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鈴木貫太郎がいないと今の日本は無かった。右派左派に拘わらず、もっと評価されるべき人物なんだよな。
首相就任当時77歳でこれだけの重責を全うしたのはただただすごい。本人は政治に向いていないと仰っていたそうだが、結果最善ではなかったにしても終戦へ持っていくという重責を見事果たされた。職責は軍人だったがその手腕、才能は十分政治家であったんだろうと思います。
戦後の総理は吉田茂がまずあがるが 日本を終戦にまで持っていった鈴木貫太郎はもっと評価がされていいと思う
そう言えば学生時代の授業にしろ、鈴木貫太郎が為した業績について教えられる事は殆ど無いに等しいですからね。せいぜい先の戦争時、最後の首相という位で、ポツダム宣言受諾までにどんな苦労があったのかについてはあまり語られているのを聞いたことはありません。
現代だからこそ、そう言えるのかもしれないけどね。形骸化していた御前会議だからね。統帥権があるはずの天皇陛下にも開戦を抑える事ができなかった訳だから。もしこの時、継戦派の主張が通っていたらホントに滅んでいたかも。
ただの操り人形だったと言わんばかりの評価もあれば、相当深いところまで読み切って終戦まで引っ張ったと絶賛する人もいる。眼前の敵への対抗策もロクに考えずに「終戦工作」に逃げた軍人には私は軽蔑を感じますが、重臣・政治家としてあの困難な結果に持ち込んだ鈴木貫太郎は、やはり偉人だと思っています。
日本を救った英雄。歴代総理大臣で1番日本の為に働いた総理大臣。今の政治家にはこの働きはできない。
幼い頃に馬に轢かれたらしいけど奇跡的に助かって、2.26でも一命をとりとめた。日本の戦争を終わらせるためにこの人は生まれてきたのではないかと思う
日本の英雄の一人ですね。とても勉強になりました。
4か月だけの内閣だったが、日本を滅亡の危機から救った宰相ではないでしょうか。阿南惟幾陸相が必死になって、抗戦派になりながらも抑えていたことが軍の圧力に脅えず堂々と終戦へと導いたのだと思います。
「日本のいちばん長い日」を観たら、あの終戦が奇跡のように思えてくる。
小説も映画も観ましたが傑作だと思う。ただまあ、勝った側の、つまりは終戦に導いた側のドラマチックな物語であることはちがいないので、もうすこし陸軍や海軍の継続派の葛藤みたいなものも阿南以外のもので観てみたい。阿南は鈴木が侍従長時代の陸軍から宮中に送り込まれた侍従武官だから、先々帝と鈴木のアウンのほかに、先々帝と阿南、鈴木と阿南のアウンもあったものと思う。
「臆病風に吹かれた天皇を排除して戦争を続けようぜ! 省が残れば国が滅んだって構わねえwwwwww」とかいう輩がいましたからねえ狂気ですねまさに
アメリカの妨害にも負けずバチカンを通して休戦の話しがあったとのこと、その時に応じていれば原爆投下はなかったのでは、と思うと残念。
特に旧作を観たら、終戦がいかに紙一重だったかという事がよく分かる。
@@んーなんだろう???「総理が飛んだって増税を続けようぜ!省があれば国は滅びないし〜」
素晴らしい動画を配信して頂きありがとうございます。史実を完結にまとめられている本動画、最高傑作だと思います。鈴木貫太郎御大は関宿藩の出身なので千葉県色が強いですが、生まれは関宿藩の飛び地の堺市伏尾です。伏尾は現在でも久世小学校と言う戦前から存在する関宿藩の色を残す町です。地元の多治速比売神社には鈴木貫太郎御大が参拝した石碑が建立されたモノも有ります。堺市はもっと鈴木貫太郎御大を宣伝するべきです。日本を救った英雄なのですから…
いつか鈴木夫妻を大河ドラマで描いて欲しい、元の乳母とその夫がテロに屈せずに天皇を支え続け最後は国を救った故事を描かなくては大河の価値はない
鈴木さんは日露戦争に中佐で駆逐艦司令として大活躍して日本海海戦の勝利にも貢献してる歴戦の雄だけあって腹の座りが違うよね。軍人は政治に関わるべからずが口癖だったが、困難な敗戦処理を見事にやってのけた。まあ日本人の多大な犠牲の上ではあったが。
鈴木貫太郎、知ってるつもりでしたが、知りませんでした。動画upしていただき、ありがとうございました。
鈴木貫太郎はルーズベルト大統領死去時に、彼の指導を讃え彼の死に深い哀悼の意を示すメッセージをアメリカに送っている‼️😁👍
ヤラセの戦争だった?必死に戦った兵隊、国民はどう成る?
側近の、迫水さんと言う方も素晴らしいですね!✨
@@芦柄金太郎-x3e 迫水さんは今の官房長官にあたる役職で、鈴木総理と陸海相等と上手くやりとりして終戦に導いた影の功労者かもしれません。また226事件の時も義父の岡田首相の難を逃す手配をするなど歴史の証人ですね。
総理大臣就任後に昭和天皇の母親である貞明皇太后から「どうか、お上の父親代わりだと思って支えて欲しい」と言われたそうです。それだけ信頼されていたと言う事ですね。
鈴木翁はこれほどの偉人であるのに、記念館の寂れようが非常に悲しい。
地元民すら、「あれって、なに?」ですからねえ。
場所が悪すぎ
正に男の中の男ですね。日本と私達の未来を救ってくれて、本当にありがとうございます。🙏
この人は凄い強運の持ち主。幼少時に馬に踏み飛ばされそうになるところを助かる。少年時代に川に落ちて溺れそうになるが泳いで助かる。海軍に入ってからも錨と共に海に落ちたが助かる。戦艦金剛の砲身に頭を強打して海に落ちたが助かる。そして二・二六事件…天が、この国のために助け続けたのではないのかと思ってしまうほどだ。
下宿で海兵受験の勉強中に、火鉢からの一酸化炭素中毒で死にかけたって話もある。コレが一番ヤバかったのでは?と想っている、他に誰も居ないんだから。子供の頃は泣き虫だったから陸軍に行った弟の孝雄サンに救って貰うほど元来気が弱く、鬼貫と呼ばれるほど気張れるようになったら、今度は海軍そのものから嫌われた。個人としても組織人としても、なんか軍組織には向いていなさそうなこの人が、聖断の手助けをやり抜けたのは。やはり終戦工作がこの人の天命だったのだろうと想う。
ポツダム宣言受諾決定までの流れと鈴木貫太郎首相の手腕を始めて知って感服しています。これがなかったらいったい日本はどうなっていたことか・・
昭和天皇も若いことは血気多かったと聞いています聖断を下されたのも、昭和天皇のしっかりとしたご聖断で有るし、鈴木総理との信頼関係がなければできなかったと思います
「最高戦争指導会議」は「建前」としては、「とばせる」ものだったのでしょうね。それを「逆手に」取った鈴木首相の手腕は見事というしかありませんね。
いい動画です!鈴木貫太郎を初めて知りました🌟
『日本の一番長い日』で葉巻を持って挨拶に来た阿南陸相を見送ってからポツリと『阿南君は…暇乞いに来たんだね』の場面が浮かんで来ました。三船版(岡本喜八)と役所版(原田眞人)、両方見ましたがどちらも見ごたえある作品でした。
昭和天皇の幼少期の養育をして絶対の信頼をされていた足立たかが鈴木貫太郎に嫁いだのも後から考えると終戦を成功させた一因かも知れない。
慶喜にしても鈴木貫太郎にしても終わらせることも難しい大仕事だと思う。
継戦派を、愚かと責める気にはなれない。が、鈴木貫太郎がいてくれた事は日本には有難かった。。。
鈴木貫太郎は首相まで上り詰めながら最期は本籍地の片田舎、関宿でなくなったのがなんとも素朴
通ったことあります。
千葉県の野田にある鈴木貫太郎記念館にまた行きたくなりました。
鈴木も昭和天皇も偉大だ。戦争継続を唱えていた軍人が愚かに思える。
関宿藩の飛び地である堺市伏尾で生まれた鈴木貫太郎、226事件後、多治速比売神社に本復祝いのお参りをしている。神社には海軍中将鈴木貫太郎の玉垣石があり手を合わせてきました。
迫水久常の著作によると、鈴木は組閣にあたってまず1番に陸軍省へ自ら出向いて、杉山元帥に阿南惟幾を陸相にしたいと言った。鈴木は以前、阿南と一緒に仕事をしたことがあり、その人柄と能力を知っていた。
昭和天皇、鈴木貫太郎、阿南惟幾…この3人の夫婦や親子以上の信頼関係と絆があったからでしょうね…
今、帰宅の電車の中で視聴中🔥
おなじやん
鈴木貫太郎元首相、昭和の最期の武人ですね。この人を首相へと大命降下した昭和天皇の判断の凄さに感服です。確か、鈴木貫太郎夫人は昭和天皇の教育係をしていましたから、その人柄を把握していたのでしょう。
日本の一番長い日を思い出した。原作も映画も両方見た。
鈴木貫太郎は運がいい。日露戦争前夜、イタリアで建造中だった。春日と日進という装甲巡洋艦を日本に回航するという荒業をやっている。1904年2月ギリギリで日本に到着させている。日本海海戦での活躍の後、海軍省や軍令部で要職についている。彼は軍人勅諭がモットーなので、最後まで、政治に関わりたくなかったけど、ほかならぬ天皇陛下の説得により、首相を引き受けた。彼が侍従長を引き受けなかったら、そして226事件で死亡していたら、こんな事にはならなかったかもしれない。戦後数年で、彼は死亡したけど、彼の遺体を火葬した時、226事件の時、摘出できなかった銃弾が出てきました。ただ、海軍を定年で予備役にならなかったのは残念でしたね。後年のロンドン海軍軍縮条約に影響したからです。彼が侍従長に推薦されたのは、前任が、この時に、病死した駐米大使を務めたこともある外交官の珍田捨巳だったから、それ位の見識のある人と言われるとそんなにいないということから見ても、異例な人事でしたね。因みに侍従長のポストは海軍大将よりも下なんですよね。
鈴木閣下は日本の至宝
二二六事件の時はまだ息がある鈴木に止めを刺そうとした所を奥様が老人ですから、命だけは…と懇願され、命拾いした筈です。
鈴木たかさんですね しかもたかさんは昭和天皇の皇太子時代の世話係で実の母のように陛下が慕っていてよく鈴木貫太郎に「最近たかは元気か?」と度々訪ねていました 鈴木が陛下から首相の任を頼まれた時も陛下の子供時代を知っているたかさんから「お困りの陛下の力になってさしあげて」と言われたかもしれませんね
2023年の国連(安保理)の情勢を考えると、鈴木元総理のように「すっ飛ばす」胆力も必要なように思います。
鈴木貫太郎はトルーマンが死んだ時敵国なのに哀悼の意を表しサムライだと尊敬された。
トルーマンじゃなくルーズベルトね😅
この時、鈴木総理は、首相としての輔弼責任を放棄したと非難する法学者がいます。ではいったいどうすればよかったのでしょうか?あれ以上の解決があったのでしょうか?
鈴木貫太郎は海軍時代に100%魚雷を命中させるために「全速力で接近して近距離から打つ」という無茶苦茶な戦法でロシアの戦艦を3隻沈めた逸話が伝説すぎる
山崎努さんの鈴木貫太郎すごかったな鉛玉 金の玉をば 通しかね
阿南陸相役の、役所広司さんも良かった😮
@@にーに-v9f 1985年にTBSで「そして戦争が終わった」というスペシャルドラマがあり、鈴木貫太郎役を森繁久彌さん、阿南陸相役を芦田伸介さん、昭和天皇役を加藤剛さんという錚々たる配役でした。当時中学生でしたが実にいい作品でした。
@@風の坂道-m4mこの4年前に…TBS新春ドラマスペシャルで司馬遼太郎原作関ヶ原が三が日連夜放送されたワケですが…この関ヶ原のスタッフとキャストがこのドラマスペシャルそして戦争が終わったにも関わっています。鈴木貫太郎〜徳川家康〜森繁久彌阿南惟幾〜鳥居彦右衛門元忠〜芦田伸介杉山元〜安芸中納言毛利輝元〜金田龍之介昭和天皇〜石田三成〜加藤剛
昭和42年版の故 笠智衆さんの演技も素晴らしかった。
鈴木貫太郎内閣総理大臣に最敬礼
堺市に南区にある多治速比売神社は鈴木が崇拝していた神社二・二六事件で瀕死の時、鈴木の枕元に祭神の多治速比売神命が立ったという翌年1月に鈴木はたか夫人と共に、お礼参りをしているまた多治速比売神社には鈴木が残した扁額や、玉垣石が残されている
よく、鈴木貫太郎の否定派意見に「ポツダム宣言の黙殺によって原爆投下を招いた」ってのがあるけど、原爆の投下自体はポツダム宣言の発表直前に決まったから、どうしようもなかったんだよな
有名なルーズベルト逝去の際の弔意は、アメリカへの「講和の意志アリ」というメッセージだったのではないかと思ってます。
もし会えるものなら、お会いしたい偉人です。奥様の「タカ」さんと共に…2・26事件で瀕死の重症を負わされた青年将校安藤輝三大尉が銃殺刑に処されたさい、その死をいたみ彼らの思いに寄り添う「懐の広さ・深さ」を持ち、総理大臣就任直後、敵国の大統領の死に対して「哀悼の意」を表明する紳士としての品位・品格を持つ…(因みに、敗戦必至のドイツの元首は罵詈雑言を浴びせたのに対し)…おそらく、今の政界で探すことが不可能なレベルの立派な御方なのです。
何度も死にかけたが天が生きて日本を救えと思し召したのかと思う
偉大な総理。どうして歴史で教えないのか理解に苦しむ。終戦工作を調べるまで私は東條英機が最後まで首相をやっていたものと思っていた。
>終戦工作を調べるまで私は東條英機が最後まで首相をやっていたものと思っていた。流石にそれはない。歴史を知っていれば国民をないがしろにし権力を振りかざす東條が辞任させられたことは有名な話しで、その後の首相が何故か継戦派の無能な小磯だった事で終戦はかなり遅れたと言われる。もし、東條の次の首相が小磯ではなく終戦派の首相であったならば、長崎や広島に原爆を落とされることもなかったと言われる。
@@vip-pikapon 今はどうか知らないけど私の学生時分では東條以外教わりませんでした。調べりゃ出てきたんでしょうけど、終戦工作自体が軽視されてて国立大入試レベルでは知りようがなかったです。
終戦派の首相が就任した場合、陸軍が大臣を出さない。(サイパン直後ならおそらく海軍も出さない)大臣が出なければ、内閣は発足しない。なので、表向きは終戦派ではない鈴木首相と、軍からの信頼が厚く、かつ天皇への忠誠心が強い阿南陸軍大臣の組み合わせが重要だったのだと思います。この辺りの描写は映画『日本で一番長い日』でうまく描かれて凄かったです。
@@vip-pikapon さんでもですね、、、2発の原爆を落とされソ連が裏切った後に3発目の原爆が落とされたとしても、本土決戦を主張するような将校たちやそれを統率する陸海大臣は、「国体の護持」を連合国から取り付けることができない限り、終戦(降参)には応じられなかったわけです。国体護持の保障がなければ本土決戦をせざるを得ない雰囲気だったわけです。これらの強硬的な勢力を押しとどめ、強引な手順であったにせよ、異例の天皇の聖断にスピーディーに漕ぎつけたのは、鈴木さんの最たる手腕です。阿南さんも米内さんも鈴木さんと同じ考えであったでしょうが、表向きと内向きの発言のニュアンスには相当苦労している最中だったでしょう。それを鈴木さんはバサッとやってのけた。軍部と連合国の圧力のギリギリのラインで阿吽の呼吸で日本の国体を護ったことは、鈴木さんをはじめ、阿南さんも米内さんも一万円札の肖像になってもよいくらい有難い功績であると考えます。
東條は表向きサイパン陥落の責任をとり辞職となっているが、実際はやる気満々だった。しかし反東條の勢力が強くなり、閣僚の岸信介が反旗をひるがえすなど、辞職に追い込まれた。
三好徹「興亡と夢」では、鈴木が首相になったときにその政治力は未知数だし本人も政治はわからないと言っていた。しかし実際の政治を見ると実は深謀遠慮に富んだ大政治家であったことがわかる、と書いています。
8月15日に総辞職した潔さとひきぎわを岸田にも見習ってほしい
総辞職したのは2日後の17日です😊
昭和天皇が聡明で良かった。
知ってるか?w昭和天皇は日本軍最高指揮官大元帥なんだぜ?wそんな天皇が本気で止められないと思ってんのwコイツが日本軍の最高指揮官であり戦争を意図的にとめなかったんだろw
最高指揮官が責任を取るのは当たり前なのによくもまぁ戦争責任がないとか言えるなw日本軍の大元帥が止めれないわけねーのに笑歴史勉強し直せよこいつは戦争犯罪人だ
とても勉強になります。
皆さん素晴らしいです。阿南陸相も反対したけど、戦争を継続することより昭和天皇の処遇を危惧(戦犯にされるのでは)し、徹底抗戦の東條英機などを抑えつつ難しい立場で陸相を務めておられました。最後まで昭和天皇の処遇を心配され意見を言おうとすると、昭和天皇から愛称の「(実際の読みはあなみ)あなん、もう良い。」と涙ながらに止めたと言われる。そしてポツダム宣言受諾した夜に割腹自決。本当に全員が命を賭けて会議に臨んでいたと思います。そう思うと中国・韓国からしたらハァ?って感じだろうけど、戦前の方々に敬意を払って靖国参拝をするのは致し方無いと思ってしまいます。実際に私は靖国神社にお参りしましたし…
もしも鈴木貫太郎があの日あの時居なかったら、今の日本は確実に無かった
国策としてみれば黙殺宣言は致命的な悪手だと思うが、逆に検討するようなことを述べていたら馬鹿で愚かな徹底抗戦派の軍人によってころされてたのだろうな。
ありがとう鈴木総理。
人傑中の人傑だけど、それでもポツダム宣言受諾直前の葛藤は凄まじく足繁く高僧の下へ通って教えを乞うたそうです。鈴木貫太郎と阿南惟幾との阿吽の呼吸が無ければポツダム宣言受諾も出来なかったし、陸軍将校の反乱も抑止出来なかった。平成に入ってからの話ですけど阿南陸相のご子息が後に在北京日本大使としてこれまた泥を被って引責辞任しています。
今の政治家が恥ずかしい。
226事件で鈴木侍従長が助かったのがまさに日本の奇跡だった。(日露戦争でも鈴木海軍中佐は飲酒後に夜風にあたっていたら錨の鎖に躓いて、酔った状態で夜の海に落ちて死にかけたこともあった。近くの歩哨が直ぐに助けあげて蘇生措置をとって助かったのでここでも幸運を発揮してる)
今これ程気概のある政治家が何人いるのだろうか?
皆無に等しいでしょうね。
鈴木貫太郎首相はエリートと表現されているが決してエリートではなく日清日露戦争とも水雷艇で敵に突撃していた。判断力と胆力が必要な職務である。御前会議に持ち込んだのに通じると思う。よく言われる黙殺についてだがノーコメントと訳されるような表現だったらと思う。
最初は政府もノーコメントで公表したけど、メディア、国民、軍が「ふざけんな、政府はこれを無視しろ」と言ってきたから、仕方なく黙殺宣言をした。つまりノーコメントと訳される表現であれば、国外からは交渉の余地があるかなと見えるようになっても、今度は国内が不穏になり暴動や反乱等が起きる懸念があった。ま、当時の頭に血が上って冷静な判断能力を失っていた日本には原爆2発とソ連侵攻は必要なお灸だったてことだ。
天皇と鈴木貫太郎さんの信頼関係と、考えが一致していたのは大きい。ただ新型爆弾とかあれだけ攻め込まれた状態で軍部が継続をしようという腹づもりだったのは何故だったのか将棋でいうところの詰んだような状態で徹底抗戦による講和停戦というのはいささか無理がある主張にみてとれる。陛下と鈴木さん、平沼さんの終戦という判断が至極妥当と感じられる。
もう少し勉強した方がいいですよ
そら日本軍というのは自分が強いと勘違いしたウルトラ超絶馬鹿だからな。長年の誤った教育の賜物だ。
@motodadi具体的には何を?コメ主さんのお話は終戦の流れと合わせてみてもかなり妥当だと思いますが。それだけじゃ何の勉強が足りないのか分からないですよ
敗戦は未だ終わらず。俺等がまずは終わらせようという意志を持たんとね。
貫太郎さんってパグ犬に似てて可愛い〜😍💕広瀬武夫さんと同年代で海軍兵学校の同期だったっけ?😢多治速比売神社にお参りに行きたいです🙏‼️
日露戦争以来の死線を潜り抜けた鈴木だから出来た事だろう。侍従長の経験があり夫人は天皇側近くに仕えた女官だった事からも陛下を息子の様に慈しんだ事も大きい。
鈴木も立派だが、この時陸相を務めた阿南も陸軍の暴発を抑えた功績がある。
黙殺発言以外はミスがない男。これを殺していたら終戦はまず無理だった。これを殺しかけた2.26の青年将校のクルクルパーさよ。
黙殺発言も軍部の倒閣を恐れてのことだと思う。軍部大臣現役武官制というクソみたいな法律のせいで日本は戦争をやめられなかった。
違うな。何もわかってない。彼らは上司だったんだよ。貧しい農村出身の若い一兵卒のね。彼らから故郷がどれだけ困窮していて、自分たちの給料をほぼ全て故郷の家族のために使っていたために自分の食い扶持すら怪しくなっていたこともよく知っていた。彼らの見ていた世界は、華やかな帝都で優雅に暮らす高級将校からは想像もつかないような、苦しくて寒い世界。父親と母親が餓死した、弟が出稼ぎに行った、妹が遊郭に売られた。そんな世界。だからこそ彼らは貧しい部下のために身銭を切って援助したりもしていた。そんな彼らの意思を利用してのが、出世の道が詰まり、天皇の周りにいた有能軍人を妬んでいた大佐以上の連中。そいつらはクーデター後に裁かれることもなく、予備役に左遷されただけ。青年士官は軒並み処刑された。この判断自体は間違っていないが、だからといって彼らをクルクルパーというのはおかしい。
「黙殺」 も 「ノーコメント」 の意が、「ネグレクト」 とされたことを後年まで気にしていたようです。
@@力哉-l5t まぁあのタイミングでノーコメントというのもね・・・
@@nattousenbei国内向けには黙殺で通用しても対外的には厳しいわなあ……。連合国からしたら無視しますよと言われてもという。ただ時系列的にはまだ指導部の意見はまとまっていなかったわけで、鈴木首相としてもどうしようもないわな。
日本のいちばん長い日で鈴木閣下に興味が湧き昭和天皇物語でも常に出てくる。鈴木貫太郎の妻、たかは皇孫御用係として幼少の昭和天皇を育てた。たか無くして昭和天皇無し、昭和天皇無くして鈴木無しと言ったところかな
黙殺発言の問題ですが、陸海軍の一部と開発してた科学者達がポツダム宣言を読めば、原爆使用の可能性を読み取ったかもですが。おそらく鈴木首相は原爆なんてモノを米国が作ったことすら知らなかったはずだし、ましてそんなモノを予告無しで投下するなんて想像もしなかったと思う。
南足柄市にある大雄山最乗寺に行ったら隣り合わせで迫水久常と賀屋興宣の名前が彫ってありました。この2人についても多くの人に知ってもらいたいですね。
ぜひとも、今の政治家達に見習ってほしいそもそも終戦時と現代では時代も価値観も全く違うから今鈴木貫太郎が総理をやってもいい結果になるとは言い切れないが、国のために働いた総理なことに間違いはないと思うしなにより物凄い人格者であると思うだから政治家達はひたすら権力と金に執着するのではなくてこの人を見習ってせめて国を良い方法に持っていくための努力はしてほしいどこかの増税メガネさんも日本国民のために働こうという意思があるのだったらここまで叩かれてはいないと思う(実際日本で1番偉くなりたかっただけだし)からね…
終戦に関わった人や経緯は義務教育に導入すべき 義務教育ではサラリと触れられるだけで気づいら高度経済成長期や沖縄返還の話
吉田茂によるサンフランシスコ条約に一気に飛ぶんですよね。
樋口季一郎は義務教育で教えるべき
戦後の焼け野原の祖国が、曲がりなりにも世界の一等国として甦った今の姿を見て、閣下はどの様に思われるだろうか❓
今の首相を見たら、皆さんなんて言うのだろう……
この世界の一大事に世界を飛び回れる総理がきたのは僥倖だったと思ってくれるよ
言うてこの前も近衛東條小磯と首相の底辺が三代続いていたんやで?
鈴木貫太郎は兵学校長時代、殴るな、殴れば人間がひねくれる、ひねくれれば人の助言を聞かなくなる、それは個人にとっても海軍にとっても不幸だ、だから殴るな。と鉄拳制裁を辞めさせた人。ただ、戦後ろくでもない海兵70期以降が海上自衛隊に海軍の伝統だと言って鉄拳制裁を復活させましたが。
カッコいい😢
鈴木首相、米内海相、東郷外相がポツダム宣言無条件受諾派だったのに対し、平沼枢密院議長は危なかった。ポツダム宣言の和訳文に対して、細かい言葉尻に難癖をつけて、条件付き受諾、つまり反対派になりかねなかった。そして当時の首相には閣僚の任免権がなかったということもあるが、枢密院や参謀本部、軍令部は内閣とは別組織だった。最終的にこの御前会議での宣言受諾決定はほんと鈴木首相のギリギリの綱渡りだった。
終戦が伸びていたら今の日本はなかったでしょう。
この人が居なかったら日本は荒土になっただろう…広島、長崎では済まなかったのではないだろうか?
鈴木貫太郎のことを解説した動画って少ないんだよね。
聖断を仰ぐという、鈴木、米内の作戦勝ちでしたね。
ここで降伏していなかったら北海道はソ連に取られていただろうね
当時のソ連陸軍は世界最強、そして指導者はスターリン。アメリカの制止を無視して東日本の行けるところまで侵攻していたのでは?
トルーマンが分割占領を拒否したから、やらなかったと思う。結局強国同士のパワーバランスで決まってしまう。
樋口季一郎のおかげ
今の日本を見て、どう思われるだろうか。
鈴木首相が偉大なのはさることながら、最大の国難において鈴木を指名した天皇陛下も立派。いまだに天皇の戦争責任を論じる者は自らの無知をさらすようなものである。また、その時代に自分が天皇の立場なら何ができたか真剣に考えていただきたい。
歴史にタラレバはないがこの時、ポツダム宣言を受け入れてなければ、ソ連の侵攻を嫌ったアメリカが原爆をさらに落とす可能性があった。さらには、ソ連が北海道に進軍して北方四島どころで済まない状態になっていたことは容易に想像できる。
いや、ソ連とアメリカの戦争になって日本人はほぼ絶滅してただろうね。
当時のソ連陸軍は世界最強、そして指導者はスターリン。アメリカの制止を無視して東日本の行けるところまで侵攻していたと思われます。
@@てりえてりえ そのほうがよかった 日本人民共和国と 日本民主共和国に分かれていればよかったんだよ
二・二六事件のとき当時侍従長を務めていた鈴木貫太郎を襲撃したのは事件の首謀者の1人、安藤輝三大尉でした。安藤大尉は事件の少し前に自身の考えを訴える目的で鈴木邸を訪れて面談を申し入れています。安藤の訪問を快く引き受けた鈴木は安藤の話にじっくりと耳を傾けた後に、今度は鈴木自身の考えを懇切丁寧に話したそうです。安藤は鈴木の話に何か感じ入ったことがあったのか、鈴木邸を辞去する際に懇願して色紙に揮毫までしてもらったと言われています。また事件前に青年将校たちの間で最後の打合せを行ったとき、安藤は鈴木だけは襲撃の対象から外すべきだと主張したものの他の全員からは却下されてしまいました。事件当日、ひん死の重傷を負った鈴木に最後のトドメを刺そうとした安藤が結局思いとどまったのは、鈴木夫人の身を呈しての助命嘆願もありましたが、やはり直接の面談で鈴木の人格と軍人、政治家としての力量に安藤が魅かれていたからだと思います。このとき安藤が鈴木にトドメを刺さなかったことで、日本は亡国の危機から救われたとも言えるでしょう。
すごい
凄いな
関宿町に記念館があります。ぜひともみなさん行きましょう!
阿南陸相は戦争終結を願っていたけど、他の継戦派は孤立した状態で、原爆が投下され、ソ連が北より侵攻し、訓練された正規の軍人もいなくまともに武器や食糧もない。こんな状態で戦争を継続し連合軍に多少の出血を強いたところで、有利な講和が結べると本気で思っていたのだろうか。
鈴木貫太郎記念館、真に控え目な建物、華美とは全く縁遠い質実にして質素、素晴しい人間性溢れた居宅、乃木希典閣下と人間性は共通と、は拝察します、昭和天皇陛下の飾らない質素を貧と感じさせない人格ありがたかった。
鈴木貫太郎が小磯内閣の後任の首相に任命されるはるか以前のある日、呉の江田島にある海軍兵学校を訪問した鈴木貫太郎大将は応接室で兵学校校長の井上成美中将と歓談していた。すると応接室から鈴木大将の大きな声が聞こえて来たという。鈴木大将の声を聞いた校長付き副官は顔を上げて応接室を見ると、喋る鈴木大将とそれに大きく頷く井上校長の姿が見えたそうだ。その鈴木大将の声は「井上君良いかね、海軍兵学校での教育の真価が発揮されるのは、30年後だよ!30年後!」だったそうだ。おそらく井上校長は鈴木大将に、当時兵学校内部で大きな問題になっていた生徒に対する教育カリキュラムの事を話したのであろう。戦局が逼迫して来て、兵学校にも戦争の緊迫感が伝わって来ておりライバルの陸軍士官学校では入試科目から英語が外され、陸士生徒への英語教育や普通科目の教育時間も徐々に減らされ実学が増加されるなか、海軍兵学校では井上校長の一存で、入試から英語は外されず英語教育始め数国社理音美等普通科目の時間の削減も無かった。これは井上校長が戦争終結後の日本復興の時必ず若い人材が必要になることを見越して、戦時中でありながら普通科教育を生徒達に施そうとしたためである。鈴木大将は井上校長からの説明を受けて、その趣旨を理解賛同。またこれを当時兵学校内部に存在した反校長派に聴かせるために敢えて大声で井上校長に賛同の意を表したのでしょう。こうしてみると鈴木大将のこの時期の兵学校訪問は、宮中やその重臣・米内辺りの早期講和グループ辺りから、鈴木井上の面通しと終戦工作への擦り合わせを兼ねての会談がセッティングだったのでしょう。その後鈴木大将に首班就任の大命が降下される前には、兵学校校長離任を嫌がった井上校長は米内海軍大臣の下海軍次官に転任、それと共に海軍内部での終戦工作に着手するのでした。
多数決で決めたら軍部が反発するあえて同数の賛成反対に別れたまま天皇に裁断を仰ぐという発想いかに軍部が天皇を自分勝手に利用していたか、鈴木が天皇のことを想っていたか
鈴木貫太郎首相のポツダム宣言を受諾して大東亜戦争を有条件降服に導いた功績は計り知れない。その鈴木首相が降伏の仲介をソ連にするという大失敗もしているがその事については余り話されることがないようだ。
幼少期の昭和帝へ絶大なる影響を与えた足立たかの夫ですね
批判されても困窮しても、己の信念が揺らぐことなく貫いた。私利私欲の政治家ばかりのいまではどうにも比較すらできない。
侍従長鈴木貫太郎ですが枢密院議長ですのでね。裕仁陛下万歳🙌
一から十まで全部軍人。政治家は何処に居たんですか?
政友会系、民政党系の議員なども入閣していますが、やはり軍人と官僚ばかりですね。この時代は政治家がいなくなり、官僚が政治をやっていた。
教科書に載せるべき
鈴木貫太郎がいないと今の日本は無かった。
右派左派に拘わらず、もっと評価されるべき人物なんだよな。
首相就任当時77歳でこれだけの重責を全うしたのはただただすごい。本人は政治に向いていないと仰っていたそうだが、結果最善ではなかったにしても終戦へ持っていくという重責を見事果たされた。職責は軍人だったがその手腕、才能は十分政治家であったんだろうと思います。
戦後の総理は吉田茂がまずあがるが
日本を終戦にまで持っていった鈴木貫太郎はもっと評価がされていいと思う
そう言えば学生時代の授業にしろ、鈴木貫太郎が為した業績について教えられる事は殆ど無いに等しいですからね。せいぜい先の戦争時、最後の首相という位で、ポツダム宣言受諾までにどんな苦労があったのかについてはあまり語られているのを聞いたことはありません。
現代だからこそ、そう言えるのかもしれないけどね。
形骸化していた御前会議だからね。
統帥権があるはずの天皇陛下にも開戦を抑える事ができなかった訳だから。
もしこの時、継戦派の主張が通っていたらホントに滅んでいたかも。
ただの操り人形だったと言わんばかりの評価もあれば、相当深いところまで読み切って終戦まで引っ張ったと絶賛する人もいる。
眼前の敵への対抗策もロクに考えずに「終戦工作」に逃げた軍人には私は軽蔑を感じますが、重臣・政治家としてあの困難な結果に持ち込んだ鈴木貫太郎は、やはり偉人だと思っています。
日本を救った英雄。歴代総理大臣で1番日本の為に働いた総理大臣。今の政治家には
この働きはできない。
幼い頃に馬に轢かれたらしいけど奇跡的に助かって、2.26でも一命をとりとめた。
日本の戦争を終わらせるためにこの人は生まれてきたのではないかと思う
日本の英雄の一人ですね。とても勉強になりました。
4か月だけの内閣だったが、日本を滅亡の危機から救った宰相ではないでしょうか。
阿南惟幾陸相が必死になって、抗戦派になりながらも抑えていたことが軍の圧力に脅えず堂々と終戦へと導いたのだと思います。
「日本のいちばん長い日」を観たら、あの終戦が奇跡のように思えてくる。
小説も映画も観ましたが傑作だと思う。ただまあ、勝った側の、つまりは終戦に導いた側のドラマチックな物語であることはちがいないので、もうすこし陸軍や海軍の継続派の葛藤みたいなものも阿南以外のもので観てみたい。
阿南は鈴木が侍従長時代の陸軍から宮中に送り込まれた侍従武官だから、先々帝と鈴木のアウンのほかに、先々帝と阿南、鈴木と阿南のアウンもあったものと思う。
「臆病風に吹かれた天皇を排除して戦争を続けようぜ!
省が残れば国が滅んだって構わねえwwwwww」
とかいう輩がいましたからねえ
狂気ですねまさに
アメリカの妨害にも負けずバチカンを通して休戦の話しがあったとのこと、その時に応じていれば原爆投下はなかったのでは、と思うと残念。
特に旧作を観たら、終戦がいかに紙一重だったかという事がよく分かる。
@@んーなんだろう
???「総理が飛んだって増税を続けようぜ!
省があれば国は滅びないし〜」
素晴らしい動画を配信して頂きありがとうございます。史実を完結にまとめられている本動画、最高傑作だと思います。鈴木貫太郎御大は関宿藩の出身なので千葉県色が強いですが、生まれは関宿藩の飛び地の堺市伏尾です。伏尾は現在でも久世小学校と言う戦前から存在する関宿藩の色を残す町です。地元の多治速比売神社には鈴木貫太郎御大が参拝した石碑が建立されたモノも有ります。堺市はもっと鈴木貫太郎御大を宣伝するべきです。日本を救った英雄なのですから…
いつか鈴木夫妻を大河ドラマで描いて欲しい、元の乳母とその夫がテロに屈せずに天皇を支え続け最後は国を救った故事を描かなくては大河の価値はない
鈴木さんは日露戦争に中佐で駆逐艦司令として大活躍して日本海海戦の勝利にも貢献してる歴戦の雄だけあって腹の座りが違うよね。軍人は政治に関わるべからずが口癖だったが、困難な敗戦処理を見事にやってのけた。まあ日本人の多大な犠牲の上ではあったが。
鈴木貫太郎、知ってるつもりでしたが、知りませんでした。動画upしていただき、ありがとうございました。
鈴木貫太郎はルーズベルト大統領死去時に、彼の指導を讃え彼の死に深い哀悼の意を示すメッセージをアメリカに送っている‼️😁👍
ヤラセの戦争だった?必死に戦った兵隊、国民はどう成る?
側近の、迫水さんと言う方も素晴らしいですね!✨
@@芦柄金太郎-x3e 迫水さんは今の官房長官にあたる役職で、鈴木総理と陸海相等と上手くやりとりして終戦に導いた影の功労者かもしれません。また226事件の時も義父の岡田首相の難を逃す手配をするなど歴史の証人ですね。
総理大臣就任後に昭和天皇の母親である貞明皇太后から「どうか、お上の父親代わりだと思って支えて欲しい」と言われたそうです。
それだけ信頼されていたと言う事ですね。
鈴木翁はこれほどの偉人であるのに、記念館の寂れようが非常に悲しい。
地元民すら、「あれって、なに?」ですからねえ。
場所が悪すぎ
正に男の中の男ですね。日本と私達の未来を救ってくれて、本当にありがとうございます。🙏
この人は凄い強運の持ち主。
幼少時に馬に踏み飛ばされそうになるところを助かる。少年時代に川に落ちて溺れそうになるが泳いで助かる。
海軍に入ってからも錨と共に海に落ちたが助かる。戦艦金剛の砲身に頭を強打して海に落ちたが助かる。
そして二・二六事件…
天が、この国のために助け続けたのではないのかと思ってしまうほどだ。
下宿で海兵受験の勉強中に、火鉢からの一酸化炭素中毒で死にかけたって話もある。
コレが一番ヤバかったのでは?と想っている、他に誰も居ないんだから。
子供の頃は泣き虫だったから陸軍に行った弟の孝雄サンに救って貰うほど元来気が弱く、鬼貫と呼ばれるほど気張れるようになったら、今度は海軍そのものから嫌われた。
個人としても組織人としても、なんか軍組織には向いていなさそうなこの人が、聖断の手助けをやり抜けたのは。
やはり終戦工作がこの人の天命だったのだろうと想う。
ポツダム宣言受諾決定までの流れと鈴木貫太郎首相の手腕を始めて知って
感服しています。
これがなかったらいったい日本はどうなっていたことか・・
昭和天皇も若いことは血気多かったと聞いています
聖断を下されたのも、昭和天皇のしっかりとしたご聖断で有るし、鈴木総理との信頼関係がなければできなかったと思います
「最高戦争指導会議」は「建前」としては、「とばせる」ものだったのでしょうね。
それを「逆手に」取った鈴木首相の手腕は見事というしかありませんね。
いい動画です!鈴木貫太郎を初めて知りました🌟
『日本の一番長い日』で葉巻を持って挨拶に来た阿南陸相を見送ってからポツリと『阿南君は…暇乞いに来たんだね』の場面が浮かんで来ました。三船版(岡本喜八)と役所版(原田眞人)、両方見ましたがどちらも見ごたえある作品でした。
昭和天皇の幼少期の養育をして
絶対の信頼をされていた足立たかが
鈴木貫太郎に嫁いだのも後から考えると
終戦を成功させた一因かも知れない。
慶喜にしても鈴木貫太郎にしても
終わらせることも難しい大仕事だと思う。
継戦派を、愚かと責める気にはなれない。
が、鈴木貫太郎がいてくれた事は
日本には有難かった。。。
鈴木貫太郎は首相まで上り詰めながら最期は本籍地の片田舎、関宿でなくなったのがなんとも素朴
通ったことあります。
千葉県の野田にある鈴木貫太郎記念館にまた行きたくなりました。
鈴木も昭和天皇も偉大だ。戦争継続を唱えていた軍人が愚かに思える。
関宿藩の飛び地である堺市伏尾で生まれた鈴木貫太郎、226事件後、多治速比売神社に本復祝いのお参りをしている。
神社には海軍中将鈴木貫太郎の玉垣石があり手を合わせてきました。
迫水久常の著作によると、鈴木は組閣にあたってまず1番に陸軍省へ自ら出向いて、杉山元帥に阿南惟幾を陸相にしたいと言った。鈴木は以前、阿南と一緒に仕事をしたことがあり、その人柄と能力を知っていた。
昭和天皇、鈴木貫太郎、阿南惟幾…この3人の夫婦や親子以上の信頼関係と絆があったからでしょうね…
今、帰宅の電車の中で視聴中🔥
おなじやん
鈴木貫太郎元首相、昭和の最期の武人ですね。この人を首相へと大命降下した昭和天皇の判断の凄さに感服です。確か、鈴木貫太郎夫人は昭和天皇の教育係をしていましたから、その人柄を把握していたのでしょう。
日本の一番長い日を思い出した。原作も映画も両方見た。
鈴木貫太郎は運がいい。日露戦争前夜、イタリアで建造中だった。春日と日進という装甲巡洋艦を日本に回航するという荒業をやっている。1904年2月ギリギリで日本に到着させている。日本海海戦での活躍の後、海軍省や軍令部で要職についている。彼は軍人勅諭がモットーなので、最後まで、政治に関わりたくなかったけど、ほかならぬ天皇陛下の説得により、首相を引き受けた。彼が侍従長を引き受けなかったら、そして226事件で死亡していたら、こんな事にはならなかったかもしれない。戦後数年で、彼は死亡したけど、彼の遺体を火葬した時、226事件の時、摘出できなかった銃弾が出てきました。ただ、海軍を定年で予備役にならなかったのは残念でしたね。後年のロンドン海軍軍縮条約に影響したからです。彼が侍従長に推薦されたのは、前任が、この時に、病死した駐米大使を務めたこともある外交官の珍田捨巳だったから、それ位の見識のある人と言われるとそんなにいないということから見ても、異例な人事でしたね。因みに侍従長のポストは海軍大将よりも下なんですよね。
鈴木閣下は日本の至宝
二二六事件の時はまだ息がある鈴木に止めを刺そうとした所を奥様が老人ですから、命だけは…と懇願され、命拾いした筈です。
鈴木たかさんですね しかもたかさんは昭和天皇の皇太子時代の世話係で実の母のように陛下が慕っていてよく鈴木貫太郎に「最近たかは元気か?」と度々訪ねていました 鈴木が陛下から首相の任を頼まれた時も陛下の子供時代を知っているたかさんから「お困りの陛下の力になってさしあげて」と言われたかもしれませんね
2023年の国連(安保理)の情勢を考えると、鈴木元総理のように「すっ飛ばす」胆力も必要なように思います。
鈴木貫太郎はトルーマンが死んだ時敵国なのに哀悼の意を表しサムライだと尊敬された。
トルーマンじゃなくルーズベルトね😅
この時、鈴木総理は、首相としての輔弼責任を放棄したと非難する法学者がいます。
ではいったいどうすればよかったのでしょうか?あれ以上の解決があったのでしょうか?
鈴木貫太郎は海軍時代に100%魚雷を命中させるために「全速力で接近して近距離から打つ」という無茶苦茶な戦法でロシアの戦艦を3隻沈めた逸話が伝説すぎる
山崎努さんの鈴木貫太郎すごかったな
鉛玉 金の玉をば 通しかね
阿南陸相役の、役所広司さんも良かった😮
@@にーに-v9f 1985年にTBSで「そして戦争が終わった」というスペシャルドラマがあり、鈴木貫太郎役を森繁久彌さん、阿南陸相役を芦田伸介さん、昭和天皇役を加藤剛さんという錚々たる配役でした。当時中学生でしたが実にいい作品でした。
@@風の坂道-m4m
この4年前に…TBS新春ドラマスペシャルで
司馬遼太郎原作関ヶ原が三が日連夜放送されたワケですが…
この関ヶ原のスタッフとキャストが
このドラマスペシャル
そして戦争が終わった
にも関わっています。
鈴木貫太郎〜徳川家康〜森繁久彌
阿南惟幾〜鳥居彦右衛門元忠〜芦田伸介
杉山元〜安芸中納言毛利輝元〜金田龍之介
昭和天皇〜石田三成〜加藤剛
昭和42年版の故 笠智衆さんの演技も素晴らしかった。
鈴木貫太郎内閣総理大臣に最敬礼
堺市に南区にある多治速比売神社は鈴木が崇拝していた神社
二・二六事件で瀕死の時、鈴木の枕元に祭神の多治速比売神命が立ったという
翌年1月に鈴木はたか夫人と共に、お礼参りをしている
また多治速比売神社には鈴木が残した扁額や、玉垣石が残されている
よく、鈴木貫太郎の否定派意見に「ポツダム宣言の黙殺によって原爆投下を招いた」ってのがあるけど、原爆の投下自体はポツダム宣言の発表直前に決まったから、どうしようもなかったんだよな
有名なルーズベルト逝去の際の弔意は、アメリカへの「講和の意志アリ」というメッセージだったのではないかと思ってます。
もし会えるものなら、お会いしたい偉人です。奥様の「タカ」さんと共に…2・26事件で瀕死の重症を負わされた青年将校安藤輝三大尉が銃殺刑に処されたさい、その死をいたみ彼らの思いに寄り添う「懐の広さ・深さ」を持ち、総理大臣就任直後、敵国の大統領の死に対して「哀悼の意」を表明する紳士としての品位・品格を持つ…(因みに、敗戦必至のドイツの元首は罵詈雑言を浴びせたのに対し)…おそらく、今の政界で探すことが不可能なレベルの立派な御方なのです。
何度も死にかけたが天が生きて日本を救えと思し召したのかと思う
偉大な総理。どうして歴史で教えないのか理解に苦しむ。終戦工作を調べるまで私は東條英機が最後まで首相をやっていたものと思っていた。
>終戦工作を調べるまで私は東條英機が最後まで首相をやっていたものと思っていた。
流石にそれはない。
歴史を知っていれば国民をないがしろにし権力を振りかざす東條が辞任させられた
ことは有名な話しで、その後の首相が何故か継戦派の無能な小磯だった事で
終戦はかなり遅れたと言われる。
もし、東條の次の首相が小磯ではなく終戦派の首相であったならば、
長崎や広島に原爆を落とされることもなかったと言われる。
@@vip-pikapon 今はどうか知らないけど私の学生時分では東條以外教わりませんでした。調べりゃ出てきたんでしょうけど、終戦工作自体が軽視されてて国立大入試レベルでは知りようがなかったです。
終戦派の首相が就任した場合、陸軍が大臣を出さない。(サイパン直後ならおそらく海軍も出さない)
大臣が出なければ、内閣は発足しない。
なので、表向きは終戦派ではない鈴木首相と、軍からの信頼が厚く、かつ天皇への忠誠心が強い阿南陸軍大臣の組み合わせが重要だったのだと思います。
この辺りの描写は映画『日本で一番長い日』でうまく描かれて凄かったです。
@@vip-pikapon さん
でもですね、、、2発の原爆を落とされソ連が裏切った後に3発目の原爆が落とされたとしても、本土決戦を主張するような将校たちやそれを統率する陸海大臣は、「国体の護持」を連合国から取り付けることができない限り、終戦(降参)には応じられなかったわけです。国体護持の保障がなければ本土決戦をせざるを得ない雰囲気だったわけです。
これらの強硬的な勢力を押しとどめ、強引な手順であったにせよ、異例の天皇の聖断にスピーディーに漕ぎつけたのは、鈴木さんの最たる手腕です。阿南さんも米内さんも鈴木さんと同じ考えであったでしょうが、表向きと内向きの発言のニュアンスには相当苦労している最中だったでしょう。それを鈴木さんはバサッとやってのけた。
軍部と連合国の圧力のギリギリのラインで阿吽の呼吸で日本の国体を護ったことは、鈴木さんをはじめ、阿南さんも米内さんも一万円札の肖像になってもよいくらい有難い功績であると考えます。
東條は表向きサイパン陥落の責任をとり辞職となっているが、実際はやる気満々だった。しかし反東條の勢力が強くなり、閣僚の岸信介が反旗をひるがえすなど、辞職に追い込まれた。
三好徹「興亡と夢」では、鈴木が首相になったときにその政治力は未知数だし本人も政治はわからないと言っていた。しかし実際の政治を見ると実は深謀遠慮に富んだ大政治家であったことがわかる、と書いています。
8月15日に総辞職した潔さとひきぎわを岸田にも見習ってほしい
総辞職したのは2日後の17日です😊
昭和天皇が聡明で良かった。
知ってるか?w昭和天皇は日本軍最高指揮官大元帥なんだぜ?wそんな天皇が本気で止められないと思ってんのwコイツが日本軍の最高指揮官であり戦争を意図的にとめなかったんだろw
最高指揮官が責任を取るのは当たり前なのによくもまぁ戦争責任がないとか言えるなw日本軍の大元帥が止めれないわけねーのに笑歴史勉強し直せよこいつは戦争犯罪人だ
とても勉強になります。
皆さん素晴らしいです。阿南陸相も反対したけど、戦争を継続することより昭和天皇の処遇を危惧(戦犯にされるのでは)し、徹底抗戦の東條英機などを抑えつつ難しい立場で陸相を務めておられました。最後まで昭和天皇の処遇を心配され意見を言おうとすると、昭和天皇から愛称の「(実際の読みはあなみ)あなん、もう良い。」と涙ながらに止めたと言われる。そしてポツダム宣言受諾した夜に割腹自決。本当に全員が命を賭けて会議に臨んでいたと思います。そう思うと中国・韓国からしたらハァ?って感じだろうけど、戦前の方々に敬意を払って靖国参拝をするのは致し方無いと思ってしまいます。実際に私は靖国神社にお参りしましたし…
もしも鈴木貫太郎があの日あの時居なかったら、今の日本は確実に無かった
国策としてみれば黙殺宣言は致命的な悪手だと思うが、逆に検討するようなことを述べていたら馬鹿で愚かな徹底抗戦派の軍人によってころされてたのだろうな。
ありがとう鈴木総理。
人傑中の人傑だけど、それでもポツダム宣言受諾直前の葛藤は凄まじく
足繁く高僧の下へ通って教えを乞うたそうです。
鈴木貫太郎と阿南惟幾との阿吽の呼吸が無ければポツダム宣言受諾も出来なかったし、陸軍将校の反乱も抑止出来なかった。
平成に入ってからの話ですけど阿南陸相のご子息が後に在北京日本大使としてこれまた泥を被って引責辞任しています。
今の政治家が恥ずかしい。
226事件で鈴木侍従長が助かったのがまさに日本の奇跡だった。
(日露戦争でも鈴木海軍中佐は飲酒後に夜風にあたっていたら錨の鎖に躓いて、酔った状態で夜の海に落ちて死にかけたこともあった。近くの歩哨が直ぐに助けあげて蘇生措置をとって助かったのでここでも幸運を発揮してる)
今これ程気概のある政治家が何人いるのだろうか?
皆無に等しいでしょうね。
鈴木貫太郎首相はエリートと表現されているが決してエリートではなく日清日露戦争とも水雷艇で敵に突撃していた。判断力と胆力が必要な職務である。御前会議に持ち込んだのに通じると思う。よく言われる黙殺についてだがノーコメントと訳されるような表現だったらと思う。
最初は政府もノーコメントで公表したけど、メディア、国民、軍が「ふざけんな、政府はこれを無視しろ」と言ってきたから、仕方なく黙殺宣言をした。つまりノーコメントと訳される表現であれば、国外からは交渉の余地があるかなと見えるようになっても、今度は国内が不穏になり暴動や反乱等が起きる懸念があった。ま、当時の頭に血が上って冷静な判断能力を失っていた日本には原爆2発とソ連侵攻は必要なお灸だったてことだ。
天皇と鈴木貫太郎さんの信頼関係と、考えが一致していたのは大きい。
ただ新型爆弾とかあれだけ攻め込まれた状態で軍部が継続をしようという腹づもりだったのは何故だったのか
将棋でいうところの詰んだような状態で徹底抗戦による講和停戦というのはいささか無理がある主張にみてとれる。
陛下と鈴木さん、平沼さんの終戦という判断が至極妥当と感じられる。
もう少し勉強した方がいいですよ
そら日本軍というのは自分が強いと勘違いしたウルトラ超絶馬鹿だからな。長年の誤った教育の賜物だ。
@motodadi
具体的には何を?コメ主さんのお話は終戦の流れと合わせてみてもかなり妥当だと思いますが。それだけじゃ何の勉強が足りないのか分からないですよ
敗戦は未だ終わらず。俺等がまずは終わらせようという意志を持たんとね。
貫太郎さんってパグ犬に似てて可愛い〜😍💕
広瀬武夫さんと同年代で海軍兵学校の同期だったっけ?😢
多治速比売神社にお参りに行きたいです🙏‼️
日露戦争以来の死線を潜り抜けた鈴木だから出来た事だろう。
侍従長の経験があり夫人は天皇側近くに仕えた女官だった事からも陛下を息子の様に慈しんだ事も大きい。
鈴木も立派だが、この時陸相を務めた阿南も陸軍の暴発を抑えた功績がある。
黙殺発言以外はミスがない男。これを殺していたら終戦はまず無理だった。これを殺しかけた2.26の青年将校のクルクルパーさよ。
黙殺発言も軍部の倒閣を恐れてのことだと思う。軍部大臣現役武官制というクソみたいな法律のせいで日本は戦争をやめられなかった。
違うな。
何もわかってない。
彼らは上司だったんだよ。
貧しい農村出身の若い一兵卒のね。
彼らから故郷がどれだけ困窮していて、自分たちの給料をほぼ全て故郷の家族のために使っていたために自分の食い扶持すら怪しくなっていたこともよく知っていた。
彼らの見ていた世界は、華やかな帝都で優雅に暮らす高級将校からは想像もつかないような、苦しくて寒い世界。
父親と母親が餓死した、弟が出稼ぎに行った、妹が遊郭に売られた。そんな世界。
だからこそ彼らは貧しい部下のために身銭を切って援助したりもしていた。
そんな彼らの意思を利用してのが、出世の道が詰まり、天皇の周りにいた有能軍人を妬んでいた大佐以上の連中。
そいつらはクーデター後に裁かれることもなく、予備役に左遷されただけ。
青年士官は軒並み処刑された。この判断自体は間違っていないが、だからといって彼らをクルクルパーというのはおかしい。
「黙殺」 も 「ノーコメント」 の意が、「ネグレクト」 とされたことを後年まで気にしていたようです。
@@力哉-l5t まぁあのタイミングでノーコメントというのもね・・・
@@nattousenbei
国内向けには黙殺で通用しても対外的には厳しいわなあ……。連合国からしたら無視しますよと言われてもという。ただ時系列的にはまだ指導部の意見はまとまっていなかったわけで、鈴木首相としてもどうしようもないわな。
日本のいちばん長い日で鈴木閣下に興味が湧き昭和天皇物語でも常に出てくる。
鈴木貫太郎の妻、たかは皇孫御用係として幼少の昭和天皇を育てた。
たか無くして昭和天皇無し、昭和天皇無くして鈴木無しと言ったところかな
黙殺発言の問題ですが、陸海軍の一部と開発してた科学者達がポツダム宣言を読めば、原爆使用の可能性を読み取ったかもですが。おそらく鈴木首相は原爆なんてモノを米国が作ったことすら知らなかったはずだし、ましてそんなモノを予告無しで投下するなんて想像もしなかったと思う。
南足柄市にある大雄山最乗寺に行ったら隣り合わせで迫水久常と賀屋興宣の名前が彫ってありました。
この2人についても多くの人に知ってもらいたいですね。
ぜひとも、今の政治家達に見習ってほしい
そもそも終戦時と現代では時代も価値観も全く違うから今鈴木貫太郎が総理をやってもいい結果になるとは言い切れないが、国のために働いた総理なことに間違いはないと思うしなにより物凄い人格者であると思う
だから政治家達はひたすら権力と金に執着するのではなくてこの人を見習ってせめて国を良い方法に持っていくための努力はしてほしい
どこかの増税メガネさんも日本国民のために働こうという意思があるのだったらここまで叩かれてはいないと思う(実際日本で1番偉くなりたかっただけだし)からね…
終戦に関わった人や経緯は義務教育に導入すべき 義務教育ではサラリと触れられるだけで気づいら高度経済成長期や沖縄返還の話
吉田茂によるサンフランシスコ条約に一気に飛ぶんですよね。
樋口季一郎は義務教育で教えるべき
戦後の焼け野原の祖国が、曲がりなりにも世界の一等国として甦った今の姿を見て、閣下はどの様に思われるだろうか❓
今の首相を見たら、皆さんなんて言うのだろう……
この世界の一大事に
世界を飛び回れる総理がきたのは
僥倖だったと思ってくれるよ
言うてこの前も近衛東條小磯と首相の底辺が三代続いていたんやで?
鈴木貫太郎は兵学校長時代、殴るな、殴れば人間がひねくれる、ひねくれれば人の助言を聞かなくなる、それは個人にとっても海軍にとっても不幸だ、だから殴るな。と鉄拳制裁を辞めさせた人。ただ、戦後ろくでもない海兵70期以降が海上自衛隊に海軍の伝統だと言って鉄拳制裁を復活させましたが。
カッコいい😢
鈴木首相、米内海相、東郷外相がポツダム宣言無条件受諾派だったのに対し、平沼枢密院議長は危なかった。
ポツダム宣言の和訳文に対して、細かい言葉尻に難癖をつけて、条件付き受諾、つまり反対派になりかねなかった。
そして当時の首相には閣僚の任免権がなかったということもあるが、枢密院や参謀本部、軍令部は内閣とは別組織だった。
最終的にこの御前会議での宣言受諾決定はほんと鈴木首相のギリギリの綱渡りだった。
終戦が伸びていたら今の日本はなかったでしょう。
この人が居なかったら日本は荒土になっただろう…
広島、長崎では済まなかったのではないだろうか?
鈴木貫太郎のことを解説した動画って少ないんだよね。
聖断を仰ぐという、鈴木、米内の作戦勝ちでしたね。
ここで降伏していなかったら北海道はソ連に取られていただろうね
当時のソ連陸軍は世界最強、そして指導者はスターリン。
アメリカの制止を無視して東日本の行けるところまで侵攻
していたのでは?
トルーマンが分割占領を拒否したから、やらなかったと思う。結局強国同士のパワーバランスで決まってしまう。
樋口季一郎のおかげ
今の日本を見て、どう思われるだろうか。
鈴木首相が偉大なのはさることながら、最大の国難において鈴木を指名した天皇陛下も立派。いまだに天皇の戦争責任を論じる者は自らの無知をさらすようなものである。また、その時代に自分が天皇の立場なら何ができたか真剣に考えていただきたい。
歴史にタラレバはないが
この時、ポツダム宣言を受け入れてなければ、
ソ連の侵攻を嫌ったアメリカが原爆をさらに落とす可能性があった。
さらには、ソ連が北海道に進軍して北方四島どころで済まない状態になっていたことは容易に想像できる。
いや、ソ連とアメリカの戦争になって日本人はほぼ絶滅してただろうね。
当時のソ連陸軍は世界最強、そして指導者はスターリン。
アメリカの制止を無視して東日本の行けるところまで侵攻していたと思われます。
@@てりえてりえ
そのほうがよかった 日本人民共和国と 日本民主共和国に分かれていればよかったんだよ
二・二六事件のとき当時侍従長を務めていた鈴木貫太郎を襲撃したのは事件の首謀者の1人、安藤輝三大尉でした。安藤大尉は事件の少し前に自身の考えを訴える目的で鈴木邸を訪れて面談を申し入れています。
安藤の訪問を快く引き受けた鈴木は安藤の話にじっくりと耳を傾けた後に、今度は鈴木自身の考えを懇切丁寧に話したそうです。安藤は鈴木の話に何か感じ入ったことがあったのか、鈴木邸を辞去する際に懇願して色紙に揮毫までしてもらったと言われています。また事件前に青年将校たちの間で最後の打合せを行ったとき、安藤は鈴木だけは襲撃の対象から外すべきだと主張したものの他の全員からは却下されてしまいました。
事件当日、ひん死の重傷を負った鈴木に最後のトドメを刺そうとした安藤が結局思いとどまったのは、鈴木夫人の身を呈しての助命嘆願もありましたが、やはり直接の面談で鈴木の人格と軍人、政治家としての力量に安藤が魅かれていたからだと思います。
このとき安藤が鈴木にトドメを刺さなかったことで、日本は亡国の危機から救われたとも言えるでしょう。
すごい
凄いな
関宿町に記念館があります。ぜひともみなさん行きましょう!
阿南陸相は戦争終結を願っていたけど、他の継戦派は孤立した状態で、原爆が投下され、ソ連が北より侵攻し、訓練された正規の軍人もいなくまともに武器や食糧もない。
こんな状態で戦争を継続し連合軍に多少の出血を強いたところで、有利な講和が結べると本気で思っていたのだろうか。
鈴木貫太郎記念館、真に控え目な建物、華美とは全く縁遠い質実にして質素、素晴しい人間性溢れた居宅、乃木希典閣下と人間性は共通と、は拝察します、昭和天皇陛下の飾らない質素を貧と感じさせない人格ありがたかった。
鈴木貫太郎が小磯内閣の後任の首相に任命されるはるか以前のある日、呉の江田島にある海軍兵学校を訪問した鈴木貫太郎大将は応接室で兵学校校長の井上成美中将と歓談していた。すると応接室から鈴木大将の大きな声が聞こえて来たという。鈴木大将の声を聞いた校長付き副官は顔を上げて応接室を見ると、喋る鈴木大将とそれに大きく頷く井上校長の姿が見えたそうだ。その鈴木大将の声は「井上君良いかね、海軍兵学校での教育の真価が発揮されるのは、30年後だよ!30年後!」だったそうだ。
おそらく井上校長は鈴木大将に、当時兵学校内部で大きな問題になっていた生徒に対する教育カリキュラムの事を話したのであろう。
戦局が逼迫して来て、兵学校にも戦争の緊迫感が伝わって来ておりライバルの陸軍士官学校では入試科目から英語が外され、陸士生徒への英語教育や普通科目の教育時間も徐々に減らされ実学が増加されるなか、海軍兵学校では井上校長の一存で、入試から英語は外されず英語教育始め数国社理音美等普通科目の時間の削減も無かった。
これは井上校長が戦争終結後の日本復興の時必ず若い人材が必要になることを見越して、戦時中でありながら普通科教育を生徒達に施そうとしたためである。
鈴木大将は井上校長からの説明を受けて、その趣旨を理解賛同。またこれを当時兵学校内部に存在した反校長派に聴かせるために敢えて大声で井上校長に賛同の意を表したのでしょう。
こうしてみると鈴木大将のこの時期の兵学校訪問は、宮中やその重臣・米内辺りの早期講和グループ辺りから、鈴木井上の面通しと終戦工作への擦り合わせを兼ねての会談がセッティングだったのでしょう。
その後鈴木大将に首班就任の大命が降下される前には、兵学校校長離任を嫌がった井上校長は米内海軍大臣の下海軍次官に転任、それと共に海軍内部での終戦工作に着手するのでした。
多数決で決めたら軍部が反発する
あえて同数の賛成反対に別れたまま天皇に裁断を仰ぐという発想
いかに軍部が天皇を自分勝手に利用していたか、鈴木が天皇のことを想っていたか
鈴木貫太郎首相のポツダム宣言を受諾して大東亜戦争を有条件降服に導いた功績は計り知れない。その鈴木首相が降伏の仲介をソ連にするという大失敗もしているがその事については余り話されることがないようだ。
幼少期の昭和帝へ絶大なる影響を与えた足立たかの夫ですね
批判されても困窮しても、己の信念が揺らぐことなく貫いた。
私利私欲の政治家ばかりのいまではどうにも比較すらできない。
侍従長鈴木貫太郎ですが枢密院議長ですのでね。
裕仁陛下万歳🙌
一から十まで全部軍人。政治家は何処に居たんですか?
政友会系、民政党系の議員なども入閣していますが、やはり軍人と官僚ばかりですね。この時代は政治家がいなくなり、官僚が政治をやっていた。
教科書に載せるべき