【歴史解説】え、主人公義時は北条姓ではない?北条得宗家と同族の争い!鎌倉殿の13人【MONONOFU物語】

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  • Опубликовано: 18 ноя 2024

Комментарии • 94

  • @yass313
    @yass313 2 года назад +8

    19:20 名越(なご「四」)は縁起が悪いから、那古野(なご「八」)に改めろってことなのかな?

  • @YO-high
    @YO-high 2 года назад +24

    将軍の方が謀反を起こすというパワーワード。
    権力と権威が分かれてるってことなんだろうね。そら、源氏の将軍もいなくなりますわ。

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 2 года назад +9

      甘いな。承久の乱の記録では、幕府だけじゃなく貴族も「主上御謀反」と書いているんだぞ。

  • @沖縄たろー
    @沖縄たろー 2 года назад +3

    ありがとうございます!

  • @秋野直重-q3f
    @秋野直重-q3f 2 года назад +24

    時頼の凄みは宝治合戦でも発揮され、自分の妻の母方でもある三浦一族を安達家を使って滅ぼしました。大河ドラマ北条時宗で時頼を演じた渡辺謙の熱演が記憶に残っています。

  • @kentataira9878
    @kentataira9878 2 года назад +19

    自分は高倉健名越流の親戚ですが、北条という意識よりは平氏直系の方がありますね。

  • @提督オルタ
    @提督オルタ 2 года назад +22

    平家と同じ桓武平氏の流れを汲む北条も源氏将軍家と同じように一門同士の争いが絶えなかったのか

    • @牛島巌-r7g
      @牛島巌-r7g 2 года назад +19

      人格の問題でなく、システムの問題なんでしょうね。
      京都のシステムなら、数が物を言うから身内に優しくした方が得をする。軍事政権の鎌倉のシステムは頂点は一人しかいないから、政権内は文字通りのトーナメントになる。

    • @mikionakata7921
      @mikionakata7921 2 года назад +1

      家長となったものがすべての財産をすべて相続するというのは戦国以降のことでこのころは兄弟で財産を分与相続していたつまり田分け₍戯け₎をしていた。
      主流平氏主流源氏となるためには実力を示さなければならなかったのです。
      何か大きな戦となる乱がおこれば例えば保元の乱や平治の乱などおこれば‥
      平氏+源氏VS平氏+源氏という構成で戦をします。
      一門同士で戦をするのはむしろ当たり前で親兄弟で争わぬ戦はなかったのです。

    • @中村佳己-t4r
      @中村佳己-t4r 2 года назад +4

      元々、桓武天皇直系の平高望が坂東に赴任して根を降ろした時に3人の息子である国香、良兼、良将(+異母弟の良文もいました)が、それぞれ領地を開墾開拓して勢力を拡大しましたが、将門の父である良将が亡くなって以降に同じ桓武平氏同士の将門対叔父の国香や良兼との領地争いが勃発した。
      将門の叔父達の中でも良文だけは、何故か将門に好意的と言うか?味方だった。
      この良文の子孫が坂東八平氏(大庭氏、梶原氏、長尾氏、三浦氏、秩父氏、土肥氏、千葉氏、上総氏)を生んだ。

  • @山本靖規-r6c
    @山本靖規-r6c 2 года назад +9

    大河では時輔がモンゴルに渡ってた

  • @中村佳己-t4r
    @中村佳己-t4r Год назад +2

    タラレバですが、義時の兄である宗時が戦死していなければ北条本家は宗時が継いでいたでしょうね?
    でも宗時が第2代執権に就いていたかどうか分からないですね?
    ところで北条氏の祖である初代執権の時政には兄弟いたのでしょうか?もちろん兄弟はいたかと思いますが北条氏の家系図には見当たらない?

  • @牛島巌-r7g
    @牛島巌-r7g 2 года назад +23

    朝時が、自分が嫡流だといくら言っても、泰時の方が実績も、実力も、貫禄も上。人格的にも特に問題がない。
    そら勝てないわなあ。

  • @喜与子岡本
    @喜与子岡本 Год назад +5

    おおらぎ流、ではなく大仏(だいぶつ)と書いてオサラギと読みます。

    • @wurry77
      @wurry77 Год назад +3

      作家に大佛次郎って昔いたよな。赤穂浪士書いた人。

    • @7highsmash88
      @7highsmash88 Год назад +3

      @@wurry77 大仏(大佛)次郎って鞍馬天狗を書いた人だそう。かなり有名なのに読めないとまずいよね

    • @wurry77
      @wurry77 Год назад +2

      @@7highsmash88 今大佛次郎読む人もほとんどいないから、分からないのかも、
      半世紀以上前の作家だし。朝日新聞に連載していたから覚えていた。

  • @多羅尾伴内-g1c
    @多羅尾伴内-g1c 2 года назад +16

    源氏将軍が滅んだ後、将軍職を継いだ九条が源姓を名乗り『頼経』と名乗ったのは面白いな。
    頼朝の『頼』と義経の『経』とはね。

  • @mondedo2622
    @mondedo2622 2 года назад +9

    宮澤エマのキャスティングは江間義時の大河だからだと踏んでる。

    • @4月の雨
      @4月の雨 2 года назад +2

      一瞬なぜ?と考えてしまった

    • @wurry77
      @wurry77 Год назад

      うまい!

  • @仲西俊雄
    @仲西俊雄 2 года назад +4

    大河ドラマの鎌倉殿の13人で朝時役は誰がなるんでしょうか⁉️

  • @くわだけんいち
    @くわだけんいち 2 года назад +12

    事実上の二大政党制ですよね。御家人体制の必然です。血統ではなく、御家人の多数の支持を得たものが勝つ。

  • @tatsuki3636
    @tatsuki3636 2 года назад +15

    表題が「北条性」になっています。早目に「北条姓」に修正された方が良いかと。

  • @Chaikaist
    @Chaikaist 2 года назад +5

    武家の惣領と嫡流というは必ずしも一致しない時代。平安後期は儒教がただの教養で,鎌倉時代初期は朱子学が伝えられた頃で,何それ?って時代。兄弟間の上下意識も室町期以降ほど強かったかどうか。同族の争い?あって当然という時代だったのでは。
     江戸期のテキストといったフィルタ越しにしか見れない鎌倉時代だから,当時の武家のメンタリティを窺い知るのは難しい。

  • @cheekogreeneyesnike
    @cheekogreeneyesnike 2 года назад +21

    北条時宗は異母兄である時輔を粛清する程警戒するのとは違い、同母弟である北条宗政をとても信頼してたそうですね。宗政も兄に対して懸命に尽くしましたが29歳という若さで早世してしまい、時宗にとっては痛手になり深く悲嘆したそうです。その時宗も32歳の若さで早世してるので、幕府の後年の執権は早世してる感じがします。

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 2 года назад +14

      時宗の父、時頼も30代で亡くなってるし、祖父なんか執権になることなく亡くなってるし、得宗家はやたらと短命。他の北条家は普通に60歳ぐらいまで生きてるのに。

    • @牛島巌-r7g
      @牛島巌-r7g 2 года назад +9

      ストレスがすごいんでしょうね。

    • @toyo-rex4899
      @toyo-rex4899 2 года назад +9

      義時・泰時は60過ぎまで生きたけど、泰時の子・時氏以降高時までの得宗家当主は40歳以下で亡くなっていますね。それが幕府の命を縮める一因にもなったのだと思います。
      一方で他の北条一族は長寿が結構いて、時宗の前の執権・政村は69歳、徒然草に登場する(大仏)宣時は86歳まで長生きします。

    • @iamagoodprivate
      @iamagoodprivate 2 года назад +2

      家系図を見ると 安達一族との近親相姦が多すぎたのではないかともされてますね。

    • @toshiyukifunahashi3882
      @toshiyukifunahashi3882 2 года назад +7

      「近親婚」の弊害でわ??

  • @万能格納庫リコ
    @万能格納庫リコ 2 года назад +4

    だから13人を名乗ったところで所で江間義時と言ってたのか

  • @垣内成夫
    @垣内成夫 2 года назад +30

    朝時の家系(名越流)は2001年大河「北条時宗」に悪役として頻繁に登場しますね。
    ですが当該動画を拝見して、見方が少々変わりました。彼らが得宗家に対して反抗的であったのも、致し方のない面があったのですね。
    教訓としては、父である義時が健在であるのに、朝時を持ち出した時政が悪い。きちんと順番を守って…、ということでしょうか(吉宗が、言語障害があっても長男の家重に家督を譲ったように…)。
    余談ながら「北条時宗」で吹越満氏が扮する宗孝親王は良い味を出していたなあ。

    • @jeek4509
      @jeek4509 2 года назад +7

      京に追放を言い渡されるシーンは滅茶苦茶印象に残ってます
      二月騒動の後に出家させられて発狂するところとかも!

  • @マヤ平
    @マヤ平 2 года назад +14

    鎌倉、室町と混沌した時代にようやく江戸徳川体制になって完璧なシステムになりましたね

    • @アウトローという者
      @アウトローという者 2 года назад +6

      その完璧だった筈の徳川システムも時代と共に廃れていき、幕末期に至ってもはや武士そのものが役に立たないものとなっていきました…

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 2 года назад +3

      そうか?。幕府が朱子学を取り入れた事で尊皇思想が広まり、最後には幕府を倒したわけだが。

    • @4月の雨
      @4月の雨 2 года назад +1

      @@戸田賢司 その因果関係って簡単に結びつくのかな?

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 2 года назад +1

      @@4月の雨
      朱子学=勤皇思想なんて常識だと思うが。

    • @4月の雨
      @4月の雨 2 года назад +1

      @@戸田賢司 要因はいろいろあるのに知ってる知識を「常識」とし、それをもって分かったことにしてるだけかな、と思っただけです。

  • @須藤凜々花が好き
    @須藤凜々花が好き 2 года назад +4

    「得宗家」は北条の分家である というのが争いのもとになっているのね どちらが本家で分家なのかでずっと揉めていたのね どちらも義時の子孫に違いないのに ドラマでいうとお母さんがガッキーなのか堀田真由かの違いなのね

  • @つば九郎先生-t5i
    @つば九郎先生-t5i 2 месяца назад +1

    明治以降に人間になった百姓の出自の人の特徴…
    何故か落ちぶれたり、滅んだ一族の生き残りがいてとか親戚の子孫ですって無理やり汚い血を誤魔化したから、私は〇〇の子孫ですみたいなのがパッと見誰やねんって感じになる(笑)

  • @伊勢新九郎-l1q
    @伊勢新九郎-l1q 2 года назад +13

    義時の嫡子は本来朝時だったのが、不祥事で廃嫡されたのでは?

    • @義和菊池
      @義和菊池 2 года назад +5

      朝時の母は比企氏出身。比企が滅びる前は嫡子だったが、北条が比企を滅ぼした時に実母は父親と離縁させられ、朝時も廃嫡されたようです。

  • @佐藤イチロー-u2p
    @佐藤イチロー-u2p 2 года назад +25

    北条は桓武平氏、清和源氏では無い。

  • @ウエストヴィレッジ
    @ウエストヴィレッジ 2 года назад +4

    和泉元彌が主演だった大河ドラマ「北条時宗」は前半は弟の時輔との確執、宗尊親王や名越一派と、そこに取り込まれた執権北条長時のドロドロとした権力争いが描かれていました
    大河ドラマの冒頭で、宝治合戦で三浦家が滅ぼされていました……北条義時に協力していた三浦義村の子孫も北条によって滅ぼされると思うと何とも言えない気持ちになります……

  • @thehiromi7214
    @thehiromi7214 2 года назад +4

    この話を聞くと、側室の子が多くのトラブルの原因に思える。
    家を守る為に側室に子を産ませ、後々それが騒動の原因になったのは皮肉な事だ。それを考えると、徳川は上手くコントロールしたものだ。

    • @aa35544
      @aa35544 2 года назад

      諜報機関と工作活動

  • @hesscoll10
    @hesscoll10 2 года назад +9

    義時が北条姓でなかったとか時政から跡取に指名されなかったとかは重要ではありません。頼家政権初期に13人の宿老に、時政と並び義時が選ばれました。時政は北条家代表、義時は頼朝御側衆の筆頭という位置づけで、義時が政権内で既に重鎮だったという証拠です。

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 2 года назад +1

      重鎮と言うか、会社に例えると秘書課長が課長なのに、職務のために取締役会に出ているのに近いな。

    • @aa35544
      @aa35544 2 года назад +2

      米国は建国時の州が13州だったため、当初は建国に縁のある数字ということで、吉数とされていたようだ。

    • @aa35544
      @aa35544 2 года назад +2

      @@戸田賢司
      経営判断力は、責任ある立場で繰り返し経験しなければ、一朝一夕に磨かれるものではない。
      ナンバーツー不在の状態でワンマン社長が会社から居なくなってしまったら、その会社の成長はそこで止まってしまうかも知れない。
      少なくとも、何かしら重要な経営判断に直面したら、戸惑ってしまうだろう。

    • @中村佳己-t4r
      @中村佳己-t4r Год назад +1

      俗に言う「家子」の筆頭が、義時だった訳ですね?
      それに義時は、頼朝にとっても義弟に成りますし?

  • @森本秀治-l5k
    @森本秀治-l5k 2 года назад +19

    そもそも"北条"というのは「姓」ではなく「名字」です。 所謂"北条"氏の姓は『平』(平氏)です。
    因みに戦国時代の"(後)北条氏"は鎌倉時代の北条氏とは全く関係ありません。

    • @user-ub8jh8bp3s
      @user-ub8jh8bp3s 2 года назад +6

      伊勢盛時は、側室に自称北条氏の子孫を名乗る女性がいましたね。 伊勢盛時の長男の氏綱(母親は小笠原氏)も、自称北条氏の子孫の女性と結婚し、北条氏綱と名乗りましたねなら

    • @田中-r1q
      @田中-r1q 2 года назад +4

      氏は平
      姓は朝臣
      家名が北條

  • @つっちー歴史語りチャンネル
    @つっちー歴史語りチャンネル 2 года назад +25

    江間性を名乗っていましたね。歴史上では北条で通してますが。

    • @マヤ平
      @マヤ平 2 года назад +3

      教科書ではそうかもしれないねただ、それは、二次資料として

    • @aa35544
      @aa35544 2 года назад +1

      @@マヤ平
      いずれも語り伝えられてきた話にすぎないが、江間の地が北条氏の所領となる前に、江間小四郎(江間小次郎・江間次郎とも)という人物が支配していたのは確かな事なのかもしれない。
       そして、江間に嫁いだ八重姫は子を産み、その子は義時が養育していたのかもしれない。

    • @aa35544
      @aa35544 2 года назад +1

      伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝は、伊東祐親の娘・八重姫と結ばれるが、平清盛を恐れた祐親は、二人の間に生まれた千鶴丸を殺害し、八重姫を江間小四郎(小次郎・次郎とも)に嫁がせたのだという。

    • @aa35544
      @aa35544 2 года назад +1

      北條寺は、北条義時創建と伝えられている寺院。
       墓地には、北条泰時が建てたという義時と義時の後妻伊賀の方の墓があり、義時の墓には「北條相模守従四位下 江間小次郎平義時」と刻まれている。
       いろんな伝説がある中で、江間小四郎と江間小次郎が混同されてしまったのかもしれない。

    • @aa35544
      @aa35544 2 года назад +3

      北条義時が生まれたのは1163年で、千鶴丸が殺害されたのは1175年9月頃(もしくは1173年頃)と推定されています。
      仮に、八重姫が北条義時に嫁いだとすると、北条義時は12歳前後で、妻に迎えたことになります。
      これは、年齢的にはギリギリといったところですので、可能性はあったかも知れませんがちょっと早すぎる感があります。
      また、北条義時の母は、伊東祐親の長女とされます。

  • @戸田賢司
    @戸田賢司 2 года назад +12

    北条の本家なんて大した意味なんかないがな。義時は頼朝の縁者だからのしあがれたわけで。

  • @信長五郎-k9r
    @信長五郎-k9r 2 года назад +2

    名越氏の歴史がよ〜〜くわかりました。朝時を早くに出家させておけばとも考えたが、息子らが蜂起したかも??

  • @toshitoshi2994
    @toshitoshi2994 Месяц назад

    実弟の重時が泰時について、二人とも優秀の時点で名越流に勝ち目ない。

  • @bigmarch8686
    @bigmarch8686 2 года назад +11

    この時代は婚姻事情から異母兄弟には情があんまりない。
    で、相続は女子も含めてほぼ平等だったから、嫡流とか関係ない。元々北条氏は大した勢力を持たない地方豪族だったからなおさら。土地や財産平等に分けるから、地位とかは揉める。「俺にも権利が・・」と思っちゃうからね。
    それが鎌倉衰退の一因になって行く。対して室町時代は惣領の総取りだから別の意味で揉める。

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 2 года назад +6

      鎌倉武士は、平家だの奥州藤原氏だのを倒した関係で全国各地にバラバラに領地があるから、子供達が分かれていかないと管理なんか出来ないからな。

    • @提督オルタ
      @提督オルタ 2 года назад +4

      江戸時代は嫡男か庶子かに関わらず長男が全てを相続し次男以下は正室の子であろうと他家に養子入りするかそうでなければ部屋住として一生を終える事になるから、本人がどれだけ不満だろうと揉める事は無かった。そのシステムを大いに利用したのが自身の庶子らを各大名家に養子させた11代家斉だった

  • @toshichika720
    @toshichika720 2 года назад +6

    二月騒動

  • @マサノリフクダ
    @マサノリフクダ 2 года назад +1

    中国共産党
    北条の権力争い
    と似ている。!

  • @安斎徹-w1e
    @安斎徹-w1e 2 года назад +2

    まあ何にしても、日本史史上最も忌むべき存在、嫌悪する鎌倉北条氏が東勝寺で因果応報自業自得のほぼ壊滅全滅と相成り、めでたしめでたしです。

    • @マヤ平
      @マヤ平 Год назад +2

      壊滅ではなく、高時の嫡男時行が信濃に逃れ鎌倉奪還の為に挙兵いたします。それが中全代の乱といいます

    • @安斎徹-w1e
      @安斎徹-w1e Год назад +2

      @@マヤ平
      当然、中先代の乱は承知しておりますが、鎌倉北条氏を【中世日本の黒歴史】として嫌悪する自分にとっては、あの東勝寺の1件で【壊滅族滅全滅】した事と捉えています。