九州王朝の謎!正史からは消された王朝...【ゆっくり解説 】

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 12 июн 2024
  • 「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
    我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
    ※この動画は、過去に起こった出来事をわかりやすく伝えることを目的としています。視聴者に衝撃を与えるような目的はございせん。
    ※動画内に、死を連想させるような言葉を出てきますが、関係者を冒涜したり行動を助長するような意図は一切ございません。
    ※動画内の素材は全て引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的は一切ございません。
    著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願い致します。
    yabaikodaishi@gmail.com

Комментарии • 59

  • @yasushifukai4212
    @yasushifukai4212 Месяц назад +5

    九州説機内説の融合にだいぶ近づいて来て、何となくスッキリ感が芽生えましたぜ、ありがとう。

  • @user-lj3xo8pn3d
    @user-lj3xo8pn3d Месяц назад +4

    九州には日向という東を意味する国名が有りますからね
    畿内から見たら西です

  • @s-yo
    @s-yo Месяц назад +7

    継体の筑紫磐井の乱はどちらが乱なのか?大和ね。
    九州王朝説は謎だけどとても面白い動画でした。
    でも崇神ってぶっちゃけ九州の人だし
    まぁ私が思うに泡国説よりまとも🤔

  • @axxx0101
    @axxx0101 22 дня назад +1

    大宰府の倭京は北側?上半分は痕跡があるが、南側は痕跡が少ないので、条坊都市の建設は途中で止まったとみている。のちに近畿へ移ってからリベンジしたのが初のフルの条坊都市である藤原京だと思っている。

  • @MultiAabbb
    @MultiAabbb Месяц назад +2

    中臣家に伝わる弓前文書読むと面白いよ

  • @user-fw7sn8ot6l
    @user-fw7sn8ot6l Месяц назад +6

    これのトップが国造神で出雲なんだと思う

  • @jun11280
    @jun11280 6 дней назад +1

    夜須とか朝倉とか、畿内と同じ地名が同じ位置関係で、久留米の東の広範な範囲に残ってるんだよね。邪馬台国のことはおくとして、九州に古王朝があって、それが畿内へ東遷したと考えるひとつの根拠になっていると思う。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      九州最大の古墳はニニギから神武天皇までの日向三代の宮崎にありますよ。

  • @KeCN
    @KeCN Месяц назад +3

    668年頃に唐の郭務綜以下2千名の軍兵が大宰府に駐留した。大宰府政庁跡にある筑紫都督府の石柱は明治時代に建てられたモノらしいが、倭王が都督に任ぜられたかまたは、郭務綜が大宰府で羈縻政策をとったことから筑紫都督府と彫ってあるのだろう。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      唐軍二千が太宰府に駐留したというのはどの文献にあるのですか?

    • @KeCN
      @KeCN День назад

      @@user-yo6vh2oi9b
      日本書紀に記されている。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b 19 часов назад

      @@KeCN
      日本書紀には254人と書いてありますが?
      それも上表分をおさめただけで、帰ってますけど。
      この時代の倭国は間違いなく大和朝廷ですよ。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b 19 часов назад

      @@KeCN
      しかも唐軍ではなく、唐の使節ですね。

    • @KeCN
      @KeCN 13 часов назад

      @@user-yo6vh2oi9b 668年に2000人だね。

  • @user-in2jy7ov6n
    @user-in2jy7ov6n День назад

    大和朝廷は遣唐使から大陸と交流持ち始めてますから遣唐使以前の中国史書の倭に付いての記録は九州の倭国に付いてのものですね。

  • @KIKI-zj4qt
    @KIKI-zj4qt Месяц назад +2

    「ヤマタイ」呼びすることで更に混乱するわけで。
    素直に元の呼び名「ヤマトこく」にすべき。

  • @nubo520
    @nubo520 Месяц назад +6

    日本統一王朝なんてずいぶんと後になってからの正立なんじゃないかと思うよな。特に当時の道路事情を考えると。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      古代の交通は海と川ですね。
      畿内は地政学的に、全国へアクセスしやすい地域です。
      瀬戸内海を通れば中国、四国、九州へいけます。
      紀伊半島を通過すれば関東へ、琵琶湖から大川を北上すれば日本海へ出ることもできます。
      これら交通の要衝地は大和朝廷の支配のシンボルである前方後円墳が築かれており、4世紀には関東から九州までが支配下に置かれていたことがわかります。
      九州には王朝に匹敵する遺跡がまったく出土していません。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      日本は基本的に海洋民族なので軍を渡海させるのは、まあ余裕です。
      3〜4世紀にはすでに半島まで軍を派兵してますから。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      日本は基本的に海洋民族なので軍を渡海させるのは、まあ余裕ですね。
      半島最古の正史にも記録されてますよ。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      @@user-dc4ko1cl9s
      はい。
      熊本県の馬門石ですね。
      馬門石が産出される地域にも、前方後円墳はたくさんあります。
      円墳や方墳、横穴墳墓もたくさんありますが、九州においても前方後円墳は桁違いの大きさです。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      @@user-dc4ko1cl9s
      福岡には京都郡という地域があり、記紀によると景行天皇の九州征伐の拠点になったから、その地名が付けられたとあります。
      そしてこの地域には前方後円墳がありますが、これは3世紀ものもです。
      神功皇后が百済から贈られた七支刀が現存していて369年のものと判明しています。
      景行天皇は神功皇后の2代前の天皇なので、時代も一致します。
      九州の前方後円墳は全県に分布しています。

  • @alfa24632000
    @alfa24632000 Месяц назад +3

    日本は隋や唐に遣隋使、遣唐使を送っているので、隋や唐は彼らから日本の歴史をよく聞いていたと思うのですが。遣隋使、遣唐使は日本のどこから船を出しているんでしたっけ。

    • @user-dc4ko1cl9s
      @user-dc4ko1cl9s 8 дней назад +1

      遣隋使は九州から、遣唐使は越後から渡った事になってますが、遣唐使の再現舟ではとても日本海の荒波に耐えられるものではない物が平気で展示されてますよ。
      中国は唐の時代なのに日本書紀では隋に行ったことになってますよ、歴史学者はスルーしてますけどね(笑)

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      隋の官僚である文林郎・裴清は、遣隋使の返礼で畿内まで船てやってきてますけどね。

  • @YO-high
    @YO-high Месяц назад +14

    唐の話では、白村江の戦で「倭王」を捕虜としてるんだけれど、日本書紀にはその話は無い。その時代の中大兄皇子は捕虜にはなってないしな。
    旧唐書にも新唐書にもないけれど「筑紫都督府」の所在は日本書紀には書かれてる。唐が関与してない「筑紫都督府」は誰が設置したんだろう??
    唐が設置したのならば、長官が記載されてるはずだが「無い」。あるのは「日本書紀」だけ。
    てことは、「筑紫都督府」は「大宰府」に「大和朝廷」が設置したのでは?ってこと。唐は関係ないっぽい。
    まぁ、よくわからんと思うわ。

    • @aiueiueo
      @aiueiueo Месяц назад

      歴史捏造勢力にとっては皇室は不都合な存在だと言えます。
      恐らく唐に捕虜として捕まった人達がいたのは事実で、日本の指揮官クラスを「倭王」と呼んだとしても不都合はないです。
      記紀に神話部分がある事を悪用して史実性がある記述も比定する人達は本当に気持ち悪いです。

    • @user-fw7sn8ot6l
      @user-fw7sn8ot6l Месяц назад +4

      昔はつか江戸あたりまで筑紫島なんだよな。所在地に紫入れるくらい高貴な土地ってことを表すのじゃないのかとか思ってしまう

    • @user-in2jy7ov6n
      @user-in2jy7ov6n Месяц назад

      この後に倭王は唐の泰山での封禅に参加してる、日本書紀は歴史を隠蔽してるね。

    • @KeCN
      @KeCN День назад

      668年頃に唐の郭務綜以下2千名の軍兵が大宰府に駐留した。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b 19 часов назад

      @@KeCN
      唐から太宰府にやってきた254の使節の間違いですね。

  • @MsIrina24
    @MsIrina24 Месяц назад +2

    卑弥呼みかより姫でドンピシャの人いたんだね!

  • @user-fs5kh9bc4u
    @user-fs5kh9bc4u Месяц назад +3

    「君が代」はもともとは九州王朝の祝い歌がもとになっているよう。あちこちの王朝が統べられ、大きな和「大和」が出来た。

  • @YUKI-xk7jm
    @YUKI-xk7jm Месяц назад +12

    百田が扱ってるってことが逆に怪しいわ

  • @user-e4sr6jk3
    @user-e4sr6jk3 Месяц назад +2

    記紀とかいう欠陥・ファンタジーのせいで我が国の歴史がわからなくなってる罪深さ。
    せめて古墳を掘らせなさい。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      それは素人の考え
      イリアスというおとぎ話からトロイア遺跡が発掘されて、記紀における出雲の国譲り神話から荒神谷遺跡が発掘された。

  • @user-ui9bm8yd5t
    @user-ui9bm8yd5t Месяц назад +3

    銅鐸文化の起源は古代シュメール・アッシリアに於ける「ミステリーバッグ👜」に起因する。

    • @user-vt1lh6jq2j
      @user-vt1lh6jq2j Месяц назад +2

      シュメールは、大海洋民族であった縄文人の植民地でした。結局、世界の文明は、元をだどれば、世界最古にして最高の縄文文明に行き着きます。

  • @adgjmptw889
    @adgjmptw889 Месяц назад

    九州は漢の倭奴である酋長国家。唐の高宗の封禅に参加した倭酋長とは白村江で捕まった九州の酋長で九州王朝などなかった。
    漢化した畿内が238年〜266年に魏晋と外交した邪馬台国。
    245年に魏に負けて民の一部を中国に強制移住させられた高句麗、261年に朝貢した北魏も大和朝廷と同じ魏晋に関わって初めて中国文化を身につけてゆく民族。

    • @KeCN
      @KeCN Месяц назад +4

      大和王権は唐の時代から大陸と交流するようになったのは旧唐書で明白なのに信じられないようだ。魏志倭人伝の内容は九州北部に合致するが畿内には全く合わない。

    • @adgjmptw889
      @adgjmptw889 Месяц назад

      旧唐書は漢化した突厥王朝の歴史書で不完全。魏〜南朝までの年号鏡が古墳の各地に出土してる時点でヤマトの中国外交は唐以前から始まってる。

    • @user-yo6vh2oi9b
      @user-yo6vh2oi9b День назад

      ​@@KeCN
      魏志倭人伝には会稽・東冶の東にあると書いてあって、位置的には台湾か沖縄あたりになる。
      特産物も亜熱帯である中国の海南島にそっくりとあるから、気候か亜熱帯であることがわかる。
      そもそも九州北部から船で20日南にあるところが九州であるはずがない。