牧師になるのに「按手礼」って必要!? 聖書の記述を探してみるが……

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  • Опубликовано: 26 окт 2024

Комментарии • 25

  • @guitarskeith6593
    @guitarskeith6593 2 месяца назад +5

    たとえ医者の裕福な家系ではなく、サラリーマンの過程で育ったとしても、猛勉強し、高い学費を払い、努力して医者になる人もいます。でも、牧師の職は全く違います。親の願い(父親が牧師)や自分の願いによって牧師になる事はできません。人間側の願い以前に、神に選ばれ、召されている事が重要だと思います。軽々しく、按手一つで神に選ばれてもいない人が牧師職に就くならば、「自称牧師」ほど危険な事はないと思います。エペソ4章11節「こうして、キリストご自身が、ある人を・・・・お立てになったのです。」

  • @右側の羊
    @右側の羊 Месяц назад

    按手については受けてないということですが、召命はありましたか?

  • @chiek5676
    @chiek5676 2 месяца назад +3

    按手というのは聖書では基本、聖霊のバプテスマ(内住)のためだと思います。へブルの6:1~の按手も信仰のスタートの1ステップで、聖書では手を置いて聖霊のバプテスマを求めるのが基本でした。儀式と訳しているのは日本語だけ?英語や中国語では按手とか手を置いて祈る、と聖霊を求める祈りを指しています。その後、働きを始める時には、聖霊の満たしや賜物のために按手して祈ったようですね。

  • @新しい天と地
    @新しい天と地 2 месяца назад +3

    一人で勝手に 牧師を名乗り、暴走してしまうことを食い止めるために、この人であれば牧師としてやっていけるであろうという意味を込めて、先輩の牧師なり先輩の信仰者の客観的審査を行うための儀式であり、問題はないと思う。むしろ按手礼という儀式は、福音宣教の安全性を確保するという面から見てあった方が良いのではないですか?

  • @lily_among_thorns
    @lily_among_thorns 2 месяца назад +1

    教会が自分達の指導者として認め、また牧師の生活的必要に責任を持つ。そのことを公に表すという意味、また牧師自身が教会を牧会していく、責任及び使命を表し、他の複数の牧師からの諮問を経て、牧師としてふさわしいかどうか判断した上で、最終的には教会が、自分達の牧師と認め、従っていくということは大切な事だと思います。

    • @lily_among_thorns
      @lily_among_thorns 2 месяца назад +1

      言葉が足りませんでした。なので按手礼は大切な儀式であり、必要だと思います。

  • @さとたん
    @さとたん 2 месяца назад +3

    聖書の内容を人間の価値観や様々な文化背景を汲み取って解釈して人間が伝統化していく流れが多いですよね。キリスト教って。あたしはイエス道だけを歩みたい、聖書と共に。
    今日も勉強ななりました。ありがとうございます!

  • @chargemank
    @chargemank 2 месяца назад +2

    按摩は求めている人が多いな。

  • @はぐれ羊
    @はぐれ羊 2 месяца назад +6

    今晩は、拓馬さん 按手礼の問題は
    確かに牧師になるとき必要だとは何処にも書いていませんね。

  • @minorikimura9356
    @minorikimura9356 2 месяца назад +2

    按手は、人間のための儀式です。

  • @kei-js8bb
    @kei-js8bb 2 месяца назад +5

    按手について聖書箇所を読んでみましたが、確かに按手しなければ牧師になれない根拠はないですね。
    おそらくですが、按手する伝統が先にあって、その後聖書からの裏付けがあると思い込んでいる連鎖という可能性もあるのかもしれないですね。
    もしくは、念のため受けていた方が安心という程度かもしれません。

  • @大澤俊二
    @大澤俊二 2 месяца назад +7

    按手をどのように扱うかは各団体の慣習なり教規なのでしょうね。按手者と被按手者の関係が師と弟子のような上下関係になってしまうと、それはちょっと違うかなと思います。

  • @tanakayodoko1
    @tanakayodoko1 2 месяца назад +5

    牧師の資格ではなく、霊的な遺産、受け継げる祝福、油注ぎだと思います。
    その視点から見ていけば、牧師として認められた方々が祈りや按手を受けるのは、ある意味納得がいきます

  • @koutarouhirano7661
    @koutarouhirano7661 2 месяца назад +4

    旧約聖書の時代、律法が与えられアロンに始まる祭司の任職の際の油を注ぐ行為が按手の始祖にあたると私は思います。また、出エジプト29章にはアロンとその子らの祭司任職の際にささげる罪の赦しの為の焼き尽くす若い雄牛一頭、主に捧げる焼き尽くす雄羊一頭、主のために選ばれたものとしてきよめる為のいけにえである雄羊一頭をささげる前に、アロンとその子らが動物の頭に手を置いてから屠っています。これは罪の呪いや穢れを動物に身代わりに負わせる行為ですが、自分が持っているもの(ここでは罪)を手を置いて渡すという点では按手に近いものがあると思います。
    間違いなく言えるのは、按手や油注ぎは牧師任命や祭司任命に見られるような型ではなく、本来は力ある霊的な行為です。型だけに留まっているとすれば、それは聖霊の権威と選びを退け、組織の中での権威と選びと伝統で代々受け継いできた按手に過ぎないと思います。権威ある牧師の誰誰先生からではなく、権威ある聖霊によって直接油注がれ、そして力が表される事こそが本物と私は思います。鳩のように降る聖霊を受けたイエスに力が現されたように。

  • @niki4279
    @niki4279 2 месяца назад +3

    意味としては素晴らしいけれど、必要かどうかと言えば絶対条件ではないですね。
    日本の文化的に、こう言ったことを通して牧師間の上下関係、師弟関係のようなものが出来てそれがキリスト教会間の力関係など政治的な影響を持つ可能性もありそうですね。

  • @青空-h4x
    @青空-h4x 2 месяца назад +1

    小林さんの動画を観て「キリスト教文化」というものに興味を持ちました。聖書の示す事を知る上で「キリスト教文化」という視点は必要だと思いました。

  • @堀坂文雄
    @堀坂文雄 2 месяца назад

    直弟子(じきでし)

  • @邦隆北原
    @邦隆北原 2 месяца назад +1

    イエス・キリストから12弟子へそれ以後按手礼が今まで途切れなく継がれてきているのがホントなら、なぜ知られてないの?
    凄いことなのに!
    実際は自称牧師からの按手礼でしょ。

  • @yasunobuyoshida
    @yasunobuyoshida 2 месяца назад +4

    拓馬さんはたくましい🇯🇵按手して祈ると病人は癒やされる箇所もあるし…按手は否定されるモンちゃうけど…それが正規牧師の資格‼️て主張は暴力団並みの暴論すね🤩…誰とは言わんけどw拓馬さん顔色よろしいな。くれぐれも暑いので熱中症気を付けてジーザス✟熱中症を維持して下さい

    • @estel416
      @estel416 2 месяца назад +4

      893の世界では誰から盃を受けたかで箔が違ってくるが、キリスト教業界でも誰から按手を受けたかで牧師としての格が変わってくるのか? そんな事ないだろ。
      現代において牧師が会衆の面前で行う按手礼はパフォーマンスにしか見えないのは私だけでしょうか。

    • @yasunobuyoshida
      @yasunobuyoshida 2 месяца назад +2

      @@estel416 アーメン🤩💓

  • @永美-l6p
    @永美-l6p 2 месяца назад

    アーメンですね。

  • @debolahymasamiitaya6611
    @debolahymasamiitaya6611 2 месяца назад

    誰にでも出来る❤
    按手をしたいししてほしい✨