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アオキさんだ。私達も12月末にお世話になりました。写真一緒に撮らなかったので、とても懐かしく嬉しかったです。
そうなんですね!まさか、アオキサン仲間に見ていただけることになるとは、、、世界は狭いですね、、、
助からん
ガイドのカセ・セルヒオさんはどうやってチャーターされましたか?自分もお願いしたいです。
わあ❤ありがとう🎉おもしろかったです😭
ガイドさん、日本語みたいな難しい言語をよく丁寧に話されて凄いと思う。思えば南米は日本の地球の真裏、日本語書籍が無い中、よく語れているなあと感動する。😮
こうした方は高学歴で例えば東大とか京大を卒業していたりします。帰国して趣味と母国での貢献にとガイド系の仕事を自営する方、結構いらっしゃいます。
ガイドさん、すごいです。膨大な知識に圧倒されました。一般の人の知識を超えています。日本語でインカの歴史や文化を自在に語るのを聞いていると、多分彼は日本の大学で研究をしていたのではないかと思います。マチュピチュを訪れたら、その絶景と建築物に圧倒されると思いますが、マチュピチュの歴史や文化を理解していたらもっと深く感動すると思います。私はマチュピチュに行けそうにはありませんが、映像を通してマチュピチュの素晴らしさを知りました。
一度も訪れたことはないのに、懐かしさを感じて、涙が溢れてきました…🥹✨ありがとうございます🌱
実は同じ感覚になっていました~魂が懐かしいと震えています🎉
50代のうちにマチュピチュに行くのが夢です。ワクワクして見ました。いい時間をありがとうございました!
本物インカ道に、お邪魔します!という方❤日本人代表ですねー🎉🎉
映像は路地から全部撮っているので興味深い。ペルーと日系人の関係も深い物がありますよね。
山が神様というところは日本と同じですね!老いた山とワイナピチュの若い山=岩山という意味が凄く興味深いです🤩
このガイドさんなんか好き❤️❤️❤️😊🎉🎉🎉
コロナになった頃に、日本人の若者が出国できなくなって(マチュピチュからの移動禁止?)。ペルーの大統領が何らかの理由で、その日本人の若者をマチュピチュ領域の移動を許可して話題になっていましたね。日本のテレビでも取材していたと思います。彼は帰国したのかな?
カセ・セルヒオさんのアルファベット表記が映像内にあったら良かったですね。
とても興味深いのですが、途中参加のお姉さんがべったり過ぎて、時々景色見えないのが残念😂
ガイドさんの声(話)が100%オフマイクになっています。聞き辛いですね。ヴィラコチャ=喜びの山 これはアナグラム的伝搬表現ですね。真逆です。世界中で用いられているレトリックです。日本同様に用いています。この表現方法なら未来に伝搬させる力がある事を古代の人々は実証したから用いたようです。馬琴や伴信友が証言していますね。インカのこの山岳地帯の起源に関する証言が"昔話"に包括されています。スペインのクロニカ=軍隊に追随した記録係りの記述神はパタゴニア(南極側)から現れたと言うのは、興味深いですね。「たまに"殺したり"」は少し間違っています。たまにではなく、「手当たり次第に大勢の」が正しい中身です。造山作用でこのアンデスの様な山容ができると思うなら、相当に目出度い。(目出度いと言う言葉には二面性がありますね/これで、おわかりですか?)このガイドさん"急峻"と言う言葉で家の屋根の景趣を説明していましたね、結構なインテリ系?インカと対マラリア薬キニーネではなく先住民が不思議にもマラリアの特効薬効果を知っていた事です、インカの発見ではありません。ガイド氏が言っていた様にマチュピチュの街を建築したのはインカではないモッと古い人々と言うその人たちの知識のようです。キニーネはドイツ人アルフレッド・フォン・フンボルトが植物学者ポンプランとカシカアレ川界隈を移動中に先住民から教えてもらった知識と植物(キナの木)です。毒蛇 = ヘルゴナではなくイカゴナ? 画像はどちらでも無い柄の蛇ですね。間違えていませんか。インカ道はインカが作ったと言われていますが、各地を征服する時から道はありましたね。整備したのはインカかも知れませんが、この道は元々彼ら以前に作られ利用されていたようですよ。全ての文明は夏至・冬至・秋分・春分に注目しました。地球の自転軸が時折ズレる事を体験したからです。農業の為ではありません。繰り返します「ヴィラコチャ=喜びの山」はレトリックです。18:01畑の説明してますね。その大量の"土"はどこから運んだのか?利きましたか??20:041980年ブラジル人もふざけた事をしますね
この方の知識も知りたいです 書籍がありましたら教えてください
@@akihareruya2025さん、こんにちは。「この方の知識も知りたい」 とのお尋ねですが、この方とは?→➊滝沢 馬琴❷伴 信友の事でしょうか?適切に表現して頂けないと宜しくないと思います。とりあえず、両者として著作をお伝えします…➊滝沢馬琴【常陸国うつろ舟奇談】茨城県南部の海岸に円盤型の舟{UFO?}が漂着などを寓話的に記述しています。『享和3年(1803年)の春2月2日2の時ばかりに、當時寄合席小笠原越中守、知行所常陸國{茨城県}"はらやどり"と言う濱にて、沖の彼方に"舟"の如きもの見えしかば、浦人等小舟あまた漕ぎ出だしつつ、遂にこの浜辺に曳き寄せて見るに、その舟のカタチ、例えれば香盒{コウゴウ:香を入れる小さな容器}の如くにして丸く長さ3間{5.4~5.7メートル}あまり、上は硝子障子にして、チヤンをもて塗り詰め、底は鉄の板金を段々筋の如くに張りたり』。研究家はこれはUFOと女性搭乗員に関する記述と考えているようです。❷伴 信友【比古婆衣】群馬県 熊谷で体験した豪雨と洪水と山と"方位磁針"に関する記述です。詳細はお話できません、大勢の研究者の方がこの著作を読んだと思いますが、悉く見落としています。『近き頃となりて、古事を忍ぶ仲間にあって、日蝕{太陽蝕}・月蝕と言うことに馴れるを、古は"はえ"と言うと心得、文などに用いた。しかしながら"和名抄"にも蝕字の下に和名を載られず、その他に古き書もの読みにも全く見あたらず、ただ日本書紀の古い読みに『推古36年(628年)3月1日/丁未(戊申)、日蝕{太陽蝕}盡の』とある"蝕盡"を、ハエツキタルコトと訓み『舒明8年(636年)1月1日(壬辰)、日蝕{太陽蝕}の』とある蝕を、"ハエタリ"と訓み、次に『舒明8年(636年)3月1日/乙酉(丙戌)、日蝕{太陽蝕}の』とあるところの訓も同じ『皇極2年(643年)5月16日、乙丑、月有蝕の』とある蝕をも、ハエタルことと読み、又『天武9年(680年)11月1日/壬申、日蝕{太陽蝕}の』と見える所には、"ハエタリ"と訓り、これこそ"ハエ"と言う言葉が書に見えた始めである』。江戸時代後期(1770年代頃?)の国学者。※逆さ言葉に、六本木を「ポンギー」と言うのは、音楽関係種の隠語で今でも現役ですね。「ギロッポン」と言う人は田舎の方です。5万円は(ゲーマン=G万)。"はえる"の言い換えのアナグラムは室町時代以降には用いられていたようです。隠語としてです。★一般人に秘密にする話で用いられていたようです。■アルフレッド・フォン・フンボルトの【南米旅行】で彼が見つけた大地の花崗岩層から削り出した六角形の分厚いテーブルがあります。先住民も立ち入らない奥地でフンボルトが発見した近代文明の芸術的創作物です。このテーブルの側面にはワニ、クモなどが浮き彫りされています。フンボルトはこのテーブルをヨーロッパに持ち帰ろうとドイツ製のタガネ切り離しを試みますが全く不可能だった、火花が飛ぶだけだったと書き残しています。このテーブルは恐らくその地にまだあると思われますが、詳細な場所は不明です。(多分、ベネズエラ&ブラジル国境/分水嶺のカシキアレ川周辺と…)※20世紀に入って、イエズス会の偵察隊がこの石を発見している可能性はあります。発見していれば、バチカンに持ち帰っていると思います。■私がフラジルで所在確認に成功したイギリス人探検家P・H・フォーセット大佐が探し続けた"石の古代都市"の一つは私が発見しました。未公表です。
ガイドさんの話はとても興味深く勉強になりましたが、こちらの返信もとても興味深いです。ありがとうございます。
アオキさんだ。私達も12月末にお世話になりました。写真一緒に撮らなかったので、とても懐かしく嬉しかったです。
そうなんですね!まさか、アオキサン仲間に見ていただけることになるとは、、、
世界は狭いですね、、、
助からん
ガイドのカセ・セルヒオさんはどうやってチャーターされましたか?自分もお願いしたいです。
わあ❤ありがとう🎉
おもしろかったです😭
ガイドさん、日本語みたいな難しい言語をよく丁寧に話されて凄いと思う。
思えば南米は日本の地球の真裏、日本語書籍が無い中、よく語れているなあと感動する。😮
こうした方は高学歴で例えば東大とか京大を卒業していたりします。帰国して趣味と母国での貢献にとガイド系の仕事を自営する方、結構いらっしゃいます。
ガイドさん、すごいです。膨大な知識に圧倒されました。一般の人の知識を超えています。日本語でインカの歴史や文化を自在に語るのを聞いていると、多分彼は日本の大学で研究をしていたのではないかと思います。マチュピチュを訪れたら、その絶景と建築物に圧倒されると思いますが、マチュピチュの歴史や文化を理解していたらもっと深く感動すると思います。私はマチュピチュに行けそうにはありませんが、映像を通してマチュピチュの素晴らしさを知りました。
一度も訪れたことはないのに、懐かしさを感じて、涙が溢れてきました…🥹✨ありがとうございます🌱
実は同じ感覚になっていました~魂が懐かしいと震えています🎉
50代のうちにマチュピチュに行くのが夢です。ワクワクして見ました。いい時間をありがとうございました!
本物インカ道に、
お邪魔します!という方❤日本人代表ですねー🎉🎉
映像は路地から全部撮っているので興味深い。ペルーと日系人の関係も深い物がありますよね。
山が神様というところは日本と同じですね!老いた山とワイナピチュの若い山=岩山という意味が凄く興味深いです🤩
このガイドさんなんか好き❤️❤️❤️😊🎉🎉🎉
コロナになった頃に、日本人の若者が出国できなくなって(マチュピチュからの移動禁止?)。
ペルーの大統領が何らかの理由で、その日本人の若者をマチュピチュ領域の移動を許可して話題になっていましたね。
日本のテレビでも取材していたと思います。
彼は帰国したのかな?
カセ・セルヒオさんのアルファベット表記が映像内にあったら良かったですね。
とても興味深いのですが、
途中参加のお姉さんがべったり過ぎて、時々景色見えないのが残念😂
ガイドさんの声(話)が100%オフマイクになっています。聞き辛いですね。
ヴィラコチャ=喜びの山 これはアナグラム的伝搬表現ですね。真逆です。世界中で用いられているレトリックです。
日本同様に用いています。この表現方法なら未来に伝搬させる力がある事を古代の人々は実証したから用いたようです。
馬琴や伴信友が証言していますね。
インカのこの山岳地帯の起源に関する証言が"昔話"に包括されています。
スペインのクロニカ=軍隊に追随した記録係りの記述
神はパタゴニア(南極側)から現れたと言うのは、興味深いですね。「たまに"殺したり"」は少し間違っています。たまにではなく、「手当たり次第に大勢の」が正しい中身です。
造山作用でこのアンデスの様な山容ができると思うなら、相当に目出度い。
(目出度いと言う言葉には二面性がありますね/これで、おわかりですか?)
このガイドさん"急峻"と言う言葉で家の屋根の景趣を説明していましたね、結構なインテリ系?
インカと対マラリア薬キニーネではなく先住民が不思議にもマラリアの特効薬効果を知っていた事です、インカの発見ではありません。ガイド氏が言っていた様にマチュピチュの街を建築したのはインカではないモッと古い人々と言うその人たちの知識のようです。
キニーネはドイツ人アルフレッド・フォン・フンボルトが植物学者ポンプランとカシカアレ川界隈を移動中に先住民から教えてもらった知識と植物(キナの木)です。
毒蛇 = ヘルゴナではなくイカゴナ? 画像はどちらでも無い柄の蛇ですね。間違えていませんか。
インカ道はインカが作ったと言われていますが、各地を征服する時から道はありましたね。整備したのはインカかも知れませんが、この道は元々彼ら以前に作られ利用されていたようですよ。
全ての文明は夏至・冬至・秋分・春分に注目しました。地球の自転軸が時折ズレる事を体験したからです。農業の為ではありません。
繰り返します「ヴィラコチャ=喜びの山」はレトリックです。
18:01
畑の説明してますね。その大量の"土"はどこから運んだのか?利きましたか??
20:04
1980年
ブラジル人もふざけた事をしますね
この方の知識も知りたいです 書籍がありましたら教えてください
@@akihareruya2025さん、こんにちは。
「この方の知識も知りたい」 とのお尋ねですが、この方とは?→
➊滝沢 馬琴
❷伴 信友
の事でしょうか?
適切に表現して頂けないと宜しくないと思います。
とりあえず、両者として著作をお伝えします…
➊滝沢馬琴
【常陸国うつろ舟奇談】
茨城県南部の海岸に円盤型の舟{UFO?}が漂着など
を寓話的に記述しています。
『享和3年(1803年)の春2月2日2の時ばかりに、當時寄合席小笠原越中守、知行所常陸國{茨城県}"はらやどり"と言う濱にて、沖の彼方に"舟"の如きもの見えしかば、浦人等小舟あまた漕ぎ出だしつつ、遂にこの浜辺に曳き寄せて見るに、その舟のカタチ、例えれば香盒{コウゴウ:香を入れる小さな容器}の如くにして丸く長さ3間{5.4~5.7メートル}あまり、上は硝子障子にして、チヤンをもて塗り詰め、底は鉄の板金を段々筋の如くに張りたり』。研究家はこれはUFOと女性搭乗員に関する記述と考えているようです。
❷伴 信友
【比古婆衣】
群馬県 熊谷で体験した豪雨と洪水と山と"方位磁針"に関する記述です。詳細はお話できません、大勢の研究者の方がこの著作を読んだと思いますが、悉く見落としています。
『近き頃となりて、古事を忍ぶ仲間にあって、日蝕{太陽蝕}・月蝕と言うことに馴れるを、古は"はえ"と言うと心得、文などに用いた。しかしながら"和名抄"にも蝕字の下に和名を載られず、その他に古き書もの読みにも全く見あたらず、ただ日本書紀の古い読みに『推古36年(628年)3月1日/丁未(戊申)、日蝕{太陽蝕}盡の』とある"蝕盡"を、ハエツキタルコトと訓み『舒明8年(636年)1月1日(壬辰)、日蝕{太陽蝕}の』とある蝕を、"ハエタリ"と訓み、次に『舒明8年(636年)3月1日/乙酉(丙戌)、日蝕{太陽蝕}の』とあるところの訓も同じ『皇極2年(643年)5月16日、乙丑、月有蝕の』とある蝕をも、ハエタルことと読み、又『天武9年(680年)11月1日/壬申、日蝕{太陽蝕}の』と見える所には、"ハエタリ"と訓り、これこそ"ハエ"と言う言葉が書に見えた始めである』。
江戸時代後期(1770年代頃?)の国学者。
※逆さ言葉に、六本木を「ポンギー」と言うのは、音楽関係種の隠語で今でも現役ですね。「ギロッポン」と言う人は田舎の方です。5万円は(ゲーマン=G万)。"はえる"の言い換えのアナグラムは室町時代以降には用いられていたようです。隠語としてです。
★一般人に秘密にする話で用いられていたようです。
■アルフレッド・フォン・フンボルトの【南米旅行】で彼が見つけた大地の花崗岩層から削り出した六角形の分厚いテーブルがあります。先住民も立ち入らない奥地でフンボルトが発見した近代文明の芸術的創作物です。このテーブルの側面にはワニ、クモなどが浮き彫りされています。フンボルトはこのテーブルをヨーロッパに持ち帰ろうとドイツ製のタガネ切り離しを試みますが全く不可能だった、火花が飛ぶだけだったと書き残しています。このテーブルは恐らくその地にまだあると思われますが、詳細な場所は不明です。(多分、ベネズエラ&ブラジル国境/分水嶺のカシキアレ川周辺と…)
※20世紀に入って、イエズス会の偵察隊がこの石を発見している可能性はあります。発見していれば、バチカンに持ち帰っていると思います。
■私がフラジルで所在確認に成功したイギリス人探検家P・H・フォーセット大佐が探し続けた"石の古代都市"の一つは私が発見しました。未公表です。
ガイドさんの話はとても興味深く勉強になりましたが、こちらの返信もとても興味深いです。ありがとうございます。