を泊まり歩いて家具の修理や馬具を作る仕事をしている職人や、行商の人だとかがいて、何でもないただの居そうろうまでいた。そういう家の戸主であり、農地の所有者でもある農民だけが一人前の人間として扱われていて、何かあったときには武士として戦い、江戸時代になると納税者になった。
士農工商は中国からきた考え方だということではなく、日本の税制度からきている考え方。工商は課税対象ではなかったから、税制度上、地位が低かった。(一般的な社会通念として地位が低かったわけではない。)
政府は税収をもとに行政をやっているわけだけれども、江戸時代にはその税金を農民だけが払っていたから、「お百姓さんに感謝しなければいけない」と言われていた。武士はもともと農民であり、江戸時代の日本は農民が税金を払い、農民が行政をやっていた農民自治の国だった。
「階級社会だった日本をアメリカが解放した」という話は嘘。日本は階級社会だったことが歴史上一回もないのが特徴の国です。
歴史ものが好きで大概乱読しましたが、貴重な事実を知ることが出来感謝いたします。
より正確には、公地公民制を朝廷が発布為て以後ですね。公地はすぐに破綻しましたが、公民制は、源平合戦の時や戦国時代を除けばほぼ守られていました。日本国民は天皇陛下の大御宝なので、例え権力者でも罪の無い平民を傷付けたり殺してはいけないと言うのが日本の国是でした。
アメリカは階級が明確にないが潜在的に差別と共に存在する社会
なるほど 同和利権が未だに残ってる理由はそういうことだったのか
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%85%A7%E5%AF%BA_(%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82)
ねずさん最強説
うん、やっぱりそうですよね。
士農工商、最初に見た時、教師の説明聞くまでは職業分類かなと思ってたんで。
納得です。
楠正成は忠臣として銅像があちこちにありましたが、戦後は賊臣だったとか、解釈は時の経過で変わります。教師も***の指導を受けています。戦時は英雄と崇められても、負ければ戦犯
本当の歴史を知ることは、世の中の味方が変わる素晴らしいことです。秀吉は、種子島での出来事について、当時大変貴重だった火薬と引き換えに日本の若い人を外国(ポルトガルでしょうか)に奴隷として渡していたことを知った時大変激怒したとか。確かに日本のヨーロッパ使節団は、日本人の奴隷を見たとの話がありました。
お金儲けでなく人助けに尽力していた人達が尊いとされ、非人は犯罪防止策として機能し、うまくバランスを取っていたんですね。とても勉強になりました。ただ例えば辻斬のように偉い人は何をしてもいいという武士もいたので、身分制度と思われていたふしもあったのではないのでしょうか。
母の家は士族ですが質素倹約を是とした地味な印象でした。親族の男子は今も武道を身に付ける者が多いです。教師も多い。
父の家は商家で蔵には雑多な美術品や古書を所有しており、末裔は学歴を身に付け商いは廃業。華やかに暮らす人が多いです。
学校で習ったのと両親が語る事は印象がまるで違うと学生の頃から思っていました。
今、周囲の70歳前後の方で『身分制度』だとか『男尊女卑』などの言葉で日本の文化を悪く語る人の殆どが朝日新聞購読者である事に気が付き、情報の怖さを感じます。
ご先祖が士族か工商の方には左翼が少ないように思います。士族には貧しくとも高楊枝で家とういう誇りがあり、商家にはお金があったのに対して、多くの農民の中にはそれをやっかむ人もあったかも知れないですね。その一部のやっかみを糧にのし上がった元農民の末裔の一部に、現在の日本左翼が誕生したのではないか。そんな風に思います。
残念ながら『やっかみ』を糧にするとろくな結果を生みません。あの半島を見れば分かります。
これからの日本は専業農家に対して、国を挙げて優遇して欲しい、そう思います。農業は歳を重ねるほど、素晴らしい仕事だと思えます。
国の食を支えるのですから!農業従事者であることが誇れる日本になったら良いと思います。
どの職業であれ、誇りを持てたなら幸せです。日本人には幸せに生きることの出来る素質、DNAがあるのですから。
先人から受け継いだ素晴らしい遺伝子に感謝して、日本人らしく賢明にがんばりましょう!
商家には、故郷に錦を飾る精神がありました。故郷に寄付したり、勉強したい若者を書生にして面倒をみた。野口英世が大火傷をしたときも母親には医者代がなかった。
大阪では、中之島公会堂が有名ですね。
@@浩原田-i2f さん 株で儲けて中之島公会堂を寄付したが、のちに相場で失敗して拳銃自殺したので遺族に年金を支給できないかお検討された話ですね。
平民や下級武士からのし上がった秀吉、海舟、龍馬など思うと、身分制度もゆるいし、きちんと実力主義が機能していたことが伺える。もちろん、時代背景や時の運もあるだろうけど。
松下幸之助も病弱で小学校もそこそこだったらしい。なる人はなっている。
・江戸時代が職業や地域が固定化していて動きにくかったとか、重い年貢をかけられていて苦しんでいた、というのは、確かに後の時代に比べればそのような傾向にあったかもしれないが、新政府建国派や明治という時代の政治的宣伝の色合いが強いように思いますね。ーー新しい時代を創らなければならなかったので。
・農業をやってみれば解るが、農民がいかに豊かであったか想像できます。
今回は、格別におもしろかったです。ありがとうございます。
東北の子殺し
間引き
人食いを知ってて言ってるの?
江戸時代は、三代将軍の頃までは確かに武士以外はかなり貧しかったですが、長期に渡る平和と安全の保障された社会体制の維持の御陰で、それ以降は農業技術の進歩と商品経済の発達と各藩の地域振興政策の成功の結果、庶民達が平和で豊かな生活を送っていました。その証拠に幕末の頃の平均身長は、明治維新以後の平均身長より10センチは高かった。江戸時代の人々の栄養状態が良かったことの証拠の一つです。
東北地方が貧しくなったのは、明治以降です。幕末に幕府軍として官軍と戦ったので、政権を取った長州藩と薩摩藩出身の政治家達が、幕府軍に付いた藩の人々を冷遇した為です。その状況を改善しようとした大久保利通は、暗殺されました。
江戸時代迄は、土地本位制で土地から上がる収入から計算して人口をコントロールしていましたが、明治維新以降、政府が「産めよ増やせよ」と音頭を取って、食料自給率を遥かに超える人口を増やす政策を採り続けました。その結果、養えなくなった子供を人買いに売るような状況が生まれました。特に東北地方は明治以降差別的に扱われてきて、貧しいままでした。
江戸時代は地球規模で小氷河期です。今では絶対に凍らないイギリスのテムズ川が結氷してスケートリンクがあったほどです。
緯度的に極端な寒冷気候の影響をもろに受けたのが東北でしょう。
更に近代のように稲の品種改良が行われて寒冷地でも生育する稲が開発されているわけでもありません。
稲の生育の北限が南に下がるのはあたりまえです。
とりたてて東北だけを引き合いにだすのはどうでしょうか。
米は東北だけで作られていたわけではありませんよね。
私の曾祖父は旗本でしたが、嫁さんは農家の娘でしたよ。
ドラマ「水戸黄門」も同罪ですね。ああ、TBSですか。なるほどね。
ねずさんの意見は斬新で面白いが、論拠となる学術的に価値のあるソース(文献)を紹介してもらわないと、他の人には話せない。
北海道 ー
調べればボロボロ出て来ますよ。
米生産の矛盾は有名です。
エタ非人では吉原の支配が段左衛門とか。段左衛門は非人頭とされてます。
江戸の屎尿の運送、皮革産業の
独占とか。
地方だと山人関係で炭焼き、伐採も人別帳はエタ非人と思われる。
芸人も人別帳ではエタ非人です。
旅役者が巡業先で世話になる興行主がヤクザの親分でエタ非人となります。芸能界と暴力団が切っても切れない関係と言われるのはこういう経緯もあるからでしょう。
縁日に出る屋台は香具師です。
香具師はヤクザの稼ぎですから香具師てんじて祭礼はヤクザの管轄出会ったと推測できます。
つまり祭礼を含む興行は人別上はエタ非人の職業と考えられるわけです。
私が調べた限りでは非人は犯罪者ではなくこの動画でいうエタでしだがね。
雄武籠中記という当時の下級武士の手記を見ると、やはりそこまで身分の格差がないことが書かれてたはず。
自分で調べるのが面白いのですが。知識や教養を身に付けるのに、身銭を切ることも無く時間と労力をかけることもしたくない等という人は、まるで韓◯人か反日似非日本人のようですね。此処まで親切に解説して貰ったならば、その裏付け資料を調べるのは物凄く簡単ですよ。
@@kiyotoyui3886 石高制に矛盾なんてありません。農民はコメだけじゃなく様々な換金作物も作ってたわけで、生産されたコメの4割が徴税されたわけではありません。また、年貢米は幕府や藩の財源なので、売却されたコメが町民の食料になってました。これでほぼ矛盾なく需給を説明できますね。
穢多非人って、そう言う意味か❗️
神谷さんはいいんだけど、坂本竜馬に感化されてて...
真実はどうかわからないけど、結局のところ司馬龍太郎が作った偽像でしょう?
どうせならこの番組で坂本竜馬始め幕末の人達の真実も明らかにしてほしいわ。
まったくです。
日本で最初の、保険金詐欺とか、、、。
@@3200865 勝てば官軍ですよ。
脱藩した浪人が、日本中を動き回り仲間を集めて、軍艦を買った資金は凄い。黒幕は?
坂本は地元では寸借詐欺という話は聞く、RYOUMAで潤う土佐ではタブー、ニーチェ曰く、「事実など存在しない、あるのは解釈だ」の言葉が歴史には重い言葉に感じます。
長崎では商家の後家さん相手に借金重ね、折角、藩のお金で長崎まで社中を見学研修に行った弥太郎は、いい加減差に腹を立て、市中で捕り方まで出る大騒ぎ。以降、弥太郎は坂本とは口聞かず、疎遠に。ま、いいか。司馬遼太郎もこれではどう考えても書き物にはならんでしょう。
@@war2427 「事実など存在しない、あるのは解釈だ」良い言葉ですね。歴史学者は、あれこれ詮索していますが、事実が確認できないから反論が出ます。テレビのスイッチを切ると画像(事実)は何も残らない、思い出(解釈)だけが残る。歴史なるものは「終わったこと」と軽く考えて気楽に過ごしています。有難うございました
穢多=墓堀には異議を唱えます。屠殺、死体処理などの仕事、革加工、その他の重労働。
墓掘りの他の事について話してる動画もありましたよ。
いずれも人がやりたがらない仕事なので実入りは良かった と。
利権を守るために 皮を鞣すノウハウを秘密にしてたり。
江戸時代は百姓というくらい副業が当たり前だったらしい
今でも、現実は、在りますよ✨色々と。学校教育は、全国同じなのは、驚きましたね❗
コメント欄が滅茶苦茶、面白い!
子どもの頃読んだ漫画に洗脳されてました。きちんとした歴史を学ばないといけませんね
エタ頭の弾左衛門はたしかに大金持ちで吉原豪遊をしただろうが、エタの人たちが全体的に金持ちだったとか、差別されていなかったというのは誤り。
穢多と言う人たちは、職業的に”皮革の加工業”の人たちです。皮革の加工業は、馬具や鎧の製造上どうしても必要だったので、藩でそのような職人を養成していたようです。ただ、加工の際の匂いがきついので、ある程度隔離していたようです。日本では墓を掘っていたのは、職業としてはなく、村の若い人や親族が墓を掘っていたと言われています。墓堀が職業としてあったのは、ヨーロッパの文化です。ですから、1000両も払って墓穴を掘るなどと言うことはあり得ないです。
穢多と呼ばれる人たちは屠殺も請け負っていたようです。
皮革製品加工業はその前段階で屠殺の仕事があるので当然ですね。
私は長くキャラクターライセンスの業界に居ましたが、カバンメーカーとの直接取引を嫌い、中間に入って売買差益の形でロイヤルティーを納めたいという申し出をしてきた販売会社も結構ありましたよ。
面白いのがロイヤルティ送金時に日銀の許可を必要とする品目の中で、多くは原子力や軍事関連技術がずらっとある中に「皮革製品」がポツンとあるのです。
これは同和行政の一環で【管理】対象になっていたんですね。
穢多身分がみな金持ちだったわけではないのでは?住井すえさんの「橋のない川」にはモデルとなる人物がいます。
裕福だった穢多身分の人たちと、赤貧にあえいでいた穢多身分の人たちとの両方があったようですが。
また、非人身分の人たちの中にも、刑罰で非人に落とされた町人は、刑罰が実行された日から10年以内に、本人が希望すれば町人に戻れました。
ですが、穢多身分の人たちの町人にはなれなかったという違いがあります。
何事にも例外がありますから、解釈は人により様々ですね。
うしろのCGSの字がなんとなくフリスクのやつに似てる^ ^
ありがとうございます!
目から鱗!でした!
うちの先祖、武士やけど 江戸時代、男の子生まれなかったから…商人から養子をもらい、その息子が結婚して、名を残した。んやて。
直系は、商人なんや。て、ちょいガッカリやったけど、払拭!
今は危険、苦しいなど、なりてのない職業の人が安い賃金になってるのは江戸時代より良くない。
大学卒が増えて、選り好みするから・・・ 成り手のない職業は賃上げするべきでしょうね。
四公六民、五公五民といった江戸時代の税制度は正しく理解されていない。農民は収穫した米の約半分を徴税されていたと思っている人が多い。
ねず先生も言っているように、そんなに税収があったら武士は貧しい暮らしをしていない。だから、その解釈は誤り。
田んぼの面積で決まっている帳簿上の収量というものがあって、その約半分を年貢として収めていただけ。それは控えめな数字で、実際には米はもっとたくさん穫れていた。今の固定資産税は実勢価格よりはるかに安い評価額を基準にして課税されている。それと同じこと。
いつもねずさんのお話を拝聴しており、成程と感心する事も多いです。だがしかし・・・今回のお話・・・・
お墓を掘る事が、そんなに特別な人しか出来なかったのでしょうか?田舎に住む私は小さい頃、ご近所さんがお亡くなりになれば、皆で葬儀を手伝い、両隣の人がお墓掘りをやってました。そして特別な人に頼む事はありませんし、特別お金をお渡しする事も有りませんでした。だから戯多の人がお金持ちだったという、ねずさんのお話はなんだか納得できないです。
大東亜戦争のとき愛媛県の田舎で、近所の人が墓堀りしてました。
江戸時代の犯罪発生率は現代とは比較にならないくらい低かった。つまり、地方では元犯罪者が存在しない村が殆どでした。その様な普通の村では、近くに穢多非人の村が無いので、ごく当たり前に村人達で土葬に為ていました。村八分にされた家の場合ですら、冠婚葬祭の時は除外されていました。それ程葬儀は大変なのです。大体、現代の様に車などの高速移動手段が無く歩くしか無い時代に、何十キロも離れた穢多非人の村に一々使いを出して人を呼ぶなんて、普通はしませんよ。100万都市江戸や京の様な大都市圏ならではの話です。地方ではせいぜい家格の高い武士の家で誰かが亡くなった場合に、呼ばれるだけです。参勤交代で江戸住みの武士が亡くなった場合等、江戸にある藩の菩提寺と先祖代々の地元のお墓に分骨して納めるので、お墓が二つあることも良く在りました。この様なときに、御墓を掘り返すのにも呼ばれていたそうです。
普通の武士の葬儀の時は、大抵同僚か下級武士の次男か三男が墓堀りを為ていたようです。
大店の御隠居様が亡くなった場合等には、呼ばれていたみたいです。お金持ちしか呼ばなかったのが実情のようですね。それだけ費用が高かったのです。
長屋の店子が亡くなった場合にも、大家さんが手配していたようです。
神谷さんの声が大きくてねずさんの声が聴き取りにくい!
士農工商を身分序列だと習うのは昔の話だぞ
もうただの区別って習ってる
何故、どんな理由でその様な制度が有ったと流布する必要があったのでしょうか?
又、いつからそのように身分制度と言う概念が教育されてきたのか解明する必要があると思う。
なんでも詳細をさらし出せば良いとは限りせん。わからないままのほうが良いこともあります。
昔「モノを作るところを見ると食べられない」言葉あり。誰でも簡単に情報が発信できる時代になったので、情報に惑わされないようにしましょう。
マルクス主義の階級闘争史観を当てはめて日本史を階級対立の歴史として構成したのでは。明治以降を資本家と労働者の階級対立の歴史として描くためでしょう。
裕福なエタがいたというのは本当だと思う。 食うや食わずの小作人よりも、エタのほうがずっと幸せだったかもしれない。 中国・朝鮮と違って、日本は階級全体として、独り勝ちがなく、それなりにバランスがとれていたようだ。 マスコミとかが一概にタブー視するから、真実が見えなくなってしまうのだと思った。 「改易された藩の侍の娘が遊女になり、それを金持ちのエタが買う」というパターンもあったのだろう。遊郭は俗世とは別世界だった。
浅草弾左衛門に太鼓屋又兵衛ですね。
**の慰安婦も裕福だった。農村の冷害で娘の身売りがあったが、買う人が。。。た。
関西では エタ非人が裕福だとは考えられません。50年前の部落を見てみたら宜しい 嘘を発信しないで頂きたい。
江戸時代の話をしているんだよ。50年前とか、話のすり替えをしないように。
どういう資料からそういうことが分かるのかを教えて欲しい。
AKK WD さん
疑う訳ではありませんが、純粋に私も疑問に思ってました!
出来ればそういう所も教えて頂きたいです。
先ずネズ氏が云ってる事柄を一つでも良いから
自分で調べて合致してるかどうかで全体を真偽せよ
身分の移行はたくさん例があります。
・武士→農民(江戸期以前から山ほど)
・農民→武士(例:新撰組 豊臣秀吉)
・武士・公家→僧侶(江戸期以前から山ほど。一休さんもこの例)
・武士→商人(婿入りなどで)
・農民→商人(店に奉公に来てそのまま商人に)
・武士が食い詰めて職人になる例はとにかく多い(兼業ですが)
このあたりは資料をわざわざ出すまでもないというか、当たり前のことなので・・・
非人(役所に印の入れ墨を入れられた人たち)が犯罪者というのは時代劇ではよく見ました。えたの方は分かりませんが。
toritori 江戸時代の話をしているのだから、江戸期以前を入れるには少し違うのではないですか?
まあ確かにそこまで厳格な身分制度であった印象はありませんけど。
@@Handler-1
江戸時代に身分の変化は普通にありましたよ。調べてみれば?
て言うか、江戸時代以前には身分はまだ固定されていないので、わざわざ「身分の変化」なんて言わないよね?
士農工商・穢多非人。穢れの少ない順番とも取れますね。
商売だって当時の武士からすれば穢れた職業。江戸幕府の官学だった朱子学の考えだからね。
だからこそ商業で幕府の財政を立て直そうとした田沼意次を松平定信が失脚させた。
この寛永の改革と呼ばれた政策を含め江戸の三大改革呼ばれたものはいずれも失政で
幕府を弱体化させたものというのが現在の評価。結果的に武士が財力を得る機会を奪ってしまったんだから。
ちょっと話がそれてしまいましたが。
この人の話も少し変ですね。士農工商別に奉行所も分れていましたし、檀家制度で縛られていたのも農民、町民です。ただ、家を単位としていた時代なので家長以外の者は受け継ぐものがなく自力で生きてゆかねばなりません。これが身分の枠を超えて移動するということです。墓の話ですが、穢多しか死人を葬れないなどは嘘です。本百姓の庭にはお墓がありました。墓は一般の者には無縁のもので通常は(集団)墓地に埋葬(埋められた)されたはずです。江戸では死人、死刑になったものなどは穢多の人が処分していたようです。穢多はヤクザとも関係があり役所に雇われて岡っ引きとしての役をもらっていたそうです。江戸の下水道の役(汲み取り)も穢多の人がやっていました。肥桶を担いで郊外の農家にたい肥として売っていたそうです。ヨーロッパの汚い不衛生な大都市とは大変な違いですね。幕府にとっては食料=百姓(農家)=平地は生命に直結する最重要課題です。これ以外はそれをサポートする役割と考えられます。街の機能は町民、それ以外は穢多。穢多は平野以外、つまり山の中を担当します。材木を取る木こり、獣を取るマタギ、等。
歴史は伝える人によって変わりますね。明治38年生まれの母が呉市に嫁いできた当時は、農家の人が野菜をもってきて汲み取らせてくださいだったのに、お金を払うようになったとぼやいていました。田舎の共同墓地は近所の人が穴を掘り、河原で細長い青い石を拾ってきて墓石としていました。軍神となって”陸軍上等兵****の墓”と彫刻された墓石が建つようになりました。
疑問があります 戦前まで戸籍には 武士は士族 農工商は市民 ヒニンエッタは新市民 と記載されていたのはなぜでしょうか。
明治になって戸籍制度をつくったときに昔からの流れで区別したと思われます。大東亜戦争が終わったとき10歳でしたが、あの家は士族だからと尊敬されていたし、ゴミ収集・火葬場隔離病舎の仕事をする階層がありました。
市民?平民じゃないの?
そうです 仰る様に平民です 間違えました。
そうですね 昔読んだ本に確か藤村の破壊もエッタの話しでした敗戦によって 散々日本の伝統 文化 思想 をぶっ壊されましたが 階級社会が無くなったことはよかったです が ヨーロッパではまだ階級社会がねずよく 雅子妃は紹介されるとき 雅子小和田と呼ばれているそうです 紀子様は プリンセスキコと紹介されます 原因は雅子妃の出自にあるようで ご成婚当時 最高階級が最低階級者との婚姻と欧米で.大きな話題になったようです
@@服部和子-w2k さん 藤村の小説は「破戒」でなかったでしょうか。階級差別が無くなるのは良い事ですが、交通事故に関連して”上級国民”がでてきました。格差はなくならないですね。
学校で士農工商は差別ですと教わりました。
後に四民平等ができました。解釈する人によって、差別・格差・男女差別様々ですね。一億総中流もあったし、最近は上流国民も現れました。差をつけられるのは誰しも嫌なもので、自分で差をつけなければならないと思います。
現代に「変わり種」と言う言葉が残って居るぐらい江戸の城下では朝顔の品種改良が盛んで、武士や町民や農民や僧侶等、職業や地位や身分に関係なく、自ら育てた朝顔を比べ合い更に互いの朝顔の勾配を行って、新しい品種の朝顔を創り出していました。その様な遊びが流行るくらいなので、学校で習う様な身分差別など存在しなかったのでしょう。実際、俳句や短歌等、武士と町民が同じ先生に師事する事など当たり前に在りました。会社で平社員が社長に乱暴な口調で話し掛けたりし無いのと同じ様に、公私の別、場所柄でのTPOを守るのは、何時の時代何処の国でも当たり前の事でしょう。おまけ、江戸時代は園芸植物の品種改良が盛んで、現代では失われてしまいましたが、青い桜も在ったそうです。また火事で天守閣が消失する前には、将軍家の御留め花に青い花の椿が在ったそうです。もしこの青い椿が現存為ていれば、青い薔薇も創り出せたかも知れません。
@@浩原田-i2f さん 万葉集にも、詠み人しらずがあるように、歌の世界に身分の差別はなかったようです。
上級武士、庄屋、親方、旦那さん達と一般庶民、穢多非人で分かれたが穏やかな日常だったと思う
細かなことで恐縮ですが、新撰組の隊員は、三鷹、八王子、日野などの多摩地域の出身です。日野だけではありません。
金が全て?その発想自体が日本人的ではないと最近は思うようになりました。
だってお金と権利を翳さなくとも、日本という国は
今の時代に比べると食事も着るものも貧相であっても
幕末まではある程度平等に生活できる国だったからね。
水平社宣言の中で この半世紀と文言があります。
すなわち明治時代に入り平等な時代になり我々は職業を奪われただけでなく、差別はいまだ無くならないとあります。
私達の職業、つまり差別はされたが仕事まで奪われ今や食うや食わずだと。
俺達の利権を返せえー!
なのです。本当です。現在の人権センターの方のガイダンスです。
言わずもがな。この世は何でも利権社会なのです。
関西電力の事あるでしょう。
勉強になりました。
学校で習うことも本当のことばかりではないですね!
なぜあなたはこの人がしゃべることが本当で学校で習ったことは嘘だと判断したのか
そんなんだからいつも騙されるんだよ
なぜあなたは私のことをよくも知らないのに、いつも騙されてると判断できたのですか?
昔は教育勅語でしたが、教育基本法に基づいて文科省検定の教科書で教えています。
ねずさん、ためになるお話をいつもありがとうございます。ただあくまで私見ですが、墓掘りは穢多というより隠亡(おんぼ)さんの仕事だったような気がするのですが(ちなみに穢多とは違った意味で世間的に白い目で見られていたのが隠亡という身分)・・・。
隠亡>
江戸時代には賤民身分扱いされていたことや、被差別部落出身者が大半だった。
by wiki
とあったので、あながち間違いではないのでは...?
通りすがりですが、お役に立てれば...
地方では 売春宿でも差別され塩まかれていました。友達が間違われ塩をまかれてと言っていました 嘘はいけません 差別は歴然としてありました。
それにしても「士農工商の身分制度がありました」と教え始めた頃にまだ江戸末期の記憶のある人々は存在しなかったのか? 其の頃の参考資料なら山程有った筈だろうに….江戸前期中期の歴史考証の話ならまだしも「江戸時代を通じて士農工商があり」と教えていたのが、「実際はあれは間違いでした」と訂正される….新たな歴史認識が正しいとして、古い方の認識を覆さずに長年放置されていた事実にショックを受けます。
今でも江戸時代の資料はたくさん残っていて、それを見ると大部分は教科書通りです。人口密集地の穢多頭は裕福でしたが、そのような恵まれた人は極々少数です。それを引き合いに出して穢多は裕福でしたとかは間違っていますね。
士農工商と学校で洗脳された
司馬遼太郎の小説にあるね
新知識ですが本当かしらと疑ってしまいました。学校で教えられた知識とは何だったのでしょうか
最近隣国でそのような思いを感じ始めてる人が増えているようです。
教育とは世界中の国の為政者にとって従順で歯向かったりしない庶民を育てることなんですね。
@@雲-r2m 隣国は同一民族が南北に分かれて戦争することになりましたが、戦後教育の結果です。
@@豊田陽三 【戦後教育】どうこうと言うほどの時間を置かずに北鮮が攻め込んできて、あれよあれよと言う間に釜山まで追いやられ、「こいつぁイカン!」と思った米軍が何とか38度線まで押し戻したのが朝鮮動乱ですよね。
穢多の大部分は差別を受けていたし、貧しかったですよね。一部の例外を持ってきてあたかも穢多は裕福だったと発言するのはなぜ?
江戸時代、そんな証文なんにも残ってないんです。士農工商、えたひみんなんて誰も言ってなかったんです。
田舎の死体処理は 村々の組単位で焼却まで行われていたのでエタ非人の出る幕はありません。
エタヒニンが死体処理やってたってのは僕も習ったけどなあ…。
時代劇なんか見てると、街中で身分制度なんかないよねw
百姓の米は税対象でしたが 裏作の麦 大豆野菜は税の対象ではありませんでした
でも小作は税が厳しく 今と違って家族は多く食べる量も格段に多く 水飲み百姓とはよく言った物です。
米はいつも一反七標とは限りません 三俵の時も税は何時も7ひょうを基準にしています。だから飢え死にするのは百姓 誰でも百姓にはなれません 土地が無くてはならないし 分家でも15へクタル以上で無ければ分家も出来なかったし
戸籍の役割はお寺の過去帳がその役目をしていました。今と違って牛馬は村の地主の一、二軒しか持っていませんでした コレラの家が参勤交代の荷駄運びに呼び出されたそうです。
仮に7俵としましたが 6俵だったか知るよしもありません
村社会では牛馬の無い家がほとんどで まんのうで1,5ヘクタールを耕していました。自作農ノイエの話し
@@syun15331 さん 分家するにも土地が無かったので、ブラジル移民・満蒙開拓など海外に土地を求めました。
だいたい商人を一番下に持って来るわけないんです。
例の組織涙目( ^ω^ )
江戸時代なんてついこないだですからもっと詳しく調べて下さい。
ねつ造されたわけではないよ。そもそも士農工商を唱え始めたのは明治時代で
江戸時代の現状を知ってる人がまだいっぱいいた時代だ。ああ、そういう感じ
だったなと同意されたから学説が成立したんで。
いやいや間違ったことでも「そういうものかという同意」をもって定着してしまう例は世の中にいくらでもある。例えばスポーツ練習における「水飲むな理論」とか「うさぎ跳び」とか昔は当たり前のように全国でやっていた。
身分制度じゃなく、職業区分ですよ。
江戸時代を分析するなら、身分制度以上に、税制を分析することですよ。米の年貢を税制の基本とする社会ですから。大名の石高というのが、今で言う各国のGDPですよ。おおよその税収と軍事力の基準になっていた。
江戸時代なんてついこないだですから、そんな証文なんにも残ってないんです。士農工商えた、ひみんなんて誰も言ってなかったんです。
エタはある意味不労所得者
日本の身分制度はメチャクチャゆるいんじゃないの?
非人はたぶん犯罪者であろうなとは、推測してたけども、穢多は面白いな。
上位武士は調子こいてたらしいけどね。土佐藩とかヤバい
江戸時代大阪で乞食を一ヶ所に集めなさいというおふれは残っているんです。
国歌も教えない、日本教育にびっくりしました。今の日本教育機関は、駄目なので、今回のような企画を広く流し、正して下さい。
それは飴屋の長兵衛でしょう。
なにぃーー!そうしたら、越後屋とお代官が繋がっているという話はデタラメ?
神谷さんが総理になってほしい
内は農民やけど実際内の爺ちゃんも又一番下のオジキの嫁の姉も差別してた❗️。
戸籍謄本原本が有りますが、ここには身分が書いてあると聞いているんですが、どうなんでしょうか?
役所に行って、自分の目で見てきたらいい
簡単に見られるからww
穢多が墓掘り人夫だったという新事実には納得しました。
この動画は一面から見ると🎵正しいかもですね😢
ヘェーです「エタガ太夫を上げる」そりゃ凄いねどの資料か教えて下さい😁江戸の一人事ですかね🎵
でも天保の大飢饉とかでも武士で餓死した人はいないという話ですが…
穢多の説明はめちゃくちゃですね。
表現は自由ですから、100%確実なのは”人は死ぬ”くらいでしょうか。「信ずるのは個人の自由です」とテレビで見ました。個人責任で、自分の信じる道を進むしかないですね。
真田信繁
色々とありますが、大きなポイントを直感的に言うと、京都の蜷川と関八州の弾左衛門の絶大な権力とその源泉としての天皇家との血縁関係や、或いは、徳川家康と世良多二郎三郎の関係が念頭にあれば当然言わないようなことをこの人が数多く言い、念頭にあるが故に言及しないでいることが多いことに気づくでしょう。
「汚れた業種に就いているから」という発言は、その代表でしょう。
「非人の上に穢多」も全然違いますよ。
「墓掘りは不可欠ながら専業だった故に穢多の経済的地位は高かった」も因果関係が逆です。穢多は農民を農奴として蔑みながら牧羊犬のように農民の所有者のために農民を外枠から密かに管理する、農民よりも高貴な身分の末端だったから墓掘りのような特権的な専業を認められたが正解でしょう。
サンカのことにも全く言及できていませんね。サンカや修験道が一体なんだったのかに触れないと穢多のことは分かりません。
真田信繁
議論は諦めた方がいいでしょうね。あなたの場合。どうしてもしたいなら、今から大学に通い直して、理解力、読解力を人様の迷惑にならない程度に磨いてからにした方がいいのではないですか?そうでないなら、こういう場に出てこない方が世のためです。聞く耳を持ってちゃんと生きていってくださいね。私にあなたの質問に答える義務もないのにわざわざ時間をとって長文の解説をしたのです。聞く耳がないのにこれからは質問などしてはいけませんよ。この世に人種や年齢、性の差別はあってはいけませんが、怠け者で愚鈍で無礼な人間と勤勉で知能が優れ礼節をわきまえた人間との差別はあるのですよ。
@@tetsuhirohirakawa8654 お前絶対Fラン大出身だろ。一般の大学ってのは充分に理解力、独海力のあるものが選抜されて専門知識を学ぶ場であって、お前のような名前さえ書ければ入れる大学の出身者にとって理解力、独海力を身に付ける場という認識なんだろうな。
ホントとんでもない馬鹿な左翼の代表だなお前。
農民が武士になるのは極極珍しい事だったんだよっ 支配と収奪はあったのは間違いないっ
支配階級は厳然としてあったし、管理されていたのは間違いがないっ
歴史を捻じ曲げるなよ(怒怒怒)
ただ江戸末期は少しその制度が崩れつつあったのだろう。
三一侍なら珍しくも何ともない。
武士株の売買もあったくらいで、豪農が嫡外子に身分を買ってやることもしばしば。
そしてここでは「士農工商は階級制度ではない」という話であって、「階級がない」という話ではないのでは?
@@白滝次郎-u5t いやいや 例えば参勤交代の時 行列の邪魔をする人は打ち首にできたし、階級制度があるから、侍の中にも階級があり、それは末代まで同じ階級なのですよ 捏造してはいけません。
@@miyanoyakusii6192 切り捨て御免は近代に入ってからの創作です。例えば、天領の領民で在る江戸の町民がいきなり町中で薩摩藩の武士に斬り殺され出もしたら、大問題になります。当人は切腹の上お家断絶でもおかしくない上に、藩主にもペナルティーとして隠居させられますよ。下手すると改易されても文句は言えません。江戸時代の日本は厳然たる法治国家です。現代に例えれば、米軍兵士がいきなり町中で発砲して日本国民を殺したら大問題になります。それと同じ事です。その逆に自衛官が米国で民間人を殺しても大問題になりますよ。勘違いしている人が大勢居るみたいですが、藩とは独立国で藩同士の主権を侵害する様な行為は、武家諸法度で厳しく戒められています。
司馬遼太郎の作品に出てくるね。
地方では部落差別は歴然とあり 最貧層の人達が清んでいた事実です。
東京都は違います。
どうあ、道端の輩。
士農工商
慣れすぎで神谷さんが耳障りですね!
人でなしって言葉もしや
神谷宗幣? もしかして神谷寿禎、神谷宗湛の子孫の方?
ですね。今でもこれを覚えろ詮索するな。これが主流でしょう。先生は言われたから、こうなっているからしか言えなかったと。今からでも訂正してほしいものだ。しかし、教育委員会がケチ付けるんでしょうね。というか、文科省自らが腐っているのだからここからでしょう。教科書が訂正されないものこのせい。変わってはならないという固定観念。そう、歴史は一つではない。川向うでは違うぞと。。。
代々その階級の家が子孫に受け継がれる その制度こそ階級制度である。 嘘つくなよ
士農工商って有益な身分制度だったんですね。
皆さんいろいろ語ってますけど私が知りたいのは、いつ頃どんな経緯で被差別者が生まれたのですか詳しく説明出来る方宜しくお願いします。