【禅のこころ-曹洞宗-】不殺生戒(法話)

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 2 ноя 2024

Комментарии • 4

  • @Aシキミ
    @Aシキミ 5 месяцев назад

    お話しありがとうございました。強制的と思っていた「戒」が約束という事を知るました。
    不殺生戒だけを切り取ると、矛盾が出てきそうですが、うまく五観文に繋がると納得できます。
    でも、仕事で屠殺してる人の事考えると、大乗仏教向けでは無いですね(+_+)

  • @ゆるぱわ
    @ゆるぱわ 8 месяцев назад +2

    読み手の人変わった?

  • @chip855
    @chip855 8 месяцев назад

    十重禁戒の11番目が ああそう戒。
    正法眼蔵に、「魚が水を命としていることを知り、鳥は空を命としていることを知るのです。また、鳥を命とする空があり、魚を命とする水があるのです。空の命は鳥であり、水の命は魚なのです。」とある。  
    「命は生物に宿るものか? 生物が命に宿るものか? 鳥の命が飛び動くか? 命の中を鳥が動くか? 何も無き所に新しい草花が芽生え、何処にあっても生物はうごめく。 生物に限らず、石・水・空気・光・音・熱・諸々の非生物においても時々刻々揺れ動いている。非生物にも命あり。宇宙一杯に命は遍満し、その中で生物も非生物も存在している。生物の中にも非生物の中にも命は満ち満ちている。宇宙そのものが生命である。人に、鳥獣に、草木のそれぞれに命があるのではなく、命の中を、人が、鳥獣が、草木が、山水が、天海が、銀河が、大宇宙が混然と循環しているのだ。」
    道元禅師は言われる。
    「そもそも真理とは、どこかに隠されているものではない。眼に映るすべての存在が、余すことなく真理を表現し尽くしているのであって、修行や悟りなどといった事柄を考える以前に、真理はあたりまえに世界に溢れている。その大自然の理法を感じ取ることに、特別な技法など必要ない。塵や汚れを拭き取るように修行を続けなければ真理と出会うことはできないと考える人は多いが、そうではない。また、真理とはどこか遠くへ求めなければ得られないものと考える人もいるが、そうでもない。今自分がいるこの場所で十分なのである。特別な修行の末に、真理という名の悟りがあるのではない」と。 これこそが悟りではないか。
    ・峯の色 渓の響も みなながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と
    摂理は 宇宙の始めから 宇宙を支配する真理であり 能動である。
    能動こそは命であり 命は働き 動きをやめない 
    働き 動き続けるのは 慈しみに因るからである

  • @yukimimizuno4123
    @yukimimizuno4123 5 месяцев назад

    動物を殺して食べる言い訳に植物の命もいただくから同じこと、と同列にしているけれどそうなのかしら?肉を食べたいのだったら言い訳はいらないと思います。この法話にガッカリです。