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中西太さん亡くなられて、、この動画見ると涙が出るなみ😢
最後に豊田さんがチラッと写っていたね当の西鉄選手には感慨無量だろうなクライマックスシリーズや鳴り物応援のバカバカしさ、幼稚さを忖度なくズバッと断じてくれる数少ない方で大好きだった
ライオンズが所沢に行ったのは 太平洋クラブ~クラウンライターズの期間 福岡市の壮絶ないじめが有ったからでしょう
貴重な映像ありがとうございます
母方が九州ですから、今もライオンズ贔屓です。どこへ行ってもオーナー代わろうがライオンズはライオンズ ドラマチックなチームです!人の一生みたいな感じします。
呉服町に住んでた。親父に連れられ電車で平和台にはよく行った。後年、取り壊しの場に行き、泣いた。
中山の京成杯・京成杯オータムハンデキャップ・東京の京王杯スプリングカップ・京王杯2歳ステークス・中京の名鉄杯・京都の京阪杯・阪神の阪急杯と同じように小倉で西鉄杯を開催することはできないだろうか。スタート前のファンファーレは「西鉄ライオンズの歌」の前奏部分を生演奏したら面白いと思うけどなあ。
平和台が人工芝になった年、中学生野球九州大会で平和台球場を使いました。真夏の人工芝の焼け付くような暑さと硬さは覚えてます。
58年の日本シリーズ、第5戦は3回を終えて0-3で巨人が王手をかけた。対する三原監督は4回から稲尾を投げさせた。その真意は敗戦処理であり、稲尾で負ければ誰も文句は言えまい、というもの。結果は9回2死からの同点、延長10回での稲尾のサヨナラ弾で勝利。以降、第6・7戦も稲尾の連投で大逆転で日本一。三原は死の間近に、見舞いにきた稲尾に自分の真意を話し詫びた。自らの采配を25年も悔い続けた監督と、全く意に介さず感謝する鉄腕。2人の偉人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
元ライオンズの東尾と真弓は1985年の日本シリーズで顔を合わせてますね。真弓は阪神日本一のV戦士!
東尾さんは真弓さんがライオンズを離れたのが一番痛かったと後に語っていますね
なつかしかった
今は王会長と孫会長がいるからいいけど、あと10年後どうなっているかわからない。九州の人はぶりぶりざえもんみたいに「私は強い者の味方だ」という人が多いからね。西鉄ライオンズの二の舞だけはならないように願う。
それって小心者じゃね?
ライオンズほどドラマチックな歴史がある球団はないんじゃないだろうか・・・。最強時代を少なくとも2度は作った。 他球団がうんざりするくらいに強かった!
太平洋、クラウンライター時代のライオンズを経営していた福岡野球株式会社、様々な経緯もあってオーナーであった中村長芳氏の個人会社だったが、福岡に縁が無く西鉄時代の契約を見直した事や、以前岸元首相の秘書を務めていたため、派閥の関係から自民党の福岡県連とも上手くいかず、福岡の政財界から距離を置かれてしまった。あっという間に負債が増えていったが、福岡財界は福岡野球を支援せず破産させる事で、負債を引き継がない形での球団譲渡を狙った。しかし、追い込まれた中村氏は最後の手段として、秘書時代の人脈を活かし西武鉄道、国土開発の堤氏との間で球団譲渡交渉をし、債務込みでの球団売却にこぎ着けた。
中村長芳は評価されるべきだ。当時の福岡はライオンズにつめたかった。
堤義明率いる国土計画(後にコクド→プリンスホテルに吸収)は、最初は大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)を買収してプロ野球界参入を目論んでいたが中部謙吉オーナーの急逝で頓挫し(堤と謙吉による球団売却話がまだ口約束段階での急逝だったので、ホエールズのオーナー職を継承した三男の新次郎ら子供たちにはそのような話が全く伝わっておらず、事実を知った新次郎が『球団は絶対に売らん!』と態度を硬化させたことによる)、その後堤=国土計画はライオンズ(福岡野球株式会社)が経営難にあるという話を知り、買収する対象をライオンズへと切り替え中村長芳と交渉→合意しプロ野球界参入に至った…という説もあります。
黒い霧事件が無かったら今も西鉄として続いてたのかな…。
電鉄やバスは斜陽産業だから遅かれ早かれ手放してますよ。
スタメン見て一瞬仰木ってあの仰木監督の事かと思ったwww
そうです!あの仰木監督ですよ!
あの仰木監督じゃなければどの仰木なんだろう。
西鉄ライオンズ平和台球場さよなら西鉄ライオンズ平和台球場永遠に不滅です。
西武グループは野球を良いビジネスと考え、現在の埼玉西武ライオンズが発足しました。福岡ソフトバンクホークスも、良いビジネスです。
昔 ♫返せ〜返せ〜ライオンズを返せ〜って歌がありましたよね
甦れライオンズですよね。RUclipsで聴きました。
なんて女々しい歌だと思った。(おっと今では禁止用語だわ)
1978年に発売の『甦れ! 俺の西鉄ライオンズ』で、作詞・作曲は中山大三郎さん、歌ってるのは黒田武士(くろだ・たけし)さん。
こう見るとパ・リーグと福岡って繋がりが深いなぁって思う。
太平洋ークラウン、止むを得ない形でオーナーの個人出資となった上、ネーミングライツ先となった太平洋クラブも程なく経営が悪化。加えて福岡の政財界との対立も発生し、充分な支援は得られない上に経費が急速に増大したため、慢性的な経営難に。末期には、トレードを成立させても相手球団の選手が移籍を拒否し、破談になったほど。福岡の財界は球団を一旦破綻させ、自らの負担を減らした形での球団の新会社設立を目論んだが オーナー側は大物政治家の秘書だった経歴を駆使し、福岡財界の機先を制する形で西武と交渉。西武は球団会社の借金を全額負担する代わりに、本拠地を埼玉県に移動させるという条件で交渉成立。
江川卓の巨人行きが一番大きい。
福岡ソフトバンクホークスは常に満席。でも、埼玉西武ライオンズも上がってます。所沢だけでも、西武ライオンズ色も濃いです。昨年最下位だったが、反撃です。
いやぁ、本当に勉強になるなァ👍神様稲尾、怪童中西…凄かったのね
4:29ナレーションで「清俊彦のパーフェクト」とあるが「田中勉のパーフェクト」が正しい。
この弱小不人気不祥事の球界のお荷物球団を救って見事に再生させたのが西武グループの堤氏でしたね。単にライオンズを再生させただけじゃなくて、パリーグのイメージを完全に変えた功績は大きいです。
その代償として、西鉄の築いた歴史は黒歴史になってしまったけどね…。
@@ShinHoshinoHiromitsu77それは堤のせいではない
まぁ~、確かに選手を守ってあげられなかった西鉄は悪いかもしれんよねぇ~。でも、いつまでも博多のファンが球場に足を運ばんかったからライオンズは所沢に行ったのとちゃいまっか?所沢に行くことになったら博多では反対運動をおこしてたんでしょ?俺から言わせれば博多のファンは博多にライオンズが残って欲しかったのか無くなってほしかったのかどっちなのか分からん。中村さんが買い取らなかったらライオンズは無くなってたんじゃないの?ライオンズはまだ残っているからいいよ。残せるのにも残さなかった球団だってあるんだし...。
そういや太平洋〜クラウンのあった当時、小倉球場にじっちゃんと一緒に歩いて行ってたなぁ。うどんを食べた記憶ある……。
現在のライオンズを作ったチームだね
埼玉西武ライオンズは所沢にいながらも今や黒字。西日本スポーツによると、太平洋ファンが川崎球場まで荒らしただって?太平洋がいなくなった川崎球場は、笑いの嵐だった。しかし、金田監督がいたのだから、良い成績が多いね。ご冥福をお祈りいたします。
今やソフトバンクホークスは西武ライオンズと強さ、人気を2分する球団。この2者のおかげで、日ハム、ロッテ、楽天、オリックスも人気が増え、黒字になった。
西武ライオンズがパリーグの球団で全国区の一番乗りをした。そして、福岡ダイエーホークスが全国区になり、それから、横浜ベイスターズ、オリックスブルーウエーブ、千葉ロッテマリーンズ、北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスがなった。
ちなみに、読売ジャイアンツ、阪神タイガース、中日ドラゴンズ、広島東洋カープの順に先になっていた。大阪近鉄バファローズは全国区並びに日本一に慣れずに、消滅し、オリックスと合併した。
ライオンズが逆転追い込み型主、ホークスが先攻逃げ切り型が主と見ている。セリーグでも、ジャイアンツが先攻逃げ切り型が主、カープが逆転追い込み型が主と見ている。だが、先攻逃げ切りも逆転追い込みも基本的には、両方していたから黄金時代を築くことができたのではないか。
@@島斉 いやいや この時の西鉄ライオンズが全国区一番乗りでしょう
中日より人気でても不思議じゃない‼️
ライオンズ捨てたの福岡市とファンじゃん。移転されたら返せってわがまま通用しないでしょう。今はホークスホークス言ってるくせに。
ライオンズは、福岡を裏切ったと言ってる奴もいたくらいだから
コクドと堤は福岡時代を払拭したかもしれんが、死にかけたチーム(クラウンライター)を復興させたんだよなぁ・・・西武応援団の西日本担当は福応連、博多激獅会健在だし西鉄ファン根強いと思うぞ。以前は西武応援団も炭坑節も流してたくらいだし・・・。
弱小不人気不祥事連発で地元からも完全に見放されてた球界のお荷物ライオンズを西武が全く別の球団に立て直したんだから凄いよね。ライオンズだけじゃなくてパリーグ全体のイメージを変えた。
matatabinyan さんまさか埼玉へ移転して2~3年でああなるとは思わんかったですよ💧
仰木さんはかなりイケメンやったんでしょう?
それにしても、ダイエーは親会社が神戸にあったのにも関わらず、ホークスの本拠地を博多にしたのはナイスチョイス!だと思う!!
ダイエー本社のアジア戦略の一貫だったんだよね。
何故ダイエーは神戸に本社があるのに、わざわざ福岡に本拠地を移転するんだ?と思ったのですが、中内さんは先見性があったのですね😀福岡移転は大正解でしたね😀
私は65だがこの時代知ってる人は少なかろうな?平和台と小倉球場だった。この後南海が39年優勝だが。なんば球場も今は無い。西宮球場も そういえば東京球場もあったな
夏草や兵どもが夢の跡 ・・・・・ ホームランうどん もう一度食べたかった。・・・・
平和台のうどん美味しかったですね。
薬院から自転車で行ってました。
昔は九州にもライオンズファンが多かったのに、今はすっかり少なくなってしまって残念。
TE RU おじいちゃんライオンズファン、お父さんプロ野球ファン、孫はホークスファンてとこが多いですね。
@@さとう-l6r ライオンズは福岡の元祖プロ野球チームだからね。まぁ今はホークスが福岡を代表するプロ野球チームって感じになっているけど、ホークスは元々大阪のプロ野球チームだけどね。………平成から令和の人達は、ライオンズ 元は福岡のプロ野球チームホークス 元は大阪のプロ野球チームということは知らんだろうね。
せいぜいクラウンライターまでがライオンズて呼べるもの。所沢のやつは偽物だ。
なんにしろ、今のホークスだって来福5,6年はダメダメなわけで・・でもダイエーさんが頑張ってくれたおかげで、現在があります。新球場設立、娯楽やサービスの充実、女性客へのアピールなど。しかし、大元の流通経済界では、逆にダメダメで会社自体が消えてしまいましたが。今でも中内功氏には感謝しております。古参のファンは、心境は複雑ですけどね。(元ライオンズ友の会会員)
鷹も勢いがついて来たのは94年くらいからだった様な…。当時は他県だったからあまりその辺がわかりませんが…。
一球入魂、とは鉄腕・稲尾の為にある言葉だなぁと今になって思うなァ。そして西鉄時代のライオンズの為にもある言葉だとも…。
ライオンズが所沢にいったのは弱くなったライオンズを球場で応援しに行かなくなった全国、特に博多のライオンズファンがイカんと思う!!
chan NOMU お前アホやな
@@田中太郎-g6t4j お前分かっとるの?お前がアホ!
確かに!🔥あの頃の福岡は🐰に近場の広島に阪神が相場!😀誰も埼玉に行かなかった!😭
本当にそれですよね。近くにあるのに全く行かずに球団が苦しいのに移転だからと急に立ち上がる?それなら苦しんでる時こそ行けよと思います。まあ、近鉄も同じですけど。
博多のシンボルとして愛されたライオンズが遠く関東に去り、わずか10年で長年のライバル球団であったホークスが都落ちしてきても市民には受け入れられないだろうと思ったが・・予想は大きくはずれた
王貞治氏が来てから風向きが変わり始めたと思う。
王さんか。大阪で、心無いファンから卵をぶつけられていましたね。あの屈辱から、強くなった気が。
梅山健治 「今怒っている人達も勝てば喜んでくれる、だから我々は勝つしかないんだ」と檄を飛ばしたんですよねこの「プロは強くあるべし」という精神は今なおホークスに息づいている様に思えます
身売りでライオンズが去って初めて地元にプロ野球チームがあるのがどれだけ素晴らしい事か思いしりました。だからホークスが福岡にきた時はもう2度と同じ過ちを繰り返してはならないと思った。
鷹は、また根本さんが帰って来たのがデカかった😅
やっぱ、ライオンズが所沢に去ってしまった博多の人の後悔があるからこそ、ホークスが10年後に来て、今現在、ホークスがあれだけのいい球団になったと思う!ホークスはダイエーが変えただけじゃなく、博多の人間も後押しをしていい球団にしたと思う!!
中西太の150mとか160mの飛距離とか聞くと今の選手は飛距離が縮んだのかな130mとかでもすげぇとか言ってるし狭い球場での場外本塁打とか無理か
江川を取った理由は再び福岡に野球熱を取り戻したいと言う願いがあったらしいが果たしてその一年目で野球熱は戻ったのだろうか?
一部は広島まで。行った人いたよ。今でも阪神タイガースファンが関西から東京横浜まで行ってる。
野村廣文 さん私なども九州、しかも福岡県内(途中静岡他)にいながら根っからの虎党などという人種もいまして…。
阪神タイガースの令和版青バットの大山怪童 森下じゃじゃ馬 近本神様 青柳パーフェクトの村上切り込み隊長 佐藤輝虎の大魔神 岩崎キャッチャー 梅野名将 岡田
西鉄から太平洋クラブライオンズに当時の白とブルーのホームユニフォーム赤のビジターユニフォーム地味なユニフォームばかりの当時にすると斬新でカッコ良かった赤い旋風とか言われてたしねその後の胸に番号のユニフォームはファンとしてもガッカリだった
豊田さんはイケメンですよね👀
ライオンズが福岡を去った後、80年代中盤にロッテオリオンズの福岡移転という話が出た時期がありました。83年の秋に稲尾さんに監督就任を要請した際、福岡移転を条件にした事がスタートのようです。福岡市が乗り気ではなかった事もあり、具体的な話が進まないまま年月が過ぎ、失望した稲尾さんは86年のシーズン後に退任。しかし、稲尾氏退任後は福岡青年会議所が誘致活動を引き継ぎ、ロッテ側の出した厳しい条件も飲み、地元政界を巻き込むなど大きな市民運動となり、一歩前進したかに見えました。70年代、横浜青年会議所が横浜スタジアム建設プロジェクトの一端を担っていた事も背景にあるのかもしれません。しかし、次第にロッテは球団移転に積極的な返事をしなくなります。一方、当時ダイエーはプロ野球への参入を目論んでいました。どうもそれを耳にしたロッテ側がダイエーに球団売却を持ちかけていたようです。交渉は進んでいたようですが、程なく南海も大阪球場の取り壊しとホークスの売却という声も入って来ました。ダイエーは検討した結果、ロッテとの交渉を打ち切りホークス買収に動きます。ただ、この時点ではダイエーの拠点だった神戸への移転を考えており、事実グリーンスタジアム神戸の周辺にはダイエー関連の施設が沢山ありました。しかし、極秘とされていた球団譲渡がスクープされ、それを見た当時の福岡市長が球団誘致に乗り出します。ダイエー社長の中内氏は、市長の唱えた環アジア構想を魅力的に感じ、新球団をイメージの軸として福岡に新拠点を作る事を決断、移転へと繋がりました
ダイエーは、南海ホークスの買収をもう1年経ってからにしたかったそうですが、買収計画がスクープされたのは、大阪球場が再開発でなくなることが決まっていただけでなく、南海ホークスが川勝傳オーナーの死去で身売りが決定的となって時間の問題と見られていたこともあり、むしろ買収計画を極秘に進めることのほうが無理だったと思います。
江川が入団拒否した理由が福岡は遠いと言ったそうだがあんなん建前でしょ。本音は巨人以外入りたくなかっただけ。福岡が遠いからライオンズが関東に来たのに入らなかったのが何よりの証拠。
江川卓が飛行機が嫌だったから。
西武グループのバックには、岸信介がいて、作新学院の船田中とは、犬猿の仲だったという話しも。
小川孝弘 さんそれ。結構有力な説だと思います。
そのとおり、栃木から一番近いのは所沢!彼の巨人病が自分を滅ぼした。自業自得!
@@かなり初期の鉄道ファン1号 特に広島戦が嫌だったと言われている、江川が当時巨人と同じ後楽園球場をフランチャイズにしている日本ハムに入団したらどうなったか、その12年後に元木も日本ハムに入団するべきだと思う、日本ハムの札幌移転は存在しなかった
西鉄時代の栄枯盛衰の上に現在の埼玉西武ライオンズがある!シンプルなユニフォームも力強かった。しかし晩年の弱体化した西鉄が、最大のライバルである巨人のユニフォームを真似ていたのは、パ・リーグの雄としてのプライドが薄れていったことの表れかも知れない。西武になってからの、明るく若々しいブルーの新ユニはライオンズを再び球界の盟主にまで押し上げた。しかしその栄光のブルーを紺に変えてからは・・・(-_-;)
4:51 出た!太平洋クラブライオンズのアメフト型背番号のワインレッドユニ!これはパリーグのカラーユニ革命の前で相当斬新だったが、珍しいだけで観客は増えなかった
高倉選手は後に巨人へ移籍した、あの高倉選手でしょうか?
そう、切り込み隊長の故高倉照幸さんです。
西鉄は福岡市内で唯一の私鉄路線会社というのは事前に認知しているが、ライオンズが福岡に拠点を構えてたというのは、西鉄がライオンズを手放した位しか知らないんだよな!?オレにいわせれば、西鉄ライオンズはあの『黒い霧事件』の事ぐらいしか知らず本当の栄光史というのは全く知らぬ存ぜぬだから、ライオンズは西武になった時の頃が未だに印象だし、それに埼玉県を唯一拠点にしてるくらいしか、視てないね‼️
あの『黒い霧事件』さえなければ池永は今頃稲尾を越える投手になっていた可能性はかなり高かったね。まぁ池永が白か黒はともかく、西鉄の選手はバカなことをやからしてくれたよ。八百長はやったらいかんよ!
池永は白だよ、もう歴史がとっくに証明してるって。そんな証言も書籍もいっぱいあるし、田中勉が仕掛けたって事実だから。それよりも、原や藤田やあの金満球団を弾劾しろ。安倍や麻生の先輩だよ。「ジャイアンツは永遠に不潔です」、話は関係ないけど、長嶋はなぜ巨人に入って杉浦は南海に入ったのか知ってる?
@@高原正興 確か巨人が(本当ならば)南海に入団していた長嶋に金銭か何かで長嶋の心を南海から巨人に傾けさせて、それに杉浦が怒って(杉浦が)南海に入団したんだっけ?
さすが!そのとおりです。長嶋は立教時代に南海から「栄養費」をしっかりもらっていたとのこと。杉浦「シゲがそうするなら俺が南海に行く」、そして1959年の日本シリーズ血染めの四連投!だからOは好きだけどNは嫌い。さらに江川・桑田ときた!
@@高原正興 そういえばそうだよね。杉浦は59年の巨人との日本シリーズで四連投して南海を日本一へ導いたんだよね。
小五でプロ野球見始めた時は太平洋クラブでした 稲尾 苗字が一緒なんで子供の頃から君は神様か?ってよく言われましたよ😂
一度失ってしまったファンからの信頼って簡単には取り戻すことは出来ないよ!!黒い霧事件で観客動員が落ちるのは目に見えるにも関わらずフロントは保身に走って本気で再建を考えなかった訳だから自業自得でこれでもファンが悪いと言うのは暴論だぞ!!
JUN A.G. それ、正論。確かに応援していた球団の選手が“八百長”だなんて汚いことをやらかせばファンが離れるのは目に見ているよね。
暴論ではない。
どんなに弱くても熱心に応援している球団のファンはどこにでもいると思うけどなぁ~。末期の南海ホークスだってそうだし、80~90年代のロッテオリオンズとか横浜ベイスターズもそうだし。末期の福岡のライオンズのように...。ただ、観客動員数が少ないから大赤字になるのとちゃいまっか?熱心なファンがいても観客動員数が多くならなきゃ経営できんでしょ~?阪急ブレーブスだって強かったのに客が入らんかったから身売りしたんちゃうの?シンプルに考えてそう思いませんか?それに買いたい会社はその当時はたくさんあるでしょうね。でも、金の持っている企業の方が安心して身売り出来るんじゃないんでしょうか?学ぶばかりじゃなく、考えてコメントしましょうね。
関西人ですけど、やはりライオンズと言えば九州、九州と言えばライオンズではないでしょうか… プロチームというのは、そういうもんです。
西鉄ライオンズ=八百長に野球賭博、反社との繋がり
放送したメンバーの紹介で、仰木彬さんの名前がない~(゜ロ゜)💦。野武士軍団のメンバーではないの~(゜ロ゜)💦。
仰木さんが西鉄の正二塁手であったことは知っているけど我々もそうだが世間的には、近鉄とイチローを大ブレイクさせたオリックスの監督のイメージの方が強い
巨・ク6 河埜5 広瀬7 土井3 王9 立花8 高田4 吉岡2 若菜1 倉持真弓、竹之内、基、若菜、古賀、倉持と、この年限りでライオンズを去る主力日本人選手をほぼ全員出場させた。出てないのは石井くらいか。
3:37 貴重な土橋正幸の現役時代の映像
フィルムが古いからしゃーないけど、打球の行方が全く見えない(笑)
福岡に野球がない間に #広島東洋カープ 行った人➡➡➡➡➡あの頃は広島は現在もそうだが、満員多かった。広島は新幹線から近かった。
広島は山陽新幹線博多全線開業に貢献広島はリーグ初優勝したと今は亡き衣笠祥雄が言っていた事を聞いた事があるがその4年後に西鉄ライオンズが福岡撤退して埼玉県に移転している
当時は小倉民な俺の周り。いっぱい居ましたわ。当時のカープ強かったし…(^^;;
懐かしいビデオですね。神様、仏様、稲尾様と呼ばれるようになる日本シーリズ第5戦。1点ビハインドの9回裏、代打小渕のアウトコースの際どいところをストライクと判定、1塁コーチボックスから三原監督が飛んできて「ボールではないかと」激しく抗議。球審はセントラルの円城寺。小渕の打球は三塁線を襲う2塁打となるが、サード新人の長嶋「ここをこう通ったからファウルだ」激しく抗議、水原監督もベンチから飛び出し激しく抗議するが、判定は覆らず。3塁塁審はパリーグの「俺がルールブックだ」の二出川。これもセとパの審判の確執と話題になる。ノーアウト2塁、巨人はピッチャーを大事をとってエースの藤田に替える。豊田はバントして3塁に進める。次はホームランバッターの中西、外野フライで同点のところ、凡打で2アウト3塁、関口は藤田の速球をセンター前に弾き返し同点。1塁コーチボックスの三原は小躍りして、関口のヘルメットをベンチに投げ返す。そして延長10回の裏、巨人の投手大友から稲尾がサヨナラホームラン。私の目に今でも鮮明に焼き付いております。 ここまではいいが、親会社の西日本鉄道、西日本新聞は経営が苦しく、ライオンズに多額の援助をする余裕がない。平和台球場も粗末な板を並べた座席、外野は土盛りで、満員でも3万5千人。監督、コーチ、選手の報酬も大幅アップはできず。福岡の財界も財政的にはほとんど援助をしなかった。 ファンサービスなんて、長い歴史の中から見れば、つい最近のこと。当時は巨人の選手もキャンプ地などでサインを求めるファンをうるさがっていた。その点大リーグは随分先を行っていた。「プロ」とは何であるか、球団も選手もよく理解していた。日本のプロ野球も大リーグをお手本に少しずつ進歩しているが、まだまだ到底及ばない。ドームではなく、太陽を浴びながら明るい天然芝の球場で観戦したい。
大羽武 今考えれば審判がリーグ毎に違うのは非合理ですよね現在の様にNPBの一括管理の方が判定基準などでも合理的に思えます
キャッチャーにも何かネーミングつけてやれよ
佐藤輝明よりも高倉照幸♪
ピンクユニがおもったほどケバケバしくなくむしろかっこよく見える。アンダーウェアーがブルーなので、なんかセレッソ大阪っぽい配色
今思うに、西鉄はよくも悪くも一騎当千の職人、個人商店の集まり。したがって、将来ライバルになりうる若手や後輩におのれの秘伝を伝授するのを嫌がる傾向があった。豊田泰光が関口清治にカーブ打ちの秘伝を教わりに行ったところ、「ゼニ持ってこい」と一蹴された話は有名。ただ、こうしたチームは、ベテランから若手への伝承がうまくいかず、世代交代が進まないので、結局は長続きしない。黄金時代のヤンキースは逆に、古参選手は、これと見込んだ若手に自分の技術のすべてとチームの伝統を積極的に伝えることが期待され、その結果、特に内野守備と投手の秘球・投球術などは、名選手から名選手へと、マンツーマンで途切れずに受け継がれた。。西鉄がついにヤンキースになれず、全盛期が短かったのも、その辺りに遠因があるのだろう。
もし江川が入団拒否しなかったら、どうなってたんやろ?
江川は巨人以外の球団には行きたくなかっただろうからもしなんてもんはない。どこでも良かったならあの空白の一日事件は起きてない。
@@mantmonk 当時の東京都にフランチャイズのある球団巨人だけでなく神宮球場のヤクルトと巨人と同じ後楽園球場日本ハムがあり江川は日本ハムに行くべきだと思う、その12年後に福岡にはダイエーホークスが存在するが元木は九州行きを拒否して1年浪人して巨人入団するが巨人と東京ドームをフランチャイズにする日本ハムに入団して欲しかった
クラウンライターが江川を指名したのは、西武への身売り話を有利に進めるためで、クラウンライターとして、江川を本気で迎えようとはしておらず、江川の指名から11ヶ月も経たないうちに、クラウンライターは西武へ身売りした。
小林繁は生涯巨人だったろうし、西本は最多勝何回も取ってただろう。西武の黄金期がもう少し早くなってたかもしれない。
すいません。稲尾さんの魂は田中将大に受け継がれたって言わないで。一緒にしないで
稲尾の再来と呼べるのは、金子千尋くらいですね。
稲尾さんの再来は誰もいません。
おっと、なぜあの時代観客が少なかったのか考えてしまった。 TVでも野球教室やプロ野球ニュースとか、今よりも専門の番組枠もあった時代。 娯楽関係施設も少なく、プロ競技も格闘技系と野球くらい。 人口は10~30代が多いし。・・・・もっとサービスとか12球団含めた運営プロデュースなどが充実していたらと思う。・・・・企業努力が無かったのかなあ。球場施設も酷かったしなあ。・・・
特に太平洋とクラウンの時(太平洋もクラウンも「福岡野球株式会社」のスポンサーであって親会社ではないです。)は、フロントが懸命な金策に走っても福岡市とか福岡の企業からロクな支援が受けられませんでした。平和台球場は福岡市の持ち物ですが、その使用料を西鉄時代の6倍、7倍とも言われる嫌がらせ同然の料金を請求されたそうです。ファンサービスをしたくても出来なかったのです。福岡の最後の6年間のことを調べてみると面白いです。そして考えさせられます。ライオンズは所沢に移転せざるを得なかったと言うのが正しいです。
radiotanpa さんなんと、24倍にまでなってた。(5→120万だそうな…)コレ、西鉄末期からクラウンの10数年間の間。…だから小倉でやることも多かったのだと思います。
@@mouha-damashii.1973 24倍まで行っていた話は初めて聞きました。酷すぎますね…。他にもいろいろと調べてみるとこれがもう…としか言えません。小倉までの遠征は交通費を支給したこととか、小倉までの移動は特急ではなく普通電車だったとか、一軍が遠征している間は平和台を二軍には使わせないと福岡市から言われたり…。これじゃあ強くなりませんよ…。おまけに客は本当に熱心なファンしか来なかったのですから…。所沢移転の経緯なんてあれだけ冷遇しておいて移転すると分かった途端に福岡市、福岡の企業、平和台に来なかった人が一気に掌返しですよ…。西武になって堤義明氏は福岡時代は封印したこととか、いろんな経緯がありますが、堤氏が失脚した後に再び福岡時代のことを掘り起こしただけでも西武球団の取り組みはもっと評価されてもいいと思うのですが…。まあ、今はホークスがあるとは言っても福岡の特に年配の人にとっては複雑でしょうね…。
3:54あたりの写真、裏返し。何故こんなことが起きるんだ?
私もそう思いました。ネガを誤って裏返しにポジにしたようです、如何やら。
地元でもファンが殆どいなかったライオンズが所沢に移転して地域密着型の球団になり、黄金時代を築いたわけだよね。
ぬこにゃん汰 西武ライオンズが地域密着? 広岡&森の采配力と西武グループの潤沢な資金で黄金時代を築いたはず。西武の埼玉密着は、西武グループがじり貧になってから。
@@baka4755 いやいやいや…西武ライオンズ発足から暫くは西武線沿線のガキが被っていたキャップはほぼほぼライオンズの帽子でした、らしいっす。
横浜DeNAベイスターズも同じだよね。あっちも最近になって客が増えた。
@@かなり初期の鉄道ファン1号 千葉ロッテも同様、川崎にフランチャイズを置かないで、千葉市に置いてもらいたかった、1974年元号は昭和49年の対中日の日本選手権で千葉でやってもらいたかった、ちなみにその当時国鉄京葉線は存在していなかった
仰木さんが・・・・・・・。
たまには敵パイアに泣け巨人。さんざんさんざん助けてきてもらったんだから
テレビのない時代は子供向けの映画も作られスポーツものでは土俵の鬼若乃花物語などがあったがある日、鉄腕投手稲尾物語の広告を見たときは興味をそそられた。だが子供ゆえにおいそれとはいかず観ることはかなわなかったが時が経ち忘れかけた頃なんとテレビでそれが放映されたのだ。意に反して映画はよくできていたと記憶している。
黒い霧事件がなかったら,今でも「西鉄ライオンズ」のままだったのかも。代わりに,西武はどこか別のところ持ってるかも。
西鉄はプリンスホテルをプロ化したんだろうなあ。黒い霧事件が無くても、身売りは時間の問題だったと思う。あの頃の西鉄本体の経営はどん底だったし。福岡市内線が全廃したのもあの頃。鉄道線も存廃がかかっていたそうだし。
西武ホークスになってるかも
憲法改悪反対。平和台球場を忘れるな! 平和第9条を忘れるな!☺️
まずなんで地元の会社に身売りではなくワザワザ堤に売ったのでしょう。買いたい会社も福岡にもありましたし、ヤクルトへのスワローズ身売りからしても、異常なほど格安だったのをご存知ですか?西鉄がいい加減な球団経営に陥り、売った先は太平洋。太平洋も親会社はロッテで球団を強くする気なんてありませんでした。でも九州の球団だからファンはどんなに弱くても応援していたのを本当に見たていましたか?あと堤は「九州のファンはいらない」と、発言していました。ちゃんと当事者などと話し、学んでからコメントしましょうね。
金田さんに対し失礼ですよね。
この発言は七年前だから理解します。しかし、その後西武球団は西鉄との継承をアピールしました。うれしいことです。買いたい球団は福岡にあったけど、買えなかったんです!中村はあやしい男でしたが、ではどうすればライオンズを九州に残す道がありましたか?ファンはどんなに弱くても応援していましたか?当時の観客動員数を学んでいますか?
高原正興 さん小倉なんてみた限りホントに少ない時は100人割ってたですもんなぁ。大抵は200人くらい多くても500人居ないくらいでしたよ。ホントに数えられるくらい。*なお、当方も球場付近に住んでた76~77年の末期の頃しか知りません。あと、幼少の頃の記憶なので曖昧な部分もあります…(^◇^;)
@@mouha-damashii.1973 その頃の小倉だけの観客動員数は分かりませんが、1976年は年間43万人(1試合平均6,700人)、1977年は年間64万人(1試合平均9,800人)という記録はあります。これでもかなり水増ししていた時代だと思います。なお、1978年9月19日の九州ライオンズ最後の平和台は観客2000人で、10連敗目の日でした。西武への身売りはまだ決まってはいない時でした。
@@高原正興 さん中村氏を「あやしい男」と言っていますが、その「あやしい男」がわざわざ自前で福岡野球株式会社と言う球団を設立して西鉄からライオンズを買い取ってロッテのオーナーを辞めてまで福岡野球のオーナーに就任しますか?野球協約で1人のオーナーが複数のオーナーになることは禁止されているとは言えです。「あやしい男」だったらそんなことはしないでライオンズが消滅するのを見るだけですよ。西武への身売りにしても中村氏からすれば本当に最後の手段だったのです。もはやライオンズは破綻レベル大赤字だったのです。西武の堤氏が債務を全て引き受けると言ったら売りますよ。その買い取る条件が所沢への移転だったとしても…。それを拒否していたら身売り話は破断しますがライオンズは破綻して消滅していました。福岡ではライオンズを買ってくれる企業はありませんでした。福岡市と福岡の財界はライオンズの破綻を待っていたんですよ。それで破綻した後に新球団を作るって酷すぎませんか?それこそ福岡市と福岡の財界の方が中村氏を余所者扱いしてライオンズにロクな支援もしてこなかった「あやしい男」ですよ。平和台球場の使用料の値上げの件とか酷い話です。この件については当時の坂井球団代表の証言、東尾さんの証言とかその他の資料や書籍を見ましたが、福岡野球時代は本当に頑張ってよくやったとしか言えません。
中西太さん亡くなられて、、
この動画見ると涙が出るなみ😢
最後に豊田さんがチラッと写っていたね
当の西鉄選手には感慨無量だろうな
クライマックスシリーズや鳴り物応援のバカバカしさ、幼稚さを忖度なくズバッと断じてくれる数少ない方で大好きだった
ライオンズが所沢に行ったのは 太平洋クラブ~クラウンライターズの期間 福岡市の壮絶ないじめが有ったからでしょう
貴重な映像ありがとうございます
母方が九州ですから、今もライオンズ贔屓です。どこへ行ってもオーナー代わろうがライオンズはライオンズ ドラマチックなチームです!人の一生みたいな感じします。
呉服町に住んでた。親父に連れられ電車で平和台にはよく行った。
後年、取り壊しの場に行き、泣いた。
中山の京成杯・京成杯オータムハンデキャップ・東京の京王杯スプリングカップ・京王杯2歳ステークス・中京の名鉄杯・京都の京阪杯・阪神の阪急杯と同じように小倉で西鉄杯を開催することはできないだろうか。スタート前のファンファーレは「西鉄ライオンズの歌」の前奏部分を生演奏したら面白いと思うけどなあ。
平和台が人工芝になった年、中学生野球九州大会で平和台球場を使いました。真夏の人工芝の焼け付くような暑さと硬さは覚えてます。
58年の日本シリーズ、第5戦は3回を終えて0-3で巨人が王手をかけた。
対する三原監督は4回から稲尾を投げさせた。
その真意は敗戦処理であり、稲尾で負ければ誰も文句は言えまい、というもの。
結果は9回2死からの同点、延長10回での稲尾のサヨナラ弾で勝利。
以降、第6・7戦も稲尾の連投で大逆転で日本一。
三原は死の間近に、見舞いにきた稲尾に自分の真意を話し詫びた。
自らの采配を25年も悔い続けた監督と、全く意に介さず感謝する鉄腕。
2人の偉人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
元ライオンズの東尾と真弓は1985年の日本シリーズで顔を合わせてますね。真弓は阪神日本一のV戦士!
東尾さんは真弓さんがライオンズを離れたのが一番痛かったと後に語っていますね
なつかしかった
今は王会長と孫会長がいるからいいけど、あと10年後どうなっているかわからない。
九州の人はぶりぶりざえもんみたいに「私は強い者の味方だ」という人が多いからね。
西鉄ライオンズの二の舞だけはならないように願う。
それって小心者じゃね?
ライオンズほどドラマチックな歴史がある球団はないんじゃないだろうか・・・。
最強時代を少なくとも2度は作った。 他球団がうんざりするくらいに強かった!
太平洋、クラウンライター時代のライオンズを経営していた福岡野球株式会社、様々な経緯もあってオーナーであった中村長芳氏の個人会社だったが、福岡に縁が無く西鉄時代の契約を見直した事や、以前岸元首相の秘書を務めていたため、派閥の関係から自民党の福岡県連とも上手くいかず、福岡の政財界から距離を置かれてしまった。
あっという間に負債が増えていったが、福岡財界は福岡野球を支援せず破産させる事で、負債を引き継がない形での球団譲渡を狙った。
しかし、追い込まれた中村氏は最後の手段として、秘書時代の人脈を活かし西武鉄道、国土開発の堤氏との間で球団譲渡交渉をし、債務込みでの球団売却にこぎ着けた。
中村長芳は評価されるべきだ。
当時の福岡はライオンズにつめたかった。
堤義明率いる国土計画(後にコクド→プリンスホテルに吸収)は、最初は大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)を買収してプロ野球界参入を目論んでいたが中部謙吉オーナーの急逝で頓挫し(堤と謙吉による球団売却話がまだ口約束段階での急逝だったので、ホエールズのオーナー職を継承した三男の新次郎ら子供たちにはそのような話が全く伝わっておらず、事実を知った新次郎が『球団は絶対に売らん!』と態度を硬化させたことによる)、その後堤=国土計画はライオンズ(福岡野球株式会社)が経営難にあるという話を知り、買収する対象をライオンズへと切り替え中村長芳と交渉→合意しプロ野球界参入に至った…という説もあります。
黒い霧事件が無かったら今も西鉄として続いてたのかな…。
電鉄やバスは斜陽産業だから遅かれ早かれ手放してますよ。
スタメン見て一瞬仰木ってあの仰木監督の事かと思ったwww
そうです!あの仰木監督ですよ!
あの仰木監督じゃなければどの仰木なんだろう。
西鉄ライオンズ平和台球場さよなら西鉄ライオンズ平和台球場永遠に不滅です。
西武グループは野球を良いビジネスと考え、現在の埼玉西武ライオンズが発足しました。福岡ソフトバンクホークスも、良いビジネスです。
昔 ♫返せ〜返せ〜ライオンズを返せ〜って歌がありましたよね
甦れライオンズですよね。
RUclipsで聴きました。
なんて女々しい歌だと思った。
(おっと今では禁止用語だわ)
1978年に発売の『甦れ! 俺の西鉄ライオンズ』で、作詞・作曲は中山大三郎さん、歌ってるのは黒田武士(くろだ・たけし)さん。
こう見るとパ・リーグと福岡って繋がりが深いなぁって思う。
太平洋ークラウン、止むを得ない形でオーナーの個人出資となった上、ネーミングライツ先となった太平洋クラブも程なく経営が悪化。加えて福岡の政財界との対立も発生し、充分な支援は得られない上に経費が急速に増大したため、慢性的な経営難に。
末期には、トレードを成立させても相手球団の選手が移籍を拒否し、破談になったほど。福岡の財界は球団を一旦破綻させ、自らの負担を減らした形での球団の新会社設立を目論んだが オーナー側は大物政治家の秘書だった経歴を駆使し、福岡財界の機先を制する形で西武と交渉。西武は球団会社の借金を全額負担する代わりに、本拠地を埼玉県に移動させるという条件で交渉成立。
江川卓の巨人行きが一番大きい。
福岡ソフトバンクホークスは常に満席。でも、埼玉西武ライオンズも上がってます。所沢だけでも、西武ライオンズ色も濃いです。昨年最下位だったが、反撃です。
いやぁ、本当に勉強になるなァ👍神様稲尾、怪童中西…凄かったのね
4:29ナレーションで「清俊彦のパーフェクト」とあるが「田中勉のパーフェクト」が正しい。
この弱小不人気不祥事の球界のお荷物球団を救って見事に再生させたのが西武グループの堤氏でしたね。単にライオンズを再生させただけじゃなくて、パリーグのイメージを完全に変えた功績は大きいです。
その代償として、西鉄の築いた歴史は黒歴史になってしまったけどね…。
@@ShinHoshinoHiromitsu77
それは堤のせいではない
まぁ~、確かに選手を守ってあげられなかった西鉄は悪いかもしれんよねぇ~。
でも、いつまでも博多のファンが球場に足を運ばんかったからライオンズは所沢に行ったのとちゃいまっか?
所沢に行くことになったら博多では反対運動をおこしてたんでしょ?
俺から言わせれば博多のファンは博多にライオンズが残って欲しかったのか無くなってほしかったのかどっちなのか分からん。
中村さんが買い取らなかったらライオンズは無くなってたんじゃないの?
ライオンズはまだ残っているからいいよ。
残せるのにも残さなかった球団だってあるんだし...。
そういや太平洋〜クラウンのあった当時、小倉球場にじっちゃんと一緒に歩いて行ってたなぁ。
うどんを食べた記憶ある……。
現在のライオンズを作ったチームだね
埼玉西武ライオンズは所沢にいながらも今や黒字。
西日本スポーツによると、太平洋ファンが川崎球場まで荒らしただって?
太平洋がいなくなった川崎球場は、笑いの嵐だった。
しかし、金田監督がいたのだから、良い成績が多いね。ご冥福をお祈りいたします。
今やソフトバンクホークスは西武ライオンズと強さ、人気を2分する球団。この2者のおかげで、日ハム、ロッテ、楽天、オリックスも人気が増え、黒字になった。
西武ライオンズがパリーグの球団で全国区の一番乗りをした。そして、福岡ダイエーホークスが全国区になり、それから、横浜ベイスターズ、オリックスブルーウエーブ、千葉ロッテマリーンズ、北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスがなった。
ちなみに、読売ジャイアンツ、阪神タイガース、中日ドラゴンズ、広島東洋カープの順に先になっていた。大阪近鉄バファローズは全国区並びに日本一に慣れずに、消滅し、オリックスと合併した。
ライオンズが逆転追い込み型主、ホークスが先攻逃げ切り型が主と見ている。セリーグでも、ジャイアンツが先攻逃げ切り型が主、カープが逆転追い込み型が主と見ている。だが、先攻逃げ切りも逆転追い込みも基本的には、両方していたから黄金時代を築くことができたのではないか。
@@島斉 いやいや この時の西鉄ライオンズが全国区一番乗りでしょう
中日より人気でても不思議じゃない‼️
ライオンズ捨てたの福岡市とファンじゃん。
移転されたら返せってわがまま通用しないでしょう。
今はホークスホークス言ってるくせに。
ライオンズは、福岡を裏切ったと言ってる奴もいたくらいだから
コクドと堤は福岡時代を払拭したかもしれんが、
死にかけたチーム(クラウンライター)を復興させたんだよなぁ・・・
西武応援団の西日本担当は福応連、博多激獅会健在だし西鉄ファン根強いと思うぞ。
以前は西武応援団も炭坑節も流してたくらいだし・・・。
弱小不人気不祥事連発で地元からも完全に見放されてた球界のお荷物ライオンズを西武が全く別の球団に立て直したんだから凄いよね。ライオンズだけじゃなくてパリーグ全体のイメージを変えた。
matatabinyan さん
まさか埼玉へ移転して2~3年でああなるとは思わんかったですよ💧
仰木さんはかなりイケメンやったんでしょう?
それにしても、ダイエーは親会社が神戸にあったのにも関わらず、ホークスの本拠地を博多にしたのはナイスチョイス!だと思う!!
ダイエー本社のアジア戦略の一貫だったんだよね。
何故ダイエーは神戸に本社があるのに、わざわざ福岡に本拠地を移転するんだ?と思ったのですが、中内さんは先見性があったのですね😀
福岡移転は大正解でしたね😀
私は65だがこの時代知ってる人は少なかろうな?平和台と小倉球場だった。この後南海が39年優勝だが。なんば球場も今は無い。西宮球場も そういえば東京球場もあったな
夏草や兵どもが夢の跡 ・・・・・
ホームランうどん もう一度食べたかった。・・・・
平和台のうどん美味しかったですね。
薬院から自転車で行ってました。
昔は九州にもライオンズファンが多かったのに、今はすっかり少なくなってしまって残念。
TE RU おじいちゃんライオンズファン、お父さんプロ野球ファン、孫はホークスファンてとこが多いですね。
@@さとう-l6r ライオンズは福岡の元祖プロ野球チームだからね。
まぁ今はホークスが福岡を代表するプロ野球チームって感じになっているけど、ホークスは元々大阪のプロ野球チームだけどね。
………平成から令和の人達は、
ライオンズ 元は福岡のプロ野球チーム
ホークス 元は大阪のプロ野球チーム
ということは知らんだろうね。
せいぜいクラウンライターまでがライオンズて呼べるもの。所沢のやつは偽物だ。
なんにしろ、今のホークスだって来福5,6年はダメダメなわけで・・
でもダイエーさんが頑張ってくれたおかげで、現在があります。新球場設立、娯楽やサービスの充実、女性客へのアピールなど。しかし、大元の流通経済界では、逆にダメダメで会社自体が消えてしまいましたが。今でも中内功氏には感謝しております。
古参のファンは、心境は複雑ですけどね。(元ライオンズ友の会会員)
鷹も勢いがついて来たのは94年くらいからだった様な…。
当時は他県だったからあまりその辺がわかりませんが…。
一球入魂、とは鉄腕・稲尾の為にある言葉だなぁと今になって思うなァ。そして西鉄時代のライオンズの為にもある言葉だとも…。
ライオンズが所沢にいったのは弱くなったライオンズを球場で応援しに行かなくなった全国、特に博多のライオンズファンがイカんと思う!!
chan NOMU お前アホやな
@@田中太郎-g6t4j
お前分かっとるの?
お前がアホ!
確かに!🔥
あの頃の福岡は🐰に近場の広島に阪神が相場!😀
誰も埼玉に行かなかった!😭
本当にそれですよね。
近くにあるのに全く行かずに球団が苦しいのに移転だからと急に立ち上がる?
それなら苦しんでる時こそ行けよと思います。
まあ、近鉄も同じですけど。
博多のシンボルとして愛されたライオンズが遠く関東に去り、
わずか10年で長年のライバル球団であったホークスが都落ちしてきても
市民には受け入れられないだろうと思ったが・・
予想は大きくはずれた
王貞治氏が来てから風向きが変わり始めたと思う。
王さんか。
大阪で、心無いファンから卵をぶつけられていましたね。
あの屈辱から、強くなった気が。
梅山健治 「今怒っている人達も勝てば喜んでくれる、だから我々は勝つしかないんだ」と檄を飛ばしたんですよね
この「プロは強くあるべし」という精神は今なおホークスに息づいている様に思えます
身売りでライオンズが去って初めて地元にプロ野球チームがあるのがどれだけ素晴らしい事か思いしりました。
だからホークスが福岡にきた時はもう2度と同じ過ちを繰り返してはならないと思った。
鷹は、また根本さんが帰って来たのがデカかった😅
やっぱ、ライオンズが所沢に去ってしまった博多の人の後悔があるからこそ、ホークスが10年後に来て、今現在、ホークスがあれだけのいい球団になったと思う!
ホークスはダイエーが変えただけじゃなく、博多の人間も後押しをしていい球団にしたと思う!!
中西太の150mとか160mの飛距離とか聞くと
今の選手は飛距離が縮んだのかな
130mとかでもすげぇとか言ってるし
狭い球場での場外本塁打とか無理か
江川を取った理由は再び福岡に野球熱を取り戻したいと言う願いがあったらしいが果たしてその一年目で野球熱は戻ったのだろうか?
一部は広島まで。行った人いたよ。今でも阪神タイガースファンが関西から東京横浜まで行ってる。
野村廣文 さん
私なども九州、しかも福岡県内(途中静岡他)にいながら
根っからの虎党などという人種もいまして…。
阪神タイガースの令和版
青バットの大山
怪童 森下
じゃじゃ馬 近本
神様 青柳
パーフェクトの村上
切り込み隊長 佐藤輝
虎の大魔神 岩崎
キャッチャー 梅野
名将 岡田
西鉄から太平洋クラブライオンズに
当時の白とブルーのホームユニフォーム
赤のビジターユニフォーム
地味なユニフォームばかりの当時にすると斬新でカッコ良かった
赤い旋風とか言われてたしね
その後の胸に番号のユニフォームはファンとしてもガッカリだった
豊田さんはイケメンですよね👀
ライオンズが福岡を去った後、80年代中盤にロッテオリオンズの福岡移転という話が出た時期がありました。
83年の秋に稲尾さんに監督就任を要請した際、福岡移転を条件にした事がスタートのようです。
福岡市が乗り気ではなかった事もあり、具体的な話が進まないまま年月が過ぎ、失望した稲尾さんは86年のシーズン後に退任。
しかし、稲尾氏退任後は福岡青年会議所が誘致活動を引き継ぎ、ロッテ側の出した厳しい条件も飲み、地元政界を巻き込むなど大きな市民運動となり、一歩前進したかに見えました。70年代、横浜青年会議所が横浜スタジアム建設プロジェクトの一端を担っていた事も背景にあるのかもしれません。
しかし、次第にロッテは球団移転に積極的な返事をしなくなります。
一方、当時ダイエーはプロ野球への参入を目論んでいました。どうもそれを耳にしたロッテ側がダイエーに球団売却を持ちかけていたようです。交渉は進んでいたようですが、程なく南海も大阪球場の取り壊しとホークスの売却という声も入って来ました。ダイエーは検討した結果、ロッテとの交渉を打ち切りホークス買収に動きます。
ただ、この時点ではダイエーの拠点だった神戸への移転を考えており、事実グリーンスタジアム神戸の周辺にはダイエー関連の施設が沢山ありました。しかし、極秘とされていた球団譲渡がスクープされ、それを見た当時の福岡市長が球団誘致に乗り出します。
ダイエー社長の中内氏は、市長の唱えた環アジア構想を魅力的に感じ、新球団をイメージの軸として福岡に新拠点を作る事を決断、移転へと繋がりました
ダイエーは、南海ホークスの買収をもう1年経ってからにしたかったそうですが、買収計画がスクープされたのは、大阪球場が再開発でなくなることが決まっていただけでなく、南海ホークスが川勝傳オーナーの死去で身売りが決定的となって時間の問題と見られていたこともあり、むしろ買収計画を極秘に進めることのほうが無理だったと思います。
江川が入団拒否した理由が
福岡は遠いと言ったそうだが
あんなん建前でしょ。
本音は巨人以外入りたくなかっただけ。
福岡が遠いから
ライオンズが関東に来たのに
入らなかったのが何よりの証拠。
江川卓が飛行機が嫌だったから。
西武グループのバックには、岸信介がいて、作新学院の船田中とは、犬猿の仲だったという話しも。
小川孝弘 さん
それ。結構有力な説だと思います。
そのとおり、栃木から一番近いのは所沢!彼の巨人病が自分を滅ぼした。自業自得!
@@かなり初期の鉄道ファン1号 特に広島戦が嫌だったと言われている、江川が当時巨人と同じ後楽園球場をフランチャイズにしている日本ハムに入団したらどうなったか、その12年後に元木も日本ハムに入団するべきだと思う、日本ハムの札幌移転は存在しなかった
西鉄時代の栄枯盛衰の上に現在の埼玉西武ライオンズがある!シンプルなユニフォームも力強かった。
しかし晩年の弱体化した西鉄が、最大のライバルである巨人のユニフォームを真似ていたのは、パ・リーグの雄としてのプライドが薄れていったことの表れかも知れない。西武になってからの、明るく若々しいブルーの新ユニはライオンズを再び球界の盟主にまで押し上げた。しかしその栄光のブルーを紺に変えてからは・・・(-_-;)
4:51 出た!太平洋クラブライオンズのアメフト型背番号のワインレッドユニ!
これはパリーグのカラーユニ革命の前で相当斬新だったが、珍しいだけで観客は増えなかった
高倉選手は後に巨人へ移籍した、あの高倉選手でしょうか?
そう、切り込み隊長の故高倉照幸さんです。
西鉄は福岡市内で唯一の私鉄路線会社というのは事前に認知しているが、ライオンズが福岡に拠点を構えてたというのは、西鉄がライオンズを手放した位しか知らないんだよな!?オレにいわせれば、西鉄ライオンズはあの『黒い霧事件』の事ぐらいしか知らず本当の栄光史というのは全く知らぬ存ぜぬだから、ライオンズは西武になった時の頃が未だに印象だし、それに埼玉県を唯一拠点にしてるくらいしか、視てないね‼️
あの『黒い霧事件』さえなければ池永は今頃稲尾を越える投手になっていた可能性はかなり高かったね。
まぁ池永が白か黒はともかく、西鉄の選手はバカなことをやからしてくれたよ。
八百長はやったらいかんよ!
池永は白だよ、もう歴史がとっくに証明してるって。そんな証言も書籍もいっぱいあるし、田中勉が仕掛けたって事実だから。それよりも、原や藤田やあの金満球団を弾劾しろ。安倍や麻生の先輩だよ。「ジャイアンツは永遠に不潔です」、話は関係ないけど、長嶋はなぜ巨人に入って杉浦は南海に入ったのか知ってる?
@@高原正興 確か巨人が(本当ならば)南海に入団していた長嶋に金銭か何かで長嶋の心を南海から巨人に傾けさせて、それに杉浦が怒って(杉浦が)南海に入団したんだっけ?
さすが!そのとおりです。長嶋は立教時代に南海から「栄養費」をしっかりもらっていたとのこと。杉浦「シゲがそうするなら俺が南海に行く」、そして1959年の日本シリーズ血染めの四連投!だからOは好きだけどNは嫌い。さらに江川・桑田ときた!
@@高原正興 そういえばそうだよね。杉浦は59年の巨人との日本シリーズで四連投して南海を日本一へ導いたんだよね。
小五でプロ野球見始めた時は太平洋クラブでした 稲尾 苗字が一緒なんで子供の頃から君は神様か?ってよく言われましたよ😂
一度失ってしまったファンからの信頼って簡単には取り戻すことは出来ないよ!!
黒い霧事件で観客動員が落ちるのは目に見えるにも関わらずフロントは保身に走って本気で再建を考えなかった訳だから自業自得でこれでもファンが悪いと言うのは暴論だぞ!!
JUN A.G. それ、正論。
確かに応援していた球団の選手が“八百長”だなんて汚いことをやらかせばファンが離れるのは目に見ているよね。
暴論ではない。
どんなに弱くても熱心に応援している球団のファンはどこにでもいると思うけどなぁ~。
末期の南海ホークスだってそうだし、80~90年代のロッテオリオンズとか横浜ベイスターズもそうだし。
末期の福岡のライオンズのように...。
ただ、観客動員数が少ないから大赤字になるのとちゃいまっか?
熱心なファンがいても観客動員数が多くならなきゃ経営できんでしょ~?
阪急ブレーブスだって強かったのに客が入らんかったから身売りしたんちゃうの?
シンプルに考えてそう思いませんか?
それに買いたい会社はその当時はたくさんあるでしょうね。
でも、金の持っている企業の方が安心して身売り出来るんじゃないんでしょうか?
学ぶばかりじゃなく、考えてコメントしましょうね。
関西人ですけど、やはりライオンズと言えば九州、九州と言えばライオンズではないでしょうか… プロチームというのは、そういうもんです。
西鉄ライオンズ=八百長に野球賭博、反社との繋がり
放送したメンバーの紹介で、仰木彬さんの名前がない~(゜ロ゜)💦。野武士軍団のメンバーではないの~(゜ロ゜)💦。
仰木さんが西鉄の正二塁手であったことは知っているけど我々もそうだが世間的には、近鉄とイチローを大ブレイクさせたオリックスの監督のイメージの方が強い
巨・ク
6 河埜
5 広瀬
7 土井
3 王
9 立花
8 高田
4 吉岡
2 若菜
1 倉持
真弓、竹之内、基、若菜、古賀、倉持と、この年限りでライオンズを去る主力日本人選手をほぼ全員出場させた。出てないのは石井くらいか。
3:37 貴重な土橋正幸の現役時代の映像
フィルムが古いからしゃーないけど、打球の行方が全く見えない(笑)
福岡に野球がない間に #広島東洋カープ 行った人
➡➡➡➡➡
あの頃は広島は現在もそうだが、満員多かった。広島は新幹線から近かった。
広島は山陽新幹線博多全線開業に貢献広島はリーグ初優勝したと今は亡き衣笠祥雄が言っていた事を聞いた事があるがその4年後に西鉄ライオンズが福岡撤退して埼玉県に移転している
当時は小倉民な俺の周り。いっぱい居ましたわ。
当時のカープ強かったし…(^^;;
懐かしいビデオですね。神様、仏様、稲尾様と呼ばれるようになる日本シーリズ第5戦。1点ビハインドの9回裏、代打小渕のアウトコースの際どいところをストライクと判定、1塁コーチボックスから三原監督が飛んできて「ボールではないかと」激しく抗議。球審はセントラルの円城寺。小渕の打球は三塁線を襲う2塁打となるが、サード新人の長嶋「ここをこう通ったからファウルだ」激しく抗議、水原監督もベンチから飛び出し激しく抗議するが、判定は覆らず。3塁塁審はパリーグの「俺がルールブックだ」の二出川。これもセとパの審判の確執と話題になる。ノーアウト2塁、巨人はピッチャーを大事をとってエースの藤田に替える。豊田はバントして3塁に進める。次はホームランバッターの中西、外野フライで同点のところ、凡打で2アウト3塁、関口は藤田の速球をセンター前に弾き返し同点。1塁コーチボックスの三原は小躍りして、関口のヘルメットをベンチに投げ返す。そして延長10回の裏、巨人の投手大友から稲尾がサヨナラホームラン。私の目に今でも鮮明に焼き付いております。
ここまではいいが、親会社の西日本鉄道、西日本新聞は経営が苦しく、ライオンズに多額の援助をする余裕がない。平和台球場も粗末な板を並べた座席、外野は土盛りで、満員でも3万5千人。監督、コーチ、選手の報酬も大幅アップはできず。福岡の財界も財政的にはほとんど援助をしなかった。
ファンサービスなんて、長い歴史の中から見れば、つい最近のこと。当時は巨人の選手もキャンプ地などでサインを求めるファンをうるさがっていた。その点大リーグは随分先を行っていた。「プロ」とは何であるか、球団も選手もよく理解していた。日本のプロ野球も大リーグをお手本に少しずつ進歩しているが、まだまだ到底及ばない。ドームではなく、太陽を浴びながら明るい天然芝の球場で観戦したい。
大羽武 今考えれば審判がリーグ毎に違うのは非合理ですよね
現在の様にNPBの一括管理の方が判定基準などでも合理的に思えます
キャッチャーにも何かネーミングつけてやれよ
佐藤輝明よりも高倉照幸♪
ピンクユニがおもったほどケバケバしくなくむしろかっこよく見える。アンダーウェアーがブルーなので、なんかセレッソ大阪っぽい配色
今思うに、西鉄はよくも悪くも一騎当千の職人、個人商店の集まり。したがって、将来ライバルになりうる若手や後輩におのれの秘伝を伝授するのを嫌がる傾向があった。豊田泰光が関口清治にカーブ打ちの秘伝を教わりに行ったところ、「ゼニ持ってこい」と一蹴された話は有名。ただ、こうしたチームは、ベテランから若手への伝承がうまくいかず、世代交代が進まないので、結局は長続きしない。黄金時代のヤンキースは逆に、古参選手は、これと見込んだ若手に自分の技術のすべてとチームの伝統を積極的に伝えることが期待され、その結果、特に内野守備と投手の秘球・投球術などは、名選手から名選手へと、マンツーマンで途切れずに受け継がれた。。西鉄がついにヤンキースになれず、全盛期が短かったのも、その辺りに遠因があるのだろう。
もし江川が入団拒否しなかったら、どうなってたんやろ?
江川は巨人以外の球団には
行きたくなかっただろうから
もしなんてもんはない。
どこでも良かったなら
あの空白の一日事件は起きてない。
@@mantmonk 当時の東京都にフランチャイズのある球団巨人だけでなく神宮球場のヤクルトと巨人と同じ後楽園球場日本ハムがあり江川は日本ハムに行くべきだと思う、その12年後に福岡にはダイエーホークスが存在するが元木は九州行きを拒否して1年浪人して巨人入団するが巨人と東京ドームをフランチャイズにする日本ハムに入団して欲しかった
クラウンライターが江川を指名したのは、西武への身売り話を有利に進めるためで、クラウンライターとして、江川を本気で迎えようとはしておらず、江川の指名から11ヶ月も経たないうちに、クラウンライターは西武へ身売りした。
小林繁は生涯巨人だったろうし、西本は最多勝何回も取ってただろう。
西武の黄金期がもう少し早くなってたかもしれない。
すいません。稲尾さんの魂は田中将大に受け継がれたって言わないで。一緒にしないで
稲尾の再来と呼べるのは、金子千尋くらいですね。
稲尾さんの再来は誰もいません。
おっと、なぜあの時代観客が少なかったのか考えてしまった。 TVでも野球教室やプロ野球ニュースとか、今よりも専門の番組枠もあった時代。 娯楽関係施設も少なく、プロ競技も格闘技系と野球くらい。 人口は10~30代が多いし。・・・・
もっとサービスとか12球団含めた運営プロデュースなどが充実していたらと思う。・・・・企業努力が無かったのかなあ。
球場施設も酷かったしなあ。・・・
特に太平洋とクラウンの時(太平洋もクラウンも「福岡野球株式会社」のスポンサーであって親会社ではないです。)は、フロントが懸命な金策に走っても福岡市とか福岡の企業からロクな支援が受けられませんでした。平和台球場は福岡市の持ち物ですが、その使用料を西鉄時代の6倍、7倍とも言われる嫌がらせ同然の料金を請求されたそうです。ファンサービスをしたくても出来なかったのです。福岡の最後の6年間のことを調べてみると面白いです。そして考えさせられます。ライオンズは所沢に移転せざるを得なかったと言うのが正しいです。
radiotanpa さん
なんと、24倍にまでなってた。(5→120万だそうな…)
コレ、西鉄末期からクラウンの10数年間の間。
…だから小倉でやることも多かったのだと思います。
@@mouha-damashii.1973
24倍まで行っていた話は初めて聞きました。酷すぎますね…。
他にもいろいろと調べてみるとこれがもう…としか言えません。小倉までの遠征は交通費を支給したこととか、小倉までの移動は特急ではなく普通電車だったとか、一軍が遠征している間は平和台を二軍には使わせないと福岡市から言われたり…。これじゃあ強くなりませんよ…。おまけに客は本当に熱心なファンしか来なかったのですから…。
所沢移転の経緯なんてあれだけ冷遇しておいて移転すると分かった途端に福岡市、福岡の企業、平和台に来なかった人が一気に掌返しですよ…。西武になって堤義明氏は福岡時代は封印したこととか、いろんな経緯がありますが、堤氏が失脚した後に再び福岡時代のことを掘り起こしただけでも西武球団の取り組みはもっと評価されてもいいと思うのですが…。まあ、今はホークスがあるとは言っても福岡の特に年配の人にとっては複雑でしょうね…。
3:54あたりの写真、裏返し。何故こんなことが起きるんだ?
私もそう思いました。ネガを誤って裏返しにポジにしたようです、如何やら。
地元でもファンが殆どいなかったライオンズが所沢に移転して地域密着型の球団になり、黄金時代を築いたわけだよね。
ぬこにゃん汰
西武ライオンズが地域密着? 広岡&森の采配力と西武グループの潤沢な資金で黄金時代を築いたはず。
西武の埼玉密着は、西武グループがじり貧になってから。
@@baka4755 いやいやいや…西武ライオンズ発足から暫くは西武線沿線のガキが被っていたキャップはほぼほぼライオンズの帽子でした、らしいっす。
横浜DeNAベイスターズも同じだよね。あっちも最近になって客が増えた。
@@かなり初期の鉄道ファン1号 千葉ロッテも同様、川崎にフランチャイズを置かないで、千葉市に置いてもらいたかった、1974年元号は昭和49年の対中日の日本選手権で千葉でやってもらいたかった、ちなみにその当時国鉄京葉線は存在していなかった
仰木さんが・・・・・・・。
たまには敵パイアに泣け巨人。さんざんさんざん助けてきてもらったんだから
テレビのない時代は子供向けの映画も作られスポーツものでは土俵の鬼若乃花物語などがあったがある日、鉄腕投手稲尾物語の広告を見たときは興味をそそられた。だが子供ゆえにおいそれとはいかず観ることはかなわなかったが時が経ち忘れかけた頃なんとテレビでそれが放映されたのだ。意に反して映画はよくできていたと記憶している。
黒い霧事件がなかったら,今でも「西鉄ライオンズ」のままだったのかも。代わりに,西武はどこか別のところ持ってるかも。
西鉄はプリンスホテルをプロ化したんだろうなあ。
黒い霧事件が無くても、身売りは時間の問題だったと思う。あの頃の西鉄本体の経営はどん底だったし。福岡市内線が全廃したのもあの頃。鉄道線も存廃がかかっていたそうだし。
西武ホークスになってるかも
憲法改悪反対。平和台球場を忘れるな! 平和第9条を忘れるな!☺️
まずなんで地元の会社に身売りではなくワザワザ堤に売ったのでしょう。買いたい会社も福岡にもありましたし、ヤクルトへのスワローズ身売りからしても、異常なほど格安だったのをご存知ですか?西鉄がいい加減な球団経営に陥り、売った先は太平洋。太平洋も親会社はロッテで球団を強くする気なんてありませんでした。でも九州の球団だからファンはどんなに弱くても応援していたのを本当に見たていましたか?あと堤は「九州のファンはいらない」と、発言していました。ちゃんと当事者などと話し、学んでからコメントしましょうね。
金田さんに対し失礼ですよね。
この発言は七年前だから理解します。しかし、その後西武球団は西鉄との継承をアピールしました。うれしいことです。買いたい球団は福岡にあったけど、買えなかったんです!中村はあやしい男でしたが、ではどうすればライオンズを九州に残す道がありましたか?ファンはどんなに弱くても応援していましたか?当時の観客動員数を学んでいますか?
高原正興 さん
小倉なんてみた限りホントに少ない時は100人割ってたですもんなぁ。
大抵は200人くらい多くても500人居ないくらいでしたよ。
ホントに数えられるくらい。
*なお、当方も球場付近に住んでた76~77年の末期の頃しか知りません。
あと、幼少の頃の記憶なので曖昧な部分もあります…(^◇^;)
@@mouha-damashii.1973 その頃の小倉だけの観客動員数は分かりませんが、1976年は年間43万人(1試合平均6,700人)、1977年は年間64万人(1試合平均9,800人)という記録はあります。これでもかなり水増ししていた時代だと思います。なお、1978年9月19日の九州ライオンズ最後の平和台は観客2000人で、10連敗目の日でした。西武への身売りはまだ決まってはいない時でした。
@@高原正興 さん
中村氏を「あやしい男」と言っていますが、その「あやしい男」がわざわざ自前で福岡野球株式会社と言う球団を設立して西鉄からライオンズを買い取ってロッテのオーナーを辞めてまで福岡野球のオーナーに就任しますか?野球協約で1人のオーナーが複数のオーナーになることは禁止されているとは言えです。「あやしい男」だったらそんなことはしないでライオンズが消滅するのを見るだけですよ。
西武への身売りにしても中村氏からすれば本当に最後の手段だったのです。もはやライオンズは破綻レベル大赤字だったのです。西武の堤氏が債務を全て引き受けると言ったら売りますよ。その買い取る条件が所沢への移転だったとしても…。それを拒否していたら身売り話は破断しますがライオンズは破綻して消滅していました。福岡ではライオンズを買ってくれる企業はありませんでした。福岡市と福岡の財界はライオンズの破綻を待っていたんですよ。それで破綻した後に新球団を作るって酷すぎませんか?それこそ福岡市と福岡の財界の方が中村氏を余所者扱いしてライオンズにロクな支援もしてこなかった「あやしい男」ですよ。平和台球場の使用料の値上げの件とか酷い話です。
この件については当時の坂井球団代表の証言、東尾さんの証言とかその他の資料や書籍を見ましたが、福岡野球時代は本当に頑張ってよくやったとしか言えません。