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テラ銭チャンネルの方、いつも楽しく拝見させていただいています。63歳の男性です。どれも素晴らしい作品で。大変感銘を受けています。詳細にに調べていただいた知識を、YOU TUBEという道具を駆使して、何十万人、何百万人という人々に公開してくださり、本当にありがとうございます。これらの動画によって、日本の重要な歴史に興味を持った方がどれほどいることか...。 そして、動画中で、UP主の方が、ご自身「引きこもり」と示唆するセリフもありますが、それが事実であってもなくても、素晴らしい才能と努力がないが限り、これらの素晴らし歴史解説動画を作成するのは困難だと思います。あなたの努力して作成した動画は間違いなく多くの人々の多大な利益になっています。これからも素晴らしい動画、楽しみにしています。どうかお体をお大事に頑張ってくださいね。いつも応援しています。藤平勝彦
はぬねかきかかぬなくけににのなのなけせ
動画一本の視聴で、数冊の歴史書に相当する知識を吸収可能。学校の教材になったら、下手な教師が裸足で逃げ出しそうな内容です。膨大な情報を面白おかしく、コンパクトにまとめる編集手腕も神業的。本作により、徳川家康と江戸幕府の偉大な歴史的功績を再認識しました。今後も、楽しくタメになる番組を楽しみにしております。肺炎禍が世界を暗くする昨今、お体にお気をつけて。
小売り、流通系の仕事は自粛期間も大忙しでた。インフラが整備されているからこそライフラインが維持できているというのは、今も昔も変わらない
現在の長距離リレー🏃の『駅伝』もこの駅伝(5:45~)が起源らしいですね子供のころすっと「駅伝て電車🚃関係ないやん!」と思っていたのは懐かしい思い出笑笑
いやぁホント勉強になる。ひとりで歴史秘話ヒストリア作成してるような感じですよね。すごいです主さま。
本当に凄い時代馬喰町って凄い名前と思ってたらこう言う由来だったのね飛脚も取り上げて頂きありがとうございます。佐川急便の昔のロゴマークって確か飛脚の絵でしたよね
創業者佐川清のロゴであります!京都と大阪を往復していたのであります!今は飛脚のロゴは創業者に返納したのであります。そして今のロゴギャラクシーになったであります
「楽しいのは 選ぶときと 届くまで」名言ですね。こういうところも気が利いてて面白いです
マジで家のチャイムが鳴ったのかと思ったw
大変勉強になりました。動画作成は大変だと思いますががんばってください!
江戸時代でも結構物流システムが構築されてたのが面白いですね江戸時代の物流システムどういう風に現代の物流システムに置き換わったのかも興味があります
「江戸から平成まで ロジスティクスの歴史物語 苦瀬博仁 著」という本がおすすめです。この本によると船の航路を決めると同時に、灯台の整備、乗組員の教育、物資が破損をした時の保険など、ハードだけでなくソフトの面も整備されたようです。他にも物流の概要がわかりやすく載っていますが、現代人が物事を考える時の基本的な枠組みは江戸時代を手本にしていることが良くわかりました。
毎回こんなに長くて凝った動画作るの大変だろうな…お疲れ様です!
マジで野生のNHKだわこのチャンネル。いつもありがとうございます。
野生のNHKはワロタ
野生のnhkが現れた!
野良NHKは草
めっちゃ経験値くれる
きめ細かな解説、恐れ入ります。ほんとに勉強になりました。
回船の寄港地は、船員向けの色街としても栄えていたよね今ではすっかり寂れた瀬戸内の島に、かつて大規模な歓楽街が存在したのも、現代人からすると違和感あるけど交通網からすれば納得だ
幕末の写真を見ていても、街道を含めた風景がとても綺麗であることに感嘆します。幕府がどれだけ人やモノの移動を重視していたかがわかります。良い動画でした。次回は明治維新で廃業した元・侍たちをテーマにしてほしいです。今コロナで売り上げが落ちて苦しんでいる人たちと状況が似ているのでお願いします。
江戸時代の日本は藩(諸侯)により分割して統治されていたのに明治以降統一近代国家として日本が再建国していく過程があれほどスムーズに運んだのも政治的統一より以前にこういった『経済的統一(飛脚制度・米流通の全国規模での効率化・各地方特産物の大都市への流通システムの確立)』が江戸時代にすでに下地としてあったからなんですよね
テイクオフ理論でしたっけ発展途上国が日本に視察に来て日本はバックグラウンドが違い過ぎるwって呆れ返ったとか何とか
いつも楽しく視聴させております。この時期、医療や物流に従事されている方々には感謝しかありませんです。
こういう時期だから良い題材ですな。
江差の春は江戸にも無い、とまで言われてたとか。特に春は鰊が産卵の為寄ってきて「群来」と呼ばれたほど。そこで取れたニシンカスがこの当時重宝されていたのは過去動画でご紹介された通り。因みに近年、長らく絶えていた群来がやってくるようになったとのこと、漁業関係者の努力が実を結んだようで。
江戸時代の海運といえば菜の花の沖が思い出されますね。買い積みで一介の水主から日本を代表する船主となった主人公の物語はとても痛快です😄
国鉄時代の五方面作戦と五街道は字は似てるけど、鉄道の方は”常磐方“と”総武方面“が加わったんだな。
出身が新潟なのですが北前船が新潟に与えた影響は大きいですね。新潟は醤油文化の強い県で日本酒の消費量も日本一です。そのどちらも北前船でもたらされたものですからね。明治期の人口調査でも上位に入ってましたし、当時は相当栄えていたんですね。
私も出身地が新潟(上越)ですが、北前船の影響はでかいですね。故郷の地名がアイヌ語が語源だという説もあるくらい、北前船の影響があったそうです。あと上越地区で飢饉になった時、酒田の豪商からコメを援助してもらったという「米大舟」という伝説があります。
この動画は戦国武将ばかりしか扱わないチャンネルよりもためになりますネタの使い回ししませんし。
当時、外国人(ハリスだったかなぁ)が飛脚や駕籠かきの体力と脚力を不思議がって、食べ物を肉類中心にしたら更に凄くなるんじゃないかって実験したら、肉食役だった飛脚と駕籠かきから「もうヤダご飯戻して!疲れすぎて走れません!」って言われて更に驚愕したって話が好き。
わかる
しかしながら現代のスポーツみるとそう言う生活はだめらしいから時代の流れなんよ
有名な話ですよね。あのカール・ルイス(分かる若い人いるかな?)もビーガンで当時の数々の世界記録を打ち立てましたしね。菜食は肉食より体力の維持を作りますからね(当の私も26年菜食を続けています)。
いや、面白い。陸路、海運。物流は生命線、本当に血液の流れですね。今私らが生きていけるのもご先祖様のレガシーあればこそ、って思いです。うp有難う。
北前船と廻船業、廻船問屋については(小説だけど)司馬遼太郎の『菜の花の沖』が詳しくて面白いですよ!
旧街道を歩くのが趣味の一つ海運も含めて観察するようにします
最近うp主の動画を聞きながら通勤するのがマイブームなんかね、歴史の授業があんなに嫌だったのにこのシリーズで歴史と日本が好きになったよ。
いつも楽しみに視聴させていただいています。動画内で紹介された「殿、利息でござる」見てきました。めちゃくちゃ面白かったです。今回みたいに動画の中でさらっと時代モノのいい感じのやつ紹介していただけると嬉しいです。あと、一見へんなコメディの時代モノが実はよく時代考証されてる、みたいな映画レビュー動画とかもしてみません??
飛脚というとインカ帝国のインカ飛脚も有名ですね。こちらはもっぱら伝令役だったらしいですが。 インカ帝国には馬と車輪が無かったので当然徒歩になりますが、山がちな国土でそもそも単独でマラソンのような長距離走破が可能な生き物は人間ぐらいなので、どの道やはり人間が走ったでしょうね。・ 弁才船は「べざいせん」と呼びますが、語源はいまいちわかっていないそうです。 この種の船は積載量第一であり、このため西洋船や中国のジャンク船にあるような水密甲板がなく、丼のような構造でした。幕府が航洋船を嫌ったため、という説もありますが、廻船問屋自身が好んだ事も大きいですね。 また転覆するような事があれば、その原因は船乗りの技量不足である、と言った船頭たちの自負もありました。 帆が一枚しかないために原始的な船のように見られがちですが、帆が一枚だけなのはそれだけ多く風を受けられる事を意味し、それに一本帆柱で一本帆桁は操作が効率的。人員が少なくて済むメリットもありました。(速力を増す必要がある時は補助的な小さな帆を立てる事もありました。新綿番船や新酒番船といった、その年の初物商品を江戸に送る船のレースがあり、こういう催しが船の高速化に拍車をかけました。同様のレースは英国のティー・クリッパーつまり茶葉を運ぶ高速帆船などにもあり、クリッパー船は最盛期には14㌩以上で走った船まで登場しました) マストが一本なので帆桁の可動範囲も広く、それだけ風上に間切る能力も高かった、といわれています。 研究によれば、弁才船の間切り能力は現代の海王丸(バーク型帆船)より高かった、とわかっています。・ 独特の構造と未発達な航海術のため海難事故が多かったのは確かですが、独自に高度に発達した面もありました。
反論❗1枚帆は江戸幕府の政策です。車で言うと単気筒制限❗コントロールし辛く、難破を増やしました。
@@ウズラ-x3j 寛永10年(1633年)からの海外渡航禁止令は存じておりますよ。江戸幕府による鎖国政策は小学校で習いますからね。「幕府が航洋船を嫌ったため」という件は暗にそれを指しています。 そもそも帆柱の本数と帆の枚数・サイズについて明確な規定はありませんでした。残ってもいません。 藩によっては密貿易も盛んで、その辺りは「山吹色のお菓子」で割とゆるゆるだったんでしょう。 普通に考えれば、小さな帆をたくさん並べるより大きな帆を一枚張った方が効率的ですよね? 帆は通常ならアスペクト比が大きいものほど風を多く受けられます。 残された絵や復元された船を見てください。千石船の帆も西洋船に見劣りしないほど大きいですから。 洋式の大型帆船はあのように複数の帆を並べて張るより他無かったんですよ。 「番船」レースの時に増速用に臨時の帆(弥帆)を設ける事は先にも触れました。 また海難事故の多さは帆装ではなく、水密甲板が無い、舵が大きすぎて脆弱など、特異な船体構造が原因であったケースが多いかと思います。丼みたいな船の形を見ただけでも外洋向けではありませんしね。 さらに弁才船は常に過積載傾向であり、これも事故の多発につながりました。 どんな帆船でも暴風雨の時は帆を折り畳んでやり過ごす事も多かったのですが、嵐に遭えば帆の大きさも形も関係ありません。むしろ人手がかからない一枚帆の方が畳みやすかったでしょうね。
お疲れ様です。江戸時代の剣客のお話をお願いします。
政治・文化・庶民生活……確かに江戸時代は,奈良・平安などに比べたら文献も多いのかもしれないけど,それでもこれだけのクオリティのものを,これだけの多方面から作れるのはすごいです。UP主様には,本当に感謝です。江戸時代よ終わるな!大政奉還を見たくない,という気持ちがどんどん増してきます。
江戸の充実した歴史解説を有難うございました❣️この様なワクワクする江戸で何か役に立つ仕事をしてみたい‼︎と思ったりしました。世界一進化し続ける国🇯🇵日本‼️でも、戦後尽く米国に潰されています。
自分を江戸時代にワープさせてイメージを作りながら拝見致しました。久し振りに時代劇の映画を観たくなりました。楽しかったです‼︎
そっかぁ!家康が江戸に入った時はある程度の都市に成ってたのかぁ!ネット動画で次々と歴史認識が変わって行くなぁ。小説が脚色し過ぎて酷い事が解って来ちゃうのは残念だけど、新しい事を知ると何だか得した気分に成るなぁ。
本当amazonさんの梱包箱って中身と比べて大きすぎるんですよね。「何たのんだっけ?」って箱を開けてびっくりする時がありますよね😂
文庫本1冊注文して、160サイズの段ボール箱で届いた時はどうしようかと思いました。宅急便コンパクトでも入るやん(´ー`)
蝦夷で獲れた昆布は琉球まで行く様になり沖縄では今も昆布の消費量が日本でトップクラスです。
沖縄で昆布が流通するようになったのには薩摩の調所広郷が藩の財政再建のために琉球貿易を盛んに行い蝦夷地の昆布が大量に琉球に集まるようになった事、またその財政再建のお蔭で薩摩の軍事力が強化され維新が実現した、という説を読んだことがあります。
『バクロ』を『馬で食べてる人』と素敵な解釈ありがとうございます(・ω・)ノ結構、『馬を喰らふ人』って蔑称だったりするので嬉しいです。by名も無き家畜商
駄馬の語源は初耳でしたこの動画は為になるなぁ
大井川をはじめとする橋の無い大河ですが、「大水の際、中途半端な橋は水をせき止めて、被害を拡大する」という問題がありました。こういった江戸時代の交通があってこそ、明治時代に蒸気機関車による鉄道、蒸気船を受け入れて発展することができたのですね。
今回に限りませんが、都会の地名の由来面白いですね。
駅伝の言葉の由来ってここからなのかな。すげー。
新潟には北前船の引札(チラシ)が残ったいるそうで、各寄港地の地名や商品が載っているものあるそうです。
上手くまとめましたね。下手な日本史の授業1時間より、ずっと内容が細やかです。改めて、勉強させていただきました(^^ゞ。出来れば、大塩平八郎の乱や、郡上一揆など、太平な時代を揺るがせた、民衆蜂起の話も、解説してみて欲しいですね。どんな切り口で来るか、楽しみにしてます(*^^*)
当時の菱垣廻船はだいたい1隻千両で建造でき、1年1航海で千両稼げた。一年で初期投資分を回収し、二年目からは船が壊れたりナンパしたりしない限り毎年千両ずつ儲けが出るんで、海運業はかなり儲かったらしい(´・ω・`)
航路は物資だけではなく文化も運んでいるみたいだね、よく祭りで起源は北前船で京都の~というような話をよく聞くし、青森のねぶた祭りや弘前のねぷた祭りでよく見る金魚ねぶたが山口県にも似たようなものがあり、北前船で伝えられたみたい。
鎖国してた江戸時代こそがあらゆる分野で日本文化の最盛期だったのも納得。物語や絵画、思想哲学も最も華やいでいたと聞きます。
クロスカブでノロノロキャンプツーリングしますが、旧街道歩くと昔の町並みや宿場の名残りや石碑、一里塚碑があったりして中々コアな楽しさがあります。街道の枝道、往還等も有りそれを抑える城跡も歴史散策に面白いです。大体こうした旧街道には造り酒屋や地場産品もあったりします。
新潟や山形のエゴノリが、途中の県ではあまり食べられていないのに、九州でおきゅうと(お救人)として昔から大変食べられている、と言うのも、この北前船の航路と買い積みと言うシステムからして納得です
飛脚と聞くと佐川急便のロゴを思い出します。私が子供の頃飛脚のフンドシに触ると良いことがあるという変なウワサがありました。飛脚のあのデザインは私は好きでした。
佐川トラックが飛脚ではなくなったのは、子供が触ろうとして事故になることがあったからだという理由も1つにあるみたいですね。
そうだよなぁ国民のほとんどがイメージする貧しい農民じゃ江戸時代すぐ終わってただろうし、当時は当時でそれなりに豊かだったんだろうなぁ
今現在の「豊かさ」とは、ベクトルが違うんでしょうなぁ🎵(笑)
チャイムが自宅と同じでビックリしました。
平和が文化と文明を発展させる。260年も戦争らしい戦争をしなかった政策は凄い。今は70年戦争らしい戦争をしていないけれど、なんかキナ臭い世の中に向いている感じがする。経済が発展すると平和も発展する様に思う。
よく江戸時代の海運は南蛮船のノウハウが無かったが故貧弱だったと言われがちですけど、廻船のスペックを調べてみたら結構性能がいい処か建造費も西洋の船の半分位だとか。鎖国に至るまでに南蛮船の竜骨に代表されるノウハウを吸収したハイブリット廻船の存在を妄想したくなりますw
そういえば琵琶湖を船か橋かを「急がば回れ」っていうんでしたっけ。
確か自分の記憶だと、東回り航路は東北方面から那珂川港まで、後に那珂川港から伊豆下田へ入り、風待ちして江戸へのルートで、那珂川港は大いに繁栄したけど、西回り航路に比べて、荷物量は少なかったと思います。その為、北回り航路の各港の賑わいは盛んで、東回り航路の港はいまいちだったとか。東回り航路の解説が無かったのが、ちょっと気になりました。疑問だけ残ってたように思います。
松前からのスルメが海路を通って相馬から塩の道を経て、福島を通過する時に長細い人参と出会い、いかにんじんとなった。たぶん福島で一番家庭に根付いている料理。江戸時代すげえな。
待ってました。
とても勉強になりました。由緒のある地名を意味不明な代物にするなど、役所の考えることは理解できません。
江戸時代と全然関係ない地名の話。福島大学は「受験生が願書を送るのにこんな長ったらしい住所じゃあ大変だろう。えい、変えてしまえ」という意味不明な理由で、昔統合で無くなってしまった村の名前、今や小学校、駅、郵便局にしか残っていなかった地名「金谷川」を復活させたのは素敵だと思った。近くにある医大は「光が丘」なんてくっそつまんない名前で丘1個丸々独立しやがったのが対照的だった。
板橋区中山道志村坂上には一里塚が残ってますね.ほとんど消えてしまった一里塚が多いので貴重らしい.
結果的に全てが繋がり明治維新と近代化に繋がっていったと思うと本当に歴史はずっと繋がってるんだなと思いました
インフラ企業で緊急事態下でも休み無く働いておりました解除されても特に休みもなく働いておりましたが、退勤時に解除され外に出てきた人間の車に撥ねられ仕事できなくなり休みになりました休みでも体痛くて何もできないし大変なだけで嬉しくないみんなお外出る時には注意してね
私の祖先は、出雲で北前船の船問屋を当時は手広くやっていたそうですが、明治になり、汽車の路線が出来てしまってから衰退してしまったそうです。
新宿線の馬喰横山駅の名前の由来はそういう意味だったのかすごい不思議な名前だったから由来が知れてスッキリした。
次回も楽しみ!!上杉鷹山
今回も楽しく見させてもらいました。航路、江戸、京都、大阪が出たので、追い追いで他の栄えた港等の紹介お願いします。又々、くれくれ君でごめんなさい。
地方が生産して都会が消費する社会は古代ローマにもありますね。いつか海外の例も作って欲しいです!
大正期まで使われた旗振り通信もやってほしい
懐かしい、中山道と甲州街道、東海道歩いたな
いつも楽しく勉強させてもらってます。江戸の文化というと、お伊勢参りがまだでしたら是非ともお願いします。あと、ゆっくり大江戸の再生リストに「ゆっくり大江戸 その58」が11個登録されてますね。なにか狙いがあってやってたらごめんなさい。
宿場が2~3里であるのは、人は一日に何宿か進めるけど怪我とかでリタイアすることもあるので、傳馬が無くても10里毎って訳にはいかなかったのでは?
話を逸らしてヌルッと本題に入る魔理沙w
9:28 旧東海道に名古屋が含まれていた?宮宿(熱田)と桑名宿の間は船中七里の海上移動が本筋で、宮から陸路移動で、名古屋、枇杷島、勝幡、津島、佐屋、長島を通って桑名へ至る佐屋道は脇街道だったはず。言うまでもなく木曾、養老、揖斐、の大河三川渡しを避ける目的です。ともあれ寺銭さんの歴史動画は、毎回楽しくチャンネル登録して視聴させて頂いています。次回以降の動画も楽しみにしています。
北海道や他の港湾も解説して欲しい
いままで観たゆっくり解説動画で一番面白く、勉強になりました! 学校の歴史の授業とかこんなだったらみんなもっと歴史に興味持って勉強してくれるのに^^
地味だが近江商人を生んだ琵琶湖上の輸送ルートも重要だったんだぜあと、今は知らないが世界初の先物取引市場も江戸時代だったような
江戸時代の運送を楽しく聞かせていただきました。旧東海道をストリートビューで追うほどにハマってしまいましたよ。この動画中に4:38あたりに流れているBGMの曲名が知りたいのですがお分りになる方おられればお教えいただけないでしょうか?
初コメ!待ってました
世界史なんかはどーでもいい国のことまで無駄に詳しくやるくせに、自分の国の近世は戦国武将の殺し合い、士農工商と一揆ばかりが強調されているのはなんでなんだろうな?
そりゃ、日本を貶める在日に支配されている日教組のせいだな。
伝馬制もかなり昔からあって、調べると面白いんだよね。
今でも急ぎじゃない郵便だと割引効くのがありますよ大体1週間くらい遅く到着しますけど・・・あと直に郵便局と契約しないといけないとかありますが・・・また、郵便だと相手に到着していないという案件があまりにも多いですが郵便だから仕方がないという風潮も今もあります。
江戸中期以降、檜垣や樽廻船がこれだけ一般化した割には、物でなく人間が江戸~上方を船で行き来した話があまり聞かれないのはなぜなんでしょうか?いくら廻船が身近になったとはいえ、乗るには恐ろしい乗り物、ってことだったのでしょうか。
肥後細川藩や薩摩島津藩なんかは参勤交代で九州から海路で大阪あたりまで移動してたはず。船団組んで参勤交代してた大名もいたはずよ。ただ、関東に直接船で乗りつけるのははばかられたらしく、途中で降りて陸路で江戸に入るけど
確かに「板子一枚下は地獄」と言われた危険性もあるとは思いますが、海での旅客船が基本的に行われていなかったと聞いたことがあります。
原則、旅行制限があったからでは?海上には関所はないし。
少し前の教育では江戸自体を暗黒とみていた感じが強かったよね。逆に光の部分もあるんだよね、こうした客観的見方が正しいと思う。
わかりやすい❤🎉❤
0:05 魔理沙は兜被ってんのに部屋の真ん中にちゃぶ台とか草
菜の花の沖、何度も読んだな。
インフラ系の現業技術部門は、テレワーク、何それ? おいしいの?状況ですわ。
役所もだお。庶務部門以外はそもそもpc持ち出し禁止だからなぁ
自分は製造業。流石に物を作るのにテレワークとはいかないからなぁ。
ありがとう
「樽廻船がスピードで菱垣回船を圧倒して・・・」的な説明に二つの船型にどんな差があったのか?と疑問が昔からあったけど、何ことはない樽詰めによるコンテナ船化で受注から出港までの期間が短かっただけなんですよね。そういえば菱垣回船の菱垣は「海難保険」に加入していた船の目印だったそうです。なので、安いは無保険なので安いというちょっと褒められない話です。そして、回船の話題では日本の島国としての条件は大昔から変わっていない上に縄文時代から日本のものが日本海沿岸各地で出土するのに航路が新規開発された扱いになっているのか? 決定的な本は読んでいないのですが、貨物を満載した船を海流に逆らって航行させる技術が一般化したからではないでしょうか。特に木綿の質が変わって帆の性能が格段に上がったからでは?
酒田から江戸へ米を運ぶのに陸路の数倍もの距離を海路で運んでいたわけで、いったいなんでこんな事をしていたのやらと中学生の頃に首をかしげたものです。しかし船舶輸送の効率に加え、政策的に道路整備や馬車が制限されていた状況では無理もないという事ですね。若狭湾から大坂へ運ぶルートなど、陸路よりはるばる下関を経由して船で運んだ方が安価で速かったというし、海運あっての物流だった事が良く判ります。
今晩は、よく拝見させて頂いております。大名編では、九州の柳川(柳河)藩を、やって下さいませ。
冒頭のチャイム音、うちのと同じだから、マジでビビった(笑)
最初のピンポンまじでびびったわwwwww
これは経済の法則を歴史の観点から見ても注目する話となる。なぜなら基本的に海外との貿易を限定し、外交を極めて絞るいわゆる「鎖国政策」を取っていたにも関わらず、貨幣経済が浸透し生産が剰余価値を生むという流れができていること。マルクスの理論が入ってきているわけではないのに社会の法則は封建制社会から資本主義社会に進む必然性が産まれていた。明治維新が割合短期間で進んだのもそこに理由がある。
追記確か中学で江戸時代は鎖国のため西欧に大きく遅れをとってしまったと教えられました。確かに科学の面では遅れたかも知れませんが当時、欧米は戦乱が多く庶民は大変な状況に比し日本は平和で文化も発展し世界でもまれな国でした。現在の教科書はどうなっているのでしょうか。
メモ📝😊お江戸の運送事情…陸海…
内需拡大の経済ですね😃
建前上「鎖国」していたんで、内需主導で経済を回すしかなかったんでしょうなぁ(笑)
千石船は一本マストで非常に危険な船だったんだよな。欧米の船みたいに小さいマストを複数つけて色んな方向からから風を受けられるように出来てなかった。だから強風になるとすぐ転覆するから、場合よってはマストを斧でへし折る必要があった。江戸幕府が大船の建造を禁止した弊害だな。
そして幕末になると外国から次々と大船がきて幕府は対処できなくなると
鎖国の前は日本人街が東南アジアにできてるから自力で海外にいけるだけの航海術はあったのに、それも途絶えてしまいましたからね。島国なので積極的に貿易にでたイギリスと違いある意味農業などで食べていけるだけの豊かさがあったからか・・・・・
マストが1本だったからではなくて重心が高かったからでしょ。マストが1本だけだったから転覆しやすかったというのなら、ヴァイキングはあんなに航海してませんよ(´・ω・`)
江戸時代は出前システムもめっちゃ発達してたって聞くね。
次回の上杉鷹山は質素倹約で藩を立て直した人物ですね。今の政治家や役人に学んで欲しいです。
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現在の長距離リレー🏃の『駅伝』もこの駅伝(5:45~)が起源らしいですね
子供のころすっと「駅伝て電車🚃関係ないやん!」と思っていたのは懐かしい思い出笑笑
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本当に凄い時代
馬喰町って凄い名前と思ってたら
こう言う由来だったのね
飛脚も取り上げて頂きありがとうございます。
佐川急便の昔のロゴマークって確か飛脚の絵でしたよね
創業者佐川清のロゴであります!京都と大阪を往復していたのであります!今は飛脚のロゴは創業者に返納したのであります。そして今のロゴギャラクシーになったであります
「楽しいのは 選ぶときと 届くまで」名言ですね。
こういうところも気が利いてて面白いです
マジで家のチャイムが鳴ったのかと思ったw
大変勉強になりました。
動画作成は大変だと思いますががんばってください!
江戸時代でも結構物流システムが構築されてたのが面白いですね
江戸時代の物流システムどういう風に現代の物流システムに置き換わったのかも興味があります
「江戸から平成まで ロジスティクスの歴史物語 苦瀬博仁 著」という本がおすすめです。
この本によると船の航路を決めると同時に、灯台の整備、乗組員の教育、物資が破損をした時の保険など、ハードだけでなくソフトの面も整備されたようです。
他にも物流の概要がわかりやすく載っていますが、現代人が物事を考える時の基本的な枠組みは江戸時代を手本にしていることが良くわかりました。
毎回こんなに長くて凝った動画作るの大変だろうな…
お疲れ様です!
マジで野生のNHKだわこのチャンネル。
いつもありがとうございます。
野生のNHKはワロタ
野生のnhkが現れた!
野良NHKは草
めっちゃ経験値くれる
きめ細かな解説、恐れ入ります。ほんとに勉強になりました。
回船の寄港地は、船員向けの色街としても栄えていたよね
今ではすっかり寂れた瀬戸内の島に、かつて大規模な歓楽街が存在したのも、現代人からすると違和感あるけど交通網からすれば納得だ
幕末の写真を見ていても、街道を含めた風景がとても綺麗であることに感嘆します。幕府がどれだけ人やモノの移動を重視していたかがわかります。
良い動画でした。
次回は明治維新で廃業した元・侍たちをテーマにしてほしいです。今コロナで売り上げが落ちて苦しんでいる人たちと状況が似ているのでお願いします。
江戸時代の日本は藩(諸侯)により分割して統治されていたのに
明治以降統一近代国家として日本が再建国していく過程があれほどスムーズに運んだのも
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こういう時期だから良い題材ですな。
江差の春は江戸にも無い、とまで言われてたとか。
特に春は鰊が産卵の為寄ってきて「群来」と呼ばれたほど。
そこで取れたニシンカスがこの当時重宝されていたのは過去動画でご紹介された通り。
因みに近年、長らく絶えていた群来がやってくるようになったとのこと、漁業関係者の努力が実を結んだようで。
江戸時代の海運といえば
菜の花の沖が思い出されますね。
買い積みで一介の水主から日本を代表する船主となった主人公の物語はとても痛快です😄
国鉄時代の五方面作戦と五街道は字は似てるけど、鉄道の方は”常磐方“と”総武方面“が加わったんだな。
出身が新潟なのですが北前船が新潟に与えた影響は大きいですね。新潟は醤油文化の強い県で日本酒の消費量も日本一です。そのどちらも北前船でもたらされたものですからね。明治期の人口調査でも上位に入ってましたし、当時は相当栄えていたんですね。
私も出身地が新潟(上越)ですが、北前船の影響はでかいですね。故郷の地名がアイヌ語が語源だという説もあるくらい、北前船の影響があったそうです。
あと上越地区で飢饉になった時、酒田の豪商からコメを援助してもらったという「米大舟」という伝説があります。
この動画は戦国武将ばかりしか扱わないチャンネルよりもためになります
ネタの使い回ししませんし。
当時、外国人(ハリスだったかなぁ)が飛脚や駕籠かきの体力と脚力を不思議がって、食べ物を肉類中心にしたら更に凄くなるんじゃないかって実験したら、肉食役だった飛脚と駕籠かきから「もうヤダご飯戻して!疲れすぎて走れません!」って言われて更に驚愕したって話が好き。
わかる
しかしながら現代のスポーツみるとそう言う生活はだめらしいから時代の流れなんよ
有名な話ですよね。
あのカール・ルイス(分かる若い人いるかな?)もビーガンで当時の数々の世界記録を打ち立てましたしね。
菜食は肉食より体力の維持を作りますからね(当の私も26年菜食を続けています)。
いや、面白い。陸路、海運。物流は生命線、本当に血液の流れですね。
今私らが生きていけるのもご先祖様のレガシーあればこそ、って思いです。うp有難う。
北前船と廻船業、廻船問屋については(小説だけど)司馬遼太郎の『菜の花の沖』が詳しくて面白いですよ!
旧街道を歩くのが趣味の一つ
海運も含めて観察するようにします
最近うp主の動画を聞きながら通勤するのがマイブーム
なんかね、歴史の授業があんなに嫌だったのにこのシリーズで歴史と日本が好きになったよ。
いつも楽しみに視聴させていただいています。
動画内で紹介された「殿、利息でござる」見てきました。めちゃくちゃ面白かったです。
今回みたいに動画の中でさらっと時代モノのいい感じのやつ紹介していただけると嬉しいです。
あと、一見へんなコメディの時代モノが実はよく時代考証されてる、みたいな映画レビュー動画とかもしてみません??
飛脚というとインカ帝国のインカ飛脚も有名ですね。こちらはもっぱら伝令役だったらしいですが。
インカ帝国には馬と車輪が無かったので当然徒歩になりますが、山がちな国土でそもそも単独でマラソンのような長距離走破が可能な生き物は人間ぐらいなので、どの道やはり人間が走ったでしょうね。
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弁才船は「べざいせん」と呼びますが、語源はいまいちわかっていないそうです。
この種の船は積載量第一であり、このため西洋船や中国のジャンク船にあるような水密甲板がなく、丼のような構造でした。幕府が航洋船を嫌ったため、という説もありますが、廻船問屋自身が好んだ事も大きいですね。
また転覆するような事があれば、その原因は船乗りの技量不足である、と言った船頭たちの自負もありました。
帆が一枚しかないために原始的な船のように見られがちですが、帆が一枚だけなのはそれだけ多く風を受けられる事を意味し、それに一本帆柱で一本帆桁は操作が効率的。人員が少なくて済むメリットもありました。
(速力を増す必要がある時は補助的な小さな帆を立てる事もありました。新綿番船や新酒番船といった、その年の初物商品を江戸に送る船のレースがあり、こういう催しが船の高速化に拍車をかけました。同様のレースは英国のティー・クリッパーつまり茶葉を運ぶ高速帆船などにもあり、クリッパー船は最盛期には14㌩以上で走った船まで登場しました)
マストが一本なので帆桁の可動範囲も広く、それだけ風上に間切る能力も高かった、といわれています。
研究によれば、弁才船の間切り能力は現代の海王丸(バーク型帆船)より高かった、とわかっています。
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独特の構造と未発達な航海術のため海難事故が多かったのは確かですが、独自に高度に発達した面もありました。
反論❗1枚帆は江戸幕府の政策です。車で言うと単気筒制限❗コントロールし辛く、難破を増やしました。
@@ウズラ-x3j 寛永10年(1633年)からの海外渡航禁止令は存じておりますよ。江戸幕府による鎖国政策は小学校で習いますからね。「幕府が航洋船を嫌ったため」という件は暗にそれを指しています。
そもそも帆柱の本数と帆の枚数・サイズについて明確な規定はありませんでした。残ってもいません。
藩によっては密貿易も盛んで、その辺りは「山吹色のお菓子」で割とゆるゆるだったんでしょう。
普通に考えれば、小さな帆をたくさん並べるより大きな帆を一枚張った方が効率的ですよね?
帆は通常ならアスペクト比が大きいものほど風を多く受けられます。
残された絵や復元された船を見てください。千石船の帆も西洋船に見劣りしないほど大きいですから。
洋式の大型帆船はあのように複数の帆を並べて張るより他無かったんですよ。
「番船」レースの時に増速用に臨時の帆(弥帆)を設ける事は先にも触れました。
また海難事故の多さは帆装ではなく、水密甲板が無い、舵が大きすぎて脆弱など、特異な船体構造が原因であったケースが多いかと思います。丼みたいな船の形を見ただけでも外洋向けではありませんしね。
さらに弁才船は常に過積載傾向であり、これも事故の多発につながりました。
どんな帆船でも暴風雨の時は帆を折り畳んでやり過ごす事も多かったのですが、嵐に遭えば帆の大きさも形も関係ありません。むしろ人手がかからない一枚帆の方が畳みやすかったでしょうね。
お疲れ様です。江戸時代の剣客のお話をお願いします。
政治・文化・庶民生活……確かに江戸時代は,奈良・平安などに比べたら文献も多いのかもしれないけど,それでもこれだけのクオリティのものを,これだけの多方面から作れるのはすごいです。
UP主様には,本当に感謝です。
江戸時代よ終わるな!大政奉還を見たくない,という気持ちがどんどん増してきます。
江戸の充実した歴史解説を有難うございました❣️この様なワクワクする江戸で何か役に立つ仕事をしてみたい‼︎と思ったりしました。世界一進化し続ける国🇯🇵日本‼️でも、戦後尽く米国に潰されています。
自分を江戸時代にワープさせてイメージを作りながら拝見致しました。久し振りに時代劇の映画を観たくなりました。楽しかったです‼︎
そっかぁ!家康が江戸に入った時はある程度の都市に成ってたのかぁ!ネット動画で次々と歴史認識が変わって行くなぁ。小説が脚色し過ぎて酷い事が解って来ちゃうのは残念だけど、新しい事を知ると何だか得した気分に成るなぁ。
本当amazonさんの梱包箱って中身と比べて大きすぎるんですよね。
「何たのんだっけ?」って箱を開けてびっくりする時がありますよね😂
文庫本1冊注文して、160サイズの段ボール箱で届いた時はどうしようかと思いました。
宅急便コンパクトでも入るやん(´ー`)
蝦夷で獲れた昆布は琉球まで行く様になり沖縄では今も昆布の消費量が日本でトップクラスです。
沖縄で昆布が流通するようになったのには薩摩の調所広郷が藩の財政再建のために琉球貿易を盛んに行い蝦夷地の昆布が大量に琉球に集まるようになった事、またその財政再建のお蔭で薩摩の軍事力が強化され維新が実現した、という説を読んだことがあります。
『バクロ』を『馬で食べてる人』と素敵な解釈ありがとうございます(・ω・)ノ
結構、『馬を喰らふ人』って蔑称だったりするので嬉しいです。
by名も無き家畜商
駄馬の語源は初耳でした
この動画は為になるなぁ
大井川をはじめとする橋の無い大河ですが、「大水の際、中途半端な橋は水をせき止めて、被害を拡大する」という問題がありました。
こういった江戸時代の交通があってこそ、明治時代に蒸気機関車による鉄道、蒸気船を受け入れて発展することができたのですね。
今回に限りませんが、都会の地名の由来面白いですね。
駅伝の言葉の由来ってここからなのかな。
すげー。
新潟には北前船の引札(チラシ)が残ったいるそうで、各寄港地の地名や商品が載っているものあるそうです。
上手くまとめましたね。
下手な日本史の授業1時間より、ずっと内容が細やかです。
改めて、勉強させていただきました(^^ゞ。
出来れば、大塩平八郎の乱や、郡上一揆など、太平な時代を揺るがせた、民衆蜂起の話も、解説してみて欲しいですね。
どんな切り口で来るか、楽しみにしてます(*^^*)
当時の菱垣廻船はだいたい1隻千両で建造でき、1年1航海で千両稼げた。
一年で初期投資分を回収し、二年目からは船が壊れたりナンパしたりしない限り毎年千両ずつ儲けが出るんで、海運業はかなり儲かったらしい(´・ω・`)
航路は物資だけではなく文化も運んでいるみたいだね、よく祭りで起源は北前船で京都の~というような話をよく聞くし、青森のねぶた祭りや弘前のねぷた祭りでよく見る金魚ねぶたが山口県にも似たようなものがあり、北前船で伝えられたみたい。
鎖国してた江戸時代こそがあらゆる分野で日本文化の最盛期だったのも納得。物語や絵画、思想哲学も最も華やいでいたと聞きます。
クロスカブでノロノロキャンプツーリングしますが、旧街道歩くと昔の町並みや宿場の名残りや石碑、一里塚碑があったりして中々コアな楽しさがあります。街道の枝道、往還等も有りそれを抑える城跡も歴史散策に面白いです。大体こうした旧街道には造り酒屋や地場産品もあったりします。
新潟や山形のエゴノリが、途中の県ではあまり食べられていないのに、九州でおきゅうと(お救人)として昔から大変食べられている、と言うのも、この北前船の航路と買い積みと言うシステムからして納得です
飛脚と聞くと佐川急便のロゴを思い出します。
私が子供の頃飛脚のフンドシに触ると良いことがあるという変なウワサがありました。
飛脚のあのデザインは私は好きでした。
佐川トラックが飛脚ではなくなったのは、子供が触ろうとして事故になることがあったからだという理由も1つにあるみたいですね。
そうだよなぁ国民のほとんどがイメージする貧しい農民じゃ江戸時代すぐ終わってただろうし、当時は当時でそれなりに豊かだったんだろうなぁ
今現在の「豊かさ」とは、ベクトルが違うんでしょうなぁ🎵(笑)
チャイムが自宅と同じでビックリしました。
平和が文化と文明を発展させる。260年も戦争らしい戦争をしなかった政策は凄い。今は70年戦争らしい戦争をしていないけれど、なんかキナ臭い世の中に向いている感じがする。経済が発展すると平和も発展する様に思う。
よく江戸時代の海運は南蛮船のノウハウが無かったが故貧弱だったと言われがちですけど、
廻船のスペックを調べてみたら結構性能がいい処か建造費も西洋の船の半分位だとか。
鎖国に至るまでに南蛮船の竜骨に代表されるノウハウを吸収したハイブリット廻船の存在を妄想したくなりますw
そういえば琵琶湖を船か橋かを「急がば回れ」っていうんでしたっけ。
確か自分の記憶だと、東回り航路は東北方面から那珂川港まで、後に那珂川港から伊豆下田へ入り、風待ちして江戸へのルートで、那珂川港は大いに繁栄したけど、西回り航路に比べて、荷物量は少なかったと思います。その為、北回り航路の各港の賑わいは盛んで、東回り航路の港はいまいちだったとか。東回り航路の解説が無かったのが、ちょっと気になりました。疑問だけ残ってたように思います。
松前からのスルメが海路を通って相馬から塩の道を経て、福島を通過する時に長細い人参と出会い、いかにんじんとなった。
たぶん福島で一番家庭に根付いている料理。江戸時代すげえな。
待ってました。
とても勉強になりました。由緒のある地名を意味不明な代物にするなど、役所の考えることは理解できません。
江戸時代と全然関係ない地名の話。
福島大学は「受験生が願書を送るのにこんな長ったらしい住所じゃあ大変だろう。えい、変えてしまえ」という意味不明な理由で、昔統合で無くなってしまった村の名前、今や小学校、駅、郵便局にしか残っていなかった地名「金谷川」を復活させたのは素敵だと思った。
近くにある医大は「光が丘」なんてくっそつまんない名前で丘1個丸々独立しやがったのが対照的だった。
板橋区中山道志村坂上には一里塚が残ってますね.
ほとんど消えてしまった一里塚が多いので貴重らしい.
結果的に全てが繋がり明治維新と近代化に繋がっていったと思うと本当に歴史はずっと繋がってるんだなと思いました
インフラ企業で緊急事態下でも休み無く働いておりました
解除されても特に休みもなく働いておりましたが、退勤時に解除され外に出てきた人間の車に撥ねられ仕事できなくなり休みになりました
休みでも体痛くて何もできないし大変なだけで嬉しくない
みんなお外出る時には注意してね
私の祖先は、出雲で北前船の船問屋を当時は手広くやっていたそうですが、明治になり、汽車の路線が出来てしまってから衰退してしまったそうです。
新宿線の馬喰横山駅の名前の由来はそういう意味だったのか
すごい不思議な名前だったから由来が知れてスッキリした。
次回も楽しみ!!上杉鷹山
今回も楽しく見させてもらいました。航路、江戸、京都、大阪が出たので、追い追いで他の栄えた港等の紹介お願いします。又々、くれくれ君でごめんなさい。
地方が生産して都会が消費する社会は古代ローマにもありますね。いつか海外の例も作って欲しいです!
大正期まで使われた旗振り通信もやってほしい
懐かしい、中山道と甲州街道、東海道歩いたな
いつも楽しく勉強させてもらってます。江戸の文化というと、お伊勢参りがまだでしたら是非ともお願いします。
あと、ゆっくり大江戸の再生リストに「ゆっくり大江戸 その58」が11個登録されてますね。なにか狙いがあってやってたらごめんなさい。
宿場が2~3里であるのは、人は一日に何宿か進めるけど怪我とかでリタイアすることもあるので、
傳馬が無くても10里毎って訳にはいかなかったのでは?
話を逸らしてヌルッと本題に入る魔理沙w
9:28 旧東海道に名古屋が含まれていた?
宮宿(熱田)と桑名宿の間は船中七里の海上移動が本筋で、宮から陸路移動で、名古屋、枇杷島、勝幡、津島、佐屋、長島を通って桑名へ至る佐屋道は脇街道だったはず。言うまでもなく木曾、養老、揖斐、の大河三川渡しを避ける目的です。
ともあれ寺銭さんの歴史動画は、毎回楽しくチャンネル登録して視聴させて頂いています。次回以降の動画も楽しみにしています。
北海道や他の港湾も解説して欲しい
いままで観たゆっくり解説動画で一番面白く、勉強になりました! 学校の歴史の授業とかこんなだったらみんなもっと歴史に興味持って勉強してくれるのに^^
地味だが近江商人を生んだ琵琶湖上の輸送ルートも重要だったんだぜ
あと、今は知らないが世界初の先物取引市場も江戸時代だったような
江戸時代の運送を楽しく聞かせていただきました。
旧東海道をストリートビューで追うほどにハマってしまいましたよ。
この動画中に4:38あたりに流れているBGMの曲名が知りたいのですがお分りになる方おられればお教えいただけないでしょうか?
初コメ!待ってました
世界史なんかはどーでもいい国のことまで無駄に詳しくやるくせに、
自分の国の近世は戦国武将の殺し合い、士農工商と一揆ばかりが強調されているのはなんでなんだろうな?
そりゃ、日本を貶める在日に支配されている日教組のせいだな。
伝馬制もかなり昔からあって、調べると面白いんだよね。
今でも急ぎじゃない郵便だと割引効くのがありますよ大体1週間くらい遅く到着しますけど・・・
あと直に郵便局と契約しないといけないとかありますが・・・
また、郵便だと相手に到着していないという案件があまりにも多いですが郵便だから仕方がないという風潮も今もあります。
江戸中期以降、檜垣や樽廻船がこれだけ一般化した割には、物でなく人間が江戸~上方を船で行き来した話があまり聞かれないのはなぜなんでしょうか?いくら廻船が身近になったとはいえ、乗るには恐ろしい乗り物、ってことだったのでしょうか。
肥後細川藩や薩摩島津藩なんかは参勤交代で九州から海路で大阪あたりまで移動してたはず。
船団組んで参勤交代してた大名もいたはずよ。
ただ、関東に直接船で乗りつけるのははばかられたらしく、途中で降りて陸路で江戸に入るけど
確かに「板子一枚下は地獄」と言われた危険性もあるとは思いますが、海での旅客船が基本的に行われていなかったと聞いたことがあります。
原則、旅行制限があったからでは?
海上には関所はないし。
少し前の教育では江戸自体を暗黒とみていた感じが強かったよね。
逆に光の部分もあるんだよね、こうした客観的見方が正しいと思う。
わかりやすい❤🎉❤
0:05 魔理沙は兜被ってんのに部屋の真ん中にちゃぶ台とか草
菜の花の沖、何度も読んだな。
インフラ系の現業技術部門は、
テレワーク、何それ? おいしいの?
状況ですわ。
役所もだお。
庶務部門以外はそもそもpc持ち出し禁止だからなぁ
自分は製造業。流石に物を作るのにテレワークとはいかないからなぁ。
ありがとう
「樽廻船がスピードで菱垣回船を圧倒して・・・」的な説明に二つの船型にどんな差があったのか?と疑問が昔からあったけど、何ことはない樽詰めによるコンテナ船化で受注から出港までの期間が短かっただけなんですよね。そういえば菱垣回船の菱垣は「海難保険」に加入していた船の目印だったそうです。なので、安いは無保険なので安いというちょっと褒められない話です。
そして、回船の話題では日本の島国としての条件は大昔から変わっていない上に縄文時代から日本のものが日本海沿岸各地で出土するのに航路が新規開発された扱いになっているのか? 決定的な本は読んでいないのですが、貨物を満載した船を海流に逆らって航行させる技術が一般化したからではないでしょうか。特に木綿の質が変わって帆の性能が格段に上がったからでは?
酒田から江戸へ米を運ぶのに陸路の数倍もの距離を海路で運んでいたわけで、いったいなんでこんな事をしていたのやらと中学生の頃に首をかしげたものです。しかし船舶輸送の効率に加え、政策的に道路整備や馬車が制限されていた状況では無理もないという事ですね。若狭湾から大坂へ運ぶルートなど、陸路よりはるばる下関を経由して船で運んだ方が安価で速かったというし、海運あっての物流だった事が良く判ります。
今晩は、よく拝見させて頂いております。
大名編では、九州の柳川(柳河)藩を、やって下さいませ。
冒頭のチャイム音、うちのと同じだから、マジでビビった(笑)
最初のピンポンまじでびびったわwwwww
これは経済の法則を歴史の観点から見ても注目する話となる。なぜなら基本的に海外との貿易を限定し、外交を極めて絞るいわゆる「鎖国政策」を取っていたにも関わらず、貨幣経済が浸透し生産が剰余価値を生むという流れができていること。マルクスの理論が入ってきているわけではないのに社会の法則は封建制社会から資本主義社会に進む必然性が産まれていた。明治維新が割合短期間で進んだのもそこに理由がある。
追記
確か中学で江戸時代は鎖国のため西欧に大きく遅れをとってしまったと教えられました。確かに科学の面では遅れたかも知れませんが当時、欧米は戦乱が多く庶民は大変な状況に比し日本は平和で文化も発展し世界でもまれな国でした。現在の教科書はどうなっているのでしょうか。
メモ📝😊お江戸の運送事情…陸海…
内需拡大の経済ですね😃
建前上「鎖国」していたんで、内需主導で経済を回すしかなかったんでしょうなぁ(笑)
千石船は一本マストで非常に危険な船だったんだよな。
欧米の船みたいに小さいマストを複数つけて色んな方向からから風を受けられるように出来てなかった。
だから強風になるとすぐ転覆するから、場合よってはマストを斧でへし折る必要があった。
江戸幕府が大船の建造を禁止した弊害だな。
そして幕末になると外国から次々と大船がきて幕府は対処できなくなると
鎖国の前は日本人街が東南アジアにできてるから自力で海外にいけるだけの航海術はあったのに、それも途絶えてしまいましたからね。島国なので積極的に貿易にでたイギリスと違いある意味農業などで食べていけるだけの豊かさがあったからか・・・・・
マストが1本だったからではなくて重心が高かったからでしょ。
マストが1本だけだったから転覆しやすかったというのなら、ヴァイキングはあんなに航海してませんよ(´・ω・`)
江戸時代は出前システムもめっちゃ発達してたって聞くね。
次回の上杉鷹山は質素倹約で藩を立て直した人物ですね。
今の政治家や役人に学んで欲しいです。