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忠輝が改易されたあと、佐渡金山の積出港出雲崎町が明治まで天領に、長岡藩など小藩が次々と立藩し、忠輝の領域だった松代に真田幸村の兄信之が回されました。忠輝改易から明治維新まで一貫して国替えなしだったのが、長岡藩の牧野氏と松代の真田氏ぐらいでした。
「独眼竜政宗」の真田広之の忠輝が印象深い。父の家康役は、津川雅彦。あの忠輝は心の中では父を慕っており、家康もまた、自らの死期が迫る中で忠輝に会いたいという気持ちを殺して面会を拒んだ場面は切なかった。
松平忠輝役、千葉真一サン、主役で、やった、それも、テレビ東京、大阪で、徳川無頼帳、忠輝役、千葉真一サン、柳生十兵衛役、西城秀樹サン、今や、亡くなられて、惜しい、俳優サン。
同じく
忠輝は真田広之さんの印象が強い。
やはり、伊達政宗の娘を娶り野心的な政宗が義父だったことで、痛くもない腹を探られたような気がします。秀忠に唯一の対抗できる存命の成人男性というポジションも、不運でした。年少の3人の弟のように年が幼ければ、逆に共に徳川家を盛り立てて行く存在として、秀忠も寛大に接したでしょう。忠輝の立ち位置のため、彼を中心にする勢力ができてしまい、そこに政宗、大久保長安らが加わり、無視できない集団となってしまい、秀忠側は脅威に感じた理由も頷けます。そのため、勢力を削ぐ目的で長安事件を利用したのでしょう。大坂の陣でも、豊臣家やキリシタンと結ぶのを恐れ、忠輝を江戸留守居役としたのは、万が一の家康秀忠の死を想定してというより、災いの種を早めに摘み取ったように感じます。忠輝にさほどの野心などなかったかもしれないのに、気の毒になります。改易後も綱吉の時代まで生き、91歳での死とは驚きました。預け替えとなった高島城での日々を、どのような思いで過していたのかと思うと、ちょっと切ないですね。
秀忠の次に年長の松平忠輝と舅の伊達政宗の繋がりが、家康亡き後の秀忠政権に与える影響を鑑みたら、「泣いて馬謖を斬る」では無いが、忠輝を改易して後顧之憂を無くしたのだろう。赦免が無かったのも、後の家光・家綱政権も才気煥発な忠輝を赦免したら不安だったのではないか❔
忠輝はあまりにも不憫ですが、忠輝が家康死後に秀忠と共存する未来が見えないのも事実で正しい処置だったんだろうなと思いました…
義父の伊達政宗が厄介だったので、やむに止まれず忠輝を改易に…これが本筋かもしれませんね、秀忠政権に伊達政宗と忠輝では秀忠もお手上げにならざるを得ない
家康は忠輝に戦が何度もできる程の金を忠輝に与え、その噂を流布し、忠輝伊達キリシタンVS秀忠幕府の力を均衡させ大戦争を抑止したんだよ。秀忠は家康の亡きあと戦で勝ち歴史に名を残したいとでも思ったんだろけど家康はお見通し、コンプレックスバカ
自害させられた家光の弟と比べると、まだ優しい。家康が最後に面会謝絶してくれたおかげなのかな😿
その子供「オレの名前は引導代わりだ!」
彼の不幸は家康という父を持ってしまったこと…次将軍秀忠を支える弟たちと同年代でなかったこと…東北の雄政宗を義父に持ってしまったこと…取り巻く家臣団が家康に警戒されていたこと…90年不遇で過ごした一生とはどのようなものであったか…次は忠輝のその後をお願い致します🙇
5代綱吉の時代まで生きてたのか…。なんか切ないな。
皮肉にも家康よりも長生きするとは.........
配流生活も地元民と交流したり子供を作ったり大名の格式で家臣が80名以上いるという生活で自由に満喫してるという
91才まで長生きしたのなら、家康が改易しなければ、伊達政宗やら幕府重臣に担がれ何かをやらかしたでしょう。秀忠では抑えることが難しいと家康は考えたのでは。
三河派閥の長男信康、秀吉に近かった次男秀康の二人を不要と切り捨てた家康が、この二人の処断理由を併せ持つような忠輝を活かしたと考えると晩年甘くなったのか後悔があったのかまたは、むしろ愛していた可能性はある(趣味:剣術の家康から見て奥山休賀斎の認可を得るほど剣術に達者で大阪の秀頼に加え伊達政宗、大久保長安とかいう癖の強い面々と交友可能な人望)
現在絶版中の隆慶一郎著「捨て童子」が読みたくなってきました。陰険な秀忠でなく陽気な忠輝が将軍だったらと想像してしまう。
捨て童子絶版なの?影武者徳川家康とのリンクも面白かったのに
図書館の文庫本コーナーを探してみたらいかがでしょう?
絶版なのか不都合な内容だから陰謀かもね
横山光輝の漫画がありますよ。
徳川幕府体制の見せしめだと思います、親類縁者に対しての厳正な処罰、外様大名達に対しての見本となす
その割にはやらかした秀忠は罰せられなかったな…本来なら秀忠のやらかしも厳罰ものだけどな
@@もふもふ-x4p 関ヶ原遅延?
91歳まで生きたんですね。他の短命だった諸氏と比べると不遇だったとは言えない気がします。91歳の長寿を全うしたことは幸福な人生だったいえるでしょう。ストレスが多すぎればそんなに長生きはできません。
当初は金剛峯寺で酒も女もご法度だったけどそのあと諏訪に移されてからは悠々自適に暮らしてたみたいなのでストレスは無かったんでしょうね
元々多芸多才な人だったと言われてるから 趣味を楽しみつつ生きてたのかなと 後は政務や後継者問題は一切考えなくても良かったのでストレスも少なかったのかな
@@もふもふ-x4p @MUSASI40 お二方、コメントありがとうございます。秀忠54歳、家光48歳で逝去しており、針の筵の権力闘争の現場にいれば、ストレスで短命もやむなしで、その人生と91歳までの長寿全うは僕なら、忠輝の人生を選びます。
忠輝を題材とした時代劇といえば、松平健の『野風の笛鬼の剣』、千葉真一の『徳川無頼帳』を思い出します。
どうするには出てこなかったけど伊達政宗を取り上げて欲しい。
政宗は家康の生涯を語るのと同じで、皆さん知っていることをつらつら話すだけになりそうなのであまりやりたくないなという感じです…すみません…
性格で身を滅ぼしたにせよ、せめて御落胤などがいて、旗本復帰みたいな流れが有ったら…
忠輝、忠直、忠長、たまたまだろうが頭に忠の字が付くとよくなかったのか。
忠の名前が付く大名もかなり改易されてます。
松平忠輝も、豊臣家と同じく、秀忠政権への不満分子を集めて処断するためのシンボル役になったわけだなあ。家康は特に忠輝を寵愛も憎悪もしておらず、家康の意向などほったらかして、幕府運営サイドの意向で、秀忠・家光政権の安定化のための人柱として利用されたような印象。
隆慶一郎氏の著作「捨て童子・松平忠輝」は面白いですよ「影武者徳川家康」から続くプロットです
「葵徳川三代」では、伏見城が攻撃される前に、三本木の北政所の屋敷に避難していましたよね。
皆川から直訴されたのが大きいような育ての親に無理と言わせてしまうと
忠輝失脚後、皆川広照は赦免され常陸府中で1万石の大名に復帰してます。
家光と頼宣、義直の関係とか取り上げて欲しいですねやけに険悪なイメージがあるので
義直、頼宣と家光は御三家とは名ばかりで結構バチバチしてて、家光は頼房を頼りにしたとはされていますね。御三家はやりたかったのですが迷い中です
正当化のために誹謗中傷された人々が多い。
宝塚歌劇花組公演「野風の笛」の轟悠さんの忠輝が印象的です。
生まれた時代を間違えた人だ
甥の徳川忠長(1609-34)と組んで家光に取って代わる可能性はあっただろうか
武家の血縁関係は複雑で解りにくいです。
容姿と母の身分が原因で愛されなかったと言われたところは兄秀康と似ている。本人たちも非がなかったとは言い切れないにせよ、秀康と言い忠輝と言い、家康は変に我が子に冷たい感がある。「どうする家康」よりも冷酷だったのかもしれない。
家康は生まれてきた子が美男美女じゃないと露骨に嫌悪感示して冷たくしたって言うからね秀康や忠輝が冷遇されたのはそのせい一方九男の義直は家康が絶賛するほどのイケメンだったらしく家康の息子の中で一番家康に可愛がられたらしい
メチャクチャかわいそうな人やん。
切腹させられた長兄に比べて一族中で90代まで天寿を全うしましたから悠々自適だったのでしょう😊
大阪の役は実の所、キリシタン絶滅戦だった?
松平忠輝は13歳年上であり異母兄である秀忠をどのように見ていたか?
「捨て子童子」という作品があったなぁ。
まあ、こうやって、やれるうちに きちんと不安要素を排除したから 250年続く政権を打ち立てられたのかなぁ。でも、個人的な気持ちで言うなら、大久保一族は排除したんだから許してやれよ、って思ってしまいます。63万石の石高が不味かったのか、義父が怖かったのか、それとも秀忠の力量が家康に比べどうしても不足してたのか………91まで軟禁というのは不憫だよなぁ………
現徳川宗家当主の方が忠輝の勘当を正式に解いた時に、どこぞの歴史家が勝手に歴史を変えるなとほざいてましたが、徳川家の事で徳川当主が決めた事を外野がゴチャゴチャ言うなって思った事を思い出しました
秀忠は武断統治した。自身が弱いから自分より強い奴を潰しまくったのかも。
個人的には葵徳川三代のイメージが強くて忠輝はただただ家康に嫌われていた印象でしたがいろいろと遠因があるようですね、そういえばどうする家康には名前すら出てきませんでしたねw
忠輝は信濃に配流さらてから丸くなった。だからはたしてふうぐうだつたのか
茶阿局と阿茶局、名前が似ているので紛らわしい。
茶阿は局ではない
どうした 家康…
大大名😅
不遇の割に長寿を全うしたのですね。
レキショック様忠輝は嫌われましたね。
家康の息子の忠輝結城秀康の息子の忠直秀忠の息子の忠長同時期に粛清されてて紛らわしい。
とにかく冗長で何言ってるかわからない。徳川家の人物だけでもややこしいのに、文字数稼ぎみたいに同じ名前、同じ事柄が連呼される。せっかくいい題材なのに、もう誰が誰だかわからん。相関図も名前が入ってないと、誰だかわからんかった。どう考えても手抜き過ぎだろう。よくこういった意見に対し、大事な歴史の話なんだからこうした批判は意味がないとする人もいるが、意味が通じなければ何の意味もない。ただ単に文章を短くして整理するだけで意味が通じやすくなるのにやってないんだから、今後に向けて批判されるべきだと思う。一文一意ぐらい考えたらいかがだろうか。内容的にもっと面白く見やすくなることを期待してます。
伊達封じの捨て石にされたのかな?
忠輝が改易されたあと、佐渡金山の積出港出雲崎町が明治まで天領に、長岡藩など小藩が次々と立藩し、忠輝の領域だった松代に真田幸村の兄信之が回されました。忠輝改易から明治維新まで一貫して国替えなしだったのが、長岡藩の牧野氏と松代の真田氏ぐらいでした。
「独眼竜政宗」の真田広之の忠輝が印象深い。父の家康役は、津川雅彦。あの忠輝は心の中では父を慕っており、家康もまた、自らの死期が迫る中で忠輝に会いたいという気持ちを殺して面会を拒んだ場面は切なかった。
松平忠輝役、千葉真一サン、主役で、やった、それも、テレビ東京、大阪で、徳川無頼帳、忠輝役、千葉真一サン、柳生十兵衛役、西城秀樹サン、今や、亡くなられて、惜しい、俳優サン。
同じく
忠輝は真田広之さんの印象が強い。
やはり、伊達政宗の娘を娶り野心的な政宗が義父だったことで、痛くもない腹を探られたような気がします。
秀忠に唯一の対抗できる存命の成人男性というポジションも、不運でした。年少の3人の弟のように年が幼ければ、逆に共に徳川家を盛り立てて行く存在として、秀忠も寛大に接したでしょう。忠輝の立ち位置のため、彼を中心にする勢力ができてしまい、そこに政宗、大久保長安らが加わり、無視できない集団となってしまい、秀忠側は脅威に感じた理由も頷けます。そのため、勢力を削ぐ目的で長安事件を利用したのでしょう。大坂の陣でも、豊臣家やキリシタンと結ぶのを恐れ、忠輝を江戸留守居役としたのは、万が一の家康秀忠の死を想定してというより、災いの種を早めに摘み取ったように感じます。忠輝にさほどの野心などなかったかもしれないのに、気の毒になります。改易後も綱吉の時代まで生き、91歳での死とは驚きました。預け替えとなった高島城での日々を、どのような思いで過していたのかと思うと、ちょっと切ないですね。
秀忠の次に年長の松平忠輝と舅の伊達政宗の繋がりが、家康亡き後の秀忠政権に与える影響を鑑みたら、「泣いて馬謖を斬る」では無いが、忠輝を改易して後顧之憂を無くしたのだろう。
赦免が無かったのも、後の家光・家綱政権も才気煥発な忠輝を赦免したら不安だったのではないか❔
忠輝はあまりにも不憫ですが、忠輝が家康死後に秀忠と共存する未来が見えないのも事実で正しい処置だったんだろうなと思いました…
義父の伊達政宗が厄介だったので、やむに止まれず忠輝を改易に…これが本筋かもしれませんね、秀忠政権に伊達政宗と忠輝では秀忠もお手上げにならざるを得ない
家康は忠輝に戦が何度もできる程の金を忠輝に与え、その噂を流布し、忠輝伊達キリシタンVS秀忠幕府の力を均衡させ大戦争を抑止したんだよ。秀忠は家康の亡きあと戦で勝ち歴史に名を残したいとでも思ったんだろけど家康はお見通し、コンプレックスバカ
自害させられた家光の弟と比べると、まだ優しい。
家康が最後に面会謝絶してくれたおかげなのかな😿
その子供「オレの名前は引導代わりだ!」
彼の不幸は家康という父を持ってしまったこと…次将軍秀忠を支える弟たちと同年代でなかったこと…東北の雄政宗を義父に持ってしまったこと…取り巻く家臣団が家康に警戒されていたこと…90年不遇で過ごした一生とはどのようなものであったか…次は忠輝のその後をお願い致します🙇
5代綱吉の時代まで生きてたのか…。
なんか切ないな。
皮肉にも家康よりも長生きするとは.........
配流生活も地元民と交流したり子供を作ったり大名の格式で家臣が80名以上いるという生活で自由に満喫してるという
91才まで長生きしたのなら、家康が改易しなければ、伊達政宗やら幕府重臣に担がれ何かをやらかしたでしょう。秀忠では抑えることが難しいと家康は考えたのでは。
三河派閥の長男信康、秀吉に近かった次男秀康の二人を不要と切り捨てた家康が、この二人の処断理由を併せ持つような忠輝を活かしたと考えると晩年甘くなったのか後悔があったのか
または、むしろ愛していた可能性はある(趣味:剣術の家康から見て奥山休賀斎の認可を得るほど剣術に達者で大阪の秀頼に加え伊達政宗、大久保長安とかいう癖の強い面々と交友可能な人望)
現在絶版中の隆慶一郎著「捨て童子」が読みたくなってきました。
陰険な秀忠でなく陽気な忠輝が将軍だったらと想像してしまう。
捨て童子絶版なの?
影武者徳川家康とのリンクも面白かったのに
図書館の文庫本コーナーを探してみたらいかがでしょう?
絶版なのか
不都合な内容だから陰謀かもね
横山光輝の漫画がありますよ。
徳川幕府体制の見せしめだと思います、親類縁者に対しての厳正な処罰、外様大名達に対しての見本となす
その割にはやらかした秀忠は罰せられなかったな…
本来なら秀忠のやらかしも厳罰ものだけどな
@@もふもふ-x4p
関ヶ原遅延?
91歳まで生きたんですね。他の短命だった諸氏と比べると不遇だったとは言えない気がします。91歳の長寿を全うしたことは幸福な人生だったいえるでしょう。ストレスが多すぎればそんなに長生きはできません。
当初は金剛峯寺で酒も女もご法度だったけど
そのあと諏訪に移されてからは悠々自適に暮らしてたみたいなので
ストレスは無かったんでしょうね
元々多芸多才な人だったと言われてるから 趣味を楽しみつつ生きてたのかなと 後は政務や後継者問題は一切考えなくても良かったのでストレスも少なかったのかな
@@もふもふ-x4p @MUSASI40 お二方、コメントありがとうございます。秀忠54歳、家光48歳で逝去しており、針の筵の権力闘争の現場にいれば、ストレスで短命もやむなしで、その人生と91歳までの長寿全うは僕なら、忠輝の人生を選びます。
忠輝を題材とした時代劇といえば、松平健の『野風の笛鬼の剣』、千葉真一の『徳川無頼帳』を思い出します。
どうするには出てこなかったけど伊達政宗を取り上げて欲しい。
政宗は家康の生涯を語るのと同じで、皆さん知っていることをつらつら話すだけになりそうなのであまりやりたくないなという感じです…すみません…
性格で身を滅ぼしたにせよ、せめて御落胤などがいて、旗本復帰みたいな流れが有ったら…
忠輝、忠直、忠長、たまたまだろうが頭に忠の字が付くとよくなかったのか。
忠の名前が付く大名もかなり改易されてます。
松平忠輝も、豊臣家と同じく、秀忠政権への不満分子を集めて処断するためのシンボル役になったわけだなあ。
家康は特に忠輝を寵愛も憎悪もしておらず、家康の意向などほったらかして、幕府運営サイドの意向で、秀忠・家光政権の安定化のための人柱として利用されたような印象。
隆慶一郎氏の著作「捨て童子・松平忠輝」は面白いですよ
「影武者徳川家康」から続くプロットです
「葵徳川三代」では、伏見城が攻撃される前に、三本木の北政所の屋敷に避難していましたよね。
皆川から直訴されたのが大きいような
育ての親に無理と言わせてしまうと
忠輝失脚後、皆川広照は赦免され常陸府中で1万石の大名に復帰してます。
家光と頼宣、義直の関係とか取り上げて欲しいですね
やけに険悪なイメージがあるので
義直、頼宣と家光は御三家とは名ばかりで結構バチバチしてて、家光は頼房を頼りにしたとはされていますね。
御三家はやりたかったのですが迷い中です
正当化のために誹謗中傷された人々が多い。
宝塚歌劇花組公演「野風の笛」の轟悠さんの忠輝が印象的です。
生まれた時代を間違えた人だ
甥の徳川忠長(1609-34)と組んで家光に取って代わる可能性はあっただろうか
武家の血縁関係は複雑で解りにくいです。
容姿と母の身分が原因で愛されなかったと言われたところは兄秀康と似ている。本人たちも非がなかったとは言い切れないにせよ、秀康と言い忠輝と言い、家康は変に我が子に冷たい感がある。「どうする家康」よりも冷酷だったのかもしれない。
家康は生まれてきた子が美男美女じゃないと露骨に嫌悪感示して冷たくしたって言うからね
秀康や忠輝が冷遇されたのはそのせい
一方九男の義直は家康が絶賛するほどのイケメンだったらしく
家康の息子の中で一番家康に可愛がられたらしい
メチャクチャかわいそうな人やん。
切腹させられた長兄に比べて一族中で90代まで天寿を全うしましたから悠々自適だったのでしょう😊
大阪の役は実の所、キリシタン絶滅戦だった?
松平忠輝は13歳年上であり異母兄である秀忠をどのように見ていたか?
「捨て子童子」という作品があったなぁ。
まあ、こうやって、やれるうちに きちんと不安要素を排除したから 250年続く政権を打ち立てられたのかなぁ。
でも、個人的な気持ちで言うなら、大久保一族は排除したんだから許してやれよ、って思ってしまいます。
63万石の石高が不味かったのか、義父が怖かったのか、それとも秀忠の力量が家康に比べどうしても不足してたのか………
91まで軟禁というのは不憫だよなぁ………
現徳川宗家当主の方が忠輝の勘当を正式に解いた時に、どこぞの歴史家が勝手に歴史を変えるなとほざいてましたが、徳川家の事で徳川当主が決めた事を外野がゴチャゴチャ言うなって思った事を思い出しました
秀忠は武断統治した。自身が弱いから自分より強い奴を潰しまくったのかも。
個人的には葵徳川三代のイメージが強くて忠輝はただただ家康に嫌われていた印象でしたがいろいろと遠因があるようですね、そういえばどうする家康には名前すら出てきませんでしたねw
忠輝は信濃に配流さらてから丸くなった。だからはたしてふうぐうだつたのか
茶阿局と阿茶局、名前が似ているので紛らわしい。
茶阿は局ではない
どうした 家康…
大大名😅
不遇の割に長寿を全うしたのですね。
レキショック様
忠輝は嫌われましたね。
家康の息子の忠輝
結城秀康の息子の忠直
秀忠の息子の忠長
同時期に粛清されてて紛らわしい。
とにかく冗長で何言ってるかわからない。徳川家の人物だけでもややこしいのに、文字数稼ぎみたいに同じ名前、同じ事柄が連呼される。せっかくいい題材なのに、もう誰が誰だかわからん。相関図も名前が入ってないと、誰だかわからんかった。どう考えても手抜き過ぎだろう。
よくこういった意見に対し、大事な歴史の話なんだからこうした批判は意味がないとする人もいるが、意味が通じなければ何の意味もない。ただ単に文章を短くして整理するだけで意味が通じやすくなるのにやってないんだから、今後に向けて批判されるべきだと思う。
一文一意ぐらい考えたらいかがだろうか。
内容的にもっと面白く見やすくなることを期待してます。
伊達封じの捨て石にされたのかな?