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黒田君さぁ…もうちょっとパパの柔軟性取り入れようよ…
伊達と浅野真田と仙石津軽と南部
黒田と蜂須賀
藤堂高虎はいい人らしかったね高禄で他家に引き抜かれた家臣が居心地が良いからと戻ってきたり、危篤の家康が会いたがったりと人当たりが良かったんだろうな
藤堂高虎と親しい間柄は加藤清正、蒲生氏郷、天海、本多正信
真の1位は伊達政宗と浅野長政だろ仙台藩伊達家と広島藩浅野家が20世紀まで絶縁状態だったどころ、伊達の子孫の土井利位と浅野の子孫の水野忠邦が政敵同士だったから、遺伝子レベルで反りが合わなかったとしか仙台伊達家から出て行った国分(後に伊達)盛重を迎えたのが秋田藩佐竹家とかある
田中吉政と立花宗茂との不仲については、柳川に田中家の菩提寺がちゃんと残っていたり、その後の立花家に至るまで田中道沿いにある吉政顕彰する神社等も禁じていないところをみると、本当に嫌っていたのかは疑わしい気もします。筑後国のインフラが吉政治世の8年間に一気に整備されたこともあって、下手に対応すると旧主田中家への評価が反藩政の芯になりかねないので適当なところに抑える必要があったんじゃないかと。肥後の細川氏が清正公を祀り上げて細川家にとって無害な存在にしたのと方向は逆ですが、同じようなところがあるんじゃないかと思います。
ちなみに柳川には田中吉政の銅像は立っていますが、立花宗茂の銅像は一つもありません。御花とか三柱神社とかにはあっても良さそうなんだけど…(ちなみに「宗茂と誾千代」大河ドラマ化希望の幟やポスターなら、町中の至る所にあります)
毛利秀元と吉川広家は毛利輝元の従兄弟だと思うのですが、(毛利秀元は一時期輝元の養子になってますが)
あんまり直江寄りにするともうずんだ餅食わせないぞ
確か伊達政宗は、浅野長政 蒲生氏郷 直江兼続 佐竹義宣 加藤清正 犬猿でしたよね 細川忠興とは気が合ったエピソードあります。
そう言えば、この動画は珍しく、直江城州寄りですね。上杉ファンとしては、うれしかったです。
吉良親実とは、かなりマニアックな武将の紹介、ありがとうございます✨親直の謀略によって、切腹せざるを得ない事になり、慕っていた家臣共々、恨みを抱いてお亡くなりになってしまい、それが七人ミサキとして、永遠と恨みが続いている、と言う事ですね😢
天地人では、フィクションというかifとして晩年兼続と政宗が認め合うシーンがあるのよね
26:15この動画では信長は義昭に仕える気はなかったとか言ってるけど、最近の研究では義昭を支えて足利幕府を盛り立てるつもりだったことが分かっている
結局義昭から将軍職を取り上げない様に動いていたし、京から退去した義昭に代わって、信長はその息子を本人の代理として祭り上げていましたしね😊
信長はなぜ義昭を殺さなかったのだろう?「将軍殺し」の悪名を被るのが嫌だったのか、殺す価値もないと見做していたのか・・・・・そして明智光秀は本能寺の後、なぜ嘘でも「将軍義昭公の命により信長を誅殺した」と主張しなかったのだろう?信長憎しで凝り固まっている義昭ならその嘘を受け入れた可能性は高いし、少なくとも細川幽斎父子が味方する目はあったのに。
北九州市の者です。黒田家が細川に対抗心を燃やしていた影響で豊前と筑前の国境には支城がズラリと並んでますねー。それと地元の氏神様の神社(葛原神社)には大きな絵馬が有って細川の家紋の九曜紋が描かれていましたね。
加藤清正と小西行長、三成ではなく行長憎しで東軍に付いたとまで言われている
仲が悪い大名家として有名なのは仙台伊達家と芸州浅野家が挙げられます。両家は分家同士も仲が悪く、後の赤穂事件(1701年)の際にも赤穂浅野家と伊達家の分家筋が共に饗応役となり吉良上野介と関わった事が原因の一つとなり起こっています。
吉良家も元親の弟の家系だ
伊達と上杉が直接対決したのは、確か「北の関ケ原」の折だけ。この時、正宗が敗走したとは聞いていません。このためある作家は、兼続が「常に先頭に立って戦う、頼りになる正宗の背中」と、怒るに怒れない、一種の褒め殺しをした、と解釈しました。しかし、そうなると、伊達・上杉が駒を並べて共闘した、という事実があるのか、という疑問が出てきます。
立花宗茂と田中吉政正妻誾千代も仕送りをしていた庄屋達が処刑された直後から病にかかり、3ヶ月後に亡くなった記録がある。また亡くなった場所では井戸に身を投げて自殺した言い伝えがある。庄屋達だけでなく誾千代が命を落とすきっかけになったと恨んでいても不思議でないと思いました。話はズレますが誾千代が信仰していた太郎稲荷では、彼女が命と引き換えに御家復興を願った、とあり立花宗茂は菩提寺を建立するだけでなく、どの屋敷にも太郎稲荷を置いて祀っていました。江戸の屋敷にあった太郎稲荷もまだ残っていて地域の方に大切にされています。痕跡をたどると不仲とは思えない夫婦
田中吉政は石田三成とは古くから友達の間柄だったのに関ケ原の戦で自分の出世の為に三成を餌にしたのも豊臣家に忠義を貫いていた宗茂にとっては許しがたかっただろうと思う。秀吉死後豊臣家内部で石田三成が四面楚歌状態になっていたのを庇っていたのは同い年の真田信繫含めてこの3人だったから猶更。大谷吉継に関しては回し飲み等後世の創作っぽいので知らんけど。
@@もぶえじ 吉政死亡後。田中家は、潰されなかったが、2万石でどこかに飛ばされた。宗茂、元の領土に戻れました。
台東区入谷の太郎稲荷ですね
宗茂も浪人時代の苦労があって、丸くなって、誾千代のことがわかって許す気になったんだと思いますよ。誾千代は、宗茂が嫁ぐまでは、次期領主扱いでしたから。
@@douzujonn9402誾千代は立花家の再興を願いつつ田中家ゆるさん!斎戒沐浴を行なったのかも…。病死となってるけど無理な祈祷をして命を捧げたのかもしれません。
上杉謙信と北条氏政。謙信は氏政が大嫌い。信玄や氏康よりも、とにかく氏政のことが嫌い。一時は足利義昭に対して、あいつ(氏政)と組むくらいなら滅亡した方かマシだとまで伝えていた。
でも氏政の弟の景虎を、自分の養子に迎えているんだよな。坊主憎けりゃ袈裟までとはしない。それはそれ、これはこれと割り切るのが、謙信のいいとこか。
政宗奥州平定してませんよ。南奥州の大半は得ましたけど。北奥州の南部も津軽も従ってません。
2:49 江戸時代の中期以後ならいざ知らず、当時の価値観から言うとこの話はあり得ない話ですね。そもそも、米沢周辺に減封されるまで、佐渡島鉱山を始めとした金などで食っていた上杉家が、貴重な商品兼戦略物質を蔑ろは勿論のこと馬鹿に出来るはずがない😊
この動画、ちょいちょい間違えてますね。惣無事令の内容も
藤堂高虎と加藤嘉明は窮屈な東国を嫌った藤堂が嫌っていた加藤嘉明に押し付けたんじゃないかな?
あり得ますね。
寒いところが嫌だったのかも知れないw
伊達政宗と直江兼続のエピソードは江戸時代に書かれたフィクションだったと思う。
大体が常山紀談ですね作者の湯浅常山が大の上杉信者で上杉と対立した武田や伊達のアンチだったので基本直江age、政宗sageの話ばかり載せててぶっちゃけ信憑性皆無で笑
まぁ、織田信孝の辞世の句の一節に報いを待てや羽柴筑前とあるから相当信孝が秀吉を嫌っていた事がわかる。
伊達の後に米沢城の城主になったのは蒲生郷安ですよ。
花の慶次では伊達と直江は一緒に風呂にはいっていたけどな
さらに秀吉も入ってなかったっけ🤔🤔🤔
アレは何故か池田輝政がジジイだったりメチャクチャだけどね。嘘だらけの前田慶次の事績含めてあくまでファンタジーだから。
一夢庵慶次はほとんどフィクション 大枠だけ史実むしろ直江の婿養子の本多の史実の方がイカれてる
幸村は?
@@近藤ゴマシオ幸村は長渕剛
細川vs黒田は、年貢米の件さえなければ100年もいがみ合わなかっただろうに…隠居同士で話し合えばまるく収まった気がするけど、どちらも隠居にコンプレックス持ってるからどうしようもない。
源氏細川と薬屋からの成り上がりの黒田じゃソリが合わんのじゃね?
@@勇者ヒロユキ 細川も管領家ではないのでなんとも言えませんが、反りが合わないってのはあるかも知れません。如水と幽斎の知恵比べがあれば見てみたいです。
伊達政宗は蒲生氏郷や浅野長政とも不仲だったはず
伊達政宗は最初は浅野長政幸長親子と仲良かったんですけど、絶縁しましたね。長政に関してはほぼ言いがかり的な感じな書状出してwww
氏郷はまだしも浅野長政に関しては宇都宮の件もあり東国大名自体からあまり評判良くないのでこの人自身にも問題がある気がしますね代わりに取次になった石田三成は宇都宮にも伊達にも感謝されて協力的だったのとは対照的で
政宗が浅野嫌いな理由。1、奥州仕置きで浅野が伊達担当になる。2、伊達領内の金山に無茶なノルマを課す。3、ついでに賄賂も獲る。4、鉱山労働者たちがさすがにこれはあんまりだと訴えを起こす。5、不正してたのがバレたくない浅野が、政宗の煽動で一揆が起きたと虚偽報告。6、秀吉がキレて政宗を呼び出す。7、政宗が釈明のため、家臣を派遣。8、秀吉に真相を知られたくない浅野、自分の領地(甲斐)で使者を接待したいと言って、事実上幽閉しようとする。9、使者になった伊達家臣、浅野の本音を看破。夜陰にまぎれて逃亡。10、伊達家臣、秀吉の前で政宗を弁護。無罪を勝ち取る。11、政宗、家臣の働きに感動。そして浅野絶対許さないマンになる。
池田輝政と福島正則黒田長政と蜂須賀家政石田三成と加藤清正伊達政宗と佐竹義重
清正は名前上げるなら小西行長だけどね
佐竹義重、義宣と伊達政宗は義理とは言え叔父と甥、従兄弟のあいだがらなのに。(義重の妻で息子義宣の母は政宗の叔母)
@@義和菊池 奥州の豪族大名とかは元を辿れば奥州藤原の血流最上も政宗の母の実家だけど仲が良かったとは言えない
黒田長政と細川忠興犬猿でしたが、父親同士 細川藤孝と黒田官兵衛二人は、どうだったのか?
逆にお互い仲が良い武将の紹介はありますか?
司馬遼太郎の関ヶ原見た限りだと石田と直江と大谷刑部…当時友情という概念がなかっとか言ってたけど
ありがとうございます。
@@たろう-d4oそれ小説笑笑
蒲生氏郷と伊達政宗も犬猿の仲だし、政宗は敵が多いねえ(笑)
秀吉勝家が1番有名かな
神君家康と、今川の孕石さんちょっと鷹狩りの鷹が人の家の屋根を再三糞まみれにするだけでクレームを入れるなんて絶対許さない…いつか恨みを晴らしてやる
長尾と武田はなぁ…。海を求める武田と越後の安全を維持しようとする長尾の戦いは、そりゃ過酷になるさね。
敵に塩を送る、なんてのも、その一事に多くの意味が込められてるってのがよくわかる。
武田信玄は甲斐・信濃・駿河辺を手に入れてるが、上杉謙信は越後一国のみ、大名としての力量は武田信玄のが数段上ですわ
謙信は手取川まで軍進めてる、この時点で越中、加賀、能登まで傘下に収めてね?
天下人が作ったものを不浄だなんて言えるわけないだろ。まあ政宗のパフォーマンスには色々な武将が眉をひそめていたらしいから嫌味を言ったのを誇張されたのだろう。
第一、佐渡島金山(奥州転封後も佐渡は上杉領)も含め金は上杉家の主力商品なんですがね😅
14:52日本語おかしくない?意味わからん
29:50??!信長がショック?
奴隷売買の疑いのある謙信が正義漢のわけない。
戦するにも銭がかかるからなぁまぁ確かに謙信が聖将な扱いは???だがw
聖将かどうかはともかく、他所の大名達も大阪の陣までやっていたのは事実なので、その点で謙信を責めるのは筋違い。あくまでも、当時の常識に載って行動していただけ。後は、奴隷になるって言うのはあくまでも、身代金支払いや捕虜交換等に炙れた場合のみ。ましてや、支払いが終われば基本解放された。
時代背景的に加藤嘉明と藤堂高虎の不仲を聞いたのは徳川家光ではなく徳川家康が正解。加藤家は秀忠の頃には解役状態の筈だが
改易
加藤嘉明系統は細々としながらも、大減封にも耐え、水口藩主として譜代名扱いになり若年寄りを輩出するなどある程度盛り返しています。加藤光泰系統も伊予大洲藩の中堅大名として同じく存続。
政宗君二度出て来たねw
今では清須会議では重臣一同が「跡継ぎは三法師様で決定、信雄様・信孝様が後見、織田家の分配どうしよう?」の会だったと聞いたことがあるな
伊達政宗と仲が悪いのは佐竹義宣でしょ。
親父も戦場で直接やり合ってるし、なんせ蘆名の当主になった佐竹の息子は伊達に負けて這う這うの体で常陸に逃げ帰ってる
従兄弟同士なのにねえ。一説には義宣母が息子より甥っ子政宗を誉めていて比較していたらしいから嫉妬かな。
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大判ポンポン事件って 「政宗きったねーエンガチョ」 じゃなくて貴穀賤金ってことでしょ
黒田君さぁ…もうちょっとパパの柔軟性取り入れようよ…
伊達と浅野
真田と仙石
津軽と南部
黒田と蜂須賀
藤堂高虎はいい人らしかったね
高禄で他家に引き抜かれた家臣が居心地が良いからと戻ってきたり、危篤の家康が会いたがったりと人当たりが良かったんだろうな
藤堂高虎と親しい間柄は加藤清正、蒲生氏郷、天海、本多正信
真の1位は伊達政宗と浅野長政だろ
仙台藩伊達家と広島藩浅野家が20世紀まで絶縁状態だったどころ、伊達の子孫の土井利位と浅野の子孫の水野忠邦が政敵同士だったから、遺伝子レベルで反りが合わなかったとしか
仙台伊達家から出て行った国分(後に伊達)盛重を迎えたのが秋田藩佐竹家とかある
田中吉政と立花宗茂との不仲については、柳川に田中家の菩提寺がちゃんと残っていたり、その後の立花家に至るまで田中道沿いにある吉政顕彰する神社等も禁じていないところをみると、本当に嫌っていたのかは疑わしい気もします。筑後国のインフラが吉政治世の8年間に一気に整備されたこともあって、下手に対応すると旧主田中家への評価が反藩政の芯になりかねないので適当なところに抑える必要があったんじゃないかと。肥後の細川氏が清正公を祀り上げて細川家にとって無害な存在にしたのと方向は逆ですが、同じようなところがあるんじゃないかと思います。
ちなみに柳川には田中吉政の銅像は立っていますが、立花宗茂の銅像は一つもありません。御花とか三柱神社とかにはあっても良さそうなんだけど…(ちなみに「宗茂と誾千代」大河ドラマ化希望の幟やポスターなら、町中の至る所にあります)
毛利秀元と吉川広家は毛利輝元の従兄弟だと思うのですが、(毛利秀元は一時期輝元の養子になってますが)
あんまり直江寄りにするともうずんだ餅食わせないぞ
確か伊達政宗は、浅野長政 蒲生氏郷 直江兼続 佐竹義宣 加藤清正 犬猿でしたよね 細川忠興とは気が合ったエピソードあります。
そう言えば、この動画は珍しく、直江城州寄りですね。上杉ファンとしては、うれしかったです。
吉良親実とは、かなりマニアックな武将の紹介、ありがとうございます✨親直の謀略によって、切腹せざるを得ない事になり、慕っていた家臣共々、恨みを抱いてお亡くなりになってしまい、それが七人ミサキとして、永遠と恨みが続いている、と言う事ですね😢
天地人では、フィクションというかifとして晩年兼続と政宗が認め合うシーンがあるのよね
26:15
この動画では信長は義昭に仕える気はなかったとか言ってるけど、
最近の研究では義昭を支えて足利幕府を盛り立てるつもりだったことが分かっている
結局義昭から将軍職を取り上げない様に動いていたし、京から退去した義昭に代わって、信長はその息子を本人の代理として祭り上げていましたしね😊
信長はなぜ義昭を殺さなかったのだろう?
「将軍殺し」の悪名を被るのが嫌だったのか、殺す価値もないと見做していたのか・・・・・
そして明智光秀は本能寺の後、なぜ嘘でも「将軍義昭公の命により信長を誅殺した」と主張しなかったのだろう?
信長憎しで凝り固まっている義昭ならその嘘を受け入れた可能性は高いし、少なくとも細川幽斎父子が味方する目はあったのに。
北九州市の者です。
黒田家が細川に対抗心を燃やしていた影響で豊前と筑前の国境には支城がズラリと並んでますねー。
それと地元の氏神様の神社(葛原神社)には大きな絵馬が有って細川の家紋の九曜紋が描かれていましたね。
加藤清正と小西行長、三成ではなく行長憎しで東軍に付いたとまで言われている
仲が悪い大名家として有名なのは仙台伊達家と芸州浅野家が挙げられます。
両家は分家同士も仲が悪く、後の赤穂事件(1701年)の際にも赤穂浅野家と伊達家の分家筋が共に饗応役となり吉良上野介と関わった事が原因の一つとなり起こっています。
吉良家も元親の弟の家系だ
伊達と上杉が直接対決したのは、確か「北の関ケ原」の折だけ。この時、正宗が敗走したとは聞いていません。このためある作家は、兼続が「常に先頭に立って戦う、頼りになる正宗の背中」と、怒るに怒れない、一種の褒め殺しをした、と解釈しました。しかし、そうなると、伊達・上杉が駒を並べて共闘した、という事実があるのか、という疑問が出てきます。
立花宗茂と田中吉政
正妻誾千代も仕送りをしていた庄屋達が処刑された直後から病にかかり、3ヶ月後に亡くなった記録がある。
また亡くなった場所では井戸に身を投げて自殺した言い伝えがある。
庄屋達だけでなく誾千代が命を落とすきっかけになったと恨んでいても不思議でないと思いました。
話はズレますが
誾千代が信仰していた太郎稲荷では、彼女が命と引き換えに御家復興を願った、とあり立花宗茂は菩提寺を建立するだけでなく、どの屋敷にも太郎稲荷を置いて祀っていました。
江戸の屋敷にあった太郎稲荷もまだ残っていて地域の方に大切にされています。
痕跡をたどると不仲とは思えない夫婦
田中吉政は石田三成とは古くから友達の間柄だったのに関ケ原の戦で自分の出世の為に三成を餌にしたのも豊臣家に忠義を貫いていた宗茂にとっては許しがたかっただろうと思う。秀吉死後豊臣家内部で石田三成が四面楚歌状態になっていたのを庇っていたのは同い年の真田信繫含めてこの3人だったから猶更。大谷吉継に関しては回し飲み等後世の創作っぽいので知らんけど。
@@もぶえじ 吉政死亡後。田中家は、潰されなかったが、2万石でどこかに飛ばされた。宗茂、元の領土に戻れました。
台東区入谷の太郎稲荷ですね
宗茂も浪人時代の苦労があって、丸くなって、誾千代のことがわかって許す気になったんだと思いますよ。誾千代は、宗茂が嫁ぐまでは、次期領主扱いでしたから。
@@douzujonn9402
誾千代は立花家の再興を願いつつ田中家ゆるさん!斎戒沐浴を行なったのかも…。病死となってるけど無理な祈祷をして命を捧げたのかもしれません。
上杉謙信と北条氏政。謙信は氏政が大嫌い。信玄や氏康よりも、とにかく氏政のことが嫌い。一時は足利義昭に対して、あいつ(氏政)と組むくらいなら滅亡した方かマシだとまで伝えていた。
でも氏政の弟の景虎を、自分の養子に迎えているんだよな。坊主憎けりゃ袈裟までとはしない。それはそれ、これはこれと割り切るのが、謙信のいいとこか。
政宗奥州平定してませんよ。南奥州の大半は得ましたけど。北奥州の南部も津軽も従ってません。
2:49
江戸時代の中期以後ならいざ知らず、当時の価値観から言うとこの話はあり得ない話ですね。
そもそも、米沢周辺に減封されるまで、佐渡島鉱山を始めとした金などで食っていた上杉家が、貴重な商品兼戦略物質を蔑ろは勿論のこと馬鹿に出来るはずがない😊
この動画、ちょいちょい間違えてますね。
惣無事令の内容も
藤堂高虎と加藤嘉明は窮屈な東国を嫌った藤堂が嫌っていた加藤嘉明に押し付けたんじゃないかな?
あり得ますね。
寒いところが嫌だったのかも知れないw
伊達政宗と直江兼続のエピソードは江戸時代に書かれたフィクションだったと思う。
大体が常山紀談ですね
作者の湯浅常山が大の上杉信者で上杉と対立した武田や伊達のアンチだったので基本直江age、政宗sageの話ばかり載せててぶっちゃけ信憑性皆無で笑
まぁ、織田信孝の辞世の句の一節に報いを待てや羽柴筑前とあるから相当信孝が秀吉を嫌っていた事がわかる。
伊達の後に米沢城の城主になったのは蒲生郷安ですよ。
花の慶次では伊達と直江は一緒に風呂にはいっていたけどな
さらに秀吉も入ってなかったっけ🤔🤔🤔
アレは何故か池田輝政がジジイだったりメチャクチャだけどね。
嘘だらけの前田慶次の事績含めてあくまでファンタジーだから。
一夢庵慶次はほとんどフィクション 大枠だけ史実
むしろ直江の婿養子の本多の史実の方がイカれてる
幸村は?
@@近藤ゴマシオ幸村は長渕剛
細川vs黒田は、年貢米の件さえなければ100年もいがみ合わなかっただろうに…隠居同士で話し合えばまるく収まった気がするけど、どちらも隠居にコンプレックス持ってるからどうしようもない。
源氏細川と薬屋からの成り上がりの黒田じゃソリが合わんのじゃね?
@@勇者ヒロユキ 細川も管領家ではないのでなんとも言えませんが、反りが合わないってのはあるかも知れません。
如水と幽斎の知恵比べがあれば見てみたいです。
伊達政宗は蒲生氏郷や浅野長政とも不仲だったはず
伊達政宗は最初は浅野長政幸長親子と仲良かったんですけど、絶縁しましたね。長政に関してはほぼ言いがかり的な感じな書状出してwww
氏郷はまだしも浅野長政に関しては
宇都宮の件もあり東国大名自体からあまり評判良くないのでこの人自身にも問題がある気がしますね
代わりに取次になった石田三成は宇都宮にも伊達にも感謝されて協力的だったのとは対照的で
政宗が浅野嫌いな理由。
1、奥州仕置きで浅野が伊達担当になる。
2、伊達領内の金山に無茶なノルマを課す。
3、ついでに賄賂も獲る。
4、鉱山労働者たちがさすがにこれはあんまりだと訴えを起こす。
5、不正してたのがバレたくない浅野が、政宗の煽動で一揆が起きたと虚偽報告。
6、秀吉がキレて政宗を呼び出す。
7、政宗が釈明のため、家臣を派遣。
8、秀吉に真相を知られたくない浅野、自分の領地(甲斐)で使者を接待したいと言って、事実上幽閉しようとする。
9、使者になった伊達家臣、浅野の本音を看破。夜陰にまぎれて逃亡。
10、伊達家臣、秀吉の前で政宗を弁護。無罪を勝ち取る。
11、政宗、家臣の働きに感動。そして浅野絶対許さないマンになる。
池田輝政と福島正則
黒田長政と蜂須賀家政
石田三成と加藤清正
伊達政宗と佐竹義重
清正は名前上げるなら小西行長だけどね
佐竹義重、義宣と伊達政宗は義理とは言え叔父と甥、従兄弟のあいだがらなのに。(義重の妻で息子義宣の母は政宗の叔母)
@@義和菊池
奥州の豪族大名とかは元を辿れば奥州藤原の血流
最上も政宗の母の実家だけど仲が良かったとは言えない
黒田長政と細川忠興犬猿でしたが、父親同士 細川藤孝と黒田官兵衛二人は、どうだったのか?
逆にお互い仲が良い武将の紹介はありますか?
司馬遼太郎の関ヶ原見た限りだと石田と直江と大谷刑部…
当時友情という概念がなかっとか言ってたけど
ありがとうございます。
@@たろう-d4o
それ小説笑笑
蒲生氏郷と伊達政宗も犬猿の仲だし、政宗は敵が多いねえ(笑)
秀吉勝家が1番有名かな
神君家康と、今川の孕石さん
ちょっと鷹狩りの鷹が人の家の屋根を再三糞まみれにするだけでクレームを入れるなんて絶対許さない…いつか恨みを晴らしてやる
長尾と武田はなぁ…。
海を求める武田と越後の安全を維持しようとする長尾の戦いは、そりゃ過酷になるさね。
敵に塩を送る、なんてのも、その一事に多くの意味が込められてるってのがよくわかる。
武田信玄は甲斐・信濃・駿河辺を手に入れてるが、上杉謙信は越後一国のみ、大名としての力量は武田信玄のが数段上ですわ
謙信は手取川まで軍進めてる、この時点で越中、加賀、能登まで傘下に収めてね?
天下人が作ったものを不浄だなんて言えるわけないだろ。まあ政宗のパフォーマンスには色々な武将が眉をひそめていたらしいから嫌味を言ったのを誇張されたのだろう。
第一、佐渡島金山(奥州転封後も佐渡は上杉領)も含め金は上杉家の主力商品なんですがね😅
14:52日本語おかしくない?意味わからん
29:50??!信長がショック?
奴隷売買の疑いのある謙信が正義漢のわけない。
戦するにも銭がかかるからなぁ
まぁ確かに謙信が聖将な扱いは???だがw
聖将かどうかはともかく、他所の大名達も大阪の陣までやっていたのは事実なので、その点で謙信を責めるのは筋違い。
あくまでも、当時の常識に載って行動していただけ。
後は、奴隷になるって言うのはあくまでも、身代金支払いや捕虜交換等に炙れた場合のみ。
ましてや、支払いが終われば基本解放された。
時代背景的に加藤嘉明と藤堂高虎の不仲を聞いたのは徳川家光ではなく徳川家康が正解。
加藤家は秀忠の頃には解役状態の筈だが
改易
加藤嘉明系統は細々としながらも、大減封にも耐え、水口藩主として譜代名扱いになり若年寄りを輩出するなどある程度盛り返しています。
加藤光泰系統も伊予大洲藩の中堅大名として同じく存続。
政宗君二度出て来たねw
今では清須会議では重臣一同が「跡継ぎは三法師様で決定、信雄様・信孝様が後見、織田家の分配どうしよう?」
の会だったと聞いたことがあるな
伊達政宗と仲が悪いのは佐竹義宣でしょ。
親父も戦場で直接やり合ってるし、
なんせ蘆名の当主になった佐竹の息子は伊達に負けて這う這うの体で常陸に逃げ帰ってる
従兄弟同士なのにねえ。一説には義宣母が息子より甥っ子政宗を誉めていて比較していたらしいから嫉妬かな。
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大判ポンポン事件って 「政宗きったねーエンガチョ」 じゃなくて貴穀賤金ってことでしょ