【松山市】三津街道、そして道後温泉に至る古の道(明治36年(1903年)当時の道を辿る)[1.5倍速](2020.6.14)

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 7 окт 2024
  • ●三津街道
    00:53 明治期はこの正面の道路が砂浜の海岸線で、手前は昭和期の埋立地である。
    01:16 この先に市道扱いの無料の「三津の渡し船」がある。また松山電気軌道による鉄道路線の終点、江ノ口もあった。
    【松山電気軌道は高浜まで延伸した伊予鉄道に対抗する形で三津浜のために作られた鉄道。三津浜江ノ口-道後間で営業していたが、多くが伊予鉄道と並行する形であり、激しい競争が行われる。明治44年に開業したものの、10年で伊予鉄道に吸収合併された。電気軌道とあるように初めから電車鉄道だった。】
    01:46 風情のある街並み。三津浜は戦火を免れたため、あちこちでこのような光景が残っている。
    02:23 明治時代、この交差点の先から右側は砂浜で、艀(はしけ)による汽船乗り場があった。夏目漱石もこの乗り場を利用して松山に来て、松山中学に赴任した。左に曲がると旧三津役場があり、今は松山市三津浜支所になっている。
    03:09 正面左に見えてくるのは厳島神社。江戸時代はこの通りを参勤交代の大名行列が通っていた。
    04:07 かつて道路と並行して松山電気軌道の線路があった。廃線後は道路拡幅に用いられ、現在、線路の跡形は全く残っていない。
    05:05 三本柳。この角を折れて一気に城下へと向かう。松山電気軌道の線路もこの道に沿って走っていた。
    06:04 ここで松山電気軌道の線路は大きく右に曲がり、山裾を走る。
    07:12 右手に見えるこんもりと木の茂った丘は、現在松山刑務所が所管している松山藩処刑場跡。あまり知られていないが、一応、心霊スポット。
    07:16 道路のカーブが終わったくらいから、再び、右から松山電気軌道の線路が道路に戻ってき、道と並走していた。
    08:43 松山西部環状線を横断する。ここは常に渋滞している状態。
    11:41 右に進むとJR松山駅。JRの駅前の通りとになるが、松山の中心部とはいえない。松山電気軌道の線路はこの交差点で斜め右に折れ、当時の市街地に向かう。
    12:35 交差点を右に曲がると古町というかつての町屋に入る。ここは城下商業地の北の外れにあたり、三津浜に至る街道入り口であったため、三津口と呼ばれていた。昔は駅名に使われていたこともあったが、現在、この地名の名残となるものは市営団地の名称以外何も残っていない。
    左には松山市保健所があるが、明治時代は松山紡績会社の工場だった。
    ●三津街道をこえて
    12:59 国道196号との交差点。右に曲がると、松山城のお堀沿いに出る。
    13:47 明治の頃はこのあたりから何もない田園地帯だった。左手、北側100mのところにこの道と並行して、道後鉄道による道後に繋がる鉄道線路があった。鉄道廃線後は、線路跡地が樋又通りという道路にそのまま使われている。
    【道後鉄道は現在の道後温泉本館を建てた初代道後湯之町町長の伊佐庭如矢らによって、道後温泉に客を輸送する鉄道として明治28年に開業したものだが、5年後には伊予鉄道に吸収された】
    14:15 ここからは幅員がなく、土日休日を除く7~20時は歩行者専用扱いとなる。使っているのは、道路沿いの住民と道路に隣接する松山大学・愛媛大学の学生がほとんど。
    14:46 この十字路から右の部分には陸軍城北練兵場があった。明治21年、23haの農地が買収され、練兵場になったが、市民も自由に使えるような空き地で、ここで野球に興じていた正岡子規を高浜虚子が見かけている。
    愛媛大学はすべてこの練兵場の跡地になるが、学内での怪談として、深夜、行進する足音が聞こえるというものがあった。
    15:48 練兵場はこの交差点まで続く。 練兵場の跡地に出来たのは、松山大学・松山北高等学校の一部と愛媛大学、東雲小学校、松山赤十字病院である。
    15:53 十字路の左手にカーブがついているが、道に並行して左手に走っていた鉄道線路がここを通って緩やかに右に位置をずらし、道の100mくらい右を再び並行して道後へと進んでいた。
    16:01 明治時代、ここからは右手に線路を見ながら、田園の一本道を道後の街まで進む。
    16:52 現在、路面にタイルを敷き詰める等の景観整備をし、この道を「熟田津の道」と呼ばせているようだが、その謂れは全くない。単に散歩道を作り、観光推進を行っているだけである。
    17:23 さらに直進し、道後温泉商店街を抜けると道後温泉本館に着く。
    ☆どうでも良い豆情報
    03:52 信号の向こう、入ってすぐのところに亡き伯母の家があった。
    05:53 右が
    • 【伊予市・砥部町】愛媛県道219号 砥部伊予...
    の説明の結果、通うことになった高校。
    06:04 この線路の手前を右に曲がって少し行ったところに母方の祖母の家があった。通っていた高校のすぐ裏に祖母が住んでいたということなのだが、一度も学校帰りに寄ったことはなかった。
    ちなみにこの踏切は踏切人身事故が多発し、拾い残しの破片が草むらに落ちていたこともあったらしい。
    06:34 このあたりの道が気持ち悪いという同僚。一瞬、そんなことはないと思ったが、よくよく思い出すと確かに夜は走りたくないところだった。彼女は
    • 【松山市】愛媛県道40号 松山東部環状線/知...
    で言っている道も苦手なようで、感性的によく似ているようだ。
    07:58 交差点を左に折れてすぐのバス停のところにあった店がうちのカミさんの実家だった。が、道路拡張で収用され、別のところに引っ越ししている。
    12:59 交差点の右に見える牛丼屋 三河屋はチェーン店ではなく、単独店。汁が甘く、ほかの牛丼屋にない味。ここの牛丼がいちばん美味しいと思うのだが、やや割高でなかなか行けない。
    15:21 右の大学は2年間余分に授業料を納めた母校。
    15:41 左手の見える橙色のマンションはサークル仲間Eの下宿先だった。36年前は新築で、ワンルーム4.5万は高いなぁと思った。留年してからは、家賃の安いところに引っ越ししていた。
    15:59 松山赤十字病院裏の通りとの交差点。この裏通りは「親不孝通り」という、どこにでもあるような呼び方で呼ばれていたと思うのだが、ネット検索では見当たらなかった。飲食店や昔からの下宿屋があった。
    学部の友人の下宿は、共有便所、風呂なし、入り口は引き戸で鍵もまともに出来ないというところだった。4畳半で1万5千円くらい。当時から既に空き部屋が多かったので、下宿に集まって飲んでは鍵の壊れている隣の部屋で寝るということをよくやっていた。友人が帰省したときは、彼の知り合いが彼女との愛の巣として使っていたこともある。
    たくさんあった飲食店も大学経営のためか、学内に食堂を多く作ったせいで、軒並みなくなってしまった。目立つのはコインパーキングばかり。
    16:36 右にあるアパートもサークル仲間Yの下宿だった。一緒に8mm映画を撮っていたので打合せ等でよく出入りしていたのだが、他人に厳しく自分に優しいという典型的なヤな奴で、何度か怒って帰ったことがあった。
    撮影機:OSMO Pocket

Комментарии • 16

  • @gpz400r6
    @gpz400r6 3 года назад +4

    三河屋さんの牛丼は松山人のソウルフードだと思います。狂牛病の影響とか他牛丼チェーンの値下げなど色々な要因でかつての盛況がなくなり寂しくなったように思います。美味しいのに残念です。

    • @shin65
      @shin65  3 года назад +1

      狂牛病でオーストラリア産を使っていた大手チェーン店が豚丼とかをかましている中で、堂々と牛丼を続けているのを見て、県外の知り合いが驚いていました。平和通りの梅田屋は開店時から知っていたのですが、早々になくなりましたね。
      この近辺の食べ物屋が減った一因は学食の恐ろしいほどの充実です。愛大では学部ごとに食事の出来る所があるようで、外に出る必要がないな、という感じです。

    • @gpz400r6
      @gpz400r6 3 года назад +1

      愛大か・・・
      リーセスの焼肉カレーが贅沢なご褒美でした。

    • @shin65
      @shin65  3 года назад +1

      ありましたありました。ごくごくたまに私も食べました。普段は抜きか、1階で卵かけご飯でしたね。130円くらい。

  • @やめほわにまやは
    @やめほわにまやは 4 года назад +3

    三津浜はいい風景ですよね!
    松山電気軌道の線路跡も奥深いです

    • @shin65
      @shin65  4 года назад +1

      そうです、その松山電気軌道の路線図が全く見当たらないんです。だから具体的に伊予鉄道とどのように並列して走ったのか判らない。「伊予鉄道百年史」を読んでも、編纂者が吸収した会社の資料は一切残されていなかったと驚いていました。山西あたりの線路跡も完全には描けませんし、さらに新田高校のどのあたりをかすめていたとか。ほんとうに資料がなくて悔しいです。
      明治期は伊予鉄道のウエイトが高いので、押さえておかないと松山の道路は語れません。

    • @やめほわにまやは
      @やめほわにまやは 4 года назад +1

      shin 65 私も探してみたのですけど、youtubeに数人載せているのと、古町付近の元高架橋の煉瓦跡、西衣山辺りの煉瓦跡、ハローワーク前のモニュメントくらいしか形跡が無さそうでした。やはり、伊予鉄道とは敵社だったということもあり、伊予鉄道も詳しく載せてはない感じですかね…

    • @shin65
      @shin65  4 года назад +1

      @@やめほわにまやは 道後鉄道については路線が1903年の地図に載っているために、今も道路として残っているというのが如実に判りますよね。9割方が路地として残っているのは奇跡に近いと思います。航空写真を見るとそのまま辿れますから。
      松山電気軌道についてはそれが許されない。街道筋というのも原因かもしれません。森松線がそうであったように拡幅には最適ですから。森松線も廃線は55年前程度ですが痕跡は森松営業所と天山橋くらいかも知れません。
      道後鉄道は田んぼの真ん中に作ったので、逆に路線跡が私有物として残り、最終的に道として残ってしまった可能性は大きいと思います。まさか樋又通りが線路跡だとは思ってもなかったです。
      松山電気軌道の資料がないことについては不思議です。伊予鉄道50年史には伊予鉄発起の陳情文のオリジナル文書とかも掲載されているくらいで、恐ろしく物持ちの良い会社なんですが、それでも吸収した会社の資料がほとんど残されていないというのは不思議です。

    • @やめほわにまやは
      @やめほわにまやは 4 года назад +1

      shin 65 松山気象台の付近や、サニツバ道後の前のセブンイレブン付近など、道後鉄道は痕跡が分かりやすいですよね。やはり、松山電気軌道は道路の拡張や西衣山辺りは住宅の再開発等で痕跡が消えていってますよね…でも山西団地付近は道路が私有地になってたりして、ここが線路跡かなって匂わせるところはぼちぼちありますけど…。でも、当時を生きてた人は多分いらっしゃらないので、探すのは難しいですよね。確かに、道路を大きく作れば痕跡も姿を消してしまいますよね……。また、森松線天山橋も痕跡とは初めて知りました!

    • @shin65
      @shin65  4 года назад +1

      @@やめほわにまやは 大街道から一番町の勝山通りに出るあたりは、道後鉄道や松山電気軌道の影響が色濃く出ています。線路跡がこんなに街の形に影響するのかと思いました。松山電気軌道も完全に消えたわけではなく、市内電車路線のベースを作ってますね。

  • @otsukaresamadesu
    @otsukaresamadesu 4 года назад +1

    はじめまして、楽しく拝見しました😃来年、コロナ禍が収束したら松山に行く予定です。カメラはOSMOが良いと勧められ、まだ購入してませんがやはり動きのある動画には良いですね、綺麗です😃👍

    • @shin65
      @shin65  4 года назад +1

      こんにちは。
      地元民ですが、映像にして改めて判るというところも多くあります。旧道探しは、走行の時のなんとはなく、というのと昔の地図を照らし合わせての確認で、なかなか刺激的です。
      OSMO Pocketはジンバルが優秀で、よほど縦揺れしない限りは揺れをほとんど吸収してぬるぬるにしてくれます。いつかモードがあるので、使い分けが必要です。ただ、色が黄色くなる傾向があって補正が難しいです。でも、車載カメラとしてはベストだと思っています。

    • @otsukaresamadesu
      @otsukaresamadesu 4 года назад +1

      @@shin65
      私、改名しました😅返信ありがとうございます。
      カメラの件、非常に参考になります。OSMOも色々種類があるみたいなので、まず自分が何を撮りたいかを決めた方がいいですね🤔
      昨日、東京都は他府県への移動を解除しましたが、ウィルスが死滅したわけではないので、ワクチンができるまで旅は延期かなぁと思いました。2年前、愛媛の坊っちゃん劇場の公演を東京の新宿で観たのですがとても良かったので、今度は本場で観たいと思ってます😆🎶

    • @shin65
      @shin65  4 года назад +2

      坊ちゃん劇場のファンの方でしたか。
      ruclips.net/video/S7D9XmJ81CM/видео.html
      ruclips.net/video/yBLirT_vzrM/видео.html
      坊ちゃん劇場のすぐ横の畑は、春は菜の花、秋はコスモスと目を楽しませてくれるんですよね。直接劇場とは関係ないとは思うんですが、シーズンだとプラスアルファで楽しむことが出来ると思います。
      あ、お恥ずかしい話になるんですが、地元民であるにも関わらず、観劇はしたことないです。興味の惹きそうな演目があれば、観に行ってみますね。