柴田勝家の生涯 一度信長に敵対したが故に織田家に絶対の忠誠を誓う【どうする家康】

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  • Опубликовано: 29 дек 2024

Комментарии • 11

  • @rosan617
    @rosan617 10 месяцев назад +3

    不器用ですが実直に生きた武将なので秀吉よりも好感が持てます。
    昔は秀吉を成り上がり者と蔑む嫌味な上司というイメージが強かったのですが、勝家の性格なら何事も打算で動く秀吉に好感を持てなかったのは理解できます。

  • @keikei959
    @keikei959 Год назад +2

    少し前に出た中公新書を読みましたけど、そこかって点が新たに焙り出されていて目から鱗でした。

  • @アフサラールジャラル
    @アフサラールジャラル Год назад +4

    戦術的指揮能力はともかく外交力・政治力で圧倒的に秀吉が上だったという事ですね。

  • @asaichban9842
    @asaichban9842 Год назад +1

    勝家、秀吉、光秀には 男子が居なかった
    それは 信長に 二心がないために そうしたのだろうか? 男子が生まれても処分した?
    一益、長秀・利家には 男子がいた しかしTOP3より格が劣るから 処分する必要はなかったのかも?

  • @cancan5892
    @cancan5892 Год назад +2

    勝家の生涯をより深く知るにつけ、彼の性格と置かれた境遇の厳しさを気の毒に感じます。信長への強い忠誠心は、かつて敵として相まみえた(信長の弟信勝に味方した)過去のため、許しを乞う意味での行動を示す必要を感じていたのでしょう。信長の遺志を受け継ぎ家臣皆で盛り立て合い家中を束ねる、これが勝家の目指した形だったのでしょう。ある意味ピュアで名誉と正義を重んじる常識的な人だったろうと感じます。だからこそ、清須会議の結論の合議制を信じて、長浜城から離れ本国に帰ったのだと思います。ただ秀吉は、その先まで見越すずる賢さがあった。勝家の家臣は直臣ではない大物の与力が多かったのも、一律に命令を下せない辛さがあります。山崎城に秀吉が留まっているのを批判する前に、体面を重視せず同じように自分も長浜城から動かず形勢を見るべきだったと感じます。北陸司令官としての任務を大切に考えたのでしょうが、自身が滅びてしまえば本末転倒ですよね。戦国大名としては滅びてしまい、失策を犯したのかもしれませんが、私は柴田勝家の一徹さ、芯の通った生き方は好きです。

    • @rekishock
      @rekishock  Год назад +3

      勝家は芯は通っていますよね。家臣としてはこれ以上ない有能かつ実直な人物で、信長も重用した理由が分かります。
      ただ、大名としての駆け引きには向いていませんでしたね。

  • @直己-g5v
    @直己-g5v Год назад +1

    2:08 正しくは弟の織田信勝。

  • @vianeplus
    @vianeplus Год назад

    猿(秀吉)犬(利家)の仲って昔から堅かったっていう定説とは微妙に違うんですね?

    • @hamham3601
      @hamham3601 Год назад +1

      だって犬猿の仲って、、、、違うかww

    • @rekishock
      @rekishock  Год назад +3

      利家と秀吉の話は色々伝わっていて、本当かもしれませんが創作の可能性も高いといった感じです。
      前田家臣の村井重頼覚書には、利家と旧知の堀秀政が使者に立ち仲介したことで降伏が認められたとあり、秀吉利家の仲だけでは賤ヶ岳の戦いの一件は判断できないかなと。