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この凡夫が 仏にさせていただく事は不思議事です 有難い事ですね ナンマンダブツ
全く無駄がない完璧なご説法に感涙いたします。繰り返し拝聴させていただきます。
有り難いですね。ありがとうございます。
浄土真宗のみおしえの肝要を分かりやすく言葉にして頂き真に有り難う御座います。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
私は現在台湾に住んでおり、東京にいたときにこの仏教寺院を二度訪れたことがありますが、とてもきれいでとても感動しました。
ありがとうございました。南無阿弥陀仏🙏
有難うございました南無阿弥陀
大変勉強になりました
ありがとうございます。理路整然として、一句一句無駄な言葉なく、しっかりと脳裏に焼き付けられる思いです。同じこの法話を繰り返しか
えし、お聞きさせていただきたいと願っています。有り難く感謝いたします。
@@前崎利治😮😢
阿弥陀仏を前にして自分の思想や経験や知識なんてものは全て必要なくなり、そこには南無阿弥陀仏のお働きしかなくなるってことなんですね。わかりやすいご説法ありがとうございます。
やっぱり阿部先生が一番好きやわ。
唯一、報恩感謝があるのみ。
阿部先生流石です🎉😂!力を抜いて聴いてます!お願いします。
ありがとうございます。南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏のおいわれ、有り難くお聴聞させていただきました。 私の口から出るお念仏は、阿弥陀さまのおはたらきがそのまま出てくださっている姿、だから、称名の「称」は、「秤」と同じという親鸞聖人のお示し…、なんて嬉しい有り難いことでしょう。なもあみだぶつ
ありがとうございます。いつか、築地本願寺さんに、伺いたいと思っています。
阿弥陀さまにおまかせして生きさせていただける有難さ、これも全て阿弥陀さまのお陰です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
浄土真宗はそのままで悟をひらかせていただけるとはなんと有り難いお宗派なんでしょうか
論理的で分かりやすく、いつも、もったいない気持ちで聴かせていただいています。ありがとうございます。
有難いお話ありがとうございます。なもあみだぶつ なもあみだぶつ
浄土真宗では、善知識が必要です。誰から聞くのかわからない、どなたの話を聞いたらいいのかが大問題です。まず大事なのは、信のある方から聞かないと、いけません。その点では、阿部先生は、正確にお伝えしておられると、私は思っております。なんまんだぶ なんまんだぶ
今までお解きいただ居たことのない事をお聞かせいただきました、大変ありがとうございました、
南無阿弥陀仏!
ひとつ、ひとつ、噛み砕く様に、お話し、いただいて、浄土真宗の、基礎が、理解しやすいです。ありがとうございました。
今年、70歳なって、始めて、信じるものが、できました。
ようやく理解できました。ありがたく、いただきます✨😌✨
南無阿弥陀仏🙏
ありがとうございます。
私は浄土真宗の門徒で努めさせて頂いておりますが他宗(156派 160派の文献もあり)においても素晴らしい教えがありますので浄土真宗の教えだけでは勿体ない心境です浄土真宗一本に絞り込むのは他宗の教えに失礼かと思っていますが欲が深すぎるのではないかと思っていますよ
ありがとうございます。もったいないことです。北海道より
南無阿弥陀仏
Merci du fond du cœur ! ありがとうございました
先生すいません、私は今フリーですが、告白しても良いんですか?質問が違います、真摯に受け止めます
ナマンダブツ有り難うございました
弥陀に帰命するといえども善智識なければいたずらごとなり。南無阿弥陀仏と口でとなえる念仏、すなわち称名念仏は、すでに往生が定まっていることえの報恩報謝の念佛であるとする念佛の功徳により浄土へ往生しよぅとする方法 手段(行)ではない。
(大)行、というのはすなわち、諸仏如来が無量寿仏の不可思議を讃嘆したまうってことですよね。その諸仏如来の讃嘆が成就していることを、「念仏を聞くことを通して」私どもまた信心をたまわり、往生し不退転に至る。このような功徳があることがすでに願成就されているという「本願のいわれ」を聞いて、信心決定したわたしどもの念仏は、「御恩報謝の念仏」と呼ばれる。その「御恩報謝の念仏」さえ私どもの「行」として往生の因としようとするのはおっしゃる通り、誤りでしょう。それは自力念仏です。ただ、すでに「御恩報謝の念仏」と表されている通り、往生の因はあくまで本願にあり、「仏の方より往生が治定」されるわけで、「行」というのは、あくまでも阿弥陀如来の本願による諸仏称名を聞名し、その結果往生が決定していくということを「南無阿弥陀仏のはたらき」と表現されているのではないでしょうか。その意味で本ご講師は、「念佛の功徳により浄土へ往生しよぅとする方法 手段(行)」ということとしてみなしているわけではないと思います。なお、(自力の)念佛の功徳により浄土へ往生しよぅとする方法 手段(行)ではない。というのは、おっしゃる通りですね。善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開発して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ
南无阿彌陀佛
阿弥陀仏の本願が「全ての人を救う」であり、これが叶わぬ時は仏にはならない。 ですか? 今は仏ですから本願が叶ったわけですね?では人間の信心の目的は達成されたと言いかえれますね? それでも現在一生懸命信心している門徒さんたちは何なんでしょうね? それに、他宗派、他宗教の方達も救われているのですか? どこを勘違いしているのか指摘して頂ければ幸いです。
>阿弥陀仏の本願が「全ての人を救う」であり、これが叶わぬ時は仏にはならない。 ですか? →本願文 「設我得佛・・・不取正覺」 の通りそうですね。>今は仏ですから本願が叶ったわけですね?「弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまえり」ですね。願成就です。> では人間の信心の目的は達成されたと言いかえれますね? そうなのですが、私どもは自力による疑いのこころで蓋をしているのだと説かれます。その自力のこころをひるがえし、そのままその仏様の「必ずすくう」という願をいただけば、OKです。>それでも現在一生懸命信心している門徒さんたちは何なんでしょうね?浄土真宗においては「信心する」ということばより「ご信心をたまわる」という表現かと思います。一生懸命されたのはむしろ阿弥陀仏であり、その呼びかけに応えるようにご門徒が奉仕をしている、という関係かと思います。(この構造の違いが浄土真宗の要だと思います)>それに、他宗派、他宗教の方達も救われているのですか? どこの教団に属すということではなく、「本願を信じ念仏申せば仏となる」ということは全世界の共通でしょう。真実と私との関係を「私が〇〇と信じる」で救われるのでは決してなく、「すでに真実の方から私をおさめとっている」という構造であれば、どの宗教も本願の心の通りに近いかと思います。ただ、阿弥陀仏の本願というのは、その救いのリレーの伝達手段を念仏という阿弥陀仏を称讃するバトン(伝達方法)によって伝えているというのが、お念仏の教えということの特徴でありましょう。他者がアーメンと言うのを聞いて、「あ、確かに私もすでに救われていたはずだったのだ。なのにまた思わず疑っていたわ。罪深い私です。アーメン」、と思うならば、浄土真宗とこの部分だけでいえば近いかなと思います。
@@4月の雨 お忙しい中丁寧なご返事ありがとうございます。 もっと勉強します。
阿弥陀さまが救ってあげます、まかせなさいとおっしゃってるのだから、色々と考えないで阿弥陀さまにお任せすればいいのではないでしょうか?
人身受け難し!
大行有り大信あり、還相は還るので往相は必要ですか来たのだから当然還るのでは往相の必要無いのでは、往も還るも他力有り難く受け取らせて頂いています。お浄土に帰られました言う墓標が気になるます。
そ
有難うございました南無阿弥陀、
この凡夫が 仏にさせていただく事は不思議事です 有難い事ですね ナンマンダブツ
全く無駄がない完璧なご説法に感涙いたします。繰り返し拝聴させていただきます。
有り難いですね。
ありがとうございます。
浄土真宗のみおしえの肝要を分かりやすく言葉にして頂き真に有り難う御座います。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
私は現在台湾に住んでおり、東京にいたときにこの仏教寺院を二度訪れたことがありますが、とてもきれいでとても感動しました。
ありがとうございました。南無阿弥陀仏🙏
有難うございました南無阿弥陀
大変勉強になりました
ありがとうございます。理路整然として、一句一句無駄な言葉なく、しっかりと脳裏に焼き付けられる思いです。
同じこの法話を繰り返しか
えし、お聞きさせていただきたいと願っています。
有り難く感謝いたします。
@@前崎利治😮😢
阿弥陀仏を前にして自分の思想や経験や知識なんてものは全て必要なくなり、そこには南無阿弥陀仏のお働きしかなくなるってことなんですね。
わかりやすいご説法ありがとうございます。
やっぱり阿部先生が一番好きやわ。
唯一、報恩感謝があるのみ。
阿部先生流石です🎉😂!力を抜いて聴いてます!お願いします。
ありがとうございます。南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏のおいわれ、有り難くお聴聞させていただきました。
私の口から出るお念仏は、阿弥陀さまのおはたらきがそのまま出てくださっている姿、だから、称名の「称」は、「秤」と同じという親鸞聖人のお示し…、なんて嬉しい有り難いことでしょう。
なもあみだぶつ
ありがとうございます。いつか、築地本願寺さんに、伺いたいと思っています。
阿弥陀さまにおまかせして生きさせていただける有難さ、これも全て阿弥陀さまのお陰です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
浄土真宗はそのままで悟をひらかせていただけるとはなんと有り難いお宗派なんでしょうか
論理的で分かりやすく、いつも、もったいない気持ちで聴かせていただいています。
ありがとうございます。
有難いお話ありがとうございます。なもあみだぶつ なもあみだぶつ
浄土真宗では、善知識が必要です。誰から聞くのかわからない、どなたの話を聞いたらいいのかが大問題です。まず大事なのは、信のある方から聞かないと、いけません。
その点では、阿部先生は、正確にお伝えしておられると、私は思っております。
なんまんだぶ なんまんだぶ
今までお解きいただ居たことのない事をお聞かせいただきました、大変ありがとうございました、
南無阿弥陀仏!
ひとつ、ひとつ、噛み砕く様に、お話し、いただいて、浄土真宗の、基礎が、理解しやすいです。ありがとうございました。
今年、70歳なって、始めて、信じるものが、できました。
ようやく理解できました。
ありがたく、いただきます✨😌✨
南無阿弥陀仏🙏
ありがとうございます。
私は浄土真宗の門徒で努めさせて頂いておりますが他宗(156派 160派の文献もあり)においても素晴らしい教えがありますので浄土真宗の
教えだけでは勿体ない心境です浄土真宗一本に絞り込むのは他宗の教えに失礼かと思っていますが欲が深すぎるのではないかと思っていますよ
ありがとうございます。もったいないことです。北海道より
南無阿弥陀仏
Merci du fond du cœur ! ありがとうございました
南無阿弥陀仏
先生すいません、私は今フリーですが、告白しても良いんですか?質問が違います、真摯に受け止めます
ナマンダブツ
有り難うございました
弥陀に帰命するといえども善智識なければいたずらごとなり。南無阿弥陀仏と口でとなえる念仏、すなわち称名念仏は、すでに往生が定まっていることえの報恩報謝の念佛であるとする
念佛の功徳により浄土へ往生しよぅとする方法 手段(行)ではない。
(大)行、というのはすなわち、諸仏如来が無量寿仏の不可思議を讃嘆したまうってことですよね。
その諸仏如来の讃嘆が成就していることを、「念仏を聞くことを通して」私どもまた信心をたまわり、往生し不退転に至る。このような功徳があることがすでに願成就されているという「本願のいわれ」を聞いて、信心決定したわたしどもの念仏は、「御恩報謝の念仏」と呼ばれる。
その「御恩報謝の念仏」さえ私どもの「行」として往生の因としようとするのはおっしゃる通り、誤りでしょう。それは自力念仏です。
ただ、すでに「御恩報謝の念仏」と表されている通り、往生の因はあくまで本願にあり、「仏の方より往生が治定」されるわけで、「行」というのは、あくまでも阿弥陀如来の本願による諸仏称名を聞名し、その結果往生が決定していくということを「南無阿弥陀仏のはたらき」と表現されているのではないでしょうか。
その意味で本ご講師は、
「念佛の功徳により浄土へ往生しよぅとする方法 手段(行)」ということとしてみなしているわけではないと思います。
なお、
(自力の)念佛の功徳により浄土へ往生しよぅとする方法 手段(行)ではない。
というのは、おっしゃる通りですね。
善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開発して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ
南无阿彌陀佛
阿弥陀仏の本願が「全ての人を救う」であり、これが叶わぬ時は仏にはならない。 ですか? 今は仏ですから本願が叶ったわけですね?
では人間の信心の目的は達成されたと言いかえれますね? それでも現在一生懸命信心している門徒さんたちは何なんでしょうね? それに、他宗派、他宗教の方達も救われているのですか? どこを勘違いしているのか指摘して頂ければ幸いです。
>阿弥陀仏の本願が「全ての人を救う」であり、これが叶わぬ時は仏にはならない。 ですか?
→本願文 「設我得佛・・・不取正覺」 の通りそうですね。
>今は仏ですから本願が叶ったわけですね?
「弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまえり」ですね。願成就です。
> では人間の信心の目的は達成されたと言いかえれますね?
そうなのですが、私どもは自力による疑いのこころで蓋をしているのだと説かれます。
その自力のこころをひるがえし、そのままその仏様の「必ずすくう」という願をいただけば、OKです。
>それでも現在一生懸命信心している門徒さんたちは何なんでしょうね?
浄土真宗においては「信心する」ということばより「ご信心をたまわる」という表現かと思います。一生懸命されたのはむしろ阿弥陀仏であり、その呼びかけに応えるようにご門徒が奉仕をしている、という関係かと思います。(この構造の違いが浄土真宗の要だと思います)
>それに、他宗派、他宗教の方達も救われているのですか?
どこの教団に属すということではなく、「本願を信じ念仏申せば仏となる」ということは全世界の共通でしょう。
真実と私との関係を「私が〇〇と信じる」で救われるのでは決してなく、「すでに真実の方から私をおさめとっている」という構造であれば、どの宗教も本願の心の通りに近いかと思います。ただ、阿弥陀仏の本願というのは、その救いのリレーの伝達手段を念仏という阿弥陀仏を称讃するバトン(伝達方法)によって伝えているというのが、お念仏の教えということの特徴でありましょう。
他者がアーメンと言うのを聞いて、「あ、確かに私もすでに救われていたはずだったのだ。なのにまた思わず疑っていたわ。罪深い私です。アーメン」、と思うならば、浄土真宗とこの部分だけでいえば近いかなと思います。
@@4月の雨
お忙しい中丁寧なご返事ありがとうございます。 もっと勉強します。
阿弥陀さまが救ってあげます、まかせなさいとおっしゃってるのだから、色々と考えないで
阿弥陀さまにお任せすればいいのでは
ないでしょうか?
人身受け難し!
大行有り大信あり、還相は還るので往相は必要ですか来たのだから当然還るのでは往相の必要無いのでは、往も還るも他力有り難く受け取らせて頂いています。お浄土に帰られました言う墓標が気になるます。
そ
有難うございました南無阿弥陀、
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏