К @artem_krovs_97-24 Середина сентября, как дела?Прочитал ваш комментарий о большим интересом спустя долгое время. Это видео о руинах бывшей линии Конпоку Япо неких национальных железных дорог(которую посетил сам автор постера). Теперь я хотел бы дать общее представление об этом маршруте. [Источник→ Википедия ИТ.д. ] [Линия Конпоку] Изначально планировалось соединить город Сибецу (страна Немуро) и город Шари (страна Китами ). Однако эта желеэнодорожная линия также оказалась во власти второй мировой войны и была упразднена. Какой ф Инал......... ・ Участок=Сиретоко Шари-Косикава 12.8км, станция=7, Он открылся 10 ноября 1957 года и закрылся 1 декабря 1970 года. Линия была прекращена из-за таких факторов, как открытие национального маршрута 244, соединяющего города Абасири и Немуро, депопуляция и распространение частных автомобилей. Ожидания по перевозке произведенной линии также стали фантомом. ・Мост Косикава (Первая река Икусина) Строительство началось в 1939 году и было завершено силами 11 человек. Общая 147м, высота около 21.6м, количество арок 10. Он просто сделан из бетона, наполненного щебнем, без армирующей стали. В 1973 году во время строительства расширения национальной автомагистрали былм сняты две арки. Как указано выше. Надеюсь, вы тоже позаботитесь о своем здоровье. понедельник, 18 сентября 2023 г. От Хидэки Вада
道民です。
誰が悪いでもなく発展のために開拓した路線が自然に還ってるのをみてウゥっと胸にきます…
線路をひいた方、山を開拓した方、ありがとうございました。
無くなっても記憶には刻まれています!!
👍️
遺跡なんですよね。雰囲気が。
これは遺跡ですね…
根北線は短い期間だけ鉄路がつながっていたのですね。終着駅は駅逓所あと近く。廃線から久しく地上からはほとんど遺構がありませんがドローンを駆使した映像はさすが、ベテランの迫力です。しかし学校も廃校が相次ぎ悲しいものです。
18:33 からの空撮。
アーチ橋が「ドローンか、来客なんて、何十年ぶりだろう、オレの勇姿をカッコ良く撮ってくれよ」と言ってるようで、なんか、涙がウッときました。
👍
今回は特に凄まじいですね
既に廃線後とはいえ昔の航空写真の時点でほぼ全ての駅が「周りに何もない」ってのはそうそうなかったはず
1977年時点で何も無いですからね…
廃線から7年後の1977年の時点で沿線はかなり閑散としていますが、
おそらくあの様子だと現役時代の60年代でも人家はほとんどなかったのでしょうね。
1989年に標津線が廃止されたことを考えると、全線開通していたとしても、そう長くは持たなかった路線かもしれませんね…。
越川から先は峠越えで無住地帯ですからね…
数ある北海道の廃線の中でも、特に痕跡が少ない路線ですね。最大の遺構が未成部分のアーチ橋というのも、寂しさを感じます。
未成線のコンクリートアーチと、国道をまたぐ部分が撤去されたという意味で、奈良は五条の五新線跡のアーチ橋と似ている感じがします。
知床斜里駅、すぐ前のホテルで トレインビューをしたことを思い出しました。
あの渡らずの橋も下を走る国道の安全のために、その姿が...
トレインビューいいですね…
まるで、本物の遺跡だし、
リアルラピュタの世界………一度で良いのでこの目で見てみたいですね…🥲💫💫👍
リアルラピュタ…
そんな感じですね…
ドローン映像素晴らしすぎて自分も現地に行きたくなってヤバいです・・・
👍
すべての駅跡が、消えてしまうとは…
アーチ橋だけでも、残り続けて欲しいですね
そうですね…
元々人口希薄地帯に北海道開拓の号令で戦前に計画されていた路線だけに、その生い立ちが不運極まりないです…
そうですね…
国鉄再建の議論が始まる遥か前の廃線という稀有な例らしく、本当に何も無いところを走っていたのがよく分かりました。
また廃線後に並行して走っていた国鉄バス、時刻表の地図にも出ていた「平田宅」という停留所名が、印象に残っています。個人宅しかバス停名に使えるものが無いような地域だったのですよね。
実はその「平田宅」=「旧越川駅逓所」で、もともとはそっちが「元祖 越川駅だった」とも言えるでしょう。ここの平田さんが根北線最終日の越川駅一日駅長として制服を着て、斜里からのさよなら列車を迎える記録映像動画がRUclips上にアップされています。(ここのコメ欄でも紹介されている方がおられます)
@@internationaleldorado1532 その映像の 3:21 が「平田宅」の平田さんです。NHKの記録映像だとカラーで、しかも顔出しで映ってますよ。
越川橋梁跡の根室側を映したドローンからの撮影が素晴らしい。感動しました。
道東在住時代、野付半島へ撮影に行く際に何度か越川橋梁跡を訪れました。橋の国道側の付け根に登ってみたことがあります。背後に農地が広がっていました。
初めて通りかかった際、山の中に突然現れた大きな柱に、何の遺構かと驚きました。今もお供え物があるのでしょうか。橋梁の中に人柱が埋められていると言い伝えられているそうです。
知床斜里駅、まるで嘆きの壁のようですね…旧斜里駅からは0番線が根北線…
哀愁の0番線は、名寄駅が深名線、函館駅が江差線、遠軽駅が名寄本線でしたね…
◯線◯号の呼称が長閑な農村地帯らしい…
動画でこの角度からの越川橋梁の近影は珍しいですね…有り難うございました。
嘆きの壁…
初訪問時は普通の駅舎だっただけに…
0番線ってめっきりなくなってますよね
今あるもので思い浮かぶのは米子くらいですかねぇ
私は1965年生まれの斜里町育ちですが、根北線の記憶は全くありません。越川橋梁は見に行ったことがあり、懐かしく思いました。
斜里町のご出身でしたか。
やはり地元の方にも、あまり認識されていない路線だったんですね…
先々月訪問してきました
落葉した姿を撮りたいものです。越川橋梁が無ければここまで語り継がれることは無かった廃線跡だと思います
そうですね…
越川橋梁が無ければ、訪れる人もいないでしょうね…
ひろりんさんへ
(9月10日の20時前から)この動画の全編を拝見しました。冒頭に根北(根室と北見の国を結ばれんとした事からの命名と知り勉強になりました)線の起点だった知床斜里駅であなたがキハ54の単行列車を見送られ構内を歩かれながら自撮りし紹介された所と最後の第一幾品川橋梁を上空からドローンで俯瞰し撮られたという2つの動とその間で農地に飲まれたという越川までの各駅の跡の今昔を航空とあなたが収められた双方の写真で比べて見せられるという静の面がはっきりした構成で、理解が深められた感慨です。予め私は根北線についてあなたもご活用の歩鉄の達人というサイトを見て、起点たる斜里駅から隣の仮乗降場との間でさえどのルートだったのか判別し難いと断言されていた事から先の大戦や況して途中の山間部を貫くルートを採られたにせよ早い廃止は不可避だなと察しがついていました。
♪後(あと)は土へと還るだけ
(一世風靡セピア「前略、道の上より」1番から引用)
この一節から、根北線の大半の跡も農地(土=自然)に還りゆくという宿命を私も思い知らされましたね。ひろりんさんも複雑な心境でしょうけれど、ここは気を取り直し変異しているコロナウイルスの流行りや健康管理に注意し過ごされますようお祈りします。
(記・9月10日の20時台)
ありがとうございます👍
昔の航空写真を見るとアーチ橋の前後にもちょっとした築堤(?)みたいのがあったっぽいですね。今も一部が農道のようになっているので機会があったら探ってみたいです…
農道に転用されている所もありそうですね…
現地住民でした。(取り上げていただきありがとうございます。)
自分の記憶が確かならば、以久科小学校跡は体育館の奥にあります。
(以久科小学校跡と表記されて場所は地域の集会所ですね。)
以久科の駅舎は1990年代には現存していましたが、2000年以降のいつ頃に取り壊されたかはちょっと把握できていません。
(なんか建物の中に、馬車などで使われる車輪みたいなものが置いてあり朽ちていた記憶があります。。。)
越川駅も自分が居住していた頃には既に跡地となっていたかな。
橋梁についても1998年に国の登録有形文化財とあるのでその際に車が停車できるスペースが作成されたのかな?(詳しく把握していなくてすみません)
それ以前は木々に覆われて橋梁の上あたりしか見えなかった記憶があります。
懐かしい映像を見れました。ありがとうございます。
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何回か訪れて廃線跡を探索しましたが越川橋梁以外に殆ど痕跡がなくてわからなかったです。今回拝見してやはり本当に跡形はないのですね。橋梁の上からの動画ありがとうございます。初めて見る事ができました。ここは保存となって良かったです。また機会あれば探索したいと思いました。
👍️
昭和初期から建設が始まった路線ではあったものの、正直な話、道民の目から見ても「そもそも斜里と標津を無理矢理山岳地帯を貫いてまで鉄道で結ぼうとした理由は何だったんだろう」と思う路線でした。
案の定さして運ぶものもなく早々に貨物営業は廃止、全通計画も半ばで頓挫してしまいました。乗客も殆どいなかった記憶です。
そうですね…
標津まで繋いでも微妙なのに、運ぶものも無い越川まで開業させたのは…
軍の要塞があったために重要視された路線でした。
@@douga9996 さん そのために計画された路線だったとしたら、なおのこと戦後見直されてしかるべきでしたね。当初の仮想敵とは違ったためだったのかもしれませんが、戦中は工事中断し線路も一時撤去されたりしていた路線だったと思いますので、現実には軍事的な需要もそう高くはなかったのかもしれません。終戦直後の火事場泥棒的なソ連の侵攻が樺太と千島、北方領土で止まったので北海道は赤化されずに済みましたが。(現ロシアとの間でも国境線はまだ確定していません)
@@kutakichi 改正鉄道敷設法別表に入っていた路線でしたので票田のために延伸されましたね。
@@douga9996 さん 改正鉄道敷設法というのは国鉄を破綻させる一因にもなったまさに悪法でした。一度建設対象になるとよほどのことが無い限り(実際にはよほどのことがあっても)中止されないという財源や採算無視の法律が民営化されるまで続いていたことが異常だったと思っています。
廃止から4年後の昭和49年に廃線跡をたどりに山口県から行きました。最初から無人駅だった下越川は何もありませんでしたが、以久科(昭和33年、開通後10ヶ月で無人化)、越川(昭和37年無人化、バス停は「平田宅」)は駅舎はしっかり残ってました。
以久科と越川は、廃線後も暫くは駅舎が残っていたようですね…
越川駅舎はジャガイモ畑の中にあり、悪いとは思いながら写真を写すために横断しました。もう時効でしょう。壊れた出札所、改札。
生まれる前年に開通。小6で廃線になり、高1で訪問。今は高齢者になってしまいました。
今と違い当時は資料が少なくて…主目的が根室拓殖鉄道跡巡り。下関からまだ山陽新幹線すら岡山までで。行くのが大変。上野から青森まで特急に潜りこんだのですが、便所の前から1歩も動けず。
北海道に渡っても似たようなもので、網走では窓から出入りしました。
当時の国鉄廃止は、札沼線の新十津川ー石狩沼田が最後だったかな…総理が佐藤から田中に変わり、角栄の鶴の一言で中止になりました。結局乗れたのは、長崎の世知原線、臼ノ浦線だけで、中1の時に夜行で乗りに行きました。幸袋線や唐津線岸嶽支線は近いのに行けず後悔しています。
お疲れ様です、斜里駅跡が、遺跡みたいですね?廃線跡が、自然に還っていて、オッフ〜🐻💦
オッフ…🐻
こうゆう路線は何か哀愁あって好き
👍️
いつも楽しく拝見してます。
跡形もなく無くなるのは、なまら寂しいですね…
いつもありがとうございます!
北海道の廃線一覧図を見たときにめっちゃ気になった路線です!
雰囲気がさすがですね。。。
ですね…
廃止当時NHKでも採り上げられていて、番組を観た記憶があります。まだまだ実際に北海道に行ってみるなんていうことは考えてもみない頃でした。
数多い廃線の中でもとりわけ早く、もう大昔といった感さえあります。
当時から既にとんでもない処に駅が設定されていたんですね。
何もない所に駅が設置されていましたね…
廃線後の写真には辛うじて残っていた痕跡も、今では完全に農地に飲み込まれてしまっていましたね。第一幾品川橋梁は国の登録有形文化財ですので、これからも残って欲しいですね!
👍
立派な橋ですね。未成区間で終わったのが残念ですね
そうですね…
1970年廃線だから、今昔の比較写真も昔の方は廃線後という。当然半世紀後の今や、何も残るはずも無く…
冒頭の知床斜里駅構内写真をみて、外面と違いあまり変わって無いなあと実感。根北線廃止当時も同じだったのだろうか…
動画内の指摘通り、駅舎全面だけハリボテ(笑)は同感。一応中身もリニューアルしたみたいですが。
国道沿いに残る第一幾品川橋梁(未成)を、以前ドライブがてら下から仰ぎ見たこと有るけど、空撮(ドローン)で見ると、その壮大なスケールを感じますな。
「この上を列車で走る事が出来ていたら…」の感想は同感です。
👍️
18:55 橋梁が文化遺産のように見えました、列車が走る事無く役割を終えたなんて寂しすぎます
そうですね…
北海道ツーリングで根北峠を越えた際に、何か橋の遺構のようなものが見えたと記憶していましたがこれだったんですね。
これだけ巨大な遺構だと目に付きますね…
2年前に同じく根北線全駅跡を探索しました。先月再訪した未成線越川橋梁以外に遺構が略皆無なのが何ともいえません。
その中で記念碑を見つけられたのはひろりんさんの大きな成果ですね。
👍
根北線は残念ながら乗らずじまいでした。しかし、この前は札幌市苗穂のからまつトレインで根北線のきっぷを200円で買ったぐらいです。オッフ〜。話し変わりますが、毎年恒例の夏旅行は9月10日の石北本線で上川駅100周年の記念きっぷと記念列車キハ40を撮って、12日間の北海道一周を終えました。
関川真智子さんへ
今晩は。あなたのコメントを興味深く拝読して、鉄道の御利用・自転車の御活用等で旅を楽しまれているという現況と私はお見受けしました。
さてひろりんさんが上げて下さったこの動画で扱われた旧国鉄の根北線ですが、ウィキペディアを見て判った事を以下に大まかに記そうと思います。
・当初は、根室の国の標津町と北見の国の斜里町を結ぶ計画。区間→知床斜里~越川の全長12.8㎞、駅数→7、開業は1957年11月10日、廃止は1970年12月1日の13年余り。
(裏での過疎・根北線の開業前辺りの網走と根室市を結ぶ国道244号線の開通・自家用車の普及が要因と言えます)
・越川(第一幾品川)橋梁
全長=147m、上面までの高さ=約21.6m、最急勾配=25‰[1㎞行くと25mの高さを登った事]、アーチの数=10。先の大戦の前だった1939年に着工したこの工事はたこ部屋の11人の犠牲を出すも鉄筋無しの砕石を詰めたコンクリート製という簡素な造りで完成も1973年に国道の拡幅工事で2箇所のアーチが撤去された
との事です。沿線の特産たる甜菜等の輸送に活用という案も幻となったそうで、過疎等の現実に抗えず廃止された根北線は正に不遇の路線と謂うべきでしょうか。何かと関川さんも複雑な心境でしょうけれど、変異してきているコロナウイルスの流行りや健康管理に注意し過ごされますようお祈りします。
(記・9月13日の21時台)
@@和田秀樹-r7u 久しぶりのコメントと解説をありがとうございました。根北線は残念ながら図書館に当たっても詳しい資料が見つかりませんでした。なんで?無いのですか?と言われますが、ちょうど廃線になったのは昭和45年12月1日だったので、この頃はSLブームの最高潮だったので、今みたいに廃線鉄は少数で、しかも使ってるのはSLではなく、当時はSLファンから無視されてたキハ22が主に使用されていたので、魅力が無く訪れる人気はなかったでした。人気があったのは釧網本線の蒸気機関車C58でした。鉄道の記録に穴が空いてしまったのはSLブームの負の側面でした。これと同じ頃に廃線になった札沼線新十津川・石狩沼田間は深川機関区の蒸気機関車9600型の設定されて、旅客はキハ22かキハ12が目立つ線区で人気もありませんでした。鉄道=蒸気機関車のSLブームの負の側面として手薄に空白を生じたまま固定化される忌々しき状態となっています。
👍
戦時中の中断からの廃線・・・寂しいですね。アーチ式の橋梁はいいですね。観光化できればいいのに。
そうですね…
根北線☀︎☀︎☀︎
他を圧倒する無人地帯ですね。
採算度外視して建設された路線で
悲しくなりますね。
『越川橋梁』素敵でした。
👍
今でも無住地帯になってないのが意外ですらありますね。
全線にわたって1977年時点からほぼ変化が無いのは、もともと農地に鉄道を通して、それが廃止になって元に戻っただけだからでしょうね・・・
根北線の開業で新たに住んだ人もおそらく皆無だったでしょうし。
しかも最大の遺構が未成線部分というのも皮肉ですが、今回の空撮でその異様、偉容が見て取れてすごくありがたいです!
👍
確かに畑の中を不自然に横切るように通っていた例が多かったと思います。戦時を理由に土地を徴発したのでしょうか。
あの有名なアーチ橋、建設当時、工事の無事を祈るため、生け贄をささげる、人柱になった人がいたという話を聞いたことがある。
あの橋脚の中に、今も犠牲者が眠っている。
知床横断道路の鉄道版ってとこですかね。
ただ道路は今でも冬季閉鎖ですから、仮に鉄道ができたとしても除雪が大変だと予想できます。
国鉄時代に既に廃線になってたら超自然還元ですね、、
越川橋梁が唯一の贈り物といっていいですね。
そうですね…
JR北海道、また乗りに行きたいですが
冬以外だと普通に羆とかがいますので
駅など外へ降り立って(途中下車して)歩くのは
たとえセイコーマートがあるような人の住むところでも殺気が爆発しっぱなしです・・・
キツネにも追っかけられたし良い思い出が無いです
でも人工物が全く無くて電波も飛ばない田舎を通り越した自然の景色は
本当に最高です
👍
飲み込まれたのが、まだ農地で良かった気がします。人の営みの中ではありますので。
そうですね…
この未成線橋梁跡は美しいですね!
👍️
国鉄根北線が13年間で取り扱った貨物は越川駅の駅長さんの引っ越し荷物だけだったそうです また沿線には駅や乗降場の他に住民が建てた乗降ホームがいくつかあってそこで待っているとディーゼルカーを停車させて乗客を乗せていたそうです NHKのアーカイブ映像で残されております
👍
お疲れ様です😌💓
渡しも越川橋梁見に行きました、根北線が全通していたら北海道周遊の一翼を担っていたのでは…等と思ったりしたものです🤔
そうですね…
そんな未来も見てみたかったです…
このあとすぐに「北海道の廃線路線シリーズ」をみてしまいました。あの朝礼台みたいな駅はどれかな?など。
私も見ました。
本当に朝礼台みたいでしたね…
幾品川の橋梁跡
1965年の航空写真では完全体でのこっています
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昔の航空写真図
1965年と比較すると線路跡であろう原野の伐採跡がみられます
👍
東京在住、ほぼ毎年北海道斜里町の国道334号線沿いの民宿「風の子」に連泊しています。根北線の跡は、ほぼありません、第一以久科橋梁は廃止線ではなく未成線です、噂ではたこ部屋労働者の人柱というのを聞いた事があります。ここの近くに地元の人が管理する越川温泉があります、源泉掛け流しの秘湯です。
越川温泉は行ってみたいですね…
列車の走らなかった橋梁が遺構として残り、列車が走っていたところはほぼ跡形もなく消滅してるんですね、、、。
空中からの眺め、ありがとうございました(*´∇`*)
👍
最後は実に情緒豊かな画でした。ちょっとしみじみ…😌
路盤も徹底的に農地に転用されているのであれば、その方が土地の活用法としては正解なのでしょう🙂
ひろりんさん的には、下調べの段階で愕然としたかも知れませんが😁
原野に還った廃線跡より良いですね。
もし根室標津駅。迄、開通したなら〜 天北線 興浜線 湧網線 釧網本線 『根北線』 標津線 根室本線を一気通貫。した
オホーツク知床縦貫、観光(クルーズトレイン&トロッコ列車)が運転されたかも❓お土産に季節の海産物や、宿泊も有りかと❓❓ 汗💦
廃線跡は、駅跡、路盤跡、橋梁跡・橋台跡など何らかの遺構がそこそこある路線が多い中で、根本線は激しく消滅した路線の一つですね。
そして、人ももう殆ど住んでいない場所になってしまいました。
未成線区域に佇む越川橋梁だけが、ローマ水道橋の遺跡のように時を経て無言で訴えかけているようです。
👍️
メカとんぼ。大活躍👍❤
👍
廃止当時、知床斜里駅の駅舎は、翌年先代の駅舎に建て替える前の先々代の木造駅舎でした。
「鉄道廃線跡を歩く」刊行当時はまだブロック造りの建屋が残ってましたね。
軌道が跡形も無いのはむしろ今なお耕作を続けている農家さんがいるわけで、ヒグマがウヨウヨいる知床近辺でスゴいことだと思いますよ。
この路線の廃線後の代替バスの話、また投稿させて頂きますが、斜里から根室標津まて斜里バスが昭和50年代半ばまで走っていて、時刻表の地図では途中、「越川平田宅」というバス停が掲載されていました。おそらく越川駅周辺のバス停かと思われます。北海道ではバス停でも平原とか目印の無い箇所では地名番地では分かりづらいので、〇〇さんの家の前で、「〇〇宅」というバス停の名前をつけるのは珍しく無いと聞いています。しかしながら過疎化が進み、家主がいなくなり家屋も無くなるとバス停だけが残り妙な雰囲気だったとか。斜里バスの路線も当然今はありません。
今になると、このような農地や森にかつては線路と駅があって、人が汽車に乗って移動していたという事実すらも忘れ去られてしまいそうですね…
そうですね…
以久科駅は90年代までは残ってたみたいですよ
営業時の映像見るとすでに廃墟化してる駅もある有様でした
未成区間は終戦直後の航空写真だとくっきりわかりますね
「地形図を片手に廃線跡を歩く」の第一人者 故堀淳一先生。
取り壊し前の以久科駅を実際に訪れた紀行(写真入り)が北海道新聞社から出版されていました。
駅舎の脇には立派な鉄道官舎が設置されていましたが、駅の開業(根北線開通)から1年も経たないうちに無人駅となってしまい、新築のままお役御免となっていたようです。
「SLが輝いた日々」という本で、根北線のカラーリバーサルフィルムという超貴重な写真がありました。
👍️
冒頭の駅のホームの室外機が回ってるのみると今年の北海道はいかに暑いかわかりますね。
しかし人工物とは言え、何故コンクリと植物のコントラストはこうもそそられるのでしょうか…
斜里辺りでも、今年の夏は暑かったですね…
私も植物に埋もれる人工物に、そそられます…
子供の頃から根北峠通る度に見ていた謎の構造物が未成線の橋梁だとは思わなかったです
元々人口稀な地域の未成線なので,廃止まで13年は仕方なかったところかとは思いますし,今はさらに人口稀有な地域になっているので,全線開通していても標津線と同じタイミングで廃止されたかなとは思います。
しかし…毎年流氷の季節に根北峠をレンタカーで通過している者としては,鉄道で安全に通過したかったなぁと思うところです。(真冬の根北峠はめちゃくちゃ怖いですよ~。ホワイトアウトした時はさすがに命の危険を感じました!)
冬の北海道で峠越えはしんどいですね…
@@hiroring0323 さん:
流氷やオオワシ・タンチョウの撮影をするので,根北峠や羅臼峠・野上峠・美幌峠等を真冬に運転します。何度も滑ったり,ホワイトアウトに巻き込まれたりしました。
徒歩でホワイトアウトに巻き込まれたこともあり,命の危険は何度となく感じましたね。
@@芦田正博
そうでしたか…
ここはさすがに乗れなかったので以前から興味津津でしたが、路盤跡を辿り歩く事すら叶わないようですね。
乗車した記憶のある鉄な方がおられるとすれば、現在恐らく70歳前後か、若しくはそれ以上でしょうか?色々と当時の話を聞いてみたいものです。
そうですね。
ほとんどが農地に転用されたので、廃線跡を歩くことも出来ないですね…
13年………
戦前時代は需要が見込まれてたのでしょうかね………?
物資の輸送が目的だったので、道内に鉄道を張り巡らせたかったんでしょうね…
戦前は自動車がショボかったですからねぇ。
ランドクルーザーもなく、クラウン、スカイライン、マークⅡやパプリカ、カローラもないですからね。
@@internationaleldorado1532道路も未舗装が当たり前で雨が降ったらぬかるんだり、雪が降ったら吹き溜まったりして走行不能になるのもしょっちゅうだったと思われます。
越川橋梁はまるで遺跡ですね
(鈴木真貴子さんへ)
あなたのコメントを拝読し、根北(こんぽく、本来の終着になる筈だった標津町が在る根室と起点たる斜里町が在る北見の国を結ぼうと計画された事に由来とか)線の終着だった越川駅の跡の南に遺る越川(正しくは第一幾品川)橋梁の姿が遠くローマ市に在るコロッセウム(アーチが連なる昔の競技場)に似ると思われたのだなと私はお見受けしました。
ウィキペディアを見て、根北線について判った事を以下に記そうと思います。
(国鉄根北線)→1957年11月10日に開業も経営不振から1970年12月1日に廃止。全線12.8㎞と短く7駅のみ。(民間より軍需の輸送を重視していたらしいとも)
・越川橋梁→全長147m、路盤までの高さ約21.6m、アーチの数10、最急勾配25‰[1㎞行けば25mの高さを登った事]、鉄筋無しのコンクリート製で砕石を詰めただけという戦中故の簡素な工法でたこ部屋の11人がこの建造で犠牲になったそう。尚、国道の拡幅工事でこの橋は2つのアーチが撤去された との事です。
況して斜里の次の停車場から終点まで農地から山間という立地なら、全線を通す云々より常に赤字で早い廃止が落ちだなと私も察しがついていました。鈴木さんも何かと複雑な心境でしょうけれど、ここは気を取り直しコロナウイルスの流行りや健康管理に注意し過ごされますようお祈りします。(記・9月10日の21時台)
これはもう遺跡ですね…
鈴木さんへ
今日は。越川橋梁について、新たに(ウィキペディアを見て)判った事を以下に記そうと思います。
→(着工が1939年の戦前で)国道244号線の拡幅工事に伴う、この橋のアーチが2箇所解体・撤去されたのは1973年で今で丁度50年に。
との事です。あなたが老朽化した橋梁より寧ろ遺跡と直感されたのも一理有ると、私も解しました。鈴木さんも白露とは名のみの暑さが続きますが、健康管理に注意し過ごされますようお祈りします。
(記・9月13日の午前11時台)
@@和田秀樹-r7u
和田さん、いつもありがとうございます
心霊スポットの美しい遺跡ですね。美しい観光には心霊スポットになってる場所も多いです。ちなみに私は心霊スポットの探索もやってる、心霊鉄です。
今回の現地に行ってみましょうが何の痕跡もないのが印象的でした。いつもは何かしらの痕跡があったのですが…。
これだけ何も無いと…
やっぱり計画がなくなったら駅かどうかもわからなくなりますね。
そうですね…
第一以久科川橋梁も非破壊検査によって人柱が埋められている痕跡が確認されているようです。
そうなんですね…
その橋のちょっと先にある、無料のかけながし温泉「越川温泉」で、80-90年代に野宿したライダーの話で「夜に出る!」とひときわ有名だったそうです。今じゃ別の「出た!」が怖いですが。
この話しがあるから越川橋梁は心霊スポットとして有名なんですよ。夜はやっぱりですんですね。そのライダーさんも霊感があると思います。その後、果して無事で過ごせてるか?心配ですね。
橋梁上の緑がひときわ美しくて泣けました(T_T)
👍
興浜線とここが繋がっていれば、オホーツク線でまだ残っていたかも知れないと思うと残念です
😢
そうですね…
現在のコメントがほとんど「・・・」なのは非常に珍しいですね。
仮に全線開業していても、毎年赤字だった事が容易に想像がつくのが残念です。
北海道のオホーツク海側の鉄道は戦前積極的に作られたのに戦後下火になったのは北方四島と南樺太が
日本領では無くなったことが影響しているかと。
国後島へ行くなら標津からが便利だろうし。
標津からは国後島が見えますからね…
ここはほとんどがオッフの路線です。
よくぞ調査してくれました。
オッフ…
ほぼ畑に飲まれていたのですね。自分の中ではオッフの連続です😅
元々何も無いうえに、廃線後はほとんど農地に…
@@hiroring0323根北線はスーパーオッフ〜ですね。
この後、札沼線の動画を見てコメントしますが、札沼線の廃線跡も、ここみたいに農地に転用されて駅や線路の跡をたどるのは難しくなると思います。
そうなるでしょうね…
もう20年前に訪れたことがありますが、全然変わってませんね。
越川橋梁には人柱が埋められていると聞いたことがあります。
調査でも何かが橋梁の中にあるとのこと。😱
ご指摘の人柱は本当の話しです。石北本線常紋トンネルと同じようにタコ労働者が埋められていたのです。それで、心霊スポットとして有名になりました。
立派な橋梁まで建設したのに・・・
次は越後交通長岡線でお願いします!
HTBのアーカイブにある、「第一幾品川橋梁(越川橋梁)」が全部つながっている時代の映像です。
ruclips.net/video/zHoQqU38OMY/видео.html
ありがとうございます👍️
0:55あたりのBGM誰か教えて頂きたいです🙇♂️🙇♂️
BGMは「夏の思い出」です。
ruclips.net/video/j72rz_MZxrs/видео.html
@@hiroring0323 ありがとうございます😭😭
チャンネル登録しました!
路線の地図でも分かるとおり、色々と中途半端に途絶えた路線になってますね…
そうなんですよね…
なぜこんな所まで開業させたのか…
В каком году закрыли линию Нехоку и его причина закрытия ?
Линия Нехоку была отменена в 1970 году. Причиной закрытия стало отсутствие клиентов.
К @artem_krovs_97-24
Середина сентября, как дела?Прочитал ваш комментарий о большим интересом спустя долгое время. Это видео о руинах бывшей линии Конпоку Япо неких национальных железных дорог(которую посетил сам автор постера).
Теперь я хотел бы дать общее представление об этом маршруте.
[Источник→ Википедия ИТ.д. ]
[Линия Конпоку]
Изначально планировалось соединить город Сибецу (страна Немуро) и город Шари (страна Китами ).
Однако эта желеэнодорожная линия также оказалась во власти второй мировой войны и была упразднена. Какой ф Инал.........
・ Участок=Сиретоко Шари-Косикава 12.8км, станция=7,
Он открылся 10 ноября 1957 года и закрылся 1 декабря 1970 года. Линия была прекращена из-за таких факторов, как открытие национального маршрута 244, соединяющего города Абасири и Немуро, депопуляция и распространение частных автомобилей. Ожидания по перевозке произведенной линии также стали фантомом.
・Мост Косикава (Первая река Икусина)
Строительство началось в 1939 году и было завершено силами 11 человек.
Общая 147м, высота около 21.6м, количество арок 10.
Он просто сделан из бетона, наполненного щебнем, без армирующей стали. В 1973 году во время строительства расширения национальной автомагистрали былм сняты две арки.
Как указано выше. Надеюсь, вы тоже позаботитесь о своем здоровье.
понедельник, 18 сентября 2023 г.
От Хидэки Вада
17: 08~「これがかつての終着駅の姿だと思うと寂しいですね」
そこまで思うのは鉄道(廃線跡)ファンだけかも…?
地元にとっては途中駅含め、駅前集落が形成される間もなく消えた
路線でしょうし、うーん
地域の発展にも貢献していない路線なので、愛着も無かったのでしょうね…
流石に国鉄の赤字83線の更に前に廃止になった盲腸線で半世紀以上経過しているので
何も残っていないですね 特に終着駅の越川駅の閑散さは驚くべきレベルです
それにしても未成部分が最大の遺構となっているのは何とも皮肉ですね
札沼線の廃線部分も基本は農地に転用されるみたいですから、後半世紀もしたら
このような風景に変わってしまうかもしれませんね
ありがとうございます!
農地転用されると跡形も無くなってしまいますね…
中途半端に開業した路線よりも、昭和初期に完成した越川橋梁の方が愛着があったんでしょうか…
根北線は赤字83線で廃止です。
ドローンまで駆使するとは流石です…( °_° )
👍️
確か、この路線は白黒の映像をRUclipsで見る事が出来ますが、この中でキハ31よりも🚌や動物の方が速く走行していましたね😮
速度が出せない路線だったようですね…
いつものなら1977年は現役時代、現在は廃止後という感じだが、
根北線の場合、1977年の時点で廃線なのか...
そうなんですよね…
@@hiroring032318:34の部分だけは1960年代の画像がありました
やっぱり古い時代の廃線だと画像も少ないんですね...
昔、越川橋梁を見た時に何とも言えない無情さを感じました。根室標津側の丘に登り、上から見たことがありました。まさしく遺跡といえる遺構でしたね。
1968年頃の時刻表を見ると網走からの直通列車があったようですが、当時の沿線の状況から察するに利用者数はおっふでしょうね。
むしろ藻琴から東藻琴・末広までの殖民軌道や止別から小清水の北見鉄道の方が需要はあったでしょう。
斜里〜越川は原野に還るのではなく、現役の農地として今も日本の食糧を支えていると考えると、原野に還った廃線跡より「おっふ度」は低いように感じるのは私だけでしょうか…
農地に転用された廃線跡は「おっふ度」は低いですね。
@@hiroring0323スーパーオッフ〜。
今となっては起点の釧網本線すらいつまで残るのやら・・・。
釧網本線も厳しいですね…
元々朝礼台みたいなわずかなホームしかない駅だから即撤去
1977年の航空写真が、JR移管後に廃線となった他の多くの路線を紹介してくださる際における現在の航空写真にあたる感じでしたね。
(「知床斜里駅」よりは「斜里駅」の方がしっくり来るというのには私も同意です。「大阪梅田駅」よりは「梅田駅」ってのと同じですね。)
1977年前後の航空写真は全国各地を網羅しているのですが、それ以前だと戦後まで無かったり解像度が低かったりするんですよね…
未だに知床斜里駅や大阪梅田駅には違和感があります…
きれいな直線の路線…。跡形はまったくないけれど。渡らずのアーチ橋…素敵だけど、やはり、根室標津まで繋がってたら…と考えちゃいますね…。
そうですね…
こんばんは〜国鉄廃線のはしりで他に何本の線路が廃線になりました この頃 国鉄合理化 進み 廃線ラッシュなりいまにいたります あの分断された橋は初め繋がって人が渡っていけたそうです 人柱もそうですが 確か戦争中資源なく 鉄筋替わりに 竹がはいったとか?古い話で確証ないが 不思議所です。
本当に不思議な場所でなんもですから心霊スポットとして有名です。昼は観光名所で夜は心霊スポットとしての2つの顔があります。
根北線を廃止する一方でもっとなにもない山奥に
名羽線作ってましたが
そうでしたね…
さすがに根北線の現役時代は私もリアルでは見ていないです😢
が、根北線の代替バス(斜里〜越川)があったのは覚えています。
代替バスがあったんですね…
その昔は、越川から先、根室標津までを結んでいました(いわゆる根北線がバス路線として全通していた)。
路線短縮してからは越川の先「平田宅前」が終点だったような気がします。
幾品川橋梁はもともと今の倍以上の長さが残されていましたが、バスやトラックが安全に通れるよう道幅を拡張するために、その半分が壊されてしまいました。今なら北海道遺産保全として、別のよい手段が講じられたでしょうに…。
昭和55年の千歳空港駅(現南千歳駅)開業によるダイヤ改正直前の、「鉄道ジャーナル」か「鉄道ファン」あるいは別冊号で、北海道一周のルポで、ライターは網走を出て根室標津に向かうのにダイヤ上斜里からバスを使わざるを得ず、途中根北線の痕跡も掲載していたと記憶しています。終点根室標津駅は違うバス会社の縄張りなので駅前まで入れなかったとも記憶しています。バス停の「越川平田宅」の意味が当時はわからなかったのですが、後年TVで北海道の原野の途中の停留所で目印として〇〇さんの家の前にする際、〇〇宅と名付けていたみたいです。他のところでは引っ越して何も無くなってもバス停はそのままという例もあったそうです。
50年前の営業指数2700超えは、今の東条 豊後落合よりやばいのでは?
そうですね…
ヤバいです…
現役時代の遺構がさっぱり残ってなくて未成線が最大の遺構とは面白いですね。
美幸線もそうですが、なぜ全線開通してから営業開始しなかったのかと思います。終着駅が辺鄙な山の中で誰が乗るんだと(笑)
そうですね…
根北線と白糠線以外の、北海道の国鉄~JR線に全部乗車した事のある者です。
さすがにこの2路線は、廃線が早すぎて乗れませんでしたが、根北線が仮に昭和50年代後半まで残っていたとしても、廃線は、まぬがれなかったでしょうね😢。
もっとも、某首相の著書では、新幹線が根室や稚内まで建設するかのような、荒唐無稽な路線図がありましたから、根北線が需要の見通しも無く開業したのも分かりますね😢
どう考えても需要がありませんよね…
白糠線がマシに思えてしまいます…
手宮線や、美唄~南美唄(函館本線 南美唄支線)や京極~脇方(胆振線 脇方支線)にも乗られたのですね。是非当時のお話をお伺いしたいです。
@@Su---- すみません!それらの路線をすっかり忘れていました。当方は、58歳のおじさんなので、さすがにご指摘の路線は乗ってません。たいへん失礼しました🙇♂️。
@@光義皆川 いえいえ。とんでもございません。未だに「脇方駅、南美唄駅に行ったことあるよ!」という方には出会ったことがなかったもので、舞い上がってしまいました。あとほかには、紅葉山~登川間も廃止がS56年と早いですよね。
渡らずの橋、これも、すごい事に、オッフ〜🐻💦
オッフ…🐻
@@hiroring0323スーパーオッフ〜🐻。
@@真智子関川
🐻