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小学生のときに秀吉が幕府を開かないのが不思議で先生に聞いてもうやむやにされたのを思い出しました。疑問が解決しました。ありがとうございます!
やはり征夷大将軍になれなかったのが秀吉の負けでしたね‼️やはり征夷大将軍となった家康の勝ちでしたね〰️😃平清盛と源頼朝が天下人となり、平家と源氏が交代するというルールができあの信長ですら「我は平家なり」などと宣っていました。
なぜ将軍にならなかったのか、ではなくて何やかんやあって関白になれてしまったから、身分を下げてまで将軍になる必要がなかっただけだよ。朝廷内の序列は天皇(上皇)
「関白 豊臣の秀吉である!」の、が大事なんですよね。
知ろうとしないとわからない事って多いんだなと、大人になってつくづく思うそして知らない事を知ることは楽しい今回有名な「関白秀吉」の流れがよくわかりました❤旭姫(字あってるかな?)のことも知りたいです(今回健気で泣いちゃったー)
わかりやすかったです。
今回の大河は、一番泣きました。辛いのに明るく振る舞う旭様😭数正の築山殿を思わせる押し花🌸皆の「あほ、たわけ」😭😭😭心に残る回でした。先生の数正予想がピッタンコでしたね👏 田楽を食べるシーンが懐かしかった❗昔は桜の頃になると「菜飯田楽」の屋台が出たりしました(*^^*)
おもしろかったです😸
ありがとうございます🐈
どうする家康観たよ、今回は、まさに、神回、かずまさんは、やっぱりいい人でした。かずまさんです。涙が止まらなかった位感動しました。
月曜に大河浸れるの嬉しい
かつて大河 真田丸で、家康が上洛した際に秀吉が「とよとみの〜ひでよしである」と「の」を入れて名乗っていたのは、そういうことなんですね。
秀吉が征夷大将軍にならなかったことについて、当時は源平交代思想があり、信長が平氏を称していたから次の天下人は征夷大将軍でよかったわけだけど、秀吉が源氏でないことは明らかだったので、考えた末に関白の座を狙ったと、小学生の時に読んだ本にありました。それも納得する説でしたが、今回のきりゅうさんの征夷大将軍ではもっと高い官位の人が出てくるから最上位に、という説はさらに納得しました。それとは別に、近衛前久は何となく源仲章に似ていると個人的に感じています。なので近衛前久を生田斗真くんが演じてくれたらと密かに期待していました笑
今回もむっちゃ分かりやすくてためになりました!✨秀吉の出自とキャラならそうなるかー、とすごく納得です。いいとこのボンボンだったら、思いつきもしないし恥知らずと思われると言えないようなことをやってしまう秀吉凄い。けど、結局ほぼ一代限りになってしまうとは歴史の皮肉。。
😢❤😢❤
真田丸で、「豊臣『の』秀吉であーる」と見栄を切ったシーンで、「姓だから『の』が入ってるよ〜」と盛り上がったのが懐かしい
今回の話は、スゴく面白かったです✨最高です✨
近衛前久といえば麒麟が来るの本郷奏多くんをおもいだします。この時に変わったお公家さんというのを知ることができました。
秀吉が関白を選んだのは、京都を追放された足利義昭が朝廷に将軍職を返上していなかったのも大きかったと思います。1573年から1588年まで、「鞆(とも)幕府」と称して、しぶとく将軍を名乗っていましたからねw 秀吉は足利義昭に多少の畏怖と、めんどくさい人だなあ、というのがあったような気がします。動画とても面白いです!
信長が朝廷から三職推任で征夷大将軍・太政大臣・関白の何れかに就くよう打診されているので、秀吉もその気なら足利義昭に将軍職返上させて自分が就任するのはさほど難しくはなかったと思います。単純に別件で関白になってしまったので、わざわざ将軍になる必要がなかったのだと思われます。
名字と姓‥秀吉の件で学ぶ事が出来ました🙏‼️冠位とか、まだまだ勉強不足なので、その辺りもいつか解説お願いします😅
😮何故か、最近の、大河、泪、泪、泪を、流しながら、観ています。歴史、好き❤️です。❤
歴史好きですが、今年の大河は設定が滅茶苦茶。 色々ツッコミながら見てます。はじめの 瀬奈(仮の名)と 家康の関係からおかしい。
秀吉さんは先祖が源氏と証明できなかったから将軍にならなかったと思っていました。近衛前久は「麒麟がくる」で本郷奏多くんが演じていましたね。美しくて、いい感じに変わり者感がはまっていました😍
木下藤吉郎秀吉ならば、なら何かい?坂上田村麻呂卿は源氏なのかい?って言うかもね。
本当、足利氏、徳川氏が幾百年掛けて行なった、征夷大将軍は、源氏の独占!って、洗脳工作を否定し、解除するために、桓武天皇白壁陛下の御世に、東北地方で蝦夷征伐に活躍した征夷大将軍、坂上田村麻呂卿のことを、明治新政府は日本史教育で、大きく宣伝しましたよね。
徳川様は源氏長者に大金を払い源氏の姓名を飼いました。若い頃から準備をしていたのでしょうか⁉️あの信長は「俺様は平家である‼️」と主張していたそうです。
@@菅沼域雄 様秀吉さんは身分が低すぎましたね。
@@井出俊哉-m9fそれは天下人になろうとしたからではなくて、領国の三河は非常に荒れていて家康の立場は不安定だったのよ。で、朝廷から正式に「三河守(三河領主)」に任官してもらえば反乱分子に対して服従命令も出せるし、それに逆らえば朝廷権威を蔑ろにする不届き者と言うことで弾圧も出来る。ところが秀吉ほどではないにしろ家康の松平家も出自がよく分からない家系なので三河守の官職がもらえなかった。そこで家系図をくまなく探し(或いは書き換えて)ものすごーく遠縁の得川さんという源の系譜の人を発見したわけ。それで改めて「自分は源家の末裔得川氏の血筋なので三河守に任官させて下さい」とお願いしたところ「ならばよし」と言うことで三河守に就任する事が出来た。で、字が悪いと言うことで「得川」を「徳川」に改姓したわけ後にむしろ「将軍になって下さい」とお願いされる立場になった家康も三河領主時代はそれくらいの扱いだったわけですね。
いつも楽しく観てます😊今回は本当に勉強になりました。ありがとうございました♪
これはおもしろい!説明めっちゃかみくだいててわかりやすかったです。池波正太郎さんの小説で、秀吉は足利義昭に養子にしてくれって言ったけど義昭に断られて征夷大将軍になれなかったみたいなことも書いてありました。
かしましトリオの皆さん動画ありがとうございます。きりゅうさんの後ろの千日紅?赤いからキャンディーポップかな?可愛く咲いてきましたね。😊さて私は学校で安土桃山時代という言葉は習いましたが良くわかっていません。😂安土は安土城を作った信長の頃のことだとすると、桃山は秀吉のころでいいのでしょうか?何故桃山と呼ぶのか知りたいです。ラットさん喉早く治るといいですね。
こんばんは。「豊臣」という姓は本当にセンスがいいし、美しいと思います。正親町天皇(私の中では麒麟の玉三郎さん)、さすがです。ただ、姓が素晴らしすぎて、秀吉と釣り合ってないように思えてならない自分がいます。秀吉さんごめん🙏。その名前がダメなのではなく、感覚がしっくりいかないのです。重ね重ねごめん🙏
いつも楽しく拝見させていただいています。確か家康も将軍職に、なるときに源氏長者の称号?を、さだしだして将軍になったと、読んだことがあります。無秩序な時代と思っても、ルールは、あるんですね。「どうする家康」でも源氏長者のはなしがあるとうれしいです。
探し出してです うちまちがえです
毎回とても楽しいですいつも思うのですがおまけが特に楽しいです
関白になったのは成功だけど、次世代は将軍にして関白は摂関家に返しておくべきだと思ってる。将軍以外の高官を兼任させて。これなら子供でも継げる。関白は難しそう。それに五摂家は関白を取り戻そうと陰に日向に画策するアンチ豊臣になるだろうし。秀吉は死ぬ前に秀頼を将軍にしておくべきだったかな。
今回も面白かったです! 秀吉が「関白」の地位を希望したのは、信長の最終的地位の「正二位右大臣兼右近衛大将」より上を望んだからだと思ってました。
いやはや、今回も面白かった〜😳✨豊臣が性だとか、何故その名前になったのかは知らなかった!!🤔征夷大将軍にならなかった話はテレビで見た覚えがあるけど、きりゅうさんの分かりやすい解説でまた聞けて良かった😆過去動画で藤原家の話をしてる動画見たばかりだったし、より分かりやすかったです✌️😁
秀吉は源氏じゃないから幕府を開けなかったと思い込んでました!そんなに深い理由があったとは知りませんでした!
豊臣姓は褒美として色々な人に名乗る事を許していたので家康の徳川と違って独占したという感じではないですね
大変興味深いお話でした。ありがとうございます😊さすが秀吉公。「とにかく一番上の臣下になっとこう!」って人臣の頂点として『帝の代理人』になっちゃうなんて。逆に家康公は幕府を開いて朝廷の部外者として取り込まれることなくコントロールするのは本当に対照的ですね。
麒麟がくるでも近衛前久は印象的な役でしたね。関白の仕事・権限ってどのくらい大きいんでしょうか?
地震のお陰で戦にならなかった家康さんを運が良いって言ってたけど、今日のお話聞いてるとやっぱ、秀吉も運もってますよね
この時期は唯一の跡継ぎの羽柴秀勝も死んじゃったし災害は当時の統治者の出来不出来の評判にもなりますしね(勝頼は浅間山噴火で評判地に堕ちて皆逃亡・裏切りで碌に戦えずに滅亡あっけなかったし…) お互いに幸運だった
お~~。 「豊臣」の話、初めて聞いた。
いつも楽しくみています!そもそも幕府を開くというのはどういうことなのか…というところから教えて頂けると嬉しいです😂
一応、足利義昭がまだ将軍職を返上してなかったってのもあるかと。上級官職についてはそのへんの重複、気を使ってますからね。でも「権将軍」とか、あり得たのかな?!聞いたことないけど
「姓と名字が違うもの」😳だなんて‼️初めて知りました‼️
豊臣秀吉公は、明治維新以前で言えば日本史上で唯一の中央集権政府を成立させたんだと、私は思っています。その象徴が「豊臣姓」なのでしょう。徳川も毛利も上杉も(全部名字)、全部「豊臣姓」にしたという説もあるようですし。つまり「豊臣徳川(又は羽柴)家康」という時期があったらしいと。まあ、義弟ですしね。これは、朝廷政府の外に将軍の治外法権的決裁権を利用した私的政府を作る「幕府型」とは全く異なる政権のあり方です。朝廷政府そのものを支配する豊臣政権は、同時代に誕生した欧州型主権国家と同質の物が突然生まれたかのような中央集権型政権に見えます(太閤検地など)。しかし日本の「世間」には理解できなかったらしく、定着する事なく封建制へ逆戻りしていくのですけれど…(江戸幕府は内容的には中央集権寄りだけど、やはりどこまで行っても封建体制国家なのだろうと思います)
近衛前久って聞くと大和和紀の「イシュタルの娘」を思い出しましすね。読み直そ〜
大河の「秀吉」だったかな?「源平藤橘に並ぶ、「豊」の姓を賜ったことになります」的なセリフ、とても印象的に覚えています
羽柴秀吉の「筑前守」は正式なものじゃなかったんですね。織田家でも有力武将は正式に官位をもらっていたのかと思ってました💦
確か筑前守は朝廷から出してもらってたと思いますが…。この時期は既に信長が直接朝廷と交渉出来ていたので、朝廷から発給してもらったという話だった認識です。
今日も楽しい解説ありがとうございます😁秀吉さんが豊臣姓にした話勉強になりました😃明風の出で立ちは明の使者から明の太祖 朱元璋の生い立ちを聞いて大変お気に入りになったのではないかと思います(妄想)
なるほど!家康がなぜ豊臣を根絶やしにしようとしたのか分かった気がしました!
豊臣が姓、羽柴が名字 別物なのねー😮😮😮勉強になります。豊臣の由来っていうか 誰が決めたんでしょう?天皇さんが付けてくれたのかしらん?
いつも楽しく拝聴しています。とある歴史番組で秀吉は武士のトップの征夷大将軍になりたかったけど。小牧長久手で家康に負けているので朝廷が拒否した、それで関白を狙いに行った、と解説していたのを見ました。いろんな説があるのでしょうか?それとも史実でしょうか?
家康の先祖も新田と言われていますが、家系図を本物の新田家にお借りしたらしい。明治時代になって岩倉具視の奥さんは新田さんでしたが、新田さんの庶流だったので、その先祖が新田家の家系図を貸すのを反対して本家は高家になったのに反対した新田さんは石高20石。露骨に忖度した家康(笑)本当に源氏だったのかも怪しいもの。
さりげなく私の疑問(天下人ってなに?)答えてくださってありがとうございました😆‼️私も、元々武士じゃなかったから将軍にならなかったのかと思ってました。金だ金だな🤑と思い込んでたので、どんだけ公家って貧乏やねん!とずーっと思ってました〜。好き嫌いはともかく、天才やなぁ秀吉は!(◎_◎;)としみじみ思ふ
「瀬名は花が好きなたおやかな女だ」と以前家康が言っていましたが、数正が持っていた押花で皆が瀬名を思っていましたね。あと、きりゅうさんが前回のラストに鍋が一瞬立ち止まって何か振り返るような仕草をしていたのを「瀬名があらわれたのでは」と言っていましたが、今回花を生ける鍋の場面でもなんとなくそんな感じがしました。誰かを思って花を生けているような気がして。
徳川家康が征夷大将軍が一番偉いシステムに改革しちゃったけど、秀吉が生きていた頃は関白が征夷大将軍よりも偉かったから
秀吉が関白になったのは1585年ですが、足利義昭は1588年まで征夷大将軍をやっているので、それも影響したのではないでしょうか?
『麒麟がくる』で、近衛と二条の対立、描いてましたよね。で、これが続編。「戦国最強の公家」の為せる技
まだ最後まで見てませんが、江だと確か足利義昭の養子になろうとして断られたからだったような気がします。
明風の衣装は「独眼竜政宗」で勝新さんも着てましたなぁ。信長も名字は織田で、姓は平ですよね。秀吉がオリジナルを欲したのは、わかる気がします。
いつどうして羽柴から豊臣になったんだろう?、家康さんがわしは源氏でとかなんとか言ってたシーンはどういう意味?、の2つの疑問が解けました。
そうか、豊臣って名字ではないんだ。てことはフルネームで言うと関白豊臣朝臣羽柴秀吉って感じ?
だから大河で書状で書かれてた秀吉の事を羽柴って書かれてたのね。納得しましたー
素晴らしい語りべです。❤
豊臣姓に関する私見大阪には豊島(てしま)という古い地名があります。大阪・大坂・浪速よりも古い、記紀にも現れている地名です。現在の大阪にも豊島は「てしま」「とよしま」という読みで残っていますし、豊能(とよの)・豊中(とよなか)・豊津(とよつ)など、豊島由来の地名も残っています。豊能はこれまた古い地名の能勢と併さった地名。豊中は「豊島の真ん中」、豊津の津は「港」の意味。この大阪の地名である豊島と臣下の臣を組み合わせて「豊臣」姓が作られたのではないかと思います。
伊丹空港から少し北側の池田市の豊島ですね。東京目線だと、「としま」って読みがちですもんね💦
エンディングがSFチックなのとお囃子っぽいのとありますが、なにか使い分けておいでなのですか?
近衛文麿が太平洋戦争開戦時の総理大臣だったから近衛家の関白の歴史は永いですね。
1941/12/8時点だと東条先生に変わってるけど、まぁ10年以上に渡って国民を戦禍に陥れる最終決定は近衛がやってるか👎
今も近衛家は歌会始の儀にでてますよ
秀吉の関白就任は、簡単に言えば「大枚をはたいて手に入れた」関白。大河ドラマ『春日局』で、主人公の福(後の春日局)が山崎の戦い後に身を寄せていた三條西家の当主・公国が「銭で買うた関白よ...」と複雑な胸中を吐露していたのが印象的でした。
秀吉が関白の宣下を受けた時(1585年)、まだ足利義昭が征夷大将軍の地位にあったから征夷大将軍になれなかったと思っていました。(足利義昭が征夷大将軍を辞めるのは1588年です)
以前の大河で秀吉が将軍になろうとして足利義昭の猶子にしてくれって(お金を積んだけど)頼んで断られて将軍になれなかったので近衛前久の猶子になって関白になった記憶があります(秀吉役竹中直人、足利義昭役玉置浩二)足利秀吉になっていたらまた歴史は変わっていたかも⁉️
秀吉の子を足利義昭の養子にしていたら、自分は大御所としてそのまま幕府を継承しても誰も文句は言えなかった。征夷大将軍は世襲だったので、武家は全て征夷大将軍の配下となるので、関ヶ原も大阪冬・夏の陣もなし。
かしましとはどういう意味ですか?
こんばんは❣️今回の動画を見終わった後に映画『関ヶ原』(原作:司馬遼太郎)を観て動画の予習復習をしています。気になることがあるので、ここに書かせて頂きます。冒頭部分の1588年と1595年。年号とともに2つの事象が紹介されています。1588年。滝藤賢一演じる秀吉が『どうする家康』で信長を演じた岡田くんの三成に唐入りを示唆するセリフがあります。1. この頃から、秀吉は対外戦争の野心があったんでしょうか?1595年。この後の伏見城で西岡徳馬演じる前田利家(レジェンドでは和田正人さん)が『太閤関白との間でいつ戦が起きてもおかしくなかった。金銀を朝廷に献上なさった秀次様は関白職を辞し、高野山に出家されたが、謀反の兆しは衰えることなく、太閤殿下は福島正則の軍勢をけしかけて包囲したことで秀次様は切腹なさった』と諸大名に話しています。2. 秀吉と秀次の関係って戦争状態になるほど緊迫していたんでしょうか?『家康』に絡めますが、小牧・長久手の戦いで三河中入りの総大将を務めた人=上記の関白秀次なのですか?秀吉が一方的に因縁吹っかけているようにも取れます😢3. 朝廷に金銀を献上した意味がよく分からないので教えてください。秀次は何のためにそんなことをしたのですか?役所広司演じる家康も『秀次様の侍女や和子など、謀反人の血は絶やさねばなりませぬ』と言っていました。この侍女の1人が『家康』の正室、瀬名姫を演じた有村架純です。4. 禍根を残さないためとは言え、皆殺しにする必要があったのでしょうか?ここら辺の経緯はあまり詳しくないので教えて欲しいです。贅沢を言うようですが、注釈もつけて貰えると助かります(*^^*)
征夷大将軍にならなかったのは、関東を手に入れられなかったからと、聞いてました。しかし、関白になって、朝廷を乗っ取るのはさすがですね。
なるほどなるほど🤣
ラットさん 最近鋭い
氏姓は氏姓制度(うじかばねせいど)の事?山川出版社の高校日本史用語集で見た記憶があるようなないような…。
秀吉、根回し上手いな。権威の使い方も上手い。武士というよりは政治家だね。
3週間前にアップされた戦国kobanashiチャンネルの内容にソックリですね。「秀吉はなぜ『関白』に、そして「豊臣」になったのか? #どうする家康」ruclips.net/video/rM7ymgEeabo/видео.htmlsi=6neOm2f3o0dXmg83
身分コンプレックスでしょうw信長同様、どれでも選べたはずですよ。幕府は源氏でないと開けないなんて朝廷の常識には無いw
平清盛(たいら の きよもり)源頼朝(みなもと の よりとも)豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし)春日局(かすが の つぼね) って感じですよね。
奄美黒兎(あまみ の くろうさぎ)月輪熊(つき の わぐま) とかね。微妙なボケなので、誰もツッコミ入れてくれないのが悲しい。
ただこれで「武家の棟梁」とは言い難くなっちゃいましたよねー。武力は天下一だけど朝廷側、みたいな…。
質問なんですが、正確には豊臣羽柴秀吉てことになるんでしょうか?
日吉丸→藤吉郎→木下藤吉郎→羽柴秀吉→平秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉秀吉君は名前いっぱい変えております
羽柴を名乗った理由は、通説では柴田と丹羽から一文字つづもらったとなってますが、あくまでも通説ですよね。羽柴は元々「端羽」のことで、単なる当て字、という説もあります。
お公家さんの養子になるというプロセスを経て関白になっていることから関白/摂政は公家の特定の家系の者しかなれない官位なのかなと思いました。太政大臣であれば武家のままでもなれたようですが(平清盛、足利義満、徳川家康)公家になったせいで武家のトップである官位の征夷大将軍になれなくなったのかも。秀吉は関白になることによって朝廷が大名に官位を授ける制度に縛りを入れたかったのかも。一方、徳川幕府は別のアプローチ(公家諸法度?)で関白にならなくても縛りを入れられる方法を取ったっぽいです。
家康も三河の小大名だが、まだ家系操作ができる状況。でも秀吉になると周囲も下層の出身だと分かっているから、将軍のいちおうの資格となっている源氏の家系だという操作も面倒だし、それなら金で摂関家の権利を得るほうが手っ取り早く、関白は天皇の政治代行者で朝廷の最高位だから将軍なんかよりも遥かに上位で、秀吉の気質からすると将軍より関白…でしょうね。源頼朝は朝廷と一線を引きたい…と思っただろうからあえて征夷大将軍に…だと思います。足利尊氏もしかりですよね。
秀吉、関白の辞令(宣旨)豊臣秀吉に対する関白の辞令は2種類が伝わっています。1通目は勅書による辞令2通目は宣旨による辞令1通もあれば十分ではないか?と思うのは現代的な考え方でしょうが手続を重視する往古ではこういったことが慣習化されていました。今回は宣旨による辞令を紹介します。權大納言藤原朝臣淳光宣奉 敕萬機巨細宜令内大臣關白者天正十三年七月十一日掃部頭兼大外記造酒正助敎 中原朝臣師德奉(出典)関白宣下一會、足守木下家文書(訓読文)権大納言藤原朝臣淳光(柳原淳光 45歳 正二位)宣(の)る勅(みことのり 正親町天皇 59歳)を奉(うけたまは)るに万機巨細(ばんきこさい 天下の政治の大事・小事に関わらずの意)宜しく内大臣(藤原秀吉 50歳 従一位)をして関白にせしむべし者(てへり)掃部頭兼大外記造酒正助教 中原朝臣師徳(押小路師德 59歳 正四位上)奉(うけたまは)る
おサル、戦場では(特に城攻め)囲い込みや派手な工作をしての水責めでジワジワと攻めて行く印象があるのに(たんにかつえ殺し、備中高松、三木、小田原が強く残っているだけかもだが)家康さんにしてやられて真正面から戦っても大損こくと判断し直ちに新しい対抗策を実行しなければならなかった事情もあれど、今まで無冠で力が溜まっていた+お菓子が無限にあった感じなのもあってか速戦即決イケイケドンドンで宮廷の戦いは済ませているのはなかなか面白いwあと羽柴筑前って勝手に名乗っていただけだったんですね。
今回は「イイね率」が高いですね現状、視聴回数の1割これは他の動画で見ても結構高い割合になります(個人的調べ)動画を見て、その理由に合点が行きました😊
征夷大将軍(蝦夷を討伐する為の総大将=武家の棟梁)は源氏か平家の血筋限定で百姓はダメ、考えた秀吉は足利義昭の養子になろうと画策したが、義昭は百姓を養子にしては一門の名折れ!と秀吉の要請を断った、これで秀吉の征夷大将軍の夢は梅雨と消えた。
将軍❓義輝、義昭、を横で見ていたらなりたいとは思わないです🤔
あの辺の時代、関西圏一帯を抑えているだけでも「天下を取った」と見なされる時代だったのね。まあ、関西圏と言うと、古くより【古代帝都】というのが置かれていたという時代背景があるしなぁ‥‥。古代帝都が置かれていたわけでもない他の地方で有力となっても、所詮は「田舎大名」でしかないという事なんでしょうなぁ‥‥。
征夷大将軍となる為には源平の血筋でないと無理でした。そこで朝廷に💰️をばらまき豊臣と言う姓を無理やりつくり関白になりました。
面白かったです。ただ、新しい事が薄くて…
秀吉が征夷大将軍にならなかった最大の理由。このときまだ征夷大将軍は足利義昭です。義昭が将軍職を返上するのは秀吉の惣無事令の後ですね。それまで頑なに義昭が地位を捨てようとしませんでした。幕府体制の肝は右近衛大将の職よりも、淳和院別当の地位でこの役職は天皇の勅許を筆記する役職です。まずはこの地位を利用して法令を発布し支配体制を作る必要があったわけです。秀吉が将軍より関白を狙ったのは「急いでいた」からとしかいえないでしょうね。
最近従一位を賜った方は二階級特進的な意味合い?
秀吉の知ってる武家政権平氏 織田 短命源氏北条 東国ローカル政権足利 義満義持時代以外は政権の体をなしていない史上初めて全国を統一した秀吉から見ればどれも大したものではなく見えたのかも
秀吉は源平合戦における平清盛と欧州の海外進出を念頭に入れて、関白を選んだのではないでしょうか。平清盛は海運の平氏の棟梁として海外展開を志向し朝廷内で権威を増そうとしましたが、既得権益層の反発により失脚、既得権益層(農業主体の封建領主達)のトップとして源頼朝が天下人に選ばれたのが源平合戦だったと考えています。当時の航海技術や経済環境であれば鎖国が可能だったため、対外投資により市場創出を志向する秀吉より、源氏を名乗り既得権益層の代表者として振る舞う家康の方が正しかったとも思いますが。
近衛前久が秀吉を猶子とするメリット 二条家+九条家+鷹司家 VS 近衛家これが 二条家+九条家+鷹司家 VS 近衛家+秀吉となり身方ができる(二条家はもちろん九条家も鷹司家も当主は二条晴良の息子)
羽柴がにわとしばたからとったて、一級資料には、ないですね。そうじゃないかって、想像ですよね。それに当時は、幕府って観念ないですよね。
関白の方が少しは気楽で秀吉にしたら魅力があったからだと思う。
清盛(公家化)→頼朝(幕府)秀吉(公家化?)→家康(幕府)この構造がとても似ているのが興味深いですね。もっとも家康は吾妻鏡オタクなので踏襲していそうですが...
姓(かばね)は、位では?豊臣とかは、氏(うじ)では?
昔はそうでしたが時代と共に形骸化して混合していく節がありますね、姓である藤原朝臣も藤原氏を名乗ってたりしてますし。
豊臣は、下賜された、源平藤橘以外の姓ですよね
近衛前久の養子になって、藤原秀吉になったんだっけ
下層民の出ってのは、広く知れ渡れてたし、源氏で無かったしね。それと、次の関白、誰にするって揉めてたのを、掠め取ったって話しは伝わってたし、聞いたけれども、その折、豊臣って姓を、作ったっんですが、
豊臣の姓を朝廷からもらったのなら「の」が付くはずだよね「豊臣の秀吉」が正式の呼び方だったのかな。
当時の征夷大将軍は足利の家職みたいになってたからそれを嫌がったんですかね
将軍より関白のほうが偉いからw
従五位下「じゅごいのげ」って読むんじゃないの?
小学生のときに秀吉が幕府を開かないのが不思議で先生に聞いてもうやむやにされたのを思い出しました。
疑問が解決しました。
ありがとうございます!
やはり征夷大将軍になれなかったのが秀吉の負けでしたね‼️やはり征夷大将軍となった家康の勝ちでしたね〰️😃平清盛と源頼朝が天下人となり、平家と源氏が交代するというルールができあの信長ですら「我は平家なり」などと宣っていました。
なぜ将軍にならなかったのか、ではなくて何やかんやあって関白になれてしまったから、身分を下げてまで将軍になる必要がなかっただけだよ。
朝廷内の序列は天皇(上皇)
「関白 豊臣の秀吉である!」
の、が大事なんですよね。
知ろうとしないとわからない事って多いんだなと、大人になってつくづく思う
そして知らない事を知ることは楽しい
今回有名な「関白秀吉」の流れがよくわかりました❤
旭姫(字あってるかな?)のことも知りたいです
(今回健気で泣いちゃったー)
わかりやすかったです。
今回の大河は、一番泣きました。辛いのに明るく振る舞う旭様😭数正の築山殿を思わせる押し花🌸皆の「あほ、たわけ」😭😭😭心に残る回でした。先生の数正予想がピッタンコでしたね👏 田楽を食べるシーンが懐かしかった❗昔は桜の頃になると「菜飯田楽」の屋台が出たりしました(*^^*)
おもしろかったです😸
ありがとうございます🐈
どうする家康観たよ、今回は、まさに、神回、かずまさんは、やっぱりいい人でした。かずまさんです。涙が止まらなかった位感動しました。
月曜に大河浸れるの嬉しい
かつて大河 真田丸で、家康が上洛した際に秀吉が「とよとみの〜ひでよしである」と「の」を入れて名乗っていたのは、そういうことなんですね。
秀吉が征夷大将軍にならなかったことについて、当時は源平交代思想があり、信長が平氏を称していたから次の天下人は征夷大将軍でよかったわけだけど、秀吉が源氏でないことは明らかだったので、考えた末に関白の座を狙ったと、小学生の時に読んだ本にありました。
それも納得する説でしたが、今回のきりゅうさんの征夷大将軍ではもっと高い官位の人が出てくるから最上位に、という説はさらに納得しました。
それとは別に、近衛前久は何となく源仲章に似ていると個人的に感じています。
なので近衛前久を生田斗真くんが演じてくれたらと密かに期待していました笑
今回もむっちゃ分かりやすくてためになりました!✨
秀吉の出自とキャラならそうなるかー、とすごく納得です。
いいとこのボンボンだったら、思いつきもしないし恥知らずと思われると言えないようなことをやってしまう秀吉凄い。
けど、結局ほぼ一代限りになってしまうとは歴史の皮肉。。
😢❤😢❤
真田丸で、「豊臣『の』秀吉であーる」と見栄を切ったシーンで、「姓だから『の』が入ってるよ〜」と盛り上がったのが懐かしい
今回の話は、スゴく面白かったです✨最高です✨
近衛前久といえば麒麟が来るの本郷奏多くんをおもいだします。
この時に変わったお公家さんというのを知ることができました。
秀吉が関白を選んだのは、京都を追放された足利義昭が朝廷に将軍職を返上していなかったのも大きかったと思います。1573年から1588年まで、「鞆(とも)幕府」と称して、しぶとく将軍を名乗っていましたからねw 秀吉は足利義昭に多少の畏怖と、めんどくさい人だなあ、というのがあったような気がします。動画とても面白いです!
信長が朝廷から三職推任で征夷大将軍・太政大臣・関白の何れかに就くよう打診されているので、秀吉もその気なら足利義昭に将軍職返上させて自分が就任するのはさほど難しくはなかったと思います。
単純に別件で関白になってしまったので、わざわざ将軍になる必要がなかったのだと思われます。
名字と姓‥秀吉の件で学ぶ事が出来ました🙏‼️冠位とか、まだまだ勉強不足なので、その辺りもいつか解説お願いします😅
😮何故か、最近の、大河、泪、泪、泪を、流しながら、観ています。歴史、好き❤️です。❤
歴史好きですが、今年の大河は設定が滅茶苦茶。 色々ツッコミながら見てます。はじめの 瀬奈(仮の名)と 家康の関係からおかしい。
秀吉さんは先祖が源氏と証明できなかったから将軍にならなかったと思っていました。近衛前久は「麒麟がくる」で本郷奏多くんが演じていましたね。美しくて、いい感じに変わり者感がはまっていました😍
木下藤吉郎秀吉ならば、
なら何かい?
坂上田村麻呂卿は源氏なのかい?
って言うかもね。
本当、
足利氏、徳川氏が幾百年掛けて行なった、
征夷大将軍は、源氏の独占!
って、洗脳工作を否定し、解除するために、
桓武天皇白壁陛下の御世に、
東北地方で蝦夷征伐に活躍した
征夷大将軍、坂上田村麻呂卿のことを、
明治新政府は日本史教育で、大きく宣伝しましたよね。
徳川様は源氏長者に大金を払い源氏の姓名を飼いました。若い頃から準備をしていたのでしょうか⁉️あの信長は「俺様は平家である‼️」と主張していたそうです。
@@菅沼域雄 様
秀吉さんは身分が低すぎましたね。
@@井出俊哉-m9f
それは天下人になろうとしたからではなくて、領国の三河は非常に荒れていて家康の立場は不安定だったのよ。
で、朝廷から正式に「三河守(三河領主)」に任官してもらえば反乱分子に対して服従命令も出せるし、それに逆らえば朝廷権威を蔑ろにする不届き者と言うことで弾圧も出来る。
ところが秀吉ほどではないにしろ家康の松平家も出自がよく分からない家系なので三河守の官職がもらえなかった。
そこで家系図をくまなく探し(或いは書き換えて)ものすごーく遠縁の得川さんという源の系譜の人を発見したわけ。
それで改めて「自分は源家の末裔得川氏の血筋なので三河守に任官させて下さい」とお願いしたところ「ならばよし」と言うことで三河守に就任する事が出来た。
で、字が悪いと言うことで「得川」を「徳川」に改姓したわけ
後にむしろ「将軍になって下さい」とお願いされる立場になった家康も三河領主時代はそれくらいの扱いだったわけですね。
いつも楽しく観てます😊
今回は本当に勉強になりました。ありがとうございました♪
これはおもしろい!説明めっちゃかみくだいててわかりやすかったです。池波正太郎さんの小説で、秀吉は足利義昭に養子にしてくれって言ったけど義昭に断られて征夷大将軍になれなかったみたいなことも書いてありました。
かしましトリオの皆さん動画ありがとうございます。きりゅうさんの後ろの千日紅?赤いからキャンディーポップかな?可愛く咲いてきましたね。😊さて私は学校で安土桃山時代という言葉は習いましたが良くわかっていません。😂安土は安土城を作った信長の頃のことだとすると、桃山は秀吉のころでいいのでしょうか?何故桃山と呼ぶのか知りたいです。ラットさん喉早く治るといいですね。
こんばんは。「豊臣」という姓は本当にセンスがいいし、美しいと思います。正親町天皇(私の中では麒麟の玉三郎さん)、さすがです。ただ、姓が素晴らしすぎて、秀吉と釣り合ってないように思えてならない自分がいます。秀吉さんごめん🙏。その名前がダメなのではなく、感覚がしっくりいかないのです。重ね重ねごめん🙏
いつも楽しく拝見させていただいています。
確か家康も将軍職に、なるときに源氏長者の称号?を、さだしだして将軍になったと、
読んだことがあります。
無秩序な時代と思っても、ルールは、あるんですね。
「どうする家康」でも源氏長者のはなしがあるとうれしいです。
探し出してです うちまちがえです
毎回とても楽しいです
いつも思うのですが
おまけが
特に楽しいです
関白になったのは成功だけど、次世代は将軍にして関白は摂関家に返しておくべきだと思ってる。将軍以外の高官を兼任させて。これなら子供でも継げる。関白は難しそう。
それに五摂家は関白を取り戻そうと陰に日向に画策するアンチ豊臣になるだろうし。秀吉は死ぬ前に秀頼を将軍にしておくべきだったかな。
今回も面白かったです! 秀吉が「関白」の地位を希望したのは、信長の最終的地位の「正二位右大臣兼右近衛大将」より上を望んだからだと思ってました。
いやはや、今回も面白かった〜😳✨豊臣が性だとか、何故その名前になったのかは知らなかった!!🤔征夷大将軍にならなかった話はテレビで見た覚えがあるけど、きりゅうさんの分かりやすい解説でまた聞けて良かった😆過去動画で藤原家の話をしてる動画見たばかりだったし、より分かりやすかったです✌️😁
秀吉は源氏じゃないから幕府を開けなかったと思い込んでました!
そんなに深い理由があったとは知りませんでした!
豊臣姓は褒美として色々な人に名乗る事を許していたので
家康の徳川と違って独占したという感じではないですね
大変興味深いお話でした。ありがとうございます😊
さすが秀吉公。
「とにかく一番上の臣下になっとこう!」って人臣の頂点として『帝の代理人』になっちゃうなんて。
逆に家康公は幕府を開いて朝廷の部外者として取り込まれることなくコントロールするのは本当に対照的ですね。
麒麟がくるでも近衛前久は印象的な役でしたね。
関白の仕事・権限ってどのくらい大きいんでしょうか?
地震のお陰で戦にならなかった家康さんを運が良いって言ってたけど、
今日のお話聞いてると
やっぱ、秀吉も運もってますよね
この時期は唯一の跡継ぎの羽柴秀勝も死んじゃったし災害は当時の統治者の出来不出来の評判にもなりますしね(勝頼は浅間山噴火で評判地に堕ちて皆逃亡・裏切りで碌に戦えずに滅亡あっけなかったし…) お互いに幸運だった
お~~。 「豊臣」の話、初めて聞いた。
いつも楽しくみています!
そもそも幕府を開くというのはどういうことなのか…というところから教えて頂けると嬉しいです😂
一応、足利義昭がまだ将軍職を返上してなかったってのもあるかと。上級官職についてはそのへんの重複、気を使ってますからね。でも「権将軍」とか、あり得たのかな?!聞いたことないけど
「姓と名字が違うもの」😳だなんて‼️
初めて知りました‼️
豊臣秀吉公は、明治維新以前で言えば日本史上で唯一の中央集権政府を成立させたんだと、私は思っています。
その象徴が「豊臣姓」なのでしょう。
徳川も毛利も上杉も(全部名字)、全部「豊臣姓」にしたという説もあるようですし。
つまり「豊臣徳川(又は羽柴)家康」という時期があったらしいと。
まあ、義弟ですしね。
これは、朝廷政府の外に将軍の治外法権的決裁権を利用した私的政府を作る「幕府型」とは全く異なる政権のあり方です。
朝廷政府そのものを支配する豊臣政権は、同時代に誕生した欧州型主権国家と同質の物が突然生まれたかのような中央集権型政権に見えます(太閤検地など)。
しかし日本の「世間」には理解できなかったらしく、定着する事なく封建制へ逆戻りしていくのですけれど…(江戸幕府は内容的には中央集権寄りだけど、やはりどこまで行っても封建体制国家なのだろうと思います)
近衛前久って聞くと大和和紀の「イシュタルの娘」を思い出しましすね。読み直そ〜
大河の「秀吉」だったかな?「源平藤橘に並ぶ、「豊」の姓を賜ったことになります」的なセリフ、とても印象的に覚えています
羽柴秀吉の「筑前守」は正式なものじゃなかったんですね。
織田家でも有力武将は正式に官位をもらっていたのかと思ってました💦
確か筑前守は朝廷から出してもらってたと思いますが…。
この時期は既に信長が直接朝廷と交渉出来ていたので、朝廷から発給してもらったという話だった認識です。
今日も楽しい解説ありがとうございます😁秀吉さんが豊臣姓にした話勉強になりました😃
明風の出で立ちは明の使者から明の太祖 朱元璋の生い立ちを聞いて大変お気に入りになったのではないかと思います(妄想)
なるほど!家康がなぜ豊臣を根絶やしにしようとしたのか分かった気がしました!
豊臣が姓、羽柴が名字 別物なのねー😮😮😮
勉強になります。豊臣の由来っていうか 誰が決めたんでしょう?天皇さんが付けてくれたのかしらん?
いつも楽しく拝聴しています。とある歴史番組で秀吉は武士のトップの征夷大将軍になりたかったけど。小牧長久手で家康に負けているので朝廷が拒否した、それで関白を狙いに行った、と解説していたのを見ました。いろんな説があるのでしょうか?それとも史実でしょうか?
家康の先祖も新田と言われていますが、家系図を本物の新田家にお借りしたらしい。
明治時代になって岩倉具視の奥さんは新田さんでしたが、新田さんの庶流だったので、その先祖が新田家の家系図を貸すのを反対して本家は高家になったのに反対した新田さんは石高20石。露骨に忖度した家康(笑)本当に源氏だったのかも怪しいもの。
さりげなく私の疑問(天下人ってなに?)答えてくださってありがとうございました😆‼️
私も、元々武士じゃなかったから将軍にならなかったのかと思ってました。金だ金だな🤑と思い込んでたので、どんだけ公家って貧乏やねん!とずーっと思ってました〜。好き嫌いはともかく、天才やなぁ秀吉は!(◎_◎;)としみじみ思ふ
「瀬名は花が好きなたおやかな女だ」と以前家康が言っていましたが、数正が持っていた押花で皆が瀬名を思っていましたね。
あと、きりゅうさんが前回のラストに鍋が一瞬立ち止まって何か振り返るような仕草をしていたのを「瀬名があらわれたのでは」と言っていましたが、今回花を生ける鍋の場面でもなんとなくそんな感じがしました。誰かを思って花を生けているような気がして。
徳川家康が征夷大将軍が一番偉いシステムに改革しちゃったけど、秀吉が生きていた頃は関白が征夷大将軍よりも偉かったから
秀吉が関白になったのは1585年ですが、足利義昭は1588年まで征夷大将軍をやっているので、それも影響したのではないでしょうか?
『麒麟がくる』で、近衛と二条の対立、描いてましたよね。で、これが続編。「戦国最強の公家」の為せる技
まだ最後まで見てませんが、江だと確か足利義昭の養子になろうとして断られたからだったような気がします。
明風の衣装は「独眼竜政宗」で勝新さんも着てましたなぁ。
信長も名字は織田で、姓は平ですよね。秀吉がオリジナルを欲したのは、わかる気がします。
いつどうして羽柴から豊臣になったんだろう?、家康さんがわしは源氏でとかなんとか言ってたシーンはどういう意味?、の2つの疑問が解けました。
そうか、豊臣って名字ではないんだ。
てことはフルネームで言うと関白豊臣朝臣羽柴秀吉って感じ?
だから大河で書状で書かれてた秀吉の事を羽柴って書かれてたのね。納得しましたー
素晴らしい語りべです。❤
豊臣姓に関する私見
大阪には豊島(てしま)という古い地名があります。大阪・大坂・浪速よりも古い、記紀にも現れている地名です。現在の大阪にも豊島は「てしま」「とよしま」という読みで残っていますし、豊能(とよの)・豊中(とよなか)・豊津(とよつ)など、豊島由来の地名も残っています。豊能はこれまた古い地名の能勢と併さった地名。豊中は「豊島の真ん中」、豊津の津は「港」の意味。この大阪の地名である豊島と臣下の臣を組み合わせて「豊臣」姓が作られたのではないかと思います。
伊丹空港から少し北側の池田市の豊島ですね。東京目線だと、「としま」って読みがちですもんね💦
エンディングがSFチックなのとお囃子っぽいのとありますが、なにか使い分けておいでなのですか?
近衛文麿が太平洋戦争開戦時の総理大臣だったから近衛家の関白の歴史は永いですね。
1941/12/8時点だと東条先生に変わってるけど、まぁ10年以上に渡って国民を戦禍に陥れる最終決定は近衛がやってるか👎
今も近衛家は歌会始の儀にでてますよ
秀吉の関白就任は、簡単に言えば「大枚をはたいて手に入れた」関白。
大河ドラマ『春日局』で、主人公の福(後の春日局)が山崎の戦い後に身を寄せていた三條西家の当主・公国が
「銭で買うた関白よ...」
と複雑な胸中を吐露していたのが印象的でした。
秀吉が関白の宣下を受けた時(1585年)、まだ足利義昭が征夷大将軍の地位にあったから征夷大将軍になれなかったと思っていました。(足利義昭が征夷大将軍を辞めるのは1588年です)
以前の大河で秀吉が将軍になろうとして足利義昭の猶子にしてくれって(お金を積んだけど)頼んで断られて将軍になれなかったので近衛前久の猶子になって関白になった記憶があります
(秀吉役竹中直人、足利義昭役玉置浩二)
足利秀吉になっていたらまた歴史は変わっていたかも⁉️
秀吉の子を足利義昭の養子にしていたら、自分は大御所としてそのまま幕府を継承しても誰も文句は言えなかった。征夷大将軍は世襲だったので、武家は全て征夷大将軍の配下となるので、関ヶ原も大阪冬・夏の陣もなし。
かしましとはどういう意味ですか?
こんばんは❣️
今回の動画を見終わった後に映画『関ヶ原』(原作:司馬遼太郎)を観て動画の予習復習をしています。気になることがあるので、ここに書かせて頂きます。
冒頭部分の1588年と1595年。年号とともに2つの事象が紹介されています。
1588年。滝藤賢一演じる秀吉が『どうする家康』で信長を演じた岡田くんの三成に唐入りを示唆するセリフがあります。
1. この頃から、秀吉は対外戦争の野心があったんでしょうか?
1595年。この後の伏見城で西岡徳馬演じる前田利家(レジェンドでは和田正人さん)が『太閤関白との間でいつ戦が起きてもおかしくなかった。金銀を朝廷に献上なさった秀次様は関白職を辞し、高野山に出家されたが、謀反の兆しは衰えることなく、太閤殿下は福島正則の軍勢をけしかけて包囲したことで秀次様は切腹なさった』と諸大名に話しています。
2. 秀吉と秀次の関係って戦争状態になるほど緊迫していたんでしょうか?
『家康』に絡めますが、小牧・長久手の戦いで三河中入りの総大将を務めた人=上記の関白秀次なのですか?
秀吉が一方的に因縁吹っかけているようにも取れます😢
3. 朝廷に金銀を献上した意味がよく分からないので教えてください。秀次は何のためにそんなことをしたのですか?
役所広司演じる家康も『秀次様の侍女や和子など、謀反人の血は絶やさねばなりませぬ』と言っていました。この侍女の1人が『家康』の正室、瀬名姫を演じた有村架純です。
4. 禍根を残さないためとは言え、皆殺しにする必要があったのでしょうか?
ここら辺の経緯はあまり詳しくないので教えて欲しいです。
贅沢を言うようですが、注釈もつけて貰えると助かります(*^^*)
征夷大将軍にならなかったのは、関東を手に入れられなかったからと、聞いてました。しかし、関白になって、朝廷を乗っ取るのはさすがですね。
なるほどなるほど🤣
ラットさん 最近鋭い
氏姓は氏姓制度(うじかばねせいど)の事?山川出版社の高校日本史用語集で見た記憶があるようなないような…。
秀吉、根回し上手いな。権威の使い方も上手い。武士というよりは政治家だね。
3週間前にアップされた戦国kobanashiチャンネルの内容にソックリですね。
「秀吉はなぜ『関白』に、そして「豊臣」になったのか? #どうする家康」
ruclips.net/video/rM7ymgEeabo/видео.htmlsi=6neOm2f3o0dXmg83
身分コンプレックスでしょうw
信長同様、どれでも選べたはずですよ。
幕府は源氏でないと開けないなんて朝廷の常識には無いw
平清盛(たいら の きよもり)
源頼朝(みなもと の よりとも)
豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし)
春日局(かすが の つぼね) って感じですよね。
奄美黒兎(あまみ の くろうさぎ)
月輪熊(つき の わぐま) とかね。
微妙なボケなので、誰もツッコミ入れてくれないのが悲しい。
ただこれで「武家の棟梁」とは言い難くなっちゃいましたよねー。武力は天下一だけど朝廷側、みたいな…。
質問なんですが、正確には豊臣羽柴秀吉てことになるんでしょうか?
日吉丸→藤吉郎→木下藤吉郎→羽柴秀吉→平秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉
秀吉君は名前いっぱい変えております
羽柴を名乗った理由は、通説では柴田と丹羽から一文字つづもらったとなってますが、あくまでも通説ですよね。羽柴は元々「端羽」のことで、単なる当て字、という説もあります。
お公家さんの養子になるというプロセスを経て関白に
なっていることから関白/摂政は公家の特定の家系の者しかなれない
官位なのかなと思いました。太政大臣であれば武家のままでもなれた
ようですが(平清盛、足利義満、徳川家康)公家になったせいで
武家のトップである官位の征夷大将軍になれなくなったのかも。
秀吉は関白になることによって朝廷が大名に官位を授ける制度に
縛りを入れたかったのかも。一方、徳川幕府は別のアプローチ
(公家諸法度?)で関白にならなくても縛りを入れられる方法を
取ったっぽいです。
家康も三河の小大名だが、まだ家系操作ができる状況。
でも秀吉になると周囲も下層の出身だと分かっているから、将軍のいちおうの
資格となっている源氏の家系だという操作も面倒だし、それなら金で摂関家の
権利を得るほうが手っ取り早く、関白は天皇の政治代行者で朝廷の最高位だから
将軍なんかよりも遥かに上位で、秀吉の気質からすると将軍より関白…でしょうね。
源頼朝は朝廷と一線を引きたい…と思っただろうからあえて征夷大将軍に…だと思い
ます。足利尊氏もしかりですよね。
秀吉、関白の辞令(宣旨)
豊臣秀吉に対する関白の辞令は2種類が伝わっています。
1通目は勅書による辞令
2通目は宣旨による辞令
1通もあれば十分ではないか?と思うのは現代的な考え方でしょうが
手続を重視する往古ではこういったことが慣習化されていました。
今回は宣旨による辞令を紹介します。
權大納言藤原朝臣淳光宣
奉 敕萬機巨細宜令内大臣
關白者
天正十三年七月十一日
掃部頭兼大外記造酒正助敎 中原朝臣師德奉
(出典)関白宣下一會、足守木下家文書
(訓読文)
権大納言藤原朝臣淳光(柳原淳光 45歳 正二位)宣(の)る
勅(みことのり 正親町天皇 59歳)を奉(うけたまは)るに
万機巨細(ばんきこさい 天下の政治の大事・小事に関わらずの意)
宜しく内大臣(藤原秀吉 50歳 従一位)をして関白にせしむべし者(てへり)
掃部頭兼大外記造酒正助教 中原朝臣師徳(押小路師德 59歳 正四位上)奉(うけたまは)る
おサル、戦場では(特に城攻め)囲い込みや派手な工作をしての水責めでジワジワと攻めて行く印象があるのに(たんにかつえ殺し、備中高松、三木、小田原が強く残っているだけかもだが)
家康さんにしてやられて真正面から戦っても大損こくと判断し直ちに新しい対抗策を実行しなければならなかった事情もあれど、今まで無冠で力が溜まっていた+お菓子が無限にあった感じなのもあってか速戦即決イケイケドンドンで宮廷の戦いは済ませているのはなかなか面白いw
あと羽柴筑前って勝手に名乗っていただけだったんですね。
今回は「イイね率」が高いですね
現状、視聴回数の1割
これは他の動画で見ても結構高い割合になります(個人的調べ)
動画を見て、その理由に合点が行きました😊
征夷大将軍(蝦夷を討伐する為の総大将=武家の棟梁)は源氏か平家の血筋限定で百姓はダメ、考えた秀吉は足利義昭の養子になろうと画策したが、義昭は百姓を養子にしては一門の名折れ!と秀吉の要請を断った、これで秀吉の征夷大将軍の夢は梅雨と消えた。
将軍❓義輝、義昭、を横で見ていたらなりたいとは思わないです🤔
あの辺の時代、関西圏一帯を抑えているだけでも「天下を取った」と見なされる時代だったのね。
まあ、関西圏と言うと、古くより【古代帝都】というのが置かれていたという時代背景があるしなぁ‥‥。古代帝都が置かれていたわけでもない他の地方で有力となっても、所詮は「田舎大名」でしかないという事なんでしょうなぁ‥‥。
征夷大将軍となる為には源平の血筋でないと無理でした。そこで朝廷に💰️をばらまき豊臣と言う姓を無理やりつくり関白になりました。
面白かったです。
ただ、新しい事が薄くて…
秀吉が征夷大将軍にならなかった最大の理由。このときまだ征夷大将軍は足利義昭です。義昭が将軍職を返上するのは秀吉の惣無事令の後ですね。それまで頑なに義昭が地位を捨てようとしませんでした。幕府体制の肝は右近衛大将の職よりも、淳和院別当の地位でこの役職は天皇の勅許を筆記する役職です。まずはこの地位を利用して法令を発布し支配体制を作る必要があったわけです。秀吉が将軍より関白を狙ったのは「急いでいた」からとしかいえないでしょうね。
最近従一位を賜った方は二階級特進的な意味合い?
秀吉の知ってる武家政権
平氏 織田 短命
源氏北条 東国ローカル政権
足利 義満義持時代以外は政権の体をなしていない
史上初めて全国を統一した秀吉から見ればどれも大したものではなく見えたのかも
秀吉は源平合戦における平清盛と欧州の海外進出を念頭に入れて、関白を選んだのではないでしょうか。
平清盛は海運の平氏の棟梁として海外展開を志向し朝廷内で権威を増そうとしましたが、既得権益層の反発により失脚、既得権益層(農業主体の封建領主達)のトップとして源頼朝が天下人に選ばれたのが源平合戦だったと考えています。
当時の航海技術や経済環境であれば鎖国が可能だったため、対外投資により市場創出を志向する秀吉より、源氏を名乗り既得権益層の代表者として振る舞う家康の方が正しかったとも思いますが。
近衛前久が秀吉を猶子とするメリット
二条家+九条家+鷹司家 VS 近衛家
これが
二条家+九条家+鷹司家 VS 近衛家+秀吉
となり身方ができる(二条家はもちろん九条家も鷹司家も当主は二条晴良の息子)
羽柴がにわとしばたからとったて、一級資料には、ないですね。そうじゃないかって、想像ですよね。それに当時は、幕府って観念ないですよね。
関白の方が少しは気楽で秀吉にしたら魅力があったからだと思う。
清盛(公家化)→頼朝(幕府)
秀吉(公家化?)→家康(幕府)
この構造がとても似ているのが興味深いですね。もっとも家康は吾妻鏡オタクなので踏襲していそうですが...
姓(かばね)は、位では?
豊臣とかは、氏(うじ)では?
昔はそうでしたが時代と共に形骸化して混合していく節がありますね、姓である藤原朝臣も藤原氏を名乗ってたりしてますし。
豊臣は、下賜された、源平藤橘以外の姓ですよね
近衛前久の養子になって、藤原秀吉になったんだっけ
下層民の出ってのは、広く知れ渡れてたし、源氏で無かったしね。それと、次の関白、誰にするって揉めてたのを、掠め取ったって話しは伝わってたし、聞いたけれども、その折、豊臣って姓を、作ったっんですが、
豊臣の姓を朝廷からもらったのなら「の」が付くはずだよね「豊臣の秀吉」が正式の呼び方だったのかな。
当時の征夷大将軍は足利の家職みたいになってたからそれを嫌がったんですかね
将軍より関白のほうが偉いからw
従五位下
「じゅごいのげ」って読むんじゃないの?