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プロショップ高井のグローブは物凄く使い易かった。30年以上オートバイに乗ってますが忘れられないほどの使い易さでした。
私も平忠彦さんに影響されてプロスタッフRをずっと使っていました。立体裁断なので非常に手に馴染みましたね👍️
高校生の時に当時の事故の報道が新聞で小さいですが出ていて、もの凄くショックを受けた思い出があります。高井さんのレースは関西ではテレビ放送でTBC杯ビッグロードレースでの走りしか拝見した事しかなく、もの凄く印象に残ってます。ケニーロバーツとの先頭争いやシケインでトラブルでリタイヤされた時はテレビで応援していたので我が事のように残念でした。私も高校時代からオートバイに乗っていてサーキットも走り、わかったことですが高井さんの走りは片山さんがおっしゃられている通りスムーズなライディングでしたね。菅生の高速S字を小柄な身体で体重移動をスッとこなしてシケインに侵入する所なんか良い勉強になりました。プロショプ高井が出来た時は当時必死で貯めたお金でグローブを購入しました。ツナギは買えなかったですが当時の私としては高額でしたが手にはめると物凄くシックリして買って良かったと思いましたね。😊
片山敬済(今も遠い存在の人なのであえて敬称付けません)のお話しを直接聞くことが出来るなんてなんという贅沢!と思いながらいつも見てます。
いちばん聞きたかった方の話しですありがとうございました
「汚れた英雄」撮影開始2週間前の事故でした。上映を迎えて当地では微妙な空気がありましたがコソッと観に行きました。冒頭のテロップと、ラストシーンの演出、すなわち事故地点である第一コーナーからダンロップブリッジ越しに夕日のなかホームストレートを“逆走”して(西方浄土のメタファー?)退場してゆく主人公の姿は、彼の存在あってのものであったと、今も確信しております。正直映画館の中でチョッピリ涙ぐんだものです。若かったなぁ!
カシオトライアングルが新設される前の鈴鹿サーキットのコースレコード2分13秒65は1981年MFJ-GPの予選で両外側後方排気パラ4の0W53を駆った高井さんがマークしたものです。高井さんのタイムに肉薄出来たのは唯一、同年の8耐予選でワイン・ガードナーがモリワキ-カワサキZ1でマークした2分14秒76だけでした。
今週も有り難うございます 高井幾次郎 懐かしいお名前ですね
木引さんと坪内さんの名前が聞けて嬉しい。まだインターネットなんて無かったあの頃はライダースクラブやグランプリイラストレイテッドの写真を食い入る様に読んでいた
初めて買ったツナギがタカイの平モデルでした😂✋グローブとブーツも😂✋バイトして買ってボロボロになるまで着てました😂今も大切に保存してます😂✋
70年代から知ってました。スムーズなライディングは、ケニーと通じる処がありケニーが絶対の信頼を置いていたのがわかりますね。
「イクが作ったマシンだから間違いない。」 ケニーロバーツ
高井さんの現役時代は存じあげないんですがプロショップタカイのスーツとグローブを愛用してました。プロスタッフRのゴートスキンの肌触りが未だに忘れられません!、あのしなやかな肌触り、今のプロテクターの付いたグローブには無い操作感、最高でした!。
たまにヤフオクとかに閉店したバイク屋さんの在庫とかで出てきます。経年劣化で縁取りは劣化してたりしますが、本体そのものは問題なく、今も大事に使用しています。
当時バイク屋勤めだったワタシは、何かと理由を付けちゃあヤマハ名古屋に足繁く通ってました。駐車場にプレイメイトRTのプレハブ小屋があり、TZ250、500(たぶん鈴木修選手の車輌)が2台ずつ位収納されてて目の保養になってたのです。ある日部品課で出庫待ちしてたら、とある営業サンが、多分販店相手に電話で力説してました。曰く「ウチのワークス連中には大概使って貰ってる。微妙なアクセルワークにタッチの柔らかさはもってこい。他所サンの品物とは比べて欲しかあないデスナ。」などなど。自分が褒められた訳でもないのに鼻高々でウンウン頷いてたら最後に一言、「…唯まあ、長持ちはしないんだけれどもネ。」ズッコケました。
プロスタッフRグローブはツナギとの相性と操作性は素晴らしかった。今でも生産していれば、欲しいくらい。
バイク乗っていた時、頭から足まで全てプロショップタカイ製でした。
やまちゃんありがとうございます、片山様ありがとうございます当時のいろいろな話し聞かせて貰いましたありがとうございます。
高井幾次郎選手は私の憧れのライダーです。プロショップ高井のグローブとブーツを買い、アライでしたがデザインを踏襲したオリジナルヘルメットをかぶっていました。鈴鹿の2分13秒65は本当に凄いタイムでしたね。カシオトライアングルが出来た後1983年のフレディのタイムが2分19秒台だから。
高校生の頃、名古屋市北区の団地の公園前にあったプロショップ高井にブーツを買いに行ったとき、店の中に自分と幾さんだけしかいなくて、物腰柔らかく商品を勧めてくれました。ものすごくドキドキしたことを覚えています。その後大学生の頃、菅生のテスト亡くなった記事を見て、一人で泣きました。
ご本人亡きあとから通うようになった者ですが、木下恵司氏や鈴木修氏に御目にかかれて望外の幸せでした。旧店舗は未だ形骸が残り、お客がハケてから溜まりの常連同士でお好み焼き喰ってた記憶を思い起こすよすがでもあります。角のお好み焼き屋は今も営業してますし。
@@ビズムニーマクス さん、有難うございます。40年以上も前の記憶が少しだけ呼び起こされました。ぜひ訪れてみたいと思います。鈴木修氏も物静かな中に闘志の宿る全日本チャンピオンでしたね。
年のせいか胸が熱くなります❗高井さん僕と背が一緒何て、嬉しいなぁ。
高井さんだ!ありがとうございます!高井さんのIKUヘルメット、トヨタ2000GTをデザインした人の手によるものだと聞きました。縁あってショウエイの実物を持っていますが、多分4輪用のGRZです。
何度もすみません。高井さんが亡くなられたニュース…はじめは新聞で読みました。「暴走族の親玉が…」みたいな論調ばかり、子供だった私はホントに腹が立って泣きました。あれはホントに悲しかった………です。
丁度4輪でもその頃から富士の廃止問題とか出てましたね、バカ議員がテメェのゴルフやりたさに珍走に託け😂😂😂
今回も面白かったです!
自分も若い頃にバイク乗ってた時にグローブだけは、タカイ使ってました
ありがとうございます!私の永遠のヒーローをレジェンドが語ってくださったことに、本当に感謝しています。私の家から自転車で行ける距離にプロショップ高井の本社があって、いつか高井さんに会えるかもと思って、暇があるとプロショップ高井のまわりをうろついていたあの頃を思い出しながら拝見させて戴きました。本当にありがとうございましたm(__)m
西区の本社工場のことだったら、中にはケニー着用のダイネーゼとか、サンプル品でお宝の山状態だったと店長から聞いた事がある。その近所の中古車屋で3年程勤めたが、昼メシに入った喫茶店でシャケさんが若い衆相手に講釈してんのに遭遇して腰抜かしそうになりました。懐かしい思い出です。
高井さんが亡くなった1982年のTBCビッグロードレースからベストプライベーターに送られる「高井幾次郎杯」が新設された。初年度の受賞者は翌年からヤマハのワークスレーサーとなった平忠彦さんでした。
平さんはライディングスタイルも高井さんの正統な後継者といえる存在ですね。
1978〜9頃にTBCビックロードでTVで観た記憶が朧げにある。私らの頃だとレーサーよりもプロショップ高井のイメージが強い。
片山さんが最初の世界グランプリに参戦していた頃ヘルメットの神戸木の実のエンブレムをアレンジして使ってました。金谷さんは努力の人片山さんは天才プラス努力の人と言うイメージがありました
時には漁師、時にはテストライダー、あの体型でめっぽう速い阿部さんを紹介してほしいなぁ
同じくです!
大排気量車ではですが、筑波で赤ゼッケン125での時は・・・・・でしたよ。昔々のお話でした。
40年ほど前に、確か名古屋だったかのプロショップ高井の本店に行って、プロスタッフRのグローブを買って以来ずっと使っていました。平忠彦選手が同年齢なので応援していて、彼が大先輩の高井幾次郎さんのプロスタッフRを重用していたので決めました。今見ると高井幾次郎さんのヘルメットデザインは正に『バリバリ伝説』の主人公グンですね。
大昔に菅生にTBCロードレースを観に行った時に、1コーナをケニーと高井幾次郎さんが奥深く突っ込んでビューという音が印象的でした、高井さんは一速しかギアダウン?他の人は二速以上ギアダウンしていた感じが印象的でした。
若い頃の写真、ほんと大ちゃんに似てるよね。大ちゃんが幾さんに似てるんだけど。死んだ時、全日本GP500でスズキの水谷勝とデットヒートやった。水谷選手は、辛くて、このシーズン欠場を考えてたらしが、幾さんの奥様に最後まで出る様に言われ、奮起した、とオートバイかモーターサイクリストに書いてた。この時オイラは、ノービスで挫折し、レースを諦めてた。とても恥ずかしい気持ちになった。当時、雑誌の写真しかなく、コーナーでシートからお尻がずれてない事が不思議でした。福田照男、一ノ瀬憲明、平忠彦・・・・。高井幾次郎さんは、目標でした。そしてヒーローです。
高井さんの当時を知らない者ですが、片山さんのお話を聞いた限りでは、高井さんの似たタイプのライダーが、故加藤大治郎のような気がします。名前もさることながら、同じSHOEIユーザーで、小柄な体格(大治郎も160㎝位)ながら中~大排気量と幅広くスムーズに乗りこなし、性格もお聞きした感じ近い気がします。そして、お二人共サーキットで生涯を終えました。
自分が通ってたバイク屋がプロショップタカイの商品をよく進められて、グローブ・ブ-ツ・オ-ダ-のつなぎを買って単車に乗ってました・・。
35・6年前だったでしょうか。名古屋のプロショップ・タカイでツナギ作りました。奥様(だと思うのですが)とスタッフの方が、優しく!丁寧に対応して頂きました。
山田康雄みたいな顔した店長サンの奥様です。当時は御夫婦揃って大変お世話になりました。
バイクに体格は関係ない! と教えてくれたのがイクさんでした。 走りはとにかくスムーズ 流れるようなライディングで マシンが暴れた記憶がありません。 美しき走りでした。
ちょいちょいキヨて聞こえてたけど、川崎の清原サンの事ですよね、大昔に箱根で和田サン清原サンが走っていた時に一言二言お話しした思い出有りますその時は和田は話さず清原さんのヘルメットにKIYOの文字があり乗ってたバイクが川崎だってので清原さんですか話し掛けさせてもらいました、雨の中神戸ナンバーの赤枠付けてカッパ着てて箱根で会ったのが昼過ぎててあのまま神戸まで帰るのかなて少し大変だなと思いました、後ツナギにゼッケンの話し自分のツナギにも付けてました、MFJに出る時を考えて付けましたがMCFJにしか出ませんでし毛利さんはMCにも出て見た事があったなと今思い出ました、また良い話を聞かせて下さい
高井幾次郎さん、実際にお会いして少しだけお話することがありました、歳がバレますがww私も小柄ですが高井さんは更に小さく、この体でF750を操っているとは思えませんでした。スーツを着ていたけど、ガッチリとした体型ではなかったと思います。地元の新聞やニュースで高井さんが無くなったと聞いてショックでしたね、それもホームコースである菅生で。TBCビックロードレースは当時テレビ中継されてたので、ケニーと共に走っていた様子がかすかに思い出されます。
ホンダ鈴鹿の寮でウトウトしてたらイクさんが亡くなったニュースで跳び起きたの覚えてる。ショックがでかすぎた。
その昔VHSビデオ「PRIDE ONE」でビデオの最後に(サーキットで失くなられた方々)で、高井さん石川さんが紹介されてましたね。当時ビデオ1本14000円してた頃だったので購入せずに連チャンでビデオを借りてましたよ。
毎週楽しみに視聴させて頂いております。毎回新鮮な内容に感じて最後まで飽きません。ネモケンさんとのコラボして頂きたいです。
高井さんの訃報を報じたR/C誌の巻末コーナー「ken‘s talk」でネモケンが高井さんとの思い出を綴っていたけど、「高井さんに『もっとレースで走らなぁ』と笑いながら背中を叩かれた」と書かれたくだりは読んでいて切なくて切なくて仕方無かったのを覚えています。
確か、GPシーズンの終盤にテストの為来年型のYZR500をヨーロッパに持ち込み予選でロバーツよりも速いタイムを出した事があったと記憶しています。そして、私の実家の何処かには、あの悲劇の直前に出走はしていませんでしたが、筑波サーキットで撮った写真があるはずです。
初代V4YZRはあの後もバリー、ケニー共に病院送りになってしまう酷さでしたからね。
片山さんには申し訳ありませんが、バギーではなくタカイのグローブを愛用していました。めちゃクールでカッコいいデザインでした。
グローブは高井しか合わなかったからYAMAHAに成るとき買い占めたけど尽きた指が短い人にマッチングしてる型だった
高井さん、エキシビションレースだったのかもしれないけど、TBCビッグロードレースでケニー・ロバーツに勝ったんですよね?確か。バイクレースを初めてみた少年時代ですよ。「バイクってこんなに傾くものなの!?」ってくらい衝撃的でした。
坪内隆直さんの話を聞きたいです。今F-1の写真を撮っている熱田さんの師匠ですし、片山さんがWGPに参戦していた頃の「Raiding Sports」や「Cycle Sounds」には坪内さんの写真がイッパイでしたので、ライダーと写真家の関係の裏話なども聞きたいです。
ご本人も自ら「グランプリイラストレイテッド」という月刊誌を創刊しましたね。短期間の発行でしたが、紙質を含めてハイクオリティな専門誌でした。40年近くも昔の本になりますが購入したものは全部取ってあります。
@@anglerfishyukarin2386 1982年スウェーデンGP「坪ちゃん‼️ 写真より握手が先でしょう😀」
当時 本田の社内チームでMXをやっていたのですか 高井氏が亡くなった時は速報で伝わって着ました 悲しかったです
プレイメイトで高井さんと盟友だった小田豊選手も取り上げて欲しいです。73年の日本海間瀬のレースとか片山さんとも絡みが有ったかと思うので。
プロショップTAKAIのグローブ今も持ってる!
タカイブランドは、変わってなけれはヤマハから発売されてるはずです。初めてお店に行ったのが閉店間近の2004年でしたが、店長さんが「店は無くなるけどヤマハからタカイブランドが発売して貰えることになった」と言ってました。
加藤大治郎さんみたいな走りなのかな?高井さん小田さん、憧れのライダーでした。
浅見貞夫さんのも、知りたいです
こんなに知る人居たぐらい二十歳前バイクにのめり込んでたんだなと思い知った(゜ロ゜)中降りしてたり趣向変わったりしてたがまだ乗ってるけどやっはあの頃が一番純真だった😄俺にとって高井幾次郎さんは後の平忠彦さんですね😆
リクエストに応えてくださり、有り難う御座います。ヘルメットlの話、初めて知りました。78年か81年のTBC Big load raceで、シケインを立ち上がった途端、エンジンストップして、悔しがるシーンを思い出しました。このRUclipsにも、探せば見つかると思います。木引さん坪井さんの話、期待しています。
初めて買ったグローブはProshopTAKAI製でした❗w
そうねヤマハの開発はワークスライダーが担当?していたね1975年 ウイークデーにたまたま行った鈴鹿でヤマハワークスがテストをやっていた 観客席最前で観ていたのは 俺と実兄だけ金谷秀夫が担当していたよ 周りに他メーカーが居るわけでもないのに とにかくマシンを見られないようにカバーを掛けまくりシケインなど無い時代 あの最終コーナーを降りて来る 金谷恰好良かったよ 何とその時の写真も沢山残っている 47年前か幾次郎さんも鈴鹿ではよくみたなあっ 写真も残っているプレイメイトレーシング3羽ガラスのマシンも近くで撮っている当時は無関係者でもピットまで入っていけたからね鈴鹿の1/2/3コーナー背高泡立ち草が生い茂る 中を走る幾次郎さんの写真も残っている 当時の鈴鹿は荒れていたからね若年層には想像もつかないだろう いたるところでフェンスにも穴が開き 簡単にコースにも入って行けたスプーン手前からコース内に入り 立ち上がり所で外へ で観ていたら すべてのライダー抑えてトップでスプーンへ来たのは 片山だった 隅谷和田河崎 達を抑えてだよ凄かったぜ片山敬済
高井さんが亡くなった後菅生の第一シケインができたときいてます。😊
もし…“石川いわお”さんとの接点がおありでしたら、いつの日かお話しいただけたらありがたいです🙇♂️
少し前の動画で石川さんのも有りますよ👍
@@ika-shokunin さん…、ありがとうございました🙇♂️🙇♂️🙇♂️🙏
リトルジャイアント❗
小田豊さんも取り上げてください
プロショップ高井の人かな?
赤兎馬って…呂布の愛馬だったよね。
片山氏の反応の鈍さを鑑みると、あんまり仲良くなかったんじゃない?
裏にカラスが刷ってある熊野午王の証文紙、こいつで起請文を奉納すれば、大願成就の暁に熊野の山奥で贄の烏が三羽、人知れずひっそりと死ぬ。3匹寄り合ったカラスの霊力の尺度でもあるし日本一霊験あらたかな願掛けのゆえん。縁起が良いのか悪いのか…
プロショップ高井のグローブは物凄く使い易かった。
30年以上オートバイに乗ってますが忘れられないほどの使い易さでした。
私も平忠彦さんに影響されてプロスタッフRをずっと使っていました。立体裁断なので非常に手に馴染みましたね👍️
高校生の時に当時の事故の報道が新聞で小さいですが出ていて、もの凄くショックを受けた思い出があります。
高井さんのレースは関西ではテレビ放送でTBC杯ビッグロードレースでの走りしか拝見した事しかなく、もの凄く印象に残ってます。
ケニーロバーツとの先頭争いやシケインでトラブルでリタイヤされた時はテレビで応援していたので我が事のように残念でした。
私も高校時代からオートバイに乗っていてサーキットも走り、わかったことですが高井さんの走りは片山さんがおっしゃられている通りスムーズなライディングでしたね。
菅生の高速S字を小柄な身体で体重移動をスッとこなしてシケインに侵入する所なんか良い勉強になりました。
プロショプ高井が出来た時は当時必死で貯めたお金でグローブを購入しました。
ツナギは買えなかったですが当時の私としては高額でしたが手にはめると物凄くシックリして買って良かったと思いましたね。😊
片山敬済(今も遠い存在の人なのであえて敬称付けません)のお話しを直接聞くことが出来るなんてなんという贅沢!と思いながらいつも見てます。
いちばん聞きたかった方の話しですありがとうございました
「汚れた英雄」撮影開始2週間前の事故でした。上映を迎えて当地では微妙な空気がありましたがコソッと観に行きました。
冒頭のテロップと、ラストシーンの演出、すなわち事故地点である第一コーナーからダンロップブリッジ越しに夕日のなかホームストレートを“逆走”して(西方浄土のメタファー?)退場してゆく主人公の姿は、彼の存在あってのものであったと、今も確信しております。正直映画館の中でチョッピリ涙ぐんだものです。若かったなぁ!
カシオトライアングルが新設される前の鈴鹿サーキットのコースレコード2分13秒65は1981年MFJ-GPの予選で両外側後方排気パラ4の0W53を駆った高井さんがマークしたものです。
高井さんのタイムに肉薄出来たのは唯一、同年の8耐予選でワイン・ガードナーがモリワキ-カワサキZ1でマークした2分14秒76だけでした。
今週も有り難うございます 高井幾次郎 懐かしいお名前ですね
木引さんと坪内さんの名前が聞けて嬉しい。まだインターネットなんて無かったあの頃はライダースクラブやグランプリイラストレイテッドの写真を食い入る様に読んでいた
初めて買ったツナギがタカイの平モデルでした😂✋グローブとブーツも😂✋バイトして買ってボロボロになるまで着てました😂今も大切に保存してます😂✋
70年代から知ってました。スムーズなライディングは、ケニーと通じる処がありケニーが絶対の信頼を置いていたのがわかりますね。
「イクが作ったマシンだから間違いない。」 ケニーロバーツ
高井さんの現役時代は存じあげないんですがプロショップタカイのスーツとグローブを愛用してました。
プロスタッフRのゴートスキンの肌触りが未だに忘れられません!、あのしなやかな肌触り、今のプロテクターの付いたグローブには無い操作感、最高でした!。
たまにヤフオクとかに閉店したバイク屋さんの在庫とかで出てきます。
経年劣化で縁取りは劣化してたりしますが、本体そのものは問題なく、今も大事に使用しています。
当時バイク屋勤めだったワタシは、何かと理由を付けちゃあヤマハ名古屋に足繁く通ってました。駐車場にプレイメイトRTのプレハブ小屋があり、TZ250、500(たぶん鈴木修選手の車輌)が2台ずつ位収納されてて目の保養になってたのです。
ある日部品課で出庫待ちしてたら、とある営業サンが、多分販店相手に電話で力説してました。曰く「ウチのワークス連中には大概使って貰ってる。微妙なアクセルワークにタッチの柔らかさはもってこい。他所サンの品物とは比べて欲しかあないデスナ。」などなど。
自分が褒められた訳でもないのに鼻高々でウンウン頷いてたら最後に一言、「…唯まあ、長持ちはしないんだけれどもネ。」
ズッコケました。
プロスタッフRグローブはツナギとの相性と操作性は素晴らしかった。
今でも生産していれば、欲しいくらい。
バイク乗っていた時、頭から足まで全てプロショップタカイ製でした。
やまちゃんありがとうございます、片山様ありがとうございます当時のいろいろな話し聞かせて貰いましたありがとうございます。
高井幾次郎選手は私の憧れのライダーです。プロショップ高井のグローブとブーツを買い、アライでしたがデザインを踏襲したオリジナルヘルメットをかぶっていました。鈴鹿の2分13秒65は本当に凄いタイムでしたね。カシオトライアングルが出来た後1983年のフレディのタイムが2分19秒台だから。
高校生の頃、名古屋市北区の団地の公園前にあったプロショップ高井にブーツを買いに行ったとき、店の中に自分と幾さんだけしかいなくて、物腰柔らかく商品を勧めてくれました。ものすごくドキドキしたことを覚えています。その後大学生の頃、菅生のテスト亡くなった記事を見て、一人で泣きました。
ご本人亡きあとから通うようになった者ですが、木下恵司氏や鈴木修氏に御目にかかれて望外の幸せでした。
旧店舗は未だ形骸が残り、お客がハケてから溜まりの常連同士でお好み焼き喰ってた記憶を思い起こすよすがでもあります。角のお好み焼き屋は今も営業してますし。
@@ビズムニーマクス さん、有難うございます。40年以上も前の記憶が少しだけ呼び起こされました。ぜひ訪れてみたいと思います。鈴木修氏も物静かな中に闘志の宿る全日本チャンピオンでしたね。
年のせいか胸が熱くなります❗高井さん僕と背が一緒何て、嬉しいなぁ。
高井さんだ!ありがとうございます!
高井さんのIKUヘルメット、トヨタ2000GTをデザインした人の手によるものだと聞きました。縁あってショウエイの実物を持っていますが、多分4輪用のGRZです。
何度もすみません。
高井さんが亡くなられたニュース…
はじめは新聞で読みました。
「暴走族の親玉が…」みたいな論調ばかり、
子供だった私はホントに腹が立って泣きました。
あれはホントに悲しかった………です。
丁度4輪でもその頃から富士の廃止問題とか出てましたね、バカ議員がテメェのゴルフやりたさに珍走に託け😂😂😂
今回も面白かったです!
自分も若い頃にバイク乗ってた時にグローブだけは、タカイ使ってました
ありがとうございます!
私の永遠のヒーローをレジェンドが語ってくださったことに、本当に感謝しています。
私の家から自転車で行ける距離にプロショップ高井の本社があって、
いつか高井さんに会えるかもと思って、
暇があるとプロショップ高井のまわりをうろついていたあの頃を思い出しながら拝見させて戴きました。
本当にありがとうございましたm(__)m
西区の本社工場のことだったら、中にはケニー着用のダイネーゼとか、サンプル品でお宝の山状態だったと店長から聞いた事がある。その近所の中古車屋で3年程勤めたが、昼メシに入った喫茶店でシャケさんが若い衆相手に講釈してんのに遭遇して腰抜かしそうになりました。懐かしい思い出です。
高井さんが亡くなった1982年のTBCビッグロードレースからベストプライベーターに送られる「高井幾次郎杯」が新設された。
初年度の受賞者は翌年からヤマハのワークスレーサーとなった平忠彦さんでした。
平さんはライディングスタイルも高井さんの正統な後継者といえる存在ですね。
1978〜9頃にTBCビックロードでTVで観た記憶が朧げにある。私らの頃だとレーサーよりもプロショップ高井のイメージが強い。
片山さんが最初の世界グランプリに参戦していた頃ヘルメットの神戸木の実のエンブレムをアレンジして使ってました。金谷さんは努力の人片山さんは天才プラス努力の人と言うイメージがありました
時には漁師、時にはテストライダー、あの体型でめっぽう速い
阿部さんを紹介してほしいなぁ
同じくです!
大排気量車ではですが、筑波で赤ゼッケン125での時は・・・・・でしたよ。昔々のお話でした。
40年ほど前に、確か名古屋だったかのプロショップ高井の本店に行って、プロスタッフRのグローブを買って以来ずっと使っていました。平忠彦選手が同年齢なので応援していて、彼が大先輩の高井幾次郎さんのプロスタッフRを重用していたので決めました。今見ると高井幾次郎さんのヘルメットデザインは正に『バリバリ伝説』の主人公グンですね。
大昔に菅生にTBCロードレースを観に行った時に、1コーナをケニーと高井幾次郎さんが奥深く突っ込んでビューという音が印象的
でした、高井さんは一速しかギアダウン?他の人は二速以上ギアダウンしていた感じが印象的でした。
若い頃の写真、ほんと大ちゃんに似てるよね。大ちゃんが幾さんに似てるんだけど。死んだ時、全日本GP500でスズキの水谷勝とデットヒートやった。水谷選手は、辛くて、このシーズン欠場を考えてたらしが、幾さんの奥様に最後まで出る様に言われ、奮起した、とオートバイかモーターサイクリストに書いてた。この時オイラは、ノービスで挫折し、レースを諦めてた。とても恥ずかしい気持ちになった。当時、雑誌の写真しかなく、コーナーでシートからお尻がずれてない事が不思議でした。福田照男、一ノ瀬憲明、平忠彦・・・・。高井幾次郎さんは、目標でした。そしてヒーローです。
高井さんの当時を知らない者ですが、片山さんのお話を聞いた限りでは、高井さんの似たタイプのライダーが、故加藤大治郎のような気がします。
名前もさることながら、同じSHOEIユーザーで、小柄な体格(大治郎も160㎝位)ながら中~大排気量と幅広くスムーズに乗りこなし、性格もお聞きした感じ近い気がします。
そして、お二人共サーキットで生涯を終えました。
自分が通ってたバイク屋がプロショップタカイの商品をよく進められて、グローブ・ブ-ツ・オ-ダ-のつなぎを買って単車に乗ってました・・。
35・6年前だったでしょうか。名古屋のプロショップ・タカイでツナギ作りました。
奥様(だと思うのですが)とスタッフの方が、優しく!丁寧に対応して頂きました。
山田康雄みたいな顔した店長サンの奥様です。当時は御夫婦揃って大変お世話になりました。
バイクに体格は関係ない! と教えてくれたのがイクさんでした。 走りはとにかくスムーズ 流れるようなライディングで マシンが暴れた記憶がありません。 美しき走りでした。
ちょいちょいキヨて聞こえてたけど、川崎の清原サンの事ですよね、大昔に箱根で和田サン清原サンが走っていた時に一言二言お話しした思い出有りますその時は和田は話さず清原さんのヘルメットにKIYOの文字があり乗ってたバイクが川崎だってので清原さんですか話し掛けさせてもらいました、雨の中神戸ナンバーの赤枠付けてカッパ着てて箱根で会ったのが昼過ぎててあのまま神戸まで帰るのかなて少し大変だなと思いました、後ツナギにゼッケンの話し自分のツナギにも付けてました、MFJに出る時を考えて付けましたがMCFJにしか出ませんでし
毛利さんはMCにも出て見た事があったなと今思い出ました、また良い話を聞かせて下さい
高井幾次郎さん、実際にお会いして少しだけお話することがありました、歳がバレますがww
私も小柄ですが高井さんは更に小さく、この体でF750を操っているとは思えませんでした。
スーツを着ていたけど、ガッチリとした体型ではなかったと思います。
地元の新聞やニュースで高井さんが無くなったと聞いてショックでしたね、それもホームコースである菅生で。
TBCビックロードレースは当時テレビ中継されてたので、ケニーと共に走っていた様子がかすかに思い出されます。
ホンダ鈴鹿の寮でウトウトしてたらイクさんが亡くなったニュースで跳び起きたの覚えてる。ショックがでかすぎた。
その昔VHSビデオ「PRIDE ONE」で
ビデオの最後に(サーキットで失くなられた方々)で、高井さん石川さんが紹介されてましたね。
当時ビデオ1本14000円してた
頃だったので購入せずに連チャンで
ビデオを借りてましたよ。
毎週楽しみに視聴させて頂いております。
毎回新鮮な内容に感じて最後まで飽きません。
ネモケンさんとのコラボして頂きたいです。
高井さんの訃報を報じたR/C誌の巻末コーナー「ken‘s talk」でネモケンが高井さんとの思い出を綴っていたけど、「高井さんに『もっとレースで走らなぁ』と笑いながら背中を叩かれた」と書かれたくだりは読んでいて切なくて切なくて仕方無かったのを覚えています。
確か、GPシーズンの終盤にテストの為来年型のYZR500をヨーロッパに持ち込み予選でロバーツよりも速いタイムを出した事があったと記憶しています。そして、私の実家の何処かには、あの悲劇の直前に出走はしていませんでしたが、筑波サーキットで撮った写真があるはずです。
初代V4YZRはあの後もバリー、ケニー共に病院送りになってしまう酷さでしたからね。
片山さんには申し訳ありませんが、バギーではなくタカイのグローブを愛用していました。めちゃクールでカッコいいデザインでした。
グローブは高井しか合わなかったからYAMAHAに成るとき買い占めたけど尽きた
指が短い人にマッチングしてる型だった
高井さん、エキシビションレースだったのかもしれないけど、TBCビッグロードレースでケニー・ロバーツに勝ったんですよね?確か。バイクレースを初めてみた少年時代ですよ。「バイクってこんなに傾くものなの!?」ってくらい衝撃的でした。
坪内隆直さんの話を聞きたいです。今F-1の写真を撮っている熱田さんの師匠ですし、片山さんがWGPに参戦していた頃の「Raiding Sports」や「Cycle Sounds」には坪内さんの写真がイッパイでしたので、ライダーと写真家の関係の裏話なども聞きたいです。
ご本人も自ら「グランプリイラストレイテッド」という月刊誌を創刊しましたね。短期間の発行でしたが、紙質を含めてハイクオリティな専門誌でした。40年近くも昔の本になりますが購入したものは全部取ってあります。
@@anglerfishyukarin2386
1982年スウェーデンGP
「坪ちゃん‼️
写真より握手が先でしょう😀」
当時 本田の社内チームでMXをやっていたのですか 高井氏が亡くなった時は速報で伝わって着ました 悲しかったです
プレイメイトで高井さんと盟友だった小田豊選手も取り上げて欲しいです。73年の日本海間瀬のレースとか片山さんとも絡みが有ったかと思うので。
プロショップTAKAIのグローブ今も持ってる!
タカイブランドは、変わってなけれはヤマハから発売されてるはずです。
初めてお店に行ったのが閉店間近の2004年でしたが、店長さんが「店は無くなるけどヤマハからタカイブランドが発売して貰えることになった」と言ってました。
加藤大治郎さんみたいな走りなのかな?高井さん小田さん、憧れのライダーでした。
浅見貞夫さんのも、知りたいです
こんなに知る人居たぐらい
二十歳前バイクにのめり込んでたんだなと思い知った(゜ロ゜)
中降りしてたり趣向変わったりしてたがまだ乗ってるけどやっはあの頃が一番純真だった😄
俺にとって高井幾次郎さんは後の平忠彦さんですね😆
リクエストに応えてくださり、有り難う御座います。
ヘルメットlの話、初めて知りました。78年か81年のTBC Big load raceで、シケインを立ち上がった途端、エンジンストップして、悔しがる
シーンを思い出しました。
このRUclipsにも、探せば
見つかると思います。
木引さん坪井さんの話、期待しています。
初めて買ったグローブはProshopTAKAI製でした❗w
そうねヤマハの開発はワークスライダーが担当?していたね
1975年 ウイークデーにたまたま行った鈴鹿でヤマハワークスが
テストをやっていた 観客席最前で観ていたのは 俺と実兄だけ
金谷秀夫が担当していたよ 周りに他メーカーが居るわけでも
ないのに とにかくマシンを見られないようにカバーを掛けまくり
シケインなど無い時代 あの最終コーナーを降りて来る 金谷
恰好良かったよ 何とその時の写真も沢山残っている 47年前か
幾次郎さんも鈴鹿ではよくみたなあっ 写真も残っている
プレイメイトレーシング3羽ガラスのマシンも近くで撮っている
当時は無関係者でもピットまで入っていけたからね
鈴鹿の1/2/3コーナー背高泡立ち草が生い茂る 中を走る
幾次郎さんの写真も残っている 当時の鈴鹿は荒れていたからね
若年層には想像もつかないだろう いたるところで
フェンスにも穴が開き 簡単にコースにも入って行けた
スプーン手前からコース内に入り 立ち上がり所で外へ で
観ていたら すべてのライダー抑えてトップでスプーンへ
来たのは 片山だった 隅谷和田河崎 達を抑えてだよ
凄かったぜ片山敬済
高井さんが亡くなった後菅生の第一シケインができたときいてます。😊
もし…“石川いわお”さんとの接点がおありでしたら、いつの日かお話しいただけたらありがたいです🙇♂️
少し前の動画で石川さんのも有りますよ👍
@@ika-shokunin さん…、ありがとうございました🙇♂️🙇♂️🙇♂️🙏
リトルジャイアント❗
小田豊さんも
取り上げてください
プロショップ高井の人かな?
赤兎馬って…呂布の愛馬だったよね。
片山氏の反応の鈍さを鑑みると、あんまり仲良くなかったんじゃない?
裏にカラスが刷ってある熊野午王の証文紙、こいつで起請文を奉納すれば、大願成就の暁に熊野の山奥で贄の烏が三羽、人知れずひっそりと死ぬ。3匹寄り合ったカラスの霊力の尺度でもあるし日本一霊験あらたかな願掛けのゆえん。縁起が良いのか悪いのか…