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儒家の教えは、戦乱の世を安定させるために孔子が様々な思想を生み出したもので、その一つ一つが現代にまで語り継がれている理由がわかりました。弟子たちに対する個別の教えが、社会の安定に寄与する人間関係や信頼を重視している点が興味深いです。
古代中国の混乱の最中、人々はタオに戻る方法を模索していました。様々な哲学者(「諸子百家」と呼ばれる)によって様々な道が示された中で、孔子の教えは一貫した主張を持つものではありませんでしたが、大勢の弟子がおり、現代にも大きく名を残したというのは興味深く感じました。文学、歴史、礼儀など、現代にも通ずるところに重きを置いているあたり、いつの時代も人間の根幹として重要視される部分には教養など一定の繋がりがあるのだと感じ、面白かったです。
儒教の「儒」が創立者の霊と関係があるとは初めて知りました。儒家的考えを見てみると、納得いきます。年上に敬意を示し、ご先祖様を敬う文化から、ある意味生きている人間より霊の方が偉いとされているような感じがします。
歴史を学ぶ意味や理由をずっと考えていたが、歴史の中で発生する出来事は規模の大きくなった私の中の課題でもあることに気づいた。歴史は繰り返すというが、繰り返す中で少しずつ成長して行ければ良いと感じた
孔子のように知識が曖昧でも人との関わり方により多くに影響を与えた。当時争いばかり行われている中ではこういった人との関わりを怠っている状態が普通だったから孔子はこのような結果になったのだろうか
孔子という名前が、現代に至るまでに途切れることなく伝えられ、多くの人々に知られている事実は、彼の思想や行いの与えた影響の強さを感じさせる。哲学という学問の重要さを改めて感じた。
孔子がただの塾長として亡くなっていたのが意外だった。また彼の教えに一貫性がないのはその人や環境に合わせたからであるっていうのと聞いて、どんな人にも合う教えなんてないと言うことと、そのためしっかりと人を一人一人違うと認識し接することが大切であると学んだ。
混乱の中で人々はタオに戻る方法を模索していた。孔子は仁による礼法を行うことが重要であると主張し支持を集めたが、彼の弟子たちにはその本質よりも孔子崇拝として伝わってしまった。
孔子は立派な人と思い込んでいたが、自分の生活のために塾を始めたというのは少し意外に思った。また、考え方に一貫性がないのは、さまざまな人や書物から自分で学んだ証拠だとは思うが、死後に孔子の考えを上手くまとめられないとも言えるので、何か芯を持って学ぶことが重要だと感じた。
孔子は中国混乱の時代に魯国の霊能儒者の家に生まれた儒家の始祖である。魯国が分家に支配されているのを何とかしようと、孔子は周国に留学した。しかし、帰ると留学を手伝った昭公は分家によって追放されており、自身も逃亡し地位は得られなかった。その後、生計を立てる為に開いた塾によって弟子は増えたが、孔子の生涯は失敗続きなものであっただろう。
孔子が沢山の弟子を取り、それぞれに違った教えを説いたからこそ、現代にまでその知が受け継がれているのは間違いない。しかしそれらは知識が豊富で正確であったというのが理由ではなく、彼自身の人徳による影響の比重も大きいと考えられる。孟子の考え自体が間違っているとは現代でも言いきれないところを見ると、人徳や論者の内面に関わらず、意見は公平に客観視して取り入れる必要がある。
孔子は生計を立てるために学校を始め、政治家を目指す若者たちを指導した。彼は周朝初期の礼法を元に、弟子達に内面の人間性「仁」を身につけるため、広く学びしっかりと行動する「博文約礼」という教育法を施した。孔子の死後、弟子達は孔子の言動を『論語』にまとめた。しかしそれは孔子の教えを説くよりも、孔子崇拝になってしまった。
孔子は自分の生活のためとして政治家になりたい若者に学びの場を開いた。そこでは仁にのっとり礼法を行う事が大切とし詩書礼楽とし古典などを教えた。孔子の死後弟子たちが孔子の発言をまとめた書物は孔子が弟子個人個人に違った教え方をしていたので万人に影響を与えれるような内容ではなかった。しかし仁という考えはすべての人間が持つものとして後の孟子や荘子などにも影響を与えた
孔子が敵国である斉国に逃げたが、地位を得ることができなかったがために塾を開いた、というのは理由も含めよく分かった。生計を立てるために始めた塾が広がり、大司冦となって追放され、塾長として亡くなったのに、塾で教えた礼法により崇拝されるまでになるとは、波乱万丈だ。悪は外的な事情から、とう性善を語った孟子自身の性格が悪かった、というのはむしろ理解しやすかった。
儒家は礼法が道として、孔子は礼法は内面の人間性「仁」に由来するものであるべきだと考え、弟子たちに詩書礼楽を学ぶことを課し、「博文約礼」を行ったが、彼の死後、弟子たちがまとめた『論語』が教養を学び、人間性を高めるものではなく、孔子崇拝になってしまった。というのが崇拝している人は孔子の考えの本質を見ておらず、孔子という存在を崇拝しているのではないかと感じた。
孔子は生計を立てるために塾を開き、その後村長に任命される。その後斉との外交をまとめ、たいしかんとなり弟子も増える。しかし、4年で失脚し、行脚しながら弟子を探すも見つからず。失敗だらけだか、彼の教育は、仁が政治における アルケー だといい、 それは政治家を目指す若者にとってよいものだった。
孔子は家を出て学び、後に小さな塾を開いた。彼はそこで政治家になりたい若者を教えており、仁に由来する礼法が重要であると説いた。しかし、彼は人と場合によって教えが一貫していなかったため、死後彼の教えは正しく理解されなかった。
春秋・戦国と混乱期に生まれた諸子百家。共通する道徳心や信義など精神的理解が多く出来き、また、時系列で時代背景や登場人物が物語として教えてもらえたので面白いです。特に、法家からの秦国誕生、没落した原因から儒学官学化が興味深かったです。
孔子にとって文化は単なる知識ではなく、内面の人間性を成長されるためのものであった。孟子は人間は性善でありそれに素直に従うことを唱えたが、本人がそうでないというのは、自らを特別な存在だとでも思っていたのだろうか。
孔子と聞くと、弟子が多くいることと『論語』という優れた言行録があるという程度の知識しかなかったので、政治家を目指す若者に対して、役職についたこともないのに教えを説いていたと聞いてすごく驚きました。死後に孔子が神格化されたという話からも、教条的絶対崇拝は現代の、孔子が何となく良い人、というイメージを作っている一因と言えるでしょう。
孔子に三千人もの弟子が居て、今でも教えが受け継がれているというのはそれだけで孔子が凄い人だと伺える。弟子をとるだけなら簡単かもしれないが死後も形はどうあれ語り継がれていることは大層なことだ。
儒者が霊を憑依させることができなず、ただそう見えるように演技をしていただとしたら、操ろうとする分家や騙されている宗主のことをどのように思いながら仕事をしていたのだろう。孔子は幼い頃から分家と宗主との関係や分家の言う通りに動かなければいけない儒者の仕事を見てきて、人の悪い面を知ったからこそ、礼法、「仁」が社会秩序のアルケーだと考えたのではないだろうか。
知識は曖昧であったが、懐が広く多くの弟子に慕われた孔子と、合理的な思想を持っていたが性格が悪く追放された孟子が対照的で興味深かった。孔子と孟子の良い部分を兼ね合わせた人間になることが大切だと学んだ。
孟子と孔子では、孔子の方が知識が曖昧であったが、孔子の方が弟子から慕われていた。その差は孟子は性格が悪く、孔子は人を大切にし、信頼をしていた。このことから、どれだけ優れていても、礼儀や敬意を持たなければ、人に考えを受け入れてもらえないと感じた。
現代においても孔子の考え方は重要である、それは教科書や講義の題材に用いられていることからも分かるが、仁に対しての孔子の想いは人間の内情をより強固なものにしているのだ。そして、それを意識し活用することこそが重要である。
一貫した考えを持っていない孔子を数千人の弟子が慕っていたところから、何かを慕ったり妄信している人はその本質的なものを見て崇拝しているのではなくアイドルのようなカリスマ的なものに惹かれているだけなのかもしれないとこの話を聞いていて思った。
諸子百家が生まれたのは適宜対応していた孔子を文に纏めると違和感を感じたということだろう。孔子という偶像への見方の違いが現れている。ここで生まれた考えも現状を嫌い、過去など見えないものに期待したもの。思想家たちの我が儘の言い合いにも見えたが、そんないさかいも権力の前では無力で小さいものに見えた。
孔子は人間の内面性、仁を高める事を意識したが、民をまとめたい国々からは必要とされなかった。しかし彼の教えが今でも多く残っているのは大勢の弟子達のおかげであり孔子の考えは人々には受け入れられてたのであろう。
孔子が弟子それぞれのための教えを説いていたのは、人同士の繋がりや信頼を理想とし、それによって安定した世を作ろうとしたのではないか。反対に孟子は合理的な思想を持っていたが、本人の性格が悪く国から追放されるという形になってしまった結果をみると、孔子孟子どちらの要素も釣り合いながら必要だとわかる。
孟子は道家、法家、塁家を引き合いに出して仁は人間の道、全ての人に共通の自然法であると強調しそれが性善として全ての人に与えられており、それに素直に従うだけで良いと主張した。
孔子の教えは相手と場合によって変えられていたため一貫していないが、相手に合わせて言葉を選んでいたからこそ心に響き、沢山の弟子ができ今も儒教が残っているのではないかと感じた。
人には必ず善の心があって、それに従えばいいと言っていた人が1番性格が悪いし礼儀知らずなところに矛盾を感じた。彼は自分を客観的に見ることはできなかったのだろうか。孟子のエピソードを学んだことで、礼儀や仁を重んじた孔子が慕われた理由がわかった。
孔子は決して権力が強い立場ではなかったのにここまで多くの人に影響を与えていたのは何故だろうか。戦いの絶えない混乱した時代の中、礼儀や繋がりを重んじる思想が多いのに法家がそれらよりも法や制度できっちり明文化する方法を提示したのは、当時で言うとかなり異端だったのではないか。
今でも孔子学院が各国で活躍しているのは、儒教が政治に近いからだろう。 近親優先は現代の政治にも逃れられない呪いであり、それを合理化できる教えがあることは、政治家にとって都合がいいのではないだろうか。 対照的に道教には学院などがない。
教えが一貫していない孔子を死後でも崇拝しているというのは、彼の思想に胸打たれるものがあったのだと思うと尊いものであるが、分を弁えられない妄信のようにも映りかねないので、些か危険性を帯びている。
孔子は沢山の弟子を作っだからこそ現代にも孔子の教えが繋がっているのだと思う。沢山の弟子への教えが一貫していないところに孔子の面白い人間性もみえた。
孔子の教えや行動は曖昧に得た知識によるものが多いのに、なぜ3000人もの彼を慕う弟子がいたのか疑問だったが、孔子の仁に対する想いや礼法に向き合う姿勢から、人の内面や強固な繋がりを強く意識していたのだと感じた。
孔子が何故3000人もの弟子たちを作ることができたのか不思議です。何故自分自身も役職についたことがないのに人に教えようと思ったのでしょうか。
孔子がいなくなることで孔子の教えも廃れてしまったことに驚いた。現代でも孔子はよく知られているが、時代によって必要とされる哲学が違うことに改めて気付かされた。
古代中国で、人々はタオに戻る方法を探していた。それはかの有名な孔子も同様であった。彼は政治家を目指す人々を育てる塾を作り、自分の教えを伝えた。彼等の弟子は彼の死後、彼の言葉を集めた論語を作ったがそれは孔子への崇拝が色濃く表れており、孔子の教えを新たに人々に広めることは出来なかった。
中高生の頃によく、歴史や文学を学ぶことの意味や理由を考える事があったが、それは知識を蓄えるよりも自分の中にある考え方などの内面的な成長を促すものであると知って、とても腑に落ちた。この孔子の教えが現代にも受け継がれ、歴史、文学が廃れずここまできていたのだろう。しかし、それを学ぶ意義を理解しているものは少なく、いつかその意義を見失い、廃れていく未来もありうるように思う。
孔子は表面的には弟子たちに崇拝され立派な教えを説く偉大な人物のように見えるが、単に影響力が大きいだけで実際はその他のものから学んだものを弟子たちに学ばせてるだけかもしれない。
分家連合が霊媒師を使って、亡き創設者に総意を承認させていたことを怖く感じた。人はそれほどまでに何かに依存しないと生きていけないような生き物なのだろうか。
孔子の弟子たちは孔子を信じていたが教えが一貫していなにも関わらず死後も孔子を崇拝していて、どれだけの影響力があったのかが分かる。
混乱の世の中で弟子それぞれに教えを説いた孔子はそれぞれを大切にしていたからこそ慕われていたのだと感じた
孔子自身役職についたことがないのに大勢の弟子を取り、一人一人場合に応じて教えることをしていたから一貫性がなく孔子の空想で終わったことは導くものとして残念な結果に終わったが、大勢の弟子に場合で教えを変えることができていたのはもっと発言に影響のある個人の場において相当なポテンシャルを秘めていたのではないかと思う。
孔子の死後に、間違った形で、教えが伝わってしまったところに、コミュニケーション難解さを感じました。
歴史からあるルールを変えるとつじつまが合わなくなったり、中国とかは結婚しても苗字が変わらないのを初めて知った右が偉いとか新しい発見があるのが哲学なんだと面白いです
孔子ですら政治に関わると大変な事になってしまったようだ。だが、当時は散々排斥された孔子の思想が今では立派な考えとして教科書に載っている事は皮肉と言えば皮肉だが、やはり彼の教えに説得力があったからだろう。いつの時代のどんな場所でも、流行る哲学には、個人が生きる為の生活の糧や、口が上手い者たちの求心の為など、かなり個人的な欲求が絡み合っている。当時の政変が終わってもう一度見つめ直して初めて、皆がフラットな目で孔子の思想を受け入れられるようになってきたのかもしれない。
法は作った時には気づかないが、使っているうちに理不尽なことや矛盾した点が見つかる。法家の考え方は、初めは身分関係なく実力があればのし上がれるといった国家において必要な考え方だったために秦という国ができたが、実力がものを言うようにしてしまったがために、実力のない人間にとっては、不平等な国が生まれてしまった。
時代によって重きを置く物事が違うため、以前の考え方が否定されていく(上書きされていく)ことは当たり前で、これは今世も同様。しかし、戦の時代で物事が急速に変化していく中では、それを逆手に定かでない情報を使ったり上手く話す孟子のような者達に踊らされない賢者が生き残っていった。
古代中国の哲学の世界は混乱している世の中を生きていた孔子や、その孔子を信じていた弟子たちについて今回の内容で学んできていたが、孔子の意見に賛同しているはずだが結果的には全く異なる内容だろうものに変化してしまった教えになったというところは面白く感じた。
孔子は多くの弟子を持っていた。そういった部分はソクラテスと似ている。やはり、思想は自分の中で完結させるのではなく、人々に伝え、継承していくという点が哲学者にとっては重要だ。こういった孔子の思想を原点に、多くの思想が展開していったことを踏まえると、孔子の功績は大きい。何事も発信しなければ始まらないと学んだ。
よほどタフで強運な人間でなければ政治に関わっても碌な目に遭わないというのがよくわかりました。国の全てを支配するのではなく、様々な地方に住む人々がそれぞれの環境に適応できるように、ある程度地方で政策が自由にできるようにする事で安定した国作りに繋がるのでしょう。
戦乱の世を変える前提で孔子などが様々な思想を生み出したのだなと感じました。一貫した教えではないが、弟子に教えた一つ一つに納得できるなにかがあったからこそ現代に語り継がれている哲学なんだなと思いました。
古代中国の哲学者である孔子の思想や思考が後の弟子たちによくも悪くも影響を与えた。ただ内容に一貫性が無く政治的成功もないとなるとやや賞賛に欠けるものがある。
当時の中華では批判され、多くに受け入れられなかった孔子の教えが、今や日本の教科書に載るまでになったのは、一体いつ、どんな理由からなのだろう。
混乱する世の中で弟子たちに教えを説いた孔子や、それに反発して生まれた諸子百家の各々の考え方をそれぞれ読み解くのがとても面白かったです。考え方の比較などなかなか興味深かったです。
孔子が亡くなったあとの儒家がまとまりがなくなるくらい孔子に依存していたことに驚き、知識の大切さを感じた
どれだけ考え方が優れていても、孟子のように考え方や取り巻く環境や過去が異なる人たちを軽蔑し敬わないような人間は、その考え方もそのうち受け入れられなくなる。人に考えなどを受け入れてもらうには、まず相手に対して敬意を持ち、欲を抑えるべきだと学んだ。
混乱の中でタオを模索していた時に諸子百家を見つけたことを理解しました。
孔子の教えが優れたものだったとはいえ、結果的に政治的成功を収められなかったにも関わらず、ここまでの弟子を抱え、死後も讃えられているのは不自然に思える。しかし、現代にもお金を稼ぐための胡散臭い“セミナー”なんかが流行るあたり、孔子の開いた塾もそんなもので、どの時代でもある程度受け入れられるものなのだろう。
儒家の教えは、戦乱の世を安定させるために孔子が様々な思想を生み出したもので、その一つ一つが現代にまで語り継がれている理由がわかりました。弟子たちに対する個別の教えが、社会の安定に寄与する人間関係や信頼を重視している点が興味深いです。
古代中国の混乱の最中、人々はタオに戻る方法を模索していました。様々な哲学者(「諸子百家」と呼ばれる)によって様々な道が示された中で、孔子の教えは一貫した主張を持つものではありませんでしたが、大勢の弟子がおり、現代にも大きく名を残したというのは興味深く感じました。
文学、歴史、礼儀など、現代にも通ずるところに重きを置いているあたり、いつの時代も人間の根幹として重要視される部分には教養など一定の繋がりがあるのだと感じ、面白かったです。
儒教の「儒」が創立者の霊と関係があるとは初めて知りました。儒家的考えを見てみると、納得いきます。年上に敬意を示し、ご先祖様を敬う文化から、ある意味生きている人間より霊の方が偉いとされているような感じがします。
歴史を学ぶ意味や理由をずっと考えていたが、歴史の中で発生する出来事は規模の大きくなった私の中の課題でもあることに気づいた。
歴史は繰り返すというが、繰り返す中で少しずつ成長して行ければ良いと感じた
孔子のように知識が曖昧でも人との関わり方により多くに影響を与えた。当時争いばかり行われている中ではこういった人との関わりを怠っている状態が普通だったから孔子はこのような結果になったのだろうか
孔子という名前が、現代に至るまでに途切れることなく伝えられ、多くの人々に知られている事実は、彼の思想や行いの与えた影響の強さを感じさせる。哲学という学問の重要さを改めて感じた。
孔子がただの塾長として亡くなっていたのが意外だった。また彼の教えに一貫性がないのはその人や環境に合わせたからであるっていうのと聞いて、どんな人にも合う教えなんてないと言うことと、そのためしっかりと人を一人一人違うと認識し接することが大切であると学んだ。
混乱の中で人々はタオに戻る方法を模索していた。孔子は仁による礼法を行うことが重要であると主張し支持を集めたが、彼の弟子たちにはその本質よりも孔子崇拝として伝わってしまった。
孔子は立派な人と思い込んでいたが、自分の生活のために塾を始めたというのは少し意外に思った。また、考え方に一貫性がないのは、さまざまな人や書物から自分で学んだ証拠だとは思うが、死後に孔子の考えを上手くまとめられないとも言えるので、何か芯を持って学ぶことが重要だと感じた。
孔子は中国混乱の時代に魯国の霊能儒者の家に生まれた儒家の始祖である。魯国が分家に支配されているのを何とかしようと、孔子は周国に留学した。しかし、帰ると留学を手伝った昭公は分家によって追放されており、自身も逃亡し地位は得られなかった。その後、生計を立てる為に開いた塾によって弟子は増えたが、孔子の生涯は失敗続きなものであっただろう。
孔子が沢山の弟子を取り、それぞれに違った教えを説いたからこそ、現代にまでその知が受け継がれているのは間違いない。しかしそれらは知識が豊富で正確であったというのが理由ではなく、彼自身の人徳による影響の比重も大きいと考えられる。孟子の考え自体が間違っているとは現代でも言いきれないところを見ると、人徳や論者の内面に関わらず、意見は公平に客観視して取り入れる必要がある。
孔子は生計を立てるために学校を始め、政治家を目指す若者たちを指導した。彼は周朝初期の礼法を元に、弟子達に内面の人間性「仁」を身につけるため、広く学びしっかりと行動する「博文約礼」という教育法を施した。孔子の死後、弟子達は孔子の言動を『論語』にまとめた。しかしそれは孔子の教えを説くよりも、孔子崇拝になってしまった。
孔子は自分の生活のためとして政治家になりたい若者に学びの場を開いた。そこでは仁にのっとり礼法を行う事が大切とし詩書礼楽とし古典などを教えた。孔子の死後弟子たちが孔子の発言をまとめた書物は孔子が弟子個人個人に違った教え方をしていたので万人に影響を与えれるような内容ではなかった。しかし仁という考えはすべての人間が持つものとして後の孟子や荘子などにも影響を与えた
孔子が敵国である斉国に逃げたが、地位を得ることができなかったがために塾を開いた、というのは理由も含めよく分かった。生計を立てるために始めた塾が広がり、大司冦となって追放され、塾長として亡くなったのに、塾で教えた礼法により崇拝されるまでになるとは、波乱万丈だ。
悪は外的な事情から、とう性善を語った孟子自身の性格が悪かった、というのはむしろ理解しやすかった。
儒家は礼法が道として、孔子は礼法は内面の人間性「仁」に由来するものであるべきだと考え、弟子たちに詩書礼楽を学ぶことを課し、「博文約礼」を行ったが、彼の死後、弟子たちがまとめた『論語』が教養を学び、人間性を高めるものではなく、孔子崇拝になってしまった。というのが崇拝している人は孔子の考えの本質を見ておらず、孔子という存在を崇拝しているのではないかと感じた。
孔子は生計を立てるために塾を開き、その後村長に任命される。その後斉との外交をまとめ、たいしかんとなり弟子も増える。しかし、4年で失脚し、行脚しながら弟子を探すも見つからず。失敗だらけだか、彼の教育は、仁が政治における アルケー だといい、 それは政治家を目指す若者にとってよいものだった。
孔子は家を出て学び、後に小さな塾を開いた。彼はそこで政治家になりたい若者を教えており、仁に由来する礼法が重要であると説いた。しかし、彼は人と場合によって教えが一貫していなかったため、死後彼の教えは正しく理解されなかった。
春秋・戦国と混乱期に生まれた諸子百家。共通する道徳心や信義など精神的理解が多く出来き、また、時系列で時代背景や登場人物が物語として教えてもらえたので面白いです。特に、法家からの秦国誕生、没落した原因から儒学官学化が興味深かったです。
孔子にとって文化は単なる知識ではなく、内面の人間性を成長されるためのものであった。
孟子は人間は性善でありそれに素直に従うことを唱えたが、本人がそうでないというのは、自らを特別な存在だとでも思っていたのだろうか。
孔子と聞くと、弟子が多くいることと『論語』という優れた言行録があるという程度の知識しかなかったので、政治家を目指す若者に対して、役職についたこともないのに教えを説いていたと聞いてすごく驚きました。死後に孔子が神格化されたという話からも、教条的絶対崇拝は現代の、孔子が何となく良い人、というイメージを作っている一因と言えるでしょう。
孔子に三千人もの弟子が居て、今でも教えが受け継がれているというのはそれだけで孔子が凄い人だと伺える。弟子をとるだけなら簡単かもしれないが死後も形はどうあれ語り継がれていることは大層なことだ。
儒者が霊を憑依させることができなず、ただそう見えるように演技をしていただとしたら、操ろうとする分家や騙されている宗主のことをどのように思いながら仕事をしていたのだろう。孔子は幼い頃から分家と宗主との関係や分家の言う通りに動かなければいけない儒者の仕事を見てきて、人の悪い面を知ったからこそ、礼法、「仁」が社会秩序のアルケーだと考えたのではないだろうか。
知識は曖昧であったが、懐が広く多くの弟子に慕われた孔子と、合理的な思想を持っていたが性格が悪く追放された孟子が対照的で興味深かった。孔子と孟子の良い部分を兼ね合わせた人間になることが大切だと学んだ。
孟子と孔子では、孔子の方が知識が曖昧であったが、孔子の方が弟子から慕われていた。その差は孟子は性格が悪く、孔子は人を大切にし、信頼をしていた。このことから、どれだけ優れていても、礼儀や敬意を持たなければ、人に考えを受け入れてもらえないと感じた。
現代においても孔子の考え方は重要である、それは教科書や講義の題材に用いられていることからも分かるが、仁に対しての孔子の想いは人間の内情をより強固なものにしているのだ。そして、それを意識し活用することこそが重要である。
一貫した考えを持っていない孔子を数千人の弟子が慕っていたところから、何かを慕ったり妄信している人はその本質的なものを見て崇拝しているのではなくアイドルのようなカリスマ的なものに惹かれているだけなのかもしれないとこの話を聞いていて思った。
諸子百家が生まれたのは適宜対応していた孔子を文に纏めると違和感を感じたということだろう。孔子という偶像への見方の違いが現れている。ここで生まれた考えも現状を嫌い、過去など見えないものに期待したもの。思想家たちの我が儘の言い合いにも見えたが、そんないさかいも権力の前では無力で小さいものに見えた。
孔子は人間の内面性、仁を高める事を意識したが、民をまとめたい国々からは必要とされなかった。しかし彼の教えが今でも多く残っているのは大勢の弟子達のおかげであり孔子の考えは人々には受け入れられてたのであろう。
孔子が弟子それぞれのための教えを説いていたのは、人同士の繋がりや信頼を理想とし、それによって安定した世を作ろうとしたのではないか。
反対に孟子は合理的な思想を持っていたが、本人の性格が悪く国から追放されるという形になってしまった結果をみると、孔子孟子どちらの要素も釣り合いながら必要だとわかる。
孟子は道家、法家、塁家を引き合いに出して仁は人間の道、全ての人に共通の自然法であると強調しそれが性善として全ての人に与えられており、それに素直に従うだけで良いと主張した。
孔子の教えは相手と場合によって変えられていたため一貫していないが、相手に合わせて言葉を選んでいたからこそ心に響き、沢山の弟子ができ今も儒教が残っているのではないかと感じた。
人には必ず善の心があって、それに従えばいいと言っていた人が1番性格が悪いし礼儀知らずなところに矛盾を感じた。彼は自分を客観的に見ることはできなかったのだろうか。
孟子のエピソードを学んだことで、礼儀や仁を重んじた孔子が慕われた理由がわかった。
孔子は決して権力が強い立場ではなかったのにここまで多くの人に影響を与えていたのは何故だろうか。戦いの絶えない混乱した時代の中、礼儀や繋がりを重んじる思想が多いのに法家がそれらよりも法や制度できっちり明文化する方法を提示したのは、当時で言うとかなり異端だったのではないか。
今でも孔子学院が各国で活躍しているのは、儒教が政治に近いからだろう。 近親優先は現代の政治にも逃れられない呪いであり、それを合理化できる教えがあることは、政治家にとって都合がいいのではないだろうか。 対照的に道教には学院などがない。
教えが一貫していない孔子を死後でも崇拝しているというのは、彼の思想に胸打たれるものがあったのだと思うと尊いものであるが、分を弁えられない妄信のようにも映りかねないので、些か危険性を帯びている。
孔子は沢山の弟子を作っだからこそ現代にも孔子の教えが繋がっているのだと思う。沢山の弟子への教えが一貫していないところに孔子の面白い人間性もみえた。
孔子の教えや行動は曖昧に得た知識によるものが多いのに、なぜ3000人もの彼を慕う弟子がいたのか疑問だったが、孔子の仁に対する想いや礼法に向き合う姿勢から、人の内面や強固な繋がりを強く意識していたのだと感じた。
孔子が何故3000人もの弟子たちを作ることができたのか不思議です。何故自分自身も役職についたことがないのに人に教えようと思ったのでしょうか。
孔子がいなくなることで孔子の教えも廃れてしまったことに驚いた。現代でも孔子はよく知られているが、時代によって必要とされる哲学が違うことに改めて気付かされた。
古代中国で、人々はタオに戻る方法を探していた。それはかの有名な孔子も同様であった。彼は政治家を目指す人々を育てる塾を作り、自分の教えを伝えた。彼等の弟子は彼の死後、彼の言葉を集めた論語を作ったがそれは孔子への崇拝が色濃く表れており、孔子の教えを新たに人々に広めることは出来なかった。
中高生の頃によく、歴史や文学を学ぶことの意味や理由を考える事があったが、それは知識を蓄えるよりも自分の中にある考え方などの内面的な成長を促すものであると知って、とても腑に落ちた。この孔子の教えが現代にも受け継がれ、歴史、文学が廃れずここまできていたのだろう。しかし、それを学ぶ意義を理解しているものは少なく、いつかその意義を見失い、廃れていく未来もありうるように思う。
孔子は表面的には弟子たちに崇拝され立派な教えを説く偉大な人物のように見えるが、単に影響力が大きいだけで実際はその他のものから学んだものを弟子たちに学ばせてるだけかもしれない。
分家連合が霊媒師を使って、亡き創設者に総意を承認させていたことを怖く感じた。人はそれほどまでに何かに依存しないと生きていけないような生き物なのだろうか。
孔子の弟子たちは孔子を信じていたが教えが一貫していなにも関わらず死後も孔子を崇拝していて、どれだけの影響力があったのかが分かる。
混乱の世の中で弟子それぞれに教えを説いた孔子はそれぞれを大切にしていたからこそ慕われていたのだと感じた
孔子自身役職についたことがないのに大勢の弟子を取り、一人一人場合に応じて教えることをしていたから一貫性がなく孔子の空想で終わったことは導くものとして残念な結果に終わったが、大勢の弟子に場合で教えを変えることができていたのはもっと発言に影響のある個人の場において相当なポテンシャルを秘めていたのではないかと思う。
孔子の死後に、間違った形で、教えが伝わってしまったところに、コミュニケーション難解さを感じました。
歴史からあるルールを変えるとつじつまが合わなくなったり、中国とかは結婚しても苗字が変わらないのを初めて知った
右が偉いとか新しい発見があるのが哲学なんだと面白いです
孔子ですら政治に関わると大変な事になってしまったようだ。だが、当時は散々排斥された孔子の思想が今では立派な考えとして教科書に載っている事は皮肉と言えば皮肉だが、やはり彼の教えに説得力があったからだろう。いつの時代のどんな場所でも、流行る哲学には、個人が生きる為の生活の糧や、口が上手い者たちの求心の為など、かなり個人的な欲求が絡み合っている。当時の政変が終わってもう一度見つめ直して初めて、皆がフラットな目で孔子の思想を受け入れられるようになってきたのかもしれない。
法は作った時には気づかないが、使っているうちに理不尽なことや矛盾した点が見つかる。法家の考え方は、初めは身分関係なく実力があればのし上がれるといった国家において必要な考え方だったために秦という国ができたが、実力がものを言うようにしてしまったがために、実力のない人間にとっては、不平等な国が生まれてしまった。
時代によって重きを置く物事が違うため、以前の考え方が否定されていく(上書きされていく)ことは当たり前で、これは今世も同様。しかし、戦の時代で物事が急速に変化していく中では、それを逆手に定かでない情報を使ったり上手く話す孟子のような者達に踊らされない賢者が生き残っていった。
古代中国の哲学の世界は混乱している世の中を生きていた孔子や、その孔子を信じていた弟子たちについて今回の内容で学んできていたが、孔子の意見に賛同しているはずだが結果的には全く異なる内容だろうものに変化してしまった教えになったというところは面白く感じた。
孔子は多くの弟子を持っていた。そういった部分はソクラテスと似ている。やはり、思想は自分の中で完結させるのではなく、人々に伝え、継承していくという点が哲学者にとっては重要だ。こういった孔子の思想を原点に、多くの思想が展開していったことを踏まえると、孔子の功績は大きい。何事も発信しなければ始まらないと学んだ。
よほどタフで強運な人間でなければ政治に関わっても碌な目に遭わないというのがよくわかりました。
国の全てを支配するのではなく、様々な地方に住む人々がそれぞれの環境に適応できるように、ある程度地方で政策が自由にできるようにする事で安定した国作りに繋がるのでしょう。
戦乱の世を変える前提で孔子などが様々な思想を生み出したのだなと感じました。一貫した教えではないが、弟子に教えた一つ一つに納得できるなにかがあったからこそ現代に語り継がれている哲学なんだなと思いました。
古代中国の哲学者である孔子の思想や思考が後の弟子たちによくも悪くも影響を与えた。ただ内容に一貫性が無く政治的成功もないとなるとやや賞賛に欠けるものがある。
当時の中華では批判され、多くに受け入れられなかった孔子の教えが、今や日本の教科書に載るまでになったのは、一体いつ、どんな理由からなのだろう。
混乱する世の中で弟子たちに教えを説いた孔子や、それに反発して生まれた諸子百家の各々の考え方をそれぞれ読み解くのがとても面白かったです。考え方の比較などなかなか興味深かったです。
孔子が亡くなったあとの儒家がまとまりがなくなるくらい孔子に依存していたことに驚き、知識の大切さを感じた
どれだけ考え方が優れていても、孟子のように考え方や取り巻く環境や過去が異なる人たちを軽蔑し敬わないような人間は、その考え方もそのうち受け入れられなくなる。人に考えなどを受け入れてもらうには、まず相手に対して敬意を持ち、欲を抑えるべきだと学んだ。
混乱の中でタオを模索していた時に諸子百家を見つけたことを理解しました。
孔子の教えが優れたものだったとはいえ、結果的に政治的成功を収められなかったにも関わらず、ここまでの弟子を抱え、死後も讃えられているのは不自然に思える。しかし、現代にもお金を稼ぐための胡散臭い“セミナー”なんかが流行るあたり、孔子の開いた塾もそんなもので、どの時代でもある程度受け入れられるものなのだろう。