Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
信玄最強説は徳川家が喧伝した説を信じてます。付け加えるなら、武田の旧臣を徳川が吸収したのも理由の一つだと思ってます。要するに、徳川は信玄以外には負けなかったし、信玄の残した最強の軍団を吸収したんだから徳川が最強、だから徳川の世を転覆させることなんてできないと印象付けたかったんじゃないかと。
川中島の戦いにおける上杉謙信とのハイレベルな攻防と家康に完勝した三方ヶ原の戦い、加えて織田軍に完勝した謙信の手取川の戦いが信玄最強説の大きな理由だと思います。
武田勝頼が一番大好き💓♥️❤️です。🎵
いや天下取りは最初から無理ですし やっぱり甲斐の立地は悪いです今川もそうですが北条に近いのはかなり不利です。
それぞれ基準は異なりますが、客観的な総合力という意味では最強と呼んでよいと思います。
信長を観察していたフロイスが、「信長は他の大名は軽視していたが、信玄には常に悩まされて、その才能を恐れていた」という事を指摘してますからね。織田軍を撃破した直後に病死した上杉謙信と並んで、「もし長生きしていたら」という世界線を想像する大名です。ただ、武田家は名門中の名門ですが、その性質ゆえに信長のようにベンチャー的なフットワーク軽い事ができずに(信長も後半は一族重視になってますが)、代々の家臣団の意見が強くて、信玄は一般的なイメージよりもかなり気を遣っている印象。父親の件もあるせいか、内政にも徹底的。この時代に経済に着目したのは信長だけでなく、一大財力を築いた大友宗麟や上杉謙信はもちろん、実は今川義元も尾張経済に着目していたと判明してきたし、信玄も金山だけでなく貨幣制度を開発したりと画期的だった。しかし武田は一門衆を含めた家臣団が強すぎて、勝頼の時代の穴山梅雪と家康の内通のように、武田の血筋を残すことが(表向きの)大義名分になってしまった。
個人的に島津義弘と武田信玄が戦ったらどういう戦になってるのか興味があります!!(^_^)/
戦術的な強さは紛れもないですが、信長や秀吉のような天下統一を視野に入れた戦略眼や経済観があったかというと厳しいですね。仮に瀬田の唐橋に武田菱を掲げる事に成功しても将軍義昭の手駒に成り下がり、治まらない戦乱の中で擦り切れたかも…。
武田を2回退けた村上義清も、ある意味最強な気がしますね🤔武田が最強という称号の中に、3回目のリベンジで村上義清を退けたところから勢いが付いて、この後様々な戦で勝利を治めているからこそではないのかなと。
KOEIが大分この説に寄与している。最初に出したゲームが川中島なことがあって思い入れがあるのか武田は戦国時代にて最強を地で行ってる
3:39信長を信玄と言ってるよ😂
戦国史好きならそれそれ自分推しの最強説があっていいと思います。
もし西上作戦で信玄が病没しなかったらどうなっていたかのシュミレーションですが、西上作戦での武田軍の兵力は諸説あるが約2万5千〜3万くらいで、信長が動員できた兵力も信長包囲網が機能していたので約3万程度と思われる。ほとんど兵力差がない中で信玄と信長が戦えば、普通に考えたら勝つのは信玄でしょう。ただ武田軍は長期遠征で疲れていたというのが唯一の気になる点ではあるが。
エンタメ路線では武田信玄=戦国時代最強みたいに云われてますが、歴史的な見地からではあくまでも甲信地方の安泰と繁栄を目指していただけでしょうね1988年の大河ドラマでの「甲斐に・・・光を!!」という中井貴一演じる信玄の断末魔この一言こそが武田信玄という人物の人生そのものだったのではないでしょうか?
信玄に関しては、信玄好き、アンチ信玄など色んな考えをもっている人がいるが、個人的には武田信玄は間違いなく戦国随一の知将である事は間違いなく、軍事、内政、外交など総合力も戦国随一の武将だと思う。だから勝頼がそこそこ優れた武将だったとしても信玄には遠く及ばないので武田家が滅んでしまったのもある意味仕方ないと思います。
各武将の全盛期(秀吉は小田原攻め、家康は関ヶ原)で客観的な総合力を見れば秀吉、信長、家康、北条、毛利、上杉の順で妥当でしょう。武田は互いに全兵力で決戦するなら秀吉、信長、家康の相手にもならず北条、毛利にもわずかに劣り上杉といい勝負でしょうね。家康は信玄にだけ負けていますが後詰めが来ない状況で4倍近い兵力で待ち伏せてられては勝てるはずありません。武将の能力以前の問題です。家康がリスクの高い決戦に挑んだのも浜松城を素通りされそのまま三河に向かわせたら三河はもちろんですが遠江の土豪も一斉に武田に寝返るのがわかっていたので勝算は薄くとも城を出るしかなかったのです。むしろ信玄は婚姻同盟を結んでいる織田が後詰めに来れない状況で同盟相手の同盟者を攻めた卑怯者と評価するのが正しいと思います。そんなことしたから武田は勝頼の代になって信長の孫を跡取りして臣従する条件で和睦を申し入れても黙殺され、朝廷に対する謀反人として滅びる羽目になったのです。
信玄は家臣団も、 とても強いですからね武田家選ぶと、「卑怯者」呼ばわりされますからね信長の野望では間違いなく 武田家は最強ですね
…やはり、天下を取った『主役』の家康と徳川軍にとって最も驚異的なライバルだった存在でしたからね。ライバルが手強く壁が通りづらければ、その果ての天下泰平も輝き尊くなるというわけですね。ありがとうございました!
甲斐の国で育ちました🙇信玄は政治家ですよ🎵武力よりも政治力ですね❗️家臣を大切にして恩賞をその場で渡していた実感性と現実性が家臣を盛り立てたんでしょうね🎵現代の会社の社長が信玄ならかなりのやり手だったんじゃないでしょうか❗️
家康が負けたって事は譜代衆も負けてるからな平和になってから若者たちにほら吹く際に最強の方が都合よかったのでは?
三方原の戦いと三増峠の戦いを見てもつええええってなるよね
実際に武田信玄と同時代の人……北条氏康は駿河で武田晴信の偽装退却に誘引された経験があり、また関東では得意にしていた領内での逆包囲戦術を三増峠で撃破され……武田信玄に野戦で挑む見通しの暗さを実感していました😰上杉謙信は野戦では決して信玄にひけを取りませんでしたが……結局、信濃は奪還出来ずに奥信濃を緩衝地帯にするのが精一杯でした……😰織田信長は周知の通り、武田と事を構えるのを好みませんでした💦ただ信長は信玄に勝てないと思っていたのではなく、自身に敵が多すぎるのでその時期では無いという考え方です😏あとは毛利元就と島津家しかありませんが……毛利家の地上戦能力は私は良く知りません💦島津家は偽装誘引して叩き伏せる【釣り野伏せ】があまりにも有名ですが、そもそも武田信玄自身が偽装誘引に長けているので……直接対決で引っ掛かるかどうか微妙です💦やはり武田信玄と互角に渡り合えるのは上杉謙信か織田信長くらいなようです……が織田信長は自身と互角の敵戦力との合戦はほとんど無く、合戦前に圧倒的優勢を造りあげてからの戦いでした(それはそれで大変優れた戦争指導です💦)だから信玄は『包囲網』で織田勢を分断したのですが……やはり個人的には天下人に互する合戦の名手だったと言えそうですね😏
さおりさんの解説が1番好きなんです。
なるほど本家信玄だけではなく武田家ゆかりの武将昌幸、幸村にも苦戦したことも関わってるかもな。後は長篠後大勢力の織田軍が武田軍と上杉軍は最強と認めてるらしい。
武田信玄は人事に関してはかなり優れてるイメージがありますね。どんな人材であれ才能を見抜いて適材適所で使う。徳川家康に勝ったからこそ必要以上に喧伝されたのでしょう。柳沢吉保の影響も強いかと思います。
中井貴一さんのおかげ!
勢力差が大きくて信長のライバルじゃなかったってのを知って驚いたな。
ご当地の英雄。日本史には何ら影響を与えなかったと言う理由で、日本史の教科書から除外された。天下統一と言う明確な目標を持たず、ひたすら領国拡大の野望だけの三国志上の袁紹的なイメージですね。
武田二十四将の武藤喜兵衛(真田昌幸)が好きです(o・ω・o)
風林火山の旗印は最強の意味があると感じました! そして1番大切な言葉が信玄公の強みだと確信しました。 人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり!
確かに一理ありと思いながらも、私が好きな武士ランキングでは3位を謙信公とともに取っています。1位もまた2人になりますが、真田昌幸と幸村です。アンチ徳川チームです。
三方ヶ原も検証が必要なのかもしれない
光栄のゲームのせい、だよね。
3:39
武田信玄の絵がよく、左右の目の焦点が合わないように描かれているけど、実際にそうだったのか?それとも表現の一手法?
Ota Hidetroshiさん不動明王の天地眼からだと思います。武田信玄は後に不動明王に多く例えられたようで、武田菱付きの軍配を持った不動像もあります。
@@木元西 様なるほど!以前から信玄公の絵を見るたびもやもやしていたのですが、おかげさまでスッキリしました。ご教示いただき、有難うございました。
そしてこのチャンネルは徳川推し
案内人のさおりさん。好き(*´ω`*)
よく言われているが武田家滅亡も織田家没落も全て2人が偉大すぎて負を2代目以降が背負い結果的に滅亡や没落した
ゲームの影響って、まだインベーダゲームが無い時代から信玄最強説って聞いたことありますが?
信長は相手より弱いとき、敵にしたくない時期はへりくだり、強くなって勝てるとなれば尊大な態度をとる人です。謙信相手にも同じですよ
この頃の武将って「信」が付く人多い…
おそらく儒教の影響でしょう。義、忠、信、孝は多いですね。
こんばんは
家康に勝ったから最強!といいうことは松下加兵衛が実質天下人ってことかな
ゲーム❓
武田信玄最強間違いなし!!なんと言っても信玄の生涯でいくさで負けたのは、2回か3回(負けいくさのうちの2回は村上義清に負けたというのは資料から明らかですが、3回説では残りの1回が誰に何処で負けたのかが全く資料に残っていないので僕は個人的には生涯2敗説を信じます)。信玄は幼少期から頭が大変良く、孫子の兵法などをマスターしていたし、配下の家臣の結束力は天下一だし、信玄の孫子の兵法を用いた用兵の妙は見事の一言。とにかくいくさでもとても慎重なタイプでまず間者を放って相手の戦力分析をし、万が一の為に退路の確保などしてから、よく山県昌景などに別動隊を任せたりして敵の裏をかいて挟み撃ちにしたりといくさの天才でした。やはり戦国最強と言えば武田信玄で決まりですね!!
妊娠したん??うひょ〜🌟
武田信玄が名将だという見方に異論は無いのですが、三方ヶ原に関して完勝と言うにはあの状況で家康の首も上げられず城に逃がしたばかりか、結果、信長討伐への進軍に楔を刺されたと思っていて、家康を逃がしきった家康家臣団に対する敗北と言えるのでは無いかとも。個人的にはあの時代の強者は上杉謙信だと思ってるので、そのライバルとされた信玄には強くあって欲しい点には強く同意wまあ、謙信に天下を取る意志があれば武田がライバルだなんて言わせなかったとも思っていますが。
アンチ武田です。評価を必要以上に上げたのは事実ですね。強いのは事実ですが。
信長の野望は、人口が増える要素がほとんど無い信州・甲斐の国の特性を無視している作品のため、全くの論外です。むしろ、あのゲームが原因で間違った認識が世に広まったと思います(現在進行形)。
コーエーの歴史ゲーム「決戦3」武田が物凄く強く初回ではまず勝てない。「信長の野望」と合わせコーエーの武田びいきがうかがえる。
信玄最強説は徳川家が喧伝した説を信じてます。
付け加えるなら、武田の旧臣を徳川が吸収したのも理由の一つだと思ってます。
要するに、徳川は信玄以外には負けなかったし、
信玄の残した最強の軍団を吸収したんだから徳川が最強、
だから徳川の世を転覆させることなんてできないと印象付けたかったんじゃないかと。
川中島の戦いにおける上杉謙信とのハイレベルな攻防と家康に完勝した三方ヶ原の戦い、加えて織田軍に完勝した謙信の手取川の戦いが信玄最強説の大きな理由だと思います。
武田勝頼が一番大好き💓♥️❤️です。🎵
いや天下取りは最初から無理ですし
やっぱり甲斐の立地は悪いです
今川もそうですが北条に近いのはかなり不利です。
それぞれ基準は異なりますが、客観的な総合力という意味では最強と呼んでよいと思います。
信長を観察していたフロイスが、「信長は他の大名は軽視していたが、信玄には常に悩まされて、その才能を恐れていた」という事を指摘してますからね。
織田軍を撃破した直後に病死した上杉謙信と並んで、「もし長生きしていたら」という世界線を想像する大名です。
ただ、武田家は名門中の名門ですが、その性質ゆえに信長のようにベンチャー的なフットワーク軽い事ができずに(信長も後半は一族重視になってますが)、代々の家臣団の意見が強くて、信玄は一般的なイメージよりもかなり気を遣っている印象。父親の件もあるせいか、内政にも徹底的。
この時代に経済に着目したのは信長だけでなく、一大財力を築いた大友宗麟や上杉謙信はもちろん、実は今川義元も尾張経済に着目していたと判明してきたし、信玄も金山だけでなく貨幣制度を開発したりと画期的だった。
しかし武田は一門衆を含めた家臣団が強すぎて、勝頼の時代の穴山梅雪と家康の内通のように、武田の血筋を残すことが(表向きの)大義名分になってしまった。
個人的に島津義弘と武田信玄が戦ったらどういう戦になってるのか興味があります!!(^_^)/
戦術的な強さは紛れもないですが、信長や秀吉のような天下統一を視野に入れた戦略眼や経済観があったかというと厳しいですね。仮に瀬田の唐橋に武田菱を掲げる事に成功しても将軍義昭の手駒に成り下がり、治まらない戦乱の中で擦り切れたかも…。
武田を2回退けた村上義清も、ある意味最強な気がしますね🤔
武田が最強という称号の中に、3回目のリベンジで村上義清を退けたところから勢いが付いて、この後様々な戦で勝利を治めているからこそではないのかなと。
KOEIが大分この説に寄与している。最初に出したゲームが川中島なことがあって思い入れがあるのか武田は戦国時代にて最強を地で行ってる
3:39
信長を信玄と言ってるよ😂
戦国史好きならそれそれ自分推しの最強説があっていいと思います。
もし西上作戦で信玄が病没しなかったらどうなっていたかのシュミレーションですが、西上作戦での武田軍の兵力は諸説あるが約2万5千〜3万くらいで、信長が動員できた兵力も信長包囲網が機能していたので約3万程度と思われる。ほとんど兵力差がない中で信玄と信長が戦えば、普通に考えたら勝つのは信玄でしょう。ただ武田軍は長期遠征で疲れていたというのが唯一の気になる点ではあるが。
エンタメ路線では武田信玄=戦国時代最強みたいに云われてますが、
歴史的な見地からではあくまでも甲信地方の安泰と繁栄を目指していただけでしょうね
1988年の大河ドラマでの「甲斐に・・・光を!!」という中井貴一演じる信玄の断末魔
この一言こそが武田信玄という人物の人生そのものだったのではないでしょうか?
信玄に関しては、信玄好き、アンチ信玄など色んな考えをもっている人がいるが、個人的には武田信玄は間違いなく戦国随一の知将である事は間違いなく、軍事、内政、外交など総合力も戦国随一の武将だと思う。だから勝頼がそこそこ優れた武将だったとしても信玄には遠く及ばないので武田家が滅んでしまったのもある意味仕方ないと思います。
各武将の全盛期(秀吉は小田原攻め、家康は関ヶ原)で客観的な総合力を見れば秀吉、信長、家康、北条、毛利、上杉の順で妥当でしょう。武田は互いに全兵力で決戦するなら秀吉、信長、家康の相手にもならず北条、毛利にもわずかに劣り上杉といい勝負でしょうね。家康は信玄にだけ負けていますが後詰めが来ない状況で4倍近い兵力で待ち伏せてられては勝てるはずありません。武将の能力以前の問題です。家康がリスクの高い決戦に挑んだのも浜松城を素通りされそのまま三河に向かわせたら三河はもちろんですが遠江の土豪も一斉に武田に寝返るのがわかっていたので勝算は薄くとも城を出るしかなかったのです。むしろ信玄は婚姻同盟を結んでいる織田が後詰めに来れない状況で同盟相手の同盟者を攻めた卑怯者と評価するのが正しいと思います。そんなことしたから武田は勝頼の代になって信長の孫を跡取りして臣従する条件で和睦を申し入れても黙殺され、朝廷に対する謀反人として滅びる羽目になったのです。
信玄は家臣団も、 とても強いですからね
武田家選ぶと、「卑怯者」呼ばわりされますからね
信長の野望では間違いなく 武田家は最強ですね
…やはり、天下を取った『主役』の家康と徳川軍にとって最も驚異的なライバルだった存在でしたからね。ライバルが手強く壁が通りづらければ、その果ての天下泰平も輝き尊くなるというわけですね。ありがとうございました!
甲斐の国で育ちました🙇信玄は政治家ですよ🎵武力よりも政治力ですね❗️家臣を大切にして恩賞をその場で渡していた実感性と現実性が家臣を盛り立てたんでしょうね🎵現代の会社の社長が信玄ならかなりのやり手だったんじゃないでしょうか❗️
家康が負けたって事は譜代衆も負けてるからな
平和になってから若者たちにほら吹く際に最強の方が都合よかったのでは?
三方原の戦いと三増峠の戦いを見てもつええええってなるよね
実際に武田信玄と同時代の人……北条氏康は駿河で武田晴信の偽装退却に誘引された経験があり、また関東では得意にしていた領内での逆包囲戦術を三増峠で撃破され……武田信玄に野戦で挑む見通しの暗さを実感していました😰
上杉謙信は野戦では決して信玄にひけを取りませんでしたが……結局、信濃は奪還出来ずに奥信濃を緩衝地帯にするのが精一杯でした……😰
織田信長は周知の通り、武田と事を構えるのを好みませんでした💦
ただ信長は信玄に勝てないと思っていたのではなく、自身に敵が多すぎるのでその時期では無いという考え方です😏
あとは毛利元就と島津家しかありませんが……毛利家の地上戦能力は私は良く知りません💦
島津家は偽装誘引して叩き伏せる
【釣り野伏せ】
があまりにも有名ですが、そもそも武田信玄自身が偽装誘引に長けているので……直接対決で引っ掛かるかどうか微妙です💦
やはり武田信玄と互角に渡り合えるのは上杉謙信か織田信長くらいなようです……が織田信長は自身と互角の敵戦力との合戦はほとんど無く、合戦前に圧倒的優勢を造りあげてからの戦いでした(それはそれで大変優れた戦争指導です💦)
だから信玄は『包囲網』で織田勢を分断したのですが……
やはり個人的には天下人に互する合戦の名手だったと言えそうですね😏
さおりさんの解説が1番好きなんです。
なるほど本家信玄だけではなく武田家ゆかりの武将昌幸、幸村にも苦戦したことも関わってるかもな。後は長篠後大勢力の織田軍が武田軍と上杉軍は最強と認めてるらしい。
武田信玄は人事に関してはかなり優れてるイメージがありますね。どんな人材であれ才能を見抜いて適材適所で使う。
徳川家康に勝ったからこそ必要以上に喧伝されたのでしょう。柳沢吉保の影響も強いかと思います。
中井貴一さんのおかげ!
勢力差が大きくて信長のライバルじゃなかったってのを知って驚いたな。
ご当地の英雄。日本史には何ら影響を与えなかったと言う理由で、日本史の教科書から除外された。天下統一と言う明確な目標を持たず、ひたすら領国拡大の野望だけの三国志上の袁紹的なイメージですね。
武田二十四将の武藤喜兵衛(真田昌幸)が好きです(o・ω・o)
風林火山の旗印は最強の意味があると感じました! そして1番大切な言葉が信玄公の強みだと確信しました。 人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり!
確かに一理ありと思いながらも、私が好きな武士ランキングでは3位を謙信公とともに取っています。1位もまた2人になりますが、真田昌幸と幸村です。アンチ徳川チームです。
三方ヶ原も検証が必要なのかもしれない
光栄のゲームのせい、だよね。
3:39
武田信玄の絵がよく、左右の目の焦点が合わないように描かれているけど、実際にそうだったのか?それとも表現の一手法?
Ota Hidetroshiさん
不動明王の天地眼からだと思います。
武田信玄は後に不動明王に多く例えられたようで、武田菱付きの軍配を持った不動像もあります。
@@木元西 様
なるほど!以前から信玄公の絵を見るたびもやもやしていたのですが、おかげさまでスッキリしました。ご教示いただき、有難うございました。
そしてこのチャンネルは徳川推し
案内人のさおりさん。好き(*´ω`*)
よく言われているが
武田家滅亡も織田家没落も
全て2人が偉大すぎて負を2代目以降が背負い結果的に滅亡や没落した
ゲームの影響って、まだインベーダゲームが無い時代から信玄最強説って聞いたことありますが?
信長は相手より弱いとき、敵にしたくない時期はへりくだり、強くなって勝てるとなれば尊大な態度をとる人です。謙信相手にも同じですよ
この頃の武将って
「信」が付く人多い…
おそらく儒教の影響でしょう。義、忠、信、孝は多いですね。
こんばんは
家康に勝ったから最強!といいうことは松下加兵衛が実質天下人ってことかな
ゲーム❓
武田信玄最強間違いなし!!なんと言っても信玄の生涯でいくさで負けたのは、2回か3回(負けいくさのうちの2回は村上義清に負けたというのは資料から明らかですが、3回説では残りの1回が誰に何処で負けたのかが全く資料に残っていないので僕は個人的には生涯2敗説を信じます)。信玄は幼少期から頭が大変良く、孫子の兵法などをマスターしていたし、配下の家臣の結束力は天下一だし、信玄の孫子の兵法を用いた用兵の妙は見事の一言。とにかくいくさでもとても慎重なタイプでまず間者を放って相手の戦力分析をし、万が一の為に退路の確保などしてから、よく山県昌景などに別動隊を任せたりして敵の裏をかいて挟み撃ちにしたりといくさの天才でした。やはり戦国最強と言えば武田信玄で決まりですね!!
妊娠したん??うひょ〜🌟
武田信玄が名将だという見方に異論は無いのですが、三方ヶ原に関して完勝と言うにはあの状況で家康の首も上げられず城に逃がしたばかりか、結果、信長討伐への進軍に楔を刺されたと思っていて、家康を逃がしきった家康家臣団に対する敗北と言えるのでは無いかとも。
個人的にはあの時代の強者は上杉謙信だと思ってるので、そのライバルとされた信玄には強くあって欲しい点には強く同意w
まあ、謙信に天下を取る意志があれば武田がライバルだなんて言わせなかったとも思っていますが。
アンチ武田です。
評価を必要以上に上げたのは事実ですね。強いのは事実ですが。
信長の野望は、人口が増える要素がほとんど無い信州・甲斐の国の特性を無視している作品のため、全くの論外です。
むしろ、あのゲームが原因で間違った認識が世に広まったと思います(現在進行形)。
コーエーの歴史ゲーム「決戦3」
武田が物凄く強く初回ではまず勝てない。
「信長の野望」と合わせコーエーの武田びいきがうかがえる。