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北部琉球と記載された降伏文書に調印していたらどうなっていたのか。
奄美出身ですが、大変勉強になりました。ありがとうございます。
なたふ
島出身だからこれ系好き
いつも楽しく勉強させていただいてます。ありがとうございます。これからの動画も期待してます。
こちらこそ、いつもご視聴ありがとうございます。これからも勉強と動画制作頑張ります!コメントありがとうございます。
勉強になりました!
いつもありがとうございます!
素晴らしい動画だ。教科書に乗らない素晴らしいテーマだ
ありがとうございます。そのように仰って頂けるととても励みになります。
祖母が徳之島出身で、先祖の戸籍を調べているうちに徳之島に親族が多いと知り、近隣の歴史が気になってこの動画に辿り着きました。これから色々勉強させてもらいます!解説本当にありがとうございます。
僕の両親は徳之島生まれ育った人です。戦後本土に移り住みました。
沖縄学会の影響力が強すぎて奄美の歴史の独自性が認識されるのがかなり遅くなったと資料館?で聞きました。
日本政府は戦時中、沖縄を外地と見ていた。 だから法的に戦争が終結した日にちが日本の内地と沖縄では違う。 重光葵外務大臣が降伏文書に調印したのは1945年9月2日。 沖縄に配備されていた南西諸島守備隊の代表が降伏文書に調印したのは1945年9月7日。 その南西諸島守備隊は外地の台湾に所属する帝国陸軍第10方面軍の所属だったことからも分かるように、戦時中の日本政府と軍部は沖縄を外地扱いしていた。だから日本政府はこれまで一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家
確かに文化は沖縄に似ている
那覇世は、極めて過酷であったそうですよ。砂浜の渚に、首だけを出すことにして、奴隷扱いしていたそうです。薩摩藩の過酷な支配だけを強調するのは大きな間違いです。
泉芳朗先生の銅像がおがみ山にあるんで行ってくだい
何故鹿児島なんだろうと思ってましたが 歴史を知りわかりました^_^ありがとうございます*\(^o^)/*
紆余曲折とはまさにこの事ですね。大変な歴史です。
無所属というのは誤りで、遅くとも承久の乱までには屋久島の一部、奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島を「雨見嶋、私領郡」と領地として認識しています。もっとも琉球弧のグスク時代黎明期、交易勢力との封建的関係が主とみられ、言わばこの領域は日本のはじっこの方の「外地」と言う認識で、(これもまた明確でないが)与論島から先は「龍及國」の異界と言う認識でした。奄美群島以南はグスク時代から按司が興ろうとする状況でこれが14世紀初頭まで続いており、それまでは「琉球」と言う国が興っていると言う状況でもありませんでした。このような境界の曖昧な状況が続きます、なぜなら国境と言うのは国と国または蛮族が衝突して勢力均衡が起きてから初めて認識されるものだからです(蝦夷地、樺太なども参照)
14世紀初頭になるとやがて沖縄本島に北山、中山、南山の国「らしき」按司勢力が興りはじめ、北山が与論島と沖永良部島に影響力を及ぼし始めます。14世紀終盤に三山がそれぞれ明に朝貢貿易を始めますが(ここで初めて対外的に「琉球國」と認識される)、もちろん日本の預かり知る所ではありません。更に15世紀に入ると三山統一により第一尚氏が興ります。この時与論島と沖永良部島の他、徳之島もこれに服属しました。このように当時鎌倉から南北朝まで内乱続きだった日本や南九州の影響力が削がれて、島主が飴と鞭で琉球側に服属していきました。
15世紀、琉球國の勢力が大きくなり、奄美大島や喜界島まで武力により制圧して版図に加えます(那覇世)。もちろん日本側は影響力をほぼ喪失していた一方で預かり知る所でもないため、紀末の1493年にはとうとう交易利権を巡って日本と琉球が直接紛争になったと伝えられています。16世紀には久米島や宮古・八重山も武力により制圧して版図に加えます。琉球國自身も、これまでの対外戦争や内乱が打ち続き第二尚氏クーデターがあるなど混乱していましたし、奄美大島では反乱が相次いで、その鎮圧に忙殺されます。さらに中継貿易もこの頃衰退していき、ジリ貧に陥ります。
一方の日本は南北朝の内乱から地獄の戦国時代、文禄・慶長の役を経て徳川の治世になると南九州の薩摩島津と共に内政的には安定し、当時の明との関係からも南島交易利権の回復に乗り出します。交渉が決裂すると家康の許しのもと島津軍が軍事侵攻し(琉球侵攻)、奄美群島は与論島までを割譲し直轄支配に組み入れました。一方で沖縄本島から西は琉球國の領域として間接支配に留め、明国・清国と薩摩島津・幕府との二重朝貢支配下に置かれる事になりました。奄美群島は事実上薩摩島津支配でしたが名目上(対外的)は琉球の領域とされました。これが大和世で、名目上は琉球処分により琉球國が廃止される1879年まで継続しました。
琉球処分により奄美群島は全て大隅国に編入され鹿児島県となり、正式に日本に編入されました。一方、琉球國の領域は一括して沖縄県となり現代に至ります。
ヤマトが、奄美どころじゃないスキに浦添王権と首里王府が奄美に進出したのは正しいと思いますね。ここで一つ疑問なのが「奄美世」と言う表現です。同時代の沖縄諸島では「あまん世(甘世)」と呼ばれています。。つまり、穏やかで豊かない時代との意味なんですね。争いもなかったはずです自治的だったと言う意味では「奄美世」は妥当な表現ですが、もともと「甘世」だったのではないかとの説があります。
そうだったんですね。争いがなく比較的穏やかな時代だから「甘世」と呼んでいた。そして甘世が奄美世になった、びっくりというか面白いというか本当に勉強になりました。教えて頂きありがとうございます。
@@koushinohanashi ちなみに、苦しくて悲惨な時代は「ニガユ(苦世)」と呼ばれています。薩摩の間接統治や沖縄戦は、苦い時代でした。
こうしさん沖縄の文化はあんまりなんですね。ごめんね。たぶん、いじわるされたおもいがあるのでしょうか。でも、沖縄の経験から行くと、内地に拠っても、新しい基地を作られたように、これから、植民地の固定化がされると見ています。与那国島や、石垣の様に。わたしは奄美、エラブ、徳之島に友達や知人、家族が居て、うちなあんちゅなのですがアリンクリン考えています。
🫶🫶🫶👍
奄美は大和との交流が早かっただけで奄美と沖縄本島はDNAは同じです。奄美と沖縄本島は生物地理学的に見たら中琉球弧です。
そういった遺伝子や地理から見ても明らかに琉球寄りなのに鹿児島に属しているというところがこの歴史の興味深い点ですね。
奄美は薩摩の南モンゴルの顔立ち一緒にされちゃ困る
いつか奄美県になってほしい。
沖縄県編入ではなく奄美県ってことですね。
言葉、文化、地理的にも沖縄に近いと思いますが(私は沖縄県民です)奄美の方々の心情として(喜界島、奄美大島、沖永良部、徳之島、与論それぞれ地域によって違うかもしれないけど)鹿児島県民⁈沖縄所属が良かった⁈それとも奄美県⁈どうなんでしょうか?
もともと奄美大島は 薩摩藩の領地である。13世紀頃は流刑地で歌舞伎の俊寛が有名だ。琉球王府は宮古八重山 に侵攻さらには 北上、奄美大島に2度にわたり侵攻、2度目は破綻寸前だったが運よく喜界島の攻略に成功している。さなか島津から我が漁師の地であり侵攻をとどまるようとの封書を無視している。その後 長い年月の末、鹿児島県(島津)に戻っている。侵略したのは 琉球王府が先である。
恥ずかしいからちゃんと勉強してくれ。
間違いました。
勉強が足りませんよ。過去、1562年旧暦8月15日に尚元王の密命を受け徳之島に派遣された「首里之衆(幼名:高家)」1609年旧暦3月20日(教科書改訂の内容)尚寧王における「秋徳湊の戦い」(薩摩琉球侵攻)の裏の部分にある、1600年の関ヶ原の戦いと、島津「家」久(1602年)と、柵封国に攻め込んだ、秀吉からの流れと、北京。当時、の攻め込む理由となった銀子と早舟。「山狩りで発見された王府からの役人」と「玉城朝勲」(かやぎて風は元々は、徳之島の”御前風“等々。)↑現在ある裏千家のバックグラウンドや「韓民族」の過去二回騎馬民族に侵略された歴史の中で。男女共に料理が出来る。等々。↑辻褄の合わない「歴史教科書」が。問題なんですよ。近々、改訂されなければ、ならない訳なんですよ。2023/10/19(木)PM05:15By Lazy Shingo拝✌💓💜🌅
ありがとうございます!
@@koushinohanashi ニューヨークの奄美会です! 5月にNYで関連イベントあります。ご興味あれば
北部琉球と記載された降伏文書に調印していたらどうなっていたのか。
奄美出身ですが、大変勉強になりました。
ありがとうございます。
なたふ
島出身だからこれ系好き
いつも楽しく勉強させていただいてます。
ありがとうございます。
これからの動画も期待してます。
こちらこそ、いつもご視聴ありがとうございます。
これからも勉強と動画制作頑張ります!
コメントありがとうございます。
勉強になりました!
いつもありがとうございます!
素晴らしい動画だ。教科書に乗らない素晴らしいテーマだ
ありがとうございます。
そのように仰って頂けるととても励みになります。
祖母が徳之島出身で、先祖の戸籍を調べているうちに徳之島に親族が多いと知り、近隣の歴史が気になってこの動画に辿り着きました。これから色々勉強させてもらいます!解説本当にありがとうございます。
僕の両親は徳之島生まれ育った人です。戦後本土に移り住みました。
沖縄学会の影響力が強すぎて奄美の歴史の独自性が認識されるのがかなり遅くなったと資料館?で聞きました。
日本政府は戦時中、沖縄を外地と見ていた。
だから法的に戦争が終結した日にちが日本の内地と沖縄では違う。
重光葵外務大臣が降伏文書に調印したのは1945年9月2日。
沖縄に配備されていた南西諸島守備隊の代表が降伏文書に調印したのは1945年9月7日。
その南西諸島守備隊は外地の台湾に所属する帝国陸軍第10方面軍の所属だったことからも分かるように、戦時中の日本政府と軍部は沖縄を外地扱いしていた。
だから日本政府はこれまで一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。
@沖縄県那覇市首里 琉球史研究家
確かに文化は沖縄に似ている
那覇世は、極めて過酷であったそうですよ。
砂浜の渚に、首だけを出すことにして、奴隷扱いしていたそうです。
薩摩藩の過酷な支配だけを強調するのは大きな間違いです。
泉芳朗先生の銅像がおがみ山にあるんで行ってくだい
何故鹿児島なんだろうと思ってましたが 歴史を知りわかりました^_^
ありがとうございます*\(^o^)/*
紆余曲折とはまさにこの事ですね。大変な歴史です。
無所属というのは誤りで、遅くとも承久の乱までには屋久島の一部、奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島を「雨見嶋、私領郡」と領地として認識しています。もっとも琉球弧のグスク時代黎明期、交易勢力との封建的関係が主とみられ、言わばこの領域は日本のはじっこの方の「外地」と言う認識で、(これもまた明確でないが)与論島から先は「龍及國」の異界と言う認識でした。奄美群島以南はグスク時代から按司が興ろうとする状況でこれが14世紀初頭まで続いており、それまでは「琉球」と言う国が興っていると言う状況でもありませんでした。このような境界の曖昧な状況が続きます、なぜなら国境と言うのは国と国または蛮族が衝突して勢力均衡が起きてから初めて認識されるものだからです(蝦夷地、樺太なども参照)
14世紀初頭になるとやがて沖縄本島に北山、中山、南山の国「らしき」按司勢力が興りはじめ、北山が与論島と沖永良部島に影響力を及ぼし始めます。14世紀終盤に三山がそれぞれ明に朝貢貿易を始めますが(ここで初めて対外的に「琉球國」と認識される)、もちろん日本の預かり知る所ではありません。更に15世紀に入ると三山統一により第一尚氏が興ります。この時与論島と沖永良部島の他、徳之島もこれに服属しました。このように当時鎌倉から南北朝まで内乱続きだった日本や南九州の影響力が削がれて、島主が飴と鞭で琉球側に服属していきました。
15世紀、琉球國の勢力が大きくなり、奄美大島や喜界島まで武力により制圧して版図に加えます(那覇世)。もちろん日本側は影響力をほぼ喪失していた一方で預かり知る所でもないため、紀末の1493年にはとうとう交易利権を巡って日本と琉球が直接紛争になったと伝えられています。16世紀には久米島や宮古・八重山も武力により制圧して版図に加えます。琉球國自身も、これまでの対外戦争や内乱が打ち続き第二尚氏クーデターがあるなど混乱していましたし、奄美大島では反乱が相次いで、その鎮圧に忙殺されます。さらに中継貿易もこの頃衰退していき、ジリ貧に陥ります。
一方の日本は南北朝の内乱から地獄の戦国時代、文禄・慶長の役を経て徳川の治世になると南九州の薩摩島津と共に内政的には安定し、当時の明との関係からも南島交易利権の回復に乗り出します。交渉が決裂すると家康の許しのもと島津軍が軍事侵攻し(琉球侵攻)、奄美群島は与論島までを割譲し直轄支配に組み入れました。一方で沖縄本島から西は琉球國の領域として間接支配に留め、明国・清国と薩摩島津・幕府との二重朝貢支配下に置かれる事になりました。奄美群島は事実上薩摩島津支配でしたが名目上(対外的)は琉球の領域とされました。これが大和世で、名目上は琉球処分により琉球國が廃止される1879年まで継続しました。
琉球処分により奄美群島は全て大隅国に編入され鹿児島県となり、正式に日本に編入されました。一方、琉球國の領域は一括して沖縄県となり現代に至ります。
ヤマトが、奄美どころじゃないスキに浦添王権と首里王府が奄美に進出したのは正しいと思いますね。
ここで一つ疑問なのが「奄美世」と言う表現です。
同時代の沖縄諸島では「あまん世(甘世)」と呼ばれています。。つまり、穏やかで豊かない時代との意味なんですね。争いもなかったはずです
自治的だったと言う意味では「奄美世」は妥当な表現ですが、もともと「甘世」だったのではないかとの説があります。
そうだったんですね。争いがなく比較的穏やかな時代だから「甘世」と呼んでいた。そして甘世が奄美世になった、びっくりというか面白いというか本当に勉強になりました。教えて頂きありがとうございます。
@@koushinohanashi
ちなみに、苦しくて悲惨な時代は「ニガユ(苦世)」と呼ばれています。
薩摩の間接統治や沖縄戦は、苦い時代でした。
こうしさん沖縄の文化はあんまりなんですね。ごめんね。たぶん、いじわるされたおもいがあるのでしょうか。でも、沖縄の経験から行くと、内地に拠っても、新しい基地を作られたように、これから、植民地の固定化がされると見ています。与那国島や、石垣の様に。わたしは奄美、エラブ、徳之島に友達や知人、家族が居て、うちなあんちゅなのですがアリンクリン考えています。
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奄美は大和との交流が早かっただけで
奄美と沖縄本島はDNAは同じです。
奄美と沖縄本島は生物地理学的に見たら中琉球弧です。
そういった遺伝子や地理から見ても明らかに琉球寄りなのに鹿児島に属しているというところがこの歴史の興味深い点ですね。
奄美は薩摩の南モンゴルの顔立ち一緒にされちゃ困る
いつか奄美県になってほしい。
沖縄県編入ではなく奄美県ってことですね。
言葉、文化、地理的にも沖縄に近いと思いますが(私は沖縄県民です)奄美の方々の心情として(喜界島、奄美大島、沖永良部、徳之島、与論それぞれ地域によって違うかもしれないけど)鹿児島県民⁈沖縄所属が良かった⁈それとも奄美県⁈
どうなんでしょうか?
もともと奄美大島は 薩摩藩の領地である。13世紀頃は流刑地で歌舞伎の俊寛が有名だ。琉球王府は宮古八重山 に侵攻さらには 北上、奄美大島に2度にわたり侵攻、2度目は破綻寸前だったが運よく喜界島の攻略に成功している。さなか島津から我が漁師の地であり侵攻をとどまるようとの封書を無視している。その後 長い年月の末、鹿児島県(島津)に戻っている。侵略したのは 琉球王府が先である。
恥ずかしいからちゃんと勉強してくれ。
間違いました。
勉強が足りませんよ。
過去、1562年旧暦8月15日に尚元王の密命を受け徳之島に派遣された「首里之衆(幼名:高家)」
1609年旧暦3月20日(教科書改訂の内容)尚寧王における「秋徳湊の戦い」(薩摩琉球侵攻)の裏の部分にある、1600年の関ヶ原の戦いと、島津「家」久(1602年)と、柵封国に攻め込んだ、秀吉からの流れと、北京。
当時、の攻め込む理由となった銀子と早舟。
「山狩りで発見された王府からの役人」と「玉城朝勲」(かやぎて風は元々は、徳之島の”御前風“等々。)
↑
現在ある裏千家のバックグラウンドや「韓民族」の過去二回騎馬民族に侵略された歴史の中で。男女共に料理が出来る。等々。
↑
辻褄の合わない「歴史教科書」が。問題なんですよ。
近々、改訂されなければ、ならない訳なんですよ。
2023/10/19(木)PM05:15
By Lazy Shingo拝✌💓💜🌅
勉強になりました!
ありがとうございます!
@@koushinohanashi ニューヨークの奄美会です! 5月にNYで関連イベントあります。ご興味あれば