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this is seoul koreathank you for your lecture
ようやく3回目を見終わりました。個人的な話ですが、厳格なクリスチャンだった父(カルメル会第3会)が、ある日新聞を見ながら「バチカンは今だに自分たちに反対するものは火あぶりにするんだ」と、怒った口調でつぶやいていました。おそらくグティエレスがローマに召喚されるとかそういう時期だったと思います。決して裕福ではなかった父にとって「解放の神学」は響いていたのだなと。その父は数年前に他界しましたが、本人の希望で葬儀は無宗教で行いました。以下、雑な感想です。「貧しいもの」と「こころの貧しいもの」と、それぞれ聖書にはでてきますね。マタイ伝とルカ伝の違い?聖書を「抑圧された民衆(エジプトやローマ帝国に)の物語」として読めば、解放の神学に行きつくことは必然です。解放の神学の背景にはやはり托鉢修道会(特に初期のフランシスコ会)の影響があるのでは。南米出身の新教皇が、フランシスコを名乗ったことに、当時相当強烈なメッセージを受けた気がしました。問題は経済のグローバル化だけではありません。教会そのものが貧しい信者から集めた献金を再分配せず、バチカンで浪費しているという問題(まさに今起こっていることですが)にどう向き合うのか、ということですね。神学と言うのは、ほこりをかぶった、あるいはカビのはえた学問ではなく、世界で今起こっている事をより正確に理解するための、そして私たち一人一人の生き方を指し示す学問なのですね。面白い。でも、むずかしすぎる。
+山口言 マタイはルカの「貧しい人々」の直接的な意味を丸めすぎていると思います。現代人には「心の貧しい人々」の方がわかりやすいかもしれませんが、イエスの意図に近いのは文字通りの「貧しい人々」でしょう。 カトリックは贅沢三昧な部分もありますが、同時に、修道院のような清貧の伝統をも引き継いでいますので、それは解放の神学に対しても、間接的な影響を与えているように思います。アッシジのフランシスコのラディカルさには、解放の神学に通じるような面を感じます。イエスのシンプルな教えが、神学者によって、やたら難解にされてきたという側面は否定できません。それを脱構築し、原初的な躍動感を取り戻すのも現代神学の使命の一つであると思っています。
カルメル第三会のブラザーが、教皇庁を見限って無宗教葬とは、破門になりかねないのに、本当に絶望したんですね。これからは仏教とイスラムが、解放の神学がしたかった事を目指すのかと思うのですが、イスラムはその影響内でしか慈善の義務はないし、仏教も大乗仏教の一部、特に以前の新仏教ばかり布施である奉仕してたしうまくいかない。
普通は同志社に入らないと受けられない授業の公開、本当にありがとうございます。東神大も見習えや。ベネディクトまではもちろん、フランシスコでさえも、解放の神学はやり過ぎなので失せろというスタンスだったのに、まさかアマゾンを巡る環境社会回勅を契機に、解放の神学を換骨奪胎し、正教に似た妻帯在俗司祭制度導入を企むとは、このビンゲンのヒルデガルトの目をしても見抜けなかった。官僚の反対でポシャりそうですが、司教の代理で知牧になれるモンシニョールを廃止したのに、アマゾンの奥地だと普通の司祭叙階もできなくなるんじゃ?
ご視聴、ありがとうございます。カトリックの内部改革はどのように進んでいくのか予断を許しませんが、これまでなかった議論がなされているのは頼もしいです。
お話を聴き、感銘をうけました。解放の神学、すばらしいですね!
A RT
中国人 日语苦手
this is seoul korea
thank you for your lecture
ようやく3回目を見終わりました。個人的な話ですが、厳格なクリスチャンだった父(カルメル会第3会)が、ある日新聞を見ながら「バチカンは今だに自分たちに反対するものは火あぶりにするんだ」と、怒った口調でつぶやいていました。おそらくグティエレスがローマに召喚されるとかそういう時期だったと思います。決して裕福ではなかった父にとって「解放の神学」は響いていたのだなと。その父は数年前に他界しましたが、本人の希望で葬儀は無宗教で行いました。
以下、雑な感想です。
「貧しいもの」と「こころの貧しいもの」と、それぞれ聖書にはでてきますね。マタイ伝とルカ伝の違い?
聖書を「抑圧された民衆(エジプトやローマ帝国に)の物語」として読めば、解放の神学に行きつくことは必然です。
解放の神学の背景にはやはり托鉢修道会(特に初期のフランシスコ会)の影響があるのでは。南米出身の新教皇が、フランシスコを名乗ったことに、当時相当強烈なメッセージを受けた気がしました。
問題は経済のグローバル化だけではありません。教会そのものが貧しい信者から集めた献金を再分配せず、バチカンで浪費しているという問題(まさに今起こっていることですが)にどう向き合うのか、ということですね。
神学と言うのは、ほこりをかぶった、あるいはカビのはえた学問ではなく、世界で今起こっている事をより正確に理解するための、そして私たち一人一人の生き方を指し示す学問なのですね。面白い。でも、むずかしすぎる。
+山口言 マタイはルカの「貧しい人々」の直接的な意味を丸めすぎていると思います。現代人には「心の貧しい人々」の方がわかりやすいかもしれませんが、イエスの意図に近いのは文字通りの「貧しい人々」でしょう。
カトリックは贅沢三昧な部分もありますが、同時に、修道院のような清貧の伝統をも引き継いでいますので、それは解放の神学に対しても、間接的な影響を与えているように思います。アッシジのフランシスコのラディカルさには、解放の神学に通じるような面を感じます。
イエスのシンプルな教えが、神学者によって、やたら難解にされてきたという側面は否定できません。それを脱構築し、原初的な躍動感を取り戻すのも現代神学の使命の一つであると思っています。
カルメル第三会のブラザーが、教皇庁を見限って無宗教葬とは、破門になりかねないのに、本当に絶望したんですね。
これからは仏教とイスラムが、解放の神学がしたかった事を目指すのかと思うのですが、イスラムはその影響内でしか慈善の義務はないし、仏教も大乗仏教の一部、特に以前の新仏教ばかり布施である奉仕してたしうまくいかない。
普通は同志社に入らないと受けられない授業の公開、本当にありがとうございます。東神大も見習えや。
ベネディクトまではもちろん、フランシスコでさえも、解放の神学はやり過ぎなので失せろというスタンスだったのに、まさかアマゾンを巡る環境社会回勅を契機に、解放の神学を換骨奪胎し、正教に似た妻帯在俗司祭制度導入を企むとは、このビンゲンのヒルデガルトの目をしても見抜けなかった。官僚の反対でポシャりそうですが、司教の代理で知牧になれるモンシニョールを廃止したのに、アマゾンの奥地だと普通の司祭叙階もできなくなるんじゃ?
ご視聴、ありがとうございます。カトリックの内部改革はどのように進んでいくのか予断を許しませんが、これまでなかった議論がなされているのは頼もしいです。
お話を聴き、感銘をうけました。解放の神学、すばらしいですね!
A RT
中国人 日语苦手